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    沈丁花の愛人

     ──仄かに沈丁花の香が香る部屋の中、仰向けに寝転ぶ彼女の固く握り締められた拳を、その上に馬乗りになった和泉守が手で覆う。すると、中の指が少し緩んだ。撫でるように滑らせて、指の隙間をみっちり埋めてやる。祈りの形に組み合わされた互いの手に、彼女がそっと息をついた。
     緊張からか彼女の指はひんやりと冷たかった。和泉守は、自分の抱える高揚とはまた随分遠いところに身を置くものだ、と少し鼻白んだ。
     組んだ指を引く。絡んだ彼女の指も引きずられて延びた隙に、薬指に嵌った輪に指をかける。縋るような抵抗の仕草を無視して引き続けると、徐々に輪は緩んで上がり、第二関節を抜けたあたりからは、あっけないくらいに引き抜けた。
     和泉守は手の中の銀の輪を見る。なんの飾り気もない、簡素な輪だ。こんなもので縛りつけられるものなのか、と彼女の顔を見れば、少し怯えていた。……なるほど、証というのは本当らしい。
     手の中のそれを、ポンとぞんざいに後ろに放った。彼女の皿のように見開かれた目が銀の行方を追う。コン、小さく畳に墜落した音が響き、軽い愛だと心中笑う。彼女にはこの音はどう聞こえているのだろう。
     絶望の始まりか、退廃の入り口か。はたまた真実の愛へのファンファーレか。
     和泉守は彼女の顎を柔く掴んで

    「おい、よそ見すんじゃねぇよ」
    「だって、」
    「うるせぇってんだ」

     と口を塞ぐ。動揺する合間に、縮こまって胸の前に置かれた手首を取って、無理くり顔の横に開いてやった。彼女の肩は微かに抵抗の素振りを見せたが、知ったことではなかった。
     上面だけ優しくしたところで結局蹂躙するのに変わりはないのだから、最初からそんな風に振る舞うべきではない。
     心の中身に名前をつけたが最後、それに嘘はつけないのだ。
     それが例え仮初めの肉体に宿るものだとしても。

      ◆

    「私、婚約者とお互いに、浮気を公認にしているの」

     審神者の口からポロリとこぼされたこの一言を、和泉守が聞くずっとずっと前のこと。
     彼が初めて審神者に出会ったのは、彼女の本丸が稼働してから四日後のことであった。

    「はじめまして、和泉守兼定。私がこの本丸の審神者……貴方の主にあたる者です。至らないところもあると思うけど、どうか一緒に戦ってね」
    「……おう」

     差し出された手。袖からすぅと伸びた腕の内側の白さ。光る銀色がはまったもう一方の手の指の、なんと細くて頼りないことか。握り返すとふにゃふにゃとした柔らかさがあって、和泉守の心は俄かにざわついた。自らが与えられた身体とは、全く用向きが違う生き物を目の当たりにして起きたざわつきである。
     決定的な違和感と言っても良いそのざわつきを、和泉守は瞬時に主人を侮る心の現れだと判断した。ぐっと歯を食い縛って己を戒め、意識的に口角を上げる。
     まだ彼女のことを何も知らないのに、女だからと軽く見るなど。ましてや自分の主となる人物をそんな風に思うなどということは、和泉守の矜持に反した。だから、胸の内でぐしゃぐしゃに丸めて捨てた。
     彼女とその隣に立つ彼女の初期刀・加州清光に対し、一番頼りになる刀となるべく笑顔を見せる。

    「よろしく頼むぜ、主殿」
    「うん。こちらこそ、よろしく」
    「またよろしくね、和泉守」
    「おう」

     なんとか和やかな滑り出しを保て、和泉守は内心胸を撫で下ろした。
     しかし最初に抱いて、即座に捨てたはずのこの「自分とは違う生き物」に対する違和感は間違いではなく、この後、和泉守はあらゆるシーンで審神者に翻弄されることとなる。それもそのはず、彼女は審神者として物を励起させる能力はあれど、それ以外は特筆するところのない、美しくも、聡明でもない、どちらかというと少しぼんやりな女人だったのだ。和泉守の目には、彼女はふとするとすぐにどこかに飛んで行ってしまうような、ふわふわとした綿毛のような人物に映ることが多かった。
     特に演練場で、彼女の初めて指揮する様子を聞いた時は開いた口が塞がらないほどだった。

    『相手が鶴翼陣の時は……待って、今思い出す。えーっと……あ! 魚鱗陣だ!』

     インカム越しにポン、と手を打つ音が聞こえ、思わず目を剥いた。

    「おま、覚えてねぇのかよ!!」
    『ごめん、ちょっとド忘れ……』
    「敵は待っちゃくれねぇんだぞ! そんなんで主が務まるか!」
    『あ、和泉守、右、危ない』
    「っと、だぁぁ! おちおち説教もしてられねぇ! いいか、本丸帰ったら試験すっからな!」
    『えぇ、これでも審神者試験では成績優秀なほうだったんだよ?』
    「実践で使えねぇで何が優秀だこの野郎!!」

     まるで地に足が着いていないその様子に、最初の頃はそれこそ何度雷を落としたか知れない。ビリビリと本丸中を震わせるような怒声が執務室から響く度、初鍛刀の小夜左文字が間に入るために飛んできた。初期刀である加州はと言えば、三番目に和泉守が来たのを良いことに怒る役割をすっかり彼に任せて、彼女を甘やかしてばかり。さながら娘に甘い父と怒る母とで、はっきりポジションが分けられてしまったのに気付いたのは、顕現して二週間がたった頃。和泉守はしてやられた、と心中口惜しく思ったりもした。
     唯一の救いは、彼女が怒られても怒られても、拗ねたり、和泉守を遠ざけるようなタイプじゃなかったことだ。
     どんなに和泉守が「本当に分かってんのか!」と怒っても、その場はしょんぼりするが、翌日にはケロリとしている。どころか、「私、頑張るからね!」と握り拳付きで宣言してきたりするのだ。
     それを見ると和泉守の中にある、諦めにも似た気持ちがみるみる萎んでいってしまう。逆に彼女の健気さを見るにつけ、審神者としてなんとか大成させてやりたいと思う次第。それがまた次のスパルタ指導につながって、小夜左文字に「もう反省していますから……」と制止される事態になるのだった。
     そうやってぼんやりのわりに妙に打たれ強い審神者と、どうにかしてやりたい和泉守の間で奇妙な指導の循環が出来上がる頃には、本丸にいる刀は二十振りばかりに増えていた。



     そんな折、主不在の広間で昼餉を食べていた時に、

    「我が物顔で嫌んなるよね」

     と、加州が何かの弾みで言った。誰も、なんの話か、とは問わなかった。言わずとも、なんのことか分かっていたからである。
     主の指にいつも居座るあの銀色を、本丸中が気にしていた。和泉守も例に漏れず。
     多分、人が聞くと妙な言い回しに聞こえるセリフだと思う。しかしそこには和泉守を含め、刀だけしかいなかったので、皆曖昧に頷くばかりだった。主が常に身に付けているというのは、付喪神からすると栄誉以外の何物でもないのだ。皆、多少なりともあの銀色を羨む気持ちがあった。
     その話はその時、適当に流されて終わった。確かに羨んではいたけれど、それを口に出すのはなんだか躊躇われた。主が自分で選んで身に付けているのだから、と、皆の『物』としてのプライドがそうさせたのかもしれない。
     だから和泉守がその指輪を彼女が肌身離さず身に付ける意味を知ったのは、自ら調べた結果ではなく、加州からの入れ知恵だった。
     二人で手合わせをしていた休憩中、汗を拭う和泉守の横に座って、加州は経緯を語り出した。顕現以降ずっと気にかかっていたあれの正体を、ついに先日、主に尋ねたという。「その指輪を気に入っているのか」、と。

    「主、結婚の約束をした人がいるんだって。あれは、その印なんだって」

     諦念を滲ませ加州は言った。

    「そういう由来のあるもんなら、まぁ、しょうがないのかなーって感じ。二人の愛の証だって言うんなら、無理に外させるわけにもいかないしさ」

     その口振りからは、自分が一番にはなれないことへの悔しさと、それに隠れた少しの安堵が垣間見えた。一番ではないことの言い訳ができた、とでも言うような。これでもう妬まなくて済む、と言うような。

    「和泉守も、あんま気にしないほうがいいよ」
    「……おう」
    「何、その気の無い返事。せっかく教えてやったのに」

     和泉守の返事に機嫌を損ねてしまった加州はふいと立って所定の位置に立ち、

    「ほら、グズグズしないでもう一本!」

     と刀を構える。和泉守は話を聞く前より幾ばくか重たくなってしまった身体を、のっそりと持ち上げた。
     最初は、へぇ、と思っただけだった。あのぼんやり主に男が、と。しかしその後、妙な気分になった。
     彼女と見知らぬ男の存在が和泉守の頭の中で上手く結ばれず、なんだか無性にモヤモヤとするのを止められない。うまく消化できなかった。
     しかし彼女が呼んでいると小夜に言われたら、手合わせ中だろうと、どのような胸中だろうと、和泉守は彼女の元に赴かねばならない。彼女は懇意の男がいる女人である前に、和泉守の主だ。戦の相談をしたいと言われれば、一も二もなく飛んで行く。
     執務室の障子を開ける時、なぜだか少し緊張した。「入るぞ」と声をかけて、許可が出る前に開けてしまうと、いくらか硬さが取れた。

    「あれ、和泉守、早いね」

     彼女は和泉守の無礼な振る舞いを気にもかけない様子で顔を上げた。和泉守は大股で進み、彼女が座る机の前に胡坐をかく。

    「あんたが呼んだんだろう」
    「手合わせ中だったでしょう、ありがとね。急がせるつもりはなかったんだけど」
    「いい。ちょうどダレてきたとこだ」

     顎で促すと、早速とばかりに紙を示される。近々行われるという連隊戦の案内だった。

    「今度、連隊戦があるでしょう。うちの本丸はそこまで育っていないけど、報酬が結構良いから、参加しようと思ってるの」
    「ほぉ」
    「刀装破壊も刀剣破壊も無いって言うし、うちみたいな貧乏本丸にはもってこいでしょ。それで、一応だけど部隊編成を考えてみたんだ。意見を聞きたくて」

     空中スクリーンに彼女が編成した部隊の一覧が表示される。彼女はそれを示しながら

    「やっぱり遠戦は外せないかなぁと思って、遠戦刀装を持てる打刀までを中心に編成を組んでみたんだ。第二部隊の隊長に清光と、そのサポートに小夜に入ってもらって……あ、第一部隊は和泉守に率いてもらうことになるんだけど」
    「ふぅん。しかしこの編成だと育ちきってねぇ奴もいるから、討ち漏らしが出ると思うが、殿はどうすんだ」
    「あ、やっぱり? 最近遠征にばっかり力入れてたからなぁ」

     大物狙いの鍛刀を続けて、無くなった資材を稼ぎに遠征ばかりを回して、育成が追いつかない。貧乏本丸にありがちなことだった。それに遠戦を重視するとは言っても、ここにはそもそも特上刀装が不足している。並の刀装がどこまで保つかは、運に任せるしかない。

    「うーん、刀装増やすかなぁ。でも特上が作れるとは限らないし。それとも、この間来てくれたばっかりの山伏さんに入ってもらうかな。育ってきたし、一撃で沈めてくれるかも……あ、でも二部隊で回すなら太刀二振りは必要だから……」
    「石切丸はどうだ」
    「うん?」

     自分の世界に籠ってブツブツ言い出した彼女に提案すると、呆けた顔で見上げられる。

    「この前、やっと特が付いたって騒いでたろ。育ちきってねぇ奴らを第一部隊や第二部隊の面子と組ませるよりも、石切丸と組ませて第三部隊を運用したほうが効率良くねぇか。奴なら運が良けりゃ討ち漏らしを殿で一掃することもできる」
    「あー、なるほど……」
    「石切丸なら、相手の一撃で沈むこともそうはねぇだろうしな。この前の報酬の特上盾兵を付けて、様子見てみても良いんじゃねぇか。アレ、もったいなくて使えねぇって言ってたろ」
    「……そっか。壊れても戻るんだもんね。確かに、試すのに良いかも!」

     合点がいったと手を打つ彼女に、

    「第一部隊と第二部隊は必ず勝てる面子で行ったほうが良いだろ。第三部隊が落ちた時にケツ拭いて最後まで突破できなきゃ、報酬なんざ絵に描いた餅だ。あとは戦いながら適宜変えてったらいいんじゃねぇか。やらない内から決めてかかると、当てが外れた時に次が考えられねぇしな」

