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    しおり
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    しおり
    熱砂の野心家に婚約者がいる話


     スカラビアの副寮長、ジャミル・バイパーには婚約者がいる。
     その噂が学園を流れ出したのはいつだったのか。正確には分からないけれど、多分まだ私がこの世界のことを、何も理解していなかった頃だと思う。
     
     突然だがここで少し、私の話をしよう。
     私は名門魔法士養成学校・ナイトレイブンカレッジ所属・オンボロ寮の寮長。で、少し前は、こことは別の世界にいた単なる一般人。ひょんなことからこちらの世界──ツイステッドワンダーランドに転がり落ちてしまった、紛れもない異分子である。
     魔法も使えない、魔術のことも分からない。あるのは態度のやたら大きい相棒のモンスターだけ。そんなないない尽くしで、元の世界に帰る方法が見つかるまで、石を投げれば悪魔に当たるこの学園で勉強をする羽目になってしまった。それ故、学園内の色んな面倒ごとに巻き込まれて日々を過ごしている。
     要は良いカモで、使い勝手の良いパシリなのだ。
     もちろん、カモにだってカモなりに不満はある。しかし学園から放り出されても困るので、文句は言えない。家賃だと思えば安……くはないけど、飲み込める。
     この学園で生きるためには、あまり深く考えずに、なんでも飲み込むのが一番なのだ。
     
     

     図書室に入ると、古い本の匂いがした。ふわふわと宙に浮かぶ本を避けつつ、番号のついた書架と書架の間をひとつずつ覗き込みながら奥に進む。と、一番奥の少しひらけたスペースの学習席に、目当ての黒い頭を見つけた。
     私は適当な本を棚から一冊抜いて、読書に来た真面目な一生徒に擬態すると、開いた本に目を落とす彼の前の椅子をそっと引く。チラと目を上げた彼は私の顔を見ると、ごくごくささやかに眉根を寄せた。

    「っこんにちは、ジャミル先輩。奇遇ですね」

     作った笑顔で言うと、今度はあからさまに不信の目を向けられた。

    「……奇遇、ね。それじゃあ、俺はなお奇遇なことに、今ちょうど席を立とうとしていたところなんだ。ここの机は君にやるから、好きに使え。じゃあな」
    「ちょちょちょ、早い! ちょ、ちょっとお待ちを! 待って、待って待って本当に!」
    「図書室で大声を出すんじゃない」
    「うっ! お、お願いします、変なジャブ打ったのは謝りますから」

     ジャミル先輩の制服の裾を掴むと、静かな指摘が飛んだ。それでも私の半ベソの顔を見て気を変えてくれたのか、盛大な溜め息とともに彼は足を止めてくれる。体がこちらを向いたことで、ようやっと裾を離す気になれた。

    「俺に用があるなら初めからそう言えばいいだろう」
    「いや、なんか……導入として、こっちのほうが自然かなと思って」
    「偶然を装いたいなら、次からは本当に読みたい本を取ってくるんだな」

     先輩は私の手から本を抜き取ると、ずいと表紙を見せつけてくる。そこには四角いぶちぶちが背中に沢山生えたグロテスクなカエルらしき生物の写真と『本当は怖いジャコウマスガエルの生態』という文字が躍っていた。
     わ、私だってこれが読みたかったかもしれないじゃない。口を尖らせて見上げると、口答えでも? という顔で首をゆるく傾げられた。……なんでもないです。

    「で? 用件は?」
    「まあまあ座ってくださいよ」
    「話し合いのテーブルに着くのは目上の人間と話す時と、用件を断らない時だけと決めてるんでね」

     ぐうの音も出ない危機管理能力の高さである。早く言え、と顎をしゃくられ、ボソボソと用件を話し出す。

    「実は……ジャミル先輩に、勉強を教えていただきたいなぁ、と思って来たんです。時間が空いた時で構わないんですけど……」

     ……言えば何かリアクションが返ってくると思っていたのだけど、ジャミル先輩は無言だった。あまりに静かなのでそっと見上げると、彼にしては珍しい種類の表情を浮かべて黙り込んでいた。なんというか……何を言われたのか理解できない、というような顔だ。

    「あの、ジャミル先輩……?」

     そんなに変なことを言った覚えがなく、おそるおそる呼びかけると、彼は言う。

    「なぜ俺なんだ」
    「え?」
    「君は知り合いが多い。優秀な上級生の知り合いはいくらでもいるだろう。リドルやアズール、あぁ、レオナ先輩でも良いかもな。それがなぜ、わざわざ、どうして俺のところに?」

     なるほど、引っかかったのはそこか。別に私はアズール先輩じゃないから、妙な企みとかは特にないのだけど。まあ……ちょっとした算段というか、下心はあるが。

    「……正直に言っても良いですか」

     ジャミル先輩は「御託はいいから早く言え」と腕を組んで片眉を上げる。私は覚悟を決めて口を開いた。

    「一番……怒られなさそうだと思って」

     私の言に、先輩は「はぁ?」と腹の奥底から出て来るような疑問符を投げかけて来た。図書室では静かに、って言ったくせに。
     私は対抗するように続けた。

    「だってそうじゃないですか。今先輩の話に出て来た人で言えば、リドル先輩は天才な上に努力の人だからめちゃめちゃ厳しそうだし、アズール先輩はあとから来る法外な対価請求が怖いし、レオナ先輩はちっとも真面目に教えてくれなさそうだし、他の人だって……色々考えたらジャミル先輩が、一番忍耐強そうで教え上手そうというか……」

     胸の前で指を組み合わせ、祈るようなポーズをとって言い募る。だんだん尻窄みになる私のまとまらない話の意図を正確に汲み取ったジャミル先輩は、しばらくの無言の後、

    「つまり、カリム・アルアジームを指導してきた経験を買って?」

     と言った。なんだかこの人の口からカリム先輩の話が出ると、少し緊張するな。オーバーブロットの事件があってからは余計に。

    「……まぁ、そう、ですね」

     はー、と盛大な溜め息が耳を貫く。うっ。上級生の溜め息、結構堪える。しかも今回は私のほうがお願いをしている側、いつものように無理難題に巻き込まれているわけでもないから尚更だ。
     でも、私だって、成績がかかっているのだ。溜め息をつかれたくらいで尻尾を巻いて逃げ出すわけにいかない。意思に反して浮きかかった尻を、どうにかもう一度椅子の上に戻して座り直す。
     それを、粘り腰と見て取ったジャミル先輩は不機嫌そうに眉根を寄せる。ま、負けない……!
     しかし、次に彼が放ったのは思いもかけない一言だった。

    「分かった。まぁ、君には世話になったからな」
    「えっ」
    「なんだ、その呆けたような顔は」
    「いや、意外とあっさりだったなと思って……」
    「不満なら他を当たってくれ」
    「いやっ! いやいやいや嘘です、なんでもありません、ジャミル先輩がいいです、ジャミル先輩しか勝ちません、ほんと、捨てないでジャミル先輩!!」
    「誤解を招くようなことを大声で言うな!」

     ギャンギャン喚いたら、とうとう本気で怒られた。悲しい。
     ジャミル先輩は私の真向かいの席に座り直し「ところで、具体的になんの教科が分からないんだ」と問う。

    「概ね全部です」
    「気分が乗らなくなってきた。帰っていいか?」
    「すぐ手のひら返すじゃないですか。駄目です」

     魔法薬学を三年かけて主人に叩き込んだ人間とは思えない堪え性の無さでやいのやいの言う先輩の前に、鞄の中のテキストを並べて開いていく。

    「例えばこの魔法解析学なんですけど、ここの原理がちょっと分からなくて……ミドルスクールで習う四大元素の組み合わせ? の公式? は覚えたんですけど、どこで四大元素を見分けるのかとかが分からなくて……あとこっちの防衛魔法は、私は実技は出来なくてもいいから、とりあえず原理と呪文だけ覚えろって言われてて、今度実技テストの代わりの筆記の論文があるんです。六十分一発勝負のやつで……」

     付箋だらけのそれを見せながら説明をしていると、ジャミル先輩は意外そうに眉を上げた。

    「なんだ、ちゃんと勉強しようとはしてるんじゃないか」
    「え? どういう意味です?」
    「俺はてっきり、分からないところが分からない、と言われるのかと覚悟していたんだが」
    「いや、さすがにそれほどのあれだったら、ちょっと人に教わるのを躊躇うレベルでは……」
    「そうか? 俺はそれほどのあれしか相手にしたことがないから分からないな」

     この刺々しい感じで、誰のことだかすぐ分かる。カリム先輩、本当に手がかかったんだろうなぁ。

    「それはそれは……本当にご苦労様です」

     愛想笑いしかできない私に、ジャミル先輩は「カリムに比べたら、君は出来が良いほうだ」と自嘲するように口端を上げた。

    「それで? この中で最も急ぎなのはどれだ」
    「えーっと、あー、……防衛魔法で!」

     どれも急務だったけど、その中でも一番自分の手に負えなさそうなのを上げる。ジャミル先輩は私が広げたテキストを過去の学習を思い出すようにパラパラと一度捲ると

    「試験の内容は『論文』とだけ聞かされているのか?」
    「いえ、これまでの授業で習った呪文の中から二つが出題されるので、その効果と原理を記すように、と」
    「ふぅん」

     と言ってテキストを私の前に広げ、細くて長い指先でページを示す。

    「それじゃあ、まずは出題範囲にある呪文の洗い出しからだ。始めるぞ」
     

       ◆
     

    「仔犬。実技代わりの論文を返却する。来い」
    「はい!」

     クルーウェル先生に呼ばれて、提出論文を教壇まで取りに行く。ドキドキしながらそっと捲ると、返却された論文には『Aー』の評価がついていた。自分の名前の横に赤いインクで記されている、美しい綴りを信じられない気持ちで見つめる。

    「これ、」
    「ウェルダン。やるじゃないか。席に戻れ」
    「あり、ありがとうございます!」

     深くお辞儀をして、テストを片手に席に戻る。ふわふわとした満足感が胸を満たしていた。やった、……やった!

    「なんだよ、良かったみたいじゃん」
    「どうだったんだ?」
    「オレ様にも見せるんだゾ!」

     隣の席のエースとデュースが言って、グリムと一緒に横から覗き込んでくる。

    「ふなっ!? すげー良い点じゃねーか!」
    「えっ、Aー!? すごいじゃないか! 監督生!」
    「防衛魔法、赤点かもとか言ってたくせに、すっげー良いじゃん!」
    「うん……私も、まさかここまで行けるとは思わなかった……」
    「絶対裏ワザあるだろ? どうやって赤点回避したんだよ、監督生」

     エースに肘で小突かれ、「ふふん、秘密兵器」とだけ答える。

    「なんだよ、もったいぶんなよなぁ!」
    「独り占めはズルいんだゾ!」
    「ステイ! はしゃぐんじゃない、グリム、エース・トラッポラ。躾直されたいのか?」
    「「すいませー……ん」」

     指示棒を振ったクルーウェル先生の一喝で、グリムとエースが叱られた仔犬のように大人しくなる。それに小さく笑いながら、テキストの間に論文を大事に挟み込んだ。あとでジャミル先輩に報告に行かなきゃ。きっと先輩のことだから、『Aー? どこを間違えたんだ』と眉をひそめるだろうけど。

     
     陸上部の集まりがあると言うデュースと別れ、グリムとエースと共に昼休みのざわつく食堂に向かう。そこにカリム先輩の隣に座って食事中だったジャミル先輩を見つけた。報告がてら一緒に食べることになり、食事を買って向かいに座る。
     テキストの間から取り出した論文を「じゃーん!」と言って見せると、ジャミル先輩は

    「Aー? どこを間違えたんだ」

     と、想像と同じく眉をひそめた。思わず吹き出すと「何がおかしいんだ」と盛大に顔をしかめられる。

    「いいえ、なんでも。とにかく、先輩のおかげで赤点回避できました。本当にありがとうございます!」

     頭を下げると「まあ、良かったんじゃないか」と素っ気ない返事が返ってくる。隣で話を聞いていたカリム先輩はニコニコと笑って

    「良かったな! 監督生」
    「はい、本当に助かりました」
    「ジャミルは教えるのが上手いからなぁ」

     と言う。それにジャミル先輩は「お前の指導で鍛えられただけさ」と、淡々と返していた。
     メンチカツサンドを頬張っていたグリムは

    「お前の秘密兵器って、ジャミルのことだったのか?」

     と首を傾げる。「うん、そう」と返すと、同じ部活の気安さでジャミル先輩の横に陣取ったエースが

    「えぇ~! 監督生に教えるんならオレにも教えてくださいよ! 同じバスケ部じゃないっすか! ジャミル先輩のことだから、コツとかあるんでしょ?」

     とごね出した。それにグリムが「じゃあオレ様にも!」と追随する。
     ジャミル先輩は心底うっとおしそうに

    「エース、お前はリドルに教えてもらえば良いだろう。それが難しいならトレイ先輩に言え。グリムは……まぁ教えてやっても良いが、付いてこれるのか?」

     と言う。

    「ふなっ! シツレーな奴なんだゾ! オレ様だって勉強くらい……」
    「なら毎週、監督生と同じ時間に図書室に来い。みっちり三時間、つきっきりで教えてやる」

     その脅しめいた文句と悪い笑みに、「さ、三時間……」とグリムがわななく。エースは「……さっきの、やっぱ無しで」と、胸の前で小さくばってんを作った。

    「じょ、上等なんだゾ! オレ様だって、べ、勉強くらい、毎週、さ、三時間くらい……」
    「無理すんなよグリム、お前にゃ無茶だって」
    「うるせーんだゾ、エース!」
    「足震えてんぞ」
    「大丈夫だって、グリム! ジャミルは本当に教え方が上手いんだ! 三時間なんてあっという間だ」
    「カリムの大丈夫はイマイチ信用ならないんだゾ……」
    「えぇっ! なんでだ!?」

     そりゃそうだろう、と私は心中こっそりグリムに同意する。主人であるカリム先輩相手には優しい指導でも、他の相手にはすごくスパルタなのでは、と勘ぐりたくなる気持ちも分かる。実際、私も怒られこそしなかったけど、まさか三時間も膝を突き合わせて指導されるとは思わなかったし。

    「でもなんか意外っすわ、ジャミル先輩が監督生相手に家庭教師するなんて」

     エースの言葉に、ジャミル先輩が片眉を問うように上げた。

    「だって、ジャミル先輩って、自分の利益にならなそーなことしなさそーっていうか……」
    「お前が俺をどう見ているかよく分かった」

     目の据わったジャミル先輩に、エースがてへ、と舌を出す。

    「いや~だってジャミル先輩ってなんていうか……野心家? って感じだし」
    「まぁ、否定はしないが」
    「でしょ? ジャミル先輩にとって監督生に勉強教えるって、全っ然! なんっにも! メリットなくないすか?」
    「ちょっと。失礼だな」

     妙なところを強調して言わないでほしい。せっかく教えてもらえているのに、ジャミル先輩が「それもそうだな」とか言って引き上げることになっちゃったらどうしてくれるのだ。
     しかし。ふと思う。
     確かに私は、ジャミル先輩の利益になりそうなことを提供できていない。アズール先輩の言う対価よりも抽象的なものも含まれそうな分、判定が難しそうだけど。単純にお世話になったお礼、的な理由で教えてくれていると思っていたのだけど、違うのだろうか。
     そっとジャミル先輩の反応をうかがうと、先輩は少し黙ったあと

    「エースの言うことももっともだが……監督生には報酬をもらってるんでね」

     と答えた。反射的に「え」と言ってしまう。報酬ってなんだろう。あげた覚えがない。

    「あげてましたっけ? 報酬」

     首をかしげると

    「ああ。俺より下がいる、という優越と満足感?」

     ニヤリと笑って言われた。そういえば、前にも言われたことがある。『魔法が使えないのにここで足掻いている君を見ていると、俺の悩みが馬鹿馬鹿しく見える時があるよ』って。
     思わず「せ、性格わる~い!」と返す。彼は意地悪く「ふん」と鼻で笑うと

    「カリム、食べ終わったならもう行くぞ。次は移動だろう」
    「あ、そうだった! ありがとうジャミル。じゃあな、みんな!」

     と弁当を片付けて去って行ってしまった。隣のエースは肩を震わせて「どんま~い」と笑っているし、グリムは「オレ様、払えるものなんかないんだゾ……」と、エースとは別の意味で体を震わせていた。
     ムゥと口を尖らせて、残っていたスパゲティを口に運ぶ。全く、どいつもこいつも、本当、悪魔みたいな人たちばっかりなんだから、この学園は。
     エースが言った。

    「身体で払えとか言われなくてラッキーじゃん」
    「何それ、下世話」

     それで慰めてるつもり? 怪訝に眉を寄せると、エースは肩を竦める。

    「ありえない話じゃないだろー? ここ、男子校だし。ま、ジャミル先輩に限っては絶対ないと思うけど」
    「……まぁ、ジャミル先輩がそういう意味で私に興味があるとも思わないけど」
    「それもあるけど、ジャミル先輩って婚約者いるだろ?」
    「えぇっ!?」

     思わず大きい声が出て、咄嗟に口を抑えた。周りの迷惑そうな視線が突き刺さる。身を屈めて向かいのエースに小声で質問した。

    「何それ、本当に? 高校生で?」
    「オレも本人に聞いたわけじゃねーから噂だけどさぁ、でもそういう話。結構有名だぜ?」
    「えぇ……カリム先輩の間違いじゃなくて?」

     これがカリム先輩だったら、なんとなく理解できる。熱砂の国の大富豪のしきたり、と言われれば、なんとなく、そうか、と思える地盤があるというか。
     しかしエースは腕を組んで

    「いや、オレが聞いたのはジャミル先輩だけ」
    「へぇ……」
    「良かったじゃん、危険がなさそうで」

     と言う。
    「監督生、妙なとこ鼻が利くよなぁ」とエースは笑い、私はもそもそとスパゲティを口に入れる。この世界は本当に、私のいたところとは、全然違うんだなぁ。そんなことをふと思う。まぁ、私にはあまり関係のないことだけど。
     この学園で生きるためには、あまり深く考えずに、なんでも飲み込むべし。それを信条にすれば、比較的多くのことに無関係でいられる。……あくまでも、比較的、だけれど。
     

       ◆
     

    「そこ、間違えてるぞ」
    「え? あ、本当だ。ジャミル先輩天才」
    「お世辞は良いから続けろ」
    「本当に思ってるのに……ブロット排出総量の計算は、自分の魔法力値×0.82?」
    「それは単純計算の公式だろう。そこからこれまでの使用量マイナス、回復値をプラス」
    「……ん? あ、そっか。なるほど」

     魔法解析学の基礎の基礎を直され、頭を搔く。いまだに公式が自分のものにならない。

    「そこでつまずくと、あとでツケがくるぞ」
    「ですよねぇ~……」

     図書室の机に突っ伏す。ゴン、と良い音がして、なかなか痛い。隣ではグリムが同じようにグロッキー状態で寝転んでいた。怒られはしないけど、みっちり詰め込まれるこの勉強会、やはりグリムには向いていなかったかもしれない。
     怯えてたのに誘っちゃって悪かったかしら、と机に突っ伏したままその小さな頭を眺める。
     ジャミル先輩は私たちの様子に、ふぅ、と溜め息をつくと

    「今日はここまでにしよう。軽食でも作ってやるから、スカラビアの寮に来い」

     と言った。現金なことに、グリムの耳がピンと立つ。

    「本当か!? ジャミル」
    「ああ。その小さな頭に糖分を入れたほうが良いだろ」
    「やった~! 軽食軽食ぅ!」

     疲れきったグリムの脳みそは『小さな頭』発言を完全にスルーしたようだった。小躍りして、ぴょんと机から飛び降りる。そのままてってこ図書室の通路を走り抜けて行ってしまうので、「あ、ちょっと待ってグリム!」と慌てて相棒が置いていったテキストと筆記用具をまとめて追いかける。

    「すみません先輩、先に行きます! 鏡舎でお待ちしてますので!」

     ジャミル先輩は早く行け、と猫の子を追い払うように手を振る。私は胸いっぱいに抱えたテキスト類をカバンの中に仕舞いもしないまま、図書室を激走して外に飛び出した。

    「待って、グリム! っと、わっ!!」

     通りの向こうからのっそりとした三人組が現れたのが見えた。見えたんだけど、私は回転する足を咄嗟に止められず、足をもつれさせながらその集団をなんとか体をひねって避けた。まぁ、当然体は支えきれず。派手な音を立ててすっ転んだ。
     いたたた……と体を起こす。抱えていた荷物はそこら中にぶちまけられていて、反射的に前に出した手の平を擦りむいていた。通りの向こう側から、それに気づいたグリムが走って戻ってくる。

    「おい、大丈夫かーっ!」
    「あぁ、グリム、うん大丈夫……」

     ヒリヒリ痛む手でテキスト類をかき集める。と、目の前にテキストが差し出された。
     差し出している相手は、ぶつかりそうになった生徒の一人だった。

    「すみません! ありがとうございます、」

     受け取ろうとした瞬間、テキストを引っ込められた。え、と見上げると、男はニヤニヤと揶揄うような笑みを浮かべている。

    「えっと、……」

     不穏な雰囲気にたじろぐと、

    「なぁ、お前、オンボロ寮の監督生だろ?」
    「そうです、けど……」
    「今お前にぶつかられて腕痛めたんだけど。どうしてくれんの?」
    「え、でも、多分当たってないと……」
    「あ? 俺が痛ぇっつってんだから、当たってんだよ!」

     ビリビリと鼓膜を震わせる大音声が放たれる。びくりと震えた肩を、三人はゲラゲラ愉快そうに笑った。

    「おい、オマエら! 人の子分に何すんだゾ!」

     私の横に戻って来たグリムが仁王立ちで喧々怒る。男は「んだよ、モンスターも一緒かよ」と舌打ちすると、

    「はいはい、俺らが用あんのはこっちの女だけだから」
    「そーそー、モンスターは引っ込んでてね~」

     とグリムの首根っこを後ろから掴んで持ち上げる。

    「ふなっ! おい、オレ様を荷物みたいに持ち上げるんじゃねぇ! 離せ、離せって言ってんだゾ!」
    「グリムっ! やめてください!! 離してあげて!」

     三人がかりで、自分よりも上背のある人間相手にはさすがのグリムも歯が立たないらしい。出会った当初より大分人馴れしてきた私の相棒は、今じゃ人間相手に火を吹くことは滅多にない。その馴れが災いした。
     私がグリムを助けようと手を伸ばすと、その手首を男に掴まれる。引きずるような力の強さに、変に曲がった関節がキリリと痛んだ。

    「いった……!」
    「だからさぁ、まずは俺との話だろ? どうしてくれんだって」
    「離して……っ!」
    「あんたが大人しくしてたら離してやるよ。とりあえず場所変えようぜ。なぁ、学園裏の森でいいよな?」
    「いんじゃね? 寮でもいいけど、寮長連中にバレるとうるせーし」

     後ろの二人に声をかける男に、身の危険を感じた。そんなところに連れ込まれたら一巻の終わりだ。男たちの姿が、急に悪魔じみたどす黒いものに見える。
     恐怖で震える身体に活を入れ、相手の手首に思い切って噛み付いた。

    「いって!! 何すんだ!」
    「あっはは、さすがモンスターと相棒組まされてるだけあんな!」
    「マジで動物じゃん。獣人も真っ青」
    「噛むんじゃねぇよ、こっの……!」

     顔を大きな手が覆って、私を腕から引き剥がそうとする。力を入れられると歯が抜けそうで、おまけに頭蓋も割れそうだった。

     痛い。
     苦しい。
     怖い。

     それでも意地で顎に力を込めたままでいると、

    「そこで何してる」

     空間を切り裂くような声が響いた。
     声の主は図書室の入り口に立ち、こちらに冷たい視線を投げかけている。
     ジャミル先輩だった。
     その姿を認めた瞬間、ふと顎から力が抜け、男の手が離れていく。だらりと口から溢れたよだれを慌てて拭うと、気づかない内に唇の端を切ったのか、ピリリと痛んだ。
    「げ、ジャミル・バイパー……」「スカラビアの……」二人が小さく囁き合い、私の前にいる男から静かに距離を取ってグリムを離した。急に手を離されたグリムは「ふぎゃっ!」と間抜けな声を上げて地べたに墜落する。
     仲間を売るような素振りの二人には目もくれず、ジャミル先輩はことさらゆっくりと私たちに近づいてくる。そしてようやく私の横に立つと「ほら」と手を差し出し、しゃがみ込んだ男をまるでいないもののように扱って私を立たせた。

    「頑丈な顎だな、監督生」
    「……見てたんですか」
    「その前に助けに入ろうとはしたんだが、まさか噛むとは思わなくて。面白くてつい」
    「す、すぐ助けてくださいよ!」
    「……っおい!」

     引っ込みがつかなくなったのか、男は立ち上がってジャミル先輩に呼びかける。先輩は、その存在に今初めて気づいた、とばかりに静かに男を振り返ると、私の肩をそのスパイスの香りがする胸にぐっと抱き寄せて

    「うちの寮の客人が何かしたのか」

     と小さく尋ねた。

    「あ、あぁ!? そっちが先にぶつかって来やがったんだぞ!」
    「そうか、それはすまなかった。それで? 君は怪我もしていないようだし、謝罪も済んだ。もう行っていいか?」
    「はぁ!? 謝って済むとでも……っ」

     大声を出すことで虚勢を張り続ける男に、ジャミル先輩は深い溜め息をつく。その息ひとつで、男がぐっと黙った。なんて威圧感のある溜め息だろう。ジャミル先輩に抱き寄せられている、明らかに守ってもらっている私でさえも、ちょっと怖いくらいの音がする。場の空気が張り詰めて、息もできない。

    「……察しが悪いな。あの動画を見なかったのか?」

     淡々と、一定のトーンで、ジャミル先輩の口からこぼれ落ちる音。それは彼が限界まで研いで、致死量の毒を滴らせた牙を隠していた頃のような声色だった。

    「何度も言わせるなよ。こいつはうちの客人だ。──知らないうちに脳みそをいじくられたくなかったら、二度とこいつに構うな。お前らはもう、俺の目を見てる」

     ひ、と息を呑んだのは誰だったか。まず最初に後ろの一人が通りの奥に走り去り、次にもう一人が、そして最後に残された男が、私が付けた噛み跡を庇うように腕を抑えて消えて行った。
     あとには散らばったままのテキスト類が残された。ジャミル先輩は呆れたような顔で「先に鏡舎に行ってるんじゃなかったのか?」とテキストを拾って汚れを払ってくれる。私はどうしていいか分からずに、誤魔化すように笑う。

    「はは、すみません。そこでちょっと、絡まれちゃって」
    「ムカつく奴だったんだゾ! ぶつかってもねーのに難癖付けてきやがって!」

     拾った筆記用具を小脇に抱えてプリプリと怒るグリムの鼻息は荒い。先輩は私の笑みに、わずかに眉をひそめた。気がした。
     礼を言って彼らから物を受け取ると、それを私がカバンに仕舞っている間に、ジャミル先輩が私を指さして言う。

    「こっちのお人好しに言っても響かないだろうから、グリム、お前に言っておく。お前はもう少し危機感を持て」
    「なっ!? なんでお前にそんなこと言われなきゃなんねーんだ!」

     グリムは反発して、尻尾を立てて怒る。先輩は完全に馬鹿を見る目でグリムを見下ろすが、声のトーンは一定で、落ち着いていた。

    「善意の忠告だよ。お前は監督生がいるからこの学園にいられる。その条件を忘れないことだ。本当に魔法士になりたいなら、こいつはお前の命の次に大事なものだぞ」
    「わっ!」

     後ろからジャミル先輩の手が私の頭に乗っかって、髪をかき混ぜるようにされる。思わず声が出たが、先輩はそんなことは気にも留めずに続けた。

    「近寄ってくる奴は全員刺客だと思え。そいつらはお前を魔法士にしたくなくて、邪魔をしようとやってくる。お前の一番の弱点を虎視眈々と狙ってるんだ。分かるか、グリム」
    「ぐぬぬぬ……」

     グリムは小さな前脚をぎゅっと握りこんで「コイツが弱ぇのが悪いんだゾ!」とそっぽを向く。その背けられた頭を、しゃがみ込んだジャミル先輩はぐっと自分のほうに向け直す。

    「それがお前の野心に課せられた条件だ。お前が守らなければ、お前の相棒は簡単に死ぬ。お前の野望と一緒にな」
    「ぐぅぅ……っ」
    「責任転嫁をせず、どうやったら守れるか頭を使え。分かったか?」

     駄目な生徒を諭すような静かな声で、ジャミル先輩は根気強くグリムに言い聞かせる。そして最後に、理解したかどうかを聞いた。お前の口で誓え、というように。
     顎を捕まれて動けなくなったグリムは、根負けしたように仏頂面で応えた。

    「……分かった。次からは、あんな奴ら、オレ様の炎で蹴散らしてやるんだゾ」
    「その牙は飾りか? 次からは喉を狙え」
    「ひ、人の相棒に物騒なこと吹き込まないでください!」

     話が一気に不穏になったので、慌ててジャミル先輩の手からグリムを引き取る。「まだ話の途中だ」と眉根を寄せる先輩に

    「もう結構ですから! グリム、牙なんか使っちゃ駄目だよ! そんなことしたら、猛犬注意とかそういう扱いになって、退治されちゃうのが世の常なんだからね!」
    「オレ様は犬じゃねぇ!」
    「元々そいつはモンスターだぞ」
    「だから怖いんでしょ!」

