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    SS詰め合わせ【いおりく】好きが溢れて一織の手のはなし。七瀬さんの手の話夜の海にて七瀬陸は幸せな夢を見るか。七瀬陸は幸せな今を見る。いちごのパンケーキにバニラアイスクリームを添えながら貪欲な怪物の瞳の色は無神論者の偽りの献身食と性ガーターベルトネタ好きが溢れて
     インターネットを繋ぎ配信サイトに入る。会員登録をした後、検索バーに「和泉一織」と打ち込めば、すぐにお目当てのものが出てきた。
     購入ボタンをタップすれば、すぐにもダウンロードが始まる。端末にイヤホンを差し込みベッドの上に寝転がってから陸は大きく息を吐き出した。
    「……一織」
     囁くように名前を呼ぶ。熱を帯びた声に「なんて声を出しているんですか」と動揺する相手はいない。陸が今会いたい相手は隣の部屋にいて、ここ連日で仕事によって溜まった学校の課題を片付けているのだから。
     ようやくダウンロードが終了したようだ。メディア向けの笑顔とは少し異なった、大人っぽく微笑んだ顔にどきどきと胸が高鳴る。まるで恋したての少女みたいだ。
     ファンの子たちはこのVRデートを再生する前からどきどきしっぱなしなのかもしれない。
    「ずるいな……和泉一織」
     ぽつりと出た言葉が誰に対して向けたものなのか、陸自身分からないまま口にしてしまった。
     もしもこれを見てしまったら……見終わったあと一織の部屋に突撃して、構ってと抱きついてしまわないだろか。
     自制できるかな、と不安げな呟きが部屋に落ちる。
     けれども再生しないわけにはいかなかった。
    『────仕方ありません。デートしてあげますよ。暇つぶしくらいにはなるでしょうから……ほら、デートしてくださいは? それとも……お仕置きされたいんですか?』
    「っ……あっ!」
     直接耳の中へ吹き込まれるような感覚に陥る。ぞくぞくしたものが背筋を駆け抜け、逃すために足を伸ばした。すぐさまイヤホンを外すか、停止ボタンを押せばいいのだがそのどちらも選ぶことが出来ず、こもった熱を口から吐き出す。
    『お仕置きがいいんですか? あなたね、まったく説得力ありませんよ。……期待してるんじゃないですか?』
     画面の中の一織は目を細めて軽薄げに笑う。専用ゴーグルで見ていれば目の前に一織がいると錯覚してしまうだろう。クールでありながらも柔らかく微笑む彼を知っているせいか、見たことのない表情に微かな恐怖と期待が走った。
     ぐいっと手が伸びてくる。本当に伸びてくるわけではないのに、陸の身体は抵抗を忘れてされるがままだ。一織の顔が近づいてくる。睫毛の長さまでばっちりとわかる距離。心臓が破裂寸前だ。息の仕方も忘れてしまい、目を逸らすことも出来ない。
    『目を閉じて』
     まるで魔法にかけられたようにその言葉に素直に従う。きっとあの長い指が唇に向かって伸びてきて、形どるようになぞるのだ。
     
     ああ、キスされちゃう。
     耳元で低く笑う声が聞こえる。吐息が乾いた唇を撫でて────

    「七瀬さん?」
    「うわあっ!?」
     瞼を開くと目を丸くした一織が陸の顔を覗き込んでいた。慌ててスマホを伏せてイヤホンを外す。微かに聞こえる「……キス、されると思ったんですか」と可愛くない台詞を今は楽しんでいる暇もなく。腹筋を使って起き上がった。眉間にしわを寄せている一織にどうやって誤魔化すか、頭をフル回転させながら考えていた。
    「ど、どうしたんだ一織?」
    「それはこちらの台詞です。扉越しに声をかけても返事をしませんし、物音は聞こえるので具合が悪くなったのか思って……」
    「顔赤くないですか?」と訝しげな顔をする一織に陸は視線を逸らして笑うもどことなく乾いていた。
    「あはは……気のせいだよ」
    「本当に?」
     疑いの眼差しを向けられた。
     こういった時の一織は手ごわい。陸が隠していることをあっさりと見抜いてしまうのだ。
     体調が悪いとき、大丈夫だよと作り笑顔を浮かべても騙されてくれないし、喧嘩をしているときも陸が見抜いて欲しい嘘を簡単に解いてしまう。
     陸に向かって伸びてくる心配性な手は前髪をかき上げて直接額に触れてくる。「熱はないようですね」と少しの安堵を浮かべる一織に嬉しさと、すっと離れて行く手に寂しさを感じた。
    「あのね、一織……」
     もっと会話を続けたくて思わず名前を呼んでしまう。しかし何を口にすればいいのか、思いつかない。
     再びぐるぐると考え始めて、脳内に出てきたのは素直に言ってしまおうと力強く頷く自分の姿。ダメダメ! 本当のことを知ったら引かれちゃうよ、泣きそうな顔をした自分もまた首を横に振っている。
     第一、一織のドSチックな声にどきどきしてました、などと言えるはずもなく陸は深く考えずに発言した。
    「天にぃの……VRデート見てただけだから!」


     以前依頼されたVR企画の中の『IDOLiSH7とデート』が当初の予定よりも反響があり、自宅でも楽しめるようにとパソコンやスマホでの配信が決まった。前回のものよりも台詞が増え、声や音などVRの世界に浸れるように現実よりなものに仕上がっていた。
     例えば目の前で微笑んだり、手を差し出されたり、と本当にIDOLiSH7のメンバーとのデートを体験できるようになっている。以前よりも濃密に、ということで少し大人向けの仕上がりになっている。対象年齢は十五歳であること、IDOLiSH7のイメージ的にどうなのかという声もあったが、配信後直後から数分後にはSNSのトレンドに入るほど、ファンの声も好評だった。
     陸のデート内容については──ライブの最中にステージの上から告白するというものだった──ファンから見ても複雑な気持ちになってしまうということで新たに撮り直しとなった。こっそりとお家でデート、という可愛いものになり、プライベートの七瀬陸を楽しむことが出来る内容だ。
     一部には好評だった大和やナギもデートシチュエーションも万人受けしやすいものに変わっている。しかし一織や三月はこのままの路線で続けてほしいということもありほとんど内容は変わっていない。特に一織は更に過激にという希望の声が強かったので、以前よりもSっ気のある和泉一織となっている。
     そしてIDOLiSH7だけではなくTRIGGERにもオファーが来たため、現在はその二グループのVRデート体験がネット配信されていた。
     
    「……九条さんの」
    「そ、そう! だから、オレ顔が赤いんだ!」
    「そうですか……」
    (あれっ、上手く誤魔化せてる?)
     いつもなら陸から九条天の名前が出るたびにこのブラコン、と嫌そうな顔を陸に向ける一織だが、何故か今日は陸から目を逸らしている。だが誤魔化せたと安堵している陸は一織の反応が違うことに気がつかなかった。
    「続き見たいからさ、だから」
    「気にせず、見ればいいでしょう」
    「ええ……。一織の前で? 恥ずかしいだろ」
    「いつもなら、天にぃが出てるドラマ一緒に見よう! って言っているじゃないですか」
    「そうだけど……」
     確かに普段の陸は九条天が出ている番組を一緒に見ようと一織を誘っている。だが先ほどまで見ていたのは、九条天のVRデートではなくて、ここにいる一織のVRデートだ。しかもちょっと大人向けで、普段の彼とは違うドSなシチュエーションで。どきどきして、少し、いやかなりえっちな気分になるのだ。
    (一織がいるところで見るとか……無理!!)
     一織とはユニットであり、喧嘩もよくする友達であり、そしていわゆる恋人同士でもある。
     告白してきたのは一織だったが、先に好きになったのは自分の方だと陸は思っている。一つ年下でありながらもしっかりしていて、とても頭のいい恋人。可愛いものが好きで、でも本人はそれを隠してすました顔で見ているのだから、そこが可愛くて。そして大人びた顔で見つめる、一織の目がすごく好きで、告白された時はこれが人生の中で一番の幸福だろうとも思っていた。
     お互いはじめての恋愛に振り回されて、寮生活で忙しいこともあり手を繋ぐ以上のことはなかなか出来なかった。想像していたものよりもずっと焦ったい恋愛に陸の方が我慢出来ず、一織に襲いかかったこともある。ぐずぐずと泣きながら「一織はオレを抱きたくないの!?」と詰め寄って、一織を困らせてしまった。今冷静に当時のことを思い返してみると付き合い始めてからも一織は陸を大切にしていたし、身体のことも考えてくれていたのだ。一織の気持ちも尊重するべきだったとは思う。しかし、それがきっかけで深く繋がり合うことが出来たので陸自身あまり反省はしていなかった。
    「七瀬さん?」
     不思議そうに首を傾げている一織に見つめられ、その上夜空を映した瞳はひどく澄んでいる。きらきら瞬く星空だ。その美しさに対してやましさでいっぱいの陸はわっと顔を手で覆った。
    「やっぱり無理! 恥ずかしすぎてしんじゃう……」
    「もっと恥ずかしいことしてるでしょ」
     強引に迫ってきたり、キスをねだったり、と呆れたような声色で続く言葉にいやいやと陸は首を横に振る。
    「それとは度合いが違うの!!」
     あれは一織に触れたい気持ちや好きが溢れている状態で、羞恥よりもただ触れたいという気持ちが強いから出来るのだ、と。うだうだと言い訳する陸は、自分がどれだけ恥ずかしいことを暴露していることに気が付かない。
     興奮からか最初から色づいていた頬にはさらに赤みが差して、まるで熟れたトマトだ。小さく唸りながら睨みつけてくる陸の姿に一織の顔も赤く色づく。
    「そう、ですか」
    「そうだよ!」
     理解してもらえたことが嬉しくて陸はにこにこと笑顔を浮かべる。陸とは反対に一織は照れたように口元を押さえていた。ん? と不思議がる陸の首が少し傾いたあと、ぼそりと何かを呟いて大きく息を吐き出した。
    「だからね、一織の前じゃ見れないから一人で見たい────んんん?」
     ぎしっとベッドが軋みを立てる。何故なのか、と思うよりも先に一織の顔が真正面にあって陸は思わず息を飲んだ。出て行ってほしい、と喉まで出かかった言葉は飲み込まれて胃まで落ちる。首筋を撫でるさらりとした黒髪がくすぐったい。あと少し近づけばキスが出来そうな距離まで顔が近づいて、ぴたりと止まった。
    「堂々と浮気宣言ですか」
    「えっ……」
    (浮気ってあの浮気? 恋人がいるのに他の人とデートしたりキスすること? でもオレは一織以外とそういうことしてない……はず)
    「浮気なんてしてないよ!」
    「うそ」
     耳元で低く囁かれてぞくぞくと痺れのようなものが背中から首まで駆け抜ける。声が出なかったのは幸いだった。長めの横髪を耳にかけられて、現れた耳朶に舌先が這う。
    「んあっ、いおりっ」
    「好きでしょ」
    「それっ、やっ」
     熱く湿った感触がくすぐったい。ぬるっと水音が鼓膜を揺らして、陸の身体が震えるたびくつりと笑い声が聞こえる。
    「嘘ばかり」いつもよりも冷たい一織の言葉に興奮を覚えてしまって、やがてそれらは快楽へと変換される。ちゅっと耳朶にキスの雨が降ってきて、未だ触れられていない唇が寂しくなった。
    「一織、くちっ、さみしい」
     キスをねだれば一織の顔が歪んだ。何かを我慢するときの表情で、我慢しなくてもいいよと伝えようと頬に手を伸ばす。
     ひどくあつかった。あついけど嬉しい。一織も興奮しているのだと知り伝染したように陸の頬も熱を帯びる。
    「っ、……先に答えてください」
     ──本当は誰を見ていたんですか。
     確信めいた一織の言葉に彼は答えを知っていると直感した。大人びた切れ長の瞳が今はどことなく拗ねたような、どことなく焦れているような感情を浮かべていて、そんな一織は年相応に見える。
     素直に答えたら照れながらも笑ってくれるだろうか。誤魔化したら拗ねて意地悪されてしまうだろうか。
     迷って口を閉じていれば頬に柔らかなものが触れた。ほんの一瞬の頬へのキスが嬉しくもあり、一瞬だけのキスはさらに陸を欲深くさせる。
     一織はずるい。自分を攻略することに長けている。
    「一織の、見てた……」
    「どうして?」
     一織はずるい。問われた質問に答えたのにその理由まで追求する。
     分かっているだろうに口元をやわらげて教えてください、と滅多に見せない甘えた表情で頬を撫でるのだから本当にずるい男だ。
    「一織が好きだから、どんな一織も知っておきたい……見ていたい」
     たとえ和泉一織が陸一人のものにならなくても、和泉一織のすべてを知っておきたい。同じメンバーで、同じ寮で暮らしていて、一緒に過ごす時間が多いとしても。ファンからすれば羨むほどの環境に置かれているけれども、満足はしていなくて。欲深くて、そんな自分が時折恐ろしくもなるけれど、和泉一織のファンよりもずっとずっと一織のことを知っておきたい。また同時に七瀬陸を一織だけに与えることが出来ないことも理解している。
     オレの方がずっとずっと一織のことが好きだと言いたい。愛されている、と口に出してしまいたい。
    「オレ……思っている以上に一織が好きすぎて、こわいよ」
    「七瀬さん……」
    「でも、想いをおさえる方法もわからない」
     口にすれば簡単に溢れてしまいそうで、もしも一織への想いが目に見えてしまったらきっと二人とも好きで埋もれてしまう。目に見えなくても溢れた「好き」という言葉と一織の名前を呼ぶだけで一日が終わってしまうかもしれない。
     一織はやさしいから一緒に過ごしたいとお願いすると、何だかんだ言いつつも自分の時間を減らして陸に付き合うだろう。好きだからずっと傍にいたい。だけど陸が一織だけに寄りかかっているなんて嫌だ。ただでさえ忙しい彼の負担にはなりたくなかった。
     だから本物の一織じゃなくて、ファンのために作られた和泉一織を堪能していたのだが、それも実は浮気になるのか。
    「……もしかして、本物じゃなくても浮気になる?」
    「……唐突の車線変更やめてくれますか」
    「ちゃんと曲がるよって合図出してたと思うんだけど」
    「そんな可愛い顔してもだめです。予告なしで突然右方向に曲がりましたからね」
    「そうかな……?」
    「私が警察官ならその場で取り押さえていますよ」
    (ああ、やっぱり好きだな)
     先ほどの甘い空気が吹き飛んで、くだらないやりとりに変わっても愛おしい気持ちは消失しない。もうっ、と一織は怒ったような顔をするけれど、その瞳はやさしくて陸だけを映している。すごく綺麗なのに視界がぼやけてはっきりと見えないのが少し残念だ。泣きたくなるほどの幸福に陸はそっと目を閉じる。涙がこぼれないように。
    「七瀬さん」
    「一織……オレ、一織がだいすきだよ」
     やさしいところも意地悪なときも、心配性で細かなことを言う可愛くない唇も、照れた顔も七瀬さんと呼ぶ声も。ずっと傍にいて、繋いだ手を離さないで。
    「私も七瀬さんが好きです。気が付いていないかもしれませんが、あなたと同じくらいそれ以上好きなんですよ。ずっと傍にいますから。繋いだ手を離すつもりはありません。……ですから寂しいときは寂しいって言って」
     私以外を、私の代わりにしないで。欲しいなら欲しいとねだって。二人きりの時にまで好きを我慢しないで。
     一織の言葉とともに柔らかな唇が降ってくる。顔中に愛していると触れて、ようやく待ち望んだ唇への感触に陸は今日一番の笑顔を浮かべた。