     とトドメの口出しをする。少し出過ぎただろうか。ふと不安になり、彼女を見る。彼女はニコニコ笑っていた。

    「ありがとうね、和泉守。やっぱり和泉守に聞いて良かった!」

     必要とされると嬉しくなる。和泉守は「当然だろぉ」といつものように言って、熱くなる頬を誤魔化した。彼女の許嫁だという男のことは、彼女と話している間は忘れてしまっていた。



     この指輪騒動を契機に、主に許嫁がいることは電光石火のごとく広まり、本丸の誰もが知るところとなった。そしてそれ以降やってくる刀にも、誰かがこっそり教えるようだった。主を煩わせないよう、という気遣いなのかもしれないし、単純に噂が好きなのは付喪神も同じだ、というだけなのかもしれない。
     その事実を知ってから彼女を改めて見ると、なるほど、合点のいくことは多くあった。審神者という職は家族以外への連絡手段は手紙のみしか許されておらず、彼女は度々近況を知らせる手紙を現世宛てに書いていたし、相手からもなんらかの返事は来るようだった。
     またいつからか、誰が仕入れた話か知らないが、主の男は家が決めた相手だという話も耳にした。和泉守が振るわれてきた時代とそう変わらない話である。愛の誓い方は変わるのに、そんなところばかりは大昔のままかと、不自由なしきたりに翻弄される主を哀れにも思った。
     しかし本丸にいるふわふわとした彼女からは、望まぬ結婚を強いられた不幸を嘆く様子は見受けられなかった。だから和泉守は、彼女が相手を気に入って、その縁談を受け入れたのだろうと思った。初めて出会った時に、稲妻に打たれでもしたのかもしれない。恋とはそういうものだと聞く。
     しかしそう納得はしても、消化し切ることはできなかった。心の中でわだかまり、彼女が手紙を書く場面や何かに遭遇すると、なぜだか面白くない気持ちがこみ上げる。解決しようにも明確な原因が分からないのでは手の打ちようが無い。本丸での暮らしが半年を過ぎても、チリチリと内側に燻る炎は胸の内に居座ったままだった。
     その頃になると、和泉守はすっかり本丸の固定近侍の地位に収まっていた。少し得意になったりもしたが、実際は審神者指導係を体良く押し付けられただけな気もする。刀が増えれば審神者のお守りも持ち回り制になると思っていたが、甘かった。
     新入り刀の指導は小夜、本丸の基本的な運営は加州が行い、和泉守は主を立派な審神者にするべく何くれと世話を焼いた。審神者として持つべき基礎知識を詰め込んだ後は、初めての戦場でも臨機応変に対応できるような実践的な指導に切り替える。彼女は打ってもあまり響かない生徒ではあったが、曲がらない打たれ強さだけは初対面の頃から健在だった。この強さがあれば、いつか身につく日もくるだろう。
     彼女が審神者として着々と育つ一方、和泉守は自分の心にあるモヤモヤの解明に匙を投げ始めていた。
     なぜ、主の男のことがこんなにも気にかかるのか。教えられていなかったことに憤りを感じるならぶつければいい。だけど、どうも違う気がする。何が違うかは分からないけれど。
     自分で考えても分からないことは、誰かの知恵を借りるしか無い。
     思い至ってふと辺りを見、小夜左文字に知恵を借りることにした。彼女とも自分とも長い付き合いの彼は和泉守にとって言わば戦友で、相談相手にピッタリだったのだ。
     加州には言えなかった。羞恥が躊躇わせたのかもしれないと、気持ちの名前を知った後になっては思ったが、この頃はただ、加州は彼女に近過ぎるから言う気にならないのだと思っていた。

    「……というわけなんだよ。あんた、どう思う」

     縁側に座っていた小夜は、和泉守のあえて軽口を混じらせた相談に、とても神妙な顔で俯いて熟考した後、小さく呟いた。

    「僕には、そういう気持ちは分からないですけど」
    「……だよなぁ」

     相談料のつもりで持ってきた団子を自ら口にし、宙を見上げる。小夜左文字はどちらかと言うと無骨な刀の部類に入ると思う。由来がそうさせるのかもしれないが、戦が一番落ち着くと言っているのを聞いたことがあった。あまりこういう話題はピンとこないのかもしれない。
     やはり加州に言うしかないのか、と眉根を寄せたところ、

    「でも、僕ら刀剣男士は、主を労わるべきものです。だから、主が気にかかるのは……別におかしくはないのでは」

     と小夜は言った。

    「二心があるなら僕はあなたを斬らないといけない。けど、そうじゃないんでしょう」
    「まぁ、謀反の類じゃねぇな。なんつーか、……その野郎が本当に主にふさわしいのか見定めてぇっつーか」
    「……親心、ですかね」
    「そんなもんかねぇ」

     小夜の言うことは和泉守の心にピッタリとは言わないまでも、今までのどんな言葉よりも寄り添ってくれるような気がした。自分は危機感が足らな過ぎる彼女のことを、闇雲に心配しているのかもしれない。過保護にしている、というか。

    「なら、いつか、その気持ちとの良い付き合い方が分かる日が来ると思います。僕らは人の身を得て、まだそう日がたっていないから、持て余しているだけなんだ」

     小夜は言って、チラリと和泉守を見た。これで答えになったか、うかがうような視線だった。和泉守は笑って、もう一つの団子を彼に差し出した。

    「手間取らせて悪かったな。言う通り、ちょいと時間を置いてみる。ありがとな」
    「……くれるんですか」
    「なんのために二つ持ってきたと思ったんだよ。ほら、茶も飲め。詰まるといけねぇからよ」

     渡した団子を食む小夜に少しぬるくなってしまった茶も勧め、しばらく二人で休息を取った。解決にこそ至らなかったが、二心と断じられることもなかったことに、和泉守はひっそりと安堵していた。
     それと同時に図らずも、この心は刀全てが持つものでは無いことも確信することとなった。小夜に無いなら、おそらく加州にも無いだろう。乱にも、五虎退にも。他の誰にも。
     この本丸で、思い悩む刀は和泉守だけだった。
     たかが刀が高尚なことだ。和泉守は己にも分からぬ自身の複雑怪奇さを嘲った。
     まるで人間気取りだ、と。



     小夜の進言通りに時間を置くことにした和泉守だったが、心の症状が良くなることはなかった。
     届く手紙は相変わらず気にかかったし、意味を知る以前よりももっと指輪のことは気になるようになった。それは小夜の言う「親心」だと思える日もあったが、決定的に違うような気のすることもあった。
     自分が何を求めているのか分からないなどと、思った日はこれまでになかった。初めて人の身体を持つ身だからだろうかとも考えたが、だとしたら人の身体というのはなんと不具合の多いことだろうか。
     人間はこんな複雑な感情を持って、いつも相手に接しているのだろうか。では、こんな複雑な感情を持っていないように見える他の刀たちは? 同じ頃に顕現された、同じような身体を持つ刀たち。彼らと自分の違いは、一体なんだと言うのだろう。
     なぜ、自分だけが。
     日々を悶々と過ごし、その鬱憤を戦や手合わせで晴らすような日々が続いた。
     それは次第にぐるぐるととぐろを巻いて、和泉守の心の内に始終住み着くようになった。まるで静謐であろうとする気持ちを、ヤスリでこそげ落とされるような変化であった。
     ザリザリとささくれ立って乱れる心。特に彼女を前にすると、握った拳が開かなくなる時さえあった。これは一番嫌な変化で、和泉守の心の誠に反するようなものであった。
     弱い心がそうさせるのだと、和泉守はますます鍛錬に明け暮れた。
     主の忠臣になることを諦めたくなかった。近侍の肩書に、彼女の指導役に相応しい己であることを。
     腕を研ぐことが、心をも研磨することになると信じていた。
     その日も、巻き藁に木刀を振って、精神の統一を図っていた。
     本丸には堀川が来て、この頃にはもう歌仙もいた。しかし、先にこの本丸にいた自分が後から来た彼らに弱い心を吐露するのは憚られた。しかもこんな、己の強い弱いの話ではないことを。
     堀川は和泉守の悩む心を見抜いていたようだが、「何かあったら言ってね」と言うだけで、特段追求してくることはなかった。聞いてもどうせ言わないことを分かっていたのかもしれない。
     上から袈裟に振り下ろし、刀を返して横に薙ぐ。反復して次、次、次。
     そうやっていると段々意識が研ぎ澄まされていく。刀そのままだった頃に戻るような、鋭利な意識が他者を斬ることにのみ向けられていく。
     と、ふいに誰かの気配を感じて木刀がブれ、あらぬところに当たる。巻き藁の振動が電流のように腕に広がり、かすかに痙攣した。
     はたと後ろを振り返ると、歌仙兼定が立っていた。彼は戦場にいる時とは打って変わった穏やかな微笑みを浮かべ

    「お茶にしないかい」

     と言った。
     一応の礼儀として汗を拭いて身だしなみを整えた後「いい菓子が手に入ってね」と心なしいそいそとする歌仙に連れられ、彼の部屋に入る。彼の部屋からはほのかに甘い金木犀の香りがした。彼が気に入って使っている香だ。
     部屋には小夜左文字がすでに招かれていて、会釈をされた。正客が別にいたようだ。
     茶と菓子を振る舞われ、相伴にあずかる。歌仙の点てる茶は美味い。しかし今日のメインは菓子らしく、歌仙はそれを手に取った客人二人を、何か期待するような目で見た。期待されたような感想が言えるかどうか。
     とりあえず砂糖のまぶった菓子を口に含む。
     もちりとした食感とほのかな甘み、その後固い何かに歯が当たる。噛み切ると、木の実の柔らかな渋みと香りが鼻に抜けた。これは……

    「……あ、くるみ、」

     小夜の小さな呟きに、歌仙は満足げに頷いた。

    「そうなんだよ! 美味しいだろう」
    「うん。オレにはちと甘ぇが、悪くない」
    「はい。甘くて、でも、複雑な味がします」
    「これは名前も風流でね。『もちずり』と言うから、つい手が伸びた」
    「『もちずり』?」

     和泉守が不可解に復唱すれば、おや、と歌仙の眉が上がる。

    「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに……聞いたことはないかい?」

     かぶりを振れば、仕方ないな、とばかりに笑われる。

    「陸奥には、しのぶもぢずりという摺り衣があってね。忍草の葉の汁を、石で織物に摺りつけて染めたものなんだけど、乱れた模様がとても美しいんだよ。それに使う石のことを、もちずり石と言うんだ。それにちなんで名付けられたのだろう、この菓子は」

     説明を受け、ははぁ、と頷いた。歌仙は色んなことを知っている。

    「歌がまた良くてね。このしのぶもぢずりの乱れ模様のように心が乱れ出したのは他の誰でもない、あなた故なのだ……という、忍ぶ恋を詠んでいる」

     こい、と和泉守は口の中で繰り返す。
     聞いたことはある。この世の中に永くあれば、多少なりとも耳にする機会はある。しかし歌仙ほどに理解をしているかと言えば、そうではないとも思う。

    「……心が乱れたら、全部恋なのか」

     稚児のように問えば、またも笑われた。

    「そういう訳ではないだろうけれどね。……実を言うと、僕も恋のなんたるかは、よくは分かっていないんだ」
    「そうなのか?」
    「ああ。和歌に潜む教養を雅と理解しても、その題材が身に迫ることはない。僕は恋をしたことがないんだ」

     彼は秘密を教えるように声を潜めてそう言って、茶に口をつける。その横顔は、付喪神然とした美しい佇まいであった。



     主が審神者になって九ヶ月、またも手紙が届いた。彼女宛の手紙の中でも良く見る、白い封筒のもの……彼女の許嫁からの文であった。
     ちぇ、と心の中は面白くない気持ちだったが、隠しておくわけにもいかない。なるべく素っ気なく彼女に渡す。

    「ほらよ、あんたに文だ。いつものやつ」
    「あぁ、ありがとう」

     彼女は簡単に礼を言うと、その場で封を開けずに一度横に置き、取り掛かっている最中の仕事の続きをし始めた。和泉守はその横で、じっと彼女を見る。彼女が端末に何かを入力する音ばかりが響き、その指先はまるで河の流れのように淀みがない。
     彼女は最近、仕事に精を出している。どうもこの後の一年を審神者としての正念場と捉え、覚えた仕事を身につけようとしているのだった。
     と、彼女の指が止まった。ふ、と少し息をついて微笑み、和泉守を見る。