     グリムにとって私がこの学園生活での生命線であるように、私にだってそうだ。グリムがいなくちゃ、私はここでオンボロ寮の監督生をできていたかどうかも分からない。
     小さな体をぎゅっと胸の中に抱き込むようにすると、グリムが「暑いんだゾ」と辟易したように呟く。それでもじっとしてくれているのを良いことに、離さなかった。
     私は小さく頭を下げる。

    「でも、……ありがとうございます。ジャミル先輩がいなかったら、本当に、危ないところでした」

     彼はしばらく無言で私の旋毛を見つめていたが、やがて顎に手を当てると

    「軽食の前に手当が必要だな」

     と踵を返して鏡舎に向かった。慌ててグリムと一緒にその背中を追いかける。
     人気のない放課後のメインストリート。夕日の赤が踊る黒髪が、先輩の歩みに合わせて左右に振れる。

     ──綺麗だな。

     男の人を見て、そう思ったのは初めてだった。私の首元からは、まだ先輩から移ったスパイスの香りがするような気がした。

     
     そのあと、包帯を巻かれた手の平のことをカリム先輩に聞かれ、スカラビアの談話室でその事件の話をしたら、カリム先輩はすごく驚いていた。「ええーっ!」とか「大変じゃないか!」とかなんとか。
     私が「でも、ジャミル先輩が助けてくれたので、平気です」と言うと、途端にニコニコして、まるで自分が褒められたように頬を上気させた。

    「そっか! 良かったな、ジャミルがいて!」
    「はい。本当に、助かりました」
    「オレ様もいたんだゾ!」
    「うん、グリムも頑張ったな。でも監督生、これからは気をつけるんだぞ!」

     先輩らしい心配の言葉に小さく頷いていると、

    「こら。気をつけ方も分かってないくせに、安易に頷くんじゃない」

     との声が飛んだ。振り返ると軽食を手に持ったジャミル先輩が談話室に入ってきたところだった。

    「あ、ジャミル! 軽食か?」
    「カリム、お前は夕飯前なんだから食べるなよ。これは監督生用だ」

     手を出してもいないカリム先輩に釘を刺してから、ジャミル先輩は私たちの前にトレーを置く。スープやチーズ、平べったいパン、それに付けるようのディップがいくつかと、小さな揚げ物が載った豪華なトレーだった。

    「お、美味しそう……! いただきます!」
    「いっただっきまーす!」
    「待てグリム……お前、玉ねぎ食えるか?」
    「だから! オレ様を動物扱いするんじゃねぇって言ってんだ!」
    「あっはっは! 賑やかで良いなぁ! 宴みたいだ」

     カリム先輩が後ろ手をついて笑って、ジャミル先輩が小さく「宴はしないぞ。面倒臭い」と言う。グリムは炒めた玉ねぎと挽肉の入った揚げ物を食べて目を輝かせて、私はこれを夕飯がわりにしようとしっかり味わって食べた。

    「すごく美味しいです……! ジャミル先輩、やはり天才なのでは……?」
    「そうなんだよ、ジャミルの作る飯は世界一なんだ!」
    「当然だろ、努力してるからな。喉に詰まらせるなよ」
    「うっ、本当に美味しい……勉強も運動も料理もできるなんて、本当にすごい……株価天井知らず……」
    「……もういい。とにかく、黙って食え」

     お腹に物が入って人心地つくと、不意にジャミル先輩が切り出した。

    「それで、今後のことだが」
    「え?」
    「え、じゃない。あんなことがあったんだ、もう図書室は使えないだろ。もっと早い時間ならともかく、人気の少ない放課後は危険だ」

    「俺も君の状況を失念していた」とジャミル先輩は眉根を寄せる。私は慌てて手に持っていたパンをトレーに戻した。

    「え、じゃあ……勉強会は、もうナシってことですか?」
    「いや、」
    「えーっ! ジャミル、そんなの監督生が可哀想じゃないか! グリムも困るだろ!?」
    「オレ様は別にどっちでも良いんだゾ」
    「いや、俺の話を聞いてくれ」
    「わ、私、あの、ちゃんとああいうの、回避できるようになりますから! ちゃんと、その、なんだろう、ええっと」
    「具体案もないのに話し始めるな」
    「でも! ……でも、」

     突き放されたようで、急に心細くなって俯いた。……これからどうしよう。
     絶望する私に、ジャミル先輩が息混じりに言った。

    「早とちりするな。俺は図書室をやめると言っただけだ」
    「それって……」
    「勉強会は続けてやる。場所は、」
    「なら、ここでやれば良いんじゃないか?」

     ジャミル先輩の言葉を、カリム先輩の無邪気な声が遮った。

    「うちの寮に悪い奴なんかいないからな!」

     ぐっと握り拳を作って主張するカリム先輩に、ジャミル先輩は急に気が遠くなったみたいな顔で「それに関しては保証しないが……」と否定してから、

    「でも、ここが一番、俺の目が届くのは事実だ。君に不用意に近づく奴に罰則を設けることも簡単だしな。どうだ?」

     と私に目を向ける。

    「ぜ、ぜひ! お願いします!!」

     提案に、思い切り頭を下げてお願いした。
    「話がまとまったみたいだな! 夕飯食ってけよ、監督生」朗らかなカリム先輩の声に、ジャミル先輩の「さっき食べさせたばかりだろ」という呆れた声が被さった。その応酬が、なんだか無性に安心した。

     
     それから、勉強会はスカラビアの寮の談話室にお邪魔してするようになった。最初はジャミル先輩と、カリム先輩が時々混ざるような感じだったけど、段々と寮でも評判になって、寮生が教えてもらいに来るようになって、いつしか寮生全員が分からないところをジャミル先輩に聞きに来るような集まりになっていった。そして勉強が終わったあとは、カリム先輩が中心になってみんなで夕食を囲む。
     ジャミル先輩はその勉強会兼夕食が終わると、必ず私をオンボロ寮のドアの前まで送ってくれるようになった。

    「すみません、なんだか結局先輩に負担がたくさんかかっているような……」
    「別に良い。……君に何かあったら寝覚めが悪いしな」

     オンボロ寮までの道中、何の気なしに謝罪すると、そんな言葉が返ってきた。

     ……オーバーブロットをした時には、率直に、悪い人なんだと思った。だけど彼を知れば知るほど、それは単なる彼の一面でしかないのだと気づかされる。
     ジャミル・バイパーは純然たる邪悪とは言い難かった。
     少なくとも、私の中でぼんやりと定義づけられている『悪』とはかけ離れていた。彼にとってはおそらく不本意な評価であろうが、石を投げれば悪魔に当たる、人を人とも思わない妖魔の巣窟であるこの学園において、彼はむしろフラットなほうだった。
     計算高くて、人を踏み台にしか思っていないと言う人も、もちろんいる。あのオーバーブロット前の動画を見ただろう? と。あれが奴の本性だ、利用されないようなるべく遠ざけておいたほうが身のためだ、と。だけど彼は事実、きっとこの先一生踏み台にすらもならない私にも、勉強を教えてくれているのだ。
    『優越と満足感』の他に、彼の中でどんな算段があるのかは知らない。ささやかな内申点稼ぎとか、理由は探せばいくらでもあるのかもしれない。だけど、知らないものはないのと同じだし、私の成績だって少しずつではあるけど上がっているんだから、ウィンウィンなのではないかと思う。
     そう考えると段々、彼の野心家な部分も、努力を怠らない真面目さの象徴に思えてくる。むしろ彼の持つ野心とは、褒められるべき美点なのではないかとすら。

     私にとって、ジャミル先輩は優しい人だった。
     綺麗で真面目で面倒見が良くて小言が多く、少しだけ意地が悪い。
     私から見た彼は、そういう人だった。

    「ところで今日、グリムはどうした」
    「今日はゴーストたちと先約があるとかで。多分マジフトの練習だと思います。ゴーストたちによく見ておくようにお願いしたので、きっと問題ないと思います」

     ジャミル先輩は「君は大分あの寮に馴染んでるな」と、ふっと笑った。その笑みが美しいと思う。沈みかかった日が照らしたその笑みが、作り物のように美しくて言葉を失う。

    「段差がある。気をつけろよ」

     彼がいつも通る時にそうやって声をかける階段を、私は一段一段踏みしめて降りた。なんだか妙にふわふわとして、夢の中にいるみたいだった。

    「なんだ、人の顔をじっと見て」
    「え? あ、すみません! えっと、なんか、慣れてるなと思って」
    「……ああ、まあ、そうだろうな」

     彼が小さく頷きながら言った。私はどういう意味だろう、と心中で首をかしげる。社交場で恥をかかないよう、ご両親にエスコートの仕方も教わったのだろうか。
     すると私の疑問を察知して先回りするように、彼が静かに言った。

    「国に婚約者がいるんだ。相手に失礼がないよう、叩き込まれたんだよ」

     ──一瞬、鼓膜がキンと痛んで、それからすぐに戻った。
     代わりに、それまで正常に身体を巡っていた血液が、いたるところで堰き止められて、ドロドロと指先に溜まっていくような心地がした。エースの顔を急に思い出した。そういえば、そんなことも言っていたっけ。
     先輩は何も言わない。足を止めずに行ってしまうので追いかける内、続く沈黙に、何か言わなくては、という焦りが生まれた。

    「っ、へぇ、どんな人なんですか」

     やっとのことで喉から絞り出した声は、息混じりで上ずっていた。先輩は小さく応えた。

    「知らない」
    「え?」
    「いや……正確に言うと、今の相手がどういう人間かは知らない。十歳の頃、カリムの父親に決められた相手だ。アジーム家当主の生誕祭で披露した、祝いの演舞の褒美としてな」

     私は、えんぶのほうび、と舌足らずに口の中で繰り返す。

    「そうだ。向こうはアジーム家と無謀にも縁を結びたがった小さな商家で、本当はカリムか、その弟との縁談を所望していた。年が近かったからな。だが、旦那様……カリムの父親はそれをかわした。当然だ、家の格が違いすぎる。で、俺にお鉢が回ってきたわけだ。向こうはアテが外れて業腹だったろうが、アジーム家当主の言うことに異議を唱える奴なんかいないからな。それで決まった」

     それ以来会っていないから、相手が十歳の頃のことしか分からない。そう淡々と告げる彼の顔には表情がない。

    「まぁ、いくら小さいとは言え、向こうは商家でこっちは従者の家だ。不興を買わないように、その頃から女性の扱いだとかは仕込まれた。それがつい、な」
    「……ジャミル先輩は、それで良いんですか」

     ようやく口が動いたと思ったら、私の口からは間抜けにもそんな言葉が転がり落ちていた。無意識だった。

    「良いも何も」

     彼の口から、ふ、と自嘲するような息が漏れる。次の瞬間、彼の目は尽きぬ野望を燃やして爛々と輝いた。

    「……寧ろありがたいと思ってるよ。商家の婿養子なんて、一従者が望んで手に入るものじゃない。向こうの胸三寸で覆るものでもなし、精々利用してのし上がってやるさ。ゆくゆくはアジーム家も飲み込んで、カリムを跪かせるのも良いな」

     私は何も言えなかった。低い声で吐き捨てるように説明を続ける彼の横顔を、ずっと、どこか遠い景色を眺めるように見つめていた。

    「それに、……」

     ジャミル先輩は目を伏せて、一度言葉を切る。すると、彼の瞳に燃えていた野心の炎は、ふつりと燃え尽きてしまったような陰りを見せる。
     彼は言う。

    「言っただろ。アジーム家当主の言うことに異議を唱える奴なんかいない。俺のいたところはそういうところで、戻る場所も……そこだけだ」

     彼はそのまま私を寮まで送り届けると、何もなかったかのように「おやすみ」と一言残して帰って行った。私はその後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、寮に入って静かに鍵をかけた。

     ──先輩からはいつも、スパイスの匂いがした。その匂いを嗅ぐと、私は図書室の前で起きたあの事件のことを思い出した。全体で見れば嫌な出来事のはずなのに、最近はなぜだか先輩の胸に抱き込まれたあの感覚や、温度のほうがまざまざと思い起こされてくる。そうすると、胸がぎゅぅと締め付けられるような心地になるのだ。
     ──私、異世界で、恋をしているのかもしれない。帰る方法も分からない、常識も知らない、この世界で。
     それはなんだかすごく、……愚かで滑稽に思えた。
     気づいた時点ですでに失恋が決定していることも含めて、全て。

     あの人は、馬鹿な女は好きじゃないだろうな。
     そもそも婚約者がいる人に、好きも何もないのだけれど。

     夜、ベッドに入ってそう思い至ったら、涙が出た。
     薄い唇。いつものへの字口。落ち着いた声は、本音を言う時にはわずかに高くなる。酷薄そうな、くすんだ灰色の瞳に光が入ると、少し幼くなる。珍しく大笑いする時は、歯を見せて笑う。緩く首を傾げて、尋ねるように、同意を得るように微笑む。すっと通った鼻梁、細い眉、目の縁を彩る朱、聡明そうな額からこめかみにかけてを飾る金色が、彼が顔を動かす度に揺れた。それが光を反射させて、時折私の目を刺した。
     私が欲しいと思った何もかもは、もう他の人に約束されているもので。
     こんな異世界くんだりまでやって来て、叶わない恋に身を焦がしているだなんて。本当に、馬鹿みたいだった。
     私はぎゅぅと目を瞑る。こめかみを濡らす涙を枕に吸わせ、胸の痛みにじっと耐えた。
     飲み込まなくては。この学園で生きるためには、それが一番。そうでしょう?
     ベッドの中で、幾度も自分に言い聞かせた。
     涙はいつまでも止まらなかった。
     

       ◆
     

     夕方、部屋で勉強していると、オンボロ寮のドアがノックされたのが聞こえた。

    「グリム、出てー」

     空間に呼びかけるも、返事はない。テキストから目を上げて後ろを向くと、ベッドの上で腹を晒して寝ている相棒とゴーストたちがいた。呼吸に合わせて上下するふわふわのお腹に、夜眠れなくなっても知らないから、と少し意地悪な気持ちで思う。
     もう一度、階下から焦れたようなノックが響いた。

    「はーい、今行きます!」

     大きく返事をして、部屋着の上にポール状のハンガーラックにかかっていた上着を羽織ると、階段を駆け下りる。
     当初より大分綺麗に整えられた玄関扉を開けると、ジャミル先輩が立っていた。息が止まりそうになる。

    「こ、……んにちは、ジャミル先輩」
    「勉強会を立て続けに三回も欠席しておいて、随分なご挨拶だな」
    「す、すみません……」

     私は平謝りする。
     先日の一件以来、どうにも顔を見る気になれなくて、勉強会を無断欠席していたのは事実だった。でも、私がいなくても、最近の先輩は寮生全員の勉強の面倒を見ているようなものだし、特に問題ないだろうと思っていた。……この不機嫌な眉間から察するに、どうも違ったようだけど。
     先輩は玄関の内側に敷いたドアマットを踏んづけると、腕を組んで縮こまる私を威圧的に見下ろした。

    「カリムには何かしたのかと騒がれるわ、寮生には早めに謝ったほうが良いと言われて寮から叩き出されるわで、散々だ。俺は君に何かした覚えはないが、君のほうに弁解があるなら聞こうじゃないか」
    「あ、ありません。ただ、」
    「ただ?」

     凄むような声音に一度言葉を切る。なんと言っていいのだか分からなかった。仕方なく、

    「……ただ、私の、個人的な事情、というか」

     と言って濁した。先輩は不機嫌に腕を組んだままだ。しかししばらくすると、不意に溜め息をつく。

    「まぁ、そっちの事情はなんとなく察しがつく。俺と君は、……最近近しかったからな」

     カッと頬が熱くなった。気づいていたんだ。消えて無くなりたい気持ちで、ますます俯いた。先輩のスニーカーの靴先を見つめてじっとする。分かっているなら、早く出て行ってくれればいいのに、と思った。
     先輩は無言で固まる私に、静かに言う。

    「じゃあ、君はもう、勉強会には来ないのか」

     そんなこと、今は考えられない。よっぽど言ってやりたかったけど、わざわざ来てくれた人を、こちらの感情だけで追い返すわけにいかなかった。
     彼にとって私は、ただの横恋慕してくる後輩なのだから。
     詰めていた息を慎重に口から逃がして、小さく首を振った。

    「そのうち、落ち着いたら行きます。でも、今は、ちょっと、……すみません」
    「……そうか。分かった」

     口ではそう了承しながら、ジャミル先輩はその場から全く動く気配がない。まんじりともせずそこに突っ立って、私のことを見下ろしていた。
     どうして帰ってくれないのだろう。私は、もう振られた身なのに。針の筵に立たされた気分で耐えていると、彼が再び口を開いた。

    「落ち着いたら、って言うのは……気持ちを片付ける、ってことだよな」

     何を言われているのか分からなかった。
     何を言い出すのだろう、この男は。今更四角四面に言葉の意味を確認して何をしようというのか。
     失恋を深く理解させたい? それとも私に誓わせたいのか? 二度とあなたをそういう目で見ません、この心は綺麗さっぱり片付けて、燃やして灰にして風に撒いて、あなたがいつか奥さんと絨毯で散歩するあの空の星の欠片にして、素敵なデートに彩りを添えますとでも?
     答えはノーだ。そんなことはできない。
     カッとなって、顔を上げた。抗議してやろうと、ここから追い出してやろうと、そう思ったはずだった。
     彼の顔を見るまでは。
     先輩はそこに突っ立っているだけだった。普段と顔色ひとつ変えずに、ただ。いつものへの字口で、今にもこちらに禅問答を問いかけるような、機嫌の読めない表情で。
     なのにどうして、寂しそうだなんて思ったのだろう。
     振られたのはこっちなのに。婚約者がいる、なんて予防線まで張られて、完膚なきまでに振られたのは私だ。それなのに、どうして。
     いいや違う、これは私の妄想だ。彼が寂しい顔なんかするわけがない、スカラビアの副寮長、長きにわたって主人を騙し、周囲の人間は全て踏み台にして、己の野望に向けてひた走る、狡猾な蛇。そんな男が、寂しいなんて。思うわけがない。そう見えるのはきっと、私が彼に少しでも寂しがってもらいたいと思っているからで。

    「すまない、忘れてくれ。じゃあ、またな」

     本来の己の在り方を思い出したように言い残して踵を返した彼。その裾を、私は無意識に掴んでいた。最初、彼に頼み事をしに行った時と、全く同じ形だった。

     ──どうして諦めがつかないの。
     この学園で生きるためには、あまり深く考えずに、なんでも飲み込むのが一番。そう思っていた。だから今回も、きっと飲み込もう。飲み込める。勉強会を休んだ日々で、折り合いをつけたはずだった。なのに。
     ──どうしてこんなに胸が苦しいの。

    「……ジャミル先輩」

     呼びかけると、小さく「なんだ」という返事が聞こえた。先輩は振り向かない。その背中に、愚かな願いを口にした。

    「……卒業、するまでだけでも、だめですか」

     声は震えていた。我ながら締まりがなくて、ひどく滑稽。だけどそれが精一杯だった。

    「自分が何を言ってるか分かってるのか」
    「分かってる、つもりです」

     あなたが私を好きじゃなくても良い。そう言った。
     婚約者がいても、遊びでも、短い間だけでも、なんでも良いからそばにいたい。そう言った。

    「呆れた馬鹿だな、君は。もっとよく考えろ。俺といても、君に益があるとは到底、」
    「それでも良いんです」

     侮蔑が混じったような言葉尻に、被せるように言い放つ。頑なに振り向かないままの先輩は、続けようとしていた言葉が喉に張り付いて声が出せないようだった。それを良いことに、私は愚かな願いを言い募った。

    「それでも、……あなたと、わずかな時間だけでも、一緒にいられることが、私にとっては幸福なんです。益なんて、それだけで十分なんです」

     思慮深くなくてすみません。きっとあなたは馬鹿な女は好きじゃない。だけどもう、なんでもないふりをするほうが辛いのです。
     きっとずっと好きだから、ただの仲のいい後輩のフリはできません。
     どうしても嫌ならそう言って。あなたの口で。醜い無力な非魔法人種となんか、一秒でも一緒にいたくないと、そう言って欲しかった。

    「卒業まででも、だめですか。きっとご迷惑はかけないようにします、先輩が卒業したら、連絡取らないようにします。きっと忘れます。だから、」

     彼の拳が、寮の石壁に叩きつけられた。
     びっくりして、言葉が止まる。音こそ派手ではなかったものの、その境目からは赤い液体が垂れ落ちてきていた。私は慌てて彼の背中に手を置く。

    「先輩、血が……!」
    「忘れなくていい」
    「え?」

    「……俺も覚えておくから、君も、忘れるな」

     それは承諾の言葉であり、許可だった。私はジャミル先輩の背中に置いた手を、しばらく信じられない気持ちで眺めた。

     ──触れてもいいと、この人が言った。私の好きな人が。私に。

     敗北を認めた騎士のようにうなだれる彼の背中に、私は両手を置き、額を押し当てた。寮には音ひとつせず、私たち以外の生き物の気配はしなかった。
     まるで、誰にも見つからない、砂漠の果てのようだった。

    「ジャミル先輩……好きです」
    「ああ」
    「本当に、ずっとずっと好きです」
    「……ああ」

     私の好意に、彼が応えることは生涯ない。彼には彼の野心があって、主人との約束があって、生涯を誓った婚約者がいて、私はその間に紛れ込む異分子で、この関係が明るみに出たら断罪されるのは私で、むしろ彼こそがその瞬間に真っ先に私を突き飛ばして糾弾するのかもしれない。この女が誘った、俺は悪くないと。だけどそれでも良いと思った。
     あなたが私に、触れることを許した。その権利を得た。それだけで、死んでも良かった。

     私の恋は、そういう恋だった。
     

     
    この恋には死期がある(野心家の天秤)







    『カリム・アルアジーム様

     先輩、お元気ですか? 誕生日だとうかがったので、手紙を送ります。突然の無礼をお許しください。
     先輩が卒業して、もう一ヶ月近くがたっただなんて、信じられない気持ちです。私が元いた世界では、「光陰矢の如し」という格言みたいなものがあるのですが、本当に、時間が矢みたいに過ぎていってしまいます。
     九月になったら私も四年生、来年にはうまくいけば卒業です。今後の予定は全然決まっていないのですが、とりあえず、卒業試験をパスできたら良いな、と思っています。
     最後になりましたが、お誕生日おめでとうございます。先輩の今後の道行が明るいことを、いつも祈っています。

      あなたの後輩より』



    『監督生へ

     手紙ありがとう! すごく嬉しかったぞ! 今度熱砂の国にも遊びに来てくれよな! 卒業試験なら、ジャミルの対策ノートがあれば一発だ! ジャミルに、監督生にノートを送ってくれるよう頼んでみるな!

     カリム宛ての手紙を読んだ。君は地道な努力をする人だから卒業は別に心配していないが、グリム用にノートを作った。相棒によく読むように言っておけ。無事卒業できるよう祈っている。

      カリム・アルアジーム ジャミル・バイパー』


       ◆


    『カリム・アルアジーム様

     誕生日おめでとうございます。お元気ですか?
     先輩がご厚意で送ってくださったノートのおかげもあって、無事、カレッジを卒業することができました。ありがとうございます。これで認定魔法士試験の受験資格が得られたと、グリムも喜んでいます。
     九月になったら今度は認定魔法士試験が始まります。最初グリムは「モンスターはちょっと……」と言われていたのですが、クルーウェル先生のツテで、私も一緒にという条件で試験にねじ込んでもらえました。二人で一緒に合格できたら、晴れて二人で一人の魔法士になれます。
     お誕生日の先輩にこんなことをお願いするのは図々しいとは承知しているのですが、どうか応援していてください。

      あなたの後輩より』



    『監督生へ

     手紙ありがとう! 認定魔法士試験、オレもかなり緊張したけど、同じ部屋にジャミルがいたから大丈夫だった! 監督生も、ジャミルと同じ部屋で受けられたら良いのになぁ。とにかく、応援してるぞ!! 試験が終わったら、熱砂の国にも遊びに来てくれ! 歓迎の宴を開くから! こっちは今新しい事業をやろうって話になってるんだ。今度会えた時に詳しく話すな!

     カリム宛ての手紙を読んだ。上に書いてあるカリムの返事は気にするな。俺がいようがいまいが、君とグリムはきっと魔法士になれる。心配するな。これまでの君の努力が報われるように、応援している。

     カリム・アルアジーム ジャミル・バイパー』


       ◆


    『カリム・アルアジーム様

     誕生日おめでとうございます。お元気ですか?
     先輩の応援が力になって、無事、一番下っ端ではありますが、六級魔法士になれました。と言っても私は魔法が使えないので、登録証にはグリムの名前しか載っていなくて、私はその条件的な扱いですが……それでも、やっぱり嬉しいです。本当にどうもありがとうございます。
     こちらの世界に来た当初は、自分が魔法士になるなんて思ってもみませんでした。元の世界に帰る方法はまだ分からないままだけど、とりあえずこちらの世界で生きる術が得られたことにホッとしています。
     先輩も、何かあれば言ってください。新しい事業のこととか。応援しかできませんが、応援しています。

     あなたの後輩より』



    『監督生へ

     手紙ありがとう! それと、魔法士合格おめでとう! やったな! オレも自分のことみたいに嬉しい! 試験合格の宴を開くから、今度こそ熱砂の国に遊びに来てくれ! ジャミルに頼んで、チケットを同封しておくからな!
     新しい事業も、結構進んでるぞ! 砂漠の国に水の都を作ってるんだ。オアシスよりももっと水が豊富で、うーん、なんて説明したら良いか分からないな。とにかく実物を見たらきっと驚くから、楽しみにしててくれよな!

     カリム宛ての手紙を読んだ。合格おめでとう。新聞にも載っていたな。世界初のモンスター魔法士とその調教師、だったか。君なら全てうまくやれると思っていた。俺も誇らしいよ。
     カリムの言う事業というのは、アジーム家所有のオアシスの規模を膨らませて砂漠の水上都市を作る計画だ。カリムのユニーク魔法が活きる、良い計画だと俺も思う。
     カリムの宣言通り、チケットを同封しておく。暇ができたら会いに来てやってくれ。

      カリム・アルアジーム ジャミル・バイパー』


       ◆


    『カリム・アルアジーム様

     誕生日おめでとうございます。先輩、お元気ですか? 誕生日のお手紙も、ほとんど習慣となってきました。
     まず、今回は謝罪からさせてください。送ってくださったチケット、無駄にしてしまってごめんなさい。試験合格のあと、学園長に学園に一般教養の教師として残ることを打診されて受けたら、受けたその日からこき使われてしまって……。忙殺されていました。学園の細々とした管理まで押し付けられてしまったので、しばらく休暇も取れそうにありません。すみません。
     事業のこと、ニュースで見ました。本当に素晴らしい場所ですね。いつか機会があったら、その水上都市で先輩にお目にかかりたいものです。
     今までお手紙だけで済ませて来たのですが、初めての給金が入ったので、ささやかながら誕生日のプレゼントを同封します。皆さんで食べてください。

     あなたの後輩より』



    『監督生へ

     手紙とプレゼントありがとう! オレは監督生のくれるものに毒なんか入ってないから大丈夫だって言ったんだけど、ジャミルが許してくれなくて、全部ジャミルが食っちまったんだ……悪い! でも、気持ちはすごく嬉しかったぞ!
     そっか~しばらくこっちには来れそうもないかぁ。水上都市を見せてやりたかったなぁ……残念だけど、仕方ないな! 休みができたら連絡してくれ! 迎えをやらせるから! そしたら再会の宴を開こう!