    「ねえ一織」
    「どうしました七瀬さん」
     いつも以上の甘い時間を過ごして、長い時間触れ合っていたせいか腕を動かすのも一苦労だ。ライブ後の疲労感とは種類も痛む箇所も違うけれども、この気だるさも愛おしいもので。仰向けからくるりと一織の方へ向きを変える。
    「もしも一織が俺のVRデート見たとしても、浮気とは思わないから」
    「は、はあ!?」
     眉を顰めた一織の額にだんだんと皺が寄っていくのを目にした陸は慌てて言葉を続ける。
    「まってまって! 怒るのは全部聞いてから」
    「くだらないことだったら怒りますからね」
    「えええ……」
     少しへこんでしまったので情けない顔を隠すためそろっと掛け布団を上に引き上げる。埃を吸うでしょ、とすぐさま下ろされて仕方なく一織の胸に顔を埋めた。服の上からはわからないが、一織の胸は意外と厚くて男らしくて触れ合うとどきどきする。今はお互い何も纏っていないから余計にだ。
    「ちょっと、くすぐったいんですけど」
    「オレはね、一織に見てもらいたいと思うの」
     陸だけではなく、七瀬陸を。陸が和泉一織のすべてを知っておきたいと同時に一織にも七瀬陸のすべてを見てほしいと思っている。オレのファンよりも一番先にオレを見てほしい。
     傲慢な願いだと自覚している。一織を貰っているのにさらに和泉一織まで欲しくて、一織には陸を渡しているのに、七瀬陸も欲しがってほしい。
     陸の欲は底をつかない。満たされてもまだ欲しくなってしまう。それは相手が一織だからだと陸は思っている。
    「それでね、一織がオレのVRデート見たら……寂しくなくてもオレのところに来てほしい」
     見て楽しんでくれるのはいいけど、満足はしてほしくない。画面の向こうの七瀬陸じゃなくて、オレを求めてほしい。
     ずっと心の中で思っていたことを口にして陸は長めに息を吐き出した。一織の反応が少しだけ怖い。呆れていないだろうか、陸が見せた独占欲を疎ましく思っていないだろうか。せめて、あなたバカですかと一蹴される方がいいなあと思った。
    「一織……うひゃっ」
     脇に手を入られたかと思うと一瞬身体が浮き上がった。一織の身体に乗り上げた格好となり、赤らんだ一織がまるくなっている陸の目を射抜く。
    「あまり可愛いことを言わないでくれますか」
    「可愛いって……んううっ、なんで鼻つまむの!」
     たいして痛くはないけど、声がぐもって聞こえるのは嫌だ。じたばた暴れる。しばらくの間つままれて、ようやく指が鼻から離れて、追いかけた陸は一織の指を甘噛みした。勿論痕にならないようにやわくだ。ふふっと笑いながらあやすようなキスが頬に落ちてくる。
     そんなキスだけで許すほど陸は安い男ではない。決して安い男ではないけど、一織が嬉しそうな顔をしているから、拗ねたポーズをするのはやめた。
    「あのさ……嫌、じゃないの……?」
    「どうしてですか」
    「だって今のオレ、すごい我が儘で欲深い」
     きっと今自分はみっともない顔をしてるのだろう、とわかっていた。逃げ出してしまいけど、もう逃げ出せない。全部一織にさらけ出してしまった。
    「だから今更なんですよ……私は世界中の誰よりもあなたを知っています。弱点も、魅力も、限界も、醜さも。傲慢さも欲深さも知っているんですよ、七瀬さん」
     すべて私にさらけ出してくれることが嬉しいんですよ。すべて見せてくれるあなたが好きです。
     そう言ってやさしく微笑むからそれ以上何も言えなくなった。
     ああ、やっぱり一織はずるい。
    (オレが欲しい言葉すべてくれる)
     好きの上限を軽々と超えて、もっと好きになる。
     陸は今日一番の笑顔を浮かべて口を開いた。
    「大好きだよ一織」
     余裕のない腕と唇が迫ってくる。少し苦しい抱擁を受け止めて、陸はひりっと痛む瞼を閉じた。
    一織の手のはなし。
     一織の手とオレの手の大きさはほとんど変わらない。どっちが大きいのか比べたとき、ほんの少しだけ一織の指の方が長くて悔しかった。身長一センチ差というのは意外にも大きいものかもしれない。
     手を合わせたまま、あーあ、一織の手の方が大きかったなあ、なんて素直に言えなくて。代わりに「オレと一織の手の大きさ一緒だな」と笑顔で誤魔化したら、一織は何故か眉間に皺を寄せて何とも言えない顔をしていた気がする。思わずぎゅっと指を絡めたら、怒られた。
     一織の手はすごい。オレが手を滑らせてお皿を落としたとき、あるいはグラスを落としたとき、床に着地するよりも先にグラスを掴んで割れるのを防いでくれる。オレがつまづいて転びそうなときも腕を掴んで支えてくれる。「大丈夫ですか」「気を付けてください」と心配の声を添えてくれて。そのあとに続く一言や二言は余計だけど、オレはさり気なく助けてくれる一織の手が好きだ。
     一織の手は躊躇しない。もしもオレが道に迷っても一織は絶対に迷わない。一織がオレに向かって手を伸ばしたとして、もしオレがその手を掴まなかったら無理やりにでも掴んで、オレの手を握って引いてくれる。そして離さないというように力いっぱい握ってくれるだろう。諦めてもいいですよ、休んでもいいですよ、なんてことは絶対に言わない。
     まだいけますよね? と挑発的にオレを引っ張り上げてくれる一織の手が好きだ。
     一織の手はきれいだ。形がきれいって意味でもあるし、ちゃんとケアしているからかすべすべしてる。私たちはアイドルですしケアはきちんとしないと駄目でしょう、ってオレの手にも甘いにおいのハンドクリームを塗ってくれる。べとべとするからあんまり好きじゃないけど、一織が塗ってくれるのは気持ちよくて、好きだ。
     爪も短く切りそろえていて、清潔感がある。三月もそうだけど、一織も白いところがほとんどない。「もうちょっと長くてもいいじゃないか?」と大和さんが一織に言っているのを見たことがあった。一織は自分の爪先をじっと見て「これがちょうどなんですよ。この長さが落ち着くんです」って答えた。同じ空間にいたオレだけが本当の意味を理解してて、一人だけ赤面していた。
     一織の手はやさしい。動物と触れ合うときはぎこちなく、でもやさしくやさしく撫でている。オレは実際にその姿を直接見たことはないけれど、頭から背中へとすうっと滑っていって、慈しむ様子がカメラ越しでも伝わってくる。小動物も気持ち良さげに目を閉じていた。撫でられている小動物と今だけは変わりたいな、なんてことを思いながら、オレは一織が出ている番組を見ていた。
     泣いている子供に接するときも、一織の手つきはやさしくて、やっぱりぎこちない。オフの日に二人でショッピングモールに出かけたとき迷子の男の子と遭遇したことがあった。オレがしゃがみこんで「どうしたの?」って話しかけたら、そばにいた一織も同じように男の子の高さに合わせてくれた。今にも零れ落ちそうな涙をぎゅっとこらえている男の子の頭を一織の手が遠慮がちにぽんぽん撫でる。そのおかげか男の子はゆっくりと口を開いてくれた。
     話を聞いたあと、たどたどしくも答えてくれた男の子に「偉いですね」と一織は慣れない手つきで頭を撫でて、続いてぼろぼろと涙を零して号泣したときは困った顔をしつつも小さな背を擦っていた。しばらくしてからオレと男の子、それから一織の順番で小さな手を繋いだ。そうして三人で迷子センターへと向かう途中でお母さんが男の子を発見してくれて、見つかった瞬間ぎゅっと繋がれた小さな手はあっさりと離れてしまった。バイバイと元気よく手を振る男の子に返す一織の手の振り方もどことなくぎこちなかった。
     帰り道、人通りの少ない道を二人で歩きながら「一織はいいお父さんになれるな」なんて呟いてしまった。迷子の男の子に接する一織の姿が頭に焼き付いていた。
     必死で目を背けていたのに理解していた現実を目にしてしまって、自ら傷口を抉って一人悲しくなったんだと思う。鼻の奥が痛くなり、じわっと目の奥も熱くなる。なんだか情けないのもあって一織の顔は見れなくて、唇を噛みしめながら燃えるような真っ赤な空を見上げた。もし万が一涙がこぼれたとしても、夕日が眩しいな、って笑うために必死に日の落ちる西の方角を見ていた。すると小指に軽い衝撃があった。何だろうと思って視線を向けてみると、一織の小指がオレの小指に絡まって、小指だけが繋がれる。指切りげんまん、約束するときのように。
    「私はあなたから離れる気も、離す気もないですけど」なんてかっこいいことを言うのだから、オレはびっくりしてしまい、涙なんて引っ込んでしまった。

