国広さんちの常備菜 ピン、ポーン………
間延びしたチャイムが家の中で鳴った後、根気強く30秒ほど扉を見つめていた。けど、家主が出てくる気配は無い。それどころか中からは生活音が一切しない。留守かしら。
預かっていた合鍵で扉を開けると、中は空っぽだった。ふむふむ、やはり留守か。どうせ山姥伝承の残る山奥に取材にでも行っているのだろう。私は得心して中に入り、買ってきた食材をキッチンの床に置いた。若干乱暴になってしまったのは家主のいないことに気抜けしてしまったからなので、大目に見てほしい。私はこの家に来る時、いつも少し緊張しているのだ。
さて、と……常備菜をこしらえたらサクッとお暇しよう。一応勝手に上がり込んでいるから、手紙でも置いていこうかな。気づくか分かんないけど……。
そうと決まれば早速、と思ったその時だった。奥の作業室兼寝室から紙媒体の雪崩れる音が聞こえたのは。
ズササササァーッ!
「あぁ~嘘でしょー……入室の振動で崩れる資料って、どんだけ重ねるのよぉ……」
思わず居ない家主に悪態をついて、宙を仰いだ。仕方ないので奥の部屋に向かう。どうしようかな、崩れた資料の順番なんて分かんないよ……適当に積んどくわけにもいかないし。ガチャリと開けた先、地獄が待ってた。足元には紙、紙、紙、もはやどれがゴミでどれが資料か私には判別が不可能なその上には………金髪の行き倒れが。
く……
「国広おじちゃぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!!!!」
慌てて駆け寄ろうとするも紙に足を取られて滑る滑る。膝をしたたか打ち付けたりしながら、どうにか傍らに膝をついて彼の頭を抱えた。
「国広おじちゃん! おじちゃん、しっかりして!! どしたの、どっか痛い!? 救急車呼ぶ!?」
この世の終わりみたいな恐怖を感じて、なんとか指示を得ようと頬を叩く。するとうっすら瞼が開いて、空色の瞳がのぞいた。
「国広おじちゃん!! 生きてる!?」
「……~め、ろ」
「え!? なに、聞こえないよ!!」
耳を口元に寄せると、今度ははっきり聞こえた。
「……その呼び方は、やめろ。あと、……味噌汁が、飲みたい……」
それきりパッタリ手が力を失って床を打つ。すー、すー、と小さな寝息を立てて眠っている。そう、まるで死んだように。
………この三十路、絶対に許さない。
生き返る。そう言わんばかりの顔で私特製の味噌汁をすするこの金髪碧眼の三十路、名前を山姥切国広という。私より一回り年上の売れっ子ホラー作家で、私が6歳の時に彼の従弟の家で、私の家の隣家でもある堀川家に身を寄せ始めたから……かれこれ12年のお付き合いになる。もっとも今は彼も自立と称してその家を出てしまったのだけど。私は現在彼のことを親しみを込めて「国広おじ」と呼んでいる。昔は「国広おじちゃん」だったんだけど、おじちゃんの響きが嫌だそうな。かと言って今の「おじ」も気に入っているわけではないのだから、つくづく難儀な人だと思う。
国広おじに言わせれば「兄弟は『にい』なのに、なんで俺だけ『おじ』なんだ! 俺はお前の叔父になった覚えはないぞ!!」っていうことなんだけど…しょうがないじゃん? 国広にいのほうが若いんだし、同じ名前なんだから区別をつけなきゃ。これは必要区別なのだ。
国広おじは色素の薄い天使のように生まれついた己の容姿をひどく疎んでいて、外でも家でも真っ白いパーカーを目深に被って過ごしている。ある時はコンビニのスイーツ売り場前で、ある時は小説をしたためながら……もう三十路だっていうのに全然老けない風貌も相まって、ともすればよすがの無い不良少年に擬態するから、外に一人で出すとすぐに補導されそうになる。それだけなら買い物だけ代行すればいいのだが、もっと厄介なことに、彼には料理センスが欠片もない。具体的にどのくらい無いかというと、包丁を持たすと3秒しない間に流血するレベルで無い。味音痴とかじゃないが、どうやっても不器用なのだ。
少し前までは堀川家の国広にいが、一人の時間がないとペンが進まないと言って家を出た国広おじの世話を甲斐甲斐しく焼いていた。それこそ食事だけでなく、家事全般を。
おかげで国広おじはいまだに自分の家の最新式洗濯機の使い方がイマイチ分かっていないし、洗剤も柔軟剤もとにかく蓋一杯分くらいぶち込んでおけばいいと思っている。どうせ安物のパーカーくらいしか洗わないからそれでも良いんだけど、甘やかしすぎるのも考え物だ。
それはさておき。本題はここからだ。国広にいが院を卒業した後、京都の会社に就職してからの話。
彼が本当に一人で生活していけるか心配する国広にいに、
「大丈夫だ、兄弟。心配するな、一人暮らしくらいできる」
とかなんとか大口を叩いて送り出したくせにこの三十路、一カ月後には警察に保護されるという、人としての尊厳を失いかねない大惨事を引き起こしたのだ。理由は栄養失調によって、道端でぶっ倒れていたから。これのどこが大丈夫なのかと、国広にいじゃなくても説教したい。
なんでも締め切りが近くて、とにかく精のつくものを! という方針で毎日店屋物のうなぎを食べて生活していたら、締め切り後に意識が飛んだらしい。せめて店屋物ローテしなよ、と点滴を打ってグロッキー状態の国広おじに言ったら、京都からすっ飛んで帰ってきてた国広にいに「そういう問題じゃないよ!」と怒られた。そりゃそうだ。
しかし就職一カ月の新人の、兄弟が心配なので東京支店に異動したい、なんて言い分が通用するはずもなく。堀川家のおじさんおばさんだってもう高齢だし、様子を見るにしても精々一カ月に一度が限界だ。そこで国広にいが目を付けたのが……私だ。