    「そんな鼻息荒くして見てたって、なんにも出ないよ」
    「あぁん? オレがいつ鼻息荒くしてたっつーんだ」
    「だって。まるで構ってもらえるの待ってる大型犬みたいなんだもの」

     あはは、と彼女が声を上げて笑う。

    「これは指示を待ってるつーんだよ! ったく、人がせっかく控えてやってんのに……やめだやめだ、鍛錬に戻る!」
    「やだ、ごめんごめん。怒んないで、ちょっと待ってよ、すぐ休憩にするから。一緒にお茶しよう」

     短気なんだからなぁ、と彼女は再び端末に向き直り、そのまま五分ほど弄ると「さ、休憩」と伸びをする。

    「……燭台切に言って八ツ時用意してくる」
    「ん。お願い」

     和泉守は席を立ち、厨の菓子を取りに行ってまた戻る。両手が塞がるからと開け放したままだった襖の鴨居をくぐると、顔を伏せた彼女の旋毛が見えた。戻ってきたこちらには気づく様子もなく、熱心に手元の紙を見ている。
     仕事のことかとふいに覗けば、それは男からの手紙だった。慌てて目を背ける。
     畳が鳴り、和泉守が座る。それでも彼女は顔を上げない。無視かよ、と手紙の相手のことも相まって、少し乱暴に盆を机に置いてやった。

    「ほらよ、」
    「っ……!」

     彼女は盛大に肩を揺らし、怯えたように和泉守を見た。本当に気がついていなかったらしい。

    「わ、るい。大丈夫か?」
    「あ、うん。平気」

     彼女は手紙を隠すようにそそくさと折りたたんで引き出しにしまう。別に見る気などない、と少々鼻白むが、彼女の青い顔に何も言えなくなった。

    「なんかあったのか」
    「ん? 何が?」
    「いや……」
    「大丈夫だよ。さ、食べよ。あ、今日マンゴープリンだ! 私これ大好き。いっただっきまーす」

     一匙頬張り、んー、と満足げに頬に手を当てる。努めて明るく振舞っているようにも見えたが、何も聞けなかった。和泉守には甘過ぎた食べさしのマンゴープリンを差し出せば嬉しそうに完食したし、その後の仕事の様子も、特段変わったところは見られなかった。むしろいつもより張り切っていた。
     一瞬、泣いているように思えたのは気のせいだったのかもしれない。もしくは本当に泣いていたのかもしれないが……それはきっと男恋しさに流れる涙だったのだろう。
     恋というのは、そういうものだと聞く。
     それ以降、彼女は以前にも増して仕事にのめり込むようになった。脇目も振らず、時には寝食も忘れて。何かを振り切らんとする鬼気迫る様子に、和泉守は少し不安になった。何が彼女をそうさせるのか、その頃は正確には分からなかった。
     ある夜、和泉守が厠帰りにふと見ると、審神者の部屋の明かりが点いていた。まだ仕事をしているのだ。
     和泉守の私室は審神者の隣だ。最初は和泉守の部屋は別にあり、和泉守が今使っている部屋は、元は近侍部屋としてあったものだったが、すっかり固定近侍になってしまったのでそのままそこを使っている。以前まで和泉守の部屋だったところは、今はすっかり堀川の部屋だ。たまに物を取りに行ったりもするが、特段何も言われたことはないので大方の荷物もそのままである。
     いくら正念場と言えど、倒れてしまったら元も子もないだろうに。和泉守は明かりを見ながら溜め息をつく。この間までは、それでも夜寝ないなんてことは無かったのに。あの手紙が来て、様子が可笑しいように思えた以来、彼女はなんだか妙に切羽詰まった様子を見せる。
     ……それほどまでに男が恋しいのかもしれない。

    「おい」

     障子越しに声をかけると、中で人の動く気配がした。

    「はい」
    「はいじゃねぇ。あんたこんな時間まで一体何してんだ」
    「あー……っと、ちょっと明日までに終わらせたいのが」

     そこまで聞いて、問答無用で障子を開けた。ぎゃ、と審神者の悲鳴が上がるが、知ったことでは無い。ズカズカと入り、寝着のまま胡座をかいて横につく。審神者は寝着の上に半纏を羽織って、和泉守の凶行に目を白黒させている。

    「えっと……」
    「どれだ」
    「え」
    「寄越せ。手伝うから」

     慌てたのは審神者だ。

    「良いよ、そんな! 和泉守は寝てて」
    「主が寝てねぇのに、家臣が寝れるか。人働かせんのが嫌ならさっさと寝ろ」
    「う、でも」
    「ぐだぐだ言うな、夜が明けちまうだろ。どれだよ」

     あまりにも書類を渡すのを渋るので、ひょいと膝立ちになって上から改めることにした。机に片手を置き、彼女の肩越しに書類を見る。

    「あぁ? んだよ、これ。まだ締め切り先のやつじゃねぇか。あんた何考えてんだ」
    「いや、なんかこう、前倒しして、後の負担を減らしたいなって」
    「それにしたって早過ぎんだろ、」

     ぐちぐち苦言を呈していると、彼女が妙に縮こまっているのに気がついた。

    「なんだよ。具合でも悪ぃのか」

     彼女はふるふる小さく首を振り

    「や、そうじゃなくて。その……和泉守、良い匂いがするね」

     と観念したように言った。
     一瞬、時が止まる。
     和泉守の下ろした髪の間に挟まるようにして縮こまる彼女。確かに、ここまで近づいたことは今までなかった。認識すると、こちらも彼女の匂いを感じてしまう。髪から、首筋から、ぶわりと立ち昇る石鹸とみずみずしい肌の香り。
     ──これは、
     目眩がした。
     次の瞬間、彼女がわっと手で顔を覆った。ビックリして飛び退く。

    「ごめん、忘れて! 今のナシ! 今私すごい疲れてて眠いの!」
    「お、おぅ、だろうな……」
    「こんな、こんなセクハラまがいのことを言いたかったわけじゃなくて! あの、本当に信じてほしい、私はセクハラがしたかったんじゃないの。本当に、ただ、めちゃめちゃ良い匂いだなって思って、感嘆してしまって……これもセクハラだ、ごめん!!」
    「分かった! 分かったから、良いから寝ろ!!」

     お互い顔を真っ赤にして夜中に大声で言い合う。うぅ、と疲れた様子の唸り声を出し、審神者がよたよたと寝床に向かう。

    「あの、本当にごめんね。でも、すごく良い匂いだね」
    「あー……多分あれだろ、香。沈丁花の」
    「へぇ……」
    「そんなに気に入ったんなら今度分けてやるよ」
    「え、ホント? ……って、和泉守が止めてくれないからどんどんセクハラが加速するぅ……」
    「オレのせいかよ」

     和泉守が資料の書類をまとめて横にやっている間に、彼女は半纏を脱いで寝床に入った。顎まで布団をかけてしまうと、口の中でまだブツブツ訂正の言葉を吐いている。

    「疲れてんだろ。もう良いから寝ろよ」
    「うん……」
    「あんま根詰めんなよ。正念場だってのは分かるが、いくらなんでも打ち込み過ぎだ。いつもみたいにぼんやりやって、ちったぁ休め」
    「ん……」

     言葉をかけてやると、すぐにトロトロと瞼が落ちていく。ずっとこの本丸にいるから気が休まらないのかもしれない。

    「一回現世に帰って、羽でも伸ばしてきたらどうだ。美味いもん食って、湯治にでも行って……男に会って甘えてきても良い」

     口にすれば、鈍く心が痛んだ。心臓を潰されるような痛みだ。
     彼女は男の前でどんな顔をするのだろう。きっと和泉守が知らない顔だ。愛の言葉が尽きぬまま朝を迎えて、離れがたくなったりすることもあるのだろうか。
     和泉守がそんなことを考えてぼんやりしていると、彼女が寝返りを打った。こちらに顔が見えないような状態で、小さく呟く。

    「……帰れないよ」
    「あ? なんだって?」
    「なんでもない。おやすみ、和泉守」

     閉め出すようにそう言われ、仕方なく明かりを消して自室に戻った。寝床に入ると、ふと彼女の香りが思い起こされ、和泉守はぶんぶん首を振る。香りは身体に染み付いて、気に入りの香で上書きしても、取れそうもなかった。



     里帰りもせずに仕事に打ち込む主を見守って日々を過ごす内、とうとう彼女が審神者になって一年半が過ぎるまでになった。寝る間も惜しんで励んだ結果か、彼女はその頃にはすっかり主らしくなっていた。ぼんやりなところはそのままに、仕事に対してだけが洗練され、向けられた牙をやんわりと流れに沿っていなせるような嫋やかさが身についたように思う。
     良い主になった、と和泉守としても鼻が高い。本丸視察に来た政府担当も、良くやっている、と太鼓判を押してくれた。

    「だろぉ。なんてったってオレが近侍を務める主殿だからな」

     胸を張って言えば、担当は微笑む。

    「良いコンビになりましたね。三番目に和泉守殿を鍛刀できたと聞いた時は、審神者殿の良い感じにぽやっとした所と、そりが合わないんじゃないかと心配したりもしましたけど」
    「えへへ。お陰様で」
    「おい、今のあんまり褒められてなくねぇか」

     肘で審神者を小突くが、二人はヘラヘラ笑うばかり。ぽやっとしてるのはそっちもだろ、と思っていると、はたと思い出したように担当が言った。

    「あ、そうだ。今年度の里帰り日、どうしますか。去年は申請通った後にやっぱやめた、っておっしゃってましたけど」
    「あー……」

     口こそ挟まなかったが、ふと怪訝に思った。
     里帰りをする予定だったのか? それは和泉守が勧める前の話だろうか? それとも後に? どちらにせよ、なぜ、取りやめたのだろう?
     なぜ、言わなかったのだろう? そんな話は聞いていない。
     担当は続ける。

    「前年の里帰り日と合わせて貯まってますよ。権利ですから、是非とも」
    「そう、ですね。聞いてみます」
    「これも早いとこ使わないと、失効しちゃいますからね。お気をつけて」

     諸々の書類を置いて、担当は帰っていった。見送って部屋に戻る。その日は担当が来るからという理由から休養日で、出かけている刀も多かった。遠くから誰かの笑い声が聞こえるばかりの本丸は、妙に寂しく感じる。
     彼女は担当に渡された書類を整理して文机に積み上げ、

    「ふぅ。お疲れ様、和泉守。せっかくの休養日だったのにごめんね、付き合わせちゃって。今度埋め合わせで別に休養日取るからね」
    「別に構わねぇよ。あんたはこの後……その書類に記入でもすんのか」

     審神者がふと積み上げたばかりの書類に目を落とす。一番上には『里帰り日申請書』の文字。

    「うー……ん、と、どうかな。ちょっと、聞かないといけないから」
    「聞くって誰に」

     すぅと一瞬、審神者の目が泳いだのを不審に思い、和泉守はそこに座り込む。前からどうも様子が可笑しいと思うところがあったので、この機会に追及することにする。

    「言えよ。誰に何を聞くんだ」
    「……家族とか。ほら、急に行ったらご飯の用意とか困っちゃうでしょ。それに、みんなにも……私が不在の日の連絡とかしなくちゃならないし……」
    「なら今やれよ」
    「え……」
    「家族との連絡なら、文のやり取りなんかしなくても大丈夫なんだろ。ちゃちゃっと済ませて記入して、送っちまおうぜ。決まったら言えよ、本丸の連中になら、オレが触れでも出しておいてやるから」
    「い、今?」

     携帯端末を握りしめながら審神者が渋る。その胸に抱えるような姿勢が、彼女の拒否を示していた。しかし和泉守は気づかないフリで端末に手を伸ばす。

    「あんたが嫌なら、オレがしてやる」

     ぐわ、と問答無用で伸びて来た指を、彼女はとっさに避けて後ろに転ぶ。それでも和泉守が容赦なく取ろうとすると、とうとう悲鳴のような大声を上げた。
     初めて聞くような、大きな声だった。
     ぼんやりの彼女に似つかわしくない、はねつけるような拒否。
     一瞬、シン、と本丸中の音が止んだ。床で端末を守るように丸まる審神者を覆い被さるように見下ろし、和泉守はポツリと言った。

    「なんで帰らなかった」

     彼女の肩が、和泉守の下で震える。

    「なんで去年、帰んなかった。出してたんだろう? 申請」

     彼女の顔にかかった髪をそっと指で払う。彼女の目は真っ赤だった。

    「──ちょっと。なぁにしてんの」

     沈黙する二人の間に、声を差し込んだのは加州だった。審神者の声を聞きつけ執務室まで飛んで来たようだ。

    「……別に。大したことじゃねぇよ」

     審神者が隠していたことから考え、多くに知られたいことではないだろうと思い、突き放すようにそう言った。しかしそれがどうも加州にはカチンと来たようで、あからさまに低い声で返される。