     
     一織の手はやさしいが、ときどき意地悪になる。
     いやだ、って言っているのに止めてくれなくて、もっと、とねだれば逆に焦らされる。形のいい唇に腫れぼったい唇を押し当てて、すきだと正直に答えればやさしく撫でてくれて、逃げろうとしたら強く掴んで逃がしてくれない。キスをするとき、頬に触れるときの手つきはひどくやさしくて、首から下へ行けば行くほどやさしさは鳴りを潜める。骨を辿っていく指の動きは意地悪だ。何かを確かめるようにお腹をぐいっと押す時も、腰を掴みながら指先を這わせるような仕草も。
     一織以外触れることのない、他の誰かには触れさせたくもない場所に触れる時は嫌というほどやさしい。もどかしさに身をよじって、早くと、お願いと、懇願しても触れるだけの口づけであやされて、自ら足を開けば、もうっと眉を寄せて怒る。それでも一織は丁寧にオレが傷つかないように入る準備をする。理性なんて切れてしまえばいいのに、と思うこともあるけど、そのやさしさが好きだから口にはしなかった。手持無沙汰になっている、宙に浮いたままの左手が寂しくて、オレの胸をやさしく撫でてくれていた一織の右手に重ねる。すると意図を汲み取ってくれたのか、しっかりと指を絡めてくれた。それがすごく嬉しくて、頬はゆるゆる緩んでしまって、そのままふにゃりと笑いかけると、なんと繋いだままのオレの左の薬指に唇を落としてくれた。
    「いつかこの指に合うものを贈ります」って言ったあと、きゅっとさらに指を強く絡めてくれて「だいすき」とオレが言えば微笑んで唇にキスをおくってくれる。胸がくすぐったくて嬉しいのに涙が零れ、言葉が出なくなって、枕を握っていた右手を離して一織の背中に触れる。もっと好きが伝われと撫でていると、くすぐったいのか声を上げて笑って、抱きしめてくれた。
     その夜、一織と繋いだ左手が離れることはなかった。



     一織の手が好きだ。真上からも斜めからも降り注ぐライトの光が暑くて、手が汗ばんでもしっかりとマイクを握る手が好き。お腹が空いたと呟けば、仕方ないですねと言いながらもホットケーキを作ってくれる手が好き。お風呂から出て乾ききってないままの状態で一織の部屋を訪ねると、眉を潜めてなぜか常備されているタオルでやさしく髪を拭いてくれる手が好き。ライブのとき、ファンの子が掲げたうちわを目にして、ほんの一瞬だけ迷いながらも指でウサギを作ってファンサする手が好き。うっかり立ち位置間違えそうになって、手を繋いでさも演出のようにオレが立つべき場所に導く手が好き。


     これ以外にもオレの好きな一織の手はあるんだけど……ああ、でも、そうだなあ。真っ赤な顔で耳を塞ぎたいって顔してるのに、繋いでる手を離さない一織の手も大好きだよ。
    七瀬さんの手の話 七瀬さんの手はかわいい。と言いつつも私とほとんど大きさが変わらない、成人男性になりつつある手だ。勿論女性の手が持つほっそりとした手ではない。しなやかさや美しさとは無縁で、そのような手をかわいいと言うのも可笑しな話だろう。
     だが、私にとって彼の手はかわいいものだ。
     何を思ったのか唐突に、手の大きさを比べよう、と無理やり手を合わせてきた。それから何かに気が付いたようにハッと目を開いて、恥じらったように笑いながら「オレと一織の手の大きさ、一緒だな」と七瀬さんは言った。実のところ、ほんの少しだけだが七瀬さんよりも私の指が長い。比べてみて初めて七瀬さんも気が付いただろう。だけど七瀬さんはわざと気が付いてない振りをした。どうせ心の中では、一織に負けた、悔しい、なんてことを思っているのだろうなと想像してしまい、七瀬さんのかわいさににやけてしまいそうだった。こちらが必死に堪えているのに退屈なのか指をぎゅっと絡めては、にこにこと笑うので反射的に叱ってしまった。目を丸くしたあと、しゅんとする七瀬さんもかわいかった。


     七瀬さんの手は落ち着きがない。一緒にテレビを見ている時、私の手をぎゅっと握ったり離したり、恥ずかしさに自分の顔を覆ったり、控えめに袖を引いては、甘えてもいい? と私の顔を伺う。
     それからライブ前、数十分後にはステージに立って歌う寸前、楽しみだとか緊張してきたとかくるくると表情を変えるように手の動きも変わっていく。
    「一織、助けて」と何に対して助けを求めているのか、具体的なことを言わない七瀬さんにまたかと思い、手を掴み自分の方に引いてやると安心したように「ありがとう」と笑った。まるで小さな子どものように繋いだ手を振ったり感触を確かめるようにして強く握っては弱めて。それが薄暗いステージ裏で緊張をほぐすための通例だから私は七瀬さんの好きにさせている。厚い皮手袋に覆われているのでどんなに強く指を絡めても直に触れるよりずっともどかしくて、いっそこれを外して思いきり繋いでしまいたいと思ってしまう。七瀬さんも同じことを思っていたようで「……一織が足りない」とぼそっと呟かれた不満げなかわいらしい言葉を耳にしてしまい、赤みが引くまで空いてた手で自分の顔を覆う羽目となった。


     七瀬さんの手は少し荒れやすい。冬場は乾燥するからハンドクリームを塗るように、と言っても忘れてしまうのか塗らず案の定数日後には荒れてしまう。痛い思いをするくらいなら、さっさと塗ってくださいと七瀬さんに似合う甘い香りのハンドクリームを丁寧に塗り込んでいくとふにゃりと笑う。「オレ、一織に塗ってもらうの好き」ってかわいいことを言うものだから、ついでに爪のケアもしてしまった。
     七瀬さんの爪は長すぎず、短すぎずというところだ。切るのはいいが形を整えていないから彼の爪は少し歪で、おそらくこの状態ならネイル関係の仕事は絶対に来ない。少しだけ切ってやすりを使って整える。整えられていく自分の爪先を見つめながら、喜色を浮かべたかと思えば複雑そうに眉を寄せてみたり、一人顔を赤くしたりと、まるで百面相だ。
     七瀬さんが考えていることは大方予想がつく。この長さだったら、一織の背中をひっかかちゃいそうだとか、でも爪痕くらいは残したい。ああ、でもお湯が沁みちゃうからやっぱり爪立てないように気をつけないと。おそらくそんなところだろう。
     私は他のメンバーよりも肌の露出が多くはないし、そもそも慣れた人の前ですら着替えない。もし仮に爪痕が体に残っていたとしてそれを誰かに見られたところで、子猫と遊んでいたんですよ、としれっと嘘をつくくらいはしてみせる。
     だから別にひっかいても構わない。だけど潤んだ目をぎゅっと瞑って、ひっかかないようにしがみついて、指の腹を爪に見立てて強く押し付けて堪える七瀬さんの顔がかわいいから言うつもりはないけれど。

     七瀬さんの手はいじらしい。私に触れたいと伸びてきて、だけどぎゅっと握りしめて我慢している時がある。触れたい、とも触れてもいい? とも言わない七瀬さんはもどかしくもあり愛おしい。
     たしかあれは私と七瀬さんのオフが被った日だった。天気も良く洗濯物を干し終えたあとショッピングモールに出かけたい、お外デートしたいととおねだりされた。私も買いたいものがあったので了承した。お互いの部屋で過ごす時、私たち以外誰もいない二人きりの空間なら手を繋ぐことが出来るが、外で繋ぐことは私たちの職業上許されない。元気よく振って時折ぶつかってくる七瀬さんの手に、ときどき私も自分の手をぶつけてやり返す。なんてこともないじゃれ合いを繰り返していた。
     ふと楽しそうに笑っていた七瀬さんが足を止めて、それから私を置いて早足で駆けだした。どうしたんですか、と問うよりも先に涙ぐんでいる小さな男の子の前で立ち止まり、しゃがみこむ。「どうしたの?」と臆せず話しかけた。私も七瀬さんに倣い男の子と目線を合わせる。「今日は誰と来たのかな? 言えるかな?」と慣れたように聞きながら、一瞬私を見つめる。すぐに視線は男の子へと戻った。撫でて、と言われたような気がして、兄さんの手を動きを思い出しながら私は一度だけ小さな頭をぽんと撫でた。するとそれがきっかけとなったのか、男の子はぽつりぽつりと話してくれた。
     どうやら母親と買い物に来たが、気が付いたら一人ぼっちになっていた、と。典型的な迷子だった。事情を聞き終えた七瀬さんは「教えてくれてありがとうな。お兄ちゃんと一緒にお母さんを探そうな」って笑顔を浮かべて、私は無難な言葉を選び「偉いですね」ともう一度頭を撫でると思いきり泣き出してしまった。
     男の子が泣き止むのを待ってから七瀬さんは立ち上がった。「よしお兄ちゃんたちと手を繋ごう!」と迷うことなく小さな手を取ると、男の子も嬉しそうに七瀬さんの手を握る。小さな子どもと七瀬さんという組み合わせはとてもかわいらしく、そのまま見ていたかったのだが「一織は反対側な」と言われ、私も男の子に手を差し伸べた。本当に小さな手にぎゅっと掴まれて、どのくらい力を入れていいのか分からず、遠慮がちに繋ぐ。七瀬さんはどうだろう、と思っていればいつの間にか男の子と繋いで手を元気よく振って歩いていて、そのせいで男の子と繋いでいる手も激しく揺れる。手が外れないように握ることで精一杯で、方向音痴の七瀬さんが迷子センターと反対側を歩いていることに気が付くまで時間がかかってしまった。迷子センターに行きつくよりも先に男の子の母親が見つかったのだから結果的に良かったが、迷子を連れて迷子になるのもどうかと思った。
     買い物を終えて、ショッピングモールを出ると青かった空は赤へと変わっていた。来たときよりも口数が少なく、心なしか七瀬さんは落ち込んでいるようで、どうしたものか悩む。じゃれ合う程度に触れていた手は男の子と別れてから私に触れることもなく、ただただ寂しそうに揺れていた。
     なんの前触れもなく「一織はいいお父さんになりそうだな」と涙交じりの声が聞こえた。私の手を取りたい、と七瀬さんの指が近づいてくるのに触れる寸前で逃げていく。顔を上げて、夕日をじっと見つめる七瀬さんの顔は赤く染まっていた。
     馬鹿なひとだと思った。同時に愛おしいとも思った。そして私はこのひとを、何年経っても、何十年経っても離せないのだろうと実感する。
     人の目を気にせずに彼の手を取って、指を絡めて、離さないと力強く握って証明してやりたかった。だけどそれは出来なくて、代わりにこつんと小指をぶつける。驚いて反射的に逃げようとする七瀬さんの小指に自分の小指を絡める。ほんの少しの接触。逆にもどかしいけれど、おそらくこれくらいなら誰にも気づかれないだろう。
     潤んだ瞳が私の瞳を射抜く。七瀬さんの泣き顔はかわいいものだが、悲しい顔で泣かせるつもりなどない。
    「私はあなたから離れる気も、離す気もないですけど」
     七瀬さんの手を取ったときからすでに決めていたことだった。両親と兄には申し訳なく思うが、私がもうこのひと以外を選ぶことは出来ないだろう。
    「いおりのばか……」
     かわいくないことを言いながらも七瀬さんの小指は素直だった。
     