「お願い! 花嫁修業だと思って!」
拝み倒す勢いでお願いされても、私は正直躊躇していた。
「えぇー、でも私、国広にいほど料理上手じゃないし……」
「大丈夫! 兄弟、胃は丈夫だから!」
およそ勧誘しに来た人間が言うべきではないフォローをしながら、国広にいは私に鍵を押し付けてくる。一体いつ合鍵を作製したのだろう……。
「でも、ホントに無理だよ! 私だって学校とかあるし、」
「そう言わずに! 好きな人のお世話なんて、恋愛においては利点以外の何物でもないよ!」
「………」
「……今なら将来兄弟がごねた時、僕が完全に味方になる保証付き」
「買った」
こうして私は国広おじの知らぬ間に食事面の世話係と、将来の外堀陣地の確約をゲットし、今に至る。国広おじには申し訳ないことをしたと、たまに罪悪感が襲うこともあるが仕方ない。恋愛と戦争では手段を選ぶなって、どっかの偉い人も言ってた。
「国広おじ、まともに食べてないお腹にそんな固形物いっぱい入れて大丈夫なの? やっぱり林檎はやめといたほうが……」
もりもり焼き鮭とご飯を食べ進める国広おじを横目で見ながら、デザートの林檎を剥く私は言った。本人所望のデザートだが、体に良いとは到底思えない。ご飯は渋るから作ったけど、3日ほど断食に近い状態だった彼にピッタリなのは点滴だけだ。
「胃は丈夫だ」
「なら倒れる前に生米でも良いから食べなよ……」
もぐもぐしながら早く剥け、と言わんばかりに顎をしゃくる国広おじに呆れながらも続きにかかる。国広おじは天使みたいな外見のくせして意外と頑固なのだ。断固として白パーカーを手放さないあたりにそれがよく表れている。
「ところで制服はどうした。今日は確か平日だったはずだぞ」
サボリか、と暗に聞かれているのが分かって、私は重いため息をついた。
「あのねぇ、世間はもう春なの。3月。分かる? 私は確かに花の女子高生だけど、さすがに春休みまで制服は着ないよ」
「む、そうか」
「それに、」
「なんだ」
「……いや、なんでもない」
私が言葉を濁すと、彼はこてりと首を傾げた。あざとくも見える仕草だが、これは天然だ。国広おじは自分の容姿を疎んでいるから、こうすると自分が相手にどう見えるか、なんて高度なことは考えていない。大学を卒業してすぐに小説家になってしまったので、人付き合いの幅が学生時代で止まっているからか、大人の男性的な振る舞いを身に着ける機会を逸したまま大人になってしまっただけで。総括すると……《頑固な妖精》とでも言おうか。怒られるから本人には絶対言わないけど。国広おじは怒ると長いからな。
「それより! 断食の成果はあったわけ? 締め切りだったんでしょ?」
話をそらすと国広おじは素直に頷いた。
「あぁ、風呂に入る前に送った」
「風呂!?」
私の叫びに国広おじは、しまったという顔をした。そんな顔したってもう遅い。
「それって私が来る前の話でしょ!? ご飯食べる前に風呂に入ってたわけ!?」
「いや、まぁ……先にサッパリしたかった」
「まずご飯を食べなよ!! こないだカップ麺買ってあげたでしょ!? レトルトのおかゆも! さっきキッチンで見たよ、まだ残ってるの!」
一カ月ごとの支出報告の時に絶対国広にいに怒られるから、わざわざレシート別にして私のお小遣いで買ってあげたっていうのに! お湯も沸かせないほど忙しいなんて言わせないぞ!
ジットリ不満げにねめつけると、国広おじはたじろぐように目を泳がす。
「……常備菜がなくなった」
「そのためのレトルトです」
「……美味くない」
「美味くなくても体は保ちます。元気が出ます。頭が働きます」
たたみかけてもまだ口の中でモゴモゴ文句を言う国広おじに、深い深いため息が出る。
「あーのねぇ、国広おじ。そりゃ国広にいの手間暇かかったご飯に比べりゃ、なんでも不味く思えるだろうけど、それでも食べないよりマシだよ。次病院に運び込まれたら、今度こそ国広にいに問答無用で京都に連れてかれちゃうんだよ? 分かってる?」
こっちのほうがホラーのネタもきっといっぱいあるよ? 僕もご飯作ってあげられるから安心だし! と、病室で点滴を受ける国広おじをあの手この手で説得しようとしていた国広にいの姿が、まるで昨日のことのように思い起こされる。私だったらすぐさま頷いてしまいそうな熱量に、それでも国広おじは頑なに転居を拒んだ。表向きは編集部が近いほうが良いからとかなんとか言っていたけど、多分それは違っていて、国広おじは負担になりたくない一心なんだと思う。就職一年目で大変な可愛い弟分に面倒を見てもらうという選択は、国広おじにとっては《悪》なんだろう。
国広にいは誰から見てもハイスペックスーパーマンだから、どんな状況だって国広おじの面倒くらい朝飯前で見れるとは思うけど、それとこれとは話が別らしい。結局根比べで折れたのは国広にいのほうだった。
「今度病院に運ばれたら、僕の目の届くところに引っ越してきてもらうからね!」
冗談めかして言ってたけど、あれは本気だ。だって目が笑ってなかった。国広おじも当時のことを思い出したのか、ブルリと肩を震わせる。
「分かってるんだったら我慢してレトルト食べて」
私がキッチンを指さして言うと、国広おじは箸を止めてうつむいた。
「……あんたが、」
「なに」
「あんたが、そろそろ来る頃だと思ったんだ」
はぁ、そりゃ来たけども。何が言いたいのか分からなくて眉を寄せる。
「……だから……どうせ食べるなら、あんたが作った料理が食べたいと思って……」
ザッパーン!!!
