蒼穹の翼 201X年某日、数十年ぶりに開催された超人WBCで日本代表超人が下馬評を覆し逆転優勝を収めた。壮絶な空中戦の末垂れ込めた暗雲を吹き払っての勝利に誰もが歓喜しロシアのメディアは『我々の守護神が奪われた翼を若き勇者が取り戻した』と書き立てた。
同日、モスクワ超人メディカルセンターにて一人の男が意識を取り戻した。
「隷下の部隊からの報告は以上です。個人的な見舞いも届いているようですが」
オフィスに戻る道すがら部下の口頭報告を聞きイリューヒンは口許を緩める。極東方面はパレード続きで警備関係者も神経を遣うだろうが情勢は安定しているようだ。
「―ベラヤ襲撃事件の続報はまだか」
数週間前のテロ未遂事件を思い出して問いかけると副官は表情を曇らせた。
「―犯人は未だ検挙されていません。イルクーツクの銃砲店やホテルを中心に調査していますが素手での犯行ということもあり足取りを掴むのが難しい状況です」
「そうか。引き続き調査を頼む。―41師団方面でも騒ぎがなかったか」
「ノヴォシビルスクのですか?あれは基地や工場に被害はありません。ただ少々、警官と浮浪者か外国人が揉めた程度です」
如何に傷病休暇明けとは言え地方のちょっとした小競り合いの事まで気にする上官には全く頭が下がる。が、ベラヤ基地の件とて衛兵を殴り倒し銃撃戦にまで至らしめた犯人こそ取り逃がしたもののこちらに大きな被害は無かったのだ。憤懣やるかたないが些末事の処理は自分達に任せて欲しい。
群を抜く長身の上官が僅かに逡巡し口を開いた。その瞬間、警報が鳴り響き作業中の人員達が即座に反応する。
「何が起きた!」
慌ただしく通信が飛び交い出す。塀と縁石を軽々飛び越えて副官が兵士に問いただすと無線機を手にした兵士が緊張した面持ちで回答した。
「侵入者です!通用門を突破した暴漢に歩哨が発砲、即応部隊が出動中!爆発物の有無は不明!」
「白昼堂々と!情況を確認してくる!」
緊迫した現場を縫って走り出した副官はぎょっとした。通用門への経路を疾駆する中長身の上官が併走してくる。
「隊長、危険です!d.M.p残党かもしれません、避難してください!」
「戦闘機が人間に守られてどうする!」
副官に怒鳴り返すとイリューヒンは殺気立つロシア兵達をかき分け跳弾と怒号が飛び交う道路に駆けつけた。土煙と硝煙が立ちこめる中火花に取り囲まれながら筋肉質の長身の影が飛びすさっている。
「パジャールスタ!ニェ スポール!ヤー トーリカ ハチュー ガバリーチェ!(頼む、戦いに来たんじゃない!話したいだけなんだ!)」
「テロ目的か!よりによってロシア軍相手によく来られたもんだ!」
深く音楽的な―だが全く以てロシア語慣れしていない癖のあるテノール。いやという程聞き覚えのあるそれにイリューヒンは眉を顰めた。耳を貸すこともなく歩哨達が次々に弾薬を装填し侵入者にぶっ放す。増援に駆けつけた兵士達が素早く散開態勢で対超人用の包囲を敷けば流石の鉄仮面がたじろぐ。
が、険しい顔をした馴染みの指揮官がイリューヒンに気づき血相を変えた。
「将校どの、退避を!標的はあんたに違いない。ここは俺達が対処します!」
侵入者の姿勢に隙ができた。仮面の奥の視線がこちらに向かう。
「―イリューヒン!?」
「今だ、捕獲しろ!」
即応部隊指揮官の合図と共に四方八方から兵士達が大挙をなして長身を地に引き倒し腕をねじ上げあらゆる急所に銃口を突きつけた。同時に副官に呼応してイリューヒンの周りを重武装の護衛達が固める。
ロシア軍基準でもそれなりに体格の良い連中に山の如くのし掛かられたケビンマスクが金髪を泥に塗れさせながら必死でこちらを振り仰いだ。
「イリューヒン、あんた―その腕はっ、もう飛べるのか!?」
「てめえ誰のせいだと思っていやがるこの悪行超人が!」
ならず者が往生際悪く身じろぎするのを兵士達が押さえつける。未だ包帯の下には粗い塗装と生体パーツも露わだが否定する程ではない。
「―ああ、慣らし飛行程度なら問題ない」
その瞬間、黒い風が起こった。ケビンが膂力だけで兵士達をはね飛ばしこちらに突進してくる。怒声と金属音が交錯し護衛達が銃把を握るがイリューヒンが短く押し止める。コンマ以下の秒数でイリューヒンの眼前に辿り着いた青年はもどかしげに懐から大振りのスペツナズナイフを取り出した。