     七瀬さんの手は甘やかで、寂しがりやだ。それは昼夜問わず私が彼に触れている時にそう感じる。
     私が与えるものに溺れそうになりながら溺れないように強く枕を握りしめる指の動きも、キスをねだる際私の頬を自分の手で囲って、逃がさないというように口づける時の手の温度も、声を押さえるために自分の口に蓋をする手もすべて甘やかだ。
     快感で体中いっぱいになって、泣きながら助けてという割には七瀬さんは私に縋らない。私の手に、腕に、背中にしがみつけばいいのにそれをしない。逆に自分が主導権を握った時には積極的に私に触れて、うっとりした顔で胸に寄りかかって、オレだって一織を気持ちよくしたい、とねだるから恐ろしくもある。恋人に奉仕されるのも悪くはないが、どちらかと奉仕したい性格なので、七瀬さんが私に触れたことを何倍にも増やして返せば、とろんと溶けた目を向けながら頬を膨らませた。
     気持ちいいことが好きで唇で、舌で、両手で愛撫を受けることを好んでいるのに七瀬さんは私の手を、とくに左手を掴まえようとする。掴まえられなかったら、切なげな瞳を向けるからわざと掴まる。するとさっそく指を絡め自分の頬にすり寄せて、繋いだまま唇を落としていく。そんなかわいいことをして私の余裕の無くそうとしてるのか、ただ単にそうしたいのか、分からないが七瀬さんの仕草、行動一つ一つに煽られてしまう。
     だから今日は七瀬さんがねだってきても、指を絡めないように決めていた。七瀬さんに優しくしたいと思う気持ちと、私の手に翻弄されて泣くところが見たい気持ち。相反する感情を一度自分の中に落とし込んで、七瀬さんを抱く。もういいからはやく、と余裕のない声に流されないように、淡々と繋がるための準備をしていると、七瀬さんの左手が宙を掴んでいることに気がついた。
     いつもなら私の右手を掴んで甘えてくるのに、今日は掴むことすらしない。左手は空中で彷徨っている。私に触れるのを怖がっているのだろうか。深く繋がるまで指を絡めないつもりだったが、寂しそうな左手に私の方が我慢できなくなり触れたくなった。七瀬さんの胸を撫ででいた右手を離すよりも先に彼の手が私の右手に重なった。手の甲を指先でそっと撫ででたったそれだけの接触なのに、七瀬さんは心底嬉しそうに笑うから胸の奥が熱くなる。私は彼の手を取ってぎゅっと指を絡めた。
    「いおりっ、いおり」
     七瀬さんが私の名前を呼ぶ。もう離さないというように力強く隙間なく絡まった。
     このひとの幸せをキープし続けたい。不器用で弱い彼とともに進んでいきたい。私が彼の夢を叶えてあげたい。彼を置いていかない、彼に置いていかれたくない。隣にいて笑っていてほしい。
     いろんな想いが交差して流れ星のように降っていく。言葉にするのは難しくて、その代わりに繋いだままの彼の左の薬指に唇を寄せた。
    「いつか……この指に合うものを贈ります」
     約束と決意を言葉に表して、さらに深く指を絡める。
    「だいすき、一織……っ、だいすきっ、んあ、ふっ……ん」
     軽く唇を塞いで、すり寄せて、うっすらと開いたところから舌を差し込めば、待ち焦がれたように迎えてくれる。そのまま絡み合って、呼吸をすることも忘れてキスを続ける。
     唇を離すと七瀬さんは泣いていて、何か言いたげな顔で口を開くも言葉が出ないようだった。言葉の代わりに枕を掴んでいた右手が私の背中に回る。抱きしめたいのか、くすぐりたいのか、何か伝えたいのか。指先が背筋を撫でて、肩甲骨へと滑って、もどかしそうに肩をひっかく。何となく「だいすき」と言っているように思えてしまい、手の方が口よりも雄弁なことに声を上げて笑ってしまった。片手で抱きしめると彼の右手も私を引き寄せるように抱いた。
     次の日になり目が覚めるまで、私の右手も七瀬さんの左手も解放されることはなかった。
     



     七瀬さんの手が好きです。ステージの上で流れ星を降らせている時、声を遠くへ遠くへと飛ばそうと、前に差し出している手が好きです。二人きりになるとすぐに私の手に触れたり、喧嘩をしていても私の手を握ろうとするかわいい手が好きです。私が疲れている時、髪を撫でて、頬に触れる、さり気なく甘やかしてくれる手が好きです。私たちのファンの方にたくさんのファンサをする手が好きです。大きく手を振ったり、楽しそうに指でポーズをしたり、ときどき私を巻き込んで、私の体を引っ張って肩を組もうとする無茶な手が好きです。

     この他にも私が好きなあなたの手について、話すのもいいですけど……言っておきますが、あなたが先に始めたことですよ。あっ、ちょっと七瀬さん!! ……キスで人の口を塞ごうとするのはやめてください!
    夜の海にて
     日が落ちて青々とした空の色が赤色へと変わり、燃えるような色から淡い橙色に変わる頃、さらりとした海砂はまだ熱かった。休む間もなく真夏の直射日光によって熱されて、遮るものもない、影も出来ない場所だからどうしようもなかった。
     寒冷な国で育ったナギは夕方にもかかわらず、砂が足にかかるたび美しい顔を歪めていた。そんなナギを他のメンバーは日中よりは全然マシだからと慰めた。「真夏の海、とても危険です」とぼやきながらほんの少しだけ涙を浮かべていたナギの姿が思い浮かぶ。一人思い出して、陸はふふっと笑った。

     大きな満月が真夜中の海を照らしており、その真下では月光の道がゆらゆらと揺れていた。潮騒は昼間のものよりも静かに聞こえるような気がする。海の音も昼夜で違うものなのだろうか。疑問に思ったところで、答えてくれる者はそばにはいない。
     この砂浜に自分以外の人間はいない。小さな生き物の呼吸も感じない。だからか、ほんの少しだけ大胆な気持ちになった。
     波に攫われない場所へとサンダルを蹴り捨てた陸は砂浜に足を着けた。ひんやりとまではいかないが、夕方の撮影時に比べると涼しい。さらさらした感触を楽しみながら、砂をすくい足の甲や指に乗せては蹴り上げて海へと飛ばしてみた。小学生あたりが考えそうな単純な遊びを陸は繰り返す。振り上げるたび、蹴り上げるたび、足の甲に乗った砂の重さは消えていった。
     何度か蹴り上げてみたものの、残念ながら波に攫われる距離までは飛ばない。というよりも薄暗くて砂の行方はあまりよく見えなかった。
     遊びを止めて海面に浮かび上がった光の道に誘われるように波打ち際を歩く。歩くたび、ぱしゃぱしゃと水の跳ねる音が聞こえる。寝間着代わりのハーフパンツの裾が濡れてしまわないところで足を止めて、水の感触を楽しんだ。海水はさほど冷たくもなく、なまぬるい潮風が陸の頬を撫でた。
     穏やかな波は寄せては引いてを繰り返し、ときどき陸のふくらはぎにぶつかり、跳ね上がった飛沫が膝を濡らす。波がさあっと引く瞬間は、不思議と自分の足ごとどこかへ連れていかれそうな気分になる。
     波打ち際での撮影もあったのに、感触は変わらないはずなのに、何だかその時とはまったく違う感覚だった。
     
     一人ぼっちだからだろうか。
     
     一歩、二歩と、再び海の方へ足を進めながら考える。
     夕方にこの場で行った撮影は女性モデルを起用した新曲のMV撮影だった。物語調やダンスメインのMVを撮ってきたが、どれもIDOLiSH7がメインだ。だが今回の曲では初めて外部の女性モデルを使い、恋とは言い難いが曲に合わせて淡い想いを描いている。
     暑い夏に聞きたくなるTRIGGERの曲である『NATSU☆しようぜ!』とは全く系統の違う、年頃の男の子の恋心を取り入れた甘酸っぱい曲。好きな人をみんなの前で連れ出して、だけど触れるほどの勇気はない。一緒にいるだけで精一杯でこの想いに気づいてほしいけど、油断しないでいてほしい。
     事務所の女性陣にも好評なこの曲は、年頃のメンバーにとって少し気恥ずかしいものだ。だけど陸も他のメンバーもこの爽やかな曲を歌えば歌うほど好きになっていた。
     MVは恋焦がれたアイドルたちの表情を映し、女性モデルの顔全体は映らないような構成となった。だが女性の白くて細い指や、歌詞にもある、きゅっと結んだ赤い唇などの女性らしい部位を撮ったカットが使われる。そのためモデルの女性と二人っきりで撮ることも多く、慣れない撮影に緊張した陸は何回かリテイクを出してしまった。

    「心もっと、許されたい。でも油断しないでいて……」
     すうっと伸ばした音は潮騒が攫っていく。ついでにこの想いもどこか遠くまで連れて行ってくれたらいいのに。
     知らない国に辿り着き、砂に埋もれやがて風化すればいいのに。
     なんてどうしようもないことを願う。


     陸にとって恋とは、大きな声で自由に歌うことのように楽しいものだと思っていた。好きが通じ合って顔を見合わせるだけで幸せなものだと。
     不意打ちのように好きだと言われたあの日から今日に至るまで、そう思い込んでいた。
     恋人になって手を繋ぐまでに二週間はかかった。抱きしめられるのも抱きしめるのも、そこから三週間が経過している。
     先に進まない自分たちの恋模様はまるで中学生の恋愛だと陸は思っていた。
     もっと恋人らしいことを、と一人で焦り空回りして笑われたこともあった。私たちのペースで進みましょう、と諭され額に口づけられて真っ赤な顔で睨んだ記憶がある。
     そんな幼い恋愛でも楽しくて、幸せだった。好きの気持ちが胸の奥にあり、それを伝える相手がいることに満足を覚えていた。
     だけど、そうではないのだと気がついてしまった。好きでいることは怖い。好きが続くなんて保証はなく、ある日唐突に終わりを迎えるかもしれない。
     同じ寮で暮らし、自分たちを応援してくれるファンの子たちよりもずっと近い場所にいられて、寝顔だって知ることが出来る。おはようもおやすみも一番最初に言える彼の、一番近いところにいたとしても、この恋は間違いだったと言われたらそこで終わりだ。
     ぺたりと首に触れてみる。触れるとすぐにわかる喉仏。大人になりかけた男の首だ。続いて胸。薄っぺらくて女の子みたいにやわらかくもない。腹部はこれでも腹筋が割れているから、それなりにかたい。
     男性の自分を嫌っているわけではない。だけど、一織はどうだろうか。同じ性を持った陸のことを一織はずっと好いてくれるのか。
     同性である陸は一織に普通の幸せを与えられないのに。
     普通じゃない恋愛を今後一織はどう思うのだろうか。


     一際大きな波がぱしゃんっと音を立てて陸の膝を濡らす。すぐに引いたが、裾は肌に張り付いたままだ。
     ──戻ったら一織にバレないように着替えてベッドに入らないと。
     スマートフォンを置いてきたため、現在の時刻が分からない。ただ目も頭も冴えていて、戻ったとしてもきっともう眠れないだろう。
     月光に照らされた波の綾が繊細にゆらめいている。その上を歩き進めれば、いったいどこに辿り着くのだろうか。いつの間にかさざ波は陸の膝下で懐いた子犬のようにじゃれていた。
    「いま気づかれたい、熱視線」
     曲の最後は恋焦がれた男の子が気づいてほしい、とひそやかにまっすぐと歌い上げる陸のソロパート。どこまでも伸びる箇所だ。なのに声が詰まって、何だか情けなく聞こえてしまった。
     決して泣いているわけではない。ただ一人落ち込んでいるだけ。誰のせいでもないからこそ情けなくて、恥ずかしくて、このまま消えてしまいたかった。
     けれども海に飛び込んで泡になれるのは、一目で見て恋をして恋に敗れた人魚姫だけ。対価として声を差し出したため、王子様に真実も想いすらも伝えることが出来なかった哀れな片恋だ。それは一織と付き合っていて、幸せな環境であるはずの陸に選ぶことのできない道だ。
     陸には声があった。一織が好いてくれる歌声がある。
     だけど喉が閉じてしまっては言葉は出せない。想いを口にできない陸はいったいどこへ流れつくのだろうか。
     
