アネモネ【いおりく】1 『夢』
カーンカーンと鐘の音が聞こえた。それは喜びを伝えるよき知らせである福音。雲一つない晴天が広がり、その下では一組の男女が身を寄せ合っていた。
純白のドレスを身に纏いヴェールを被った女性とタキシード姿の男性が顔を見合わせている。女性の顔はわからないが涼しげな顔立ちの男性は幸福を浮かべ、小さな口には笑みをのせている。
自分の恋人であった和泉一織が女性のヴェールを捲った。切れ長の瞳を愛おしそうに細めて、オレだけが知っていたはずの顔を知らない女性に向けていて、息が止まった。
嫌だ。どうして。
置いていかないで。
約束したはずなのに、オレを置いていかないで、って。
なんて無粋なことは言えやしない。あの時オレたちは指切りなどという子供だましの約束すらしていないのだから。
みんな一織と彼の伴侶となる女性を祝福している。その中でひとりオレだけが泣きそうな顔で一織を見つめていて、必死に手を伸ばしても届かないほどに遠かった。
「っ、いやだ!! っ……あ、れ……?」
大量の汗で身体がぐっしょりと濡れていた。熱が出た時のように、寝ている間に汗を流し身体の調子が良くなったわけじゃない。むしろ不快感と倦怠感でぐったりとしている。
涙と伴って身体の水分が抜けてしまい、喉がひくついた。
「夢、か」
最悪な夢だった。オレが一番見たくない悪夢で、しかしひどく現実味を帯びていた。一織がオレ以外を選んだ、夢なんて見たくもなかった。
「っ……ひくっ」
考えたくもなかった。
もしかしたら、なんて一ミリでも考えたらオレの心はすぐさま不安になってしまうから。
オレが好きだと言わなかったら、本当はあの夢のように一織の隣には綺麗な女性がいたはずだった。
オレと付き合わなかったら、今頃一織は人間にとっての当たり前の幸せを、家庭を築いたはずだった。
「考えるなオレ……一織はそんな奴じゃないのにっ」
いつかオレじゃない人を好きになるのかもしれない。ドジもうっかりもしない、知的で落ち着いていて、クールだけど情熱的な一織を支えられる、そんな大人の女性を選ぶのかもしれない。
「一織……っ」
助けて。怖い。抱きしめて欲しい。不安になってしまうオレにただ一言大丈夫ですよ、と言って欲しい。
勝手に一織の愛情を疑ってしまうオレを叱ってほしい。子どもですかと笑ってくれてもいい。
スマートフォンを手に取る。ロックを解除して、オレの指は慣れたように通話履歴から一番上に表示されている和泉一織を選び、止まった。
「言えないっ……」
かけて何を言えばいいんだろう。嫌な夢を見た、一織が誰かと結婚する夢を見たって。そんなことを言うためにかけるのか?
オレの話を黙って聞いてくれて、その後すぐに「馬鹿な人ですね」なんて言ってもらえたら安心できるかもしれない。だけどもし、一織が言葉に詰まったら? 沈黙したら? オレはどうしたらいいのだろうか。
「もしかして、誰か好きな人ができたのか?」自分で放った言葉が喉奥に詰まって息ができなくなって、このベッドの上でひとり寂しく死んでしまうかもしれない。
アプリをすべて閉じた後スマホを放り投げる。びっしょりと濡れたパジャマも次第に冷たくなり、急いで上だけ脱いでベッドから落とした。着替えればいいのに、今のオレにはそれすらも億劫でベッドの中に潜り込む。湿って毛先がふにゃっとした毛布が気持ち悪かった。具合が悪い時や発熱した時、自分の汗で濡れた布団でもう一度眠りにつくことは慣れているはずなのに、不快感はぬぐえなかった。
「一織……」
助けて、は喉に引っかかった。音にならない。
強く瞼を閉じる。けれど夢で見た白い光景が目に焼き付いて離れず、結局オレはその後上手く眠ることができなかった。
幸か不幸か、今日は朝から一織と同じ撮影が入っている。案の定オレの顔色はひどいものだった。
一目でバレそうな隈をコンシーラーを使ってぼかす。プロであるメイクさんにはすぐに気づかれそうだが、これなら一織を誤魔化せそうだと思いながら数少ない化粧道具を片付けた。
用意していた服に着替え、散らばっているパジャマの上を拾い洗濯機へと放り込む。乾燥までをボタン一つでやってくれる便利なこの家電は、寮を出る前に一織が吟味して選んだものだった。
香料の弱い洗剤も、何度洗っても手触りのいいタオルも、適当に購入しようとしたオレを一織が止めて、質のいいものを探し出した。
初めて寮暮らしをすることになった時には「人に聞く前にスマホで検索して」と厳しいことを言っていたのに。「貴方は甘やかされすぎです」と言いながらも無自覚にオレを甘やかしていたのは一織だった。
「オレ、一織がいないと生きていけないのかな」
一織に出会って五年の時が経った。付き合って三年だ。
仕事が忙しくて恋人らしい時間はそう過ごせていない。どちらかと言えば相棒のような関係の方がずっと長くて、多い。
──今なら引き返せるかもしれない。
不意にそんな言葉が天啓のように降ってきた。直下し、すとんと音を立てながらオレの足元に落ちてきたのは、別れの二文字。
不安な恋人関係よりも、別れという言葉が存在しない相棒の方が強いかもしれない。
子どもを産むことができないオレよりも、女性と一緒になる方が一織も幸せかもしれない。
誰にも祝福されないオレと恋愛ごっこを続けるよりも、一織の両親や三月が安心できる結婚という道を選ばせるべきでは?