とうとう光り物に手を出したか、と誰もが思った。兵士達の射線が一点に集中しイリューヒンすら苦く舌打ちする。
結果から言えば鉄騎兵の凶刃が振るわれる事はなかった。抜き身の大型ナイフ(超人の体格と比較すれば果物ナイフ程度だが)は道路に投げ出されコートを纏った長身が膝をつき金髪が靡く。
「・・・・・・!?何の真似だ!」
「―すまなかった!WGP準決勝の際、非道な真似をしてしまった!アンタに過剰な怪我を負わせてしまって、本当に悪い事をした!」
紫紺の仮面が地面に擦り付けられ揺れるテノールが響く。投げ出された長身がロシア兵達に見下ろされる中地に伏し続ける。
「謝って許されるような事じゃないって分かってる!そのナイフで俺を同じ目に遭わせてくれて構わない、腕の一本でも二本でもこの場で償う!アンタの気が済むのなら幾らでもそれに従う!」
「テメエ、ふざけるな!自分が何をしたか分かってるのか!?将校どのはもう少しで、一つ間違ってれば!テメエのせいで・・・!」
「この英国野郎!お前は我々から、いやロシアから全ての希望を奪い去る所だったんだぞ!それを今更!」
隊員達が激高し次々に銃口がイギリス超人に向けられる。一つ罵声を浴びる度にコートが揺れる。しかし青年は顔を伏せたまま土下座の態勢を解こうとはしない。あの日指揮官に何が起こったか鮮明に思い起こさせられたロシア兵達が無防備なケビンの身体に狙いを定めた瞬間、赤い風が奔った。
「止せ」
真紅の翼が陽光を反射して鋭く輝く。青空すら音速のうちに駆け抜けるロシア最強の鮮血翼を数ヶ月ぶりに目の当たりにした兵士達が息を呑んだ。
片腕だけを変形させ、部下達を制したイリューヒンはその姿勢のままケビンに歩み寄り、膝を屈めた。『隊長!』と叫ぶ声と同時に土下座したままの両肩がびくりと揺れる。
すぐ上から静かに声がかけられた。
「万太郎は強かったか」
「・・・ああ」
「目指す強さは、見つかったか」
一言一言、区切るように投げかけられる言葉に青年は必死で頷いた。青玉の仮面とダークブロンドが更に埃に塗れるのをじっと眺めたロシア超人は、その腕を軽く叩いた。
「なら、良かった」
柔らかくすらある声音に青年がはっと顔を上げるとイリューヒンはその腕を取って立ち上がらせた。
「送って行こう。今お前と争う理由はない」
大型四輪駆動のドアを開けると座席のケビンが顔を上げた。
「必要書類はこちらのケースに全部入っている。肌身離さず携行しろよ。それから、ほら」
「・・・悪いな」
躊躇いがちに青年がピロシキとコーヒーを受け取った。イリューヒンは反対側のドアから運転席に乗り込む。
遡ること数時間前。基地で一悶着あった後ケビンの送還の為パスポート、入出国カード、ビザ、バウチャー等を改めようとしたところ青年はいずれも所持していなかった―それどころか担当省庁への照会で不法入国が発覚した。日本海を渡りウラジオストクから単身、ユーラシア大陸を横断しながら当てずっぽうに空軍基地を訪ね歩いては歩哨や警官と騒ぎを起こしていたのだという。
―同じロシア国内とは言えウラジオストクを始点、モスクワを終点とするシベリア鉄道の総距離は9259km。ざっと地球1/4周分に相当する。
(せめてウクラインカ出張時でなくて良かったとすべきか・・・これ以上EUを刺激したくはない)
シベリア鉄道沿線だけでも遭遇した可能性がありそうなのは10箇所以上。勿論単純計算の話だ。この元不良が僻地に迷い込んだり航空機が離着陸していれば『空軍』基地と見なしたなら陸軍基地も被害に遭っていた事になる。
この段階で殺気立ったロシア兵達が凄まじい形相になっていた。誰も彼も安全装置を外しっぱなしで銃口は常に鉄仮面の方を向いている。発砲に至らなかったのはイリューヒンが意図的に射線上に割り込みケビンの側で方々と連絡を取り続けていたからだ。
「―では、現在この男の処遇は超人警察マターであると」