心象風景はさながら大しけの海だ。北斎風の感じをイメージしてもらったらいい。
こ、こんの三十路、人の心を他意無くもてあそびやがって~~~~~~っ!!!! お前のような三十路がいるか! 可愛すぎるんだよ畜生、あーごめんなさい国広にい、私は貴方の大事な国広おじにレトルトを薦めた挙句、締め切り前の絶食生活を容認してしまうかも………
ここまで0コンマ5秒。しかし国広にいのニッコリ笑顔が大しけの向こうにニョッキリ現れて言った。
『甘やかす人に兄弟はあげられないなぁ?』
ぐぬぅっ、無念……! 私は心を鬼にして、断腸の思いで突っぱねる。
「っダメ! ダメダメダメそんな可愛いこと言ったって騙されないっ! 倒れるまでご飯食べないのを人のせいにしないでっ!!」
「な、ならもっと頻繁に来い! 常備菜がなくなる前に! あと、綺麗とか可愛いとか言うな!!」
「あーあーあー、聞こえなーいっ!! 私だって忙しいんだからちゃんとレトルト消費してください大人しくーっ!! 綺麗とか可愛いとかは事実なのでこれからも言いまーす!」
「おい、聞こえてるだろう! おい!!」
「あーあーあー、きーこーえーなーいーっ!!!」
とかなんとか言い合っている間に、国広おじは林檎まで全部平らげて満足そうに後ろに寝ころんだ。特に気持ち悪そうな様子も見せず、大人しくなった国広おじに安心する。しばらくすると寝息が聞こえてきて、疲れてたんだなぁと納得する。小説家って大変そう。
私はそっと立ち上がって台所に戻る。この間に常備菜を作り置きしておかなければ。国広おじはぶきっちょな割に台所をうろちょろする癖があるのだ。恐らくはお手伝いがしたいんだろうと思うのだけど、正直この1LDKの台所は狭くて二人が立てるようにはなってない。後ろをついて回られても邪魔なだけだったりするのだ。その上、国広おじは料理に関しては戦力外だし。
「よっし、やるかぁ……」
気合を入れてからビニール袋をあさる。ふふん、今日は国広にいに教えてもらったレシピに挑戦しようと思って、人参を買ってきたのだった。手に持って、思わずニヤリとしてしまう。これで国広おじの胃袋を鷲掴みしてやるのだ!
あとはいつものトマトソースの瓶詰に、鍋いっぱいのポトフを作ったら、かぶのマリネ、葉っぱのほうはナムルにしてそれぞれタッパーにぼんと放り込む。玉ねぎと鮭ときのこを銀紙に包んで、これもまたタッパーに。それに焼くだけの冷凍餃子、ざくざく玉ねぎのハンバーグとレンジでオッケーのあんかけミートボール、あまった挽肉は麺にも丼にもいける旨辛味噌そぼろにして、いくつかのパックに小分けする。その他いろいろ。
途中、国広おじが起き出してきて「手伝うか」と珍しくうろちょろする前に口に出して言ったので、「あとちょっとだから大丈夫!」と台所から遠ざけたり、ビニール袋をあさってレトルトを見つけて渋い顔をする国広おじを見ないフリするなどした。
沢山の常備菜のパックやタッパーの上に付箋で食べる時のあたため方や注意書きをすると、ようやく人心地ついた。すっからかんの冷凍庫にそれぞれみっちり詰めて、こちらもすっからかんの冷蔵庫には一週間で食べきれる量の惣菜を詰める。自家製のラー油も無くなっていたので、それも作り足して瓶に詰めて冷蔵庫の一番下にぎゅっと押し込んだ。
「よし、完璧!」
自画自賛しつつ時計を見ると大体3時間程度。最初の頃より随分早くなっていて、己の才能に身震いする。ふふふ、これでいつでも国広おじの所にお嫁に行けちゃうな~、なんて。とか思っていたら、国広おじが鍋の蓋を開けて中を熱心に見つめているのに気付いて慌てて制止する。
「ちょっ、それは今夜に食べるやつでしょ! いきなりつまみ食いしないで!」
食いしん坊か! と怒って取り上げた蓋を元に戻すと、国広おじは不満げだ。
「しかし」
「しかしじゃない! そんなだからちゃんと計算して作ってる常備菜がなくなっちゃうんでしょ。国広にいに言いつけるよ!」
切り札を出すと国広おじはむぅと閉口する。やっぱり国広にいサマサマ、私にはまだ国広おじの手綱を握れるほどの辣腕はない。
「私もう帰るけど……夕飯まで中身食べちゃダメだからね。せめて6時まで待ってね」
念を押すけど、「はぁ」とか「ふぅ」とか言うだけで、ついに国広おじは頷かなかった。これは私が帰った途端に食べちゃうやつだ、と察知して眉根が寄る。本当はもっと長居して監視してやりたいけど、私にはこれからバイトの予定が入っている。
「気を付けて帰れ。送るか」
「結構です!」
言って、追い出さんばかりに差し出されたカバンをひったくる様にして玄関に向かう。その後ろを国広おじのボソリとした呟きが追ってくる。
「こっちは花の女子高生なんだから、もっと気遣えだの、いつもは言う癖に」
「いいの。今日はこれから行くとこあるし……あ、女子高生じゃなくても気遣ってくれて良いんですけどね?」
返すと国広おじは怪訝な顔をした。
「行くところ? どこだ」
「どこって、……近所だよ。近所のスーパーとか本屋とか、」
「それなら帰りに一緒に行けばいい」
何故、という瞳に口ごもる。参った。国広おじ、変なところ鋭いんだよなぁ。
国広おじにバイトを始めたことは言ってないのだ。なんでって、絶対反対されると思ったし。ていうか、する。絶対する。結婚してくれるかどうかは別として、国広おじは私に対して少々過保護のきらいがあるのだ。なのでバイトのことを知ったら、この家事代行のほうに色をつけてしまうかもしれない。「これで外でバイトをする必要もないだろう」とかなんとか言って。
だけどそれじゃぁ困るのだ。私のバイトはそもそも世界を知るためだったり、大人になる一歩であるので、お金に困って始めたわけでもないし。それにこれは国広にいとの契約から始まってるので、お金が発生してしまったらそれはその時点から仕事になってしまう。
そしたら『将来の外堀陣地の確約』を国広にいに反故にされても、文句は言えなくなってしまうのだ。
「えぇ~っと……」