     カリム宛ての手紙を読んだ。就職おめでとう。まさか学園に君が教師として勤めることになるとは思っていなかったが……まぁ、あの学園にはまだ、君のような調教師が必要だということだろう。あまり無理はするな。グリムに、俺の忠告を忘れるなと伝えてくれ。

      カリム・アルアジーム ジャミル・バイパー』




     恋人と別れて四度目の夏が来て、過ぎて行って、あっという間に冬が来た。
     私は首元にぐるぐるに巻いたマフラーに顔の下半分を埋めながら、学園の外廊下を進む。相棒のグリムはふかふかの毛皮があるくせに、私のローブのフードに引っ込んだまま出てこない。すれ違う学生はみんな羽が生えたような足取りで歩いていて、ウインターホリデー直前なことを言葉なく知らしめるようだった。
     廊下を進み、最上階まで階段を上がって左に曲がると、その一番奥の円柱形の塔に学園長室がある。扉をノックすると、「どうぞ」と入室を許可された。

    「失礼します」

     かつて存在した七人の英傑、グレートセブンの肖像画が浮かぶ部屋に入ると、その真ん中、執務机の向こう側で学園長のディア・クロウリーが待ち構えていた。お決まりのカラスらしき羽のついた帽子とコート、ペストマスクに似た長い鼻の仮面を身につけた学園長は、私が一人なのを見ると、おや、と首をかしげる。

    「グリムくんはどうしたんです?」
    「いますよ。私のフードの中で寝ています。いくら学園の中が魔法石の力で快適に保たれているとはいえ、外は寒いですから」
    「ふぅむ、職務怠慢と言わざるを得ませんね。本来なら減給ものですが、ま、許しましょう。私、優しいので!」

     もはや耳タコのセリフを言われ、はいはい、と軽くいなして肩をすくめる。

    「それで? 今回は私たちにどんな無理難題を押し付けようと思ってるんですか? 学園長」


     突然だがここで少し、私の話をしよう。
     私は名門魔法士養成学校・ナイトレイブンカレッジの卒業生。三年前に相棒のモンスター・グリムと共に、認定魔法士試験の一番下のクラス・六級魔法士試験をパスして、なんとか魔法士に成り上がった非魔法人種だ。とはいえ、私は魔法が使えないし、なんならグリムのおまけだから、一人で魔法士を名乗ることはできないのだけど。
    『モンスター魔法士を育てた調教師』『異世界からやって来た非魔法人種』としてセンセーショナルに新聞の紙面を飾ったのも今は昔、『一般教養の教師』としてこの学園に再び組み込まれた歯車である。
    『一般教養の教師』……なんて言うと聞こえは良いけど、実際は『学園住み込みの何でも屋さん』というのが正しい。現に私が受け持つ選択授業を取っているのは、学園広しと言えどたったの二人しかいない。それも問題行動を起こした生徒が罰として強制的に取らされているのだから、もはや説明は必要ないだろう。
     要は学生時代のパシリから、いまだ脱せていないのだ。この世界に転がり込んでから七年もたつというのに、全然進歩していない。
     しかし学園から放り出されても、モンスターの六級魔法士を雇う人間がいるかは疑問だし、文句は言えない。
     この学園で生きるためには、あまり深く考えずに、なんでも飲み込むのが一番なのだ。



    「学園長のヤロー、なんでもかんでも、すーぐオレ様に押し付けてくるんだゾ!」

     魔法薬学室の前、三角巾で頭と口元を覆ったスタイルで、腕組みをして憤慨する相棒を「まぁまぁ」と宥める。私ももちろん、同じスタイル。なんならエプロンもつけているし、これに首にかかっている実験用のゴーグルも装着したらもっと完璧だ。おまけに手にはバケツとデッキブラシ、それに箒とはたき……と、見た目だけはすごくやる気溢れる格好になってしまった。心はブルーだけど。
     今回の私たちのミッションは、魔法薬学室の掃除。
     なんでも三人の生徒が魔法薬学室で薬品製作に勤しんでいたら、不運なことに爆発が起こり、部屋中を吹っ飛ばしたとか。それも魔法薬学室の主、デイヴィス・クルーウェルが不在の間に起こった騒ぎだから尚不運。
     その話を聞いた時、思わず「最っ悪……」と天を仰いでしまったのも無理からぬことだと思う。

    「最悪なのは私のほうです。魔法薬学協会の開催する世界的セミナーに講師として呼ばれたクルーウェル先生に、ご帰還早々このことを報告しなければならないんですからね」
    「それは……ご愁傷様です」
    「あぁ! クルーウェル先生の大事になさっていたウルスラヤナギの苗木、端が焦げてしまったから新しく買うべきでしょうか……」

     学園長は両手のひらに視線を落とす悲嘆のポーズを取ると言った。

    「というわけで、君たちにはクルーウェル先生が帰ってくるまでに、なるべく証拠を隠滅……ゴホン! いえ、元の通りに戻しておいていただけないかと」
    「……ウルスラヤナギは戻せませんよ?」
    「分かっていますとも。とにかく被害を最小限に見せかけることが大事です」

     いよいよ取り繕いもしなくなった学園長に「その問題を起こした生徒は、手伝いに駆り出しても構いませんか?」と聞けば

    「ええ、もちろん。手足のように使って構いませんよ。彼らにも挽回の場は必要でしょうからね。私、優しいので!」

     と請け合われて今に至るわけだ。
     私はグリムに言う。

    「受け持ちクラスの生徒が二人の私たちに、断る権利なんかないって。掃除だけで良かったと思おう」
    「お前も安請け合いするんじゃねぇ! なんだってこの、大魔法士のオレ様が、ホリデー直前で浮かれ気分の学生の尻拭いなんかしなきゃいけねぇんだ!」

     グリムは後脚でタシタシ地面を叩く。ここで、自分は寝てたくせに、と呟くのはますます怒らせるだけなのでNGだ。
     とにかく早く終わらせようと、意を決して魔法薬学室のドアを開ける。ガラスにピンクの粉塵が分厚く溜まって中が見えなかった室内は、やはりもわりとピンクがかっていて、言いようのない甘ったるい匂いが充満していた。ごほりと一度噎せこむ。

    「最悪なんだゾ……」

    床に降り積もったオペラピンクの薬品の粉が裸足の肉球にくっつくのか、室内を歩くグリムはいたく不満げだ。その足跡について進むと、奥ではひび割れた鍋を囲んで二年生の三人が言い合っているところだった。

    「だからやっぱり月華蝶の吸い上げた花の蜜は必要だって言ったじゃんか!」
    「原価と利益を考えなさい。それじゃ採算が取れないでしょう」
    「そもそも、魔法薬のレシピにアレンジ加えようってほうがバカだろ!」
    「いや~でも、色は良いセンいってなかった? むしろ温度調整がまずったんじゃね?」
    「温度調整だけで、こんなに爆発するもんか!」
    「うるっせーんだゾ、お前ら!!」

     大音声で一喝したグリムが、鍋の縁にピョンと飛び乗って仁王立つ。彼らはその声でやっと私たちの入室に気づいたようだった。

    「おっ、センセーとグリムっちじゃん。おつー」
    「その呼び方でオレ様を呼ぶんじゃねぇっ! それに! 先生なのは本来オレ様のほうで、」
    「先生、その格好何? まさかオレたちの代わりに掃除してくれるとか?」
    「代わりに、じゃなくて、一緒に、ね」
    「先生……もしかしてまた学園長に後始末を押し付けられたんですか」
    「あなたたちが騒ぎを起こさなければ、そもそも無かった仕事です」

     心底の間抜けを見る目が癪に障る。その胸にそれぞれデッキブラシと箒、はたきを押し付ければ、うげぇ、と彼らは顔を歪めた。

    「ま~じ~? オレ、今日はもう疲れたから掃除なんかやりたくねーよぉ」
    「同感です。こっちは爆発に巻き込まれてるんですよ? 教師たるもの、生徒の心身のストレスを考え、即刻僕らを休ませるべきでは?」
    「あなたたちが起こした爆発に、ね。学園長から怪我はないと聞いてます。なら、掃除くらいしていきなさい。自分の蒔いた種でしょう」
    「そうだゾ。一緒に掃除する相手がクルーウェルじゃないだけマシだと思え」

     グリムが言うと、三人は一様にバツ悪げに口ごもった。クルーウェル先生不在の間を狙ってやったのだ、どうせ人に知られたくない妙な企みが裏にあるに決まっている。
     三人は渋々掃除に取り掛かり始めた。魔法で箒類を動かす様子を見て、グリムと私も掃除にかかる。

    「まずは窓を開けようか。この粉っぽさからどうにかしないと」
    「ふん、オレ様の風で吹き飛ばしてやるんだゾ」
    「吹き飛ばすのはいいけど、優しくね。割れたガラスとかも落ちてるから」

     窓を開けると、グリムがふぅと息を吐いた。首にかかった魔法石が光る。すると吐いた息はその場でくるくると旋回を始め、床に落ちた薬品の粉や割れたガラス、爆発でひび割れた鍋の破片などを巻き上げ始めた。粉が混じってピンク色に変化した小さな竜巻は、床を滑るようにして隈なくゴミを拾い上げていく。

    「優しくね、優しく」
    「……えぇい、まどろっこしいんだゾ!」
    「こら、グリム!」

     せっかちなグリムはイライラし始め、ふぅ! と大きく息を吐く。途端、竜巻が一回り大きくなって、ぐるぐると音を立てて床を動き始める。

    「うわ! 足元!」
    「ちょ、グリムっち! 避けるこっちの身にもなってよ!」
    「コントロールが利いてないじゃないですか!」
    「わわわ、」

     制御の利かなくなった竜巻はやがて部屋の角にぶつかり、大きな音を立ててゴミを撒き散らかして消滅した。オペラピンクの粉が角にぶわりと舞い上がり、ガラスの弾ける音が聞こえる。

    「す、すまん……」
    「……ま、角に集められただけ良しとしましょう」

     小さな謝罪に、グリムの暴走に慣れた私が返すと、「センセー、そんなだからグリムっちまだ六級なんじゃね?」との指摘が飛んだ。……ここの学生はいかんせん配慮に欠ける。


     建物の外に何度目かの汚れた水を捨てに行くと、雑巾を絞って濡れた手が氷のように冷たくなった。こういう時、魔法が使えないって不便だなと思う。後ろから一人が追いかけてきて、同様に水を捨てた。「外さみ~!」と耳を赤くする様子は、体格に見合わず子供らしい。
     一緒に中に戻る間、

    「しかしまた派手にやったわね……なんでこんなことになったの?」

     と尋ねる。彼はウロウロと目線をさまよわせ、「いや~ちょっと……」と言葉を濁した。

    「このチカチカするピンク色と甘い匂いから察するに……どうせ愛の妙薬あたりを作りたかったんでしょう? でも、男子校でこんなになるまで大量の愛の妙薬が必要とはどうしても思えないんだけど」

     まだ拭いていない棚を指先でつーっとなぞって、指についたオペラピンクを見せて問いただす。彼は観念したように言った。

    「実は、……プロム前に惚れ薬売ろうって話になって、試作を……」
    「ばか! しーっ」
    「何ペラペラ喋ってるんです!」

     後ろから二人の怒号が飛んできた。『プロム』の単語に一瞬自分の体がひどく強張るのを感じたが、その怒声で我に返った。素知らぬ振りで肩を竦める。

    「……見上げた商魂ね」

     かつてのオクタヴィネル寮長、アズール・アーシェングロットが聞いたら卒倒しそうな緩い商売計画だ。商才のある彼ですら、材料集めも作るのも難しい『愛の妙薬』の大量生産は労力のわりに実入りが少ない、と言って放棄したというのに。空き瓶を魔法で磨いていたグリムも「お前ら、本当に馬鹿だな……」と半目で言う。
     すると、計画がバレて自棄になった一人がいきり立った。

    「でもさぁ! 需要はあると思わね? なんたってNRCは男子校、卒業前のプロムには誰か一人校外から女子呼べるってのが、四年間でオレらに許された唯一の恋愛イベントなわけ! そこに賭けてくる奴は多いはずじゃん!」
    「だからって、愛の妙薬?」
    「なりふり構わない人間は存外多いものです。特にこの学園にはね」
    「っていうか、妹とかねーちゃん連れてくる羽目になるのだけは避けたいってやつでしょ。毎年隠して連れてくる人、一定数いるもんね。でもどっかから必ずバレて、教室中に貼り出されんの」

     三人は掃除の手を止めないまま口々に言い、意地悪く笑う。いつか自分がその憂き目に合うかもしれないというのに、随分呑気なことだ。
    「ほどほどにしなよ」お金儲けに目が眩んだ人間にはもはや何を言っても無駄、とそれだけ告げると、ふと一人がこちらを見た。

    「そういえば、先生ってここの卒業生なんだよね」
    「まぁ、そうだけど」
    「プロム、誰と行ったの?」
    「確かに、気になります。学園で唯一の女子生徒はどれくらい入れ食いだったんですか?」
    「入れ食いって……」

     言い方に、自然と眉が寄る。
    「こいつはオレ様と行ったんだゾ」グリムがあっけらかんと言えば、「えーっ!!」と鼓膜が破れそうなほどの絶叫が返ってきた。

    「マジ? センセー、モテなかったの!?」
    「いちいち一言多いわね。……グリムと行って、誘ってくれる人全員と踊ったの。それが一番……楽だったから」

     私の言に、一人がポンと手を打つ。

    「なるほど。入れ食いが過ぎて、断りきれなかったということですね?」
    「あぁ、そっか。ま、確かに一人選んだら戦争起こりそ」
    「NRC生、心狭いからな~」

     ケラケラ笑う三人を、「手が止まってるよ!」と叱責する。彼らは間延びした返事をして、掃除に戻って行った。


     掃除を終えて、オンボロ寮の部屋に帰れたのは夜の九時を回った頃だった。防具とエプロンを外すと、もう一歩も動ける気がしなくなった。

    「つかれた……」

     頭をいくら振っても髪が粉っぽくて不快だ。おまけに、全身から薬品の匂いがする。グリムは「腹減ったんだゾ~」とフラフラ談話室の床を歩いていて、私はそれに

    「冷蔵庫の中にレトルトあるからあっためて食べて。……私、先にお風呂入ってくる」

     と、だらけた自分を叱咤して部屋を出た。グリムは「おう!」と元気良く返事をしたが、すぐに「めっし飯~」と調子外れの歌を歌ってキッチンの奥に消えていった。
     バスタブにお湯を溜めつつ、頭からシャワーを浴びる。粉の感触を消し去るために二回シャンプーをしてから、丁寧に肌を洗う。やっとすっきりすると、ちょうどよくお湯が溜まったのでバスタブに浸かった。口から無意識にくぐもった声が漏れる。体のコリがふわりと取れるような心地がした。
     ぴちょんぴちょん、と響く断続的な水音。その他にはなんの音も聞こえないバスルーム。

    「……プロムかぁ」

     そっと呟くと、湯気に吸い込まれた声は思いの外甘やかに風呂場に響いた。
     三人には四年生だった頃のことを話したけど、私がプロムと聞いて思い出すのは、最終学年の頃のものじゃない。三年生の頃に事情があって行ったプロムが、もっとも鮮明にあった。
     ……今でも目を瞑ると、まるで昨日のことのように思い出せる。


       ◆


     一年生の頃から、プロム前にはよく四年生に話しかけられた。最初は、なぜそんなに声をかけられるのか分からなかった。プロムがあることを知らなかったのだ。ウインターホリデー中に彼女を作れなかったり、女の子を誘えなかった学生が、最後の頼みの綱として私を駆け込み寺にしていることを全く知らなかった私は、なんなら急に異様に優しくなったり、背筋がゾッとするような猫撫で声で話しかけてくる彼らのことを、ちょっと気持ち悪いとさえ思っていた。
     だから何の気なしに愚痴をこぼした時、デュースが「それってプロムに誘おうとしてるんじゃないか?」とケロリとした様子で言って来たのには本当に腰が抜けるほど驚いた。そういうのに聡いエースは「おいおい、デュース。もうちょい黙っとけよ、面白かったのに」とニヤニヤして言い、本当に、あの時ばかりはどうしてやろうかと思った。
     それからはとにかく間違っても申し込みなんてされないよう、学園中を逃げ回って生活した。好きでもない人と踊るためにプロムに参加するなんて馬鹿みたいだし、本気ならまだしも、駆け込み寺にされているのも気に入らなかった。それに、……もしかすると、恋人が嫌がるかもしれない、とも思っていた。
     だから

    「最近、プロムに誘われているらしいな」

     と、勉強会のあとに私を寮に送り届けたジャミル先輩が言った時、来た……! と思った。
     私は慌てて

    「あぁ、そうなんです。みなさん、藁にもすがる思いでいらっしゃるみたいで……あ、でも、全部断ってますからね!」

     と言い訳めいたことを返した。彼はそれに小さく頷いたが、私の肩に乗っていたグリムが

    「本当にしつこい奴らなんだゾ。飯を一人で食ってても子分はどこだってうるせーし! プロムくらい一人で行けってんだ。オレ様、もう逃げ回るのも疲れたんだゾ~……」

     と弱音を吐くと、少しだけ眉間に皺を寄せた。

    「ごめんね、グリム」
    「……まぁ、オレ様のいないところでまた何かあっても困るからな。子分をホイホイ行かせるわけにはいかねぇんだゾ」

     ちゃんと忠告を守っているぞ、とグリムが強調して胸を張ったら、

    「逃げ回るのが面倒だったら、適当に無害そうな奴と行ったらいいんじゃないか」

     とジャミル先輩が平坦な声で言った。私は胸に鉛を撃ち込まれたような気持ちになった。グリムと先輩はそんな私を置いてけぼりに、

    「無害そうな奴~? そんなの、この学園にいるのか?」
    「なんなら、俺が相手を見繕ってやってもいい。スカラビアの人間なら妙なことにはならないだろうし、なんなら洗脳済みの奴を連れて行ってもいい」

     と話し始める。

    「……それ、冗談か何かですか?」

     信じられない気持ちで尋ねた。だって私たちは、誰にも言ってはいけないとはいえ、この時すでに……恋人同士だったから。
     ごくごくたまにある機会、二人だけの密室でしか、私たちは触れ合わなかった。そして私が彼に触れても、彼が私に触れ返してくることは、ただの一度もなかった。抱きしめても、口付けても、彼はその場に迷い子のような佇まいで立ち尽くしていた。いつも。ずっと。
     それでも、私たちは恋人だった。
     私は二人きりの時には決まって、彼の幼少時から鍛えられた、よく聞こえすぎる耳と、よく見えすぎる目を、腕で塞ぐように抱きしめた。頭ごと胸に抱えるようにしてしまうと、彼はその中で、気を抜くようにそっと息をついた。
     人に触れられたり、構われたりするのがどうも少し苦手らしい彼の、その姿が好きだった。言葉なく安心すると言われているようで、心の底から嬉しかった。
     だと言うのに。
     何も知らないグリムの前でおおっぴらに問いただすわけにもいかずにそれだけ言うと、ジャミル先輩は一瞬虚を衝かれたような顔をした。
     彼は一呼吸置いて続ける。

    「……面倒ごとは、なるべく少ないほうが良いだろう。断る理由が明確にあるなら別だが、」
    「だから私に、好きでもない人とプロムに行けって? 私が断る理由をはっきり言えないから?」

     私が恋人がいることを公言していたら、そもそもこんなことにはなっていない。私は対外的には『フリーの女子生徒』なのだ。誰もが納得する理由を用意できないなら、ずっと逃げ回り続けるより適当な人間──例えば、それは彼が洗脳した相手であるとか──と参加してしまうほうが面倒じゃない、と、彼が言いたいのはそういうことなんだろう。
     もしかしたら、これは『断る理由』になれない、彼なりの誠意なのかもしれなかった。
     だけどそんなものはクソ喰らえだ。

    「こ、子分、何怒ってんだ……?」

     私たちのただならぬ様子に、グリムが怖々声をかけてきた。それに心中ハッとして、私はそっと怒りを逃がすように息をつく。

    「……すみません、最近、本当にたくさんの人に追われていて。ちょっと気が立っていました。ごめんなさい」
    「いや、こちらこそ、すまない。そこまで君が怒るとは思わなくて」

     ジャミル先輩はそう言うと、その場に居心地悪そうに棒立っていた。私はその顔に嘘が全く含まれていないことを察知して、ふと、どうしようもないような気持ちになった。
     この人、本当にあんまり理解できていないんだ。
     私がどうして、あえて面倒を取ってでも、たくさんの誘いを断って逃げ続けようとするのか。
     私がどれほど、あなたを好きか。

    「私、別に、プロムに行くのが面倒だから断ってるんじゃないですよ」

     静かに言う。ジャミル先輩は顔を上げて私を見た。

    「損得とか、メリットとか、そういうことじゃなくて。好きな人以外と踊りたくないから、断ってるんです。どれだけ面倒でも。私は、そうしたいから、そうしてます」
    「そう、か」
    「はい、そうです。だから……無害な人のご紹介は結構です。自分で解決しますから。行こう、グリム」

     相棒を肩から降ろして、私はオンボロ寮のドアをくぐる。グリムは私を気にしながらも、早いところ妙な空気から解放されたいのかすぐに奥に引っ込んでしまった。

     ──全部分かった上で、それでも良いと付き合ったから、そういう誠意はいらない。あなたを選んだことに付随する面倒ごとや苦しみなら、甘んじて受けると、私は決めたのだ。
     だからあなたにも、それを受け入れてほしい。どうせなら、俺のために耐えてくれと、そう言って抱きしめてほしかった。……叶わないことだけれど。

     振り返って、おやすみを言おうとしたら、ジャミル先輩が言った。

    「俺には、理解できない。……たかがダンスだろう。逃げ回るよりもずっと、……」

     珍しく言い淀むと、彼はうつむけていた顔をますます伏せる。私は風に揺れる彼の前髪を見つめながら、彼の境遇を考える。
     使命や野心、持てる者と持たざる者、その上で凝り固まった彼の杓子定規。自分を優先する人間がいるとは思ってもみない、その心。

    「でも、私は嫌です。好きな人に、好きじゃない人と一緒にいるところを見られるの。……自分がそんな場面を見たら、きっと悲しいと思うから」
    「……君の好きな相手が、それで良いと言っても?」
    「理性と感情は別物です。たとえ許しても、悲しいという感情が消えてなくなるわけじゃない。私は私の好きな人のことを傷つけたくないんです」
    「自分が嫌な目に遭ってもか? それを相手が救ってやると言うのに、話には乗らない? 嫌な立ち位置にも、ただ耐えるだけか?」

     ジャミル先輩は必死に、私から自分の理解し得る言葉を引き出そうとする。だけど私は首を振った。

    「現状を打破することで好きな人が傷つくなら、それは私にとって一番の解決法ではありません」

     彼は途方に暮れたような顔をした。特大の難問を前にしたって、きっと彼はこんな顔はしないだろう。私は笑って言った。

    「そういう人間もいるんですよ、世の中には。あなたが今まで知らなかっただけで」
    「何がおかしいんだ……」
    「いいえ。私にも、先輩に教えられそうなことがあって良かったと思って。おやすみなさい」

     今度こそ私は扉を閉めて、その日の別れを告げた。
     彼が私の話を正確に理解したかは、結局分からずじまいだった。彼はそれから慎重にプロムの話題を避けて通ったし、私も自分から話すことはなかったから。
     私たちはそれからもずっと、そうやって相手の痛いところには触れぬように、慎重に過ごした。私は密室でしか彼に触れず、彼は私に触れないまま。彼の、張り詰めてパンパンに膨らんだ緊張の息を抜くような、そういう作業を繰り返した。
     薄氷を履むような恋だった。音を立てずに、氷を割らないように、慎重に、誰にも聞かれないように、私たちは恋をした。そして二人でその湖を渡りきれたら、そこでおしまい。彼は私の手をはなして国へ帰り、私は一人、学園に残る。そう、お互いにしみじみと理解して。
     そうして二年と少しがたった頃。学園には再びプロムの季節がやってきていた。



    「ジャミル先輩、プロムに婚約者連れてくるらしいぜ」

     食事中に、エースが言った。オムライスを崩していた手が一瞬止まる。けど、同じ席についた誰も、私の手が止まったことに気がつかなかった。

    「へぇ。あの婚約者の噂、やっぱり本当なのか。誘う人がいるのは良いよな」

     デュースが感心したように言って、グリムは「人は見かけによらねーんだゾ」と笑った。

    「でも、なんか想像つかねーよなぁ。ジャミル先輩の婚約者って、どんな人なんだろ」
    「……手のかかる女の子、とかか?」
    「それはカリム先輩のことだろ! デュースくんにはこの手の話題は早かったでちゅかぁ~?」
    「ばっ、違う! ただ、本当に想像がつかないだけで……っ!」

     顔を真っ赤にして怒るデュースを、ハイハイと軽くあしらったエースは何度か頷く。

    「それなんだよなぁ。めっちゃ興味ある。やっぱエキゾチック美人なんかな?」

     私は曖昧に首を傾げて「どうだろう」とだけ返してオムライスを口に含んだ。もそもそとして、ちっとも美味しくない。

    「写真とかないのか? この学園だったら出回りそうなものだが」
    「それがガード固くってさぁ。今回が初お披露目なんだって。うあ~、俄然気になるっ!」

     エースは食堂の机を叩いて言う。人間の恋愛云々に全く興味のないグリムはツナサンドを頬張りながら、エースのその騒ぎように心底迷惑そうに鼻を寄せた。

    「そんなに気になるなら見に行ったらいいじゃねーか」
    「甘いなグリムは。それができたら苦労しないって。何せプロムの間、大ホールは下級生立ち入り禁止で……あ」

     ふと、何かに気づいたようにエースが顔を上げる。その視線が私の横顔に突き刺さって、私は極力見ないふりをした。が、すぐさま肩をがしりと掴まれる。

    「ここにいんじゃん、プロムに入り込める下級生!」
    「は……!? やめてよ、私、そんなこと絶対しない。毎年断るのがどれほど大変だと思ってるの? エースも知ってるじゃない!」

     何度寮に匿ってもらったことか! と突っぱねれば、そこをなんとか! と食い下がってくる。

    「ちょっと写真だけ撮ってきてくれりゃあ良いからさ」
    「そんな、盗撮みたいな……とにかく、無理だよ。無理」
    「えー! 監督生は気になんねーの? ジャミル先輩の婚約者」
    「それは、」

     気にならない、と言ったら嘘になる。けど。
     そこで言い淀んだのが運の尽きだった。私はいつの間にかエースが捕まえてきたラギー先輩とペアを組まされ、ドレスを着せられ、カメラを持たされ、当日、プロム会場である大ホールの前に立たされていた。
     どこから調達したのか不明なドレスを着て、大ホール前でスーツを着たラギー先輩に平謝りする。

    「本当にすみません、エースが無理を言ったみたいで……」
    「良いッスよ、ちゃーんとお代は貰ってるし。中までエスコートするだけで1000マドルなんて、なかなか破格じゃないッスか」

     指で輪っかを作ってお金のハンドジェスチャーをすると、ラギー先輩はシシシッ、と独特な笑いをこぼす。

    「しかしそんなに気になるもんッスかねぇ。人の婚約者なんて、食えるもんでもなし。ま、オレは儲かるんで良いッスけど」
    「エースによくよく言って聞かせます……」
    「あ、そうだ。オレ、中でボーイのバイトする予定だから、マジで大ホール入ったら面倒見れねーッスからね。変な輩にガブッと食われないように気ぃつけるんスよ」
    「はい、大丈夫です。写真だけ撮ったら、すぐに帰るつもりなので」

     カメラを示して言うと、なぜだか先輩は呆れたように肩をすくめて「ま、オレの知ったこっちゃねーけど」とボヤいた。
     大ホールに入ると、キラッキラのシャンデリアが降ってくるような錯覚に襲われた。実際シャンデリアはふいよふいよと宙に浮かんでいた。蝋燭がともり、アンティークの優しい色のガラスが反射して、辺りには色とりどりの砕いた星みたいなものも浮かび、夢のように綺麗だった。
     ラギー先輩と別れて、しばらくは豪華な内装に見惚れていたが、すぐに目的を思い出す。そうだった、ジャミル先輩の婚約者の写真を撮りに来たのだった。ざわめく心を無視してカメラ片手に辺りを見渡すが、まばらな参加者の中にジャミル先輩の姿は見えない。中でバイトする予定のラギー先輩はさすがに入りが早かったので、まだ来ていないのかもしれなかった。
     少しだけホッとすると共に、嫌な緊張が続くことに気が重たくなった。すぐ帰れると思ってたんだけどな、意外と時間がかかりそう。
     ふぅ、と溜め息をついて、テーブルにあったフリードリンクを手に取る。中では軽食しか出ないと聞いたら、グリムは「つまんねーんだゾ」と言ってついて来てくれなかったので、暇を潰す話し相手もいない。
     ワンスプーン料理や小さく切られたサンドイッチを食べたりしていると、徐々に会場に人が増えてくる。そろそろ来るかな、と扉のほうを気にしていると、「ねぇ」と声をかけられた。振り返ると、どこかで見た顔の学生が立っていた。

    「はい?」
    「あの、君、オンボロ寮の子だよね。良かったら踊らない?」
    「あー……でも、お連れ様がいらっしゃるんじゃありませんか?」

     確かに、ホールにはさっきから踊るためのスロウな音楽がかかっている。私が彼の後ろでつまらなそうに控える女性を使って逃げを打つと、「あぁ、あいつは良いんだ」と女性を手で押しやるようにした。

    「はぁ!? 兄貴、せっかくついて来てやったのにウザ、」
    「シーっ!! そうやって呼ぶなって言っただろ!!」

     その言い合いに、ウインターホリデー中に身内以外の女性を誘えなかったクチか、と思い至る。きっと私のところにも駆け込み寺よろしく申し込みにきたはずで、どうりで見覚えがあるはずだった。
     私はそっとそこから離れるべく後ずさる。と、今度は背中が誰かにぶつかった。

    「わ、ご、ごめんなさい!」
    「いいえ、お気になさらず……おや?」

     私より頭一つ分どころか二つ分よりももっと高いところから声が降ってくる。弓張月のごとく細められた金色の左目に射竦められ、喉がキュッと締まった。

    「ジェ、イド、先輩」
    「監督生さんでしたか。これはまた、珍しいところでお会いしますね」
    「あはは……素敵なお召し物ですね。先輩もプロム参加ですか?」
    「いえ、モストロ・ラウンジはここに軽食をおろしていますので。さしずめ給仕といったところでしょうか」

     スーツをピシリと着こなしたジェイド先輩はそう言って、貼り付けたような笑みで微笑む。と、その後ろから「ジェイドぉ」という間延びした呼びかけが飛んでくる。

    「何サボってんの? って……あれぇ? 小エビちゃんじゃん」
    「フロイド先輩も……こんばんは」

     ジャミル先輩にバレないように写真だけ撮ってサッと帰るつもりが、厄介な人たちに見つかってしまった。内心冷や汗をかいて辺りに視線を走らせたが、先ほど声をかけてきた生徒は、オクタヴィネルの双子の出現にさっさと尻尾を巻いて逃げてしまったようだった。そんなんだから女の子の一人も誘えないのよ、と心中憤慨する。

    「めっずらしー。前はプロム行きたくないって逃げ回ってたじゃん。何してんのぉ?」
    「あ、……今回は、ちょっと、お世話になった方だったので」
    「あなたがラギーさんとそんなに懇意にされていたとは知りませんでした。てっきり、スカラビアの方々と仲がよろしいのかと」

     そのセリフと、にぃ、と持ち上がった口角に、もはやこれまでと観念する。というか、知ってるなら引っ掛けるみたいなこと聞かないでほしい。
     私が実は……と事情を話すと、ジェイド先輩は変わらずニコニコ、フロイド先輩は腹を抱えて爆笑し始めた。

    「あっはははは! カニちゃんマジ馬鹿じゃ~ん。そんなのアズールに聞いたら一発なのに」
    「多分、なるべく対価を安くしたかったんだと思います」
    「なるほど、つまり監督生さんは生贄に選ばれたというわけですね」
    「言い方に語弊があるなぁ……」

