カイすばBD2016■スターダスト・サテライト
『SUPER ROCK MUSICAL』の千秋楽は、よく晴れた日の夜のことだった。打ち上げのあと、ふわふわとした余韻に浸りながら、昴はカイトの隣を歩く。今夜はきっと、ベッドに入って眠るまでこの調子だ。見上げた濃い藍色の夜空には星がちかちかと瞬いていて、半分より少しだけ細い下弦の月がそれでも明るく笑みのかたちを浮かべている。やわらかい夜風が頬と髪を撫でる、穏やかでやさしい夜だった。
「カイトさん、コンビニ寄ってきませんか」
「んだよ、まだ腹減ってんのか」
「うーん……そうじゃないですけど」
なんか、甘いものが食べたくなって。
彼の家のすぐ近くまで来ているのはわかっていたが、なぜだか無性に甘いものが恋しくなった昴は彼へそんな言葉を投げた。さほど自覚はないのだけれども、体が糖分を欲しがるということはやはりそれなりに疲れているのかもしれない、とどこか他人事のように考える。
普段その台詞を言いがちな彼が周囲を見回して、昴の背後へ向けた視線をぴたりと止める。薄紫の瞳の先を追いかければ、夜更けでも眩しいほどの明かりを点して佇む自動販売機の姿があった。彼はそのままなにも言わずに自販機の前へ歩いて行って、迷うことなくボタンをひとつ押す。がこん。静かな路地裏に鈍い音が短く響いた。
「肉だのなんだの、打ち上げで散々食っただろ。これくらいにしとけ」
無造作に放り投げられたそれはアイスココアの缶だった。まろやかアイスココア、カカオ使用量十五パーセントアップ中。自販機の明かりでそんな文字列を読んでいるあいだに彼がまたさっさと歩き出しているのに気が付いて、昴は慌てて彼の後姿を追いかける。
「えっ、あの、奢りですか?」
「ああ?それっぽっち請求するほどケチじゃねーよ」
「……へへ、ありがとうございます!」
彼の不器用なやさしさが昴は好きだ。冷たい缶を握りしめて礼を言うと、おー、と間延びしたいらえが返る。気のないふうを繕っているけれどもきっといまの彼は機嫌がいいのだと、声音で感じた。
すっかり通い慣れた巨大なマンションのエントランスを抜けて、彼の自宅へ辿り着く。
「お邪魔しまー……、っ、」
家主の背中に続いて玄関扉をくぐったところで、ココアの缶を持つ手を引かれて扉に縫い付けられた。明かりも点けないままの暗い玄関で、知った唇の感触と温度だけがはっきりと伝わる。なんだか少し前にもこんなことがあったような。カンパニーのロッカー扉の感触を思い出しながら、昴は大人しく玄関扉に体重を預けた。いつの間にか、缶を持っていないほうの手まで流れるような動きで掴み取られている。
演目の特色もあり、稽古期間中の彼は冗談抜きに息をつく間もないほど多忙であったし――公演が始まればなおさらに、コンディションの調整は最優先事項だ。なんの気兼ねもなくこうしてふれあえるのはずいぶんと久しぶりのような気がして、口の中をやわらかく荒らす熱い舌の感触に息をふるわせる。持ったままの缶がぬるんでいくのを、どこか遠くに感じていた。
「……マメ治ったな」
「へ……?」
しばらくそうしていると、息継ぎの合間、こぼれた吐息に溶かすように小さな声で、彼がふいに呟いた。人差し指の関節のあいだ、ちょうどドラムスティックの支点にしていた場所を辿る指先に、ああ、と頷く。
「そうっすね、初演の日はちょっと水ぶくれになってましたけど」
「力むからだっつの」
「でも、やっぱ力入りますよ、あんなステージにいたら」
「そーかよ」
指の腹の感触のくすぐったさに身じろぎしつつ、昴は彼に言葉を返す。暗闇に慣れてきた視界で薄紫の両目が満足げに細められているのが見えて、つられて口元を綻ばせた。
「……まあ、初演も悪くねえ出来だったけどな」
ぼそりと付け足されたそれに、目瞬きをひとつ。
彼にこんなふうに褒められることはあまり多くない。言葉の意味を何度か咀嚼して飲み込むと、喜びがじわりと胸に込み上げた。
ドラムの稽古中に何度もマメを作った場所を撫でる指先も、鼓膜をふるわせる穏やかな声も、やわらかくゆるんだまなざしも、くすぐったくて心地が好い。体を満たすあたたかい感情のまま、大きな手を握り返して彼を呼ぶ。「カイトさん」
「あ?」
「最後のライブシーン、今日もすっげー楽しかったです」
「……おう」
今回の演目の見せ場のひとつである、クライマックスのライブシーン。ある程度の予想はしていたけれども、観客を得てさらに迫力を増した彼の歌とパフォーマンスに、公演初日はついていくのがやっとだった。ステージ慣れしている響也でさえ、ともに歌いながら驚いたように目を丸くしていたから、「そういうこと」なのだろう。
ミュージカルの歌とは違う、けれども確かな、彼のフィールド。そこで自分が演奏し、歌っていることに、鳥肌が立った。
「ちゃんと心臓になれてたかわかんないですけど、……稽古も本番も、ホントにありがとうございました。主演、お疲れさまです」
彼の黒髪から落ちた汗のしずくがステージライトを浴びてちかちかと光って、ひどく眩しかったのを覚えている――眩しかったのはきっと、ライトのせいだけではない。
「……ったく、何度も言わせんなよ」
褒めてやってもいいくらいには、悪くねえ音だった。
そう言って照れ隠しに顔を顰めた彼が、もう一度唇を寄せてくる。それに応えながら下ろした瞼の裏に残る、ライトの下で輝く彼の横顔を、きっと一生忘れない。
***
20161030Sun.
