朝ごはんあたためますか?◆
大型犬は趣味じゃないはずだったんだが。寝起きの渇いた喉に冷たいミネラルウォーターを流し込みながら、新堂カイトは声に出さず呟いた。
冷蔵庫の横、こじんまりとしたキッチンには、カイトがいましがた犬に喩えた男が立っている。
「ほんと、起きるの遅いっすよ、カイトさん」
オレもー腹減っちゃって。
男は子どものように唇を尖らせて文句を言いつつ、フライパンでベーコンエッグを作っている。辺りにはトーストの香ばしい匂いもほんのりと漂っており、忘れかけていた空腹感が首を擡げた。
「そんなに腹減ってたんなら先に食ってりゃよかったろうが」
カイトからすれば至極真っ当な指摘を投げると、手元に向いていた男の視線がついと滑ってカイトを捉える。脳天気な顔だというのに精一杯に眉根を寄せて、なにやらひどく不満げだ。
「だって、誰かと食べるメシのほうが美味いんですもん」
「それはお前の都合だろうが。俺が文句を言われる筋合いはねえ」
「う……、まあ、そうかもっすけどー……。せっかくカイトさんと一緒なのに、もったいないじゃないですか」
「……。……、そうかよ」
朝から大真面目になにを口走っているのだこの男は。ときおり妙なことで照れて顔を真っ赤にするかと思えばこんな台詞を素面で投げて寄越すので、どうにもいちいち調子が狂う。これでは自分ひとりが相手に振り回されているようで面白くない――などと、脳裏を掠めた思考はまったく子どもじみていて、正直先ほどの男の表情を笑えない。
「てか、お前、朝っぱらからピンピンしすぎだろ。昨夜はシャワーも浴びずに寝たくせに」
「そうなんですよ、昨夜はほんとよく寝れて!朝もすげースッキリ目が覚めて、オレびっくりしちゃいました」
「…………」
笑えないと思いはすれど、口は勝手に動いて反撃をはじめてしまうのだから困りものだ。しかし動揺を誘おうと投げかけた初撃は見事に流されて空振りに終わったうえ、「ほらオレ、体力バカだから回復早いんすよね」と、明るい笑顔とともに無自覚なカウンターを見舞われる始末である。
暗にこちらの回復が遅いと言われたも同然なのだが、上機嫌そうな表情と声からはまったく棘を感じないので、言葉通りの意味なのだろう。現在カイトが相手取っているのはそういう男だ。わかっているが、立場的に自分よりも体への負担が大きいはずの相手にこの言われようでは、男としてのプライドに少なからず疵がつく。そしてカイトは自分がそのまま黙っていられる性分ではないことを、十二分に自覚している。
「あ、でも起きてからちゃんとシャワー浴びましたよ?カイトさんよく寝てたから、知らないでしょうけど」
「……あー、そうだな、知らねぇな」
「あはは、やっぱり」
カイトが落とした沈黙にさほどの違和感も覚えなかったのか、男はそんな言葉を続けながら、出来上がったベーコンエッグをふたりぶんの皿に載せる。フライパンと箸から手が離れたことを確かめて、無言で男の腕を掴んで引き寄せた。
「カイトさん?」
「なんだよ」
「えっ、カイトさんが言うんですか、それ」
首を傾げつつも逃げてはいかない体温に、少しばかり機嫌が上向く。よく鍛えられた長身はカイトよりもいくらか筋肉質で、お世辞にも柔らかいとは言えないはずだが、高めの体温を腕に収めるといつも不思議と心地が好かった。
眼前に晒された首筋を戯れに唇で掠めれば、広い肩がわずかに強張る。纏う気配にわずかに混ざる緊張など意にも介さず、やわく噛みつくついでに舌で鎖骨をざらりと辿ると、大きな手のひらが慌てた様子でカイトの肩を掴んで制止をかけてきた。
「うわ、ちょっ……いきなりなにするんですか!」
「あ?なんだよ、逃げねぇってことは別に嫌じゃねえんだろうが」
「っ……!」
この男の身体能力をもってすればこの程度の拘束などいつでも逃れられるだろうに、いまなおそうしようとはしないのだから、――つまりはそういうことなのだ。その程度の感情の機微なら察してしまえるだけの濃度の時間を、カイトはこの男と過ごしている。図星をさされて素直に口籠った男は、返す言葉を探して数瞬視線を泳がせたあと、困り果てた様子で口を開いた。「……嫌じゃないから困るんです」
「オレ、前はこんなじゃなかったのに」
「は?」
「っだから、……こんな、朝からしようとか、思ったことないんですよッ」
腹だって空いてるのに、カイトさんのせいです。
耳朶まですっかり赤くしつつもどこか悔しげな表情に、好ましい負けん気を認めて、思わず口角が吊り上がる。やはりこの男はこうでなくては張り合いがない。カイトはくつくつと肩を揺らして笑い、男の腰にまわした腕をもうひとつ強める。
「……なに笑ってんですか」
「いいや、別に?」
もう少し艶のある言い方もあるだろうが、このつたなさこそがなによりこの男らしい。あっさりと食欲にとって代わった情欲が煽られるのを感じながら、熱い体を壁際へ追い込んだ。とん、と、広い背が壁にふれる音がする。至近距離で覗き込んだ明るい茶色の瞳が一瞬カイトの背後に向けられて、ぱちりと瞬く。
「あ、皿にラップしてない」
「……お前、この状況でよく言いやがるな、そういうの」
「だってここだとちょうど見えるし、気になって」
「うるせぇ。すぐに見えなくなるから安心しろ」
ややもすれば再び流し台のそばへ戻っていきそうな男の手首を掴み、壁にしっかり留めつける。さっさと腰砕けにして床に押し倒してしまえば、余計なものに気を取られることもないだろう。
「腹の虫鳴かすなよ?」
「……うーん、そこはカイトさん次第かなあ……」
「……ホントいい度胸してんな、お前」
「忘れさせてくださいよ」
思わず半笑いで呟くと、朗らかな笑声が耳朶を打つ。
まったく、かわいげがあるのだかないのだか。そんな思考を巡らせつつ、男の持つ健やかさと状況のアンバランス感を味わう。天秤が健全さとは真逆の側に傾ききったときの瞳のいろを知るカイトには、その感覚だけで十分に扇情的だ。
「昴」
「はい、カイトさん」
そろそろ黙れ、と言う代わりに名前を呼んで唇を寄せる。嬉しげに笑いながら応える男は、やはり大型犬に似ていた。
***
20160208Mon.