『―ああ、存在自体が治外法権だ。クソ忌々しいことにな。しかしイリューヒン、世論と司法的道義を考えれば「密入国者」の一人や二人幾らでもいなかった事にできるぞ。何せ軍事基地への不法侵入現行犯だ。イギリスだって庇い立てのしようがあるまい』
空軍将校は傍らの青年を一瞥した。ロシア語に不案内ながらも流石に剣呑な空気を感じ取ったのか広い肩がしょぼくれている。おい、親鳥とはぐれた雛のような顔をするなこの猛禽が。
「止めておきましょう。西側の出方が不透明な以上、超人警察まで敵に回したくはない」
専用回線を切断するとイリューヒンは部下に別件の回答結果を問うた。先程連絡を交わしていた職員達同様地を這うような声で返答してくる。
「在モスクワ英国大使館はやはりまだ碌に機能していないようです。ロンドンと協議したようですが受け入れ態勢を整えるのに五時間はかかるのでこちらで待機させられたし、と」
「―それだけか?」
「以上です、隊長」
実はこの時期ロシアの対英感情は最悪かそれに準じるものだった。幾らWGPに政治的意図がないとはいっても贔屓選手が凄惨な敗北を喫し死線すら彷徨えば怒りを抑えろと言う方が無理と言うものだ。ロシアでは警官による(主に外国人への)強請りたかりは然程珍しくないが物理的な力量差には聡い。ケビンマスクのような見るからに危険で体格の良い超人相手なら大概の事は見過ごされてもおかしくないがイリューヒンはとある理由からそういった地方警官達への人気も高かった―彼を重体に追い込んだ張本人を目の前にすれば怒りに腕力差さえ忘れさせる程には。
(通常勤務に戻る前に各地の基地及び主要な詰所を訪問しておくべきだろうな・・・)
準決勝後そこかしこで小規模ではあったものの英国系企業や出向者への襲撃が目立った。イギリス本国では最終的に覇権さえ取れれば全て黙らせられるという楽観論が主流だったようだが排外機運の高まりを重く見た英国外務省と在露公館が迅速に在露邦人引き揚げ手続きを進めていた。
結局は万太郎の優勝でロシア国民の溜飲は下がった、と見なされたがそうすると今度は揺り戻しとしての大規模な暴動が懸念される。極東のお祭り騒ぎの余韻も冷めやらぬうちに旧西側の領袖は大規模な邦人避難を済ませ主だった公使達はWGP後の事後処理について確認を取る、と称して最低限の人員を残しロンドンに舞い戻った。
―外交的には公使召還は戦争前夜を意味する。
イリューヒンは部下達と金髪の鬼公子を交互に眺めやる。この状況で五時間も過ごせばケビンの訪問すら『無かった』事になるだろう。
「車を回せ。少し遠出して送り届けてくる」
「隊長!」
超人パイロットの周囲に猿山よろしく集まっていた(但し護衛及び包囲目的で)ロシア兵達が抗議の声を上げる。赤き超人将校は殊更鷹揚に首を回して見せた。
「オレも久々の勤務で肩が凝っちまってな。リハビリがてらドライブも悪くないだろう」
勿論隊員達の収まりがつく訳もなく上官に代わって送迎役を買って出たり(丁重に断った)テロに遭う可能性を危惧されたり(WGPベスト4級二人相手にそんな攻撃を仕掛ける度胸がある奴がいるなら是非登用したい)果ては準備が調うまでに幹部用食堂での休憩を提案されたり(ペチェンガまで行かずとも数時間もあれば大体の劇物の調達目処はつく)色々あったが全て押し切り超人用車両を用意させ数十分後には基地を出た。
(航空機の方が迅速だろうが・・・万が一のことを考えるとな)
空路よりは陸路の方がよしんば爆発炎上でも起きた際の被害はまだ最小限に留まると思われた。どの道出国用の書類を入手する為にはモスクワ官公庁を回らなければならない。またぞろいきり立つ関係各所を宥めすかしてどうにかこの不良の存在を合法的な物にした辺りで本人からEU方面に出たいと言われこの珍客をできる限りモスクワから遠くに放り出したかったロシア超人はそれに同意した。
かくして遠路はるばる訪れた英国鬼公子を東欧方面までお見送りする運びとなった訳だが、当の仇敵は助手席で不味そうにピロシキを食んでいる。―おい、モスクワ支店とは言え西側資本だぞ。お前の故国のメシ以下とでも言うつもりか。
「―決勝戦後超人警察に出頭したと聞いたが」
ノーヴィ・アルバート通りから西へとハンドルを切りながら問いかけると上背に相応しい幅の肩がびくりと揺れた。・・・今更恐れ入られても困るんだが。