■前略愛しのトリックスター!
閑散とした稽古場に、ドリブルとバスケットシューズの音が絶え間なく響く。一定のリズムでボールを取り回しながらいくつかのパターンになっているステップを踏み、それを黙々と反復し続ける男がそこにいた。
「――あ、」
ずいぶんと集中しているようだったから、きりがつくまで待ってやるかと眺めはじめて、かれこれ十五分あまりが過ぎたころだった。目測を誤ったか、あるいは汗で滑りでもしたものか。ふいに小さな声が上がり、ボールが男の手元からこぼれて転がる。子どものように悔しげに顔をしかめてボールを拾い上げた男が、ようやくカイトに気付いて目を瞬かせた。
「あれっ、カイトさん。お疲れさまです!」
どうしたんですか?
そう言ってカイトを見やる男の呼吸にはごく薄い乱れがあるばかりで、相変わらずバカみてーな体力だな、とカイトは声に出さず感心を呟く。
今日の全体練習が終わったのが夕刻。時計の針は、すでに二十一時を半ば近くまで過ぎている。カイト自身稽古後は作曲作業のために音響室へ篭りきりだったわけだが、おそらくこの男もレッスンルームに篭りきりなのだろう。バスケットボールを小脇に抱えてこちらへ寄ってきた男へ、カイトはようやく音響室から持ってきた言葉を投げかけた。
「一幕二場の一曲目、若干修正入れたいとこがあってな。お前、立ち回りながらキッチリ拍に合わせてドリブルできるか」
「一幕二場……、ちょっとやってみていいっすか」
「ああ。カウントは入れてやる」
「お願いします」
頷いた男が腰を落として構える。だん、だん、だん、と低く強いドリブル音が一定の拍を刻んでリズムを取ってから、レッスンルームを目一杯に使った立ち回りをはじめる。演目の序盤、主演である昴の最初の見せ場として描かれているこのシーンは、アクロバティックな動きが多く盛り込まれている。観客の目を惹くトリッキーなハンドリングやステップを織り交ぜながら、男はカイトのカウントに合わせて力強いドリブル音を響かせた。
「……ふん。まあ、行けそうだな」
楽曲の基盤となる拍子を刻むドラムスの役割をドリブル音に変えるつもりで男に立ち回らせたのだが、現段階でのカイトのイメージとの齟齬はさほどない。予定通りこの方向で修正をかけようと決めて、カイトはカウントする手と声をとめた。レッスンルームとは勝手の違う舞台上、ほかのキャストとの動線を意識しながらということになるのでタイミング調整はかなりシビアなものになるだろうけれども、そこに関してはこの男の練度次第だ。それほど心配はしていなかった。演出を担当している響也も、おそらく難色は示さないだろう。
「なんか曲のアレンジとかが変わるんですか?」
「曲調は変えねーが、使う音を変える。明日中にはジュニアに通して差し替えるから、それまで待ってろ」
「へへ、楽しみにしてます!」
男はカイトの答えに素直に頷いて、壁際に置いてあったスポーツドリンクのペットボトルとタオルを取る。首筋に伝った汗を無造作に拭い、幾度か喉を鳴らして水分補給をしてから、ボールを持ち直してくるりと踵を返す。
「まだやんのか」
「はい、もう少しだけ。カイトさんは?」
「……あと三十分もあれば終わる。お前もそろそろ上がれよ。ダウンストレッチも着替えもあんだろ」
「え、」
でも、ともの言いたげにする男の声に重ねるように、カイトは続ける。
「今日はもう俺らしか残ってねーし、明日も朝から稽古だろうが」
「う……、それは、わかってますけど」
「お前がやりすぎないようにちゃんと見とけって、ジュニアにも言われてんだよ。どやされんのはごめんだぜ」
「響也さんが?」
「……んだよ、俺にはダダこねるくせに、ジュニアの言うことなら聞くっつーのか、ああ?」
「へ!?いや、べつにそういうわけじゃ……って痛い痛い!頭ギュッてすんのやめてください!」
男の頭を手のひらでがしりと捕まえて、普段の調子で戯れる。逃げるように身をよじってみせる男の声には形ばかりの抵抗が混ざるばかりで、ひとまずはカイトの言を受け入れた気配があった。