答えあぐねる私に、国広おじは何かを隠していることに気づいたらしく思い切り不機嫌な顔をする。そういう、すぐ顔に出ちゃうとこ、国広おじの良いとこでもあるけど短所でもあるよね……。
「何を隠してる」
「別に隠してなんか、」
「そうやってすぐ髪をいじる。嘘を吐いた時の癖だな」
指摘に髪をいじっていた手をパッと下ろすけど、もう遅い。言うまで返さない、と顔に書いてある。このまま踵を返して逃走、というパターンも浮かんだけど、多分すぐに捕まってしこたま怒られる。国広おじはこんなナリでこんな食生活をしているくせに体力お化けで、やたらと運動が出来て足がべらぼうに速いのだった。
「……バイト、始めたの」
観念して渋々告げれば、国広おじの目は予想通りに吊り上がる。
「今すぐやめろ。危ない」
「横暴かつ、偏見たっぷりだなぁ」
「そもそも何故バイトなんか始めた。そう物欲があるほうでもないだろう」
「なんでって、別に理由なんかないけど……みんなやってるし、ちょっと憧れがあって……」
国広おじはこれみよがしに深いため息をついた。
「みんなやってるからって、あんた子供か。いや、子供だな。子供だった」
言い聞かせるみたいな言葉に唇が尖る。
「だって」
「だってじゃない。何かあったらどうする」
「ただのバイトだよ。何があるっていうのさ」
「色々だ」
「やっぱり横暴!」
「わがまま言うな!」
頭ごなしに怒られて、ますます意固地な自分が出てくる。
「別に子供じゃないし。ていうか、なんで国広おじにそんなこと言われなきゃならないの。ママは良いよって言ってくれたし、どうこう言われる筋合い無くない?」
正論に今度は国広おじが押し黙る番だった。私は続ける。
「これも一つの社会勉強だよ。働いてお金を稼ぐことの尊さを実感したいの。そしたらきっともっと人に優しくなれる気がする。勿論、国広おじにもね」
「分かった、ならこの常備菜を作るのを……」
国広おじがこの関係性をバイトにしてしまう前に、声を張って遮る。
「とにかく! バイトはやめないし、やめるにしたって今日すぐってことは無理だから! 国広おじだって社会人のハシクレなんだから、社会のルールくらい分かるでしょ!」
「おい、」
「送るのはマジでいらないし、バイト先までついてきたら絶交だからね!」
言うだけ言って玄関に駆け出し、さっさか外に飛び出した。
全くもう! 私はもう、国広おじに心配されるような歳の子供じゃないんだってば!!
「国君から電話あったわよ」
バイトから帰って早々、ママにそう言われてげんなりする。
「……なんだって?」
「バイトを始めたっていうのは本当かって。あんた、国君に言ってなかったの?」
「別に、いちいち報告することでもないじゃん」
靴を脱ぎながら返すと、ママは大袈裟に驚いた顔をする。
「まー冷たい。昔はあんなに国君、国君って、後ろついて歩いてたっていうのにねぇ」
あ、それは今もか。なんてわざとらしく追い討ちをかけられ、口の中で言い訳する。
「ついて歩いてなんかないもん」
だけどママはそれを無視して続ける。
「心配してたわよ。どんな所だ、どいつと働いてる、職種はなんだ、重い物を持たされていないか、怒られてないか、制服が短いなんてことはないのか、職場はどこだって、もういーっぱい畳みかけられてママ疲れちゃった」
「!? 言ったの!? どこで働いてるか!」
「言いやしないわよ。よく知らないから本人に直接聞いてって言っといた。でもあの感じだと堀川ママから漏れちゃうのも時間の問題ね」
思わず天を仰ぐ。堀川のおばさんには言ったのね、私がバイトしてること……。
「ちゃんと自分で言ったほうが良いわよ。心配することは何もありませんって」
「言って聞くと思う?」
「説得の仕方次第でしょ。広君だったら、きっと丸め込めちゃうもの」
ママは国広にいのことを広君、国広おじのことを国君と呼ぶ。それは堀川のおばさんがそう呼ぶから倣っているだけで、ご近所さんは大体二人をそう呼び分けている。私はなんというか、国広、という名前の響きが好きで、残したかったからこう呼んでるけど。
「分かった。国広にいを味方に付けるようにする」
降参とばかりにそれだけ言って、小言から逃げるように自室に引っ込んだ。
どいつもこいつも! いつまで経っても子ども扱いなんだから、とムカムカしてカバンを床に放り捨てる。そのままベッドにダイブして、
「……国広おじのばか」
と、小さく罵倒する。国広おじの中では今でも、私はずっと出会った時の小さい子供のままなのだろう。
彼に言われた、花の女子高生、という言葉をふと思い出して寂寥感が生まれる。私のクローゼットには、もう高校の制服はかかってない。クリーニングから返ってきたら、そのままママの知り合いの娘さんに降ろされてしまう。
もう制服なんか、頼まれたって着てあげらんないんだよ。国広おじ。
卒業式は終わってしまった。私はもう花の女子高校生じゃなくて、4月になったら出会った時のあなたと同じの大学生で、……私はもう、貴方が可愛がってくれた子供じゃない。貴方に懸想する、狡猾な一人の女なのだ。
「子ども扱いばっかりしてたら、いつか寝首掻いてやるんだから」
呟きは布団に吸い込まれて、いささか頼りなく聞こえた。
「………」
「………」
無言で相手を睨みつけながらレジを通す。相手も無言でこちらを見てくる。ピッピッピッ、というバーコードを読み取る機械音だけがあって、居心地悪さにこちらが折れた。
「……なんでいるの」
「兄弟に聞いた」
国広にいの裏切り者!!
バイト先はどこなの? え、違うよ。可愛い妹分が変なバイトしてたら僕も心配だから。一応ね、聞いとこうかと思って。……なーんて話を信用して教えた私が馬鹿だった!
まぁ薄々分かってましたよ。正直ね。バイト先を教えたら国広おじに筒抜けになるだろうなっていうことは。だけどまさか普通のコンビニバイトにわざわざ様子を見に来るとは思ってなかった。だってコンビニだよ? バイト先=コンビニみたいなとこあるじゃん。なーんだ、コンビニか。なら安心だね☆ ってなるとこじゃん普通はコンビニでバイトしてますって言ったらさぁ!