現在両者の会話は日本語で行われている。イリューヒンはパイロットの嗜みとして英語には不自由しないが鉄仮面の経歴を考えると意志疎通は期待し難い。ついでに小一時間の基地滞在でケビンの上着が真冬の捨て犬のような風情になったのでモスクワの大型モールに立ち寄った際超人サイズの物を購入した。多少デザインが野暮ったいだろうが無いよりはマシと思え。
「・・・ああ。マイクロチップの埋め込みと引き替えに施設入りは猶予を貰った・・・行きたい所が、あったんだ」
ぎこちない首肯にイリューヒンはやはり、と確信を深める。外務省は激怒し連邦保安庁は苦り切っていたが超人警察からの監視を考慮して正解だった。軽々に発砲許可を出さなくて良かった、少なくとも部下達に余計な前科を付けたくはない。
「それで、どういう風の吹き回しだ?」
ここまで来たのだ、VIP接遇ならば完璧にこなしてやろう。イリューヒンとて大それた望みの一つや二つはある。これで各方面に貸しが作れるなら安いものだ。
鉄仮面は逡巡したように黄昏の如き仮面を俯ける。イリューヒンも元よりまともな会話が成り立つとは思っていない。浮き世離れした氏には相応の思考が付き物だ。
この季節、冬将軍のイメージが強いロシアはエメラルドのドレスを纏う。通り過ぎていく街路を飾る緑の木々に自然と口元に笑みが浮かぶ。隣に座るのが不良超人でなければさぞ気の利いた小旅行になる事だろう。
「決勝戦の後・・・」
「ん?」
ロシア超人はクトゥーゾフスキー大通りの景観から助手席に視線を移した。まさか返答があるとは思っていなかった。
仮面の鬼公子はダッシュボードに目線を下げたまま、躊躇いがちに言葉を絞り出した。
「入院先の病院に色んなヤツが来たんだ。実家の連中、イギリス大使館、それから・・・」
―初代キン肉マン。
嘆息するように紡がれた名前にイリューヒンはバイザーの下の眉をピクリと動かした。
実際に顔を合わせる事になるとは思ってもみなかった。万太郎の勝ち名乗りを見届けた迄は覚えているが次に目を覚ました時には病院で身動きもままならなかった。それでも抜きんでた体躯と筋力、それに伴う回復力のせいかすぐに起き上がれるようになったし訪問客への受け答えも出来るようになった。何だかんだで入院中は退屈なので人と話せるだけでも気が紛れる。
だが流石に、息子そっくりの笑い方のキン肉星大王が牛丼屋の包みを持って特別室に見舞いに訪れた時は平静ではいられなかった。しかも気軽にベッドサイドに陣取って『これなら食えるかの』と好々爺の笑みでリンゴを剥き始めるに至ってケビンの感情はついに決壊した。
「オレはあんたを、あんた達を・・・」
流石にそれ以上は言葉にならなかった。
脳裏を戦いの記憶が荒れ狂う。『万太郎よ、これでお前はお終いだ』(ようし、お前がキン肉星王位継承者に引導を渡す所を世界のどこかで見ているだろうお前の父親に見せてやるんだ)キン肉王族は素顔を衆目に曝した時、自害しなければならない。『このケビンマスクがその成功者である最初で最後の超人となるのだ』(今こそ積年の雪辱を果たしロビン王朝が舐めてきた艱難辛苦をキン肉王家に味わわせてやれ)当惑、羞恥、悔恨、罪悪感。幾つもの感情が閃き、衝突し胸中に渦巻く。相互に存在を主張し矛盾し合う吹き荒ぶ冬の波濤の如き激情はケビンの脳髄に炸裂し喉元で呼吸を妨げた。
やり場のない憤りにケビンの拳が上掛けを強く掴む。―いっそこの中に隠れてしまえるぐらい子供ならば良かった。
何の話かすぐに察したのだろう、現大王は眉を一瞬大きく八の字に下げたがすぐに大笑した。
「なあに、実際にはやらなかったから良いんじゃよ!それにだ、お前さんは私の親友ロビンマスクの息子!ならば私の息子も同然じゃ!」
現在足繁くこの病院に通って見舞いの他に個人指導も受けているのだと老超人は嬉しそうに教えてくれた。入院患者の中にとびきり優秀な関節技の名手がいるから手解きを受けているのだと。
「年を取ってバスター系の大技は辛くなってしまったが関節技ならまだ有効そうじゃからのう!万太郎がオイタをした時のお仕置きに最適じゃろうて!」