     ジェイド先輩は

    「しかし、この中から一人を見つけるとなると、なかなか難しいのではないですか。それも相手の顔をカメラに収めるとなると……」

     と言う。私も、どんどん人が増えていく会場に、薄々そのことは感じていた。

    「そ、うですよね。私も、ちょっと厳しそうだなと思って」

     もうこのまま帰ってしまおうか、と、ふと思う。元より積極的に見たいものでもなかったし、どうせ傷つくだけなのだから。
     ……もしも私が異世界の女の子じゃなかったら。非魔法人種じゃなかったら。熱砂の国の人間だったら。彼の野心に足る人間であったなら。もっと胸を張って恋人だと、そう言えたのだろうか。
     物思いにうつむいた時、フロイド先輩が言った。

    「え~、こっちが見つけらんないんなら、向こうに見つけてもらえば良いだけじゃね?」
    「え? それ、どういう……」
    「だぁからぁ、こうすれば良いじゃん!」

     言うや否や、フロイド先輩は私の肩をグイグイと引き寄せて、ホールの中心に向かって行ってしまう。「おやおや」というジェイド先輩の母のような呟きを置き去りに。

    「わ、たっ、ちょ、フロイドせんぱ、」
    「ほら、小エビちゃんこっち! はい、手ぇ上げて」
    「は、はい」

     ホールの真ん中、ダンススペースで言われるがままに手を上げる。銃を突きつけられた様相の私の手を、フロイド先輩の大きくて白い手ががっちりと掴んだ。

    「へ?」
    「あっはは、小エビちゃんの手ぇ小っちぇね」

     言うが早いか、フロイド先輩はそのまま大股で円を描くように回り始めた。191センチの腕力に引きずられ、抵抗もままならない。

    「うわぁ!!」

     これはもしかしてフロイド先輩の中ではダンスを踊っている認識なのだろうか? とは思うものの、両手を掴まれて引きずられる様はさながら操り人形で、周囲の落ち着いた優雅さとは似ても似つかない。

    「こーやって踊ってれば、すぐウミヘビくんも見つけてくれるよ」
    「こ、これ、絶対ダンスじゃないです……っ!!」
    「小エビちゃんマジ失礼~ま、良いや。今オレ機嫌良いからさぁ」

     ぐるんと視界が回る度に三半規管が乱され、頭がぐるぐるしてくる。ジェイド先輩の「フロイド、監督生さんが吐きそうですよ」との忠言にやっと解放してもらえた時には、息も絶え絶えの状態だった。う、と口を抑えて周りを見ると、周囲の視線が珍しいものを見るみたいに突き刺さってくる。
     わ、私は注目を集めて見つかりたかったわけじゃなく、こっそり見たかっただけなのに……!
     せめてもの気持ちで端に寄って具合の悪さに耐えていると「おーい、監督生!」という闊達な声が耳に届いた。カリム先輩の声だと気づき、肩がびくりと震える。

    「あ、ラッコちゃんじゃ~ん。ウミヘビくんも」
    「こんばんは、カリムさん、ジャミルさん」
    「よぉ、フロイド、ジェイド! 監督生も! 来てたんだな!」

     声をかけられ反応しないわけにも行かず、ゆっくり振り返った。
     そこにはよく見知った顔の二人と、それに付き添う女性が二人。

    「そちらが噂の婚約者の方ですか」
    「……噂っていうのはなんだ。まぁ、その通りだが」

     ジェイド先輩の尋ねに、民族衣装に身を包んだ婚約者をジャミル先輩が紹介する。私は息を潜めて彼女を見つめた。
     可愛らしくて、綺麗な人だった。彼の隣に立っても、遜色のないような。ふんわりと微笑んだ顔はほころぶ花のようで、大事に育てられてきた証明のような瑞々しさが全身に満ち満ちていた。
     ──この人が。

    「ところで監督生。ここで何してる」

     呆けていると、ジャミル先輩が言った。その剣呑な視線に、とっさに言葉が出てこない。何をしに来たんだっけ、私。

    「フロイドのパートナーとして来たのか? あんなに逃げ回っていたくせに、驚きだな。しかもその気分屋を選ぶとは、気が知れないよ」
    「は? 何、ウミヘビくん、オレに喧嘩売ってんの?」

     絞められてーの? と首に手を当て威嚇を始めるフロイド先輩に、何か言わなくてはと口を開く。けど。
     あなたの婚約者を見にきました、なんて言ったら、私、すごく重たく見えない? すごく嫌な女じゃない? 今後も付き纏いそうに見えない? おかしく思われない?

    「監督生さんはジャミルさんに用があって来られたそうですよ」

     迷っている間にジェイド先輩があっけらかんと言って、ジャミル先輩は「は?」と怪訝に眉を寄せた。ドッと冷や汗が出る。

    「ち、が、違いますっ!! 全然、そんなことはカケラも!!」

     慌ててブンブン首を振って否定した。ジャミル先輩の怪訝な表情が痛い。その様子にジャミル先輩の隣の女性はクスクスと笑って、本当になんだか、消え入りたい気分だった。
     すると、カリム先輩がポンと手を打って言った。

    「あ! もしかして監督生、ジャミルにダンスを習いに来たんじゃないか?」
    「え?」
    「は?」

     私とジャミル先輩の疑問符が奇しくも重なった。カリム先輩は一人で納得したようにウンウン頷いて「ジャミルは監督生の先生だもんな! オレも、こういう場でのダンスはジャミルに習ったんだぜ!」と言う。いよいよ収拾がつかなくなって来た。さっきとは別の意味で頭がくらくらしてくる。

    「ちげーよラッコちゃん、小エビちゃんが来たのは」
    「そうです!! ダンス、そう、ダンスを! 来年のプロムで恥をかかないようにと思いまして!!」

     フロイド先輩の指摘をとっさに絶叫で掻き消した。何をぺろっと言ってくれちゃいそうになってるんだ、この男!

    「でも、お邪魔でしたね。すみません、本当に……もう、帰りますので! それじゃ」
    「待てよ監督生、一曲くらい教えてもらったら良いじゃないか!」
    「いや、でも……」

     頭を下げて遁走しようとした私を、カリム先輩が呼び止める。それに女性陣二人はにこりと笑って「カリム様の言うことですもの。踊っていらして」と囁く。
     かつてのジャミル先輩の言葉通りだった。『アジーム家当主の言うことに異議を唱える奴なんかいない』。そういう世界なのだ。

    「な、ジャミルもいいだろ? ちょうど次の曲が始まるし」

     振り返って同意を求めたカリム先輩に、ジャミル先輩は黙った。そして小さく、「あぁ」と言った。エスコートしていた婚約者の手を離してカリム先輩に渡す。婚約者の人はカリム先輩に手を取られ、恐縮するように、照れるように頬を染めた。
     あぁ、そういえば彼女、最初はカリム先輩の婚約者候補だったんだっけ。ぼんやり考えた。

    「……行こう」

     差し出されたジャミル先輩の褐色の指先を、震える手で取った。その手にエスコートされてホールの中心に進む。先輩の大きな手に収まる私の手は、子供の手のように見えた。

    「右手は握って、左手は腕に添えるんだ」

     ホールに立ち、言われるままに組み合う。背中に回った先輩の右手に、ドキリとした。それまで一度も、抱きしめ返されたことがなかったから。

    「こ、うですか?」
    「ああ、それで良い。右足を後ろに踏み出して」
    「はい、右、」

     一歩下げると、先輩の足が滑らかに一歩踏み出してくる。それにつられるように、自然と左足が出た。自分の意思とは全く別のところで、私はくるくる回る。

    「基本のステップはこうだ。これさえできれば、恥はかかない」
    「これ、ジャミル先輩がお上手なだけでは……」
    「はは。じゃあ……来年は上手い奴を見つけて一緒に行くんだな」

     ツキリと胸が痛むのを無視して、ステップに集中した。下ばかり向く私の耳に、先輩の囁きが吹き込まれる。

    「それで? 本当は何しに来たんだ」
    「……あなたを見に」

     口の中だけで呟くと、先輩は言葉を失ったように黙り込んだ。私は続ける。

    「プロムでのあなたを、一目見たくて。きっと素敵だろうから」
    「……そうか」
    「でも、まさか踊れるなんて思いもしませんでした。こんなことなら、ちゃんと練習しとくんだったな」
    「そうしたら踊れないだろ」
    「ふふ、確かに。……夢が叶いました。好きな人とプロムで踊る夢。私、幸せです」

     顔を上げて、意識して口端を上げる。先輩は困った子供を見るような目で私を見た。
     ──そんな顔しないで。笑って。私の恋人。

    「踊りましょう! ジャミル先輩!」

     吹っ切るように明るく言って、足を一歩大きく踏み出した。それに、「おい!」という慌てた声が飛ぶ。どんなに私がめちゃくちゃに足を動かしても、ホールドは崩れない。本当に上手いなぁ、と私は笑う。
     それを見て、ジャミル先輩も笑った。「下手だな、監督生」と言った彼の声が、柔らかく私の耳朶を打つ。

     あの時、私たちは世界に二人きりだった。
     彼の目には私しか映っていなかったし、私の目にもそうだった。
     彼の手が私の背中を反らせる。私はその力強い、信頼した腕に体重をかけて、自然と微笑んでいた。
     学園生活の中で、あの瞬間が、一番幸福だった。
     私の恋人は、ジャミル・バイパーは、あの瞬間だけ、確かに私のものだった。

     音楽が終わりに近づく。
     止まらないで。時間を止めて。ずっと踊っていたい。彼の腕の中で。
     お願い、誰も、誰も奪わないで。
     音楽が止まる。
     足が止まる。
     手が離れる。
     私たちは少し離れたところで見つめ合い、しばらくしてぎこちなくお辞儀をし合った。目一杯はしゃいで踊った胸は息切れしているのに、その内側の心は、ギュゥと引き絞れるようだった。

     それが、私がジャミル先輩に触れた最後だった。それから先輩は、卒業の準備やら何やらで忙しくなってしまって、勉強会も無くなったから。卒業式にお花を渡しに行こうとも思ったけど、式典服の先輩を遠くから見ただけで涙が止まらなくなってしまって、結局何もできずに逃げ帰った。
     私たちはこうして薄氷の上を渡りきった。彼は私の手をはなして国へ帰り、私は一人、学園に残った。
     ただ唯一私の想定と違っていたのは、恋は死期を過ぎた今も、私の心の中の湖の奥底に深く沈みながら静かに息をしていること。凍てついてもなお、死にはしなかったこと。
     ──私はずっと、今でもこの学園の中で一人、彼に恋をし続けている。


       ◆


    「お嬢さん、荷物が届いていたよ」

     風呂から上がると、ゴーストの一人が荷物を持って来てくれた。礼を言って受け取る。食事を終えたグリムがひょいと覗き込んで「誰からだ?」と尋ねた。

    「エースとデュースかな? きっとウインターホリデーのお誘いね。今年は休暇、取れるかなぁ……」

     小包に挟まれた手紙を開けながら愚痴めいたことを呟く。去年、私の休暇取得をギリギリまで待ってくれた二人。今年は休暇の催促を込めて、ウインターホリデーより少し前にホリデーギフトを贈ってくれたようだった。


    『監督生へ

     ハッピーウインターホリデー!
     相変わらず学園長にこき使われてんの? 今年は休暇取れそう? ホリデー中、休暇もらえても行くとこなかったらウチ来いよ。ゲストルーム空けといてやっからさ。
     それと、なんか限定のバスボム? と高級ツナ缶、たまたま見つけたから贈っとくわ。あ、監督生からのホリデーギフトは期待してないから。貯金しとけよ、赤貧教師!

     エースより』


    『監督生へ

     祝・ウインターホリデー! 今年も仕事か? もし休みが取れるようだったら、うちに来いよな。薔薇の王国を案内する。……って、僕、去年もこれ言ってなかったか? 今年は必ず休暇をもぎ取れよ。
     ホリデーギフト、近所で評判のチョコレートにしておいた。グリムにもよろしく。

     親友、デュース・スペード』


     二人の手紙を読み、机の上にギフトを並べる。「チョコレートと高級ツナ缶だって」と言えば、グリムは「ヒャッハー!」と箱を開け始めた。その箱の下、未開封の手紙を見つけ、首をかしげる。

    「あれ? ……これ誰からだろう」

     手に取ると、高級な紙の手触りがした。その感触に身に覚えがあって、背筋がひやりとする。

    「これ……」

     手紙をめくれば、案の定、『カリム・アルアジーム』の文字が踊っていた。いつもカリム先輩の誕生日にはカードを送っていて、それにジャミル先輩との連名で返事が来る。それと同じ封筒だった。

    「開けねーのか?」
    「あ、ううん、開ける……」

     いつまでたっても手紙を眺めているばかりの私に、グリムが言う。それに小さく首を振って、私はゆっくりと封を切る。
     いやな予感がした。今まで返事以外の手紙はもらったことがない。
     どうかウインターホリデーの誘いであるようにと願う。杞憂であるようにと。

     しかし、物事には全て終わりがある。始まりと同じように。
     それはこの、とっくの昔に息絶えていておかしくない私の恋にも、同様にやってくるのだった。



    『監督生へ

     ちょっと早いけど、ハッピーウインターホリデー!
     元気か? こっちから手紙を出すのは初めてだな。本当はホリデーギフトも贈ろうと思ったんだけど、家の人間に止められちまったから……手紙だけでごめんな。今日は嬉しい報告があるんだ!
     春にジャミルの結婚式があるんだ。絶対熱砂の国に来てくれよな! きっとジャミルも喜ぶから!

      カリム・アルアジーム』



    薄氷のワルツ(湖の底の宝石)









     夜、相棒がぐっすり眠っているのを確認して、外出着に着替えた。ローブを被り、廊下にそっと滑り出る。軋む階段を降りて扉を開けようとした瞬間、後ろに誰かの気配を感じてハッと振り返った。ゴーストがいた。

    「こんな夜更けにどこへ行くんだい?」

     聞かれ、無意識に唇を舐めて答えた。

    「ちょっと……外出。用事があって」
    「じゃあグリ坊を呼んでこよう。一緒に行ったほうがいいよ、お嬢さん」

     ふいよと宙を滑って相棒を起こしに行こうとするゴーストを、「いいえ」と力強く言って呼び止めた。

    「……いいえ、いいの。よく寝てるから、寝かせておいてあげて」
    「そうなのかい?」

     ふっくらとした半透明のマシュマロを思わせる彼は、ふと目を細めて私を見る。後ろに続く長い廊下の先が透けているのに、その瞳に映る心配は何よりも本物らしい。

    「じゃあ、あまり遅くならないように帰ってくるんだよ。夜は恐ろしいものだ。お前さんには特にね。わしはお前さんとお仲間になるのは、もう少し先が良いから」
    「ええ。分かってる。私も、しばらくゴーストになる気はないから。……行ってきます」

     言い置いて、ローブを目深に被ってから寮を出た。
     ゴーストになる気はない。それは本当だ。だけど未知の領域に飛び込もうとしているのは事実だった。彼が考える『恐ろしいもの』に、それが含まれているかは分からないけれど。
     寮を出て、植物園の前を通り、魔法薬学室を横切って橋を渡る。鏡舎を回って階段を上がり、購買部を通り越すとやっとメインストリート。正門に身分証明のマジカルペンをかざすと、教師用の小さな扉が開いた。その門をくぐって、坂道を下っていく。
     正直、ここに至るまでに自分はどこかで怖気付いて、寮に逃げ帰るのではないか、と、内心思っていた。こんなことは間違っている、やっても無駄だ、もっと傷つくだけだ、と。だけど、気持ちは変わらず固いままで、私は坂を一心不乱に下っている。
     カレッジを出て、坂をずっと下っていくと、街がある。週末には学園の生徒たちが、息抜きや買い物に行きかう街だ。街の中心には映画館や商業施設の他に、比較的安価な魔道具が売っているところもある。魔法を動力にしたその道具を買って、ちょちょいと細工をして、授業中のいたずらに使う生徒の御用達だ。私も学生時代、悪友に連れてこられたことがある。けれど、今日の目当てはそこではない。
     この世界で、魔法士の比率はそう多くない。魔力の素養がある人間は多くいれど、資格試験を通った『魔法士』の存在は珍しく、学園下の街でも、魔法士にお目にかかることはそうそうない。いるのはまだ魔法士でないひよっこの生徒か、魔法を習ったことのない人たちばかりだ。魔道具店の主人ですら、魔法を使うことはできない。
     私は蜘蛛の巣のように入り組んだ路地を、街の外れのほうに向かって進んでいく。
     一口に街といっても、そこには様々な側面がある。学生を快く迎えてくれる区域もあれば、ひとつ道を曲がれば治安の悪い場所に出ることもあり、街の中央から遠ざかれば遠ざかるほど、それは顕著だった。
     奥へ進めば進むほど、道端には饐えた匂いがする場所や、誰かの吐き後が目立つようになる。それを口を一文字に引き結んで無視して、さらに奥に進む。

     誰でもいい。どこでもいい。私を見つけて。
     いいえ、誰にも見つかりたくない。このまま街を大きく一周して、何事もなく帰りたい。私、やっぱり誰の特別にもなれないって、盛大に安堵しながら嘯きたい。

     相反する思いを抱えながら、意識的にゆっくりと進んでいく。見つかりたい気持ちも、見つかりたくない気持ちも本当だった。どうせ私の心は、今も昔もこれからも、ずっとずっと無事ではない。なら今更傷つこうが傷つきまいが大差はない。そう思ったから。
     ふと、細い路地で二人組の男が向こうから歩いてくるのが見えた。私は脇に寄って避けようとしたが、向こうは縮こまる私を見て取ると、あえて私の前に立ちはだかるようにして向かってくる。
     私は逆側の脇に寄ろうとした。今度はもう一人が道を塞ぐ。来たる恐怖の予感に歯の根が合わず、カチカチと無様に鳴る。私はそれをぐっと噛み締めて抑えると、俯き加減でその場に立ち尽くした。

    「なあ彼女、どこ行くの?」
    「暇なら俺たちと遊んで……って、おい、それ! あの魔法学園のローブじゃないか? 気をつけろよ、燃やされちまうぞ!」

     私の肩に手をかけようとした男の腕を、もう一人が制止する。男はハッと腕を引っ込めたものの、おそるおそる私の顔を覗き込んで言った。

    「でも、女だぜ?」
    「……本当だ。あそこ、男子校じゃなかったか?」

     肩を丸めて震える私を無視して、二人は話し始める。怖い。値踏みするような視線が突き刺さって、許されるなら今すぐに逃げ出したかった。
     だけど、私は望んでここに来た。
     こういうシチュエーションに遭遇することを期待して。
     愚かだった。考えなしだった。これしかないと思って来たけど、本当にそうだったのだろうか。やっぱりグリムを起こせば良かった。誰かに話しても良かったかもしれない。彼との過去の関係は伝えずに、七年越しの失恋をしたと言えば、きっと誰かは慰めてくれたはず。そしたら……

    「あ、あれだろ? 魔法の使えないセンセーじゃないか?」

     私の正体に気づいた男が言った。とっさに踵を返して逃げようとしたけど、腕を掴まれ阻まれた。ものすごい力で指が食い込み、血が止まるような心地がする。そのままぐいと乱暴に引かれ、初めてまともに顔を合わせた。深く酔った赤ら顔に、焦点の合わない瞳。
     私のかつての恋人とは、似ても似つかない男だ。
     男は言う。

    「ははっ、魔法が使えないんなら話が早ぇや。こんなとこまで女一人でのこのこ来るんだ、どうせ男を漁りに来たんだろ?」

     むわりと酒臭い息が吹きかけられ、嫌悪に眉が寄る。

    「私は、」
    「んん?」

     自然と声が出たが、続く言葉を見つけられなかった。そんなつもりで来たのじゃない、とは言えない。事実、私はそのつもりで来たのだ。この男の言う通り。
     私は静かに息を吸う。そして一呼吸置いて、覚悟を決めた。

    「あなたは、……私と、恋をしてくれますか?」
    「あ?」
    「ひ、一晩で良いの。私と、恋をしてほしい」

     もつれる舌で言い切ると、男はニヤリと口端を上げた。「お前はお呼びじゃねぇってよ」ともう一方に言って、相手がそれに「ひでぇ」と言い返し、ゲラゲラ笑う。私はその間ずっと俯いて、石畳の黒い溝を見ていた。
     自分で望んで来たはずなのに、なぜだか絶望的な気持ちになった。


     
     そこからどうしてこうなったのか、自分でも分からなかった。私はいつの間にか小さな部屋の中にいた。
     防音魔法の施されていない、ただの板の間。その上に、安っぽくて小さなベッドだけがぽつんとあるような部屋だ。私に声をかけて来た男はそのベッドの上にドスンと座る。体重移動の度に、ベッドとその下の床がギシギシと軋む音が響いた。

    「早く来いよ」

     手招かれても、近づく気にならない。足が縫い止められたように動かなかった。納得して来たはずが、未だに頭の中は疑問符でいっぱいだった。
     どうして私、ここにいるの。この男と二人きりなの。どうして。

    「早くしろよ、あんたが言ったんだろ? 俺と恋したいってさぁ」

     色欲の色が透けて見える焦れたような大声に、震える肺で小さく息をする。私は小さく一歩踏み出して、男の座るベッドに近づいた。その距離、一メートル強。

    「脱げ」

     上から下まで嬲るように見つめられ、恐怖と嫌悪で気分が悪い。静かなのに興奮したような指示に、ますます怯えが来る。
     だけど体は心と裏腹に死んだようで、言われた通り、ローブを脱ぎにかかった。
     首元の紐を緩めて肩を落とすと、足元に広がるようにローブが落ちた。床のローブを跨ぎながら、今度はシャツのボタンに手をかける。心は凍りついたみたいで、自分の息がうるさいほどなのに、不思議と手は震えていなかった。ぷちりぷちりと正確に第三ボタンまでを外すと、男が辛抱たまらないといったように私の前に立つ。

     その背丈が、かつての恋人に似ていた。
     ああ、これか。私はやっと自分の選択に得心した。
     これが似ていたから、この人にしようと思ったのだ。

     ──恋なんて、大したことじゃない。そう思いたくて、ここまで来た。
     私は誰にだって、しようと思えば恋なんて簡単にできて、人を愛すことなんて簡単で、あの人にこだわっているのは、ただの刷り込みで。そう思いたかった。信じたかった。
     だってそうじゃなくて、これが生涯唯一の恋なんだったら、私はずっと悲しいままで、ずっと一人のままだ。
     嘘でもいい。乱暴でもいい。せめて誰かに言ってほしい。お前が後生大事に抱えているものは、取るに足らないなにがしかであると。星の数ほどあるありふれた悲劇の中のひとつで、終生悩むほどのことではないと。
     ──誰かに、目を覚ませ、と頬を張ってほしかった。

     男が近寄ってくる。私は目を瞑って顎を上げた。諦めにも似た無力感が押し寄せる。
     あの人はもう、私を寮に送り届けない。一生。
     そんな夢を見ることも、もう、罪深い人になるのだ。
     私はじっと立って、災厄にも似た男の手が身に触れるのを待った。だけどしばらくしても、何も起こらなかった。私は間抜けに目を瞑って突っ立って待ちながら、何かおかしいと感じた。
     まさか財布でも取られたかしら。不安になって目を開ける。
     
     最初に目に飛び込んで来たのは、赤だった。
     眼前でチロチロと蠢く赤色が一瞬小さな炎に見えて、思わず「ひ、」と身体を引いた。足元に落ちたローブがヒールに絡み、後ろ向きに転びそうになる。
     少し離れて視野が広がると、次に目に飛び込んで来たのは、黒い蛇だった。私が炎だと思ったのは蛇の真っ赤な舌で、それがぱっかりと大きく開いた爬虫類の口から、まるで火を吹くように飛び出ている。
     そしてその黒い蛇の頭は、目の前の男の口から出ていた。
     小さくて細長い蛇の頭が、吐き気を堪えて窄まった男の口を、こじ開けるように覗いているのだ。

    「ぉぅぇ」
    「ひっ!!」

     耐えきれなくなったのか、男がえずいた。すると、ずるり、蛇が男の口から這い出て、べちゃりと墜落する。私は靴の上に落ちた粘液にまみれた蛇を、足を無茶苦茶に動かして払った。床に叩きつけられた蛇は一瞬死んだかと思ったが、しばらくするとうねうねと緩く動き出した。
     男の口からはすでに、もう一匹の蛇が頭を覗かせている。

    「や、いや……!」

     私が反射的に距離を取ると、男は前かがみになって悶え苦しみ出した。うーうーと唸りながら胸から喉にかけてを爪で引っ掻いている。それはまるで、首にかかった目に見えない死神の吊り紐を必死に引き剥がしているようにも見えた。
     ずるりずるり。もう一匹、もう一匹、と彼の口から絶え間なく、大量の蛇が吐き出される。

    「あ、あ……」

     延々と続くそれで、男の足元はもう真っ黒だった。
     私は口を抑えて後ずさる。やがて、ここが終点とばかりに背中が壁にぶち当たり、逃げ出せもしなくなった。目の前の惨状に震えるしかできない。
     うねうねとそれぞれに蠢く蛇はまるで大きな影のような塊になっていて、男を足元から暗闇に飲み込もうとしているようだ。
     ずるりずるり。えずいては吐き、えずいては吐き。
     蛇はどんどん、後から後から溢れいでる。

    「ぁ、ぁっ、たす、助け、ぅぇ、ぉっ」
    「はぁ、はぁっ……!」

     声も出せず、背を壁に預けてやっと立っていると、足の甲を何かが這った。ふと目線を下げると、蛇が上に乗っていた。慌てて足をばたつかせて引き剥がすが、男の足元からは一本のラインを引くように、蛇が群れになって私を目指してやって来ている。

    「やだ、や、何、なんで……!」

     払っても払っても寄って来る蛇。私が群れを飛び越して移動しても、向きを変えてシュルシュル音を立てて這い寄って来る。恐怖にいよいよ足がもつれ、どしんと尻餅をついた。逃げ回ることもできずにいると、蛇が我が物顔で私の足や腕に纏わりつく。払っても、払っても。
     これは一体なんの呪いであろうか。
     と、一匹の蛇が私の足元で止まると、不意にこちらを見上げるような仕草を見せた。恐怖と諦念の中でよく見れば、てらてらと光る黒い胴体の両脇には、金と赤のラインが入っている。
     見覚えのある色だった。
     既視感が暴風のように思考を襲い、頭にかかった靄が一気に晴れる。

     ──先輩。

     私は蛇を掬い上げた。邪気の無い動物の瞳が、こちらを見上げる。
     怖くはなくなったけど、泣きそうになった。

     ──こんなのずるい。

     私は蛇を床に戻して立ち上がる。苦しむ男に大股で近寄る。そして泡を吹きながらも、未だ大量の蛇を吐き出し続ける男の頬を両手で挟み込んで無理矢理に持ち上げると

    「出てこい、ジャミル・バイパー」

     と呟いた。返事はない。ただ力なくされるがままの男の口から、蛇だけが延々と垂れ流される。
     今後お前に触れる男は皆こうなる、お前に近づいた男の末路を、よく見ておけとばかりに。
     溢れ出す蛇の一つひとつと目を合わせながら、今度は大音声で告げる。

    「出てこい、卑怯者! こんな遠回しな魔法だか呪いだか使いやがって、どうやって止めるのよ、この……っ!」

     次から次へと飛び出てくる蛇の頭を掴んで、千切っては投げ、千切っては投げ。それでも蛇は、涸れないオアシスの泉のごとく、止まる気配がない。私の足元には蛇が団子のようになって、その冷たい皮膚が私の体温を奪っていく。
     いよいよ辛抱ならなくなってきて、私はもう一度男の頬を手で挟んだ。

    「私を捨てたくせに! 野心を取って、故郷を取って、良いとこのお嬢さんと結婚するくせに! 弄んで、捨てたくせに!!」

     この場にいない男への恨み辛みを、今までずっと飲み込んで、誰にも言えなかった言葉を、思うさま投げつける。
     だけど本当は、そんなことはどうでも良かった。野心に燃える彼の目が好きだったし、それがなければ私の好きになった彼ではないとさえ思っていた。だから、彼が私を捨てて、商家の娘と結婚するのは当然だと受け入れていた。捨てられるのは知ってたし、彼が忘れるなと言うから、忘れる気もなかった。
     けど。

    「……自棄になるのも駄目なの? あなたは他の人と結婚するのに、私はその傷を、誰かに慰めてもらうのも駄目なの?」

     呟くと、出て来た蛇と目が合う。
     私にはもう、蛇の印がついている。
     それならもう。

    「あの時、殺してくれれば良かったのに……」

     男の頬から手を離す。顔を覆って涙にくれる。蛇はどんどん溢れてきて、止まる様子がなく、最初は足首に纏わりついていたものが、どんどんその嵩を増し、ついに私の肩あたりまでを覆った。それでも泣き続ける。
     しゅーしゅーと耳元で蛇の喉が鳴る。私の形の蛇の塊ができた頃、ふと、誰かの声が聞こえた。

     ──抗うな。すべてうまくいく。

     それからぐるりと世界が反転したような、頭から引っ張られるような感覚がして、世界が闇にかき消えた。
     

     

     

     ……腕の上を、冷たくてざらついた何かが這った。だけど目が開かない。ふと、スパイスの香りを感じる。嗅ぎ慣れたあの匂い。彼を抱きしめる時にはいつも香っていた。誰かの呼気を近くに感じる。
     ああ、あの人が私の腕で眠っている。
     そんな経験は一度もないのに、どうしてかそう思い、私は重たい腕を伸ばした。腕が動くと目も開いて、私は彼を見た。
     褐色の肌に、黒い縁取りのある吊り上がった瞳。額には飾り文様が浮かび、彼の左目は炎を宿していた。
     オーバーブロットしているのだ。
     私はぼんやりと彼を見る。私に馬乗りになっている彼の首には戒めのような黒いベルトがかかって、それが体の中心を通って、私の胸に金の飾りとともに降りかかっていた。蛇に姿を変えた彼の髪が、私の腕を甘えるように這う。
     ふわふわと肩のあたりを浮かぶタールのような雫を避け、私は彼の頬に触れた。

    「……どうしたんですか、ジャミル先輩。また、そんなことになっちゃって。また無理でもしてるんですか……」
    「……うるさい」

     掠れた声で問えば、彼は何重にも重なって聞こえる、感極まったような声で答えた。その声は耳元で聞こえるような気もしたし、空から降ってくるような気もした。
     私は彼の頬を撫ぜる。つやりとしているのに、たまに指の腹に感じる産毛。実にリアルな感触だった。左目の炎が揺れるのも、胸に落ちる飾りの重さも、凄まじい実感のある空想。
     じっくりと見る。顔も、毎日会っていた頃より少し精悍になった。
     ああ、なんてリアルな、夢……

     ……じゃない!!