オレは一織よりも年上だ。
このまま間違った道を一緒に歩いていてもいいんだろうか。
水を張った洗濯機がごぅんごぅんと唸りを上げながら回り始めた。汚れを完璧に落とすために動き、ロックが解除される頃には乾燥まで終えている。ぐるぐる、ぐるぐると自分の感情で迷っているオレよりも優秀だ。
「今は考えるのをやめよう」
考えすぎると結局全部ストレスになってしまう。今はだいぶ持病も安定してきたところで、発作も一織と付き合い始めて手のひらで数えるほどしか起きていない。
「笑うんだ。いつもみたいに」
にっこりと笑って七瀬陸を作る。だけど鏡に映るオレは下手な作り笑いを浮かべた、ただの陸だった。
「あ……。おはよう一織」
「おはようございます、七瀬さん」
与えられた楽屋に入ると既に一織は着替えを済ませ、スマホを弄っていた。ちらりとオレの顔を見ただけで、すぐに視線は手元の端末へと戻る。
何か調べ物でもしているのだろうか。いつもなら一織はすぐにスマホを仕舞って、オレを構ってくれるのに。
カバンを椅子に置いて、用意された衣装に着替える。今日の衣装はどちらかと言えばカジュアル寄りだ。姿見の前でシャツのボタンを留めていれば、突然長い指が鏡に映り込んだ。
「うわあ!? い、一織?」
「何をそんなに驚いているんですか」
過剰な反応に一織は不機嫌そうに眉根を寄せた。カメラの前では決して見せない、素の顔だ。穏やかに微笑む和泉一織じゃなくて、ずっとオレの左隣にいた一織で、これはデフォルトな表情だ。
昨日の夢が頭の中で反芻する。愛おしいというような眼差しはオレじゃないひとに向いていた、綺麗で苦しい悪夢。胸に強い棘が刺さったように、痛い。
「いきなりだったから、びっくりしただけ」
「そうですか。襟曲がってますよ」
「あ、ありがとう」
折れ曲がっていた襟を長い指が直す。たったそれっぽちの接触なのに、オレの皮膚にはびりっと静電気が走った。そこからじくりとした熱が生まれていく。火傷したようにひりりとした痛みが続く。気持ちいいではなくて、痛い。だけど一織から与えられるものなら何だっていい。
触れてほしい。ほんの少しでいい、その指でオレに触れて。
「……七瀬さん」
「なに?」
「いえ……」
一織は気が付いたんだろうか。あさましいオレの心に。一織の感情はオレには読めないから、わからない。けれどそれ以上オレに触れることなく、長くて骨ばった指は離れていく。
ソファに腰かけた一織は「早く着替えてください」とただそれだけをオレに言って、またスマホを手に取った。
本当にオレたちは、恋人なんだろうか。
何度かドラマで主人公の恋人役を演じたこともある。脇役の恋人役も。ちょっとした役柄ですら、恋人関係にある男女の距離感は今のオレたちよりももっと近しい距離だった。
またぐるぐると思考が回り始める。渦から抜け出せないまま心が沈んでいく。
オレだけが一織を好きで、そんなオレに一織は付き合っているのだろうか。何もかも疑ってしまう。
「あのさ……っ。一織はオレのこと……」
ちゃんと、好き? 喉の奥から絞り出した問いかけは突然のノックの音でかき消された。
「和泉一織さん、七瀬陸さん。今お時間ありますか?」
「はい」
落ち着いた声で返答した一織は扉へと向かう。開けると女性スタッフが安心したように表情を緩めた。
「すみません、番組の進行についての変更点がありまして────」
気持ちは萎んでいく。弾けるのではなく、小さな空気が抜けたぺちゃんこの風船がひらひらと地面に落ちていくように。やり場のない感情は笑顔の裏に隠した。
「それではよろしくお願いします」
「わかりました」
「お疲れ様です」
女性スタッフは慌ただしく去っていた。その背中を見送って、一織は何か言いたげな視線をオレに向けた。だけど楽屋にある時計の針はスタジオ入りの時間を指している。
「そろそろ行かなきゃね」
「……そうですね」
弾けることができなかった感情にひびが入っていた。ぴしり、と。まだ繋がったそれはきっとそう遠くない未来に割れてしまうかもしれない。
(もう、解放しなくちゃ)
そうしないと、一織の手を握ったまま地獄に落ちてしまう。一織もオレも幸せになれない。
置いていかないで、と交わした約束は忘れた振りで反故にしてしまえばいい。
(一織の夢を潰しちゃいけないから)
握った手は潔く離そう。一織が幸せになれるように。
2 『決意』
オレは一織と別れることを決めた。きっかけになったのは一織が結婚する夢だったが、よく考えてみれば付き合っていた頃のオレたちは未来のことを一切口にしなかった。
悪夢を見なくとも、オレはそう遠くない未来に別れを決めていたのかもしれない。
「無事相棒に戻れたとしても、もうここには来ないんだろうな」
一織から貰った部屋の合い鍵にはうさみみフレンズのキーホルダーがついている。「鍵だけでは失くしそうですので」といつにも増して仏頂面の一織に赤いうさぎを渡された。