朗らかに初代キン肉マンが言い放つと扉の隙間でぴょこぴょこ揺れていたトサカが飛び上がって憤然と抗議してきた。
―考える時間は幾らでもあった。
実家が手配した富裕層向けの特別個室、報道陣もシャットアウトされ専用スタッフが24時間維持管理に努めるホテルと見紛う快適な部屋。そのサイドボードに、不格好に剥かれ楊枝を刺されたリンゴと冷めた牛丼屋の袋。
以前ならば脇目もふらずトレーニングに費やしていた余暇だが流石にまだ本調子ではない。20年そこそこのケビンの人生の中で、ここまで動けないのも初めてだった。
部屋の外で何か重い物が落ちる音がした。
負けん気の強さで松葉杖を使わずに歩行する。三ヤード、四ヤード。駆け去る複数の足音に一歩追いつかず扉を開ければ幾つもの大袋が廊下に置かれていた。
ステーキ用牛肉、冷凍ブルスト、新巻鮭一尾、そしてカルビ丼。何の騒ぎかと駆けつけた看護師達が呆れ顔になった。
「生物の持ち込みは禁止なんですけどねえ・・・どこから侵入したのやら」
―考える事は幾らでもあった。
「・・・オレは、ロビン王朝再興の為だけに闘ってた。否定なんて誰にもさせない、オレの強さを世界中に証明して認めさせてやるって、その為なら何を犠牲にしても―誰を踏みにじっても構わないと、そう思ってた」
夕暮れに包まれる部屋の中でケビンの視界に様々な置き土産が滲んでいた―チャンピオンベルトに比べれば、何とも安上がりで低俗な筈の。
金髪の青年は言葉を切る。ハンドルを握るロシア超人は黙ったままだ。
「思ったんだ。オレが誰にも譲れないモノを、命懸けででも認めさせたいものを持ってたように、他の連中にも・・・大事なものがあったんじゃないかって。そうしたら・・・居ても立ってもいられなくなった」
仮面の奥の視線が揺れる。運転席からの応えが無いのにぎこちなく息を吐き出して、不良超人は言葉を紡いだ。
「―アンタの事を調べたんだ。超人データベースにアクセスして主要な記事は・・・大体見られた」
イリューヒンは進行方向を向いたまま顔を顰めた。パスワードロックか閲覧制限ぐらいかけておけと責任者を叱責したい気分になったが記載事項はロシアではほぼ周知の事実だ、自分の要求は不条理に過ぎる。―話が好ましからざる方向に転がろうとしているが、自分はそれを止められずにいる。
なのに若いイギリス超人はこちらの気も知らず答えを急いで隣から必死に身を乗り出してきた。
「なあ、そうなんだろう!?d.M.p本隊襲来時に特別編成された対悪行超人特殊飛行部隊!ロシア・CIS方面軍の超人指揮官として二年前の東欧・コーカサス戦線でアンタは―」
「それ以上口にするな」
自制したつもりだったが口から漏れたのは低い声だった。鉄仮面が気勢を削がれる。奥歯を噛みしめ、戦闘機パイロットの視力でクトゥーゾフスキー大通りの更にその先、モスクワ郊外からミンスク、スモレンスクまでイリューヒンは見据える―あの時期ひっきりなしに火の手が上がっていた街並みを。
「それが、あの時の任務だっただけだ・・・指令さえ下れば何度だって、何処でだって遂行してやる」
押し殺した言葉とは裏腹に超人仕様のハンドルがミシリと音を立てた。
あの地獄の日々は今も脳裏に焼き付いて離れない。絶え間なくがなり立てる緊急警報、出動の間隔が短すぎてメンテナンスの時間も人員も確保しきれず幾度も発生する機体不良、パイロットが掴みかかり整備士が怒鳴り返す。守備範囲は広大なロシア全域・東欧・中央アジア。磨耗する翼と精神をあざ笑うかのように次々に敵は湧いて出る―指揮系統の隙間を縫うようにもたらされる国境地帯での同時多発攻撃に迫られる決断。二、三時間も仮眠できれば上等、幹部のイリューヒンさえ変形したまま待機状態で固い砂地に銃火器を携えて眠る―当然機体はボロボロだ。
時として各方面軍との合同任務にすらかり出された。イリューヒンは青空の向こうに輝く星々を睨む。終わりの見えない絶望的な特殊任務の中、まともに休息できない状況で見上げる満天の星々が無情に瞬くのが実に恨めしかった。