    「あのさぁ。そんな状態で言われても説得力ないんだよね。これじゃお前が主を押し倒して拒否されてる図にしか見えないわけ。分かる?」
    「なっ……!」

     あまりの言い草にこちらもカチンと来て言い返そうとする。が、その一触即発の空気は突然ガバリと起き上がり、

    「違うの!!」

     と叫んだ彼女の勢いに消滅する。

    「……違うんだ、本当に。大丈夫だから、加州。……ちょっと、二人にして」

     ボサボサの髪で言葉少なに言った審神者の姿に、ようやく加州は引く気になったようだった。盛大な溜め息をひとつ落とし、

    「なんかあったら叫んでね、飛んでくるから。和泉守も、ほどほどにしとけよ」

     とだけ残すと、その場を去った。
     残された二人はしばらくそのまま座り呆けていたが、審神者がのろのろ和泉守のほうに向き直ったので、和泉守も姿勢を正した。
     そして彼女は言ったのだ。俯き気味に開口一番、

    「私、婚約者とお互いに、浮気を公認にしているの」

     と。

    「……は?」

     思わず出たのはたったそれだけ。しかし他に言えることもなかった。訳が分からない。
     和泉守がフリーズしている間、審神者はひどくゆっくりと話し始めた。

    「お互い、家の決めた結婚だからね。好きでもない相手と一緒になるんだから、少しくらいの自由は許されてしかるべきだろうって話になって。それで、今あっち、……他の人と同居してるんだって」
    「私、それを知らなくて、申請を出した後に彼の予定を聞いちゃったんだよね、去年。だから、里帰りするのは良いけど、会えるかどうかは分からないって手紙で言われて」
    「家に帰ったら、会いに行かないのかとか、色々聞かれちゃうでしょ。わざわざ会える日擦り合わせて帰るのも、申請出し直すのも面倒だったし、それで、やめたんだ。里帰り」

     あの手紙だ、と和泉守は直感的に思った。だけど黙っていた。何を言えば良いのか分からなかった。というか、話が少しも理解できなかった。
     婚約者がいて? でも恋愛的な自由は欲しくて? もうすでに同居している相手がいて? だから帰ってくるな? それがあの、彼女の様子が可笑しくなったきっかけの手紙に書かれていた?
     なぜ。
     なぜ、そんなことに。
     思考の渦に放り投げられ黙りこくってしまった和泉守に彼女は、

    「ごめん、こんな話、聞かされても困るよね」

     と誤魔化すように笑った。パチン、頭の中で何かが弾けて、次の瞬間、思わず立ち上がっていた。

    「困るとかっ、そんなんじゃねぇよ! そうじゃ、そうじゃなくて……!!」

     しかしそれ以上の言葉は出てこず、虚しく息ばかりが出て行き、呑気に和泉守の心配などする審神者の瞳をただただ見つめた。和泉守の頭の中はもうしっちゃかめっちゃかだ。
     なぜ。なぜ、彼女はそんな地位に甘んじているのだ。
     考えるのはそればかりだ。
     なぜ。
     なぜオレの主が。
     努力を重ね、懸命に生きる審神者が。
     この世の誰よりも幸福になるべきはずの女が。

    「あんたは……それで良いのかよ」

     選びに選んで絞り出した問いかけに、彼女は顔を上げ、和泉守を見た。
     そして、何も言わず、諦めたように笑った。
     立っている地盤が緩み、崩れ落ちていくような心持ちがした。マグマのように熱い泥濘に足を取られ、ずぶずぶと一気に底に引きずりこまれるような。
     和泉守は思う。
     これは怒りだ。
     あまりの悲憤に、胸の内で修羅が燃えている。
     和泉守は本丸にいる数多の刀と同じように、またはそれ以上に深い気持ちで、主の幸福を願っていた。
     この娘は幸せにならなければいけない。何に煩わされることもなく、一瞬の孤独を感じることもなく。彼女を煩わすものがあれば、それを斬るのは近侍である自分の役目だとすら思っていた。それは決して彼女が斬れと望むからではなく、和泉守が斬りたいから斬るものだ。
     和泉守は主に何も背負わせたくなかった。
     それだけを願っていた。
     だから彼女が不当に扱われていたことを知って、和泉守は腸が煮え繰り返る思いであった。
     それは彼女に望まぬことを強制している世間への怒りであり、その我慢を今までも、これからも飲み込もうとしている彼女への怒りであり、主の真の心を読み取らなかった過去の己への怒りであった。
     彼女が隠していたのだから仕方ない、とは和泉守には思えなかった。これほど近くにいながら。相手の男がいるのを面白くなく見つめていたくせに。自分のことばかりに気を取られて。
     彼女が幸福でないことを、知ろうともしなかった。
     和泉守は拳を握る。がっちりと握り込んで、もうちょっとやそっとでは開けない。
     刀にあるまじき修羅の燃え具合だった。



     その夜は、月のない夜だった。
     夕餉を食べて、加州にきつく当たられながら、和泉守は決意と共に夜を待った。
     正直なところ、これから自分がしようとしていることが、真実彼女のためになるのかどうか、和泉守には分からなかった。誰にも相談できないし、する気もなかった。
     だってこの本丸の刀たちは、和泉守が思うような気持ちを、誰も主に対して持っていない。加州も、小夜も、堀川も、歌仙も、誰だって。
     これは自分の気持ちを優先することなのではないのか。
     純粋な、彼女を救いたいという気持ちではないのではないか。
     これが刀として当然の反応か、そうでないのか、和泉守にはもはや判別がつかなくなっていた。
     和泉守は審神者の執務室兼私室の方向である襖の裏側に彼女の存在を感じながら、いつかの小夜の言葉を思い出していた。

    『二心があるなら僕はあなたを斬らないといけない』

     ──主を攫うのは、きっとあの実直な短刀から見ても、二心に入るだろうな。
     しかし、どれほど際限なく疑問が湧こうとも、もう腹は据わった。
     二心と断じられ、刀解される覚悟も、仲間に斬られる覚悟もできている。
     自室で息を潜めて時を待ち、すっかり夜が更けた頃、「なぁ」とまだ明かりの点いていた襖の向こうに声をかけた。

    「……なぁに」

     審神者がゆっくり返事をする。

    「開けても良いか」
    「……お説教ならやだなぁ」

     冗談めかした声は拒絶に聞こえる。少しだけ怯んだ。
     もうこれ以上の問答はしたくないのかもしれないと思った。彼女にとっては終わったことで、どうにもならないことで、だから、誰にも何も言われたくないのかもしれない。
     だが、と反射のような打ち消しを思って顔をあげた時、言葉と反して襖がするする開いた。
     彼女は立って襖を開け、その前に座して許可を待っていた和泉守を見下ろす。いつもの寝着に、いつもの半纏。口元には昼に見た、諦めにも似た笑みが浮かんでいた。
     ……本当は少しだけ、話し合うつもりだった。本当にその男で良いのか、よく考えるべきだと、筋違いにも諭すつもりだった。彼女が和泉守の前でやはり嫌だと言えば、その場で文でもなんでも書かせてその男とは決別すれば良いと。攫うのは、最後の手段であると。腑抜けた及び腰の考えだとは思いながらも、そう決めてきたはずだった。
     しかしそうやって笑う彼女を見た瞬間、和泉守の胸の内に嵐のような激しい感情が渦巻いた。
     和泉守は立ち上がる。そうすると、彼女の体はすっぽりと和泉守の影に隠れるようになった。彼女は襖に手をかけたまま彼を見上げる。
     彼女の指にはこんな時にも光る銀色が嵌っている。まるで枷のように。
     ──くそったれだ。
     和泉守は言う。

    「あんたをくれ」
    「……え?」

     彼女は呆けたような声を出した。襖に置かれた手に手を重ねると、肩を揺らす。それでもまだ信じられないようで、重なった手と和泉守の顔とを何度も交互に見た。

    「えっと、……冗談?」
    「違ぇ」
    「じゃぁ、」
    「オレは本気だ」

     その冷たく燃えるような青い眼差しに、ようやく和泉守が本気だと気が付いた彼女は、慌てて彼の手を振り払おうとした。しかし和泉守はガッチリと彼女の手を握り、決して放しはしなかった。

    「冗談やめて、手を放して」
    「嫌だ」
    「私はあなたの主なのよ!? 刀に手を出すなんて、できるわけないでしょう!」
    「手を出すのはオレで、あんたじゃねぇよ。オレが忠臣じゃなかった。ただそれだけだ」
    「何言って……和泉守が忠臣じゃなかった時なんて、ないじゃない、」
    「あんたが知らねぇだけだ。オレはずっと、そういう刀じゃなかった」

     少なくとも、他の刀とは相容れない部分があった。忠臣でありたいと願った心に嘘はないが、叶えられなかった。刀が持ち得る以上のものを、彼は持っていた。
     彼女は何度も首を振る。

    「そんなことない! こんなことで、あなたの刀としての矜持が傷ついて良いわけない! どうしていきなり和泉守がそんなこと言うのか、いくらぼんやりぼんやり言われてる私だって分かるよ! 私があんなこと、バカ正直に話したからでしょう。……ごめんなさい、やっぱり言うべきじゃなかった。主が刀に言うことじゃなかった、あんなバカみたいなプライベート、あなたを巻き込むつもりじゃ」

     俯いて涙声を出す彼女の丸い頭を、和泉守はジッと見る。

    「話さなかったら、どうだって言うんだ」
    「なに、」
    「話さなかったら、こういう未来が来なかったとでも言いてぇのか」

     怪訝な顔をする彼女。和泉守は言う。

    「同情や憐れみでこんなことしてるって? 洒落臭ぇ。そりゃぁ、ただの切っ掛けの話だろ。いくらあんたに同情しようが、他の刀にゃこんなことは出来ねぇよ。精々、相手の男を斬るくれぇだ。オレがあんたにこんなことを言ってんのは、」

     そこで一度言葉を切って、手を塞がれて身動きの取れない彼女に、ぐいと顔を近づけた。

    「オレはあんたに懸想してんだ。……笑えるだろ」

     口にすれば、意図せず口の端に自嘲が浮かんだ。本当に、笑える。
     薄く水の膜が張った彼女の瞳が大きく見開かれる。そうして何度も瞬いて、とうとう

    「うそ、」

     と小さく呟いた。

    「うそだよ、そんな、うそ」
    「嘘なもんかよ」
    「だって、和泉守は、私の……、」

     言葉に詰まったのは、何を言いたかったからか。私の忠臣? 私の近侍? 私の刀?
     和泉守は言う。

    「人なら良いのか」

     彼女の瞳の暗い部分に、自分の顔がゆらゆら揺れていた。

    「人なら、あんたに恋しても良いのか」
    「ぁ、」
    「人なら、あんたを縛り付けて、傷付けても良いのか」

     和泉守が言葉を切ると、彼女の息を呑む音だけが聞こえた。鼻がぶつかるほど近く、彼女の瞳を覗き込む。逸らすのは許さない。

    「人だから浮気心が許されて、クズみてぇな男でも許してやるってのか、あんたは。刀だろうが人だろうが、あんたを不当に扱う輩をあんたが許す道理があるか? それが許嫁だっつーんなら尚更、あんたをこの世の何より大事にするべきじゃねぇのかよ」

     彼女の瞳にはみるみるうちに涙が溜まる。普段雷を落とす時なら止めてやるところだが、この時ばかりは容赦しなかった。
     彼女が今選んでいる男を、和泉守が看過できる時は一生来ないのだから、捨てるまで揺さぶるつもりだった。

    「認めろよ。あんたがいくら操を立てても、その男はあんたに振り向かねぇ。家が決めたかなんだか知らねぇが、上手い条件だけしゃぶられて飼い殺されてる。それがあんただ」
    「ふ、ぅ……」

     堪えていた頬に涙が流れ、俯こうとする顔を手で止める。
     彼女の幸福な道行きに横槍を入れるつもりは毛頭なかった。
     では、幸福ではなかったら? ──そんなことは決まっている。
     彼女の手を引いて、己の炎で燃え尽きない内に、修羅の道を走って抜けるしかない。
     涙で溶けてしまいそうな目と、しっかりと目を合わせて言った。