鍵穴を差し込み回すと、キーホルダーはぶらぶらと揺れる。首元についた鈴がちりんと鳴って、涼しげな音をオレに聴かせた。
「これも忘れずに返さないとな」
寮を出る時と同時に渡された合鍵は実のところさほど使用していない。多忙すぎる毎日にオレが訪問を遠慮して、一織の誕生日や記念日の時だけ鍵を使って訪ねたくらいだ。
オレたちが付き合い始めた辺りからずっと忙しかった。IDOLiSH7の人気はずっと上昇し続けて、全国ツアー、ドラマや舞台の仕事が舞い込んできた。
決して今が暇ということではないが、自分のペースで仕事ができるようになり、ここ数年は風邪を引くこともなくなった。
「お互いに忙しすぎたんだよな」
恋だの愛だのをしている時間はほとんどなかった。それでも一織を好きでいた時間はとても幸せなものだった。オレは初めての恋に浮かれ、エンドロールは見ない振りをしていた。
どんなものにも終わりがあることを知っているのに、オレは目を背けていたのだ。
「お邪魔します……ってやっぱり一織の部屋いつでも綺麗だな」
整理整頓が行き届いた部屋は昔から変わりない。家具は黒で統一しており、シックな雰囲気が落ち着いた一織によく合っている。部屋に置いてあるところどころの赤が場違いに思えた。
「使う色が違うとすぐに見つかるんだな」
オレが持ってきた私物をひとつずつ手に取って、トートバックへ詰め込んでいく。マグカップ、箸、歯ブラシそれと寝る時に使っていたTシャツと短パン。あまり持ち込んでいなかったのもあって、片づけは十分もかからなかった。
トートバックに収まる程度だったんだと思うと、寂しく感じた。
これくらいで収まる程度の関係だったんだろうかと考えて、少し苦しくなった。
「一織気づくかな」
オレの私物だけが消え去ったことを。
ささやかな荷物だから気がつかないかもしれない。手に持ったトートバックを見下ろす。ちらりと赤が見えている。続いて一織の部屋を見渡した。あんなにところどころの赤は目立っていたのに、消え去った後のこの部屋に違和感を感じない。
すっきりしたな、と思えるほどの量もなかったのだ。オレがいた痕跡は。
じわっと目の奥が熱くなった。やばい、とかぶりを振る。ここにはオレだけしかいないし、誰かに見られることもないが、オレが泣くのはなんだかずるいような気がする。
「オレが一織を振るんだから、オレが傷ついた顔しちゃダメだよな」
声が震えた。詰まって、ひくりとしゃくり上げそうな喉を閉じて堪える。たとえここで涙が床に落ちたとしても、それらはいずれ乾き一織には気づかれない。
だけど、多分オレの方が無理だ。一度決壊すれば泣き止めずこの部屋から立ち去れなくなる。
涙でオレの決意は薄くなってしまう。今だって本心では別れたくないと叫んでいる。
服の袖で強く擦った。ひりひりとした痛みでまた泣きそうになった。
「ばいばい、一織」
この部屋に訪れた時とは反対に鍵を回す。カチッと施錠の音が聞こえ、赤いうさぎは変わらずぶらぶらと揺れていた。
一織の部屋から自分の私物をすべて引き上げたオレが次にしたことは、別れを告げる日を決めることだった。スマホに搭載されているメモアプリを立ち上げる。
まずは別れ話をした次の日が二人揃ってオフであること。
別れ話をするのは公共の場所で密談ができそうな場所。
一織を傷つけない言葉で別れること。
「傷つけないなんて、虫が良すぎるよな」
思わず洩れた呟きは乾いていた。どんな耳当たりの良い言葉を選んだところで、オレは別離を一織に告げる。
オレの都合で決めた別れを、一織は受け入れるだろうか。
「……受け入れてもらうしかないんだ」
最後だからと好きという言葉や、一織の良いところを口にしてはいけない。ただ簡潔に、シンプルに、被害者面せずに「別れよう」を告げる。
せめて理由だけは言わないといけないかもしれない。
発端となった悪夢のことは言えない。将来を考えて不安になったからと言うわけにもいかない。
(一織にはオレよりももっと相応しい人がいるよ)
どれもただ無意味に一織を傷つけて、同時にオレも傷つける。
「……嫌いになったんだ」
最低な嘘を口にして、ひゅっと喉が締まった。内側を細い紐で絞められたようにじわじわと気管は狭まり、呼吸をすることを許されない。オレはオレ自身がついた嘘で殺されてしまう。
「き……っ、本当は今も……一織のことが」
ずっと潜めていた感情は言葉にならなかった。苦しいのになんだか可笑しくて、少しだけ笑えてしまう。
お気に入りのクッションに凭れて楽な姿勢を取る。すう、はあ、とゆっくり息を吸って、吐いて、滲んだ視界のままオレは握っていたスマホに指を滑らせた。
『好きな人ができたんだ』
もうこれしかない。別れの言葉を決めて、スケジュールアプリを開いた。
平日の昼過ぎというのに、人気のあるカフェにはそこそこの人が入っていた。談笑の声でざわついた店内はうるさいと感じるほどではなく、密談をするにはちょうどいいバランスだ。
