カイすば小ネタログ5■飴ちゃんの話
「眉間にシワ寄ってんぞ」
「いでっ」
呆れ声が聞こえたのと同時に、そこそこ痛いデコピンの音が頭に響く。なにすんですか!と文句を言いながら、にらめっこをしていた台本から顔を上げるとカイトさんのたれ目と目が合った。
「行き詰まってんだろ」
「う」
「うだうだしてねえで一回頭に栄養入れろ、ほら」
「?」
あ、と開いたカイトさんの口につられて口を開けると、ころん。まるくて固い舌ざわりがする。ココアの味だ。おいしい。口をもごもごさせながらお礼を言うと、おー、と 適当な返事をしたカイトさんがいたずらっ子みたいに目を細めた。
「さてここで問題がひとつ」
「へ、」
「それが最後のひと粒だとしたら?」
***
ふたりへのお題ったー
カイトと昴へのお題:キャンディおひとつどうぞ
■つめきり
かさぶたをさわらずにいられないヤツが、指の先にできたさかむけをさわらずにいられるかっていうと、答えはノーだと思う。普段家で使ってるいろんな洗剤のせいかなんなのか、理由はともかく左手の薬指にできたさかむけをつついていたら、案の定カイトさんに見つかって叱られてしまった。
「お前な、ガキじゃねえんだから」
「だって気になるんですもん」
「うっせ」
文句を言ったオレの手を問答無用でつかまえて、カイトさんが取り出してきたのはつめきりだった。しばらくオレがつついてたせいで少しだけ大きくなったさかむけの端っこを、銀色の刃がぱちんと容赦なく切り落とす。あ、もうつまめない。
「カイトさん?」
「ついでだから大人しくしてろ。……ったく、相変わらずザツだなお前」
それで終わるかと思ったら、そんな言葉と一緒にくるんと返されたやすりが親指の爪の先をこすりはじめた。オレも爪切りをさぼることはないけど、カイトさんほどきれいに爪をととのえることはできない。親指、人差し指、中指と、次々まあるくされていく爪を、なんだか不思議な気持ちで眺める。オレより大きい手をしてるのに、つめきりを使う指先はすごく器用だ。
「カイトさんって爪切り上手ですよね」
「んだそれ。つーか、お前が不器用すぎんだよ」
「うー……!」
それを言われてしまうとなにも言い返せない。呻いたオレにカイトさんはくつくつと肩を揺らして笑いながら、小指の端までととのえ終える。そのまま離れていくはずの指先が、する、と薬指に絡んでどきっとした。カイトさんのうすむらさきと目が合う。かちり。
「……み、右手はやってくれないんですか、」
「いーんだよそっちは」
オトコの勲章用だからな。
ついさっきぱちんと切られたさかむけの場所を、カイトさんのまあるい爪の先がちり、とつつく。心臓につながってるそこから、じわっ、とうなじのあたりが熱くなったのは気のせいだって、……思いたいんだけどなあ。
「背中引っ掻くにはそれくらいのが丁度いいだろ」
「べつにちょーどよくは、――んむ、」
オレの手をつかまえるカイトさんの手のひらも熱い。
上機嫌そうな声と、つめきりがソファの端に放り投げられる音が重なった。
***
20180907Fri.
■タオル
昴が泊まりに来ると、翌朝ベランダに並ぶ洗濯物のタオルが増える。入浴に使うバスタオル、フェイスタオルが少なくとも単純に倍になり、それから日課のランニングや稽古のときに使ったスポーツタオルにマフラータオル。衣類に混ざって昴の気に入りのサッカークラブやスポーツブランドのロゴマークが刺繍されたそれらが並ぶ軒先は、目にもずいぶんと賑やかだ。
「今日もいい天気だから、きっとよく乾きますね」
よかったー。明清色の朝日がこぼれるように差し込む窓際で、洗濯物をベランダへ干し終えた男が、窓を開けたまま声をはずませる。精悍さとあどけなさを溶かし合わせた輪郭が日差しを浴びて滲むのを、カイトが隣に立って見留めたと同時、ざあ、と強い風が吹き込んだ。
「わ、」
紅茶色のひとみが反射的に隠れ、やわらかな癖毛が朝の風に躍る。踊るようにはためくビビッドなタオルの色彩と影がひどくあざやかに目に映って、知らずその一瞬を縫い止めるように男の手を掴んでいた。衝動のままに、逞しい腕を引いて口の端に噛み付く。がぶり。
閉じていた瞼から驚いたように覗いたティーブラウンの水面いちめんに揺れる青空とひかりが眩しい。風に踊る極彩色の影を瞼の裏に焼き付けて、閉じ込めるように目を伏せた。
***
20180906Thu.