    「そいつがいらねぇなら、オレがもらう。だからくれよ。オレを選んで……あんたの心をくれ」

     ──二心と断じられたら、それまでだ。大人しく斬られよう。大丈夫、きっと次に来るオレはあんたを傷付けない。あんたが遠ざけてくれさえすりゃぁ、こんな気持ちはなかったものだ。だから、次は上手くやってくれよ。
     祈るようにゆっくり唇を寄せた。

     彼女は、抵抗しなかった。




    沈丁花の愛人(永遠を裏切る)










     加州が和泉守を殴った。みんなのいる大広間で、力一杯、全体重を乗せて。
     私は突然のことに呆然とし、その一方的な暴力を見ていることしかできなかった。

    「この、腐れ外道!!」

     大広間中に加州の絶叫が響き、彼は間髪入れずに帯刀していた自分自身の柄に手を掛ける。それを見て、ようやく身体が前に動いた。
     自分ですら聞き取れないなにがしかを叫びながら、私は加州と和泉守の間に転がり出る。和泉守をかばうように手を広げると、加州はガーネットの瞳を爛々と光らせ、

    「どいてよ主」
    「……っ」
    「そのクソ野郎斬るから、どいて」

     と先ほどの絶叫とは打って変わって静かに口にする。本気で怒っているのだ、と気付いて、だけどどうしても退くわけにはいかなかった。

    「い、やだ」
    「いいから」
    「良くない」
    「……「主を手篭めにした」なんて報告聞いて、俺が刀の一つも抜かずに終わると思ったの」

     加州の淡々とした声に、「それは……」と口ごもる。怒りは買うだろうと思ったけれど、こんなことになるとは思っていなかった。
     ──和泉守と寝た直後、まだ夜も明け切らぬ頃のこと。私たちの間に起きたことを、本丸の皆に話そうと言ったのは和泉守のほうだった。私はその提案を聞いた時、少し、嫌だな、と思った。
     プライベートに近いことを発表するのは恥ずかしい気がしたし、刀に手を出したなんて、と、みんなに軽蔑されそうで怖かったからだ。
     だけど和泉守が真摯な目でどうしてもと嘆願するので、きっと和泉守なら良いようにしてくれるだろうと自分を無理やり納得させ、頷いた。まさか大広間に「報告がある」とみんなを集めて、「主を手篭めにした」なんて言って頭を下げるとは思ってなかった。そして、加州がここまで激昂するとも。
     私はみんなが和泉守にこんなに怒るなんてこと、ちっとも想像していなかった。怒られるのは私で、和泉守じゃないと思っていた。だから頷いたのに。

    「清光、聞いて。私が、全部悪いの。私が、」
    「主」

     勢いで事件の発端である婚約者とのイザコザを口にしようとすれば、和泉守が呼びかける。ふと振り返ると、彼は小さく首を振った。
     言わなくて、どうするの。私の婚約者のこと、同情したんだって言ったらそれで終わりになるのに。和泉守、このままじゃ本当に斬られちゃうよ?

    「……例え主が悪かろうと、それを止めるのが家臣の領分でしょ。俺はそういう意味合いで、お前のことを近侍として信頼してたんだけど」

     アイコンタクトを取っている私たちの間に、加州がそう差し込んだ。私の頭を通り越した言葉に、和泉守は小さく頷く。

    「あぁ。そうだろうな」

     なんで和泉守が全部罪を被ろうとするのか、私には分からなかった。
     こんなことは望んでいない。

    「オレが悪かった。すまん」

     和泉守が勢ぞろいした刀たちに頭を下げる。言い訳もせずに。
    どうしてこんなことに。

    「ちがう、ちがうの……」

     私がぶんぶん首を振ってボロボロ泣きだすと、広間の雰囲気は裁きの場というより腫れ物を触るようなものに変化していった。
     加州は「これじゃ埒が明かない」と嘆息し、抜きかけた刀を納めると

    「とりあえず……和泉守兼定。この本丸の初期刀として、お前には一旦離れでの謹慎を命じる。この件に関しての処分はこれから決めるから、処分が決まるまで離れから一歩も出てくるな」
    「清光、」
    「主は黙ってて。これは、俺や他の刀の信頼を裏切ったコイツと、俺らの話だから」

     ピシャリと撥ね付けられ、ただただ涙をこぼす。

    「分かった」

     和泉守は加州の言を受け入れ、すいと音もなく立ち上がる。そして追い縋ろうとする私の指を見つめ、私にしか聞こえないような声で

    「あんたは何も言うな」

     と言った。

    「でも、」
    「良いから。言うな」

     じゃぁどうするの。私の近侍を、ここまで根気強く指導してきてくれた刀を、永遠に失うのを、黙って見てろって言うの。
     和泉守が何を考えているのか分からなかった。
     あんなに近くにいたのに、私は何一つ分かっていない。
     和泉守はそのまま広間を去り、離れに向かった。長い黒髪を揺らし、いつもの通りに颯爽と。彼は一度も振り返らなかった。



     それから本丸では、彼不在の生活が始まった。
     と言っても、本丸を運営するにあたって特に劇的な変化があるわけではなかった。最初は少数精鋭だったこの本丸には、今や大勢の頼もしい刀たちがいて、和泉守はその大勢の中の一振りに過ぎなかったからだ。……私にとっては、彼を失うのは大打撃だったけれど。
     特別に変わったことと言えば、近侍が日替わり制になったことくらいだろう。しかし近侍室に誰かが入室することはなかった。ほぼ和泉守の私室となっていたそこを、みんな目に入らないとでも言うように避けて通った。
     例えこのまま和泉守が不問になったところで、彼がこの近侍室に戻ってくるのは難しいかもしれない。
     近侍が変わって三日目、初めてそう思い至った。
     部屋に彼の気配を感じないことや、彼ではない刀が近侍として朝の挨拶をしてくることに、言い知れない不安を感じた。そうやって彼の不在を思い知る度、心がジクジクと痛んだ。
     やはり、あんなことは間違っていた。彼に心配をかけるべきではなかった。そうでなければ、こんなことにはならなかった。
     自分を責め、夜中に何度も目が覚める。
     なぜ婚約者のことを言ってはいけないのだろう。和泉守は何を思って、私を止めるのだろう。寝入れないまま何度も寝返りを打って考える。
     私はどうすれば良いのだろう。和泉守は、一体何を考えているのだろう。
     そんなことをやっていると、すぐに朝になる。
     和泉守が謹慎になって四日目。いつもなら近侍の起床報告を待つところだったが、その日は胸がザワザワして、どうしても部屋に引っ込んでいられなかった。とりあえず起きて、顔でも洗って、仕事に取り掛かろう。そうすれば、考えずに済む。
     仕事に逃げているのは分かっていた。だけど加州は取りつく島もないし、和泉守の真意が分からない以上、どうすることもできない。離れに行こうと思っても、誰かしらが止めてくるこの状態では、彼を訪ねることすら難しかった。
     縁側を洗面所に向かって歩いていると、ふと大広間から人の気配がした。もう起きている人がいるのか、と感嘆する。朝一の鍛錬でもしているのかもしれない。簡単に予想を立て、大広間の前を何の気なしに通過しながら、ひょいと興味本位で中を覗き込む。
     そこには本丸にいる全刀剣が正装で集っていた。会議をするように、広く円になって。
     思わず息を飲む前に、そこにいた全員が振り返った。突き刺さる視線の群れに、出し掛けた足がピタリと止まる。

    「どうしたの、主。今日早いね」

     加州の問いかけに、ふと空気が緩んだ。

    「ぇっと、あの、ごめん、邪魔しちゃった……? 目が冴えちゃって、」
    「あーはいはい、ちょっと待ってね。すぐに今日の近侍そっちに送るから、部屋で待っててくれる? えーっと、今日は誰だっけ?」
    「俺だ」

     すいと山姥切国広が手をあげる。加州は軽く頷いて、

    「じゃぁ山姥切、主のこと部屋に送ってあげて」
    「会議はどうする」
    「誰が抜けても進めないよ。今日はこれでお開きにするから、気兼ねなく行って」

     と促した。「分かった」と頷き、山姥切が腰を上げる。それを合図にしたように、他のみんなもそれぞれに散る。
     ぼんやりとその流れを見ていると、目の前に来た山姥切が「行くぞ」と声をかけてくる。慌てて身を翻し、来た道を戻った。道すがら尋ねる。

    「あの、さっきの集まりって……」
    「和泉守兼定の処分を決める会議だ」

     ひゅ、と喉を空気が滑る音がする。

    「和泉守兼定が謹慎になってから、毎日朝に半刻ほど開かれている。なかなか難航しているぞ」
    「なん、こうって、」
    「刀解すべきだと言う刀と、それでは生温いから折るべきだと言う刀で意見が割れているからな。あと、少数だが、このまま本丸に従事することで償わせるべきだと言う刀もいる」
    「……そう。まんばちゃんは、どの派なの」
    「……泣かないか」

     ふと聞かれ、咄嗟に「泣かないよ」と言った。だけど、本当のところどう反応するか分からなかった。自分でも。
     執務室に戻り、文机の前に座り込む。彼はその前に腰を下ろし

    「俺は刀解派だ」

     とだけ言った。たった一言に胸を殴りつけられた感覚がして、顔を伏せる。

    「……どうして?」
    「泣くのか」
    「泣いてない。……まだ」

     俯いた頭に山姥切の視線を感じる。彼はしばらくそうやって私を見つめた後、続けた。

    「それが妥当だと思うからだ。あんたは和泉守兼定が謝罪した時、自分が全部悪いと言った。和泉守兼定も責任は自分にあると。両者の言い分に偽りが無いならば、どちらも悪いということだ。だから、折るほどではないと思った。どちらも悪いなら、どちらも対等に失うだけで良い」
    「……刀と、主を?」
    「そうだ。残るほうも、残すほうも、同じだけ辛い。特に和泉守兼定のような刀には、あんたを戦場に残して消えることが一番の罰に思える。その罰だけで、もう償いは成されていると俺は思った」

     淡々と話す山姥切の言葉に、私は唇を噛み締めた。

    「……ただ、これはあんたたちが隠している話を知らない刀たちが、勝手に騒いでいるだけのことだ」

     ふと、山姥切は続ける。私ははたと顔を上げ、布に隠された彼の顔を見た。

    「和泉守兼定があんたに何を口止めしたのか、俺たちには分からない。その事情が分かれば、今は頭に血が昇っている刀も、多少融通できる気がする」
    「なんで、」
    「兄弟は穏健派だ」

     なぜ教えてくれるのか問おうとして、即座に挟まれた答えに口をつぐむ。そうだった、彼の兄弟は、堀川国広なのだった。

    「兄弟は、和泉守兼定はなんの理由もなしにそんなことをする刀では無いと主張している。俺はあいつの相棒になったことはないから知らんが、兄弟の信頼を疑うつもりもない」
    「そっか……」
    「かと言って、和泉守兼定も口を割る気は無さそうだがな」

     ふぅ、と珍しく溜め息なぞつくので、「どういう意味?」と反射で聞いた。

    「そのままの意味だ。兄弟がどう聞いても、だんまりを決め込んでいるらしい」
    「堀川くんが?」
    「あぁ。今、離れに飯を持って行っているのは兄弟だからな。その時に何度か聞いたらしい。収穫が無いと言っていた」

     そうか、堀川くんが。突然相棒を失いそうな窮地に立たされた彼の奔走を思うと、胸が痛んだ。……やっぱり、ここでグズグズ思い悩んでいる暇はない。早急に手を打たないと。
     決意と共にぐっと拳を握りこむ。

    「ありがとう、まんばちゃん。教えてくれて」
    「構わない」
    「ついでに、ちょっと頼み事しても良い?」

     私の率直かつ突然の問いかけに、彼はきょとんと首を傾げた。



     食事の載ったお盆を持って、誰にも見咎められない内にそそくさと庭を横切る。ここで見つかれば、和泉守に昼ご飯を届ける役を譲ってくれた堀川まで怒られてしまう。
     もちろん、その他の根回しも抜かりない。目を光らせている短刀たちはほとんどを長期の遠征に出したし、執務室では今頃、障子と襖を閉め切った山姥切が一人で審神者の業務をこなしてくれているはずだった。

    「半刻だ。それ以上は無理だぞ」

     山姥切は「少しだけ私の不在を誤魔化して」という私の頼み事に、むぅ、と口をへの字に曲げた後、そう言って折れてくれた。彼にとって兄弟の悲しみはそれほどの譲歩に値するものらしい。
     堀川ももちろん躊躇う様子だったが、最後には「仕方ないですね」と言って役を譲ってくれた。