入口からすぐ左側の席には仕切りがあり、ちょっとした個室になっている。右側には大きな窓がずらりと並び開放感のある席が多い。やわらかな陽光が差し込んだ席はとてもあたたかそうだ。
今日がデートだったら右側を選んだと思う。だけど今日は別れるために左を選んだ。話の途中で拗れてもすぐ出られるように入口に近い席へ座り、一織は向かい側に座った。
「何にしますか?」
「アイスカフェオレがいいな。一織は?」
「ホットコーヒーにします。すみません──」
近くにいた店員を呼ぶ。眼鏡をかけ変装していても一織の涼しげな顔立ちは隠し切れないらしい。女性店員の視線は自分の手元ではなく常に一織の顔へと向いていた。嫉妬の炎で身を焦がしながら、今から別れるのだから妬くのは可笑しいと心の中で言い聞かせる。
店員が立ち去った後オレと一織のいる席にだけ重苦しい空気が流れていた。耳を澄まさなくても、楽しそうに愚痴る女性たちの声や、静かに語る老いた男女の声が聞こえてくる。ちょうどのボリュームで店内に流れるBGMは有名楽曲のジャズアレンジのようだ。
「少し騒がしいですが、いいお店ですね」
「そうだね」
すぐ会話は終わってしまった。以前ならば沈黙すらも愛おしいものだったが、今はただただ息苦しい。
誰もが知っている楽曲が終わり、続いてジャズアレンジされたバラツユが流れた。しっとりとしたピアノの音が物悲しく響く。
(狂おしいほど愛しているのに)
なのに、どうしてオレは一織に別れを告げるようとしているんだろうか。
(ダメだ……もう決めたことなんだから)
心が揺れ動く。散々悩み考えて導き出した答えをなかったことにしようとしている。
押しつぶされそうな不安を抱えたまま見ない振りをして一織と歩き続けるのか、もうここですべてを終わらせるべきか。
何度も考えた答えをいまさら覆せない。
「お待たせしました。アイスカフェオレとホットコーヒーです」
オーダーを取ってくれた女性だった。緊張しているのか指先がわずかに震えている。ありがとう、と笑顔で返すと女性は狼狽えたように目を泳がせ、「ごゆっくりどうぞ」と早口で述べて去って行った。
「忙しいのかな」
「……はあ。無自覚も行き過ぎると罪作りですね」
もう一度あからさまなため息をついた一織はカップを手に取り、口元へ運ぶ。所作のひとつひとつが様になるなと思いながら、オレはストローの包装を破いた。びりっと音を立て小さな破片がテーブルへと落ちる。
ぐるぐると回すとアイスカフェオレと同じ色をした氷がグラスにぶつかった。ストローで吸い、きぃんと冷えたカフェオレは甘さ控えめで少し苦い。
殆ど飲み干して、唇を舐める。
「一織、大事な話があるんだ」
切り出すと一織は手に持っていたコーヒーカップをソーサーへと戻した。中身はまだそこまで減っていないようで、オレのグラスは氷で薄まったカフェオレしか残っていない。もう一度だけストローで吸った。やっぱり薄い。
「大事な話ですか」
胡乱げな目を向けられて、ひやりと冷たいものが走った。
「そうだよ……」
何度も練習した言葉を口にするため口を開く。だけど声に出すよりも先にオレは息ができなくなっていた。呼吸の仕方は普通の人よりも上手くできるはずなのに、水中で顔を出そうと必死にもがくせいで息ができない。不安に溺れている。水圧で胸が押しつぶされる。
一織のためと言いながら自分自身が楽になるため、オレは今日嘘をつく。
「好きな人ができたんだ」
一織の顔が見られない。もしもホッとした顔をしていたら、オレの心は死んでしまうだろう。
無言が続く。溶けかけた氷がカランと音を立てた。
「それは私以外の人、という意味ですか」
「うん、そう。……だからオレたち」
別れよう。
口角を上げて必死に笑う。なんでもないような振りをしているのに、オレの指は小刻みに震えている。
気づかないで、と思った。だけど気づいてほしいとも思う。
鞄から合鍵を取り出して、一織の前に置いた。この場に不釣り合いなほど涼やかな音が鳴る。何の皮肉だろうか、赤いうさぎのキーホルダーはオレの方を向いていた。置いていかないで、と言っているみたいだった。
震えを誤魔化すように勢いよく伝票を掴む。ぐしゃっと皺になったそれはまるで今のオレたちのようだ。伸ばしても綺麗な状態には戻らない。割れたグラスが元に戻らないように。
「今までありがとう、一織」
大好きだった。今もずっと、好きだ。
未練がましい言葉は心の中で呟いて、オレは立ち上がる。オレの恋人だった一織を最後に見たかったが、きっと許されないだろう。鞄を肩にかけ視線は落としたまま、レジへと向かう。
会計を済ませ店を出る前、店内を振り返ったが一織の姿は見えなかった。
追いかけてくることもなかった。
3 『後悔』
別れた後のオレたちはこれといって何も変わらなかった。
一織はいつも通りだ。
段差に躓きかけたオレの腕を掴み、転ばないように支えてくれたり、人違いで声をかけようとするオレに「似てますけど違います」と教えてくれるのも。付き合う前から変わらない。あんな一方的な別れの後でも、変わらずオレのことを気にかけてくれている。