妙な所でフットワークが軽いんだから。本当に理解に苦しむ。
どうせ食べもしないカップ麺やらなんやらを袋に詰めて、ずいと差し出す。受け取る手に
「二度と来ないでね」
と釘を刺した。
「こっちは客だぞ」
「お客様は神様の時代はもう終わったの。食べもしないレトルト食品買って無駄遣いするくらいなら、まず家にあるの食べてよ」
むぅ、と国広おじは唇を尖らせる。
「続けるつもりか」
「すぐに辞めるような責任感の無い子じゃないので、ワタクシ」
「それは知ってる」
あっさり認められてちょっと気分が上向く。単純な私。咳払いをして照れを誤魔化した。
「とにかく、一人で大丈夫だから」
「何をそんなに焦っている」
真をつく言葉にギクリと目が泳いだ。それを見逃す国広おじじゃなくて、諭すように問われる。
「あんた最近変だぞ。妙に常備菜作りを張り切ったかと思えば、バイトを始めてみたり……何かあったなら言ってみろ」
「別に、なんも……」
私の否定に、国広おじはムッとした顔を隠さない。でも、なんて言えばいいのだ。少しでも早く貴方に釣り合う大人になりたくて、恋愛対象になりたくて頑張っています、なんて。
もじもじするばかりの私に国広おじは深いため息を一つつくと
「分かった。好きにしろ」
と言ってビニール袋を押し付けてきた。思わず受け取ってしまってから、首を傾げる。
「やる。どうせ食わないしな」
国広おじはそう言って、コンビニを出ていった。遠くで様子を見ていた店長が
「彼氏? カッコイイねぇ」
と言うので、私は曖昧に笑うしかなかった。彼氏、だと良いんですけどねぇ……。
その後、なんでか動揺してしまった私は品出しを間違えたりなんかして、店長に困った顔をされた。少しへこんだ。
それもこれも、ぜーんぶ国広おじのせいだ!!
遅刻はしない、サボらない、率先して仕事を探して、いつもニコニコ笑顔でいる。春休みということもあって連日バイトを入れていたら、そんな毎日がずっと続いて、働くって本当に大変なんだなぁ……と身につまされていたある日。家に帰るとママが玄関で待ち構えていて、「はい」とビニール袋に入ったタッパーを差し出された。
「何コレ」
「煮物。多めに作ったから、国君に持って行ってあげて」
「えぇ~、」
「つべこべ言わない。荷物だけ置いて、くるっと回れ右!」
無理やり持たされたビニール袋にげんなりして肩を落とす。疲れて帰ってきてるのに、とぶすくれて見せると
「別にバイトはママがやれって頼んでやってもらってるんじゃないでしょ」
と言われてしまった。ド正論でぐうの音も出ない。それでも口の中だけでモゴモゴ
「別に煮物持ってくのだって私の仕事じゃないじゃん」
と反論したら
「これは仕事じゃなくて、家族の義務です」
と再度突っぱねられてしまった。大人って厳しい。
論破されてしまったので、ちぇ、という気分で国広おじの所まで歩いていった。仕方ない、冷蔵庫の残りの確認でもしてくるかぁ。そしたら次行く日も大体決められるし、ちょうど良いかも。国広おじの顔も見られるし、一石二鳥ね!
歩いて向かっている内に気分が上向いてくるから、恋ってすごい。アパートに着いて階段を上がる頃にはルンルンだった。あ、そうだ! この煮物、私が作ったことに……いや、さすがにそれはバレるか。
そんなことを考えて浮かれていたら、階段の上にスマホをいじっている女の人が立っているのに気付かなかった。
あ、と思った時には階段を上がる勢いのまま突進していて、だけど寸でで避けようとしたから変なふうに尻餅をついてしまった。
「きゃ、」
「いてっ!」
お姉さん座りのような形でへたり込んでしまって、恥ずかしさに頬が熱くなる。相手の女の人はサッと屈みこんで
「やだ、ごめんなさい、大丈夫ですか?」
と私を助け起こそうと手を差し伸べてくれた。グレージュのマニキュアが塗られた、綺麗に整えられた爪だった。思わず顔を上げて相手をじっくり眺めてしまう。
透明感とマットな質感によって作られた肌。歯を見せて笑わない、千鳥格子のタイトスカート、ふんわり香るジョーマローン。私が思い描いていた大人の女性そのままの姿の人がそこにはいた。こんな素敵な大人の女の人、このアパートに住んでたっけ?
ポカンとしたままでいると、その人の後ろに国広おじがドアを開けて部屋から出てくる姿が見えた。騒ぎに様子を見に来たらしい国広おじは、尻餅をついた私を見つけてギョッとした顔をした。
「おい、大丈夫か。怪我は」
「あ、ううん、無い……」
私が首を振ると、国広おじは私に手を差し伸べてくれる。それを掴んで立ち上がると、女性が再度謝罪してくれる。
「すみません、私がぶつかってしまって」
「あ、いえ、」
「あんた、どうせ余所見でもしてたんだろう」
国広おじに遮るように言われて頬が熱くなる。そんな風に言わなくたって、と傷付けられた気持ちで思う。それを彼女が再び
「いいえ、私のほうが不注意だったんです。会社に連絡してたから……本当にごめんなさいね。先生も、そういう言い方は良くないと思います」
と謝罪してくれる。国広おじへの注意も含めて。国広おじはそれに肩を竦めた。頑固な国広おじが、忠告を受け入れたようにも見えた。
私はそれを見て、この二人はとても仲が良いのだろうと悟った。
私の知らない女の人と、私の知らない関係性を築いている国広おじ。自分が場違いに思えて、所在なく視線をうろうろと彷徨わせる。
「先生のお知り合いですか?」
「え、あ……」
問われて、なんと言えばいいか咄嗟に分からなかった。私は、国広おじの知り合いだ。知り合い、だけど、それ以外の関係性は見いだせない。今の私の立場と言ったら、せいぜい昔から知り合いの、近所の厚かましい子供、くらいが関の山だろう。
国広おじは
「なんでもいいだろう。さっさと帰れ」