     波がおいでおいで、と華奢な脚をすくう。いつの間にかハーフパンツの裾が濡れていた。べたりとひっついて気持ちが悪い。深く浸かった身体に不思議と恐怖はなかった。空を見上げれば月はちょうど真上にあり、弱い陸を見下ろしていた。
     手を伸ばす。やわらかな月光が手のひらに降り注ぐ。収めるようにぎゅっと拳を握った。
     けれどそれを掴むことは出来ない。力のない陸には美しい光を眺めることしか出来ない。
     人々が愛する美しい光を閉じ込めておく方法など存在しない。
    「一織」
     いつか失ってしまうのなら、いっそ。

     捨ててしまう方が楽だ。

     伸ばしていた手を演技かかったような仕草で下ろす。だが握っていた拳はほどけない。
     どうしてなのか考えるよりも先に、自分の名前を呼ばれたような気がする。それはだんだんと、確実に陸の方へと近づいてきた。
    「七瀬さん!!」
     後ろから聞こえてきた怒号にびくりと肩が跳ね上がった。
     ああ、どうしていつも一番先に気づいてしまうんだろうか。
     振り返るべきかそれとも振り返らずにどこかに逃げ出すか。迷って、もうどこにも逃げ場がないことを思い出す。波を打ち消すようにばしゃばしゃと乱暴な水音が近づき、思いきり腕を引かれた。大きく海水が跳ね上がり、飛沫が頬へとかかる。口の中に海水が入り塩辛い。
     陸を海から遠ざけるように一織は強い力で乾いた砂浜へと連れ戻した。
    「あなた、何考えているんですか!!」
    「一織……」
    「……っ、泣いてるんですか、どうして」
     怒気を含んだ一織の声は狼狽えたものへと変わる。頬に触れるよりも先に一織の指が目尻をそっと撫でた。頬を触る代わりに一織の手へと重ね、初めて自分が泣いていたことを理解する。
    「あのね、一織、聞いて」
    「はい」
    「オレね、男なんだよ」
     すぐ隣から怒気がこもるのを感じた陸は「逃げないから離して」と一織の手を剥がし、勢いよく服を脱ぎ捨てた。濡れた肌が湿った海風に撫でられて、肌寒い。
     何を、と目を丸くして驚く一織の手を掴んで自分の胸へと導き、自分の涙で濡れた手のひらを押し付けさせて、口を開く。
    「オレ、男なんだよ……」
     一度だって女の子になりたいと思ったことはない。一織が好きだと自覚してた時もだ。
     だけど今日一織と女性モデルの指が触れそうになった瞬間、頭を何か固いもので思いきり殴られたように思い知らされた。
     抱きしめていたわけではない。キスをしていたわけでもない。だか一織ときれいでかわいい女性モデルの指が接触しそうになっただけで、恋に浮かれていた陸の熱を冷ましたのだ。
    「男の身体で一織は興奮できるの? 柔らかくもないし、胸もない」
     キスもまだしていない自分たちは本当に恋人なのだろうかと疑った。顔を見合わせて照れたように笑った一織と彼女こそ本物じゃないのだろか、と。
     不安は種という形を成して、喉から溢れ出す。そこに嫉妬が混ざって、さらに醜いものへと変わった。陸が制御出来ないほど大きく育ち、それは陸の心すらも蝕んだ。
     
     これがとてつもなくみっともない感情だったから、一人で夜の海へと捨てに来たのだ。
     
    「本当にオレでいいの……っ、あ……んんんんっ……」
     問いかけは噛み付くようなキスで塞がれた。
     勢いよく腕を引っ張られて、予測していなかった陸の身体は一織の身体ごと砂浜に沈み込む。二人分の重さを受け止めた砂は舞い上がり、ぱらぱらとぬるい雨のように降ってくる。一織の身体に乗り上げていることに気がつき、慌てて起き上がろうとするよりも先に一織の唇が陸の薄い胸に触れた。陸によって胸に押し付けられていた一織の手のひらは円を描くようにするりと胸の周りを撫でて、腕を掴んでいた手は逃がさないというように腰へと回っている。心臓がある箇所を強く吸い付かれて、ちりっとした痛みに陸は声を上げた。
    「知ってますか? 七瀬さん。私も男なので」
    「えっ、あ!?」
     強く抱きしめられてさらに密着した下肢に押し当てるように触れた熱に陸は顔を赤くする。
     理性的でストイックな年下の男が見せた欲は想像よりも熱い。教えるように腰を揺されて、隔てていても擦れ合う感触がひどく気持ちがよかった。
    「な、なんで」
    「好きな人の裸見て何も思わないわけないでしょ!」
    「あうっ! んんっ、やあっ……ちょっ、いおりぃ」
     苛立ったように突起を摘まれて、涙が零れた。人の気も知らないで、と何かを呟いているが、もうそれどころではない。一織に見つけられたことによりすでに許容範囲を超えているのに、一織は陸の身体に触れ続けている。何が何だか分からない。だけど強く欲を主張する昂りが、同じ性を持つ陸にそれが真実であることを伝えていた。
     薄い胸に次々と小さな熱を与えられ、飲まれそうな快楽にもがいても指先は砂をかくだけ。その間にも熱い手のひらが陸の身体を撫でる。さらりとした乾いた砂は溺れる陸を受け止めることも出来ず、初めて一織に教えられた快感を、与えられる熱を、未熟な身体はどう逃がせばいいのか知らない。
     けれども力強い手は陸を引き上げる。逃げるなというように。
     離さないというように、指を絡めて。
    「いおり……ねえ、ちょっと待って」
    「なんですか」
     冷静なように見えた一織も頬がうっすらと赤らんでいる。胸を破り飛び出しそうになる心臓を押さえながらきゅっと結んだ唇を開き、陸は大きく息を吸った。
    「オレで、いいの」なんて一織の状態を知った今もう聞けるはずもなく。その代わり口にしたのは、今まで言えなかったお願いだった。
    「オレでいいならもう一度、唇に……キスをして」
    「……ああっ、もう!」
     身体がふわりと浮き上がったかと思うと、身体が起き上がった。陸の身体は一織にまたがったまま向かい合い、両手で頬を挟まれる。妙に熱くて、じりじりと火照るどころではない。
     一織の熱視線で焼けてしまいそうだった。冷静な瞳の奥に欲がはっきりと浮かび上がり、一織もまた男であることを知る。
    「あまり、かわいいこと言わないでください」
    「一織……っ、んんふっ」
     初めての触れた一織の唇は少しだけ砂がついていたせいか、ざらざらとしていて、それから塩辛かった。
    七瀬陸は幸せな夢を見るか。 ぱちりと目を開けるとすぐそばにうつくしい黒髪があった。顔を横に向ければ、そこには先ほどまで一緒にいた相方の姿。目を閉じている一織は年相応で可愛らしく見える。疲れてしまったのか、机の上に顔を伏せて眠っていた。
    (一織……)
     眉間に皺が寄っている。伸ばしてやろうと思って手を伸ばした陸は途中でぎゅっと手を握った。
     一織には触れられない。触れてはいけないのだ。

     ──だってオレは一織に振られたから。

     さらりと頬に滑り落ちた黒髪を撫でたい衝動に駆られる。開いた窓からは秋のにおいがする風が入って、さらさらときれいな一織の髪を揺らす。くすぐったいのか、小さな唇が少しだけ綻んでいた。
     触りたいなあ、と思う。けれども一織に触ってはいけないのだと陸は思う。この身体はゆらゆらと揺れる黒髪を見てうずうずとする。一織、と名前を呼ぶとどこからともなく「にゃあ」と猫の鳴き声が聞こえた。