ステージに立つ前、舞台裏で「最高のステージを見せてください」と昔と変わらず熱っぽい瞳で言葉をかけてくれる。
それが嬉しくて、だけど悲しい。
悲しい顔をカメラに、ファンに向けてはいけないから、オレは笑う。電気スイッチのオンオフのように。レンズが向くと反射的に読み取って意識が勝手にオンに入る。心はひどく悲しんでいるのに、オレは笑っている。
平然とした顔で仕事をこなす一織が憎たらしい。カメラの前で完璧なアイドルスマイルを浮かべる一織は恰好良い。
一織が普通であればあるほど、オレは一人で落ち込んでしまう。
オレたちは大した関係じゃなかったんだろうか。一織にとって恋人のオレはどんな存在だったんだろうか。今ではもう確かめるすべもない。
オレだけが毎晩ずっと泣き続けて、誰にもばれないよう必死に腫れた瞼を冷やしていた。
発熱しないのに、毎日アイスノンを溶かしては、また凍らせている。
一織と別れてからオレは人恋しさを感じるようになった。一人寝が寂しくて、一織にバレたら怒られそうな大きさのクマのぬいぐるみを買ってしまった。
ふわふわした感触はオレの心を慰めてくれたものの、寂しさは埋めてくれない。つぶらな黒い瞳がどうしても一織を彷彿させるから、結局背中合わせで寝る羽目になった。
そして一人という事実が寂しくて、ラビチャの回数が今まで以上に増えた。
気軽に返信してくれる環にナギを筆頭に、大和さん、三月、壮五さん。何でもないようなメッセージを送って、それに対して返してくれて、そうして必ず「何かあった?」という心配の声が届く。「大丈夫」「ありがとう」そんな意味を込めたスタンプを送ると、もうそこで会話は終了してしまった。
もっと寂しくなった。
一織に気軽なラビチャは送れない。できるのは事務的なやりとりのみ。電話は急ぎの要件のみだけになっていた。
一織と別れてオレの世界は寂しくなった。一織の名前を気軽に呼ぶことができるのは、ステージとカメラの前だけ。一織という綺麗な言葉すらも失って、オレはもう何を話せばいいのかわからない。
(振ったのはオレなんだ……被害者面しちゃダメだ)
オレに泣く権利はない。だけど皆にはわからないようにするから、涙を流すことは許してほしいと思った。
ずっと泣き続けて日々を過ごすものだと思っていたが、時間が経つにつれて泣く回数は減っていった。勿論枕カバーの洗濯も。溜まっている洗濯物を片付けていると、スマホが鳴った。ぴこんとかわいい音で新着メッセージが届いたことを知らせてくれる。
『お疲れ様』
ロック画面に表示された質素な言葉。絵文字やスタンプのない、シンプルなメッセージにあまいときめきを覚えるのではなく、胸が軋む。
『お疲れ様です』
素っ気なくならないようにかわいいスタンプを添えて送る。既読がつき、次のメッセージは届かない。
これで会話終了かとアプリを閉じれば、またぴこんと通知音が鳴った。
『王様プリンがどういう生き物なのかを調べてた』
「あはは……」
恋人と断言はできないが、新しい友人はできた。
彼は一織よりも背が高くて、オレの三つ上にあたる温和な顔立ちをした男性だった。
『王様プリンはうちの環が好きな生き物ですよ! ほら昔オレが間違えて抱き着いた時も環のモノマネしてくれたじゃないでですか。環は毎日それを食べているんですよ!』
『生き物……? 食べる?』
彼はきっと温和な表情に困惑を浮かべているのだろう。このまま続けても面白いかもしれないが、本気で考え始めそうだと答えを出した。
『王様プリンはコンビニやスーパーで売っているプリンの名前です』
『なるほど。よくわからない』
(やっぱり違う)
会話のテンポも返答も、一織と全然違う。
ちょっと待ってて、とスタンプを押してからオレは検索エンジンで「王様プリン」と打ち込む。ネット上にアップされている画像を眺めて、どれがわかりやすいだろうかと考えた。
彼と親しくなったきっかけは、テレビ局で背格好が環と似ているため間違えて抱き着いてしまったことからだった。
肩にかかるくらいの長さの髪を縛り帽子を被っているため、オレはその人と環をよく間違えてしまう。一度間違えてからは、慎重に後ろから回り込んで顔を覗き込むように癖づけていたが、人恋しくなっていたオレは久々に会えたことが嬉しくて、驚かせてやろうと思って後ろからぎゅっと抱き着いた。
すると「王様プリン大好き」とどう聞いても見知らぬ人の声にオレは「そこそこ似てますね」と返してしまった。「どうも……」と困惑した声に、困ったなと思った。離れるタイミングも逃して抱き着いたまま振り返った相手の顔を見て、あ、顔は似てないなと失礼なことを思った。
「失礼でしょう」
冷ややかな声に心臓が竦み上がる。
七瀬さん、と後ろから聞こえた声にオレはそのまま凍り付いてしまった。腕を強く掴まれて引き剥がされ同時にその場の空気が二度くらい冷えた。