任官してから辞表を出そうと思った回数など覚えていない。この時期毎日のように、出撃の度に思っていた―この戦いにケリがついたら、絶対に辞めてやると。一連の作戦行動での戦功は確かにイリューヒンの昇進を後押しした。各地の指揮官や一兵卒に至るまでの信望を得た。だが、失ったものは大きかった。
飛行部隊指揮官は地上に目を移す。自分は血を流し過ぎた。行き着く先は無名戦士の墓か、軍事法廷か。少なくとも今更正義超人と名乗れるなどとは思ってはいない―だが、ロシアの女子供の血を見るよりは遙かにマシだ。
「オレは、ロシアの防衛戦略に基づく限りどんな任務も厭いはしない・・・!それが命令なら、元悪行超人とすら共闘してみせる・・・!」
現状ヨーロッパ情勢も読めない。ロシアで英国系排斥運動が大規模化しようものならおそらくEUは喜々として経済制裁に動くはずだ。老いたりとは言え伝説超人の影響力と相互のネットワークは無視できない。大英帝国の老獅子、中華の大虎、そしてラインの古狼―あの男は、冷戦時代の借りを返すべく常に牙を研ぎ澄ませている。
経済的打撃を受ければよりロシアの世論は硬化する。万が一主戦論にでも傾いて、西欧と衝突した場合漁夫の利を得るのは誰だ?―d.M.p残党と国内反ロシア勢力が大喜びで隙をついてくるに決まっている。
イリューヒン自身がしくじった所を万太郎が首の皮一枚で繋ぎ止め、正義超人陣営の基盤は盤石なりと示し今日がある。自分の私怨一つでぶち壊しにする事など何としても避けなければならなかった。
(オレにはまだ・・・力が足りない)
死者を減らす膂力、生者に報いる権力。危機に出撃はできても長期的視野で以て未然に防ぐ事ができない―ある種の伝説超人が、まるで予見したかのように長期的に弟子に基礎から実践に至るまでの訓練を施し、d.M.p襲来の時機までに一人前の戦士として完成させたようには。
硬い表情でベラルーシに至る道―正確に言えば更にその西―を見据える男にケビンが気まずそうに視線を逸らした。助手席でぼそぼそと何か呟いているのが聞こえたがイリューヒンは無視した。
ヴャジマを過ぎ、ドニエプル川も大分近くなった頃だろうか。ロシア超人はバックミラー越しに後部座席にちらりと目をやった。モスクワから気になってはいたが、どう見ても帰省用の荷物の量ではない。
「ロシアの他にオランダと―朝鮮半島にも?」
小一時間の沈黙を破って声をかけると居た堪れずに顔を背けていたケビンが目を瞠り、そして拳をぎゅっと固めた。
「・・・ああ。謝って受け入れられるなんて思っちゃいない。手足の一、二本は失う覚悟だ・・・!」
如何なる敵にも臆した試しのない不屈の鉄騎兵の手が細かく震えていた。それを見やり、イリューヒンは視線を前方に戻す。
「オレはこういう生業だ。気休めや楽観論は言えない」
「ああ・・・」
傷つけた相手にそんな甘えは許されないとケビンは自分を叱咤する。どれだけ震えようが、試合中も感じたことの無いような緊張感に襲われようが、全て自力で克服しなければならないのだ。
「―だから、これはオレの独り言だ」
鉄仮面の鬼公子が隣を見た。視線を動かさず、進行方向を見たまま真紅の翼のパイロットは続ける。
「オレは、お前が・・・変わったように思う。以前ならば他者の痛みを思いやったり、異なる信念や義務を慮ったりするような男ではなかった。今のお前となら・・・将来、後背を任せて闘えるようになる、可能性があるかもしれない」
目線はそのままに一言一言、静かに紡がれた言葉にケビンは胸を詰まらせた。顔の中心に熱いものが集中し、仮面の奥の両眼を忙しなく瞬かせる。溢れそうになる情動をそれでも堪え、顎を引いて金髪の青年はどうにか答えた。
「Thank you very much...!」
スモレンスクが近づく。ミンスク行きの切符と書類に不備はない。長丁場の送迎任務も大過なく終えられそうでイリューヒンはほっと肩の力を抜いた。それでも釘を刺すことは忘れない。
「おい、乗り場はさっき教えた通りだからな。前払いしてやったんだから横着して屋根に乗って車掌をやり過ごしたりするなよ。書類のケースは加工はしてあるが密封はしてないからな。迷ってバルト海横断など間違ってもするなよ」
「分かってる。・・・何から何まで、本当に世話になった。この恩は忘れない」