と言ってその人の背を押して、私の腕を掴んで部屋に入れた。国広おじにとって、私はなんなんだろう。国広おじは私を人に紹介する時、一体何として紹介するのだろうか。
色々とショックで、考えてしまって、しばらくボンヤリしていた。
「何か用事があったんじゃないのか」
と国広おじに声をかけられてようやっと思考が働き出す。
「あ、うん。ママが煮物、余ったから持って行ってあげたらって……」
中を見ると、転んだ拍子に液漏れしていて、ビニール袋はべとべとだった。一気に悲しい気持ちが押し寄せる。
私が渡そうかどうかまごついていると、国広おじはそれをビニール袋ごと受け取った。中からタッパーを取り出して、べたつくそれに少し怪訝そうな顔をした後、そのまま流しに持っていく。黙々と中身を別のお皿に移してしまうと、静かにタッパーを洗い出した。
私はそれをじっと見つめる。静かに水が流れる音。国広おじの端正な横顔。こんなに近くにいるのに、なんだかとても遠くの人みたいだと思った。
「さっきの人、国広おじのこと、先生って言ってたね」
私が言うと、
「あぁ。こないだ担当が変わってな。今日はその挨拶だそうだ」
と国広おじは何でもないことのように答えた。
「その割に親しげだったね」
「昔の担当でな。他の編集部を一巡して戻ってきたらしい。俺のデビュー作を担当してくれてた」
国広おじのデビューは22歳の頃だ。つまり、8年来の付き合いということになる。私のほうが4年長い付き合いだな、と計算高く見積もったけど、同年代で過ごす8年と12歳差で過ごす12年は同じ価値ではないだろうと思い直してまた落ち込んだ。
自分の立ち位置を思い知らされたような気分で、ふわふわ浮かれていた頭がペチンと叩かれたみたいに沈み込む。
私が常備菜を作りに来たり、バイトを始めて少しでも大人に見せようとしたり、こつこつ小さくポイントを溜めようとしていることの、なんて矮小なことだろうか。
きゅ、とコックを締める音がして、国広おじはタオルで手を拭きながらこっちを見た。
「バイトはどうだ」
なんでもない気遣いの言葉に喉が詰まった。失敗したり、面倒だったり、辛かったりで、働くのって大変だと思ってる、なんて。言いたくない。言ったらまた子ども扱いされる。やっぱり、だから言わんこっちゃないって、慰める心の内で思われるんじゃないかって。だから、少しの逡巡の後
「……ちょー…う、順調!」
と答えた。
「本当か」
「当ったり前じゃん! 私はもう良い大人なので、仕事もなんでもサックリこなせるし……」
腹の底から意識的に快活そうな声を出して続けていると、ふいに髪に触れられた。ハタと国広おじを見上げる。無意識に触れていた髪の束が自分の指の隙間から滑り出ていくのを感じた。国広おじの青い瞳が飲み込みそうな強さで私を見た。
「嘘だな」
かぁっと頬が熱くなる。反射的に振り払って、激昂のまま言い返す。
「嘘じゃない!」
「だが、髪をいじっただろう」
「それが何!? もういい加減やめてよ、そういうの! 私はもう18歳なの! 国広おじは興味ないだろうけど、私はもうそんなに過保護にしてもらわなきゃならない子供じゃないんだってば!」
国広おじが大学生の頃、私はまだ6歳だった。馴れ馴れしくて遠慮のない近所の子供だった私を、国広おじは不器用ながらも可愛がってくれた。両親が忙しくて来れなくなった授業参観や運動会には必ず国広おじが来てくれた。授業参観の時に愛用のパーカーを脱ぎ捨てて着慣れないスーツで来てくれたのは私の一生の自慢だし、運動会の父兄と児童共同参加の大玉ころがしで、転んでしまったショックに呆然とする私を迷いなく抱き上げて、フードが外れるのも気にせず次に繋げるために激走してくれたのも、全部覚えてる。
金髪の美青年な優しい国広おじに、一目散に駆け寄って抱き着く私を見る同級生の羨望のまなざし。ひそかに鼻の穴を膨らませたことも一度や二度じゃない。
私はずっと、国広おじが好きだった。いつからなんて分からない。友達に話して「刷り込みだ」って揶揄されてからは、誰に相談したこともない。だからこの気持ちを客観的に見たことは無い。けど、クラスの男子や、学校の先輩や、電車でよく見る他校の人や、国広にいじゃなかった。私は、フードを深く被った下から覗く、あの金糸と空色の瞳が好きで好きでたまらなかった。
「俺から見ればあんたはいつでも子供だ」
国広おじのあっけらかんとした言葉に、心臓が殴られたように痛んだ。
「……そうだね」
早く大人になりたい。でも、大人になっても私たちの歳の差は永遠に埋まらないし、国広おじが私を妹のように可愛がるのは変わらないのだろう。例え今後国広おじに誰か好い人が出来ようと出来まいと、私を可愛がる国広おじと、国広おじを慕う妹の私、という関係はいつも変わらない。
私の胸にはいつからか、絶望的な気持ちがとぐろを巻いて居座っている。関係をぶち壊したい気持ちと、このままでも良いんじゃないかっていう、逃げの気持ち。それが終始せめぎ合って、結論が見えず、私の気持ちはいつも宙ぶらりんで、それがこの上なく苦しい。
好きじゃなくなれればいいのにな。この人を、嫌いとまではいかずとも、近所のおじさんとして見られればいいのに。そしたら、もっとずっと楽に生きられる。
「……帰る」
「待て。まだ話は終わってない」
躊躇なく腕を掴まれて、苛々と振り払った。
「ほっといてよ! 私に興味ないんでしょ!」
「なんの話だ!?」
「は、正論でしょ? 今私が何歳かも分かんないくせに! 国広おじは結局、私に興味なんかないじゃん!!」
訳が分からない、という顔の国広おじ。これじゃまるっきり子供の癇癪だ。それでも一度弾けた不満は止まらなくて、ほぼ叫ぶように言い募る。
「高校なんかとっくに卒業しちゃったし、もう制服なんか二度と着ない! そんなことも知らないくせに、気にかけてるふりしないでよ!」