    「大丈夫、変なことはしないよ」
    「そんなことは心配してませんよ。……兼さんの頑固さは筋金入りだから、どうか許して上げてくださいね」

     そう言って盆を渡され、堀川くんは全部知ってるんじゃないかな、という気持ちになった。他の刀を黙らせるだけの確信がないだけで、彼には全部見抜かれているのだと思う。
     と、と、と軽い足音を立てながら飛び石を進み、ノックもしないまま勢いで離れの中に飛び込んだ。後ろ手に引き戸を閉めて、ホッと息をつく。どうやら成功したようだ。
     お盆を上がり框に置くと

    「国広、お前何ジタバタやって、……主?」

     奥から出てきた和泉守が目を丸くして私を呼ぶ。
     本当の勝負はここからだ。
     和泉守の眉根がキュと寄せられ、雷の気配を感じた。最初の頃、何度も落とされたから知ってる。彼は怒る時、感情をむき出しにして怒るのだった。

    「何してんだ、出てけ」
    「……嫌だ」
    「ごちゃごちゃ言うんじゃねぇ、良いからさっさと、」
    「清光に言う!!」

     三和土に降りて、伸びてきた手が私の腕を掴んで外に引きずり出す前にそう叫んだ。
     和泉守の動きがピタリと止まる。

    「全部、清光に言う。小夜ちゃんにも、堀川くんにも、……全員に言う。全部、婚約者のこと、全部言う」
    「……言ったって変わんねぇよ」
    「そんなの、分かんない。言ってみなきゃ」

     和泉守は面倒そうに頭を掻き、全然聞いてくれる気配がなかった。挫けそうな心を奮い立たせ、続ける。

    「私が、婚約者に不当な扱いを受けてたって聞いたら、きっと清光だって、誰だって、和泉守のこと、分かってくれる。仕方ないことだったって、」
    「仕方なくはねぇだろ……」
    「なんで? だって、同情だったって、ちゃんと言ったら、」

     ガァン!!
     大きな音を立てて引き戸が揺れた。びっくりして思わず瞑った目をそろりと開けると、和泉守が目の前にいた。
     私の顔の横に思い切り手をついて、燃えるブルーの瞳で睨んでいる。

    「……同情や酔狂じゃねぇって言っただろ。まさか聞いてなかったのか?」
    「聞いてたよ。聞いてたけど、」
    「なら、」

    「じゃぁなんでみんなに言おうなんて言ったの!?」

     私の叫びに、再び和泉守の動きが止まった。私の目にはあっという間に涙が溜まり、瞬きとともに流れていく。抑える暇もなかった。

    「……奪うなら奪ってよ。ちゃんと、最後まで、責任持って。……こんなのひどい」

     和泉守はあの時私に、愛されなかったことを、選ばれなかったことを、気づかせた。
     薄々感じていたことを言葉にされるのはすごく辛くて、自分が路傍の石コロに思えた。
     これまでの頑張りは全て無駄で、私はどんなに努力しても、誰にも選ばれないのだと決定的に悟った。
     その時、彼が言ったのだ。

    「いらないならオレにくれ」と。

     心を打たれた。弱っていた心を掬い上げられ、水を与えられた。
     彼はあの瞬間、私にもう一度自信を与えてくれたのだ。
     だけど抱いておいて、奪おうとしておいて、今更引くと言う。みんなが許さないから、折れると言う。
     ……そんなのは裏切りだ。

    「私のために、ひどい人になれないなら、貫けないなら、最初から、あんなことしないで。放っておいてくれたら良かったじゃない」

     飼えない捨て猫は、最初から拾ってはいけないと言う。彼はそれを知らないのだ。

    「……悪かった」

     彼が頭を撫でるので、かぶりを振って逃れようとした。これ以上優しくされて、後で寂しくなるのはウンザリだ。今度こそ、もう二度と立ち上がれなくなってしまう。
     だけど和泉守は無理に私を引き寄せて、その広い胸にすっぽりと収めてしまう。そうなってしまうと抵抗の気持ちが一気に薄まり、今度は彼に縋り付くようになる。
     厳しいながらも、ずっと私の味方だった、広い胸だ。

    「あんたを思う気持ちに嘘はねぇ。ただ、……どうしても、他の刀に言わずにおれなかった。あんたを抱くっていうのは、並大抵のことじゃねぇんだよ。家臣が、望まれてもいないのに主の元を訪ねて、あまつさえ手篭めにしたとなりゃぁ、普通は打ち首だ。分かるな?」
    「……私、良いって言った」
    「そうだな。けどまぁ、それは後のことだろ。まずオレから仕掛けてんだから」

     私は返事をしなかった。確かに、彼が言ってきさえしなければ、こんな関係にはならなかっただろう。

    「オレはオレの義心を貫いて、あんたを傷付けた。それは謝る。けどオレは素知らぬ顔で本丸連中の中に戻るより、まず先にケジメをつけたかったんだ。近侍の立場を利用した自覚もあったしな」
    「じゃぁ、なんで言うなって言ったの」
    「ん?」
    「婚約者のこと。全部正直に話したら、こんな大ごとにならずに、ケジメ、つけられたと思う」

     私が胸の内で言うと、彼は躊躇う。私は顔を上げて和泉守を目で促した。すると彼は観念したように、

    「……あんたが、泣くかと思って」

     と言った。
     思わず目を皿にして和泉守を見ると、彼は私の顔にかかった髪を親指の腹で優しく払って続ける。

    「ずっと隠してただろ。加州や小夜にも」
    「……それは、だって、プライベートだし、」
    「オレがあんたの許嫁のクズ具合を知ったのは偶然だ。あそこで担当が口滑らせなきゃ、あんたは今でも一人で抱え込んでた。そうだろ?」
    「抱え込むって、大げさ、」
    「あんたはここで垣根なく生活をしてるんだ。あんたが隠そうって意図を持ってないことなら、ここの連中はなんでも知ってるぜ。聞きゃぁ家族構成だって、下着の色だって分かる」
    「下着って」
    「事実だろ。洗濯分けたいなんて娘らしいこと、あんたこれまでオレらに言ったことあるか?」

     無い。無いけど。それにしたって。

    「目ぇ逸らすな。こっち見ろ」

     顔を背けて腕から逃れようとすると、柔く顎を掴まれる。あの時みたいに。

    「あんたは隠してたんだよ。オレらに。自分の許嫁がクズだってことを。なんでか分かるか?」

     やめて。それ以上言わないで。
     頭の中で警鐘が鳴る。せめて目を逸らしたいのに、それもできない。
     和泉守の青い瞳が、なんでも飲み込んでしまう暗い海のように見えた。

     いやだ。
     気付かせないで。
     気付かないでいて。

    「憐れまれたら心が死ぬことを、あんたは分かってたんだ」

     和泉守の白い歯が覗く。喉笛を食いちぎる獣のように。

    「他人に憐れまれたら、その傷は決定的だ。どんなに見ないふりしてたって、他人から深手のレッテルを貼られる。だから、あんたは誰にも言わなかった」
    「やめて、」
    「もっと言ってやろうか? あんたオレの予想じゃ、このこと現世にいる家族にも言ってねぇよな?」
    「やだ、」
    「家族が知ったら悲しむからか? 傷付けるからか? そうじゃねぇ。あんたは誰にも知られたくなかったんだ。自分が不幸なことを、誰にも」
    「嫌だ!!」

     気付けば手の平で胸を突いていた。勢いでよろけ、和泉守が咄嗟に腕を取ってくれても、ズルズルその場に尻が落ちていく。まるで腰が抜けたみたいに。
     和泉守は言う。

    「……これはあんたの泣き所だ。オレに何怒られても、次の日にはケロっとしてたあんたの、唯一の弱みだ。だから、隠し通せるもんなら、隠しておきたいと思った」

     そんなことで、とはもう言えない。和泉守は私のことを、私よりも良く分かっている。
     和泉守に初めて話した時も、私はまだ同情されたくなかった。だから、まるで気にしていないように、「里帰りは彼との意見を擦り合わせるのが面倒だからやめた」と言ったのだ。
     あの時、自分でも薄々気が付いていた。自分が見栄を張っていること。だけどそれは主として当然のことで、まさか自分が無意識に傷つかないように逃げていたのだなんてことは、今指摘されて、思わず悲鳴をあげるまで、分からなかった。
     自分が本当に傷ついてたこと。
     誰かに話したら、それは傷だと言われて自覚を促され、地の底まで落ちてしまうこと、本能的に知ってた。

    「仕事に打ち込んで、考えないようにしてたんだろ」

     コクリと頷く。そうだった。傷ついたって自覚するのが嫌で、見ないふりして仕舞い込んだ。

    「……もっと早くに気付いてやれなくて、悪かった」

     しゃがみ込んだ和泉守に額を合わせられる。私はその言葉を嬉しく思うと同時に、少しだけ違和感を感じる。私はここに彼を救う手立てを一緒に考えてほしくて来たのに。当の和泉守はずっと、私の悲嘆を回避することにしか神経が向いていないようだった。
     それはもしかしたら、私が彼に傷ついていたことをずっと黙っていたからかもしれなかった。

    「じゃぁ、黙ってたのは、私が泣くからっていうだけなの? 和泉守に不利になるとかじゃなく?」
    「だけって……だけじゃねぇだろ、」

     苦虫を噛み潰したような顔をするので、今その顔をしたいのはこっちよ、と顔をしかめる。
     和泉守が私を守りたいのと同じように、私だって和泉守を守りたいのに。
     私は和泉守の膝に置かれた手に手を重ねる。和泉守は呆けたような顔をしていた。私の手をゆるりと握り、合わせた額を少し離して、私のことを、見惚れるみたいに見つめていた。
     こんなに綺麗な刀が、私のことを好きだなんて、信じられないね。
     でもこの顔を見るに、本当に本当みたいだ。
     顔を寄せて、自分から彼に口付けた。
     まるでこの間、私たちに起こった始まりとは逆の出来事。
     彼は微動だにしなかったし、目を瞑ることも忘れたみたいだった。
     唇を離して

    「……動いちゃダメよ」

     と言うと、彼は瞬きをして、それから小さく頷いた。私は笑って、彼を置いて立ち上がる。呆然とその様子を見守る彼に笑いかけながら、来た時と同じように後ろ手で引き戸を開けた。

    「は、オイ、どこ行く、」
    「和泉守兼定。『動いちゃダメよ』」

     もう一度告げると、立ち上がろうとしていた彼の動きが、強靭なワイヤーに絡まったみたいにギシリと止まる。彼は三和土に手をつき、目を白黒させながら私を見た。

    「テメ、まさか」
    「『約束』したでしょ。あなたはここから『動いちゃダメ』」
    「了承は、」
    「頷くっていうのは了承と同じです」

     『約束』を破れないのは人ならざる者の特徴だ。特に主従関係を結んで顕現している彼には、これを破るのは山を動かすよりも難しい。
     私は和泉守を目に入れながらジリジリ後ずさった。

    「待てコラ、どうする気だ!」
    「言うのよ、全部」
    「全部って」
    「清光にも、小夜ちゃんにも、堀川くんにも、全員に、ぜーんぶ言うの。私がどれほど傷ついて、どれほど抱え込んで、どれほど心の中で泣いてたか」

     指折り言えば、彼は信じられないような顔をした。

    「あと、それを私の愛人であるあなたが、どれほど救ってくれたかも」
    「あいじん、ってお前、」
    「だってそうでしょ。私、まだ婚約解消してないし」

     「指輪こそしてないけどね」と左手を見せる。彼はなんだかムッとしたようだった。

    「そんなに睨まれても困っちゃう。解消できてないの、ほぼ和泉守のせいなのに」
    「なんでオレだよ」
    「当たり前でしょう、本丸がこんなに混乱してるのに、呑気に自分の問題解決してられないもん。あーぁ、このまま和泉守が刀解処分なんかになったら、私、ショックのあまり世を儚んで、今の人と結婚しちゃうかもなぁ」
    「はぁ!?」
    「嫌なの?」
    「当たり前だろ!! とにかく、あのクソ野郎は駄目だ!!」

    「じゃぁ、今度はちゃんと最後まで攫いに来て」

     私の言葉に和泉守は口ごもる。口の中に水でも入ってるみたいね。
     晴れてここを出て、私の部屋に来て、もう離さないって誓って。

    「私、全部言うから。ちゃんとみんなに分かってもらえるまで、説明するから。だからここで大人しく待ってて」

     和泉守は藻掻いていた動きを止めて、私に気遣わしげな視線を投げる。過保護だなぁ、って、少しだけ笑った。

     私が泣くのがなんだって言うの?
     それって、私の刀がいなくなることより大事なこと?
     そのことより大事なことって、本当にこの世にあるのかしら?
     それに、大丈夫。もう和泉守が助けてくれたから、そんなに悲しくない。少しは泣くかもしれないけど、それは悲しみの残りカスみたいなものだ。
     和泉守兼定を失う苦しみに比べたら、こんなことは屁でもない。