■アヲハルマーチ!
その朝新堂カイトが、ふ、と目を覚ましたのは、彼の普段の生活サイクルを鑑みれば大層まれなことだった。
カーテンの裾からかすかにこぼれる日差しはすでに明るい。昨日ひどく降り続いていた雨は、夜のうちにやんだようだ。今日は朝からボイストレーニングの枠が設けられており、そのあと昼前には雑誌の取材で外に出る予定になっている。時刻を確かめようと、枕元に置いていた携帯端末を手に取る。午前六時二三分。
平生ならばアラームどころか電話が鳴ろうと即座には目を覚まさないというのに、我ながら一体どうしたことか。ディスプレイライトの眩しさに顔をしかめたところで、メッセージアプリの新着通知が表示されていることに気が付いた。
未読メッセージが二件、受信時刻は六時二二分。
どうやら珍しいことに、メッセージアプリの受信通知の、ほんの短い振動で目が覚めてしまったらしい。
誰だよこんな朝っぱらから。文句の声はみなまで口にせぬままに、端末のロックを解除する。未読を示すアイコンがついているアカウント名はひとつだけ。一人の相手から、二件のメッセージが届いていた。
「……ったく、朝からなにやってんだあいつ」
なにごとかとまばたきをしながら表示したメッセージに、知らず呟きが漏れていた。喉をふるわせたそれは、カイトが自身で想定したよりもやわらかい音で早朝の寝室に溶ける。欠伸をしながらのそりと身を起こし、そのままメッセージの送り主の電話番号を呼び出した。プププ、という発信音のあとに、呼出音が続く。ワンコール、ツーコール、スリーコール――の半ばで途切れた呼出音に代わって、聴き慣れた声が飛び込んでくる。
「えっ、あ、カイトさん!?」
「よお、体力バカ」
「なんでこんな時間に起きて……っ」
「あ?朝っぱらからノンキなモーニングコール寄越しといてその言いかたはねえだろ、お前」
「も、モーニングコールってわけじゃ……、じゃなくて!もしかして本当にあれで起こしちゃったんすか?!うわ、すみません……!!」
絶対起きないと思ったのに!
焦りとともに続いた言葉は若干失礼な気がしないでもなかったが(否、たしかに普段ならばまだ起きるはずのない時間帯ではあるのだけれども)、カイトは自らが思いのほか上機嫌であることを自覚していた。まったく珍しいこともあったものだと他人事のように考えながら、カイトは電話の向こうの男へ声を投げる。
「お前、朝メシは」
「これからランニングなんで、まだです」
「あー……じゃあ、一時間後くらいか」
「へ?」
「朝メシ。なんか買ってってやる」
男が日課にしている朝のランニングは、夜に比べればいくらか軽めで、おおよそ三十分ほどで帰ってくる。そのあとの着替えや洗濯の時間を含めると、男がたっぷりの朝食にありつくのは概ね一時間が過ぎたころだろう。軽くシャワーを浴びて、普段よりもゆったりと身支度を整えてから愛車に乗り込めば、ちょうど良いタイミングになるはずだ。
「買って、って……えっ、もしかしてうちに来るんですか?」
「気が向いたんだよ、悪いか」
「や、べつにそんなことないですけど!珍しいですね、カイトさんがそんな朝早くから出かける気になるなんて。いつもはもっとギリギリまで寝てたがるじゃないですか」
「うっせ」
他愛ないやりとりを交わしつつ、カイトはベッドからのそりと起き上がって窓辺まで寄っていく。カーテンの裾を指先で開けば、明清色の朝日がこぼれて視界にあふれた。良い天気だ。
「で」
「で?」
「代わりに、俺の昼メシ寄越せ。朝メシのぶんが浮けば弁当箱に詰める米くらいあるだろ」
「え……っ、――ええーっ?!」
「つーことで。じゃあな」
「ちょ、え、カイトさ……っ!」