     ──一織、いおり。

     そのたびににゃあにゃあと猫が鳴く。何故か陸は猫の姿になっていた。一織の肩にのって背中を蹴り上げて窓枠に飛び移る。汚れ一つも見当たらない綺麗なガラス窓に映るのは小さな赤毛の猫。アーモンド形の瞳。明るいところだからか、本で読んだ通り自分の瞳孔は細くなっている。長い尻尾をぴんと立て、前足を蹴り上げた陸は一織の机に飛び乗った。
     ゆらりと尻尾を揺らせば一織の頬にぺちりと当たってしまう。しまった、と思ったが今は勝手の違う猫の身体だ。わざとではないから許してほしい。今度は反対側に揺らしたらこれまた尻尾で一織の頬をぶってしまった。
     ──ごめん、一織。
     言葉はすべて猫語に変換されてしまう。にゃあと鳴いたところで一織には伝わらない。せめてそれなら仕草でと思ったが一織は目を覚まさない。
     ──夢だからって何でも都合がいいわけじゃないんだな。
     どうせならば幸せな夢を見させてくれたらいいのに、と陸は思う。猫になったのはいいが、一織が目覚めていて「かわいい……! しかしどこから入ってきたんですかね。七瀬さんが帰ってくるまでには帰っていただかないと」とか何とか言いながら、猫の陸をたくさん撫でてくれたらいいのに。一生分くらい可愛がってくれたら、多分陸も満足した気持ちで夢から目覚められるのに、と思う。
     ──一織、すき。だいすき。
     一織は目を覚ますことも猫の陸を見て相好を崩すこともないし、撫でることもない。言葉はすべて猫語になってしまって、想いは伝わらない。だったらもう、この幸せになり切れない夢の中では、一織への想いをすべて口にしてしまおうと思った。
     ──お前に愛されるのなら歌うこともできない猫になりたいくらい、好きだよ。もしこのままオレが猫のままだったらきっと一織に飼われて、多分お風呂は嫌いだろうだからシャワーが背中にかかるたびうにゃうにゃ暴れて、不貞腐れたまま撫でられてあやされて、そういう暮らしも多分悪くないと思う。
     開いた口から零れるのはたくさんのにゃあ、という鳴き声。どことなく心細さや切なさを含んでいる。
     ──でも本当はね。一織が好きな、七瀬陸でいたい。終わりがくるまで一織の隣で歌っていたいよ。
     ──好きだって、言わないから。そばにいて、ずっと隣で見てて。
     にゃあにゃあと自分の鳴き声だけが返ってくる。嘘だと思った。
     本当は一織にも陸と同じくらいそれ以上に好きでいてほしいし、好きだって言いたい。付き合うとか付き合えないではなくて、陸にとっての一番は一織で。陸は一織にとっての一番星になりたい。そんな欲深い自分が嫌になる。だけど、この幸せになりきれなかった夢で嘘をついて、物わかりのいい自分を演じて、それは一体何になるのだろうか。
     ──一織、大好きだよ。
     最後の言葉だけ、にゃあじゃなく本来の自分の声で聞こえた。
     眠くなってふわあと大きなあくびをした。涙は零れず、うとうととした猫の陸は一織の腕に寄り添って身体を丸める。ようやく本当に眠れるような気がした。
    七瀬陸は幸せな今を見る。 鼻先にひらひらと何かくすぐったいものが舞い降りた。くしゅんとくしゃみをして目を開けると、そこには小さな薄桃色の花弁。やわらかな風は春を連れ、未だうとうととする陸の元へと届ける。
     ──くすぐったい。
     鼻先だけではなく、何かが陸の剝き出しの背中を撫でている。初めはぎこちなかったのに最近は慣れたのか気持ちいいところを撫でて、時には焦らしては陸を泣かせる意地の悪い、でもやさしい手を陸は知っていた。
     ──ん、気持ちいい。
     もっと、とねだるつもりで頭を擦り付ければ、上の方から隠し切れなかった小さな笑い声が聞こえてくる。それは涼しげで、きれいでとてもやさしくて、おそらく自分が猫であれば三角の耳が左右に揺れていただろう。涼しげな彼の声は次第にあまさを帯びて、陸の名前を呼ぶ。
     ──起きてるときも、そういう風に呼んでくれたらいいのに。
     彼が陸を呼ぶ声には半分が呆れと心配と驚きの感情でそこから差し引きした三分の一、いや四分の一に恋人らしい声だ。抱き合って隙間がないくらいに体中をくっつけて、彼の手と唇でとろとろに溶かされて、もうわけがわからないほどに愛されているときに、あまさを煮詰めた声で名前を呼ぶから本当にずるいと思う。愛されている自信があるけれども、愛されたら愛されるだけもっと欲しくなる。そんな自分を欲深いと思う。でも、今は欲深い自分が嫌になることはない。
     あの日一織に振られてよかったと、今なら思える。にがくて、くるしくて、昇華させようとした想いはすでに制御できなくて、彼に愛されたいと望む夢を見た。嘘ばかりついた物わかりのいい自分を、最初から諦めていた自分を捨てた。
     そうして現在一織に愛される幸せな今を陸は見て、触れて、一織と同じ時間を過ごしている。
     ──ねえ、一織。だいすき。
     そんな思いを込めて陸は一言だけにゃあ、と鳴いた。
    いちごのパンケーキにバニラアイスクリームを添えながら「一織、浮気してるだろ?」
     ごろっとしたいちごの果肉が入った甘酸っぱいクリームは、バニラアイスのてっぺんからとろりと流れ出している。焦げ目のないきれいなきつね色のパンケーキをナイフで一口分に切り分けた。切り口にソースをたっぷりつけて、きょとんと珍しく幼げな表情を浮かべた一織にフォークごと突き付ける。
     頬にかかった黒髪を耳にかけて、一織は目を閉じてそれを口に入れた。開いた口からすっとフォークを引く。一織が咀嚼している間に一口分を刺して、何もつけずに自分の口に運んだ。
    「オレ昨日洗濯したんだけど」
    「ありがとうございます」
    「どういたしまして。……洗う前におまえのシャツに長い毛がついてたのに気が付いたんだ。ああ、見覚えあるなって」
     口の端に付いたソースを舐め取る。甘酸っぱさに唇が緩み、慌てて引き締めた。
    「それで?」
    「問い詰めてるのに、冷静な顔するなよ! もっと神妙な顔しろ!!」
    「…………はい」
    「っ、この間のドラマのシーンみたいなじゃなくて、もっと」
    「陸さん、私のシャツを触ったとき苦しくなったり、発作が起きたりはしませんでしたか?」
    「え? あ、うん。それは全然大丈夫だったよ。ありがとう一織……じゃなくて──」
     昔演じた名探偵のように目を眇めて、陸は握っていたフォークを斜め上に指した。一織に向けることはせず、先端は宙を向いている。
    「これって完全に浮気だろ」
    「っ、そうですね」
     口元を押さえて一織は目を背ける。動揺か、と思いきや肩が震えている。
    「かわいい人だな」
    「今それ言うところだった!?」
     追いつめられた男が言う台詞ではないだろう。頬を膨らませてじいっと一織を睨むと、精悍な顔立ちはわずかに綻び、愛しげに瞳を細める。
    「仮に私が浮気したとしても、私が愛しているのは貴方だけですよ」
    「っ!! 安売りしてる愛してるの言葉なんて──」
    「いらないんですか?」
    「もー! いらないっては言ってない!」
     陸が一織のことをどれだけ好きなのか知っているからこそ、一織は真っ直ぐと愛を囁く。今日は誤魔化されないぞ、とすでに揺らいだ心臓を強く押さえて、陸は直球に言い放った。
    「一織はオレだけ可愛がればいい!」
     すでに溶けだしたアイスクリームをスプーンで掬い、一織の前に突き出した。窪みからとろりと零れ落ちるクリームを一織の舌が上手く受け止める。何故かむずりとしてしまい、陸は思わず一織から視線を逸らした。
    「それではにゃあ、と鳴いてくれますか」
    「にゃ、にゃあ……今なら猫耳も尻尾もつけてやるにゃ!!」
    「買います。勿論返品もしませんし、やっぱり恥ずかしくて出来ません、なんてことは言いませんよね?」
    「い、言わないよ」
     先ほどまでは主導権を握っていたのは陸のはずだった。なのに、何故一織が得する方向へと話が向かっているのだろうか。
    (浮気している一織を問い詰めて……一織にわがままを聞いてもらうつもりだったのに!)
     皿と一体化したアイスクリームをスプーンに掬ってせっせと口に運ぶ。いちごみるくに変化した溶けても美味しいそれを舐めていると、一織が隣に移動していた。
    「い、一織……?」
    「名誉棄損という言葉はご存じですか?」
    「し、知ってるよ」
     端的に言えば、他人に対して社会的評価を害するおそれのある状態を生じさせる行為だ。例えばIDOLiSH7の和泉一織が浮気している、と根も葉もない噂を流した場合、真実がどうであれ一織の社会的評価を害するおそれがある。この場はカフェではあるが完全な個室であり、陸と一織の会話は第三者に聞かれていないはず。構成要件の一つである『公然と』については適応されないだろう。
     しかし唐突に名誉棄損を口にした一織に陸は警戒度を上げていく。嫌な予感がするどころではない。確実に陸が望まぬ結果になりそうだ。
    「一織が浮気してたのは真実だし、名誉棄損にならないだろ」
    「私は番組の猫さんと共演しただけです。そしてこの話を他の人が聞いたとき私の行動は浮気と思うでしょうか?」
     にこやかに問いかけてくる一織に、陸は握っていたスプーンを置いて両手を上げた。
    「自首します」
    「それでは私も告訴を取り消します」
     ──その代わり今日一日私の言うことを必ず聞いてくださいね。
     直接耳に吹き込まれた声が、やけに艶めいていたのは気のせいではないはずだ。ぎゅっと掴まれた手は一織らしかぬ熱を帯びていた。
     原型を崩したバニラアイスクリームがいちごソースと混ざり合い、薄いピンクに色を変えるように肌と肌を重ね合わせては、とろけだして、混ざり合って。指と唇とあまやかな眼差しと、一織の熱で身体中を赤く染め上げられる想像をして陸は一人百面相を浮かべた。
    「何想像してるんですか?」
    「してないっ!」
    貪欲な怪物の瞳の色は 七瀬陸は生まれながらにして愛される天才だった。人からたくさんの愛を受け取って、それらすべて彼は笑顔で返した。
     大きな瞳には輝きを灯し、やわらかな頬は赤く色づく。両親や兄の裾や袖を小さな手でぎゅっと控えめに握れば、すぐに彼らは陸に向き直った。
     勿論彼を愛したのは家族だけではない。
     小さい身体に持病を抱えた子どもは幼いころから白い病室に馴染んでいた。親元から引き離される生活をしていたが、我が儘や寂しさを直接訴えることはなかった。ただ時折窓の外を眺めては、聞こえるか聞こえない程度のため息をついたものだった。
     小さな子どもには似つかわしくない憂いに気が付いた看護師はそっと胸を痛めた。
     他の子のように走り回ったり、遊んだり出来ない子どもに医者は下唇を噛んだ。



     それは偶然だった。決して陸が狙ったわけでも、まして一織が狙ったわけでもなかった。
     ダブル主演のドラマの撮影が終わり、二人で反省会をしていたときだった。
     陸の部屋のテーブルの上には二つのマグカップ。先ほどまでそこからは白い湯気がゆらゆらと立ち昇り「火傷しないように」と付け加えた一織の言葉とともに置かれた。
    「もー! すぐ子ども扱いするんだから」
    「子ども扱いではないでしょ」
     人間一人分の間を開けて隣に座り、ホットミルクにふうふうと息を吹きかけていた。白い膜が端にずれて、湯気も見えなくなったから大丈夫だと陸は思った。陶器に唇をつけ少し傾けると甘いホットミルクは陸の舌を軽く焼いた。
    「っ、あうっ」
    「フラグ回収早すぎませんか」
     と何だかんだ言いながらも、目を瞑ったまま悶絶する陸の手からマグカップを外しテーブルに戻す。陸の前に向き直って、呆れた顔をしつつもやさしい声で名前を呼んだ。
    「見せてください」
    「ふぁい……」
     目を開いてべっと舌を出した瞬間真顔だった一織の表情が変わった。灰の瞳の奥にどろりとしたものが揺らいだ。
    (あ……)
     幹部を見るはずだったのに、一織の視線は陸の瞳に注がれていた。
     見えない糸で絡め取られたように、逸らすこともできず閉じることも敵わない。瞬きすらせず、移り込んだ赤が灰を被った熾火のようにゆらゆらと揺れている。そこにどのような感情が込められているのか、陸は知っていた。
     あれは欲、だ。
     願い、希求、そして確信。
     確実に言えるのは、今ならば一織が手に入るということ。 
     どく、どく、と内側から心臓の音が響く。ひりひりとした痛みはすでに忘れていた。瞬間的に高ぶり陸の心を無視して瞳が潤んだ。いつの間にか結んでいた唇が綻んで、中途半端な息が漏れる。それがやけに艶めいていたように聞こえたのは、きっと気のせいではなかった。
    (ろく、なな、はち……)
     八回目の音をカウントして、それでも視線はまだ逸らされない。
     羞恥と期待で膜を張った瞳から一滴、雫が零れ落ちた。心臓は内側でひとり激しく暴れていた。
    (一織が欲しい)
     きれいで、やさしい一番星を自分の手のひらに閉じ込めてしまいたい。あれはオレのだよ、と主張して他の誰にも奪われないように。
     小さな唇が震えた。泣きだしそうなのを今にも堪えているようだった。一度だけ見たことのある、弱い一織の姿に胸が高鳴る。
    (一織、いおり……)
     朧げな視界なのに一織もまた陸と同じ顔をしているのだとわかっていた。
     陸と同じ気持ちであることを知っていた。
    (かみさま、どうか)

     一織をオレにください。
     例え一織の心がオレになくても、和泉一織という人間をオレの傍に置いて。





     透明な硝子匣と真っ白いベッド。陸と向かい合うように座り双子の兄は言った。
     陸。キミは愛される天才だと。キミが欲しがれば大抵のものは手に入る。
     みんなが一番望んでいる健康的な身体は、難しいけど。と兄はそこで一度言葉を切った。
     だから他者には本気で望んではいけない、のだと。
     本当に欲しいものが手に入っても、きっとキミの心は満たされない。
     苦しい思いをするのは陸だよ。だからね────

     無意識に欲しがってはいけない。
     



     兄の忠告を覚えていても、意味を理解していても陸は欲に逆らえなかった。
     赤い瞳は燃え盛る炎のように激しく揺れている。

     言葉なく唇が触れる寸前、弧を描いた。
     いったいそれはどちらのものだったのか、あまい感触に酔いしれる陸にはわからないことだった。
    無神論者の偽りの献身 和泉一織は生まれた時からなんでも出来た。勉強もスポーツもそつなくこなして、整った見た目も相まって周りからは賞賛と羨望、好奇、そして嫉妬を向けられた。
     なんでも出来るからこそ、熱中するものには巡り合えない。何かに執着することも出来ない。ささやかなところではかわいいものを好む、くらいだろうか。
     だからこそアイドルになるという夢をがむしゃらに追う兄が唯一の一織の夢であった。
     だが十七歳の一織がIDOLiSH7に、七瀬陸に出逢ってしまうことで夢は大きく変化した。いや変化ではない、夢はとてつもなく大きく膨らんだのだ。
     ──IDOLiSH7というグループを、その実力を世界中に知らせたい。