     戸から足を出しかけて、ふと振り返る。大きい体を縮こめてうずくまったまま動けなくなってるのがなんだか可愛くて、踵を返してもう一度、両頬を挟んで口付けた。

    「……私、和泉守だったこと、後悔してないよ」
    「は、」
    「あの日、私を助けてくれたのが、和泉守で良かった」

     またもびっくりしている顔に笑い、トンと優しく肩を押す。動けない和泉守はそのまま後ろに倒れた。

    「『約束』、もう破っていいよ!」

     叫んで、捕まらないように戸から駆け出した。後ろからは動けるようになった和泉守の「ふざけんな!!」という怒声が追いかけてくるが、もう捕まえられないことは分かっていた。和泉守は加州との『約束』があって、あの離れからは出てこられないのだ。
     飛び石をジャンプ混じりに駆け抜けて、部屋に急ぐ。来た時に抱いていた不安は、すっかりあそこの離れで消えて無くなってしまったようだった。
     しかし部屋の前で、怒り顔の加州が待っているのを見た時はさすがに少し不安になった。ギクリと足が止まる。

    「どこ行ってたの」
    「え、っと」
    「別に言わなくて良いけど」

     尋ねたわりに答えを聞いてくれない加州の眉はまだ吊り上がっている。

    「あのね、清光、話があって」
    「なんの話も聞きたくない」
    「待って!」

     去ろうとする後ろ姿を、コートの裾を掴んで引き留めた。加州はゆっくり振り返る。怒ってる顔なのに、なんでか少し寂しそうに見えた。

    「……黙っててごめんなさい。ちゃんと、全部話すよ」

     もし和泉守を処分として折るなら、小夜が介錯をして、加州が斬る展開になるはずだった。私は和泉守を失いたくないのと同じくらい、二振りにも、仲間殺しの辛い傷を残したくなかった。
     加州はしばらく黙ってジッとコートを掴む私の手を見ていたが、やがて顔を上げると、

    「……まず、オレと小夜で聞く。それで良い?」
    「うん。それが良い。ありがとう、清光」
    「じゃぁまずは、主が画策して遠征に出した小夜を待つところからだね」

     と言う。誤魔化し笑いをすると、仕方ないな、という顔をされた。和泉守に怒られていた最初の頃、私が「また怒られちゃった」と小夜と一緒に加州を訪ねると、彼はいつもこの顔で私に飴玉をくれたり、慰めてくれたりしたのだった。

    「山姥切、入るよ」
    「む、駄目だ、今は主が」
    「はいはい、分かったから、サクッと開けて。今日の近侍はそっちが主の策に乗った時点から俺なので」
    「……いつから気付いていた。む、」

     ススス、と障子が開き、山姥切がひょこりと顔を出す。と、加州の隣に私がいるのに気付き、彼はむぅと口をへの字にする。

    「ごめん、まんばちゃん。見つかっちゃった」

     私が笑うと、彼は深い溜め息をついた。



     小夜の戻りを待って、夜ご飯の後、三人だけの部屋でポツポツと話す。和泉守にあの日、寝物語に語った私と婚約者の経緯を。

    「……最初に会った時には、別に浮気どうのの話はなかったの。将来この人と、ってだけで。その頃好きな人もいなかったし、いきなり審神者だなんだって話になったから、そっちのほうが手一杯で。婚約者が決まったよーって言われても、はいはいそうですかって流したって言うか」
    「私の時代では審神者に選ばれるのは栄誉なことだったから、ちょっと天狗になってたりもしたのかも。結婚相手にそんな態度取るなんて、今言葉にしてみても嫌な感じだもんね。実際やってみると、審神者って運営も大変で、全然栄誉職って感じじゃないけど」
    「で、まぁ、審神者になる三ヶ月前くらいかな? そうやって決まって。審神者の準備期間にお互いの家の顔合わせもして。何度か会って。で、指輪をもらった」
    「その時にね、初めて実感が湧いたの。あぁ、この人と結婚するんだなぁって。ちゃんと出来ると良いなぁ、って。そう思ったら、いきなり「浮気を公認にしよう」だもの。びっくりしちゃった。私、あんなに人に冷ややかに見られたのは初めてだった」
    「それでも家族の嬉しそうな顔を見たら言い出せなくて……けど結婚する踏ん切りもつかないまま婚約だけしてズルズル審神者になって、そしたらある日、この手紙が届いたの」

     婚約者から届いた手紙を見せる。里帰りを断られた手紙……他に同居人がいることを知らされた手紙だった。二人は無言でそれを読み、しばらく沈黙が部屋を満たした。

    「これ、和泉守さんは……」
    「読んでないよ。見せたのは、二人が初めて。和泉守はその手紙が届いた時に、私が動揺してるのには気付いたって言ってたけど、その時は私が婚約者恋しさに塞いでるんだと思ってたって言ってた。私も気づかれたくないあまりに、元気に振る舞ってたんだと思う」

     小夜が口を噤む。加州は手紙を握り締めすぎて、そのまま千切って捨てるんじゃないかと不安になるほどだった。

    「その手紙が来たから、その年は里帰りをやめたの。こんな情けないこと誰にも言えなくて、」
    「情けなくなんか無いです」

     小夜が瞬時に挟み込む。

    「……うん、ありがとう。でも、当時の私はそう思ったんだ。それで、ずっと誰にも言えなかったんだけど、この間担当さんがペロッとその話、和泉守のいる前で言っちゃってね。それで追及されて……それが、清光の見た押し倒しシーン」

     あの時は驚いたな、と意識的に笑ったけど、二人の醸す空気は全然和まなかった。笑うのをやめて、膝の上に置いていた手をきゅっと握る。

    「……和泉守は、私が打ちのめされているのを知って、私を助けようとしてくれただけなの。私が失った自信を取り戻してくれようとして、」
    「それ、和泉守が言ったの」

     今まで無言だった加州が突然口を挟んだ。私は少し驚いて、ふと考える。

    「えっと……そうは、言ってなかったかな。これは私の解釈」
    「じゃぁ、なんて言われたの」

     鋭い追及に逃れられず、少し悩んだ末、本当のことを言うことにした。

    「私を好きだって。だから、婚約者がいらないなら、自分が欲しいって、そう言ってた」
    「ふぅん」

     思いの外軽い返事が返って来て、少し面食らう。

    「それだけ?」
    「何が」
    「なんか、怒ったりとか……」
    「怒んないよ。同情で抱いたとか誤魔化し出したらまじでぶっ殺してやるとこだったけど、あいつが主を好きなのなんて、ずっと一緒にいたら嫌でも分かる」
    「え」
    「何その反応」

     当事者のくせに気づいていなかったとは言えない雰囲気だ。小さくかぶりを振って続きを促す。

    「気付いてたのは俺だけじゃないよ。多分堀川も知ってる」
    「あ、それはなんとなく分かる」
    「でしょ。長いことずっとグズグズしてて大分焦れてたのは知ってたし、あの日押し倒してるっぽいの見た時も、なんかの弾みでこうなっちゃっただけで、別になんも進展してないんだろーなー、って思ったぐらいで」

     腹立ったから煽りはしたけど、と悪びれなく言う加州に、いかに自分がノー天気に過ごしていたかを思い知った。

    「それが翌日、いきなり「手篭めにした」でしょ? しかもなんの言い訳もなく。とりあえず誰かが一発殴っとかないと、あんなの場が収まらないじゃん。あの時俺が殴ってなかったら多分堀川が殴ってたし、俺が抜きかけた時に主が庇わなかったら堀川が庇ってたと思う」
    「そ、そっか……」
    「事情があるっぽいのは分かってたからさ、みんな口では会議とか言ってたけど結構のらくらしてたよ。ジジイ連中なんかは特に「意見が割れてるんじゃ処分は出来ないなぁ~」とかなんとか言ってさ。殴った俺がいつ事情を聞いて許すのか、待ってるみたいに」
    「なるほど……清光、いっぱい本丸のこと考えてくれてたんだね。ありがとう」

     素直に礼を言えば、「そりゃ、初期刀ですから」と返される。

    「でも、まさかそんな事情があるとは思ってなかった」
    「……言わなくてごめん」
    「良いよそんなの」
    「和泉守は、このことを広く本丸に知られることが、私を傷つけるんじゃないかって心配して、言わなかったみたい。だから、」

     だから許してあげて、という言葉は、加州が私の頭を撫でたから続けられなかった。加州は私の目を見て

    「ごめんね主、こんなこと、話すの辛かったよね。ごめんね、気付いてあげられなくて、ごめんね」
    「やだな、清光、そんなこと、全然」

     言っているうちにボロっと涙が零れた。小夜も、近寄って来て寄り添ってくれる。その暖かさで思い出す。そうだった。ちゃんと、全部、隠さず言おうと決めたのだった。
     どれだけ悲しかったか、隠さないようにしようと。
     まずは傷があることを知らなければ、癒すことだって出来ない。
     自分でも、他人にも。

    「……ずっとね、辛くて」
    「うん」
    「惨めで、悲しくて、怖くて、そういうの、全部振り切りたくていっぱい仕事もしたんだけど、思い出すとやっぱりダメで。相手が悪いんだって思う日もあるんだけど、自分が何もできないからだって心底悲しくなる時もあって」
    「うん」
    「けど、誰にも言えなくて、相談もできなくて、なんか、恥ずかしいし、情けないし、自分がずっと嫌いで」
    「うん」
    「それを、……和泉守が許してくれた」

     私の言葉に、頭をずっと撫で続けていた加州の手が止まる。

    「私を選ばなかった相手を見る目が無いんだって斬るんじゃなくて、主だから大切にするんじゃなくて、そういう意味で、今の私が良いって言ってくれた。私、それが心底嬉しかった。許された気がした。それは多分、ずっとそばにいてくれた和泉守が言ってくれたから、響いたんだと思う」

     私、今、審神者として最低なことを言っている。自覚があった。でも止められなかった。
     嬉しかったから。私はそれで、救われたから。
     私にはもう和泉守兼定を、ただの刀として見ることができない。
     彼はあの瞬間からもう、『私の刀』であると同時に、『私の男』なのだった。
     そのことに、話す内にハッキリと気がついた。
     ぐすぐす泣く私に、加州が言う。

    「……和泉守の、刀にあるまじき恋心が、主を救ってくれたってこと?」

     声も出せずに頷く。小夜が小さく

    「……確かに、僕らにはできなかったかもしれない。僕らは……主の復讐のために相手の男を斬ることはできても、主を女性として求めることはできなかったから」

     この本丸の誰もが、私を慕ってくれていた。だけどそれは恋じゃなかった。他のどの感情でも、代わりになれなかった。
     加州はしばらく黙っていたが、やがて小さく溜め息をつくと、

    「分かったよ、俺の負け。最高の近侍様ですよー、うちの和泉守兼定は!」

     と言って畳に後ろから倒れ込んだ。

    「……ごめんね清光」
    「それ、なんの謝罪?」
    「……分かんない」
    「何それ」

     加州が笑って手を差し出すので、そっと隣に寝転ぶ。畳のい草に紛れて、加州の匂いがした。
     無性に胸が熱くなり、そっと零す。

    「ありがとうね、二人とも。聞いてくれて」
    「……ちょっとはスッキリした?」
    「うん。最高の初期刀と初鍛刀のおかげで」
    「調子良いんだから」

     口ではそう言っても加州の口元は笑っていた。

    「小夜ちゃんも、来て」

     小夜にもう一方の隣に来るよう呼びかければ、おずおずと寝転がって来る。そうすると、ちょうど本丸立ち上げ時代のことを思い出した。だだっ広い本丸で一人で寝るのはちょっと怖くて、二人に言って一緒に寝てもらっていた時期があるのだ。

    「和泉守が来るまではこうやって寝てたよね」

     ふと口にすれば

    「そうだよ。あいつが「年頃の娘がはしたない真似すんな!」とか言って怒るからさぁ。お前が意識してるだけだろっつーの」
    「ふふ、」
    「あ、小夜ちゃん笑った」
    「はは。あーぁ、今日ここで寝てこっかなー。うるさい近侍もいないし」
    「良いね。布団もあるよ」
    「和泉守さん、また怒りますね」
    「ね」