その殊勝さが三日保てばいいがな、とイリューヒンは返した。一瞬青年はムッとするがそれでも感情を抑えたようだ。マッスル・Gの威力は侮り難いなとイリューヒンは感心する。
「・・・あと一つ、教えて貰っても良いか」
遠慮がちなテノールに少しだけ視線を動かせばケビンは多分に躊躇いと関心を含んだ表情でこちらを見ていた。
「何だ?」
「万太郎と闘った時、何人も同時に相手取ってるような気になった。事実、あいつは・・・必殺技を全て破られても何度も立ち上がってきた。観客や仲間、敗退した連中の声援にすら応えて」
名も無き人間達、悪行の汚名を着せられ一度は表舞台から去った選手、決勝に駒を進めることすらできず敗退した超人達。いずれもケビンが頂点に立てば一掃され、後ろ指を指され顧みられることもない、花形戦士の引き立て役として搾取されるだけの存在になったであろうちっぽけな何の力も持たない者達だった。ミートの到着までセコンドを務めた農村マンなど、本大会出場すら叶わなかったのだ。
(・・・実際、その中の誰よりもこいつの方が強かっただろうな)
「無力な連中だと思ってた。外野で騒ぐしか能のない、戦力として何の足しにもならない、何の価値もない奴らだと!・・・けどそうじゃなかった」
マッスル・ミレニアムを破られ支えを無くした万太郎を鼓舞し続けた農村マン、キッド、セイウチン。重傷を負い絶対安静の状態に在りながら這ってでも試合会場に現れたジェイド、ウォッシュ・アス、バリアフリーマン。石持て追われる可能性を承知しながらWGPの場に舞い戻ったヒカルド、他人の勝利の為に日本を縦断したガゼルマン、チェック・メイト。そして―勝ち馬に乗ることなく万太郎を応援し続けた一般人観客達。
「・・・そいつらの為に万太郎は立ち上がったんだろう。お前に負けない為と言うよりは、愛着のあるものを守りたいが為に」
「・・・アンタと、同じだったんだ」
「何?」
遠く離れたモスクワにいても劇的だった顛末を思い返し評したイリューヒンにケビンが反駁する。ロシア超人は助手席を向いた。
「オレは、アンタは何の得にもならないものの為に闘ってると思ってた・・・あの時、見栄だけで立ってると思った。馬鹿なヤツだって」
ケビンの視界に存在しうるのは強者だけだった。ジャイロコンパスの回転が止まった時点で勝負は決まったようなものだ、選手生命を考えればイリューヒンはとっとと倒れた方が利口だった。
『一億五千万人の国民の為に、オレは闘っている・・・』
すんでの所で相手は持ち堪えた。余計傷を広げるだけだろうに手動でコンパスを回転させ、体力と気力の限界まで変形と技の応酬を繰り返した。ビッグベン・エッジ、OLAP。あれ程の大技をかけ恐怖と苦痛の絶頂に陥れても尚、男は命乞い一つしなかった。
『オレは・・・まだ、ロシアのために・・・負けられん・・・』
両腕をもぎ取られ出血多量で意識を失う最後の一瞬ですら、パイロットの魂はロシアの為に在った。ケビンが取るに足らないと思っていた力無き人間達の為に。
イリューヒンは僅かに目を瞠った。―ようやく、得心がいった。
(だからここに来たのか・・・)
「オレは一人で・・・自分の為だけに闘ってた。万太郎やアンタはそうじゃなかった。―どんな気持ちなんだ。正義超人が正義の為に・・・人の為に闘うなら、アンタにとって背負ってるものはただの重荷じゃないのか?何度も立ち上がって来れるぐらい、張り合いのあるものなのか?」
強い眼差しだった。歴戦の対d.M.p指揮官が返答に窮した。
目的地はすぐ側だった。スモレンスク駅のスターリン建築を間近に臨み、イリューヒンは車両を停止させる。
「それは今後お前が正義超人としてやっていく中で見つけろ。お前の動機は、お前だけの答えだ」
「イリューヒン!」
響きの良いテノールが切羽詰まったように叫ぶ。ドアを開けて荷物を下ろしてやりながら『ただ、』と超人将校は続けた。
「ただ、オレの場合で言うなら―良い事だけでもなく、悪い事だらけでもない。枷になったり行動を制限される事はあるが―推進力になる事の方が多い」
イリューヒンは自らの白銀の装甲を示し、次いでその指を青年に向けた。突きつけられる拳にケビンが僅かにたじろぐ。