貴方からの愛だけは、自分が欲しい形の愛しか許せない。私が愛すように、貴方も私を愛してほしい。恋ってなんて醜いんだろう。
「……私だって、私に興味ない人、気に掛けるほど暇じゃない」
悲しい顔だった。私が傷つけた。分かってるのに泣かないでって思う。突発的な激情を、燻り続けた恋心が詰る。私の好きな人を悲しませないで。だけど私が悲しいのも本当だ。恋ってなんて難儀なんだろう。
顔を伏せて言う。
「……ごめん、今日私ちょっと変なんだ。次来る時までには、機嫌直す」
醜くても難儀でも結局私はどうしたって国広おじを嫌えないから、本当は本当にただの仕事の相手かもしれない人を、仮想敵に作り上げて一人怯えても、押し込めても封印しても悲しい顔されると胸が張り裂けそうになるくらい好きなままだから、どうせ明日には元通りだ。
全く何一つままならないし、変わらないままだし、こんな押しつけがましい好意を振りかざして相手を傷つける自分が煩わしくて汚くて、ホント、泣けてくるったらない。
無言で玄関を出て、泣き出していないのが不思議なくらい沈んだ気持ちで廊下を早足で駆けた。途中、空っぽの手に気付いて、タッパーを置いてきてしまったことに思い至った。一瞬迷って立ち止まったけど、今さら取りに帰るのも締まらないし、このまま帰ってしまおう。
もう一度駆け出そうとしたところで、後ろから乱暴に扉を開ける音がした。びっくりして振り返ると、つっかけを履いた国広おじがそこに立ってた。そして完全に盲点を突かれた、というような声で
「あんた、卒業したのか!?」
と言った。
「はぁ!?」
今さらな疑問に大きな声が出る。しかし私が何を言うでもなく
「そうか、3月……しまった、」
と、国広おじは一人で得心したかと思えば、頭を抱えたりなどして百面相をしている。
「……録画はしたか」
「はい?」
「卒業式だ」
「し、してるわけないでしょ! 私がもう何回卒業式やったと思ってるの!」
そんなに毎回毎回、私の両親は暇じゃないし、高校生にもなってそんなことしてたらこっちの心理としては逆に恥ずかしいよ! 私が喚けば、国広おじは頭を抱えて呻き出す。妙に落ち込んでいるものだから、もしやと思ってそっと聞く。
「国広おじ……もしかして、卒業式、来たかったの……?」
「……悪いか」
「え、でも、そんなこと全然言わなかったじゃん。覚えてなかったんじゃ」
「……締め切りに追われて、時間の感覚が無かっただけだ」
「はぁ!?」
社会人としてあるまじき発言に、再び声を上げる。国広おじは
「毎日毎日、やれコラムだ、短編だ、エッセイだのせっつかれてみろ。1年は飛ぶように過ぎていくし、今の季節が何かも分からなくなる」
「それは国広おじが引きこもってるからじゃ……」
私のツッコミを睨んで黙らせて、国広おじは苛々とフード越しに頭を掻く。
「なんで言わなかった」
「え」
「中学までは言ってきてただろう。卒業したから誉めろだの、これが見納めだから写真を撮れだのなんだの言って、俺の所に来ただろう。それをなんで止めた」
どう答えたものか逡巡する。
「め、いわくかと思って」
国広おじはチンピラも真っ青な形相で「あぁ?」と聞き返して来る。
「だって、そんなに楽しみにしてると思わなかったんだよ、毎回来てもらうのも悪いかなと思って、この歳になって卒業式来てほしいとかもなんか……」
子供っぽいかと思って、とは意地でも言いたくなくて濁す。国広おじはとびきり深いため息をついて言った。
「今まで散々振り回してきておいて、訳の分からない所で遠慮するな。今さらあんたにされることで迷惑だと思うことなんてあるか」
「でも、……それじゃぁ一生変わんないままじゃん」
国広おじは私の呟きに首を傾げた。
「変わる必要があるのか?」
国広おじにとっては無いだろう。でも、それじゃぁ私は嫌なのだ。妹のまま可愛がってもらっていても、私は貴方の恋人にはなれない。永遠に。
振り回すんじゃない、貴方の大切な人になりたい、支えてみたい、頭を撫でるのではなく、抱き締めてほしい。
私が何も言えずにいると、国広おじは静かに言った。
「それが最近、妙な線を引き出した理由か」
「線なんて」
引いてない、という私の言葉を聞く前に国広おじは、言わせるものかと言わんばかりの勢いで被せてくる。
「引いてるだろう! 昔は何でも俺に話したくせに、今じゃ隠し事ばかりして!」
「隠し事なんか」
「してないとは言わせないぞ。現に卒業のこともバイトのことも黙っていただろう!」
「それは、バイトは絶対反対されると思ったからで」
「するに決まってる! 大事なものと過ごす時間が短くなるのが不快じゃない人間がいるか!」
どんどんヒートアップしていく国広おじの口ぶりに段々訳が分からなくなってくる。
なんで私たち、外でこんなバカップルみたいな喧嘩してるの。大事なものって言い方何。そんなのズルい。妹だってハッキリ言ってよ。勘違いしちゃう。
こう言ったら勘違いさせるかもしれないって、頭の片隅にも思わない? 意識にも、可能性も思い浮かばない? 私が貴方を好きだって、夢にも思っていないわけ?
アウトオブ眼中にも程がある。
泣きたい気持ちで首を振る。
「でも、だって、そんなのおかしいじゃん、そりゃ国広おじが私を妹みたいに思ってくれてるのは知ってるけど、」
「そんなことを思ったことは一度も無い!」
え。
「は、な……え?」
思わぬ返しに開いた口が塞がらない。お、思ったことない? 今、思ったことないって言った?
「確かにあんたは子供で、俺は大人だ。それは間違いないが、あんたを妹だと思ったことは一度も無い! 何故ならあんたは他人だからだ!!」
他 人 。
そりゃ全くもってその通りだけど、他人。衝撃ワード過ぎる。私がたとえ恋人になれなかろうと、縋りついて離すまいとしていた『妹』の地位は、最初からどこにも存在していなかったというのか。くらくらしてきてふらついた。そんなことってある?