昴がときおり(おもに給料日の直前ごろだが、)食費の節約のためにとカンパニーへ弁当箱を持ってきているのを、カイトとて知っている。狼狽える声を機嫌良く聞きながら、そのままぷつりと通話を切る。軽やかにカーテンを全開にして見渡した窓の外には男が先ほど添付送信してきた写真と同じ、大きな虹がかかっていた。
***
(カイすば×おしごと合同誌の没原稿ぶったぎり供養)
■あの日のこと(原田と昴)
それはいわゆる「朝一番」の出来事だった。
原田の仕事部屋に作りつけられた電話が、外線のコールをひとつ鳴らすよりも早く真っ先に鳴り響かせたのは内線の呼出音だった。
「私に客?」
「はい」
今日は特に来客の予定はないはずだが。首を傾げながら耳を当てる受話器越しに、取り次いだ事務スタッフの戸惑い気味の声が続く。「それが、その、」
「原田さんにどうしても会って話したい、と。夢色カンパニーの、城ヶ崎さんというかただそうです」
「……夢色カンパニーの?」
先日早々に視察を切り上げて帰る羽目になった劇団のメンバーが、こんな朝早くから一体なんの直談判に来たものか。感情に薄雲の翳りがさしたのは自覚できたけれども、さすがに勤務先にまで訪ねてきているのを門前払いするわけにもいかない。
溜息をひとつ。少し待つように伝え、通話を切って仕事机から立ち上がる。
先代主宰・朝日奈真の舞台へ懸ける情熱に惹かれて出資を申し出、夢色カンパニーへのスポンサー契約を結んでから、気付けば随分と長い月日が経っている。劇団の中心であった朝日奈夫妻を突然の事故で喪い、代替わりを余儀なくされたカンパニーは、事故から二年が過ぎたいまも再建の道半ばだ。かつては常連だったトミー賞も、未だ遠い。
それでもなお原田がスポンサーとして劇団のそばに立ち続けているのは、あの日惹かれたひたむきな熱がいまのカンパニーにも変わらず受け継がれていると感じていたからだった。いつかその情熱を糧に躍進していくだろうと、彼らを通して原田もまた夢を見ていた。――だから、メインキャストが揃いすらしていない夢色カンパニーの稽古風景など、見たくはなかったのだ。
「原田さん!」
「君は……」
エントランスへ赴くと、ライムグリーンのつなぎを着た背の高い青年が弾けるようにこちらを振り向いた。
城ヶ崎昴。メインキャストの一人ではあるが、まだ入団して日の浅い新人キャストだ。
「おはようございます、いきなり押しかけてすみません!でもオレ、どうしても原田さんにお願いしたいことがあって……っ」
「……、お願い?」
早口に告げられた言葉の勢いに押されて、思わず問いを返してしまう。まだどこか幼さの残る丸い瞳が、意を決したように強いひかりを帯びていた。
「この前はメンバーが足りなくて、失礼なことをしたってわかってます。……でも、それでも、一回でいいから、みんなの歌を聞きに来てください。お願いします!」
「…………」
「あのときいなかったカイトさんは、歌のレッスンに行ってたんです。別人みたいな、……生まれ変わったみたいな新堂カイトの歌声を生で聞かなかったら、絶対に損します!」
お願いします、ともう一度繰り返して、青年は深々と頭を下げる。赤茶の癖毛がばさりと揺れるのを、原田はただ目を丸くしてしばらく見つめ、――それから、小さな息をひとつ吐いた。
「…………まったく、仕方がないな」
「へっ?」
「……そこまで言うなら、聞くくらいはしてもいい」
「!」
「ただし、また誰か欠けたりしていたら、すぐに帰らせてもらうよ。いいね?」
「はいっ!ありがとうございます!」
勢いよく先ほどと同じ低さにまで頭を下げ直した彼が、明るい笑顔を見せつつ「案内します」と踵を返す。
「原田さん?」
「いいや、……なんでもないよ」
子どものようにまっすぐで、ひたむきな光。熱くきらめくステージライトに似たその輝きの魅力に、結局自分は勝てはしないのだと、原田はひっそりと苦笑した。
***
20190115Tue.
