きょう、和泉守と。
『今日の夜、予定あるか』
「な、い、よ……っと」
メッセージを打ち返して電車を待つ。このホームは屋根だけ付けた掘っ立て小屋めいたところがあって、びゅんびゅん風が吹き抜けていくから冬はべらぼうに寒い。スマホと一緒にポケットに手を突っ込む。程なくしてまたスマホが震えた。
『飯でも食おうぜ』
画面に踊る文字を見て、ふむ、と考える。これは私が今日誕生日だと知っていて、予定が無いのを憐れんでいるのか。それともノコノコ飲み屋に行った瞬間、爆笑する手筈か。しかし特に誕生日のことに言及されてはいない。となると、普通にただの食事の誘いだな。当たりをつけて『了解』とだけ返事をする。
もう一度ポケットに手を突っ込んで首を竦める。そうだ、デザートにケーキでも食べよう。そう考えて、朝起きた時にはなんでもない日と変わらない、特に祝われたいとも思っていなかったのに、ちょっとウキウキしている自分に気付く。ふむ。持つべき者は、誕生日を覚えていない割りにタイミングの良い友人だな。
自分の運の良さに一人頷いていると、また手の中でスマホが震えた。早いな、暇なのか。待ち合わせを指定するメッセージに既読をつけて、なんて返すか迷っているうちに電車が来た。
まぁいいや。既読つけたし、読んだことは分かるだろ。気安い間柄にありがちな配慮の足りなさでそう解釈した。けど、会社に着いても確認の催促のメッセージは来ていなかったので期待もされていないのだろう。うむ、ツーカーである。
なんでもない今日のこと
仕事終わりに駅で待ち合わせていた和泉守はすでに到着していて、柱に寄りかかって私を待っていた。相変わらず遠目に見ても嫌味なほど絵になる男だ。
改札を出て、おーい、と手を振ると小さく右手が挙がる。小走りで近付くと、ハイネックにライダースジャケットという軽装が目に飛び込んでくる。マジかよ、健康優良児か。久しぶり、の言葉の前に開口一番、
「嘘でしょ和泉守、寒くないの?」
と聞いてしまう。
「アンタが重装備過ぎるだけだろ」
「いやいやいや、マフラーもしてないじゃん! 寒くないの?」
「どっか引っかけたら危ねぇだろ、バイク」
「えぇ……? ならネックウォーマーとかさぁ……」
思わず母親めいたことを口にするけど、和泉守は全然聞いてない素振りで歩きだしてしまった。というか、バイクで来たならそっちは飲めないじゃないか。
「鳥でいいか」
「あ、私デザート美味しいとこが良い」
言えば引くような目で見られる。なんだよ、聞いたのそっちじゃん。
「ンなとこオレが知ってると思うか」
「えー、またまたぁ。じゃぁアンティパスト美味しいとこ」
「横文字やめろ」
「イタリアン、フレンチ、エスニック……」
「よし、焼き鳥な」
「意見聞くふりで決め打ちやめてよ」
はっ、と笑い声を上げた和泉守の吐息は夜空を白く濁らせる。もう冬だな。意識して口から息を吐き出すと、景色が少しだけ白くけぶった。
和泉守は席に着いた途端に置かれた飲み物のメニューを、ついとこちらに押しやって食べ物のメニューを開いた。飲まない時はお茶と決まっている和泉守は、基本的にメニューを見ない。お茶の無い和食屋は無いからだ。おしぼりで手を拭きつつ目を落とすと、聞いたこともない日本酒の銘柄が並んでいる。
「どうしよう、日本酒だらけだ。鳳凰美田、群馬泉、美少年、中々……」
「途中から焼酎になってねぇか」
「え? あ、ほんとだ」
字面が気になるお酒の名前をピックアップして読み上げていたら、いつの間にかメニューの種類が変わっていた。お酒って難しい。和泉守は鼻で笑って
「大人しくレモンサワーでも飲んどけ」
と言う。飲める奴はこれだから、と強くないお酒しか飲めない自分の子供舌を棚に上げて鼻白んだ。
「ていうかこれ、絶対お酒美味しいからここにしたでしょ」
「お、よく分かったな」
「バイクの人がお酒で店選ばないでよ、勿体ない。こういう所は飲める時、飲める人と来て。堀川くんとか」
「国広とはこないだ来たんだよ」
「仲良しか」
しかし何と言われようと飲めないものは飲めないので、お通しを置きに来た店員にお茶とレモンサワー、和泉守セレクトの食べ物を頼む。大体の好みはお互い把握しており、セレクトに異論はないので黙っておいた。