「うちの七瀬が失礼しました」
「いえ、同僚にもよく間違えられるのでお構いなく」
肩がとんとぶつかった。これは一織の身体だ。気が付いた瞬間たったそれだけの接触で炙られたように全身が火照った。
厚みのある広い背中、骨ばった長い指、滑らかな肌の感触、それからひんやりとしている体温が熱を帯びる時の、あの濃密な時間。
久しぶりに感じる一織のにおいが鮮明に思い出させる。低く、それでもよく通る声が忘れかけていた熱情の記憶を勝手に引き出していく。
『七瀬さん……っ』
「……っ、あ」
「七瀬さん? どうしましたか?」
心配そうな顔で覗き込まれて、高ぶっていたオレの心は一気に冷める。真上からいきなり水をかけられて強制的に冷やされて、その代わり羞恥で全身が熱くなった。
今もまだ、オレだけが一織を意識している。
一織からすればこの程度の接触はたいしたことじゃないんだろう。オレだけ一人取り残されて、一織の何気ない行動に一喜一憂している。情欲すら覚えて、ひどくみっともない気分だった。
奥から水の膜が盛り上がって、ぽつりと落ちた。一織が驚いたように目を開いて、すぐに輪郭すべてがぼやけた。
「あの、これ」
背格好が環に似ている男性がハンカチを差し出す。ただただ恥ずかしくなったオレは急いで受け取り「ゴミが入ったみたい、ごめんなさい」とその後に早口で礼を言ってその場から走り去った。
オレを呼ぶ一織の声が聞こえたが振り返ることなんて勿論できるはずがなかった。
トイレに駆け込み、一番奥の個室に入って鍵をかけた。
「っ……う、あ……」
渡されたハンカチを申し訳ないと思いつつも、ズボンのポケットへ突っ込む。洗って返すのだからいいだろう、と心の中で言い訳しながら。強く目を閉じて、思い返すのは情欲を浮かべた一織の姿だった。
「……っ、ふ……はっ」
指の形、指の太さ、指の長さ、動き。オレを翻弄する一織の指づかいを思い出す。
声を思い出す。言葉を、短くついた吐息すらも。悲しいくらい、鮮明に浮かんでしまった。綺麗で恰好良い一織。オレの歌を好きだと言った一織の眼差しは熱を帯びて、オレを貫いた。
「っ、ああっ──…………き」
身勝手に吐き出してなお、まだ好きの気持ちは消えない。むしろオレの中で勝手に、大きく育っていく。
興奮が治まった後に強烈な後悔と罪悪感と、背徳感に襲われた。涙を拭くためにと渡されたハンカチは結局一度も使うことなく、ポケットの中でぐしゃぐしゃになっていた。
その夜自分のマンションに帰った後、アダルトグッズ専門のサイトを漁った。
身体に刻みついている記憶を頼りに、できるだけ一織のものと大きさと形がそっくりなおもちゃをカートに追加した。
よれて皺だらけになったハンカチは洗濯機でしっかり洗った。テレビ局での仕事があるたび持ち歩き、環と背格好が似ている男性を探す。
そう簡単に遭遇するはずはないだろうと踏んでたのに、オレの予想とは反対にあっさりと目的の相手の後ろ姿が視界に入った。今度こそ正面へと回り込む。
「えと……こんにちは。この間はありがとうございました。これお借りしていたハンカチです」
あの日泣いた理由を訊かれたくなくて、カバンからすぐにハンカチを取り出す。もう一度ありがとうございます、を伝えようとした瞬間大きな手が目の前に伸びてきた。目を閉じたのは反射だった。
「っ!」
「……大丈夫ですか?」
心配を含んだような声色にそっと瞼を開く。全然環と似てないことを知った。大きな手で頬を包み込まれ、ぐっと顔が寄せられる。相手の手のひらは汗ばんでいた。
「え、あの……?」
「和泉さんと別れたんですか?」
「あ……っ、なんで」
相手が放った問いかけに心臓が凍り付き、不自然な呼吸を繰り返してしまった。
何故この人はオレたちの関係を知っているんだろうか。一織と別れたことを訊いてどうするつもりなのだろうか。
オレの口から疑問が零れてしまい、いまさら否定はできない。そして相手の顔にはゆっくりと喜びの感情が浮かび上がる。
「俺、七瀬さんをずっと見てきたんです」
「それは、ファンという意味で……?」
「違う。俺はあなたが好きなんです」
付き合ってください。
真剣な顔で言われ、反射的に思い浮かんだのは違う、という言葉だった。
4 『結末』
一織が女性と付き合っている。メンバー内でまことしやかに囁かれていた噂は、当人の肯定によって確定された。
「ええ、まあ……そうですね」
お付き合いさせていただいてます。環の問いかけにはっきりと答えた一織はそのまま手の甲で口元を覆い隠した。昔から変わらない。一織が本気で照れた時にする癖を目にして、心臓がずきりと痛んだ。
「俺一度だけ見たことあるんだけど、なんか頭良さそうな人だよな」
「脱線することなく会話がスムーズに進みますね」
「あ、さり気なく俺らのことディスっただろ」
「事実でしょう」
軽やかに笑う一織に安堵するのではなくて、ただ苦しくなった。心は身体と連動していて、気道が狭まる。ぎゅっと締まって、息がつまった。