■Shine on the beach
ふ、と、すくい上げられるようになめらかに意識が覚醒へと向かう。低速な思考回路を浸す波の音をどこか遠くに聞きながら、新堂カイトはカーテンの隙間から射す陽光に顔を顰めた。
枕元に置いていた携帯端末を手探りで掴み取り、いまの時刻を確かめる。午前六時十三分。部屋を出る前に身支度を整えるとはいえ、朝食の時間までまだかなり余裕がある。二度寝を決め込むべく早々に瞼を下ろしかけたものの、いつになくすっきりと目覚めてしまったらしい体は持ち主の意に反してその後十数秒あまりで再び目を開けることとなった。
「ったく……」
せっかくの長期休暇だというのに、無駄に早く起きてしまってはなにやら損をした気さえする。誰に聞かせるともない嘆息をひとつ吐き、喉の渇きを潤すためにのそりと起き上がってベッドから足を下ろした。
つま先をスリッパに滑り込ませ、ぺたぺたと音を鳴らしながら、部屋に持ち込んでいたミネラルウォーターのボトルを取り出す。キャップを外してこくりと水を喉に流し込みつつ窓辺へ歩み寄り、何気なくカーテンの端を掴んだ。
今回の休暇先である別荘は大窓が海に面した造りになっていて、それぞれの部屋からでも海辺を眺めることができる。この様子なら今日も一日快晴だろうと思考を巡らせながらカーテンを開け――ぴたりと動きを止めた。
先ほど起き抜けに見た時計の時刻と、いましがた認めた光景を重ね合わせて、ああ、と納得する。そういえば、なるほど確かにそんな時間だ。
着ているのは寝間着といってもスポーツウェアだ。寝癖を手櫛で軽く整えて上着を羽織ってしまえば、外履きを足先に突っかけて少しばかり外に出る程度は問題ない。そもそもこんな早朝に浜辺をうろついているような物好きはさすがにいないだろう。……ただひとりを除いては。
「カイトさん?!」
「よお」
「どーしたんですかこんな早くに……あっ、もしかして熱とか」
「ああ?どーゆー意味だコラ」
「いたたたた!すみませんなんでもないです!」
無人の浜辺を存分に使ってランニングをしていた昴が、砂浜を軽い足取りで駆けてくる。この別荘に着いたばかりの昨夜も遅がけに走り込みに出ていたようだが、この男にとってのランニングは朝晩の日課だ。その意味ではこの光景も自然なことといえた。
「でもホントに珍しいですね、カイトさんがこんな時間に目が覚めるなんて」
「あー……まあ、疲れ足りてねーのかもしれねえな。昨日は稽古やったわけでもねえし」
「あはは、じゃあ今日は昨日よりもっといっぱい泳ぎましょうよ!」
そう言って、聞き慣れた中低音が潮騒のなかで楽しげに弾む。紅茶色の癖毛から滴って落ちたしずくが、男の背後に広がる波際のひかりを跳ね返してちかりと瞬いた。眩しい。
「カイトさん?……って、うわっ……!」
首筋を伝う汗をスポーツタオルで拭おうとした手を捕まえて、タオルの端ごと顔の横へ引き上げる。タオルの陰で掠めた唇は夏のにおいがした。
***
20190116Wed.