     七瀬陸の歌を世界中に響かせたい。

     涼しげな顔の裏側で一織は大きな野望を抱いている。
     いつしか、願いとは別の欲望を抱いてしまった。


     七瀬陸は一織が攻略出来ない相手だ。元気づけようと声を掛ければ機嫌を損ねてしまい、揶揄ってみれば何故か喜ぶという、不可解な年上の人だった。
     陸の秘密に一番最初に気が付き、じっと彼を見つめて行けば行くほど、ひた向きで純粋な人間だと知った。
     触れてみれば驚くほど無垢で、警戒心のない子どものような人だとわかった。
     子どものような彼だからこそ、好意を抱いている人間は多い。むしろ九割以上が好意だろう。七瀬陸と関わった人間は全て彼の魅力に取り憑かれられる。好意を抱いた人間が善人であれば問題ないが、月雲了のような人間性に一癖も二癖もある相手だと苦労が絶えない。そして当の本人に自覚がないので一織たちの苦労は二倍となる。
     ならばいっそ自分の手に収めてしまえばいいのではないか、と一織は考えた。
     クールで素っ気ないように見えて、実のところ世話焼き。密かにかわいいものが好きな一織にとって、七瀬陸は好みのタイプだった。あまり認めたくはないものだが、認めなくては先に進まない。
     続けて一織が考えたことは、どうすればあの人を手に入れることが出来るか、だ。

     信頼は充分に得ている。隣で接する場面が多いこともあり、好意を抱かれていることもわかっている。
     それだけではなくおそらく陸は無意識だろうが、時折あの瞳で一織を見つめていることがあるのだ。
     無垢な色なのに、欲しいと言わんばかりの瞳で一織を見る。物欲しそうな顔をしている陸に気が付くと、一織もまた彼の感情に引っ張られ、ひどく喉が渇いてしまう。そして愉悦を抱く。
    (私を見て、七瀬さん)


     
     欲望は一織が想像していた予定よりもずっと早くに訪れた。
     別に狙ったわけではない。ただいつも通り二人っきりで過ごしていただけだった。
     ともに過ごす時間は十五分だけ。陸がリラックスできるように、蜂蜜入りのホットミルクを淹れて少し距離を空けて隣に座った。
     マグカップを喜んで受け取り「火傷しないように」と毎回口にしてしまう言葉に「もー! いつも子供扱いして」と返すのも同じだ。
     頬をほんのりと赤らめてふうふうと息を吹きかける陸に一織は口元を緩めた。唇をつけて傾けた瞬間、陸の身体は固まった。
    「っ、あうっ」
    「……フラグ回収早すぎませんか」
     呆れつつもすぐに陸の手からマグカップを回収して、机に戻す。ぎゅっと強く目を閉じた陸に、そんなに辛いのかと心配を抱いた一織は彼の肩に手を置いた。
    「見せてください」
    「ふぁい……」
     べっと舌が差し伸ばされた瞬間、目が開いた。
     たいそう間抜けな姿なのに、背筋にぞくりとした何かが走る。幹部を見なければいけないと思うのに、一織の視線は陸の瞳へと惹きつけられた。
     どろりと澱が浮かび上がる。そしてその奥に隠されていたのは、歓喜だった。
     一織から視線が外せないことに気が付いていた。
     赤い瞳が揺れる。切なく、しかし燃え盛る炎のようでいて、そこに透明の膜が被さるとさらに彼の瞳は煌めく。
     綺麗なものの裏側にあるのは欲だ。
     懇願、要求、そして不安。
     ごくりと喉を鳴らした。今なら確実に、七瀬陸を手に入れることができる。そうしてそれはみんなの七瀬陸ではない。一織だけの、ものだ。
     見つめ合ってから数秒が経っていた。
     定かかどうかは知らないが八.二秒。見つめ合うことができれば一目惚れと勘違いするらしい。
    (七、八……七瀬さんも逸らさないな)
     すでに八秒以上経ってなお、視線は外れない。見つめ合えれば一目惚れしたのだというものの、一織の一目惚れは歌声を耳にした瞬間なのだから、大した意味はなかった。いや一目惚れという言葉では足りない。あの瞬間右手で心臓を掴まれたのだ。
     きゅっと結ばれた唇がほどけて、甘い吐息が漏れた。赤い瞳からぽろっと雫が落ちて、細められた瞳に一織は切ない気持ちになった。
    (ああ、だめだ)
     もっと泣かせてしまいたい。
     泣かせて、あまやかして、一織無しでは生きられないように心ごと縛り付けたい。
     彼の中の一番を上から一織一色でで塗り替えたい。
     心を乱すのも、心を落ち着かせるのも、心を騒がせるものもすべて自分であって欲しい。

     自分の内側で眠っていた醜い欲望を一織は自覚していた。鏡に映し出されたように灰色の瞳が潤む。
    (今なら確実に手に入る)

     
     神というものを一織は信じない。なんでもそつなくこなせる一織には偶像に願う必要がなかったから。望まなくても大抵のことは手に入った。兄とは少し拗れてしまうこともあったが、それは兄弟の縁が切れるものではない。
     
     一織にとっての神様は七瀬陸だった。
     七瀬陸が望んでいるのなら、その身を差し出してもいい。
     彼の本当の望みを叶えられるのも、一織しかいないのだから。


     言葉はなかった。確かめる必要がなかったからだ。
     縋りついたように絡まった手を強く握って、一織は目を閉じた。
     小さな唇に歪な弧を描いて。望まれるように、望むように唇を擦り合わせて甘い呼吸すら奪った。
    食と性 七瀬陸は誰かの食事風景を見ることが好きだ。それは観察ではなく、監視でもない。味についての評価を聞きたいのでもなく、ただ食べている姿を見たいだけ。最初から美味しそうににこにこと食べているのも、クールな料理が口へ運ばれてささやかに唇がほころぶのも、好きだ。かと言って、人間の食事風景ならなんだっていいわけではない。ドラマやグルメ番組には全く興味を示さない。
     自分の知り合い以上で自分が好きだと思えた人間の食事をしている姿に限定される。
     この不思議な趣味は幼少期、病院生活が長かったことに関係する。栄養価をきっちりと計算された病院食ばかりを陸は小さな頃から食べてきた。
     味が薄かったり、配膳の都合で冷めてしまう、大人でも嫌っていた病院食を陸は体調が許す限りしっかりと感触していた。例え家族が帰って静かな病室だとしても残すことはしない。幼い陸は理解していなかったが食材への感謝、作ってくれた人、そこに関わった人への尊敬の念を抱いていた。
     一人での食事が多かった陸にとって、食事はコミュニケーションの場でもあった。例え自分が制限で食べられなくとも親しい人が幸せそうに食べている姿を見て、またその場にいることで目に見えない人の輪に入れることができた。敬愛する兄は陸が食べられないのに自分だけが美味しいものを食べるわけにはいかないと、『食べない』選択肢を選ぶことが多々あったが、陸の本音は食べてほしいだったのだ。かと言ってにっこりと笑い「天にぃは食べてて」などと伝えると意志の強い大きな目がぐにゃりと歪むので、それ以上は言えなかった。
     そのため寮暮らしと変わって、家族以外と食卓を囲む時間は幸福だった。他人からすればささやかな幸せだと口にするのだろう。陸にとって、誰かとの食事は『普通』というみなと同じスタートラインに立てることでもあった。

     営業中の暖簾をくぐり二人は店内に足を踏み入れる。お世辞にも綺麗とは言えないラーメン屋の内装を一織は複雑げに、陸は興味津々というように見回していた。カウンター席は七席、テーブル席は三つ。本棚には中華料理をテーマにした漫画や週刊誌がばらばらと並んでいる。黄ばみや禿げた表紙を見る限り状態は良くない。かなり前のものなのだろう。いかにもラーメン屋のテンプレートのような店だった。
     店主であろう中年はカウンターで新聞紙に目を通している。眉根を寄せた一織が陸の手を取る前に陸は無邪気な様子で声をかけた。
    「テーブル席いいですか」
    「どうぞ」
     店の奥のテーブル席へ向かった陸に一織も仕方なく向かう。椅子を引き腰掛けた後、一織は陸の方へ顔を寄せた。
    「大丈夫ですか?」
    「うん? 平気だよ」
     店内は古びているせいで綺麗に見えないが、掃除は行き届いているようだ。つう、とテーブルに指を滑らせて指先を確認、窓のサッシを観察してからようやく一織は対面側の席に腰を下ろした。
    「見て見て、メニュー壁に貼ってる! 珍しい」
    「チェーン店ではないですからね」
    「一織何食べる? オレは醤油ラーメンかな」
    「私も同じもので」
     決まったところで陸が声を上げて店主を呼ぶ。億劫そうに顔を上げた店主は食べたいものを言えと口にした。客商売なのにその態度はどうなんだ、と一織は再び眉根を寄せたが陸は変わらずにこにこしていた。
    「醤油ラーメン二つと、からあげと餃子もお願いします」
     あいよ、とこれまたらしい返事が返ってくる。店主の背中が厨房へ消えたのを見計らって一織は陸に耳打ちした。
    「……あなた一人で食べきれないこと分かっていますよね?」
    「うん? 一織も食べるだろ」
    「まあ、いただきますけど……後出しはやめてください。」
    「だって一織一時期ラーメン屋行くの付き合ってくれなかったし、久しぶりだなと思ったら我慢できなかったんだよ」
     比較的スケジュールが合う一織とご飯を食べに行くことは多い。だがグループ全員のドラマの撮影時辺りから一織はラーメン屋を避けるようになった。一緒に行くとしてもパスタやオムライスといった洋食やいわゆるカフェご飯が多く、陸ががっつりと食べたくなるのも仕方ないことだ。
    「それなら四葉さんと行けばよかったでしょ」
    「環と? そうなんだけど、そうじゃないんだよな」
     一織って意外と鈍感だよなあと陸は思った。自分たちの関係を考えれば答えは自然に出てくるはずだ。それなのに目の前の恋人は、何が言いたいんだ、と怪しむ顔をしている。
    「環の食べっぷりもさ、見てて気持ちいいんだけど」
    「ああ……私は逆に胃が気持ち悪くなりますね」
     同じ年代の男性と比べると陸はあまり量を食べられない。病気がちで適切な量だけ食べていたことが影響している。一織はそこそこ食べられる方だがそれでも環と比べると少ない。
    「一織とシェアして食べるとちょうどなのがいいよね」
    「確かにそうですね」
     何気ない雑談で盛り上がっているタイミングで料理が運ばれた。
     強面の店主は並々とスープの入ったラーメンどんぶりを二人の前に置く。白い湯気が立ち昇る久々のラーメンに顔をほころばせている間にからあげと餃子がテーブルの真ん中に置かれた。さりげなく小皿を置いていくところは気が利いている。
     一織と陸がお礼を口にすると店主の目尻には細かな皺が寄り、口元がほんの少しだけ上がった。
    「美味しそう!!」
    「冷めないうちに頂きましょうか」
     きれいに割った割り箸を一織は陸へと渡す。彼の手から繋がったままのそれを受け取って、半分にこれまた綺麗に割ると面白くないような視線を向けられた。
    「いただきます」
    「むう、いただきます」
     青々としたネギに煮卵、薄めのチャーシュー。メンマが数個だけ添えられどこにでもありそうなラーメンだ。それでも陸は目を輝かせてレンゲを掴み、スープをすくったあと、ふうふうと息を吹きかけてから口へと運ぶ。
    「はあ……おいしい」
     ふにゃりと笑ったあと下唇に垂れた汁を舌で舐めとる。行儀が悪い、と一織に窘められてぺろりと舌を出した。スープの油で唇がつやつやとしている。興奮か、それとも食事をしているからか。頬には鮮やかな赤みが差す。
     幼い表情なのに艶めかしい陸に一織は喉を鳴らした。
    「一織、食べないの?」
    「……いただきます」
     こてんと小首を傾げての幼い仕草も、無邪気や無垢という言葉も彼のために存在しているのだろう。視線を落とし一織はちぢれ麵を割り箸で掴んだ。
     空調の風でなびく黒髪を鬱陶しげに耳へとかけ、一織は湯気立つラーメンに息を吹きかけた。小さな唇が少し尖って、しばらくしてゆっくりと開く。麺をすする、ではなくて吸う。汁を飛ばさず上品に口へと運び、しばらくしたあと一織の喉仏が大きく揺れた。
    「……美味しいですね」
    「ね、おいしいよね」
     陸の箸は斜め前の餃子へと伸びる。そういえばニンニク抜きとか抜きではないとか、そういうことを一切話していなかった。思い出した一織は慌てて陸の手を止めた。
    「それニンニク入りでは……」
    「入ってないとおいしさ半減だよ?」
    「そういうことではなくて」
    「オレ一織とならニンニク入り食べてもちゅーできるよ?」
     そうだけどそうではない。喜んでいいのか、お説教すべきか悩んでいるうちに焼きたての餃子は陸の口へと運ばれる。
     外側のかりっとした食感と包んだ箇所のもちもちとした柔らかさ。前歯で噛んだ瞬間に小さな湯気とともにじゅわっと肉汁が垂れて、紙ナプキンで拭ったばかりの唇を汚す。白菜の甘みとにんにくのアクセントに陸は咀嚼しながらにこにこと笑顔を浮かべた。
    「おいひぃ~」
    「食べながらしゃべらないで」
    「んんんんっ……っはあ、ほら一織も食べよ」
     たれをつけた餃子を唇に押し付けられて、一織はしぶしぶと口を開いた。最初は遠慮がちに、しかし一口齧ると大きく開いたので残りを陸は放り込み、もう一つへと箸を延ばす。焼き面ではなく、上部に今度はタレをつけて自分の口に入れる。
    「んんっ……。ふわあっ、タレつけてもおいしい」
    「ちょっと」
    「なあに?」
     こてんとまたもや陸は小首を傾げる。まるで小動物のようなかわいさなのに、食べ方や言葉一つ一つが卑猥に思うのは気のせいだろうか。
    「いえ……なんでもないです」
    「一織食べないと伸びちゃうよ」
     あまり深く考えないでいようと切り替えて一織は食べることに集中した。