名前を出すつもりはなかったが、見張っておくようにというのも、帰り際の響也から実際に置いて行かれた言葉である。体育会系育ちの経歴と、根の素直な熱血漢という持ち前の気性が影響してか、この男は張り切るあまりどうにも無茶をしがちなきらいがあるようだった。
ちらと足元へ視線を向ければ、黒いサポーターが男の左膝まわりをしっかりと覆っている。次回公演「The Last Second」の主演を務めることが決まってすぐ、足に残る手術痕を隠すため、と言って男が自ら用意してきたものだ。いまはほとんど完治していると聞いてはいるものの、足の故障という過去を抱える男にとってその言動に他意があるのかどうか、いまだに定かではない。なんにせよ足への負荷が減るのならそれに越したことはないだろうという会話だけは、他の面々とも交わしたのだけれども。
「気合い入れるのはいいが、ペース配分ってモンもちゃんと覚えてけよ、体力バカ」
普段の稽古の際などにはまったく気にせず外気に晒されているうえ、体を重ねるときにはそこにくちづけすらするカイトには引き攣れた手術痕もすっかり見慣れたものだったが、真新しいサポーターを目にするとほんのわずかなざわつきを覚えずにはいられない。知らず、言い聞かせるようにしながら前髪をかきあげていた。汗ばんだ熱い額が手のひらにふれる。
「カイトさん?」
くすぐったいですよ、と肩を竦めて、男は無防備に笑う。
この男は幼い子どものようで、あるいは大型犬めいてもいて、――それから、音楽に似ていた。ふれるたびくるくるとあざやかに変わる声や表情が、心地好く感情をふるわせてやまない。手を伸ばして、こちらを見ろと捕まえてやりたくなる。
脳天気な笑顔に自分の心ばかりが揺らされているようで、少々悔しい。人目がないのを口実に、ぐしゃぐしゃと男の髪をかき混ぜた。
「ちょ、カイトさん、オレ汗だくですって……っ」
「はあ?いつももっとグチャグチャなとこ晒してんだろーが、いまさらなに言って」
「おわーーーーー!?!?カイトさんこそこんなとこでなに言ってんですか!!」
「べつにいいだろ、誰もいねぇし」
「そういう話じゃなくて、って、うわっ……!」
「?ッおわっ……!」
いささか荒めに戯れた拍子、男の手から落ちたボールが弾んでカイトの足元へ転がり込む。まずい、と思った瞬間には時すでに遅し、カイトは豪快にバランスを崩して男もろとも床に倒れ込んだ。どたん!
「ってて……大丈夫ですか、カイトさん」
「お、おう……」
思いきり男を下敷きにして転んでしまい、さすがにというか、当然ながらにとても決まりが悪い。この新堂カイト様ともあろうものがなんということだ。男の体の厚みを感じつつ上体を起こすと、ひどく心配そうな色を湛えて揺れるティーブラウンと目があった。
「すみません、ボール落としちゃって……!どっか捻ったりしてないですよね?!」
「……、してねえ」
「そっ……う、ですか、あーもー、よかったー……!」
「お前こそ、大丈夫だろうな」
こんな時期に怪我をさせたとあっては本気で洒落にならない。ばつが悪いのを横に押しのけてどうにかそれだけ問い返すと、まるい瞳がぱちぱちと目瞬いて、子どものように破顔した。
「あはは、そ、そんな顔しなくても大丈夫ですよ!」
ちゃんと受け身も取れたし、どこも捻ったりしてません!
男はカイトを安心させるように言い足して、いそいそと身を起こす。俊敏な身のこなしで立ち上がってみせる動きや表情には、たしかに違和感は見受けられない。本当だろうな、と念押しの視線を向けたカイトに、男は数秒何事か思案するように動きを止めて、それからぼそりと呟くように言う。「じゃあ、その、」
「…………あとでたしかめてください。……カイトさんちで」
「は、」
「――じゃ、オレ、ダウンやるんで!カイトさんも仕事!」
「は?!いや、おい、ちょ、おまっ……!」
それは一体どういう意味だ、と尋ねる前にぐいぐいと背中を押されてレッスンルームから追い出される。扉の閉まり際、男の首筋までもがあざやかに朱に染まっているのが肩越しに見えて――廊下に放り出されたカイトはひとり、手のひらで額を覆ったのだった。
***
20161123Wed.