でも。じゃぁ。
「……なんで、私のこと、大事にしてくれてたの……?」
「大事なものだからに決まってる」
キッパリ言い放たれる。堂々巡りの斜め上理論に理解が追い付かない。みんなが解ける算数が解けない子供みたいに心細くて、
「もう訳分かんないよ、国広おじ……」
と涙ぐむ。すると国広おじは焦れたように、再びキッパリとこう言った。
「何が分からないんだ! あんたは俺が好きで、俺もあんたが好きだ。他に互いを大事にする理由があるか!」
ぱん、頭の中で音が鳴って思考が停止する。
好き。
好きって言った、この人。
混乱して、意味が分からなくて、おののいて、たたらを踏んだ。ら、足がすかっと空気を蹴った。
落ちる。瞬間的にそう思って、身体を硬くした。国広おじが顔を歪めて走ってくる。フードが取れるのも構わず、美しい金糸を陽の元にさらして。
あぁ、なんて綺麗なの。
手を伸ばされて、腕を掴まれて、だけど重力に逆らえないまま。
私たちはそろって階段を落ちた。
「骨折ですね」
近所の病院の一室で整形外科のおじいちゃん先生はそう言って、私たちに先ほど撮った国広おじの足のレントゲン写真を見せてくれた。
「この白い所、線が入っとるでしょう。これ、折れてるのね。歩いてここまで来れてるから重傷じゃないけど、普通に過ごせるようになるまで一カ月くらいはかかるかな」
一カ月、と口の中だけで言う。国広おじが足が痛いと言い出した時は、もっと酷いことを想像していた私は少しホッとした。
「ギプスつけちゃうから不便だとは思うけどね、まぁあんまり支障はないですよ。なるべく右足使わんように、安静にしとったら良い。仕事は何しとるかね」
「文筆業を、」
「ならあんまり外にも出歩かんかね」
「まぁ、」
「そしたら入院はせんほうが良いかな?」
「は、「いいえ、させてください! どれくらいしますか!?」
国広おじが何か答える前に、連絡をして飛んできた堀川のおばさんが食い気味に言う。自分の信用の無さに国広おじは何とも言えない表情をしていた。
「そうだね、一カ月ずっといて、スケジュール組んで、リハビリするのも手だと思いますよ」
その先生の鶴の一声で、結局国広おじは入院することになった。私はおばさんに平謝りをしたけど、おばさんはそれにカラカラ笑った。
「いやぁね、この子も昔は運動神経抜群だったのに! やっぱり歳ねぇ。引きこもってばっかじゃなくて、ちょっとは運動したほうが良いわよ!」
国広おじは肩をバシバシ叩かれながらも終始無言だった。反論すると五倍になって返ってくるのを知って口を噤んでいた、というのが正しいかもだけど。
運よく宛がわれた個室の病室に国広おじを放り込むと、おばさんは
「じゃぁ着替えとか持ってくるから!」
と言って風の如く去っていった。残された私は、入院患者の世話なんてしたことが無いので途方に暮れてしまう。そうでなくとも、国広おじの口から「好き」という爆弾発言を聞いて、しかもその後庇わせて全治一カ月の怪我までさせてしまって、頭はパニックなのだ。病院に着くまでに何度も「ごめんなさい」と泣きながら言ったけど「もう謝るな」と言われてしまってからは、何を話したらいいか分からない。
まさか「あの好きって、どういう意味? 好ましいってこと? 恋愛でってこと?」なんて、入院しようって相手に能天気に聞けるわけもないし……。国広おじは各所への連絡のためにしばらく携帯をいじっていたけど、それも終わったのか今は退屈そうにベッドの上で仏頂面だ。
仕方なく、気まずい雰囲気を打ち消そうと目に映る端から全部話題にしていくことにする。
「えっと……あ、ほら、大きい窓もあるし。光が入って気持ちいい。あ、見て! 下に桜の木がある! 引きこもりの国広おじが葉桜になる前に見れるなんて滅多にないよ!」
私はベッドに寝る国広おじに手招きした。けど足が折れてる国広おじはこちらを一瞥すると、フンと鼻を鳴らし
「家のほうが良い」
と宣った。悪かったよ、動けない人に窓の外の話なんかしてさ……。
「あ、じゃぁ車いす借りる? 後で庭でも散歩しようよ。ね?」
「興味ない」
「……そんなだから季節も分かんなくなっちゃうんだからね」
頑固な国広おじに何を言っても無駄なことは知りつつ言わずにはいられなくて、せめて風だけでも入れようと窓を開けながらチクリと刺した。そしたら、あ、と思う間もなく私の苦言を吹き飛ばすような強風が吹きこんで、舞い上がる桜の花弁が入ってきてしまった。
「わ、風つよ……」
顔を背けた先には、桜の花弁を妖精みたいに纏わせる国広おじ。それはまるで神様みたいで、妙な既視感に何度も瞬きをした。
あれ、
「昔、も、こんなこと、あった……?」
私の問いかけに、国広おじはキョトンとした顔で見返して来る。
「ごめん、気のせいかな。あはは、……えっと、飲み物買ってくる!」
逃げるように窓を閉めて病室を出ようとする私を、国広おじは私の名前を口にして呼び止めた。渋々振り返ると、国広おじは柔らかく微笑んで言った。
「俺があんたを愛すなら、季節はいつも春だろう」
国広さんちのお嫁さん(仮)(には、恋人の自覚が無い)
(国広って、どの角度から見ても綺麗ねぇ)
(……いきなり来て人の膝を枕にして、言うことがそれか。良い気なものだな、あんたは)
(うふふ。そんなこと言って、本当は嬉しいくせに。ほら、誉桜がこんなに沢山散って……いたたた、ほっぺ、ほっぺ抓らないで)
(ふん)
(もう、短気ねぇ。……でも、こうしてみると本当に綺麗)
(何度も言うな)
(だって見て、桜がはらはら散っていて、まるで妖精みたい)
(刀の付喪神だ)
(うふふふ。……まるで常春ね)
(なに?)
(春は好きよ。国広の次に)
(……ふん)
(ねぇ、おばあちゃんになっても、ずっとずーっと愛していてね)
(いきなりなんだ)
(ね、約束して。そしたら私の心もいつも春みたいにポカポカだから)
(……分かった。あんたの命令だからな)
(ふふ。ありがとう、国広。大好きよ)
(ずっと、ずーっと、恋人よ)