     顔が私の知ってる幼げな顔じゃないことに気づいて、一気に頭が覚醒した。慌てて飛び起きようとするが、彼にぶつかりそうで体を捻るくらいしかできなかった。

    「な、なにっ、はぁ!? これ、えっ!?」

     動揺の声に、「やっと気づいたか」と嘆きにも似た呆れが投げかけられる。
     よくよく見ればそこは先ほどまでいた薄汚いモーテルの一室ではなく、石造りの上を白い漆喰がデコレートした薄暗い部屋だった。私とジャミル先輩が載るベッドの上には薄い天蓋に似た布がかかり、普段ならば机上や天井にある美しく色付いたランプからの淡い光がそれを透かすはずが、今はオーバーブロット時の彼の力に負けて部屋は光と影が混沌としている。床には房飾りのある絨毯が敷かれ、その上にクッションがいくつか散らばっていた。
     そしてその奥に、すすり泣く一人の少女。怯えて震える彼女の足元には持ち手のついた小さな手鏡が落ちていて、鏡面は粉々に砕けていた。

    「え、なん、だ、だれ」
    「そんなことはどうでもいい。俺の目を見ろ」

     頬を掴まれ、ぐいと顔を引き戻される。

    「『瞳に映るはお前の主人……尋ねれば答えよ、命じれば──』」
    「うわあぁぁぁぁっ!!」

     突然始まったユニーク魔法の詠唱に、絶叫して目を瞑る。そのまま彼の目を覆ったから、多分おでこに手がぶつかった。すすり泣きの響くシリアスな空気の中、べち、と間抜けな音が響く。

    「……おい」

     心底機嫌の悪い声が聞こえた。何重にもエコーがかかっているので、さらに迫力が増していて、だけどそれでも手は離さないし、目も開けなかった。

    「手を退けろ」
    「……い、やです」

     ギュゥ、と強く目を瞑ったまま言い返した。空気がもっとひりついて、覆った手のひらの隙間から憤怒が漏れ出てくるみたいだ。
     ジャミル先輩が言う。

    「口答えをするな、いいから早く、」
    「うるさい馬鹿!!」

     それに全力で罵倒を返した。彼はまさかそんなことを言われるとは夢にも思わなかったようで、「な……っ!」と口ごもる。その返しが無性に癪に障った。私の手を外そうとしてくる指に抵抗して彼の頭をつかんだまま、怒りをぶちまける。

    「なんなんですか、その「なっ!」っていうのは! 嫌ですよ、嫌に決まってる、当たり前でしょ!」
    「君、」
    「別に今更ジャミル先輩に洗脳されようがなんだろうが、別に構いやしませんよ! 構いやしませんけどねぇ……っ! あなた、今そんなことしたら死んじゃうでしょうが!!」

     私の絶叫が室内に響いたら、場は一瞬水を打ったみたいに静まり返った。その静寂に、私はまた腹が立つ。

    「……うるさい」
    「オーバーブロット時は既に魔力回復値を大幅に超過した状態です、そんな状態で、元々魔力のバカ高いあなたが、ユニーク魔法なんか使ってみろ! 魔力切れで死ぬだけならまだマシで……」
    「うるさいうるさいうるさい!!」
    「うるさくて結構、何度でも言ってやる!」

     自棄に似た叫びに、叫びを返す。知らないとは言わせない、と顔を覆っていた指に力を込める。まるで縋るような私の手首を、彼がつかんで退かそうとする。とうとう力づくで手が外されて、泣きそうになった。
     どうして分かってくれないの。どうなるか知ってるくせに。
     どうしてそれ以上、死に自ら近づこうとするのか。

    「……あなたが私に教えてくれたんですよ。魔法の原理も、危険性も、身の守り方も、何が駄目で、何が良いのか、全部あなたが。なのになんで、」
    「ならどうして!!」

     耳をつんざく大音声が間近で放たれる。自然と肩が強張って、続きを待つような格好になった。だけど、いくら待っても雷のような怒りの声は降ってこない。
     代わりに、小さな囁きが落ちた。

    「どうして、君は……」

     だめだと分かっていたのに、その声を聞いたら耐えられなかった。私はぱっちりと目を開けて、彼を見上げる。苦悶に歪んだ眉に、薄く開いた口の隙間からは食いしばるような歯が見える。

    「ジャミル先輩……?」

     声をかけたその時、部屋のドアが無遠慮な音を立てて開き、室内に小さな影が転がり込んできた。

    「ジャミルーっ! なんか大きい音が……って、えぇぇぇぇぇ!?」

     カリム先輩だった。
    「なんでオーバーブロットしてるんだよ!」「またオレのせいか!?」とその場でワタワタとする先輩に、「カリム先輩!!」と大声で呼びかける。
     カリム先輩はベッドの上に私を見つけると、大きな瞳を剥いて叫ぶ。

    「……か、監督生!? どうしてここに、」
    「この人倒して! 早くしないと、ジャミル先輩が本当に死んじゃう!!」

     質問には答えずに要求だけ告げる。と、上から舌打ちが聞こえた。カリム先輩が手を伸ばして私に叫ぶ。

    「監督生、とにかくこっちに、うわっ!」
    「引っ込んでろ、カリム! こいつは、俺のものだ!!」

     威嚇するような炎の連撃とともにジャミル先輩の声が響いたかと思えば、ふわりと体が浮く。

    「わ、わわ、」

     急に足がつかなくなって、何!? と振り返ると、ジャミル先輩の後ろの魔人のような影が、私の腰をつかんで高く持ち上げていた。そ、そんなのアリ!?

    「監督生!!」
    「わ、私に構わず、やってくださいーっ!!」

     宙に浮いたままそう言うが、全くもって説得力のない姿だな、と我ながら思う。なにせ私は非魔法人種、相棒もいないこの状態で、されるがままに宙に浮いているのだから当然だ。
     炎に阻まれたカリム先輩は、「そうは言ってもなぁ」と弱り顔だ。実践魔法で手元に杖を呼び寄せたはいいものの、どこから手を打ったものかと迷う顔を見せる。

    「なあ、ジャミル、とりあえず話し合おう! な!」
    「ふん。今回の件で、お前と話し合うことなんかあるものか」
    「……え、そうなのか?」

     虚を衝かれた顔をするカリム先輩。

    「え、え~っと、それじゃあ……じゃあ、何が原因なんだよ!?」
    「それは……」

     ジャミル先輩は黙り込む。カリム先輩は杖を構えたまま、ちらりと宙に浮かぶ私を見た。

    「か、監督生、……まさかとは思うけど、ジャミルに何かしたのか?」
    「……え!? 私ですか!?」

     急に名指しされたので素っ頓狂な声が出た。心当たりが全くない。むしろ何かされたのはこっちのほうだ。カリム先輩からの手紙で、泣く泣く別れた恋人の結婚式に招かれるという、かなり間接的な話ではあるけれども。
     あ、あと、なんか多分呪いもかけられてる。他の男と付き合おうとすると相手の口から蛇が大量発生する呪い。いつかけたのかは知らないが、他に思い当たる人がいないし、きっと、おそらく、ジャミル先輩だと思うのだが……

    「いや、いや待ってください、そんなバカな……だって先輩方が卒業して以来会ってないですし、今はなんか知らないうちにここにいますけど、何かできるわけなくないです?」
    「でも、ここには監督生しかいないし……」
    「そ、そんな! 居合わせただけであんまりだ!」

     カリム先輩は無情に首を傾げている。ジャミル先輩はなぜだかうんともすんとも言わない。その間に衛兵らしき人々もやってきて、室内はジャミル先輩に怯える人、祈る人、槍のようなものを構え続けるが足が震えている人、と、阿鼻叫喚の地獄絵図になってしまった。もう内々で収められる話ではない。
     こんなところであらぬ濡れ衣を着せられたら、私、それこそ首が飛んでしまうのでは? ウンウン唸って考える。

    「でも、でも違うんです、絶対私じゃ、何かあったとしたら……あっ! そうだ! その人! その人は!?」

     私は部屋の隅で未だ泣いている女性を指さし、慌てて自分に向いた疑惑の矛先を方向転換させるように仕向ける。醜い責任逃れのような形だが、実際、私よりも彼女が何かした、というほうがまだ納得がいく。だって彼女は、私がここに来た瞬間から部屋の隅で泣いているのだから。
     カリム先輩は部屋の隅の暗がりに目を凝らすと、そこに女性を認めて「え!?」と動揺の声を上げる。

    「な、なんでお前がここに……!」
    「か、カリム様……」

     カリム先輩は彼女に慌てて駆け寄って助け起こす。その弱々しい仕草に、あれ? と引っかかる。あの人、もしかして……

    「大丈夫か? なんだ、ジャミルに会いに来てたのか?」
    「え、あ、いえ」

     カリム先輩の問いに、彼女は顔を上げて首を振る。その顔を見て、ようやく思い出した。
     あの人、ジャミル先輩の婚約者だ!!
     思わず、ひえ、と口から恐怖を固めた声が漏れる。状況が全く分からない。私、もしかしてよく分からないうちに、結婚間近の二人の逢瀬にお邪魔してしまったのであろうか?
     ジャミル先輩が興味を失ったように言う。

    「ああ、丁度いい。その女は退場させてくれないか」
    「ジャミル、そんな言い方」
    「ふん。あいにく俺は、これ以上その女に敬意を払うつもりはない。結婚前に既成事実を作ろうと相手の男の寝所に忍び込む女には、この言い方が相応しいだろう?」

     え、とカリム先輩と私、それに、居合わせた中でも正気を保っていた衛兵の人々が同時に言い、彼女はさっと顔を赤らめた。

    「私は! お父様に言われて来ただけで……っ!」
    「ふぅん。父親に言われたらなんでもするのか。ますます救いようがないな」

     オブラートに包まれもせず投げつけられた軽蔑に、彼女はぐっと口ごもる。ジャミル先輩は続ける。

    「俺は自分の頭で考えられもしない人間を見るとヘドが出るよ、婚約者殿。それに、俺を駒扱いする人間にもな。悪いが、あんたの父親の思い通りにはさせない」

     言うが早いか、ジャミル先輩は目を瞑る。途端、私をつかんでいるほうではない魔人の手のひらに、黒い火の玉めいたものが出現した。衛兵たちが畏怖の叫びを上げる。
     私は焦る。私がここに来て、気づいた時にはもうオーバーブロットしていたのだ。いつからこの状態が続いているのか、正確なところは分からない。けれど。
     これ以上ジャミル先輩に魔法を使わせ続けたら危険だ。本当に、いつ魔力切れが来てもおかしくなかった。

    「あんたをこの世の果てに吹き飛ばしたら……俺は自由になれるのかもな。試してみてもいいか?」

     ジャミル先輩は無慈悲にも自分の婚約者にそう告げ、彼女は「ひ、」と縮こまる。それに、カリム先輩が立ち塞がった。

    「駄目だ、ジャミル! 正気に戻ってくれ!」
    「退け、カリム。どうせ小さな商家の娘だ、アジーム家にとっては取るに足らない存在だろう?」
    「それでも駄目だ! 魔法を使えない相手にそんなこと、……帰ってこれなくなるぞ!」
    「俺はそいつがどこでのたれ死のうが構わない」

     冷淡な声に、婚約者の女性が悲鳴を上げてカリム先輩の足にすがりつく。

    「あ、あの人、頭がおかしいんだわ! 絶対そう! そうに決まってる!! 私はただ、鏡を触っただけなのに……」
    「鏡?」

     カリム先輩が首を傾げ、ふと足元に目やる。そこには粉々になった手鏡が落ちていた。

    「あ! この鏡って……オレが取り寄せたやつじゃないか。ジャミルの誕生日にあげたんだ。ジャミルが珍しく欲しいって言うから、」

     その言葉に、婚約者の女性はまさかカリム先輩からの贈り物とは思っていなかったらしく、顔を青ざめさせた。そうして自分の正当性を訴えるため、必死に首を振る。

    「で、でも、触っただけ、本当にそれだけです! なのにあんなに激昂して、化け物みたいに……!」
    「うるさい、黙れ! あれはお前の命よりも重い価値のあるものだ!!」

     ジャミル先輩の絶叫に、彼女は「ひぃ」とカリム先輩の影に顔を隠す。どうやら彼女はジャミル先輩の大事なものに触って、それがこの事件の引き金になっているらしかった。
     しかし、今はそんなことはどうでもいい。原因や責任の所在が私自身に降りかからないのであれば、今そこに迫る危機のほうがよほど大事だ。
     私は頭をフル回転させて考える。あの厄介者の集まる学園で、ずっと何でも屋をやって来た経験、ここで活かさなきゃ一生後悔する。
     思い出して、考えて。一年生の時はどうやってオーバーブロット状態のジャミル先輩の隙をついたんだっけ? そう、確か……おだててどうにかしたんだった。でもあの時は先輩が、一番になりたい、って強く思っていた時だったからこそ通用したわけで。
     今先輩が求めているものは……彼女からの謝罪? 鏡に触ってごめんなさい? でも、向こうは怯えきっていて、とてもそんなことを言える精神状態じゃない。
     ならとにかく、オーバーブロット状態のジャミル先輩と、唯一この場で戦えるカリム先輩のほうから、気だけでもそらせるようにしなくちゃ。
     私は息を目いっぱい吸い込んで、ジャミル先輩に呼びかける。

    「ジャミル先輩! ジャミル先輩!!」
    「君はそこで黙って見ていろ。こんな茶番はすぐ終わる。そうしたら、」
    「ジャーミールーせーんーぱーいーっ!! ジャミル先輩ったら!! こっち向いて!!」
    「だからなんだ!?」

     オーバーブロット中はかなり短気になるらしい先輩は、私のしつこい呼びかけに顔だけで振り向いた。私はそれに一杯一杯手を伸ばし、彼の髪に繋がる宙に浮かんだ蛇を捕まえて、ぐいと乱暴に引き寄せる。
     先輩は「いっ!」と苦痛に顔を歪めてよろけ、何するんだ、と私を睨み上げる。それにもう片方の手を必死に伸ばすと、その頬に、ようやく手が届いた。
     私は掴んでいた蛇を離して、両手で先輩の頬を挟み込む。
     ああ、でも、こっちを向かせた以降のことは考えていなかったな。頭の片隅でぼんやり考えながら、その瞳を見つめた。
     婚約者の人とカリム先輩、それに衛兵の人々が、一体何が始まるんだという顔でその様を見ている。
     なんにも始まらないわよ、こっちだって大概ノープランなんだから。かと言って、ここでカリム先輩に「今です!」なんて指示を出したら元の木阿弥、水の泡。ジャミル先輩の気はまたカリム先輩に向いちゃって、二人の魔力が当時より上がっていることも相まってここはきっと学園の頃よりもひどい戦場になり、……私の大事な人はその果てに、もしかしたら死ぬ。
     そんなのはダメだ。一番ダメ。だけど、今頭に思い浮かんでいるプランを実行に移したら、なんか後々大変なことになるんじゃない? 誤魔化しってあとから効く? ああ、婚約者の人が見てるよ。衛兵の人も。それに、カリム先輩にもばれちゃう。でも、そもそもなんでここにいるのか未だに全然分かってない私に、ここまでさせるそっちが悪くない? 許容量オーバーになるまで勝手に抱え込みすぎちゃう、ガス抜き下手の私の好きな人が一番悪くはないですか!?

     ──ああ、もう知らない! どうにでもなれ!

     私は腹をくくって、眼前にある好きな人の唇に自分のそれを押し付けた。先輩の動きが止まる。分かります、びっくりですよね。私もびっくりですよ。……でも、すみません先輩。ちょっとムカついたのも本当です。
     だってあの人言ったんです。私の好きな人のこと、『頭がおかしい』って。『化け物みたい』って。
     そうじゃないのに。絶対何か理由があるはずなのに。決めつけられるのは心外だし、化け物扱いも腹が立つんですもの。彼女が拒否するあなたを、私はずっと欲しかったのに。
     たとえ化け物になってしまっても、ずっと欲しかったのに。
     だけど見て、先輩。彼女のあの呆けた顔。可愛い花のような顔が台無しです。正直、ちょっと胸がすきます。
     私、もしかしたら、目に物見せてやりたかったのかもしれませんよ、ジャミル先輩。彼女に初めて会ったあの日からずっと。沸々とした嫉妬を抱えて、いつかあの鼻明かしてやりたいって。……醜いですね。おそろしいですね。私のほうが、よっぽど化け物みたいですね。
     どうせなら、化け物同士、お似合いだったら良かったのになぁ。

    「ごめんなさい、全部私が間違ってました。先輩」

     私は唇を離して言った。ジャミル先輩の左目は、呆けながらもまだ赤く燃えている。

    「私、忘れる、って言いました。卒業まで、って言いました。でも、あんなの全部嘘です」

     注意を逸らすために何か言おうと思ったら、意識しないままポロポロ本音が出てきてしまった。
     なんという徒労! 私の今までの頑張りを返してほしい。だけど止める暇もなく、本音はコロコロ、坂を転がるように溢れ出す。

    「ジャミル先輩、ずっと、世界で一番好きです。だから、このまま、離さないでいて」

     彼の耳と目、頭全部を覆うように腕に抱いた。胸の中に招くと、ジャミル先輩は学生の頃のように震える息をついた。腰に巻かれていた魔人の指の圧力が緩み、徐々に空中から降ろされる。その背を、彼の腕が支えた。私は彼に抱きかかえられるようにして、体全部で彼の頭を抱え込む。
     その間に、口を開けてポカンとするカリム先輩に、私は必死に目配せした。私のアイコンタクトが通じるかどうかは賭けだったが、カリム先輩は私の様子に一瞬怪訝な顔をしたあとすぐにハッとして、驚きに下ろしていた杖を再び構えてくれた。

    「ジャミル、監督生……ごめんっ!!」

     カリム先輩の絶叫が聞こえる。ジャミル先輩がその声に反応して振り返って迎撃しようとした。それを止めるために、全力で縋り付く。
     刹那、魔法の発生する瞬間の光が目を焼いた。大きな渦を巻いた水の塊が私たちめがけて飛んでくる。それを見て、私はどうにもできなくて、とりあえずジャミル先輩の頭を守ろうと腕に力を込めた。
     ものすごい衝撃が私たちを襲い、そこで私の意識はぷっつりと途切れた。
     
     

    元の木阿弥、水の泡(天秤が傾く日)
     


     目を開けると、赤い布が目に入った。薄衣のようなシーツで、下の敷布の乳白色が透けて見える。私は覚醒しきらない頭でぼんやりとそれが作る皺を見つめていたが、しばらくすると事態を思い出して飛び起きた。

    「いっ……たぁ……!」

     背中に鈍い痛みが走り、首から上で覗くようにして見る。そんなことをしても当然自分の背中が見えるわけもなく、徒労に終わる。しかし、絶対にどうにかなっている。だって何もないのにこんなに痛いわけない。
     ウンウン唸っていると、ふと自分が見覚えのない服を着ているのに気がついた。肌触りの良いシルクのような素材でできた、上から被るタイプのぼっかりとしたワンピース。ふくらはぎまでをすっぽりと覆っているそれは、クリーム色に近い白。自分で着替えた覚えはないので、どうやら誰かの手を煩わせてしまったらしい。
     それに……この部屋。一目で豪華と分かる細かな模様の絨毯に、品の良い調度品の数々。置かれたクッションの、どことなく異文化の香る刺繍から察するに、ここは多分、熱砂の国の一室だ。かつて見たNRCの寮の装飾に似ている。

     何が起こったのか全然分からないけど、私、いつの間にか熱砂の国に飛ばされちゃったんだ。それも、ジャミル先輩やカリム先輩のいるところに。

     段々と自分の置かれている状況を理解し始める。ということはやっぱり、あのジャミル先輩のオーバーブロットも、カリム先輩のウォーターショットをこの身に食らったのも、夢ではなくて現実だ。この背中が痛いのも、きっとそういうことなんだろう。
     ああ、なんだか大変なことをしてしまった気がする。夢だと思ってやったわけじゃないし、あの時はジャミル先輩が死んじゃうと思って無我夢中だったけど、思い返せばとんでもないことをした。婚約者の前でキスする女がどこにいるんだ。ああ、もう、ばかばかばかばか。
     悶絶していると、ガチャリと音がした。ハッと目を上げると、誰かが部屋の扉を開けて入室してくるところだった。私はその艶やかな黒髪と釣りあがった目を見て思わず、

    「ジャ……!」

     ミル先輩……じゃないな!?
     すごく似ているけど、その人は女性だった。慌てて飛び出てしまった叫びを抑えると、女性は少し面食らったあと、口元だけで微笑んだ。

    「目が覚めたんですね。お元気そうで何よりです」
    「え、あ、えっと」
    「ああ、でもまだ無理はなさらないほうがいいわ。丸二日も眠っていらしたんですから、きっと本調子じゃないのでしょう。どうぞ寝ていらしてくださいな」
    「ふ、二日!?」
    「ええ。あ、背中が痛みます? カリム様のウォーターショットが当たって、少しあざになっていましたから……ああ、もちろん、散らす薬は塗りましたし、痕が残るようなことにはなりません。兄が庇いましたので、そこまで大事には……」

     話の内容が『兄』の単語が出た瞬間に私の頭からすっぽ抜ける。この良く似た美貌、血縁だろうとは思ったけど、そんなに近しい人物だったとは。私は痛む背中を押して少しでも居住まいを正そうとベッドの上で身動ぐ。

    「す、すみません、突然お邪魔してしまって……! えぇっと、私、ジャミル先輩とカリム先輩の、あ、いや、カリム様? のほうがいいのかな? とにかく、お二人の学生時代の後輩で、」
    「オンボロ寮の監督生で、今はナイトレイブンカレッジの先生でいらっしゃる」

     詳細を継がれ、口をつぐむ。彼女は「存じておりますわ」と微笑んだ。その微笑みがジャミル先輩に似ていて、なんだか見惚れてしまう。

    「学園のほうにはアジーム家より連絡を入れておきました。少し早いけれど、このままホリデー休暇に入って構わない、とお返事をいただきましたので、どうぞゆっくり養生なさってください」
    「な、何から何まですみません。長居するつもりはありませんので、どうぞお気遣いなく……」
    「あら、そうですか? ですが、本調子になるまではいてくださいますでしょう? 怪我人を放り出したとあっては、アジーム家の名折れですから」

     彼女は「軽食を用意しました。少しお腹に入れたほうがいいわ」と続けることで押し問答を一方的に切り上げると、ベッドサイドの皿を示し、自分はその横に置いていたポットでお茶を淹れ始める。

    「冷めてしまいましたね。温め直します」
    「あ、いえ、結構です、大丈夫、そのままで」
    「そうですか?」

     首を傾げる彼女に強く頷き、半ば奪うようにしてカップをもらった。お砂糖のたっぷり入った、ハーブの香る優しいお茶だった。少しぬるめの液体が、二日間何も受け入れていない胃にじんわりと広がる。

    「……あの、」
    「はい?」
    「……ジャミル先輩は、ご無事ですか」

     気持ちを悟られないように慎重に、言葉を選んで尋ねる。これくらいなら、ただの後輩の立場でも、しておかしくない質問なはず。きっと。……多分。
     彼女は「ええ。兄なら一足先に目が覚めていますよ」と答えた。体の力がドッと抜ける。

    「そうですか……良かった」
    「それ、食べたら会いに行かれますか?」
    「あ……えっと、」

     穏やかな勧めに、少し迷う。会っても良いものなのだろうか。

    「きっと兄も喜びます。あなたの無事を気にかけていましたから」

     駄目押しされ、小さく何度か頷く。きっと、少しだけなら大丈夫だ。無事だけ確認したら、身体はもう平気だと言って、すぐにお暇すれば良い。

    「分かりました。じゃあ、あとで伺うようにします」
    「では、私は外におりますので、食べ終わったらお声がけください。一緒に参りましょう」
    「え、そんな、良いです! 場所さえ教えていただけたら、一人で行きますから」

     慌てて辞したが、彼女は頑なに首を振る。

    「そういうわけには参りません。屋敷は広いですし、あなたはアジーム家のお客人です。そのようなことをすれば、私が主人に叱られてしまいます」

     そう言われてしまうと、何も言えない。私は「分かりました」と頷き、彼女が出て行ったと同時に猛スピードで軽食をかきこんだ。彼女にだって他にも仕事があるはずだ、私の世話ばかりさせているわけにはいかないだろう。
     ハーブティーで口の中のものを飲み下すようにして食べ終えると、ベッドの脇に用意されていたスリッパを履いて部屋を出る。彼女は言葉通り部屋の外で待っていてくれて、私のスピードにわずかに目を見張った。

    「もっとゆっくり食べてよろしかったのに」
    「いえ、大丈夫です。行きましょう!」

     連れ立って廊下を進み、階段を降りる。しばらく行って、彼女が立ち止まった。
    「こちらです」言って、扉を開ける。心臓が喉から飛び出しそうな心持ちで中を覗く。すると、ジャミル先輩が横たわるベッドの脇、カリム先輩が椅子に座ったまま振り向いた。

    「監督生! 起きたのか……」
    「先輩、しーっ。……ジャミル先輩、寝てるんじゃないですか?」

     カリム先輩は「そうだった」と口を抑える。

    「ジャミル、さっきまで起きてたんだけどさ。また眠っちまったんだ。ごめんな」
    「いいえ、私のタイミングが悪かったんです。……元気なら良かった」

     どうしよう。あとでまた来るべきなんだろうか。でもそうなると、熱砂の国に長居することになってしまう。それはなんだか座りが悪いのだけれど。言いながら、そんなふうに考えていると、カリム先輩が「椅子を持ってきてくれ」と一緒に来ていた彼女に頼んでしまった。

    「い、良いですそんな、大丈夫ですから」

     恐縮している間に彼女は出て行ってしまって、程なく椅子が用意される。私は仕方なく勧めに従って、カリム先輩の横に座った。
     ベッドに眠るジャミル先輩はきれいな彫刻のようだった。左目にもう炎はなく、額の紋様も消えている。すうすうと呼吸に合わせて緩やかに動く胸に、生きている実感が湧いて、またホッとした。そういえば寝顔を見たことはなかったな、とふと思う。

    「ありがとうな」
    「え?」

     突然言われ、顔を上げる。カリム先輩は目を細めて穏やかに微笑んで言った。

    「監督生がいてくれて助かった。オレだけじゃ、ジャミルのこと、止めてやれなかったかもしれない」
    「そんなこと……」

     首を振ったが、カリム先輩はもう私の話を聞いていない。「そういえば監督生、なんであそこにいたんだ?」と、からりとした口調で当然の疑問をぶつけて来る。

    「それが……私にもよく分からなくて」
    「えっ、そうなのか?」
    「なんか……気がついたらここにいたんですよね」

     まさか見知らぬ男とモーテルにいたら瞬間移動していました、とも言えずに、頭を掻いてヘラリと笑うと、カリム先輩は腕を組んで「そっか~、不思議だな!」と言ってくれた。これがジャミル先輩じゃこうはいかないので、私は心中胸をなでおろす。追求されなくて良かった。

    「ジャミル先輩は? 今回の件、何か言ってましたか?」

     私が聞くと、カリム先輩は

    「ん? ああ、「迷惑をかけてすまなかった」って言ってたぜ! ジャミルが謝るの、久々に聞いたなぁ」
    「いえ、そうではなく。いや、それも大事なんですけど、こうなってしまった原因とかは……?」
    「……あれ? そういえば聞いてないな」

     と言う。私は思わず「え」と言って固まる。

    「一回聞こうと思ったんだけど、「疲れたから寝かせてくれ」って言われてさ。あれからすっかり聞くの忘れてたや」

     は、はぐらかされてる……! しかも、すごくあからさまに!
     カリム先輩は「でもジャミルのことだから、きっと何か我慢できなかったことがあったんだろ」とカラカラ笑った。それで良いのかアジーム家。家がぶっ壊される寸前だったんだぞ、アジーム家。お金持ちだから家の一つや二つどうってことないのかアジーム家。
     絶句していると

    「僭越ながらカリム様、私ども従者は皆、兄はカリム様からいただいた貴重な手鏡を割られたことにより、あのようなことになったと聞いております」

     と、妹さんが告げた。カリム先輩は「そうだったか。そういえばそんな話もしてたなぁ」と頷く。

    「この度は私の兄のせいでこのようなことになり、大変申し訳ございません」

     妹さんは言い、

    「何度も謝らなくていいって。結局何事もなかったんだから!」

     とカリム先輩は簡単に許していた。
     私にはジャミル先輩がそれだけでオーバーブロットするとは思えないけど、従者の人にはそれで通るらしい。よっぽど高価な鏡だったのだろうか?