     と、三人の話は尽きない。

    「ねぇ、それはそうと、そのクソ男の住所と名前教えてよ」
    「それは僕も知りたいです」
    「やだ、二人とも何する気?」
    「そりゃぁ、ねぇ?」
    「決まってます」
    「ダメダメだめ、絶対だめ、」

     結局その日はそこに布団を敷いて、三人で眠った。久々によく眠れた夜だった。



     その後、和泉守の謹慎は加州の一声で解けた。みんな、事情は聞かなかったそうだ。
     加州曰く

    「みんな事情を暴きたいわけじゃないよ。ただ、隣の刀が信頼できるやつかどうか。それが分かってさえいれば、多少の軋轢はあっても上手くやる。時代も逸話も違う、かつての敵方同士でも一緒くたに顕現されてんだもん。それくらいの社交性はあるよ」

     とのこと。では堀川にだけはと思って会議帰りを呼び止めたら、彼は小さく首を振った。

    「僕は大丈夫です、知らなくて」
    「でも、」
    「加州が言わなかったってことは、刀は知らなくて良い事情だったんでしょう。それに、僕は主さんの刀で、兼さんの助手です。それはお二人の間にどんな事情があっても、変わりませんから」

     ニッコリと微笑まれ、渋々納得する。

    「……分かった。心配かけてごめんね、堀川くん」
    「構いませんよ。世話の焼き甲斐がありました」

     ぐ、と拳を握って軽く掲げて見せる。気遣いの塊である彼らしい言葉だった。
     しかしこの一件以降、固定近侍制度は廃止された。
     これは別に和泉守を降ろそうという動きではなく、彼不在の間に勤めた刀が口々に「結構面白かった」と言うものだから、一度もやったことのない刀たちの間で不満が噴出した結果に過ぎない。和泉守は渋面を作っていたけれど、今回の引け目からか、ついに異を唱えることはしなかった。
     だけど、彼にとって良いこともあった。毎日近侍が代わることによって、近侍室の概念がなくなったのだ。近侍の仕事は審神者の仕事を手伝うこと……大抵執務室の中で業務が完結するので、毎日一緒に寝起きをするほうがスムーズに進むから、という効率化のために設置されていた隣室はいらなくなった。
     つまり、彼が固定近侍を外されたその瞬間は、ついに名実ともに、私の隣室が和泉守の部屋になった瞬間でもあるのだった。

     ──夜、私たちはお互いの部屋を行き来する。何もせずに眠る日もあるし、抱かれる日もある。だけど私が一番変わったと感じているのはその部分では無くて、何か理由を付けなくても、もっと言えば許可を取らずとも、相手の領域に踏み入ることができるようになったこと。
     互いに何かおかしいと思った時には、理由なしに相手の心配ができる。刀としてや主としてではなく、ただ、大切なものだから。
     ある朝、ふいにその関係の弊害に思い至り、隣にいる和泉守に声をかけた。

    「……ねぇ、私が貴方の主じゃなくなっても、私を許し続けてくれる?」

     私の突然の問いかけに、和泉守はわずかに怪訝な顔をした。

    「貴方を刀として尊べなくなって、ただの好きな男に対する感情しか抱けなくなっても、私を許してくれる?」

     詮無いことを聞いた。ピロートークの一部にしては意味深すぎたかもしれない。
     しかし和泉守は障子を背にする私をぼんやりとした逆光の中で見つめ、妙に真面目な顔をして言った。

    「……あんたはならねぇよ。そんなふうには」
    「分からないじゃない、そんなの」
    「そうなる前にオレが止めるから、ならねぇ」

     固い決意のこもった声で言われ、返す言葉が見つからない。返事の代わりに布団を口元まで引き上げる。

    「オレの中には、主であるあんたと、女であるあんたがいつも同居してる。オレはあんたを、主としてだけ見れたことは一度もねぇ」
    「うん……」
    「あんたも、こうなってからはそうだろう。オレはたらればの話は好きじゃねぇが、もしそれが変わっちまう日が来るんなら……ま、お互い耄碌してるってことだ」

     自嘲するように口端を引き上げるので、

    「そうかな?」

     と投げかける。

    「そうだろ。あんたを止められないのはオレの罪で、その逆も然りだ。どっちが悪いじゃねぇし、どっちにも許す権利なんざねぇよ」

     そういうものだろうか。私はぼんやりと考え、なんだか一蓮托生みたいだ、と思う。この場合は比翼連理、だろうか?

    「じゃぁ……その時はどうしよう」

     聞けば

    「そうだな……多分、どうもしなくてもその内、お互い戦で死ぬんじゃねぇか」

     と返ってくる。

    「耄碌してるから?」
    「あぁ、多分な。天罰だとかじゃねぇ、自分の責任で、おっ死ぬ。そういうもんだろ」

     私は彼の高い鼻を目でなぞりながら、同じような時に死ぬ互いのことを思い浮かべた。正直、まだ全然思い描けない。
     もっと長い時を一緒に過ごして、耄碌している頃になったら、うまく飲み込めるのだろうか?
     それも、今は全然リアルじゃない。
     だから私は

    「うん……じゃぁ私、和泉守が折れないように、耄碌しないように、頑張るね」

     と言って布団から出した手で小さく拳を握る。和泉守はその拳に、眩しいものでも見るみたいに目を細めた。

    「……あんた、いつまでたってもボンヤリだなぁ」

     そう言った彼の瞳は障子越しのあさぼらけの光に照らされ、暖かい春の海のように輝いた。







     婚約者からある日、「話があるので都合をつけてほしい」と手紙が来た。男の胸にはわずかに不安がよぎった。
     男の婚約者は審神者という職に就いた、いわゆる軍人であった。遡行軍との戦いが激化する折、審神者という名の軍人を、結婚によって自らの家に入れるというのは大変なステータスであった。何しろ国のために戦っているという外聞が良く、審神者だというだけで嫁の貰い手には困らない時代だった。
     男の父親もまた、そういったステータスに目の眩んだ人物だった。あらゆるツテを辿り、審神者の嫁を彼にあてがいたがった。自営の事業に審神者の嫁は広告塔として非常に有用だと父親は言い、彼も特に不満はなかったので受け入れた。審神者という職に、少し興味もあったからだ。
     そうして父親がほうぼうを探して回った末に連れて来た婚約者は、半年後に審神者になる予定だという若い女だった。いわゆる青田買いだ。当時はそういう縁談が横行していた。婚約してから審神者になってもらったほうが、審神者を探してやっとこ縁談に漕ぎ着けるよりスマートで、外聞が良かったのだ。
     しかし父親が這々の体で連れて来た婚約者を初めて見た時、男は少しだけがっかりした。彼の婚約者は彼好みの美人ではなかったし、聡明そうでもなかったからだ。
     審神者というのは軍人でありながら神職でもあると聞いていたので、もう少し神々しい女を想像していた。審神者の職を始めたらもう少し印象も変わるのかもしれなかったが。
     彼女を嫁にする利点はただ、これから審神者になる予定だ、という肩書きだけだった。



    「婚約を破棄してほしいんです」

     久々に会う婚約者は言い、ふいと顔を俯けた。伏せた目を美しいと思い、男はそんな自分の感情に驚く。出会った当初は、何の取り柄もない女だと侮ったのに。

    「なので、これはお返しします」

     すいと出された指輪は彼女に贈った当初と同じベロアの箱に収まっている。男はそれを見、溜め息をついた。手紙が届いた時にこうなることは、なんとなく予想がついていたからだ。

    「理由を聞いても? お互いに自由で、利害は一致したと思っていたんだけれど」
    「……利害だけで、一緒にいる約束をするのは、私には難しかったです」
    「そうか……。分かった。残念だけど、仕方ないね」
    「長いこと、婚約だけでズルズル来て、待たせてしまってごめんなさい。もっと早く判断できれば良かったんですけど、……親がどう言うかなとか、色々、考えてしまって」
    「ははは、そこで俺が好きだったから、とは嘘でも言わないところが君だよね」

     彼女ははたと顔を上げ、こちらをじっと見た。
     美人でも、聡明でもない婚約者。それでも結婚の約束をしたのは、彼女の素直さを気に入っていたからだ。……御し易くて、良いように流せると思ったのだが、側から離したのは悪手だったのかもしれない。もっとも、審神者は本丸で暮らすのだから、それは必須のことなのだけれど。

    「結婚を決めたのは親同士ですし、そこに私たちの意思はないでしょう。もっとも、私の親は審神者になっても嫁の貰い手がないなんて、って、私が言われないようにって理由だけだったみたいですけど。話して、嫌ならやめなさいって言われた時は、あまりに呆気なくてびっくりしました」
    「もう婚約破棄の件、ご両親に言ったの?」
    「はい。速やかに穏便にお別れしたくて……あ、でも、浮気公認の話はしていません。どう言えば良いか分からなかったし、悲しませるような気がして……だから、安心してください」

     核心を突かれ、笑って誤魔化した。誰か良い教育者が付いたのか、彼女は昔よりもずっと勘が良くなったようだ。

    「とにかく……そういうわけなので。良いでしょうか?」
    「随分急ぐね」
    「すみません。最近、ちょっと過激な話ばかり聞くから」
    「過激な話?」
    「えぇっと、……仕事仲間の一部にだけ、相談したんです。そしたら、……あなたを殺すだなんだって本当にそうしかねない勢いで怒るから、早くしないと、本当にそうなりそうで怖くて」
    「はは……すごいね、さすが戦争従事者」

     男は軽く笑う。その相手が教育者だろうか。随分と彼女を大切にしているらしい。

    「うん。僕も流石に殺されるのは御免だ。次の相手を見つけるとするよ」
    「……今の同棲相手では、駄目なんですか?」

     そっと尋ねられ、考える。わずかな躊躇いの後、小さくかぶりを振った。

    「駄目なんだ。……彼女、子供がいらない人だから。親父が許さない」
    「そう。……じゃぁいつか、許される日が来るのを、願っています」

     ふと顔を上げる。彼女の瞳には怒りも、蔑みも、哀れみもなかった。ただ、本当にそうなるようにと祈ってくれているようだった。あぁ、神職というのは本当らしい、と、その時男は初めて思う。
     そして、男はその眩しさに、思わず彼女に近づいて手を伸ばしかけた。
     迂闊にも。

     ──最初、線香の匂いだと思った。燻したような、煙特有のあの匂いが鼻についたからである。
     しかし次に匂ったのは華やかな花の香りで、男は思わず

    「君、香りを変えたの?」

     と問うていた。彼女は呆けたような顔をしていたが、やがて思い当たる節を探り当てたのか、照れたように目を伏せた。

    「多分、沈丁花の香だと思います。最近、好きで、よく焚いているの」
    「……ふぅん」

     頷いた瞬間、華やかな香りの後の仄かな青さが香った。閉じた蕾の中に潜んだ湿り気のような、そういう匂いだった。
     ──男だ。
     そう瞬時に悟った。
     目の前の女は、不義など考えたこともないような顔で彼の前に座っているこの神職の女には、もう、別の男がいるのだ。
     瞬時に胃の腑が焼けたように熱くなったが、今さっき自分のものではなくなった彼女に対して、不義密通を謗るのはお門違いな気もして、言葉に詰まった。
     そもそも浮気を公認していたのは自分のほうだ。それだというのに、どうして今、こうして「手を出された」などと思うのかも不思議だった。
     まさか、惜しいと思っているのか。女として。
     あれほど踏みつけにして、侮り、軽く見て、飼い殺していた女を。
     男が思い倦ねている隙に彼女は

    「それじゃぁ、私はこれで」

     と頭を下げて、店から出て行ってしまった。
     彼女は振り返りもしなかった。
     一人になって、机の上に置かれたベロアの箱を見て考える。
     自分はある意味、彼女の畏怖の対象であった。自覚を持ってそう振る舞っていた。そうやってコントロールしてやろうと思っていた。制限された甘さを与えて、それでやっと呼吸ができるように、手綱を取ってやろうと。
     しかし男の元に残ったのは、彼女に返された指輪と、間男の残り香だけだった。
     ──華やかな中に青さの残る、気障な情夫のつける香りだ。
     男は悔し紛れにそう思い、不用意に焼けた心を慰めた。




    沈丁花の花嫁(になりますので、この度あなたとはお別れに参りました)



    1000_cm Link Message Mute
    2022/06/04 16:54:02

    沈丁花の愛人

    pixivからの保管用です。
    婚約者のいる審神者さんへ、兼さんが愛人に名乗りを上げる話。

    初出/2019年7月22日 21:36〜2019年7月26日 22:50
    #刀剣乱夢 #兼さに #女審神者

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