■十六時半のカーステレオ
今年は雪、降らないんですかね。気なしに流し見ていた夜更けのニュースが告げた暖冬の報せに、ソファの上の大型犬が残念そうに呟いたのは一週間ほど前のことだった。
昼下がりから茜色へと向かう空と雪の白を視界に収めながら、新堂カイトはスタッドレスタイヤに履き換えた愛車で雪山を抜けていく。まわりの客が減りだした頃合いを見計らって帰り支度を始めたおかげで道路もそれなりに均されていて、走りにくさはさほどなかったが、普段よりはさすがに運転に気を遣う。ま白い道路が見慣れた灰色に変わったところで無意識にゆるい息を吐き、ちらと助手席に視線をやると、夕焼けに滲む癖毛がうつらうつらと舟を漕いでいた。
「おい」
「っ、うわ、すみません、オレ、寝ちゃってた……」
「別に気にしやしねーよ。適当なとこで休憩入れるから、それまで寝とけ」
「でも、カイトさんも疲れてるのに」
寝ているのかと小さく呼びかければ、まだ眠りに落ちきっていなかったらしい男がはっとしたようにおもてとともに声を上げる。
あれだけはしゃいだあとに暖房の効いた車に揺られれば、眠くもなるだろう。ごしごしと子どものように目を擦るしぐさが目の端に映って、思わず喉の奥でくつりと笑った。相変わらず律儀な男だ。
「お前ほどじゃねえっつうの。眠気覚ましも入れたしな」
言葉の通り、ハンドル横のドリンクホルダーには黄金比の色合いをしたコーヒーを注いだ紙コップがしっかり腰を落ち着けている。まだ申し訳なさげにしている男へ答える代わりにカーステレオの音量をわずかに上げると、ようやく数拍分の間が落ちた。
「……休憩のあとはちゃんと起きます」
なにやら決意を感じさせる中低音に目瞬きをひとつ。
カーステレオからはカイトの気に入りの海外シンガーの歌声がなめらかに流れおちていく。穏やかな寝息が聞こえだしたころ、隣の男がコーヒーの入った耐熱ボトルを抱えるように持っていることに気が付いて、口元だけでゆるく笑んだ。
***
20190120Sun.
■わんこのみみははむのみみ
オフ日前の夜、オレ――城ヶ崎昴はカイトさんちのベッドルームのすみっこに、見慣れない段ボールの箱があるのを見つけた。
「カイトさん、あの箱なんですか?」
「あー?」
「なんかすっげーでっかいですけど、って、あー……」
近くに寄っていってしゃがみ込むと、発送元のものらしいロゴマークがそれなりの大きさの箱の外側にでっかく印刷してあった。ボンレスはむオンライン、ドットコム。
「んだよその反応」
「えっ、いや、べつに!?」
とりあえず、食べものが入ってるわけじゃなさそうだ。そう思ったのが声に出ていたみたいで、ゆったりした足取りでこっちに来たカイトさんに軽く睨まれてしまった。
「この時期はオンラインストアの限定品が出るからな。今年はぬいぐるみもあったから箱がでかくなった」
「へ、へー……」
いつもみたいに小突かれるかな、と思ったけど、いまのカイトさんはなんだか機嫌がいいらしい。そのまま箱を開けてあれこれとグッズを見せてくれるカイトさんの話をふんふん聞いていると、ふいにぴたっとカイトさんの手が止まった。
「カイトさん?」
「実はお前にひとつ買ったのがあってな」
「へ?」
「つーわけで、開けてやるから後ろ向いて目を瞑れ」
「は?」
なにが「つーわけで」なのかオレにはさっぱりわからない。どういうことなのか聞こうとした途端に「いーから大人しくしてろ」と無理矢理後ろを向かされて、微妙に納得のいかないまま、一応素直に目を閉じる。いや、だって閉じないと怒られそうだし。
「カイトさーん、まだですかー?」
「もーちょっとだ、もーちょい」
ごそごそ、がさがさ、べりっ。がさがさ、……ぱさ。
たぶん最後のが、包装用のビニール袋を外して床に落とした音だと思うんだけど。まだなのかな、とそわそわしだしたオレの真後ろに、カイトさんが立ったのがわかる。
「いーか、そのまま大人しくしてろよ」
「えっ、あの、なんですかカイトさ――……ん?」
きゅっと頭に軽い衝撃を感じたあと、そのまま肩を掴まれてぐるっと体を返される。まさか、と思いつつさすがに我慢ができなくなって目を開けたオレが真っ先に見たのは、このごろでもトップスリーくらいに入るんじゃないかってくらい楽しそうな顔をしたカイトさんの笑顔だった。
「ほらな、お前にはぜってえこの色だと思ったんだよ!」
「うえっ!?」
「あ、おい、勝手に動くんじゃねーぞ写真撮るから。こっち来いこっち」
「いや、え、あの、へっ?」
こんなにストレートにはしゃぐカイトさんは珍しくて、正直どう反応したらいいのか迷ってしまう。そうこうしてるうちにぐいぐい引っ張られてベッドの上だし、そこからじりじり壁際に追い詰められるみたいな状態でカイトさんのスマホのカメラがこっちに向いている。いやあの待ってくださいなんだこの状況?!