    「じゃあ、きっと婚約者の方は気に病まれているでしょうね」

     私が言えば、二人は「あー……」と顔を見合わせる。変なことを言ったつもりはなかったので、その反応に首を傾げた。

    「あの……何か?」
    「いや! いや、いいんだ、なんでもない!」

     カリム先輩は慌てたように首を振ると、ふと何か思い出したように閃いたような顔をして

    「そうだ! あの、あのさ、監督生」
    「はい?」

     と、そわそわと肩を揺らす。彼にしては珍しく、迷うように視線を彷徨わせると、「あのさ!」と再び意を決したように私を見て言う。

    「オレはさ、ジャミルが好きだから、親友だと思ってるから、ジャミルが幸せになったら良いなぁと思うんだよ」
    「はい」
    「愛してる人と結婚したり、そういう、そういうのがオレは、良いと思うんだ!」
    「はぁ」

     話が見えずに頷くと、カリム先輩は頬を上気させて、乞い願うように私の目を見つめる。腿のあたりに置いた拳は決意を込めるように固く握られ、彼は唇を噛んでいた。

    「だから……だからさ、もし、もし監督生が良かったらなんだけど、その、ジャミルとさ……!」
    「カリム」

     ふとベッドから遮るような声が響いた。振り返ると、ジャミル先輩が目を開けていた。

    「ジャミル!」

     カリム先輩が立ち上がってベッドに手をつくと「余計なことを言うな」とジャミル先輩は冷ややかに言った。

    「というか、お前、ここで何してる」
    「え? 何って、」
    「仕事をしろ。溜まっている書類があるだろう。療養前に俺が書いたオアシスの報告書は? もう目を通したのか?」
    「あ。忘れてた!」

     口ごもるカリム先輩に、半身を起こして枕に寄りかかったジャミル先輩は深い溜め息をつく。学生時代と変わらない、威圧感のある溜め息だ。

    「今週中には旦那様に送らなくちゃならないんだ、必ず目を通せ。お前が旦那様に任された事業なんだぞ。もっと自覚を持って、」

     起き抜けにとうとうと説教を垂れるジャミル先輩。二人、学生時代から全然変わんないなぁ、とぼんやり見つめていると、妹さんが手を上げてジャミル先輩を制した。

    「兄さんにそんなこと言う権利ある?」
    「なんだと。俺は、従者として当然のことを指摘したまでで、」
    「報告に遅れが出てるのは、兄さんのオーバーブロットが原因でしょう。カリム様は兄さんを心配して、ずっと横についていてくださったんだから」
    「それは……」
    「い、いいんだよ、ジャミル、そんな、オレがそうしたくてしてたんだし……」
    「大勢を巻き込んで暴れたい放題したんだから、ちょっとは反省してちょうだい。カリム様、重用に胡坐をかく愚かな従者の戯言なぞ、どうぞお気になさらないでくださいね。兄はちょっと気が変なんです」
    「おい!」

     ジャミル先輩と対等に言い合う妹さんに、思わず口が開いてしまう。す、すごい。圧倒的にジャミル先輩が悪いとは言え、彼にこんなに言える女性がいるなんて! と無用な感動まである。
     それ以降もカリム先輩を置いてけぼりにして、妹さんの口撃は止まらない。

    「そもそも、そんなに大事な手鏡なら人目に付くベッドサイドになんか置いておかずに、きちんとしまっておけば良かったじゃない。カリム様にわざわざ輝石の国から取り寄せまでさせたくせに、扱いがぞんざいなのだって、本来なら許されることじゃないわ。小さな商家の娘に部屋まで入り込まれてるのも、完全に危機管理不足の自業自得でしょ? まぁ、兄さんが『どんなものでも映し出す魔法の手鏡』で夜な夜な何を見てたかは、こうなった今大体の想像がつきますけど、」
    「分かった、俺が悪かった! お前の評判まで落とすつもりはなかった、この借りは必ず返す! それでいいだろう!」

     ジャミル先輩が自棄を起こしたように絶叫すると、ようやく妹さんは口を閉じた。腕を組んで、ふん、と鼻息で返事をする。その素振りがジャミル先輩に似ていて、本当に兄妹なんだなぁとしみじみ思った。
     しかも、やっぱりかなり高価な手鏡だったらしい。輝石の国にそんな魔道具があったとは知らなかった。
     彼女はツカツカとジャミル先輩の枕元までやって来る。私はそれに、もしやビンタでもするのだろうか、と構えたが、そうではなく、彼女は先輩の耳元に顔を寄せて何事か囁くだけだった。先輩は耳打ちにわずかに眉を寄せ、横目で彼女を見る。

    「これも、一つ貸しね」

     彼女が耳から顔を離し、ニッコリ、ともすれば意地悪くも見える笑顔で言うと、先輩は半目で「分かった」と諦念の滲む声で小さく了承した。彼女はそれを聞き届けるや否や「カリム様!」と今度は振り返って呼びかける。

    「お、おう!」
    「今回の件に関しては全て我が兄の不徳の致すところで大変恐縮ではございますが、それでもやはり旦那様への報告が遅れるのはよろしくありません。床に伏せる兄の代わりに、僭越ながら私がサポートいたしますので、今から業務に戻られてはいかがでしょう?」
    「ん? うん、そう、だな。ジャミルの具合がいいなら」
    「心配なさらずとも大丈夫ですわ。何かあれば、きっとこちらの先生が知らせてくださるはずです」

     言葉と同時に、ガシッと私の肩が後ろから掴まれる。何……と見上げると、ジャミル先輩そっくりの美しい相貌が、私を捕食するように見下ろしていた。せ、『先生』って、まさか私のことか……?
     目を白黒させていると、カリム先輩が「そうだな! うん! ジャミルのことは監督生に頼もう!」と破顔する。

    「え、ちょ、ちょっとお待ちを!」
    「助かりますわ、先生。ちょうど手の空いている人間がいなかったんです」
    「え、は、はぁ……」
    「兄のこと、どうかよろしくお願いしますね」

     手をしっかりと握り込まれてそう勢いよく言われると、反論の余地がなかった。自分がこの顔に弱いことを深く自覚する。
     彼女はカリム先輩を連れて部屋をさっさか出て行ってしまい、室内には私とジャミル先輩の二人が残されてしまった。き、気まずい!!
     いつまでも部屋の扉を眺めて突っ立っている私に、ジャミル先輩が「座らないのか」と声をかける。私はブリキ人形のようにゆっくりと椅子に座り直した。心許無く、膝に置いた自分の手ばかり見つめる。

    「……っあの! ……身体は、もう大丈夫なんですか?」
    「ああ。君は?」
    「私も、もう全然……」

     それだけ言うと、また場は静かになる。何を話せばいいのか分からない!
     必死で頭の中からこの場に相応しい話題を探していると、おもむろにジャミル先輩が告げた。

    「結婚の話が白紙になった」

     知らず、顔が上がる。

    「え……」
    「あの晩の話が旦那様の耳に入ってな。婚約は破棄だ」

     私はどう言ったら良いのか分からなくなった。それでも、わずかに弾んだ心が醜くく思え、拳をギュゥと握りしめる。

    「そ、れは……ごめんなさい」
    「なぜ謝る」
    「だって、私のせいでは」
    「違う」

     ハッキリと否定された。だけどにわかには信じられず、ジャミル先輩の顔をじっと見る。その表情に、嘘や誤魔化しがないか、見極めようとした。それに先輩は呆れたように首を振る。

    「前にも言っただろう、アジーム家当主の言うことに異議を唱える奴はいないって。それはつまり旦那様の言葉一つで、限りなく黒に近いグレーも真っさらな白になるってことだ。君が何をしようが関係ない」
    「でも」
    「分かった、なら具体的に言おう。君が俺に衆人環視の中でキスをしようが何をしようが、旦那様が『あれは不義である』と断じればそれは黒だし、『あれは危機的状況における応急的な処置である』と言えば、それは白だ」

     直接的な話に、図らずも頬が熱を持つ。熱冷ましに頬を撫ぜると、ジャミル先輩が続ける。

    「それに、今回婚約が解消された理由に君は元から入ってない」
    「? それってどういう意味ですか?」
    「そのままの意味だ。今回の婚約解消は、全て向こうに非があると旦那様は断じられた」

     先輩は一度、寄りかかった枕の位置を調整して座り直すと、事の顛末を話し始める。

    「そもそも旦那様は、俺を商家にやるつもりはなかったんだよ。それに気づいた相手側が、既成事実さえあれば婚約解消されることはないだろうと踏んで、俺の寝室に娘を送り込んできた。で、その企みが今回の事件で明るみに出た。いつ婚約を解消させようか思案しているところに発覚したものだから、……まぁ、旦那様にとっては渡りに船だよな。向こうの家の思惑を、旦那様はアジーム家への侮辱だと言って切り捨てた。今後アジーム家にあの小さな商家が関わることはない」
    「え、でも、ジャミル先輩の婚約は元々、カリム先輩のお父様からのご褒美として設けられたんじゃ」

     私の疑問に、ジャミル先輩はふと遠いところを見るように目を細める。

    「十歳の頃は、な。状況は刻一刻と変わる。アジーム家にとってそこまで惜しい人材ではなかった俺は、今になって外に出すには惜しい存在に成り上がったわけだ」

     先輩は自分の手のひらを見つめてそう言った。

    「この四年でオアシス事業が成功したのが大きいだろう。カリムのサポートに走り回っていた結果だ」

     私は思う。
     それは、ジャミル先輩にとって良いことだったのだろうか、と。
     先輩はずっと自由が欲しくて、本気を出しても誰にも咎められない場所が欲しくて、それは従者の立場では叶わないことで、だから先輩は、婚約を利用してのし上がろうとしていたのではなかったか。
     これじゃあ、結局ジャミル先輩の望みは叶わないままだ。そして、私はそれを一瞬でも喜んだ。
     本当に、なんて醜い心だろうか。
     胸が痛んで、悲しくなって、私は唇を噛んで俯いた。
     それにジャミル先輩は「なんて顔してる」と呟く。

    「だって、それじゃあ、先輩は……ずっと」

     それ以上は言えなかった。傷に塩を塗り込むような気がしたし、自分が恥ずかしくもあった。自分が原因ではなかったからと、安堵することなんてできない。
     しばらくたって、先輩が静かに言った。

    「……俺は、こうなって良かったと思ってる」

     強がりかと思ったけど、ふと見た先輩は私の想像以上にずっと穏やかな顔をしていた。

    「あの女が俺の部屋にいたのを見た時、正直ホッとした。これでお茶の一杯でも飲ませて帰して、旦那様に報告すれば、全部終わると思って」

     まぁ、オーバーブロットしたのは自分でも想定外だったが、と先輩は気が抜けたように肩を竦める。

    「なんで……」

     知らぬ間に口から疑問が零れ落ちる。先輩は私をじっと見て、そして言った。

    「君じゃなかった」
    「え?」
    「……相手が、君じゃなかったから」

     ──世界から、全ての音が消えた。
     冗談かと思った。
     からかっているのかな、って。
     だけど、ジャミル先輩の顔は本気だった。チャコールの瞳が静かに私を見つめていた。

    「こういう感情は、物語や空想の産物だとばかり思っていた。もしあったとしても、それは世界の外側の話で、俺の中にはないと」

     ジャミル先輩は、ふぅ、と負けを認めるような溜め息をつく。そして横たわる自分の足元を見て、独り言のように続ける。

    「俺は君を、自分の野心と比べられない。天秤に載せて、どちらが重いかなんて、考えるまでもないからだ。野心の叶え方はいくらでもあるが、君は一人しかいない」
    「国に戻るまで、そのことに気づかなかったわけじゃない。ただ、俺の一存ではどうすることもできない話で……」
    「……いや、先に言えば良かったんだと、今なら思うよ。君は底抜けのお人好しだから、俺が待っててほしいとでも言えば、簡単に頷いただろ?」

     困ったような視線を送られ、震えた息が肺から押し出された。

     そんなの馬鹿にしてる。私だってそんな、なんでもかんでも犬みたいに待つわけじゃない。私にだって限界はあって、心があって、いつでも受け入れるわけじゃないんだから。

     そう思った。

    「君が今、誰か他の男を好きでも良い。俺を少しでも哀れと思うなら、」
    「──好きって言って」

     遮るように、自然と口から転がり落ちた。
     視界はもう滲んでいて、鼻は痛いし、涙が出ていないのが不思議なくらいだ。
     それでもはっきり、そう言った。
     シーツを握りしめて俯いて、震える声で

    「私のことが、好きって言って。そしたら、……もうなんでもいい」

     瞬きしたら、その拍子に涙がこぼれた。瞬間、ぐっと肩を引き寄せられて倒されて、次に目を開けたら私はベッドの上に腰掛け、ジャミル先輩の腕の中で泣いていた。

    「……君は本当に馬鹿だな」

     先輩の腰辺りの服を掴んでぐずぐず泣く私を抱きしめ、ジャミル先輩は感極まったように呟く。

    「待てとも言ってないのに、普通待つか? この際だからはっきり言うが、君、かなり男の趣味が悪いぞ。正直言って、俺は君に我慢を強いた記憶しかない。恋人らしいことは何一つしてやれなかっただろう。なのにこんなにあっさり頷いて、後悔しても知らないぞ、」
    「好きって言え、ばかぁっ……!!」

     号泣しながら、辛抱堪らずそう叫んだ。ジャミル先輩は私の肩を掴んでゆっくりと自分の胸の内から少し離すと、私の目を覗き込んで、観念したように言った。

    「……愛してる。君を。……どうしても」

     それは私が初めて聞いた、好きな人からの告白だった。

    「私も、……ずっと、ずっと好きです。あなただけが、ずっと」

     うわっと感情の波が押し寄せて、ますます泣けてくる。ちゃんと見ていたいのにジャミル先輩の顔がどんどんぼやけていって、ひっきりなしに涙が出てきて、全然止まらなくて、頬を指で拭いながらどうしようと思っていると、ジャミル先輩が涙を吸い取るように頬に口付けた。びっくりして、目を見開いて固まっていると、今度は頬を両手で挟まれた上で、反対側の頬に口付けられる。
     それから、頬、鼻、目尻、と何度も唇を落とされて、動揺しているうちにいつの間にか涙が止まっていた。睫毛に残った水分をパチパチと瞬きで払うと、先輩が私の耳の縁を指で撫でた。砂糖を煮詰めたような瞳でこちらを見つめている。そんな顔、今まで見たことない。
     ずるい。まだ引き出しがあるなんて。私ばっかり好きになっちゃう。
     見惚れていると、口付けられた。今度は正真正銘、口に。初めて向こうからキスされた!! 身体をガチガチに強張らせていると「目を閉じろ」と手で顔を覆われた。

    「み、見えない」
    「見なくて良い」

     照れを隠すように強く言うので、仕方なく目を瞑る。それを察したのか手は離れていき、その代わりにもう一度唇が落ちてくる。
     すごいな、本当に。ものの二、三分で、積年の夢がどんどん叶っていく。怒涛の展開だ。ふわふわとした気持ちで幸福を噛みしめていると、ペロリと唇を舐められた。
     は!? と思って目を開くと、こちらを見つめるチャコールグレーと目が合った。

    「ずるい!! 自分だけ、」
    「静かに」

     唇が離れた瞬間に文句を言ったら、叱るみたいに、今度は口ごと飲み込むように口付けられる。それが罠だったと気づいたのは、文句を言うために開いた口の隙間から、ジャミル先輩の舌が潜り込んできた時だった。

    「んんんん~~~~っ!!」

     あまりのことに、口を塞がれたまま鼻で叫ぶ。ジャミル先輩は器用に口をくっつけたまま笑って、奥に逃げ込む私の舌を掬い上げた。
     自分の口の中に、自分以外の意思を持った生き物がいる。それが動いて、こすったり吸ったりして私の舌を嬲る。かなり不思議で、違和感があって、混乱して、なのになんだかきもちいい気もして、どうして良いか分からなくて、私は口を開けっぱなしにするだけで精一杯だった。ようやっと先輩の口が離れた頃には、私は息も絶え絶えに、くんにゃりと先輩の肩口に頭をもたせかけていた。

    「君との付き合いで、不満だったことがある」
    「ふぇ、え?」

     と、突然のダメ出し……!
     ふわふわとした気持ちが一気に覚める。なんだろう、ダメだったこと、……なんか色々ありそうで分からない!
     肩口に顔を埋めたまま狼狽えていると、ジャミル先輩が囁いた。

    「いつも子供みたいなキスしかしなかったこと」
    「へ?」

     思わず顔を上げる。意地悪く笑っているかと思ったのに、ジャミル先輩は少し拗ねたような顔をしていた。処理落ちしちゃうから急に新しい引き出しをガンガン開けないでほしい。こっちは四年ぶりのジャミル・バイパーなんだから、急にアクセル踏まないで!!

    「エレメンタリースクールの子供だってもう少しマシなキスをするぞ」
    「そ、れは……だって、自分からするのは、恥ずかしくて」
    「俺からするのは良いのか」

     いや、当時はなんか、この女こっちが棒立ちだと思って好き放題するな、と思われるのが怖かったのもある。それに、されるのも十分恥ずかしいことが分かったから、別にそういう話でもないのだが。しかしどう言ったものか迷っている内に、また顎を掬い上げられて唇を重ねられる。

    「ん……っ」

     今度は引き結んだ唇で侵入を防いだ。するとジャミル先輩は一度顔を離して、私と目を合わせると「あーん」と口を開けて催促する。あーん、じゃない!! あーん、って、あーんってやめてくださいよ、ちょっと可愛くして惑わそうとしないで!!

    「いやあの、ちょっと性急過ぎませんか、」
    「四年ぶりに恋人と会ってるのに、我慢してなんになる」

     先輩は私の唇を親指の腹で何度もなぞる。『恋人』と言われたことで大きく傾いだ私の心に、その動作が追い打ちをかける。とうとう意地を張れなくなって、そろそろと口を開いた。ジャミル先輩が満足げに笑う。自分で許した手前、怒るに怒れない。
     また口付けた。今度は少しだけ積極的にしてみたけど、すぐに訳が分からなくなって、どんどん思考に靄がかかる。先輩の手のひらが耳を覆うみたいにするものだから、頭の中に何もかもが反響して、逃げられなくなって、自然と足の爪先が丸まった。
     ポヤポヤふわふわ、ただただ好きで、気持ち良くて、うっとりしていると、いつの間にか背に回った先輩の腕を感じた。抱きしめてくれるのかな、嬉しいな、と思っていると、ぐ、と肩が引かれて後ろに倒される。ぽふりと頭に弾力を感じ、はて、と思って目を開けると、ジャミル先輩が私の腰を足で挟んで馬乗りになっていた。
     なぜ!?
     口付けたまま、大慌てで先輩の二の腕あたりをタップしたが、うるさいとばかりに手首を取られてシーツに縫いとめられる。

    「ちょちょちょ、ちょっと待ってください!!」

     首を振って口付けから逃れて抗議すると、ジャミル先輩は例の、機嫌の読めない表情で首をかしげた。な、何その顔、なんで私のほうがおかしいみたいになってるの!?

    「なんだ」
    「えっと、その……するんですか?」

     今? ここで? らいとなう?

    「嫌か」
    「いや、いやとかじゃ、ないですけど……だってここ、ジャミル先輩の職場では」
    「住んでもいるから家でもある」
    「でもほら、人が、他にもいっぱい、いたりとか」
    「この部屋には防音の魔道具が仕込んである。気づく奴なんかいないさ」
    「うん? えーっと、じゃあ、誰かが入って来たり……カリム先輩とか」
    「妹が出ていく時に鍵をかけて行った。二時間は誰も部屋に近づけさせないようにするとあいつが請け合ったから、……そうだな、三時間は平気だろう」

     ジャミル先輩はベッドサイドの時計を見て答える。さっきの貸し一つって、まさかコレのことか?

    「他に気にかかることがなければ、もう良いか?」
    「いや、その、あのー……」

     ぐいぐいと覆いかぶさってくるジャミル先輩に、まだ準備のできてない心が『今しない理由』を必死に探す。でもなんか、求められるのは嬉しいし、今まで私からしか触れてこなかったから、すごく混乱して、うまく思考が働かない。
     その間にも、ちゅ、ちゅ、と顔中に唇が落ちてきて、絶対これこのまま有耶無耶にして私が訳分からなくなってる間に流す気だって、分かってるのに抵抗する力がどんどん奪われていく。
     ……もういっか。流されちゃえば。変に、いざ! ってするより、私にはこっちのほうが向いてるかもしれないし……。
     私が思考を手放し始めたその時、ジャミル先輩が言った。

    「君は放っておくと、なんでも勝手に決めてしまうし、どこに行くか分からない。だから今ここで、はっきり印をつけておきたいんだ。君が誰のものか、君自身が思い出せるように。学園でも、場末のモーテルでも、どこででも」
    「……待って! なんで知ってるの!?」

     ジャミル先輩の胸板を押し留めて叫ぶ。あれは誰にも行き先を告げていないのに。
     ジャミル先輩は一瞬、しまった、というように動きを止めたが、すぐに「別に、意味なんかない」と言って続けようとした。しかしその一瞬を見逃す私じゃない。
     なんで、どうして知ってるの。なんで……そういえば、あの手鏡、『どんなものでも映し出す魔法の手鏡』って、妹さんが言ってた。まさかあれ……

    「あの鏡……」

     私が口にすると、ジャミル先輩は間髪入れずに「黙秘権を行使する」と言う。私は彼の罪を確信し、先輩を退かして起き上がった。

    「やっぱり! あれ、あれって……念じたものの現状が見える、バルガス先生の故郷の鏡でしょう!」

     思い出した。かなり昔に使われてた姿見の鏡で、今となっては遺物にも近い、すごく高価な魔道具だって話、教科書で見たことある! 輝石の国から取り寄せたって言われた時、気づくべきだった。
     動揺したままに尋ねる。

    「い、いつから……」
    「そんなに頻繁に使っていたわけじゃ」
    「いつから!!」
    「……四年前だ」

     ジャミル先輩は観念したように答えた。
     四年、四年って……卒業してすぐの誕生日に、カリム先輩にもらったってこと!? つまり、四年前から見られてたの!?
     私はますます動揺して、ベッドの上に丸まっていたシーツを自分に引き寄せる。まるで自分を隠して守るようなその仕草に、

    「言っておくが、俺が手鏡を見てたのは仕事が終わってからだ。その頃には君はいつも眠っていた。誓って、妙なことには使ってない」

     とジャミル先輩は片手を目の高さまで上げて宣誓するように言う。けど、そんなの言い訳にならないではないか。

    「ひ、ひどい……」
    「いや、その」
    「私が一人で悶々として、泣き暮らしてるの、ずっと見てたなんて……! 私だってジャミル先輩が仕事してるところ見たかった!!」
    「俺が言うのもなんだが、怒るところはそこで良いのか君」
    「何がですか!?」
    「……いや、良いなら良い」

     わっと叫ぶように言えば、呆れたようなツッコミを返された。だってずるいじゃないか。こっちは四年間、会えず聞けず見れずを貫き通していたのに。それ以外の感想なんかない。
     しかし、不満だらけの頭にふと疑問が湧いた。
     ……待てよ? この口ぶり、先輩、私がモーテルで男の人といたのを見てたってことだよね? で、さっきの告白の感じからすると、先輩もずっと私のことを憎からず思っていてくれたわけで……

     なんでも見える手鏡。私の瞬間移動。飛ばされた先でのオーバーブロット。

     羅列した条件から導き出され、頭の中に一個の仮説が構築される。
     でも待って、だってまさか、そんなことできる? 普通に無理じゃない? いや、……でも、相手は稀代の魔術師、ジャミル・バイパーなのだからにして、……できないと思うほうが、不自然、か……?
     私は手の中でぐしゃぐしゃにしたシーツから目をあげる。

    「まさか、あれ、あのオーバーブロットって、……本来通行目的で作られてない手鏡から、私のこと無理にこっち側に引っ張ってきたからなんじゃ……」

     ジャミル先輩は何も言わない。しかし、目も合わない。私は自分の仮説が正しいのを確信する。
     こ、この男~~~~っ!!

    「あああああ、あなた! あなたねぇ!! そんなことであんな大量の魔力使うんじゃない!!」
    「お前が! あんな安っぽいモーテルで、男の前で服なんか脱ぎ出すからだろうが!!」

     私が叫んだら、ジャミル先輩が大音声で言い返してきた。本当に全部見てたんじゃない! 何が、妙なことには使ってない、よ!

    「あのねぇ! あ、あ~~~分かった! あの蛇! あの蛇も元々私にかかってた呪いじゃないんだ! 遠隔魔法でやったんでしょう、絶対そう!」
    「だったら悪いか!」
    「悪いに決まってるでしょう! ここから学園まで物理でどんだけ離れてると思ってんですか!! 遠隔魔法の大量重ねがけだけだって危ないのにその上あんな複雑な魔法、オーバーブロットするべくしてしてるようなもんじゃないですか!!」

     ばかーっ!! とそこら辺にあった枕を拾って、ジャミル先輩を叩く。先輩は避けようと思えば避けられたそれを片手で受けて防ぐと、

    「仕方ないだろ、あの時は……頭に血が昇ってて」

     と言い訳するので、もう一度角度を変えて枕で叩いておく。

    「自分を正当化しないで! 死んじゃったらどうするの!!」
    「君だって! あの男、絶対知り合いじゃなかっただろう! 学園下の街で男にホイホイ声をかける奴があるか!」
    「うるさーーーいっ!!」

     それからも、君が悪い、あなたが悪い、と散々責め合って、とても初体験をするような空気には戻らずにそのまま一時間を無駄にした。その間、あの手鏡が割れたのは、ジャミル先輩が古代呪文を使って無理やり鏡の持つ魔力に干渉して通行の道を開かせたけど、鏡が力の不可に耐えられなかったからだと発覚して、ますます喧嘩がヒートアップするなどした。私は、自分が割ったわけでもない手鏡を理由にせっかく繋いだ世界随一の大富豪との縁を切られるなんて、本当に大変だな、と元婚約者の人のお家にこっそり同情した。



     ふと目を開けると、ジャミル先輩が私を抱えて眠っていた。先輩の上にほぼ乗っかるような形になっていたので、一瞬叫び出しそうなほど驚いて、ああそういえばと思い出した。
     あのあと喧嘩がひと段落して、いざ! という空気になったは良いものの、寝転んだら背中が痛かった。すっかり忘れていたけど、そうだった、背中に痣があるのだったっけ。
     私が一瞬顔をしかめたのをジャミル先輩は見逃さず、わざわざシーツを体に巻かせた上で服をめくって背中を確認し、ひどく重たい声で

    「……今日は、やめておこう」

     と言った。

    「え!?」

     焦ったのは私だ。そりゃあ今さっきまでは怒っていたけど、それは心配だったからで、触れて欲しくなかったわけじゃない。有耶無耶にされて流されよ! と決めた瞬間から、心は期待の方向にすっかりシフトチェンジしていた。

    「だ、大丈夫です、痛くないですよ!」
    「いや……これは大事をとったほうが良い。自分では見えないかもしれないが、結構広範囲だぞ」
    「そ、そんなに……?」

     考え直してもらおうと思ったのに、ジャミル先輩が心底から辛い、というような声を出すのでこっちの気勢が削がれてしまった。先輩は備え付けてあった鏡台と手鏡で合わせ鏡を作って私にもその惨状を確認させてくれる。赤黒い痣が動物の柄のように背中から腕あたりにまで散っていて、我がことながらなかなかに痛そうだった。
     それでも諦めきれず、提案する。

    「で、でも、……あ、じゃあ、背中をベッドに付けなかったら平気なのでは!」
    「君が俺の上に乗る? 初心者には無理がないか?」

     先輩の応えに、私のチャチな提案が一気に実感を伴って頭の中に広がる。は、恥ずかしいのはもちろんそうだけど、確かに色々と無理がありそうな……。

    「後ろからやっても良いが……そうなると、この痛々しい背中がずっと俺の眼下にあるわけだろう。無体を強いているみたいで心が折れそうだ」
    「そ、うですか……」

     先輩は鏡に晒された私の裸の背中に、触れるか触れないか程度に手を当て、そっと撫で下ろす。もちろん、これは労わりだって分かってる。でも、たったそれだけで、なんだか変な気持ちになりそうなくらいなのに。
     胸のあたりにたごまったシーツを握りしめてじっとしていると、先輩が私の肩口に額を預けて盛大な溜め息をついた。

    「くそ……あいつ、これを見越しての『貸し』か。我が妹ながら計算高いな」

     何もできないまま借りだけを作った状態のジャミル先輩の悪態。私はそれに少し笑ってしまう。「笑うな」と怒られたけど。その応酬で、色っぽい雰囲気が一気に霧散した。

    「……少し寝よう。君も俺も、まだ本調子じゃない」
    「はい」

     顔を見合わせて頷く。先輩は私が着ていた服をもう一度頭から被せて着せると、私が体に巻いていたシーツを受け取ってベッドを整え直す。

    「面倒かもしれないが、あまり仰向けで寝るなよ。背中をつけないほうが良い」
    「はい」

     先にベッドの上に乗り上げて、もぞもぞポジションを探す。先輩はそれをベッド脇に立って見つめていたが、私が「あれ? こっちかな? んん? どっちも痛いな……」と転がっているのに業を煮やしたのか、ベッドに座ると「ほら」と私の腕を掴んで抱きかかえ、そのままごろりと転がった。

