さよなら、セピア お前の音楽はたしかに一級品だが艶が足りない。艶が足りないのは、恋を、女を知らないからだ。噎せ返りそうなほどに音楽と喧騒と熱気が籠もったハコのなかで、そう言い放ったのは誰だったか。いまではもう顔もまともに思い出せないというのに、その声だけは未だにはっきりと新堂カイトの記憶に焼き付いている。それはまだ福岡に拠点を置いていたころのことだったが、東京での活動が現実的なものへと変わりはじめた時分の出来事でもあり、だからこそ殊更に屈辱的な指摘であった。その声に下卑た笑いでも含まれていればくだらないと一笑に付して聞き流していたかもしれないが、あまりに真剣極まりないそれに心のどこかを揺らされてしまった自分がいたことが、単純に悔しかったのを覚えている。
どこの誰とも知れぬ相手の指摘のとおり、たしかに当時のカイトにはそういった経験は欠けていた。なにせ新堂カイトの世界は物心ついたころから音楽でできていて、カイトにとっての他人は「音楽という言語が通じるか、通じないか」の二種類しかおらず――とりわけ後者とのあいだには恋だの愛だのといった類いの感情が相応の幅をもって差し込まれるだけの余白など存在しなかった。バンドを組み、名前が売れはじめてからはかしましい女たちがつねに取り巻きのようにそばにいたけれども、ステージを越えてわざわざプライベートに近づいてくる相手のほとんどが「新堂カイト」というステータスを欲しているだけだった。その見え透いた下心に付き合う対価として、カイトは十分過ぎるほどの尊大さを得たのである。
そしてまた、大きな飛躍の機が迫っていた当時、恋愛関係の構築に向ける時間や興味が積極的に湧くはずもなかった。そもそもがそれまでの人生のなかで存在してこなかった余白を、いまさら容易くひねり出すことができるとは到底思えなかったし、ごく近い未来、カイトはこの土地を出て行く。その場限りの、後腐れのない関係が望ましいと結論付けることになんの疑問も躊躇もなかった。面倒さえ起きなければ、それでいい。そんな経緯と理由から、とにかく金に糸目はつけず、歓楽街のなかで最高ランクの店の、あまり騒々しくなさそうな相手を選ぶことにした。
結論から言えば、高級店で結果を出しているだけあって、ひとつひとつの言葉の選びかたも、雰囲気の作りかたも、それから行為そのものの手管においても、申し分のない相手だった。あまりに手慣れた様子に、終わってしまえば「こんなものか」といった程度の感情しか残らなかったが、それをこそ望んでいたカイトに某かの不満があるはずもなかった。――ただひとつ、口付けという行為について以外は。
軽く触れ合わせる程度ならまだ我慢もきいたが、深いものとなるとまるで駄目だった。「互いにとって都合の良い」相手と寝る機会は東京へ拠点を移してからも何度もあったけれども、唇を重ね口腔をひらく行為は声帯という器官にあまりにも近く、誰を相手にしても抵抗感がまさった。
それでも、見目がよく、機転が利き、そしてなによりカイトの才能を聴こえの良い声で認める相手を思うままに暴いていく行為は本能的な欲を少なからず満たさせたし、やわらかく熱い肌の感触を知ってしまえば、わざわざ自慰の無味乾燥さを選ぶ気にもなれなかった。キスをせずともセックスはできるのだから、然程困ることはないだろう。新堂カイトは少し前まで、たしかにそう思っていた。
「……カイトさん?」
ふいに聴こえた中低音と、皮膚を掠めた吐息の温度に我に返る。どちらのものともつかない唾液に濡れた唇が、どうかしましたか、と薄暗闇のなかで問いを紡ぐ。口付けのさなかに意識がわずかに横へ逸れていたのが伝わってしまったらしい。ばつの悪さを誤魔化すように「なんでもねえ」と返して、もう一度男の口唇へ齧りつく。
悔しいかな体力に関しては昼夜を問わずこの男に軍配が上がりがちだが、肺活量は負けていない。熱い首筋を引き寄せて息継ぎのいとまも与えずに貪ってから唇を離すと、ぷは、といささか色気に欠ける呼吸音が耳朶を打った。
「んだよ、もう降参か」
「ッ、べ、つに、そんなことないですっ……!」
忙しない呼吸を繰り返す様子に思わず口角を吊り上げながら揶揄してやれば、酸素不足と熱に濡れた紅茶色の瞳が悔しげに細まる。子どものような反論とともにがぶりと噛みつき返してくる男の温度と感触が、ふるえるほどに心地好い。
自分から口付けたいと思ったのも、口付けられるのが心地好いと感じたのも、目の前のこの男がはじめてだった。
城ヶ崎昴がまだ知らない、新堂カイトの、ちいさな秘密の話である。
***
20170327Mon.