「はっ……」
「七瀬さん、大丈夫ですか?」
「……っ、大丈夫」
どうして、一織はすぐにオレの異常に気が付いてしまうんだろうか。
離れたところに座って、環と楽しそうに話していたのに。オレのことは眼中にないって顔をしていたのに。
「ほら手貸してください」
「……あ」
戸惑っているオレの手を一織は迷うことなく掴んだ。爪先から指まで一本ずつ助かめるように触れる。
緊張で体温が下がったオレに自分の熱を分け与えるこの行為は、大きなステージに立つ直前、一織がオレを落ち着かせるためにある。
骨ばった長い指はただオレに触れるだけだ。
触れられてカチッと心の中で何かがぴったりと嵌った。ぽかりと空いたところに、失っていたピースが埋まったように。
環と壮五さんがのんびりと何かを話している声が遠くに聴こえる。オレの耳は、今の音だけを拾うため感覚を研ぎ澄ませていた。
(一織だ……)
「吸って、ゆっくりと吐き出して」
ひんやりとした温度が、涼しげな顔立ちが、声かけが、これは一織なのだと知らしめる。何だか無性に泣きたくなった。
「七瀬さん」
静かに、けれどオレを呼ぶ一織の声に胸が高鳴った。初めて一織を好きだと自覚した日よりも、ずっと強く鼓動している。
一織の指はオレの存在を確かめるように骨を押し込む。そうしてオレがここにいる意味を一織は伝えている。
この行為に甘やかな意味はない。
恋人関係になる前から続いて、今もこうして触れてくれることが少しだけ嬉しい。同時にこのこの行為は一織にとって何でもないものだと教えられるようだった。
体温が移る前にすでに一織の手は離れていった。以前ならその手を掴んで引き留めることができたのに、そんなささやかなことすらもう叶わない。
「落ち着きましたか」
「うん……ありがとう」
上手く笑えているだろうか。
オレはIDOLiSH7の七瀬陸になれているだろうか。
一織に優しくされるたび、息がつまっていく。一織の優しさで喉が塞がって、だけど吐き出せない。それは一織から与えられたものだから。欲深いオレはどんなものでも欲しがった。
(一織じゃなきゃだめなんだ)
誰も一織の代わりになれない。
結局オレを好きだと言ったあの人の気持ちと、オレの抱いている気持ちをまったく種類が異なる。
楽しかった。だけどそれ以上の感情を抱けなかった。オレの好き、は初めから今もずっと一織にだけ向いている。
狂おしいほど、愛している。
「っ……」
欲しい。一織が欲しい。
ただただ欲しくてたまらない。一織を失って空っぽになったオレの心に再び一織をつめこんでほしい。
見上げた先、一織の顔が徐々に歪んでいく。何故、と言いたげな眼差しに胸がずきりと痛んだ。一度落ち着いた呼吸がまた乱れ始める。短い息が、洩れた。
「……七瀬さ──」
苦渋に満ちた声を遮ったのは、けたたましく開いた扉と焦った三月の声だった。
「一織!」
「どうしたんですか、兄さん」
「おまえの結婚が週刊誌にすっぱ抜かれているぞ!」
「は……」
血管に流れる血液がすべて下がった。顔色が青を通り越して白に変わっているような気がする。
どくん、どくん、と嫌な音は自分の内側から聞こえてきた。それは次第に大きくなり、呼吸音がかき消される。突然騒がしくなった楽屋には、オレから鳴った細い喘鳴音は誰の耳にも届いていないようだった。
「いおりん、結婚すんのか」
「いや、ですからそれは……っ」
焦ったような一織たちの声が聞こえる。だけどもう、音が混ざり合り繋がって何を言っているのかわからない。理解できない。
──たすけて。
オレ一人だけ溺れていく。光も届かない深海へと、落ちて。もがいた指先が産んだ泡は浮き上がり、やがて小さくなる。気道が締まったのせいで呼吸はできず、オレを見つけてと言うことも、目印を作ることもできない。
抵抗できず落ちていく。
オレは身勝手な恋心で自分を殺してしまった。
──ああ、でも。
オレが一番見たくない光景は、見なくて済むんだ。
真っ白のタキシードを身に纏い、お嫁さんを貰う一織の姿を見なくてもいい。オレ以外の相手に微笑む一織の姿はつらいから。
それだけが、今のオレにとってのささやかな救いだった。
人は死んだらどこに行くのだろう。
まだ天にぃがオレだけのスターだった頃、オレはそんなことをぽつりと呟いたことがある。今になって思うと相当難解な疑問だった。
天にぃは大きな目を開いて、それから少しだけ苦しそうにして笑った。
『天国と地獄のどちらかだよ』
だからオレは一織にこう言ったんだ。
『行く先が天国でも地獄でも、オレは先に行かないし、一織も先に行かせない』
だけど振り向いた先に、一織の姿はない。繋がっていたはずの手は、外れてしまったんだ。
違う。オレが振りほどいた。
(約束……)
あの時、オレは小指を差し出したつもりだった。
だけどオレたちは結ばなかったのだから、もうそれは約束ですらなかった。
どうか、置いていかれた一織が。
ひとりで泣いていませんように。