    「どこか触れて、痛むところはあるか」
    「……い、え。ありません」

     先輩の上に乗っかるような状況に震えながら返す。先輩は静かな声で「そうか。なら寝ろ」と自由になる左手で私の頭を撫でた。

    「……これ、先輩は辛くないですか」
    「かなり辛い」
    「え!?」
    「だから気になっていた古代呪文の新しい分解方法を考えることにする。君はさっさと寝ろ」
    「お、重いんだったら退きます、」
    「そうじゃない。良いから、寝ろ」

     私のベッドに付いた手のひらの力が、先輩が頭を抑えた左手に負けた。ベシャリと潰れ、先輩の胸に耳を当てる形になる。とくとく、と胸の内から心臓の音が響いた。

     暖かいな。生きているな。愛しいな。

     考えると涙が出た。先輩が「泣くな」と言った。私は答えずに笑むだけして、スパイスの香りのする胸の上で目を瞑った。
     それでそのまま、本当に眠ってしまったようだ。私はそっと先輩の上から退くと、喉が渇いているのに気づいて、辺りを見回した。洗面所的なものはなかったので、別にあるのかと思い、先輩を起こさないようにそっと扉を開けて廊下に滑り出る。

    「わぁ……」

     円柱が支える渡り廊下からは街が一望できた。遠くにそびえるたまねぎ型の屋根の離宮のようなものからは滝のように水が落ち、大きな池がそれを受けている。街中にはその池から枝分かれする水路が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、小舟がポツポツと浮かんでいるのが見えた。

    「きれい」

     思わず手すりに近寄って呟く。ここに来る途中は緊張していて、景色を見る余裕はなかった。と、後ろから肩に羽織をかけられた。ジャミル先輩だった。

    「起きたなら声をかけろ」
    「あ、すみません、起こしちゃいけないかと思って」
    「起きて君がいないほうが堪える」

     さらりと甘い言葉を吐かれ、頬が熱くなった。誤魔化すように街を見下ろしていると、先輩が説明してくれた。

    「ここはアジーム家所有のオアシスを改造した大型の都市型複合施設だ。砂漠に浮かぶ水の都として、今一番力を入れている事業だよ。人も住める仕様になってる。遠くに見えるあの円柱形の建物、あれが住宅だ」
    「あ! いただいた手紙に書いてあったあれですよね! テレビでも見て……へぇ……ここが、そうだったんですね」

     廊下から身を乗り出して見る。いつかこの目で見てみたいと思った砂漠の水上都市。こんな形で叶うとは思っていなかった。

    「ここの事業は立ち上げから全てカリムが任されていてな。だから今俺たちはほぼここに住んでいるようなものだ」
    「そうだったんですか。これだけ美しいものを作るのも、維持するのも大変でしょう?」
    「まあな。でも、今のところ大きな不備もなくやってる」
    「頑張ったんですねぇ……すごい」

     しみじみ言うと、先輩はちらと私を見て「うん」と珍しく子供のように小さく頷いたあと、腕を組んで街を見下ろした。

    「カリムのオアシス・メイカーがなければ、出来なかった都市だ」

     そう言うジャミル先輩の声はフラットだった。私はジャミル先輩の横顔をはたと見つめ、彼の上を通ってきた多くの時間について考えた。
     いつからこの人は知っていたのだろう。自分には自分の、カリム先輩にはカリム先輩にしかできないことがあること。学園でのオーバーブロットの時から? それとも、もっと前だろうか。では、それを認められたのはいつなのだろう。
     彼のことを思えば思うほど、気が遠くなるような心地がした。
     気が遠くなるほど、途方もなく、彼のことが好きだと思った。

    「私、さっき思ったんです」

     語りかけると、先輩はこちらを見た。灰色の瞳にすっかり夕景になった都市の赤い光が薄く差し込む。

    「本当は私、あなたに告白した時きっと、「迷惑かけない」とかじゃなくて、「絶対諦めない」って言ってあげなきゃいけなかったなぁって。あなたが一番好きだから、ずっとずっと好きだから、私を信じて一緒にいて、って。そう言ってあげなきゃいけなかった。きっと後悔させない、少なくとも、あなたが愛に飢えることは生涯ないからって。そう言ってあげなきゃいけなかったな、って」

     一息に言ってしまうと、ジャミル先輩は一度薄く口を開いて、それからまた閉じた。何か眩しいものを飲み込むように喉を鳴らすと、ふ、と微笑む。

    「君は底抜けのお人好しだよ、本当に」

     囁くような声に、私は歯を見せて笑って、首を振る。

    「そんなことありません。……これはそうじゃなくて、愛ですよ。先輩」

     ジャミル先輩は虚を衝かれたような顔をした。それから組んでいた腕を解いて、私の頬にゆっくりと手を伸ばす。触れる寸前、躊躇うように止まるので、私はその指に手を添え、首を傾けて手のひらにすり寄った。
     見つめ合うと、先輩の顔がおずおずと近づいてくる。私は目を瞑って口付けを受けた。また、じんわりと鼻が痛んで、目頭が熱くなった。
     いつかこの口付けにも慣れて、いくらされても泣きそうにならない日が来るのだろう。
     それはなんて、──なんて幸福なことだろうか。



    「本当に帰るのか」

     学園長に連絡をして、学園までのルートを開けてもらった魔法の鏡。その前で、拗ねた顔を隠さないジャミル先輩に、私は眉を下げる。何度も説明して、分かったと彼も言ったのに、やっぱり全然納得していないみたいだ。

    「そうですね。ウインターホリデーまではやっぱり、仕事しようかなって」
    「許可は取ったのに」
    「でも、グリムもきっと心配してますから」

     ね? と私が首を傾けて言い聞かせると、彼はようやくもう何度目かの「分かった」をくれた。と、ジャミル先輩の横に立っていたカリム先輩が辛抱堪らない、といった様子でジャミル先輩と私を同時に抱きしめる。

    「監督生~! 本当に帰っちゃうのか!? ジャミルを置いてっちゃうのか!?」
    「やめろカリム、俺は置いてかれてない!」
    「いやね、お二人とも今生の別れみたいになってますけど、一週間後にはウインターホリデーですから。すぐ戻ってきますからね私」

     二人の背中をポンポンと叩いて、ようやく離してもらう。カリム先輩は「すぐ戻って来るんだぞ、約束だからな! 今度こそ宴するからな!」と言って、ジャミル先輩にいい加減邪魔だと言わんばかりに肩をグイグイ押されていた。

    「そうだ、帰る前にこれを渡しておく」

     言って、ジャミル先輩が私の右手首を取った。カチリ、手首に金色がはまる。蛇の腕輪だった。学生時代、ジャミル先輩がよく腕につけていたのと似ていた。

    「これは?」
    「呪い」

     カリム先輩が、えー! と叫び、あはは、と私が笑うと、先輩は目算が外れたみたいに鼻を鳴らす。

    「図太くなったな、君」
    「別に、本当に呪いでも良いですよ」
    「え? 呪いじゃないのか?」
    「違う。これは魔道具の一種だ。君の心拍が急激に危険水域まで行ったら、自動的に呪文が発動して俺に繋がるようになってる」

     ジャミル先輩はカリム先輩の問いに答えながら説明をする。「魔法のランプみたいですね」と私が言えば、「そんなに良いものじゃないが」とジャミル先輩は嘯く。

    「君に危険が迫ったら、俺はどんな手を使ってでも君を救う。君の意思とは関係なしに、たとえ何度オーバーブロットしようともな。だから、俺を殺したくなかったら、君も日々慎むように」

     淡々と言われ、なんと言ったら良いのか分からなくなった。返事は、とばかりにジロリと見られたので、「善処します」とだけ言っておいた。
     とは言え、恋人からの初めての贈り物だ。自然と口角が上がる。

    「ありがとうございます。すごく嬉しい。私も、何か贈りたいな。何が良いですか、先輩。言ってくれたら、贈ります」

     私の問いに、しばらく考え込むような顔をしていたジャミル先輩はやがて、「誕生日のカードが欲しい」と言った。ずっとカリム先輩にだけ送られるカードが気に入らなかった、とごにょごにょ言う彼に、私はぽかんとして、それから大笑いしてしまった。
     カリム先輩もまた「ジャミル、そうだったのか……!? ごめんな!!」とジャミル先輩の肩を掴むものだから、先輩はヘソを曲げて「もう良い」と言ったけど、私はその頬を両手で挟んで言った。

    「奇遇ですね。私の机の鍵のかかる引き出しに、四年分のカードが溜まってるんです。送れないから書くだけだったのだけど、やっと日の目を見れそう!」



    この愛は人の形をしている(野心家の宝石は天秤に載らない)








     十七歳のジャミル・バイパーは、いつも胃の腑が焼け付くような飢餓感に苛まれていた。無論、腹が減っているのではない。ジャミルは自分の能力に対する正当な評価や、それに付随する羨望の視線や囁きに飢えていたのだ。
     この世に産まれ落ちて、物心ついてからというもの、ジャミルは常に抑圧されて生きてきた。自分の旋毛に触れるほど近い真上に天井が常駐しているような不快感が、ジャミルの肌にはいつもべったりと貼り付いていて、それはどんなに楽しく思える時でも完璧に拭い去ることはできなかった。不快感はむしろそういう時にこそ、義務と責任できつく縛り上げられたジャミルの心を強く嬲った。
     その不快感と『うまく付き合っている自分』に酔うことで、心をコントロールできていたのはローティーンの頃までだ。ジャミルの満たされない自尊心への不満はNRCに入学する頃にはすでにパンパンに膨らんでいて、二年生に上がる頃に、自分の主人であり、この世に具現した『天井』でもあるカリム・アルアジームが寮長に選ばれた時にとうとう限界を迎えた。
     ジャミルはそれから、驚くべき自制心と熟慮でそれを抑え込みつつ、自分の真上の天井を取り払うための策謀に腐心し続けた。

     ──もうすぐだ。もうすぐ自由になれる。そしたらきっと、何もかもが変わる。本気を出しても誰にも咎められない、一番を取っても怒られない、そんな日々がくる。そしたらまず、何をしようか……。

     爆発しそうな心をそんな子供騙しの夢想で慰めて、数ヶ月。ジャミルの心を支え続けた細やかな夢想は、しかしあっさりと彼の目の前で砕け散った。いっそ清々しいほどに。
     緻密に張り巡らせたジャミルの策略を、イレギュラーを重ねた行き当たりばったりで粉々に打ち砕いた連中の中心に、カリム・アルアジームと、……彼女がいた。
     オンボロ寮の寮長、魔法士養成学校唯一の非魔法人種、学園の紅一点、異世界からのエトランジェ。
     様々な肩書を持つ彼女のことを、ジャミルは最初、嫌いだったと思う。あんな辛酸を嘗めさせられて、好意的なほうがどうかしているが。
     それに、まさか向こうに好意的に受け止められるとも思っていなかった。なのでそれからしばらく後に、監督生が勉強を教えてほしいと頼み込んできた時など、ジャミルは、こいつは頭がおかしいのか? とすら思った。
    『ジャミル先輩に、勉強を教えていただきたいなぁ、と思って』じゃない。あれほど手酷くやってやったのに、なぜそこを押して来る。頼れる上級生なら他にもわんさかいるだろう、と。
     一応理由を聞いたら、監督生は答えた。
     ジャミルが『一番忍耐強そうで教え上手そう』だと。
     ジャミルは思った。……まぁ、見る目だけはありそうだ、と。
     繰り返しになるが、十七歳のジャミル・バイパーは飢えていた。「すごい」「偉い」とジャミルに言うのは、もっぱら忌むべき天井であるカリムくらいのものだった。それが素直に受け入れられたらまだマシだったのだが、相手との関係性がもうすでに疎ましいこともあって、フラストレーションは溜まる一方。痒いところに手が届かない褒め言葉の数々を投げかけられるといつも、どうしてお前はそうなんだと、胸ぐらを掴んで揺さぶってやりたい気持ちになった。
     そんな行き詰まった二人の間に、彼女がジャミルを頼りにして転がり込んできたのだ。
     引き受けようと思ったのは気まぐれも多分に含んでいたが、何よりもその砂漠でオアシスを見つけた旅人のような眼差しが、ジャミルの自尊心をいたくくすぐったからに他ならない。

     ──俺が指導をして、こいつの評価が上がれば、必然的に俺の評価も上がるだろう。どうせカリムに教えることを考えたらさしたる手間でもないのだし、とりあえず一度やってみて、駄目そうだったら放り出せば良い。そう、これはジャミル・バイパーに課せられた義務ではないのだから。

     胸の内で算段を立て、監督生の手を取った。ジャミルはその時、それが破滅の入り口だとは気がつかなかった。沼地に入る時、人は往々にしてそうとは気づかず踏み入るものだ。この時のジャミルもまた、例に漏れずそうだった。


     
     どうして彼女に惹かれたのだったか。正直なところ、ジャミルはちっとも覚えていない。
     打ったらちゃんと響く教えがいのあるところに段々と絆されたような気もするし、拠り所が何もない世界でも懸命に自力で立とうと努力するところが良かったような気もする。
     ただ、鮮明に頭に残っているワンシーンはある。彼女を語るにはあのエピソードがなくてはならないと思うくらい、ジャミルの心を強く打った一幕。それは同時に、初めてジャミルが監督生を異性として認識した出来事でもあった。
     事件が起きたのは、勉強会を始めて、ゆうに三ヶ月はたった頃のこと。監督生が図書室を出て行った先で生徒に絡まれていた。下世話な言葉を吐きかけられ、相棒を無下に扱われ、彼女は地べたで震え上がっていた。
     カリムの父親に決められた婚約者のいるジャミルは、無意識下でブレーキを踏んでいたのか、その時まで彼女の性別を深く意識したことはなかった。それまで出来の悪い生徒──もちろん、カリムほどではない──としてしか見ていなかったので、絡まれているのを見た時には、感覚の違いに雷に打たれたような心地すらした。
     なるほど、そんな視点が。しかしあんな貧相な非魔法人種に、欲をぶつけたいなどと思う男がこの学園にいるのか。いや、今現に目の前にいるわけだが。さすが男子校。
     ジャミルの頭の大半を緩やかな混乱が占めていた。しかし図書室の門前で繰り広げられる悶着の、まさか真横を通って出て行くわけにもいかない。絡まれている側が今さっきまで勉強会をしていた相手なら尚更、放って行くのも寝覚めが悪い。とりあえず声でも掛けていくかと、ジャミルが一歩踏み出した瞬間。
     彼女が相手の腕に噛み付いたのだ。
     自分の腕を掴んで引きずるようにしていた相手の腕を、思いきり、ものすごい形相で。
     ──この事件で彼女に落ち度はないが、無情なことに勝ち目もなかった。言うなれば、不運な事故に遭うようなものだ。
     この学園で魔法が使えないというのは圧倒的に不利なことだし、そもそもここは男子校で、相手は男で、彼女はどんなに懸命であろうと女性だった。彼女は知識は無いが馬鹿じゃないから、そんなことは重々分かっていたはず。
     だというのに、彼女は己の危機に迷わずそうした。
     出来得る限りの抵抗をして、立ち塞がる敵に抗った。
     彼女に難癖をつけて蹂躙しようとしていた生徒はその抵抗に激昂して、彼女の歯を引き剥がしにかかった。顔を掴まれ、引っ張られ、しかしそれでも彼女は抵抗をやめない。
     ジャミルはそれを見て、静かに高揚している自分に気がついた。口の端が知らずに持ち上がる。

     ──あの女、とんでもないな!

    「そこで何してる」

     呼びかけた時、興奮に少しだけ声が上擦った。彼女は気づいていないようだったが。
     あの瞬間、ジャミルは彼女に確かに一目置いた。それがジャミルの中でどれほど重いことだったか、自覚したのはずっと後になってからだった。


     
     彼女がジャミルのことを憎からず思っていることにはすぐに気がついた。彼女のジャミルを見つめる瞳はいつもひたひたと濡れていて、呼ぶ声は甘く、偶然に行き合えば心底嬉しいと満面の笑みを見せた。隠しようもない好意はいつも爆発するようで、ジャミルからすると、あれを向けられて気づかないほうが馬鹿だった。
     好意に気づいた当初、ジャミルの心はにわかに浮き足立った。彼女のことを、やはり見る目があるとも思ったし、底抜けのお人好しだな、とも思った。彼女にかかれば、手酷い仕打ちも喉元を過ぎればただの思い出で、自分が世界の果てまで飛ばされたこともすっかり忘れてしまったようだったから。
     しかしそんな底抜けのお人好しから向けられるものでも、好意は好意だ。ジャミルの自尊心は彼女から注がれる純粋な好意で日毎に満ちた。彼女はジャミルが何かしてやる度に、すごいだの天才だのと褒め、ジャミルがいるだけで毎日幸せで、嬉しいと笑った。
     その顔が、ジャミルの前で唯一曇ったのは、婚約者がいると告げた時だけだ。
     彼女は目に見えて困惑した。その反応に、ジャミルは彼女からの好意を改めて確信し、自尊心を優越で埋めた。だが、それは一瞬のことだった。
     顔は「嫌だ」と叫んでいたのに、結局彼女は誤魔化すように全てを飲み込んでしまったから。
     唯一彼女が尋ねてきたのは、ジャミルが『それで良い』かどうかだった。
     ジャミルはその迷い顔に、問い詰めればいいのに、と、ふと思った。

     ──根掘り葉掘り聞けよ。聞きたいんだろう。他の奴には御免だが、君になら、答えてやる。胸糞悪いしきたりも掟も、全部。君になら教えてやろう。

     嫉妬されることで、己が人に愛されている証明をはっきりと得たかったのかもしれない。だけど彼女は口をつぐんで引き下がった。
     ジャミルは当然自分が得られるはずだった、手を伸ばせば届くところにあった純然たる好意を、さっと取り上げられたような気分になった。梯子を外された気がしたが、じゃあ自分は一体どこへ登ってしまったのか? ということはよく分からなかった。

     ──俺は一体、なぜこんなに『後戻りできない』気分でいるんだ? 高いところに上がった猫でもあるまいに。

     その心に答えが出たのは、それから三週間後。ジャミルにとって、それは青天の霹靂とも呼ぶべき答えで、しかし、紛うことのない真実でもあった。
     彼女は三週間ジャミルを避け続けた後、ジャミルを欲しいと言った。短い間だけでも良い。そばに居られるだけで良い。きっと迷惑はかけないからと言い募り、ジャミルに好意の許可を求めた。
    『先輩が卒業したら、連絡取らないようにします。きっと忘れます』
     その言葉を聞いた時、ジャミルは無意識に石壁に手を打ち付けていた。それ以上は聞きたくなかった。己の行動にジャミルは心中驚き、そして諦めた。

     ──俺はこの好意が欲しいんだ。そして生涯、彼女にその気持ちを持っていて欲しいんだ。

     観念して認めると、視界が開けるような心地がした。今までのどんな敗北も、これほどではなかったと感じた。
     背中に、寄りかかってきた彼女の熱を感じる。三週間、得られなかった慕わしい熱。それがジャミルの飢餓感をみるみるうちに満たした。
     彼女を知らない頃、自分はどうやってこの飢餓感をやり過ごしていたのだったか。ジャミルにはもう分からなかった。
     


     付き合い始めた当初、手を離す時のシミュレーションを頭の中で幾度も行った。恐らくそれは自分のタイミングでするものだと考えていたし、きっと彼女がそばにいなければ、この熱病のような気持ちもいつしか収まるだろうとジャミルは簡単に考えていた。
     学生時代の恋とはそういうものだと聞くし、自分もそういう類のルートを踏んで、婚約者と結婚するのだ。
     卒業すれば。彼女の手を離せたら。忘れられたら。きっと。
     だけど過ぎていく日々を数えて、卒業までの折り返し地点を越えた頃から、焦燥は激しくなる一方だった。まだもう少しある。いいや、もうこんなに過ぎてしまった。まだ、もう、まだ。ああ。
     彼女がジャミルの頭を抱えるように抱きしめる時だけ、全てを忘れられた。いつか来る別れのことも、カリムの世話をしながら送る学園生活のことも、よく知らない婚約者のことも、家族のことも、何もかも。
     ジャミルと彼女を恋人たらしめる触れ合いは、彼女のその招き入れるような抱擁と、彼女からされる小さな子供がするようなキスだけだった。啄ばむような口付けをしたあと、必ず彼女は照れたように顔を伏せる。それに拳を握って爪を手のひらに食い込ませることで、ジャミルは目一杯ブレーキを踏み抜き、膨れ上がる欲望を耐えて過ごした。
     誰かに見られた時の言い訳が立つように、ジャミルは彼女に触れ返さなかった。けど、本当はただ、止まれそうもなかったからな気もする。
     このまま抱きしめて、口付けて、暴いて、さらってしまえたら。四年生に上がる頃には、そんな後ろ暗い思いが胸の内でふつふつと湧き上がるようになったから、きっとそういうことだったのだろう。

     彼女が例えば小鳥だったら。檻にしまっておけるのに。
     彼女が例えば小さな宝石だったら。胸にしまって持ち帰れるのに。
     例えば。例えば。例えば。

     普段、たらればを考えることは滅多にない。だけど縋るように考えた。それはまるで、カリムが寮長に選ばれた時の爆発寸前の不満をなんとか慰めたあの日の夢想にも似ていて、ジャミルは時々、いつか何もかもが粉々に砕け散ってしまうのではないかと恐れた。砕ける前提の愛情に、こんなことを思うのは意味不明だ。そうとは分かっていながら、恐怖心は拭えなかった。
     白状すると、ジャミルは彼女の前に立つと、時折自信がなくなることがあった。それは決まって彼女の強さに触れた時で、ジャミルはいつも途方に暮れた。
     彼女はいつも、ジャミルのことを心配していた。自分はこの世界にたった一人きりで、頼るものもなく、あの古ぼけた屋敷に住んでいるくせに。自分のほうが、よほど心細いだろうに。彼女はいつもジャミルを優先し、彼がどう思うか、傷つきはしないかと先に回って、心を砕いた。

    『現状を打破することで好きな人が傷つくなら、それは私にとって一番の解決法ではありません』

     プロムの提案をしたジャミルに彼女が言った時など酷いもので、自分はこの女性に愛されるに足る人物なのだろうかという疑問が、大波のようになってジャミルの心に襲いかかった。その日はどんなに目を瞑っても、どうしてか寝付けなかった。
     信奉でなく、義務でもなく、愛情によって、自分自身よりも優先する相手がいる。
     いつものジャミルなら、そんなのは間抜けの考えだと鼻で笑うところだ。だが、優先される相手が自分だと、こうも受ける印象が違うのかと震えた。それが歓喜によるものだったか、得体の知れない深淵を覗く畏怖によるものだったかは分からない。ただ、この価値観を受け入れた瞬間、自分の地盤が引っくり返されるだろう予感はした。
     故にそれ以降、プロムの話は避けた。自分の中で革命が起きるのが、ジャミルは怖かった。


     
     四年生のプロムで、ジャミルは彼女を誘わなかった。ウインターホリデーに実家に帰った時に、婚約者を誘うようにと厳命されていたからだ。彼女も別に期待はしていなかったようで、一度もジャミルにその話を振ることはなかった。
     しかしジャミルがその彼女の行動にホッと息を抜くことはなかった。むしろプロムに一言も言及しない彼女を、ジャミルは時々肩を掴んで揺さぶりたくなるような衝動に駆られた。

     ──どうして何も言わないんだ。この世界で俺に文句を言えるのは君だけなのに。どうして全て飲み込もうとするんだ。縋って泣き喚いて、私を連れて行けと言ってくれ。

     私こそがジャミル・バイパーの恋人だと、私にこそ権利があると、そう主張してほしかった。
     もちろん、そう言われてもジャミルに応える術はない。せいぜい、肩を抱いて慰めるくらいが関の山だ。だけど言ってほしかった。

    『私は嫌です。好きな人に、好きじゃない人と一緒にいるところを見られるの。……自分がそんな場面を見たら、きっと悲しいと思うから』
    『理性と感情は別物です。たとえ許しても、悲しいという感情が消えてなくなるわけじゃない』

     かつてそう言ったくらいだ、彼女はきっと傷ついている。なのに、それをジャミルにぶつけようとはしなかった。ジャミルはその時もまた、絶望的な気分になった。
     ジャミル・バイパーは、オンボロ寮の監督生の、素敵な恋人にはなれないのだ。生涯ずっと。プロムのたった一晩……いや、その晩に対する文句を聞く機会さえ、彼には与えられない。その事実はジャミルの心に、知らず暗い影を落とした。
     そうして来たるプロムの夜。久しぶりに顔を見た婚約者は、温室の花のようだった。カリムは彼女を見て、『綺麗だな!』と朗らかに笑い、彼女はそれに頬を染めた。ジャミルも続けて褒めてはみたが、あまり響いていない様子だった。この女、まだカリムを狙っているのか、と鼻白む気持ちはあったが、もしかしたらこちらの心がピクリとも動いていないのが、向こうにも伝わったのかもしれなかった。
     俺の婚約者はきっと、知らぬ男に腕を掴まれても、噛み付いたりはしないのだろうな。形式的に大ホールにエスコートしながら、そんなことをぼんやり思った。
     ホールに入ると、もうすでに音楽が始まっていた。宙に浮くシャンデリアや、キラキラと降り落ちる魔法の結晶に、婚約者が感嘆の声を上げる。それをぼんやり聞いていると、カリムが声を上げた。
    『あれ? なぁ、ジャミル、あれ、監督生じゃないか?』
     エスコートした女性を尻目に、振り返ってそんなことを告げる主人。ジャミルはそれに「監督生がいるわけないだろう、ちゃんとエスコートしろ」と苦言を呈そうとした。しかし、ホールの中心で踊る彼女を見たら、ジャミルの喉は塞がってしまった。

     彼女だった。
     ジャミルの恋人。

     それが普段着ないような美しいドレスを着て、男と踊っている。
     相手の男はフロイド・リーチ。ジャミルの部活仲間であり、同学年。
     ジャミルが一度も自分からは握れなかった彼女の小さな指を、その手に固く握り込んでヘラヘラ笑っている。
     瞬時に食道から胃の腑まで、燃える蛇が通ったように熱くなる。ジャミルは叫びだしたくなった。腕に絡む婚約者の腕を振り払い、彼女の元まで人をかき分け走って行って、フロイドの腰を蹴り倒してやりたい。これは俺のものだと、ホールの真ん中で叫んでやりたかった。
     そうしなかったのは別に理性の賜物ではない。曲が終わったからだった。もう一曲続けて踊り出そうとしたフロイドに、彼の相棒であるジェイド・リーチがすっと近寄ってきて何事かを囁いた。するとフロイドはようやく彼女の手を解放した。
     ジャミルの中から燃える蛇はいなくなったが、火傷したあとのような熱と痛みは残った。カリムが『おーい、監督生!』と呼びかけていく後ろ姿に付き従いながら、衝動を抑えつける。
     カリムの呼びかけに、おそるおそるといった様子で振り返った彼女をじっと見る。ジェイドに話を振られ、婚約者を紹介する間も、目を離さなかった。しかし彼女は呆けたような顔でジャミルを見ずに佇むので、そこでとうとう我慢がならなくなった。

    「ところで監督生。ここで何してる」

     彼女は弾かれたようにジャミルを見た。まるで迷子のようなその様子に

    「フロイドのパートナーとして来たのか? あんなに逃げ回っていたくせに、驚きだな。しかもその気分屋を選ぶとは、気が知れないよ」

     と畳み掛ける。フロイドはお決まりの文句で怒ったが、知ったことではない。

     ──プロムのことを聞いてこなかったのはこれが理由か? フロイドに誘われて仕方なく? 傷つけたくないだのなんだの言っていたくせに? 俺が傷つくとは思わなかった? 君なら断れたはずなのに、どうして。こんなふうに試すようなことを、君がするとは思わなかった。

     憤怒に燃えたジャミルの思考を、ジェイドがぞんざいに切った。

    『監督生さんはジャミルさんに用があって来られたそうですよ』

     ジャミルの口から思わず「は?」と声が出た。彼女は大慌てで、顔を真っ青にして首を振る。何がなんだか分からなくなってきたところにカリムが加わって、収集がつかなくなって、結局ジャミルは監督生とダンスを踊ることになった。
     恋人になって初めて、ジャミルは自分の意思で彼女の手を握った。小さな手だった。まだジャミルの嫉妬は何も解決していないのに、否応なしに胸が高鳴った。誰にも後ろ指を指されることなく、彼女と手をつなぐ日が来るとは思っていなかった。
     エスコート、というよりは、その場から連れ出すような気持ちで、ジャミルはホールの真ん中へ進む。一応名目上はダンスの指導ということになっているので、それらしいことを二、三告げてから踊り出した。慣れていない彼女は足元を見て踊るから、訓練された女性と踊るよりもずっと顔の距離が近い。

    「基本のステップはこうだ。これさえできれば、恥はかかない」
    『これ、ジャミル先輩がお上手なだけでは……』
    「はは。じゃあ……来年は上手い奴を見つけて一緒に行くんだな」

     つい、意地の悪い気持ちが口をついて出た。なにせオクタヴィネルの海獣、フロイド・リーチと踊ったんだ、君にできないことなんかない! そんな当て擦りに、彼女は小さく唇を噛んでステップに集中するふりをする。その顔に、勝手なことながら溜飲が下がった。
     自分は婚約者と来たくせに。一度も恋人の役目を果たせたことなどないくせに。悋気ばかりが一人前だった。
     ジャミルは影のように己につきまとう愁然を振り払い、気を取り直してここに来た理由を彼女に聞いた。すると彼女は小さく、『……あなたを見に』と答えた。
     心臓を握り潰された心地がして、ジャミルは自分の矮小さをひどく後悔した。ステップが止まらなかったのがせめてもの救いだった。