「あの、カイトさん、これ、なに、」
「あ?なにって、見りゃわかんだろ」
「オレには全然見えないんですけど!?もう取っていいですかこれ!」
「はあ!?ダメに決まってんだろーが!やっと買えたんだからきっちり堪能させろ!」
「はああ!??」
カイトさんがなにを言ってるのか(っていうかいまのオレの頭になにがついてるのか)たぶんもうオレにもわかってるんだけどわかりたくない。頭についてるそれを取るにも取れず、相変わらずすっげー楽しそうなカイトさんを押しのけることもできずに迷ってるあいだに、ついに何度かのシャッター音が聞こえてちょっと頭が痛くなってきた、ような気がする。
「お前なァ、もーちょい楽しそうな顔しろよ」
こんなだぞこんな。
なんて無茶振りにもほどがあるセリフをさらっと放り投げたカイトさんが、親切にいま撮ったばかりの写真を見せてくれる。たしかにカイトさんの言う通り、写真のオレはそれはもうなんとも言えない顔をしてたけど。してた、けど。
「こんなとこでこんなのつけさせられたら普通こんな顔になるに決まってるでしょ!!なに言ってんすかあんた!」
「それはこっちのセリフだ!この時期しか手に入らねえ限定ボンレスらぶカラーだぞ!」
「いや知りませんけどそんなの!?」
予想通りといえば予想通り、写真のなかのなんとも言えない顔をしたオレの頭にはふわふわしたココア色のはむ耳つきのカチューシャが嵌められていた。いつものはむの色じゃないな、とはたしかに思ったけど、限定品ってそういうことか。本当は全然気にしなくてもいい情報に一瞬気を逸らしたオレに、たたみかけるみたいなカイトさんの声が続く。
「色の時点でお前の髪に合うと思ってたんだけどよ」
「は……」
「そしたら今年は素材も改良されてもっとふわふわになるって言うじゃねえか。買うしかねえだろそんなん」
「……いや、あの、カイトさ……」
「似合ってる」
「っ……!」
話の中身のしょうもなさと、耳元で聞こえるカイトさんの声の真剣さが全然噛み合わない。この流れはどう考えても絶対おかしい、おかしいのに、カイトさんがあんまり真面目にオレのことを褒めるから、なんだか恥ずかしくてじわじわ顔が熱くなってくる。なんではむ耳カチューシャを褒めるだけのことにそんなかっこいい声出すんですかホント意味わかんないですカイトさんのばか!
「に、似合ってなんか、ない、です!」
「んだよ照れてんのか。今日は可愛いなお前」
「かわッ!?」
大混乱の頭でどうにか返した言葉にも想像の斜め上の応えが返ってきて、慣れない響きの声に悔しいかなどかんと体温が上がるのがわかる。
べつに可愛いって言われて嬉しいわけじゃないけど、いまのカイトさんはたぶん機嫌がよすぎて変なスイッチが入ってる、んだと思う。――だってこれは、「そういうとき」の声だ。
「昴」
「かいとさ……、ッんむ、」
そして、そういうときのカイトさんがどれだけオレの手に負えないかを、オレは身をもって知っている。カイトさんがだいすきな高くてあまいチョコレートとワインみたいな声としぐさを思いっきり、からだいっぱいに流し込まれるから、すぐに頭がくらくらして思考回路がだめになる。ほら、まだキスだけなのにもう背中がベッドに沈んで動かない。このままいっぱいさわってほしくてさわりたくて、体ごとギュッて引き寄せるしかできなくなる。
「……?」
やっぱり機嫌良さげに目を細めたカイトさんが、自分のスマホと、褒めたばっかりのカチューシャを外して枕元によける。いや、オレとしてはありがたいかぎりだけど、てっきりまだ写真を撮ったりしたがるんだと思ってたのに。きょとんと首を傾げてまばたきをしたオレに、なんでかカイトさんまで不思議そうな顔をした。間。
「つけたまんまじゃ引っかかるだろ」
そんな顔してなに言ってんだおまえ。
そう言って、大きな手のひらがオレの髪をわしゃわしゃ撫でていく。そのままもう一回がぶりとくちびるに噛みつかれるときに「そっちはまたあとでな」なんて嫌な予感のする声が聞こえたような気がしたけど、――今日ばっかりはもう、降参だった。
***
20190311Mon.