「っ──七瀬さん!!」
耳に飛び込んできた叫び声に瞼を持ち上げる。目の前に強張った一織の顔があった。強張ったというよりも、泣きそうな顔だ。一織はつらい気持ちを堪えようとする時ほど、小さな唇をぐっと噛む。
毎日きちんと手入れしているアイドルの顔が傷つくのは嫌だなと思う。手を上げることすら今のオレには重労働だったけど、頑張って手を伸ばしてそっと一織の唇に触れた。
「なかないで」
「泣いてませんけど!!」
ぎゅっと眦を裂いて、だけどオレは一織が泣く寸前なんだとわかった。
「わらって、いおり」
「こんな状況で笑えるわけ……ないでしょう」
続いた言葉が震えている。さほど大きくないのによく通る一織の声は小さくて、耳を澄ませないと聞き取れない。何だか可笑しくて笑うと、ぎっと睨まれた。
「何で笑っているんですか……」
「ごめん……。なんかさ、一織が取り乱しているの久々だから」
「取り乱すに決まってるでしょう!! あの場で貴方が突然倒れて……私がどんな気持ちだったか……」
「うん、多分怖かったよな」
すっと指を滑らせる。すっと頬の形を確かめるように触れると、一織が痩せてしまったことに気が付いた。
「ごめんな、一織……」
振り回して。
引き寄せて、唇同士を合わせた。薄くて、だけどあたたかい。一織とのキスは久々なのにしょっぱくて、少し開いた隙間から涙が流れ込んだ。
一織の吐息が、オレの口の中をくすぐる。それすらも敏感に受け取ってしまい、鼻から声が洩れた。
「まだ好きで、ごめん」
「っ! また貴方は、私を振り回して」
「うん……でも、もうこれで最後にするから」
「許しません」
「ん、んんっ……」
二度目のキスは噛みつくようなキスだった。ぬるりとした感触がオレの舌を引きずり出して、ねっとりと絡められる。頬骨が手のひらに当たる。少しだけ痛いと思ったが、ひんやりとした一織の温度が徐々に上がり、ひどく心地よかった。
舌で喉奥を犯される。乱暴な口づけは一織の怒りを表していた。
「っは……ま、あ……っん」
「は……っ、聞きません」
一織の指はオレの喉仏を撫でた。ひとの急所でもあるそこへ口づけられ、強く吸われる。喉元に触れられるのは少し怖いけど、一織なら構わないと思えた。
「ああっ、そんなに吸ったら、痕ついちゃ……」
「知りませんよ」
「そんなっ……ん、うあ」
執拗な口づけはオレに対する執着のようだ。どうして、と口にするほど野暮じゃない。もう鈍い振りもできない。
「まって、話したいことがある……ん」
「……まだ好きな人がいると言う気ですか?」
涼しげな瞳がぎらぎらとしていた。澄んだ夜空の色は怒りと悲しみで昏く濁り、薄い水の膜は照明の光を吸い込んでゆらゆらと揺れている。
「いるよ」
誰、と開きかけた唇にそっと指を押し当てた。指先に感じた振動は一体どちらのものだろうか。
「ずっと変わらず一織が好きだよ。……他の人じゃダメだった。オレの寂しさを埋められなかった」
唖然とする一織にオレはすべて話した。
一織が他の誰かと結婚する悪夢を見たこと。そうして自分たちの関係の終わりに怯えたこと。正しい道を選ぼうとして、一織じゃないとダメだと気が付いたこと。
途中でオレの声には涙が混じっていた。いつの間にかオレは一織に抱き上げられて、ひくりとしゃくりをあげるたび、大きな手が背中を撫でてくれた。
「馬鹿な人だな」
こつんと額がぶつかる。おずおずと見上げると、一織は少し疲れたような、だけどどことなく晴れやかな表情を浮かべていた。
「貴方は単純で、すぐに心が弱る。そんな愚かな貴方自身より、分析に優れた、私を信じてください」
「うん……」
「どんなに飾った褒め言葉よりも、私の皮肉の方が、貴方の耳には甘い。ナイフのように鋭い非難よりも、私の笑顔の方が貴方の心を冷やす」
コントロールさせてほしい、と言った時よりもずっと熱っぽい眼差しだった。掴まれた左手が、熱い。
「私を見て」
これはオレを落ち着かせる行為なんかじゃない。一織の目がそう告げていた。
心臓がどくどくと鳴っている。高鳴りは不安からじゃなくて、期待だ。
薬指を掴まれ、指の付け根にそっと唇を押し当てられた。
「たとえ行く先が地獄でも天国でも、私は貴方を置いていきません。だから貴方ももう二度と私の手を離さないで」
「これって……プロポーズ?」
「プロポーズです」
手の甲で口元を押え一織はそっぽを向いた。自分から私を見て、と言ったくせに。あの情熱的な眼差しが外れたことにオレは頬を膨らませる。
だけど形のいい耳が赤くなっていたから、これが一織にとっての最大のプロポーズなんだと信じられた。
「それで、返事は」
「そんなの」
イエス以外存在するはずがない。
再び繋がった手はオレの不安ごと握りしめた上で、搦め取られた。おずおずと肩口に鼻を擦り当てて、深く吸い込む。慣れた一織のにおい。すると抱擁が強まる。情欲と安堵を覚えて、けれど今は安堵の方が勝った。
もう、二度とオレは悪夢を見ることはないのだろう。