    『プロムでのあなたを、一目見たくて。きっと素敵だろうから』

     彼女が続ける。ジャミルは俯いた彼女の旋毛に口付けたくなった。

     ──どこか遠いところに行こう。何もかもを捨てて。君と俺だけでいい。そういう世界で暮らしたい。君が一言そう言えば、俺が、きっとなんとかしてやる。

     しかし、彼女は言った。顔を上げて、無理に作った笑顔で。

    『夢が叶いました。好きな人とプロムで踊る夢。私、幸せです』

     こんな些細なことを幸福と言う。
     ジャミルは思った。
     彼女の望むことで、ジャミルに叶えられることは、ただの一つも無いのかもしれない、と。
     だって、他人の幸福だけを望む相手に、与えられるものなんて何もない。ランプの魔人だってお手上げだろう。
     ジャミルの暗い顔に気づいてか、彼女は陰鬱な気持ちを吹き飛ばすように踊りだす。めちゃくちゃなステップは雑念を搔き消す作用がある。彼女は笑い、ジャミルもつられて馬鹿みたいに笑った。彼女はそれを見て、なおさら楽しそうに笑んだ。

     ──いつか誰かが、彼女を踊らせる。夢のように。

     その時ジャミルは、他の女と結婚している。そうしてそれを、はらわたが煮え繰り返る思いで見つめるのだろう。
     それは俺のものだと叫ぶのを、寸でのところで押し殺しながら。
     きっとこの時、ジャミルは神にでも祈るべきだったのだろう。一度も信じたことのない神で良い。どうか彼女が幸せであるように、世界が彼女を救ってくれるようにと。無責任にも乞い願い、何もかもを放擲してしまうべきだったのだ。
     この瞬間が、ジャミルが後戻りできる最後のチャンスだった。
     だけどジャミルはそうしなかった。

     ──俺は彼女の恋人で在り続ける。思い出に縋り続けるのは、きっと気が狂うような日々だろう。だけどそうする。そうでなければ、もう生きてはいけない。
     ──そしていつか、俺が彼女と踊ってみせる。誰にも文句は言わせない。心を慰める甘い夢想でなく、手の届く目標として、俺はそれを掲げて生きる。

     そうやって、ジャミルは彼女のことを捨てずに抱えていくことに決めた。
     その瞬間、二人の恋は学生時代のありふれた初恋ではなくなってしまった。
     一過性の熱病ではない、病める時も貧しい時も、たとえ離れている時でも、互いを唯一の拠り所にして生きるような、そういうものに。
     ジャミル・バイパーが、そうした。
     



     
     ぶしゅり、ペンが嫌な音を立てたと思ったら、見る間に紙にインク溜まりができた。

    「うわ」

     ジャミルは珍しく焦った声で紙からペンを離す。だが紙にできたインクの染みが消えるわけもない。思わずペンの先を見ると、磨耗したペン先は少しだけひしゃげていた。
     ジャミルは溜め息をついてペンと紙をドライにゴミ箱に放り入れると、新しいペンを実践魔法で呼び出して、もう一度机に向かった。向き合った書類の一番上には『オアシス事業管理報告書』という文字を記した。
     住民や出入りの業者に聞いてきた話を羅列し、そこから見える問題点を洗い出し、改善点と対策を上げ、カリムを通して主人に上げる。そういう書類だ。
     オアシスの健全な維持には何が必要か。ゆっくりと考えられるので、割合好きな作業だった。忙殺されて、擦り切れるような日々に、少し立ち止まる機会を得られるような。
     事業運営というのは従者の仕事に似ている、と、ジャミルは思う。今、何が必要で、何が不要か。何を取り除けば動くのか、何を与えればスムーズに回るのか。培ってきた能力を駆使して察して、先回り、実行すればいい。そういう観点から考えれば、ジャミルはこの仕事に向いていた。
     しかしジャミルは物事を平静に保つことには長けていたが、あまり企画力のあるほうではない。昔から波風を立てないように心がけていたので、そういう方面はカリムに任せている。もちろん、その突拍子もない提案を滞りなく運営するのにカリムはからきしなので、走り回るのはいつもジャミルの役目なのだが。

    「こんなものか」

     ひとりごち、最後にカリムの署名欄を作って書類を折りたたむ。あとはこれを、すでに眠っているカリムの書斎に置いて今日の業務は終了だ。時計を見れば、すでに深夜を回っていた。ジャミルは眉間を揉み、書類を持って立ち上がる。カリムの書斎に書類を置いてしまうと、やっと気が抜けた。眠るために、外廊下を通って自室に向かう。
     円柱が支える廊下からは街が一望できた。皆が寝静まった街中をささやかな水の通る音だけが響く。張り巡らされた水路は月明かりを受けて輝き、生命力に満ち満ちている気がする。
     美しいオアシスだ、とジャミルは思う。

     いつか。
     いつか彼女に見せてやれたら。

     ふと立ち止まってそんなことを思った。だが、即座に自分の考えを打ち消した。
     彼女は来ない。
     オアシスに、という話ではない。ジャミルの元に、だ。
     一度、カリムに頼まれて、彼女からの誕生日の礼状に熱砂の国へのチケットを同封したことがある。カリムは朗らかに「楽しみだな!」なんて言って、ジャミルはそれに「忙しいかもしれないぞ」と返しながら、内心ほんの少しだけ期待していた。
     しかし、彼女は来なかった。カリムは何かあったのかと心配していたが、次の誕生日に来た文通めいたカードの文面を読んで、ジャミルは確信した。

     ──彼女はおそらく、一生ジャミルの前に姿を見せないと決めたのだ。

     ジャミルにとって、彼女は第二の郷愁の対象だった。度々心の中で思い描く彼女は決まって学園の制服を着て、オンボロ寮の前に立って笑っている。だが、その手紙を読んだ時、そんな夢物語に縋る憧憬の日々は終わったのだと感じた。ここにあるのは現実と、義務のみ。
     ジャミルの卒業式に顔を見せなかった時から、薄々感じていた彼女の頑なな拒絶。それがはっきりと気づきとしてジャミルの中で根を張った時、ジャミルの心に変化が起きた。

     ──やってやる。

     ジャミルの中にふつふつとした怒りが湧き始めたのだ。これまで郷愁に縋るような気持ちでいたのが、一気に目が覚めた気分だった。

     ──やってやるぞ、あの女。今に見てろ。俺は必ず、出来得る限りの最速で、君を俺の前にもう一度引きずり出す。

     いつか、なんて悠長で手ぬるいことを、もうジャミルは思わない。
     あれからジャミルは憧憬を捨て、夢物語を捨て、ただただ己のすべきことを着実に積み重ねてきた。それが最善の結果に、一番早く繋がるという確信を持って。
     そうしてようやくオアシス事業が軌道に乗り、維持と発展のフェーズに入りかけて、風向きが変わった。カリムの父親は目に見えてジャミルを外に出すのを惜しむ素ぶりが増えたし、あの分だと何か理由をつけてジャミルの婚約を解消すると言い出す日も近い。
     ジャミルが身軽な己に向けてひた走って来た結果が、今ようやく出かかっているのだった。


     
     自室の前に着くと、ふと違和感がしてドアノブを引こうと上げた手が止まった。
     特に変わったところがあるわけではない。いつもと変わらない、なんの変哲もない自室の扉だ。だが、カリムの従者として長年過ごした直感が囁いた。
     この部屋には何かがいるぞ、と。
     ジャミルは所持している魔法石を、服を整えるふりで確認し、何食わぬ顔でゆぅるりドアノブを引いて入室した。
     中はしんと静まり返っている。しかし一歩中に踏み入れたら、「あ、」と奥の暗がりから高い声が上がった。ジャミルは迎撃魔法を使うために、ふ、と息を吸い込んで指先に力を込めた。が、相手を認めた瞬間、それがいかに馬鹿馬鹿しい動作であったか気がついた。
     中にいたのはジャミルの婚約者だった。
     おかしいと思ったんだよ、オアシスのセキュリティは万全にしておいたのに、と、あまりの馬鹿馬鹿しい事象に嘆息が出かけた。それを慌てて押し留めると、ニコリと口端を上げて完璧な微笑みを作ってみせる。

    「……夜分遅く、どうなさったんですか?」

     慇懃ぶって尋ねると、相手は「あの、えぇと」と口ごもる。白々しいことこの上ない。ジャミルは内心辟易した。
     昔はジャミルとの婚約が決まったあとも、隙あらばカリムの近くをちょろちょろしていたくせに、オアシスが成功したのがジャミルの手腕だと分かってからはやけに付き纏われるようになった。きっと父親に、あの男とは繋がっておいたほうが将来良い、と吹き込まれたのだろう。
     とはいえ、今までは部屋に入り込まれたことは流石になかった。熱砂の国の女性なら、そんな「はしたない」と言われるような真似は、普通しない。あちらもアジーム家当主のジャミルを惜しむ様子に焦りが出たのだろう。とんだ飛び道具を使ってきたものだ。
     婚約者はジャミルに近づきながら言う。

    「あの、……最近、会えてなかったでしょう? だから、どうしてるかなって、思って……」

     お前の魂胆は分かっている、どうせ父親にでも言われて既成事実でも作りに来たんだろう。しかしお前の親父も酷な親だな、娘に身売りまがいのことをしてこいと夜中に家を放り出すなんて。同情するよ。だが、悪いがハニートラップは間に合ってる。
     疲れもあって、よっぽど皮肉ってやりたい気分だったが、微笑むだけにして腕に伸ばされた手をかわした。

    「そうですか、それは失礼しました。では、いずれ時間を取るようにしましょう」

     閉めた扉を再び開けて言う。暗に、帰れ、と言うジャミルに、婚約者はムッと眉を寄せる。

    「お、お茶の一つも出してくれないの! せっかく来てあげたのに!」

     俺が来てくれと頼んだか? 思わず口から雑言がこぼれ落ちそうで、ジャミルは歯を食いしばる。この女、身分が上だからって随分好き勝手してくれる。

    「俺は構いませんが……あまり遅くなると、ご両親が心配なさいませんか?」
    「……平気よ。お父様は何も言わないわ」

     ふん、やはりあの父親の差し金か。鼻白みつつ、まぁでも、これでささやかながらアジーム家当主に報告する言質も手に入った。茶の一杯で手が切れるなら安いものか。と考える。

    「……では、お茶を用意してきます。それを飲んだらおかえりなさいませ。不名誉な噂がたっても困るでしょう?」

     その言葉に、婚約者の顔がサッと赤くなる。まさにその『不名誉』なことをしに来たのだから当然だ。図星を突かれて黙り込む女を尻目に、ジャミルはするりと部屋を出る。全く、こんな夜更けに茶の用意とはね。
     面倒だから、茶を用意している間に帰っていてくれないだろうか。そんなことを思いながら、ことさらゆっくり茶を注いで戻る。しかしジャミルの願い虚しく女はまだ居座っていて、ベッドサイドの絨毯の上に座り込んで俯いていた。

    「失礼、遅くなり……」

     呼びかけに、女がはたと顔を上げる。
     その手に握られているものを見た瞬間、ジャミルは突発的に叫んでいた。

    「──それに触るなっ!!」

     女の肩がびくりと震えるのにも構わず、ジャミルはお茶を乱暴に書き物机の上に置くと、大股で女に近寄りその手から手鏡を奪った。

    「ちょ、な、……何よ! 綺麗だったから、ちょっと見ていただけじゃない! ……そんなに、怒らなくたって」

     女が持っていたのは、ジャミルのベッドサイドチェストに常時置いてある手鏡だった。毎年誕生日には「ジャミルは何が欲しいんだ!?」と聞いてくるカリムに、従者らしからぬことと知りつつ、四年前に人生で初めて強請ったものだった。
     輝石の国の魔道具、もはや遺物に近い貴重品、魔力のある人間が念じることで、どんなものでも映し出す魔法の手鏡。……ジャミルが、恋人と離れて以降、情けなくも心の支えにしてきた鏡だ。

    「……これは、魔道具です。遺物に近い。魔力のない人間が触ると、誤作動を起こして死ぬことも」

     誤魔化すための口からでまかせだった。だが女はハッとして、おののきながら自らの手をじっと見る。

    「な……! あ、危ないでしょう! そんなもの、無造作に置いておかないで!」

     理不尽に怒られながら、ジャミルは胸に守るように抱きかかえた鏡にそっと目線を落とす。割れても、ヒビが入ってもいない。綺麗なものだ。
     この女がどれほど傲慢な娘だったとしても、流石に人の物を勝手に割るわけはないのに。心配性な己を自嘲する。だが、どうしても、触られるのも嫌だった。
     ジャミルは恋人との思い出になるような品を何も残していない。あの時はそれが最善だと思っていたから。連絡も取り合わないし、年に一度の誕生日の手紙だって、カリムには届いてもジャミルには届かない。
     別に、恋人として会えなくてもいい。ただ、カリムの客人としてやって来る彼女に「久しぶりだな」と言えたらそれでいい。オアシスを見せたら、多分すごく驚いて、彼女は満面の笑みで成功を讃えて労ってくれるはずだ。カリムに与えられる賛辞を、心の中でそっと自分のものへと変換をして、隣で聞けたらそれでいい。そんなことをひっそりと夢見ながら送ったチケットでさえ、彼女は使ってくれなかった。
     だから、今のジャミルにはこれが唯一の彼女との繋がりだった。
     いつか自分の前に引きずり出すと決めていても、苦しくなることはある。寂寥に苛まれることも。自分は今正しい道を歩んでいるのか、確かめるのが怖くて振り返れないことだって。そんな時、彼女の寝顔を見ると救われた。
     もう少しだ。あと少し。その日が来たら。切望を胸にして、やっと眠りに落ちる日だってあった。
     いわばこの手鏡が繋げる世界は、ジャミルにとっての聖域だったのだ。
     傷一つない手鏡にホッと息をつくと、ふと、ジャミルの魔力が指先から手鏡へと流れ込んだ。ほぼ遺物の魔道具は扱いが難しく、勝手に持ち主の魔力を吸い取ってしまうこともしばしばある。だからジャミルはいつも、手鏡に触る時は必要以上に持って行かれないように意識して使っていた。
     そういえば、こんなに不用意に触れたことはついぞない。ジャミルの魔力を勝手に吸い上げた手鏡は、意識するでもなく鏡面を水のように揺らして、ジャミルが望む相手の今を映し出した。

    「……は?」

     そこに、信じられないものが映ったのを見て、ジャミルは思わず声をあげた。
     安っぽいモーテルを天井から眺めるような視点。ベッドに座る赤ら顔の汚い男。腐りかけて黒い板張り。そこに佇む女。

     ──彼女だった。

     視点がジャミルの焦りに呼応してスイッチし、横から眺めるようになる。男は彼女を手招いて、何事か叫ぶ。彼女は少しの躊躇の後、ベッドに近づいていく。緊張した面持ち。唇が口内に少しだけ巻き込まれて、一文字に引き結ばれている。

    「やめろ……」
    「え?」

     頭の中で呟いた彼女を引き止める言葉は知らず口から零れ落ちていて、婚約者が怪訝な声をあげた。だけど構っていられない。
     彼女がローブの紐を引く。緩んだ首元から指を入れるようにして肩を落とすと、足元にローブの海が広がった。下に着た真っ白なシャツのボタンを、彼女は一つひとつ外しながら、さらに男に近づいて行く。男は興奮したように立ち上がって、彼女の上に影が落ちた。

     ──やめろ。
     ──そんなところで何してる。
     ──おい、
     ──見るな、触るな、近寄るな。
     ──俺のものだぞ。
     ──俺の、俺の、

     ジャミルは手鏡の持ち手を握って唇を震わせる。声になって出ていたかもしれない。
     恋人であり、第二の郷愁。そして、ジャミル・バイパーのもっとも柔らかい部分に居座る女。それが、今まさに、他の男に汚されようとしている。

    『ジャミル先輩』

     頭の中で、走馬灯のように彼女の声が弾けた。ああ、でも。その声すらも、ジャミルは今のものを知らない。ジャミルの中で、彼女は学生の頃のまま、時を止めているのだった。
     手鏡を使うのは、いつも仕事が終わった深夜だ。鏡の中で、だいたい彼女は眠っている。たまに起きていても、本を読んでいるか、相棒のブラッシングをして、何事か囁きかけているだけ。声は聞こえない。こちらの声も、届かない。それがこの手鏡の特性だ。それでも良かった。良いと思っていた。
     こんな日が来るとは思っていなかったからなのかもしれない。次に会う日はきっと、前と変わらない彼女と会えると思っていた。ジャミルを好きなままの彼女と。
     それは正しく彼女を縛り付ける束縛めいた気持ちであり、そして同時に、彼女への信頼でもあった。

     ──その日が来たら。

     また会う日が来たら。何度も何度も、鏡を見ながら考えた。

     ──その日が来たら、なんと言おうか。彼女は呆れるだろうか。笑うだろうか。それとも怒る? 泣くのだけは勘弁してほしい。

     確約のないまま約束をするのは勝手と思われる気がして、ジャミルは彼女と黙って別れた。いや、卒業式には言おうと思っていた。でも彼女は来なくて……いや。本当は、拒否されるのが怖かった。
     恋人らしいことは、何一つとしてしてやれなかった。それくらいの自覚はある。彼女は不満だっただろう、きっと。その不満を、これ以降も強いる。そう言ったら、流石の彼女も頷いてくれるかどうか。だから、卒業式のあともオンボロ寮を訪ねることはしなかった。勝手に決めて、勝手に迎えに行くと決めてしまった。

     その結果が、これだ。

     その瞬間ジャミルの中で、ぱちん、音を立てて理性の箍が外れた。彼女との記憶や与えられた愛で綺麗にコーティングされていた凶暴な気持ちや、飢餓感、自分が当然得るべき正当なものへの渇望が、奥から溢れて止まらない。
     十七歳の頃、ジャミル・バイパーが胸の内で持て余していた怪物。それが一瞬で息を吹き返す。

     ──そこを退け。

     ジャミルは己の髪の毛を一本抜くと、古代呪文をアレンジした干渉呪文を囁き、ぐぷり、手鏡の中にそれを握りしめた手を入れる。婚約者が息を呑んだ気配がした。
     遺物の魔道具には、まじないの側面が強くある古代呪文がよく馴染む。とはいえ、かなり集中力のいる作業だ。目を瞑って指先に集中すると、膨大な魔力消費に脂汗が出始める頃にやっと向こう側と繋がった感覚がした。
     鏡と繋がったジャミルの脳裏に、彼女の様子が映し出される。先ほどから視点がさらにスイッチして、彼女の顔が大写しになった。彼女の上に落ちた影は濃くなって、彼女が目を瞑る。

     ──抵抗しろよ、馬鹿野郎。
     ──いつかの時みたいに、腕でも噛んでやれば良いだろう。
     ──それとも。

     ──これが、君が心の底から望んだ結果だって言うのか?

     感覚を逃さないように捕まえたまま、黒く美しい蛇を思い浮かべれば、己の魔力が指先から流れ出して、その通りのものを形作るのが分かった。古くから伝わる、魔法士の身体の一部を使った具現の魔法。
     男の口から大量の蛇を吐き出させてやると、彼女が怯えた。そしてひとしきり逃げ回った後、何事か決意したように苦しむ男に近づいていく。
     彼女が男の口から、ジャミルの形作った蛇を片端から引っこ抜いていく。指先から全て持っていかれるような苦痛だった。彼女が必死の形相で何か男に向けて叫んでいる。救おうとでもしてるのか? ……馬鹿馬鹿しい。
     その行為や表情すらも許せなくて、ますます魔力を注ぎ込む。とうとう彼女が男から手を離し、顔を覆って泣き出した。
     ああ。どこかでインクの落ちる音がする。真っ黒なインクが、ジャミルの心を汚していく。パチリパチリと電流が弾け、もう何者にも止められない。
     どうしてだろう。こんなふうになっても、まだ彼女が欲しい。悲しませても、苦しくても、どうしても。
     ジャミルは泣き暮れる彼女に手を伸ばす。
     彼女が幸せになるだとか、彼女の望みが叶うだとか、そんなことはどうでも良い。生涯自分に狂ったままでいて欲しかった。
     だってそうでなければイーブンじゃない。
     ジャミルの心を狂わせたのは彼女なのだから、彼女だって一緒に泥に沈むべきだ。

     なぁ、そうだろう?

     ──俺の、俺の唯一の宝石。




     
    「次、俺の宝石に何かあったら、お前の四肢をもぐ」

     夜。仕事を大急ぎで終わらせてオンボロ寮を訪ねたジャミル・バイパーは、器用にドアノブをひねって彼を出迎えた、恋人の相棒であるモンスターを見るなりそう言った。グリムはその不機嫌で冷徹な瞳に、咄嗟にひゅんと股の間に三又の尻尾を隠した。器用な飼い猫め。

    「おおおお、オレ様のせいじゃねぇんだゾ! アイツが突っ走るから悪いんだ!」
    「うるさい、口答えするな」
    「二人とも、喧嘩しないで」

     床から抗議の声を上げるグリム相手に問答をしていると、ベッドの上、上半身を大量の枕に寄りかからせた形の恋人が口を挟む。まるでこの喧嘩の内容に自分は関係ないとでも言いたげなセリフに、ジャミルの眉間には思い切り深い皺が刻み込まれた。

    「君な、何他人事みたいな顔してるんだ」
    「そうだゾ、子分! 元はと言えばオメーが学園長に安請け合いするから……」
    「グリム、お前は黙ってろ。俺の忠告を守れなかったお前に、発言権はない」

     命の次に大事に扱えと言っただろ、と睨めつければ、グリムは、ぐぬ、と唸って「お、オレ様、談話室に行く!」と言って階下に逃げて行ってしまった。ふん、すっかり監督生に毒気を抜かれて腑抜けやがって。

    「大体、何をしたらドラゴンとドラゴンバスターの戦いに巻き込まれたりするんだ」

     ジャミルはこめかみに指を当てながら彼女に近づいて

    「あ、それ、死語ですよ。昔と違って保護もしてたりするから、バスターじゃなくて最近はキーパーって、」
    「おい。まさか俺を煙に巻こうなんて思ってないよな。全部知ってるんだぞ」

     ベッドサイドに立って見下ろす。彼女は気まずげに目を泳がせたが、ジャミルの表情が変わらないのを見て取ると、へラリと笑いかけてきた。全く、いい気なものだ。


     
     彼女と再び恋人になってから、遺憾ながら、ディア・クロウリーに会う機会が増えた。彼女の腕輪から連絡が来る度、クロウリーに抗議しに行っていたら結果的にそうなったのだ。
     いつもの彼女の心拍は至極穏やかなもので、クロウリーに仕事を振られた時だけ異様な数値を叩き出すのだから、そりゃあ恋人として抗議の一つもしたくなる。ドラゴンの住む山中から『あ。やっば、また繋がっちゃった。えっとね、ジャミル先輩、うーんと、今、実は山の中でね、ドラゴンの寝床に落ちちゃったみたいなんです』などと言われて、今日という今日は本当に心臓が止まるかと思った。
     とは言え、クロウリーに会う度に、今度恋人に危険な真似をさせたらただじゃおかないと釘を刺し、もし何かあったらアジーム家からの寄付金が来ないようにしてやると脅してやっているのだが、

    「それは困りましたねぇ。ですが、彼女から仕事を奪うわけにはいきません! 私、優しいので!」

     というお決まりのふざけたセリフで躱され続けているのが実情だ。
     確かに、『学園の何でも屋』紛いの仕事をしているのは彼女の意思だ。「他にできる仕事、見つけられそうもないし……」という彼女がいつか零した言葉の通り、モンスターの六級魔法士・非魔法人種のコブ付きを雇おうなんて人間はそうそういない。だがその不利な条件にかこつけて、危険な仕事ばかり振るのはいかがなものか。
     悪運の強い彼女が、どんな無理難題でも毎度無傷で帰ってくるものだから、クロウリーの意識もたるんでいるのだ。一般人を死地に送り込むな、正門に逆さで吊るしてやっても良いんだぞ、あのカラス野郎。

    「でも、今回は本当に、偶然そうなっちゃっただけなんですよ。別に巻き込まれようと思って行ったわけじゃなくて、生徒の一人が裏山に行ったっきり帰って来なくなっちゃって……」
    「それを探しに行ったら、生まれたばかりのドラゴンが知らぬ間に裏山全体を住処にしていて一悶着あったんだろう。学園長に聞いたよ。ドラゴンキーパーを呼んだのは自分だと、盛んに主張していた」

     今度ばかりは流石にまずいとでも思ったのか、クロウリーは鏡の前でジャミルを待ち構えていて、彼が到着するなり滔々と説明をしたのだ。ほとんどが自らの保身の主張だったが、第三者の口から概要を聞けたのは良かった。彼女は自分の危険を軽く見積もる傾向にあるから。
    「カリムにも報告しておきます」と言ったら、仮面越しでも顔を青くするのが分かって、少しばかり溜飲が下がったのも良かった。
     クロウリーが言うには、幼いドラゴンに『山で拾ったお気に入りのおもちゃ』認定されていた生徒を救出していたらドラゴンに気づかれ、しかも尚悪いことにそれが火を吹くタイプのドラゴンで、山中を闇雲に走り回って逃げていたところにドラゴンキーパーの助けが入り、安全圏に下ろす手間を惜しまれ、そのままキーパーの相棒であるドラゴンに共に乗って捕獲をした。で、その乗っていたドラゴンから降りる際に足を軽く挫いて、彼女は大事を取って横になっている。それが今回の事件の顛末らしい。
     この世界のことをぼんやりとしか把握していない彼女的には「なかなかない珍しい体験でした!」案件なのだろうが、ドラゴンによる死亡事件をニュースで山と見てきたジャミルにとっては「お前は頭がおかしいのか?」案件に他ならない。一歩間違っていたら死ぬところだった。
     ジャミルは呆れと怒りが混じった複雑な気分のまま言う。

    「もぐのはグリムじゃなく、君の手足だっていいんだぞ。そうしたら、危険な目に遭うことだって減るだろう」
    「えぇ~?」

     冗談だとでも思っているのか、彼女は困ったように笑って首を傾げた。ジャミルは彼女の横たわるベッド脇に腰を下ろすと、その手を取って言った。

    「別に『もぐ』と言っても、切り落とす必要はない。手足が動かなくなれば良いだけだ。古代呪文はまじないの側面が強いからな。この肩から下、そういうまじないをかけたら、……俺もやっと安心できる気がするよ」

     言っている間に自然と声が暗くなった。胸の内から仄暗い欲望が顔を覗かせる。
     もしもそう出来たら。彼女はこの仕事を諦めて、熱砂の国で一人、ジャミルの帰りを待つただの女になる。オンボロ寮の魔女、学園の紅一点、モンスター魔法士を育てた調教師、学園住み込みの何でも屋。その全ての肩書きを捨てて。

     ──本当に、そう出来たら楽なのに。

     ふと、彼女はジャミルが握ったのと反対の手を伸ばしてきた。ジャミルの頬に触れ、そうしてふわりと微笑む。ゆるくたわんだ瞳は、人生二度目のオーバーブロットで国に呼び寄せた時と、寸分違わない慈愛に満ち満ちていた。
     あれを見た瞬間、なんだ、と思った。なんだ君、まだ全然俺のことが好きじゃないか、と。
     それで結局絆された。

    「本当にそうします?」

     彼女が優しく語りかけてくる。まるでそうしてくれても構わない、と言わんばかりだ。私は別にどちらでも良いのよ、あなたがそれで良いなら。そんな声が聞こえてきそうだった。
     視線から逃れたくて顔をうつむける。これじゃあ、ジャミルのほうが我儘を言っているようではないか。先に困らせているのは、実際彼女のほうなのに。

    「……そんな目で見るな」
    「そんな目ってどんな目?」
    「俺のことが、好きで好きで堪らない目」

     彼女は一瞬きょとんとして、それから唇を尖らせる。

    「そんなこと言ったってしょうがないじゃないですか。実際そうなんだもの」

     そう言ってぷんすか怒る彼女は、握ったままだった指先にジャミルが口づけを落とすと、途端に口をつぐんで大人しくなった。

    「……心配かけて、ごめんなさい」
    「本当にな」
    「忙しいのに、駆けつけてくれてありがとう」
    「良い。君が無事なら」
    「……私、ジャミル先輩になら、何されても良いですよ。本当に」
    「その話はもう良い」

     ベッドヘッドに手をついて、柔らかい枕の山に埋まった彼女に口付ける。何度か啄んで、ふと離れて顔を見合わせる。彼女の瞳は愛情を持ってジャミルを見つめ返している。

     ──まだ、君は俺が好きなんだな。

     いつか、本当に彼女を籠の鳥にしたらどうなるだろうか。それでも彼女はジャミルを好きでいるだろうか。時々、試してみたくなる。だけど、その薄暗い欲望をぶつけて、彼女が愛想を尽かしたら、もっとひどいことになるのは目に見えていた。

     ──俺は世界中で君にだけは、嫌われたくない。

     ジャミルが苦く眉を寄せると、彼女はジャミルの目元を指先で優しく撫でた。緩む眉を己でも感じながら、ジャミルは思う。ジャミルの欲望の鍵は、いつも彼女が持っているのだと。
     彼女がジャミルの首に腕を回した。
     あぁ、でも。もしも腕が動かなくなったら。キスする時、引き寄せられないのは不便ですね。と彼女が言って、ジャミルは、馬鹿とは話したくない、と応えて、もう一度その口を塞いだ。

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    2022/05/31 20:46:05

    熱砂の野心家に婚約者がいる話

    人気作品アーカイブ入り (2022/06/11)

    pixivからの保管用です。
    婚約者がいるジャミくんに横恋慕する監督生の話です。

    初出/2020年7月5日 21:00〜2020年9月12日 00:00
    #twst夢  #ジャミ監  #女監督生

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