「―お前も、知っているだろう。機械の体にだって、熱いモノは宿る。しっかりやれよ」
「・・・ああ!」
拳を開き手を差し出したイリューヒンに嬉しそうにケビンが破顔して握手を交わした。
「さっき庇われた時、アンタの翼―頼もしくて、心強かった。本当に、腕が治って良かった!」
最後の最後でロシア超人は軽く眉根を寄せた。
「子供の感傷だな」
クレムリンの主は不機嫌そうに切って捨てた。報告を終えたイリューヒンは短く賛意を示す。
鉄仮面をスモレンスクで見送ってすぐにイリューヒンの元に軍用車両が横付けされた。一人はイリューヒンが運転してきた車を元の基地に返す為にキーを預かり、その他の者達は数分の距離の空軍基地まで超人将校の送迎にあたった。
大型超人でも寛げる広さと革張りのシートの後部座席に乗り込むと、イリューヒンはロシア軍支給のノートPCを立ち上げ事の経緯と所感について報告書を作成し始めた。どの道後で内蔵レコーダーと付き合わせて精査されるだろうが、閣僚級へのレクチャーに堪えうる物にしておいた方が良い。が、スモレンスク基地からモスクワなら航空機なら数十分もかからないしクレムリンへの移動時間、そして高官達の今日のスケジュールを考えれば報告書自体は概要程度のペーパーにしておくべきだろう。
数時間かかった往路を1/4未満の時間でとって返し、待機していた元老院の一室で呼び出しがかかる十分前には空軍将校はシンクライアント形式で国防省、参謀本部並びに外務省、内務省、司法省等担当省庁閣僚宛の報告書を作成し終えていた。勿論後程各省庁で説明を求められるだろう、それも業務のうちだ。
サーバーに保持されたキリル文字の羅列を一瞥するとロシアの大帝は秘蔵っ子の超人パイロットの分も紅茶を運ばせ、ついでに椅子を勧めた。いつもならばウォッカである所を体を気遣われたのは明白である―有り難いが、まだ本調子でないのが歯痒い。
「ヤツは信用できるのか。あの図体と情緒ではあっという間に所属国のリソースを食い尽くすぞ」
「仰る通りですが、隆盛を誇ってきたイギリス超人界の中枢にエージェントを作る良い機会です。WGPの意趣返しにはなりましょう」
「ふん。超人委員会もファクトリーも誰が面子を保ってやったかも知らず、結構なことだ。いずれ大掃除が必要だな」
毒づく最高指揮官に準決勝からこちら、冷戦再開寸前であった事をまざまざと実感しイリューヒンは視線を泳がせた。
「・・・全ては、キン肉万太郎のKKDの賜物です。一般に思われる程側近達との紐帯も侮れたものではないでしょう。改めてキン肉王家の優位性が確認された以上、ロシアとしても誼を通じておくことは不利益にはなりません」
「―ふむ。まあ良い、恩を売っておくのも悪くないな。そちらの書状は事務方から超人警察とファクトリーに提出させる」
イリューヒンは短く謝辞を述べる。報告書と共に急遽作成した草稿はWGP中の日本・モナコ・タンザニア・ブラジル所属の各超人の行動についての分析と意見具申から成る二機関への推薦状の青写真だった。
―超人警察とのコネクションは喉から手が出る程欲しい代物だった。これについては誠心ケビンマスクに感謝せざるを得ない。
懸案の一つがまずは解決を見たようで、漸くイリューヒンは紅茶に手をつける。それに目を細めながら広大なロシアの支配者は慨嘆した。
「しかし―魂のランタンか。最初に見た時はちっぽけな火花程度の代物だったが・・・」
言葉に籠もった感慨はイリューヒンにも共通の物だった。
自分達のような立場の者がランタンだとか松明と言われれば即座に思い浮かぶものがある―英雄都市ヴォルゴグラードの荘厳な手の彫刻に掲げられた『永遠の炎』、ここクレムリンに隣接したアレクサンドロフスキー公園、無名戦士の墓に同様に灯された慰霊の火。
―おそらくあの少年は、現在生きる戦士達のみならず過去の名も無き魂達まで背負い、そして勝利したのだ。
「年端も行かぬ子供達が命を削って勝ち得た平和です。我々も、それに報いるべきでしょう」
そう言って笑うイリューヒンの視線の先にはあの日もたらされたのと同じ、彼の愛してやまない故郷の青空が広がっていた。