     髪を耳にかけ、ラーメンをすくうたび小さな唇でふうふうと息をかける。熱いものを食べていること、食事をすることで体温は上がる。一織の白い肌はうっすらと赤みを帯び、額はじんわりと汗ばんでいた。
    (やっぱり一織は上品だなあ)
     ラーメンと蕎麦は啜って食べるものだと上手く吸えないナギに三月は言っていたが、一織は啜っていない。ちゅるちゅると可愛い音を立てて吸うように食べる。テーブルはあまり汚れていないが唇はさすがに油で汚れてしまう。長い指で紙ナプキンを取り、そっと唇へと押し当てた。拭い取り、艶やかな唇が現れる。
    (わあ、えっち)
     下品ではないし、上品な食べ方なのに一織の食事姿を見るとむらむらしてしまう。
    (小説とかで食べるシーンのあと必ずベッド行くし、そういうものなのかもな)
     きつね色の唐揚げを箸で掴み大きく口を開けてかぶりついた。かりっと小気味よい音を耳が拾った瞬間、これまた中からじゅわっと肉汁が溢れ出す。もぐもぐと咀嚼しながら、目の前で同じように唐揚げを食べる一織を見る。
    (歯が見えて、あ、がぶってした。肉汁が唇について、やっぱり卑猥)
     勢いよく食べる姿は普通なら気持ちよく見えるだろう。だが陸の目には色気のある姿に映り、まるで情事の際を彷彿させる。
     聴覚、嗅覚、感触、視覚、味覚。それら五つの感覚をフルに活用して食事を楽しんでいるが、現在陸は食欲とともに一織への性欲を抱いている。一織の食事姿によって引き起こされて、異様な興奮を覚える。
    (ここ出たら、ちょっと疲れたって言って休憩して……来る途中にも何軒かあったし)
     歩けないほどはないが、この熱を持て余しながら今日のオフを過ごすのはきつい。
    (あ、ニンニク……。でも一織も食べたし大丈夫だよね)
     ふふっと紙ペーパーで口元を拭う振りをしながら、笑みを隠す。麺を吸うたび見え隠れする白い歯に噛まれたいなあ、と思いながら陸も少し冷めた麺をすすった。
    ガーターベルトネタ ガータートスとは、ブーケトスの参加者男性版であり、新郎が新婦のガーターを口で外し、それを未婚の男性たちに向かって放りなげるというもの。
     それをキャッチ出来た人が次に幸せになれるというジンクスがある。
     頭の中で何度も繰り返しガータートスについての項目が流れていく。股の間に顔を埋め、赤い髪が揺れているのを視界に入れないようにしている。吐息がかかっていることを出来るだけ意識しないように、零れそうなため息を飲み込み口元を手で隠した。赤いリボンの端にくすぐられているだけでも、くすぐったがりやの一織にはきついのに。陸の唇が内腿に触れているという事実で、もうどうしようもない快楽に似たものが走る。


     事の発端はIDOLiSH7に来たウェディング特集だった。白いタキシードを着て、新郎の恰好をするのが定番ではあるが、それでは面白みがないと先方からガータートスを提案されたのだ。
     フレッシュで明るいアイドルグループというのがIDOLiSH7売り方ではあるが、ここ最近は色気のある撮影も増えた。ガータートスの相手は生身のモデル、ではなくマネキンであればもう断る理由もない。ガータートスを披露することになったのだが、問題はそこからだった。
    「一織! 練習手伝って!!」
    「嫌です」
     センターであり、メンバー随一の歌唱力を持つ愛される天才の七瀬陸が一織の部屋を訪ねてきた。手にした赤いリボンを視界に入れた瞬間、優秀な一織の頭脳は練習の意味を理解し、答えを導き出した。ノーだと。
    「なんで!?」
    「むしろ何故手伝ってもらえると思ったんですか」
    「一織だから」
    「私はあなたにとっての某猫型ロボットではありませんよ」
     泣きついたら助けてもらえると思ったのか、この甘ったれは。
    (かわいい人だな)
     しゅんと眉を下げた陸の姿にほころびそうな口元を引き締めて、一織はこほんと咳払いする。
    「あなたはむしろ失敗する方が、かわ……いえ、ファンの子にも喜ばれると思います」
    「オレだってかっこよく決めたいもん!!」
    「……かわいい人だな」
     何か言った? と不思議がる陸に一織は慌ててもう一度大きな咳払いをした。
    「一織……手伝って?」
     一織の両手を握り、陸は上目遣いで見上げてくる。おねだりの仕方がだんだんと上手くなっているのは果たして誰の影響なのだろうか。
    「……つい先ほどかっこよく決めたいと言った人の行動ではないですね」
    「使えるものは使えって、天にぃ言ってた」
    「九条さんからあざとさを学ばないでください」
    「天にぃは天使だよ!!」
     とうとう話が脱線し始めた。いや最初から線路にすら乗り切れていなかったのだが。
     少し可哀想だが諦めてもらおうと、一織が口を開くよりも先に陸が一歩後ろに下がった。へにゃっと困ったような笑みを浮かべる。
    「環やナギにお願いしてみる。……我が儘言ってごめんね一織」
    「分かりました。練習手伝います」


     そして今に至る。練習を初めてもう五分ほどが経つが、未だ陸はリボンをほどくことも出来ない。
    (やはり、この人は出来ない方が可愛いだろう)
     下手な色気はかえって逆効果だ。難しい、とふにゃっとした顔で笑っている方が七瀬陸への好感度も上がる。「そろそろ諦めませんか」
    「うーっ、もうちょっとだけ」
     そんなところで唸ったり、息を吐いたりするだけでも一織の身体には甘いしびれが走る。ただでさえ、くすぐったりやの一織には顔を近づけられてるだけでもぞわぞわとするのだ。相手が陸ならなおさらだ。
    「……っ、な、七瀬さん」
     今一瞬素肌に唇が触れた。やわらかくあたたかな感触に一織は口を押さえる。リボンの上をゆっくりと唇が這い、硬質な感触が覆われている個所に伝わる。湿った固い感触に陸が歯を使っているのだと一織は気が付いた。
    「あっ、ちょっ……七瀬さん!」
    「いおりっ……はっ」
     先ほどよりもずっと熱のこもった吐息が濡れた内腿をくすぐった。急いで下を覗き込むと、爛々と輝く赤い双眸がこちらを見上げている。おそろしい色気を醸し出しながら。薄く纏った水の膜が照明の光を反射してさらに彼の瞳の色を際立たせていた。
    「お願い。……やり方教えて」

    【モンスターは赤色の瞳を持っている。】


     内腿で結んだリボンを外し、後ろ向いててと涙目の彼に請われた一織は自然に彼の言葉に従った。畳んでいたスラックスに足を通しベルトを締めると、反対側では衣擦れの音が聞こえてくる。カチャリとベルトが外れて、すっと身にまとっていたものが落ちていく。しゅるりとサテンリボンが結ばれ、こっち向いてと許されて、おそるおそる振り返った。
    「っは……」
    「ね、一織……唇で外してくれる」
     パーカーの裾で下着はぎりぎり隠れている。隠れているからこそ、白い内腿に結ばれた赤いリボンが卑猥に見えた。陸の唾液で色を濃くした箇所を見つけてしまい、一織は息を飲んだ。
     潤んだ赤い瞳が一織を射抜く。底の見えない赤色がうっそりと微笑んで、一織の手を取った。

    「んっ……はあっ」
     上から降ってくるあまやかな吐息が艶めかしい。一織の椅子に腰を掛け、自ら足を開いた陸の中心は決して目に入れないように、リボンをほどくことに集中する。
     押さえつけた内腿は一織がリボンに触れるたび、ぴくりと小さく跳ねる。指先が滑ると堪えたような嬌声が聞こえる。
    (一体何の試練なんだ……)
     少しでも顔をずらせば、彼の中心が反応しているのかわかってしまう。さすがにそれは、と考えながらも好きな人の淫らな姿は見てみたいとも思う。
    「あっ、ん、いおりっ……外れそう?」
    「外せます」
     きっぱりとした声で答えたが、微妙に嘘だった。まだ一ミリも動かせていない。唇でリボンを銜えると、微かな震えが唇に伝わる。ぐいっと引っ張ってみるが、なかなかリボンはずれない。そもそも唇で挟み、引っ張るのが難しいのだ。仕方なく歯でリボンを挟み込む。歯の表面が彼の皮膚に触れているのだと思うと変な気分だった。
    「ん……」
    「ふっ、あっ……んんあっ」
     おかしい。これだけ力強く引っ張っているのに、全く動かない。不思議に思った一織はそこから顔を離し、歪なリボンを観察する。下手な蝶々結びは陸らしい。間違って片結びにでもしているのか、と指で色の濃いリボンの端を引っ張った。
    「あっ! だめ、一織」
     リボンはほどけて、陸の内腿から外れやがて落ちるはずだった。が、リボンが崩れた今、紐は未だに内腿に結ばれ、ひらひらと揺れている。最初から外せないように結んでいたのだ。
    「七瀬さんっ!!」
     目を吊り上げて顔を持ち上げた瞬間、頬を真っ赤にさせた陸と目が合った。
    「みちゃだめ……」
     すぐに熱い手に視界を覆われたが、それよりも先に潤み、溶けきった赤い瞳が切なげに揺れていたのを見てしまった。大きな瞳はゆらりと揺れ、情欲を浮かべた眼差しで一織を見下ろしていた。そこが微かに膨らんでいたことにも気が付いてしまった。
    「みないで」
     見ないで、一織。

     懇願する陸はまるで叱られることを理解した、今にも泣き出しそうな顔で待つ子どものようだった。
    水無月ましろ(13月1話更新) Link Message Mute
    2023/10/03 23:08:11

    SS詰め合わせ【いおりく】

    いおりく/SS

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