しばらくすると諸々運ばれてきて、お茶とレモンサワーで習慣的に乾杯した。一口飲むと、舌の上を泡の粒々が滑って喉を締め、鼻から密かなレモンの香りと丸くなったアルコール臭が抜けていく。それだけで鼻の奥から酔いが溜まっていくようで、今日は回りが早そうだからセーブしようとこっそり戒めた。ちょっと浮かれているのかもしれない。
和泉守が差し出してくれた箸を割って、早速焼き鳥をつまむ。ふっくらした身に、塩だれと鳥の甘い脂が溶ける。うん、美味しい。この男に付いていくと食べ物はハズレが無くていい。そんなに食に割くお金がなかった学生時分から、リーズナブルなのに美味い店を探し当てる名人だった。和泉守は無頼漢に見えがちだけど実はいいとこの出なので、舌が肥えているのだ。だから私は和泉守が薦める食べ物は、お酒以外は大体トライすることに決めている。
あれもこれも、と手を出してテーブルに載る料理を一巡してようやっと人心地ついた。
「おいしいねぇ」
ポロリと出た声は自分でも驚くほど幸せそうな響きだ。和泉守は満足げに、そうかよ、と頷いて笑った。
「アンタ、美味い飯食ってる時が一番幸せそうだもんなぁ」
「和泉守のオススメ美味しいから」
「どうせ普段ろくなもん食ってねぇんだろ」
「うーるさーい」
「食い溜めしとけよ。また向こう一か月は一緒に飯も食ってやれねぇからな」
その言葉にハタと動きが止まる。まさか。
「え、嘘。またフランス出張?」
「いんや、今度はイギリス」
ピースサインを向けてそう告げる目の前の男に愕然とする。はぁ? はぁ!?
「うーそーだー! こないだ帰ってきたばっかじゃん、お帰りってお祝いしたばっかじゃんか」
「嘘じゃねぇよ。これでもちょっと遅らせたほうなんだぜ?」
和泉守が嘘を吐くような奴じゃないのは知ってる。知ってるけど信じたくなくて箸を持ったままテーブルに突っ伏した。ゴン、となかなか良い音がしてフツーに痛い。
「なーんだよー、学生の時は「オレの土俵は日本だ!」って息巻いてたくせに……こんなに遊べなくなるとか聞いてないー……」
「あー、まぁなんだ、オレが優秀すぎるってこったな」
わざとらしいまでに明るく響く声に、心がしぼむ。
「これだから大企業のヤローは嫌いだよ……」
恨みがましく呟いてチラリと和泉守を見ると、居心地悪そうな顔をしていた。決定事項だ。和泉守でも変えられない。言っても仕方ないことで責めたくない。一つ深く息を吐いて不満を逃がす。気を取り直して顔を上げた。
「将来有望そうで何よりデスネ。で、いつから」
「明日」
「明日ぁっ!?」
想像よりずっと早い話に目を剥いた。この男のホウレンソウは一体どうなってんだ!
「え、こんなところで油売ってて良いの? 準備は?」
「もう荷物は配達に出した。あとは空港で受け取るだけだ」
出張準備の午後休でよ、と和泉守は所在なさげにお茶を啜る。それでバイクなのか、と今更ながら納得した。家から直接待ち合わせに来たのだ。よくよく考えたらスーツじゃないことに、まず疑問を持つべきだった。学生時代とあまり変わらぬ出で立ちだったから、違和感がなさ過ぎてスルーしてしまった。
「明日早いの?」
「13時の便だからそうでもねぇよ」
はぁ、と気の抜けた相槌が出る。正直それが早いのか遅いのかも良く分からない。なんか驚き過ぎてキャパオーバーだ。ぐったりした気分でいると、
「まぁ許せよ。ここは奢ってやるから」
と、やけに呑気な話が聞こえる。許すも何も、別に怒ってませんし。どうしようもないことに怒れる程の元気は、社会に出ていくらか経つ私にはもう無いのだ。
「お金は貸さないのがポリシーだったんじゃないんですかー」
「元から返ってこねぇものを貸すとは言わねぇだろ」
「人を踏み倒し屋みたいに言わないでくださいー」
返しつつ、ちゃっかり食べ物のメニューを手に取る。奢りと聞いて遠慮する謙虚さは持ち合わせていない。その様を見て、和泉守は呆れたように鼻を鳴らした。
言葉通り本当に奢ってくれた和泉守の横を、パンパンになったお腹を抱えて店を出る。駐車場まで連れられて、和泉守が駐車料金を払っている間その横にしゃがみ込んで待った。うーん、あきらかに食べ過ぎだ。苦しい。
「ほら、帰るぞ」
いつの間にか隣に和泉守がヘルメットを差し出して立っていた。頷いて重い身体を持ち上げ、ヘルメットを受け取る。が。
「え、これ堀川くんのヘルメットじゃん」
「あぁ? ただのメットだろ」
「私の中でこれは堀川くんのなの。私がいつも使ってるやつは?」
「あー……」
宙を見つめて唸るから、これは持ってきてないなと判断する。ため息をついてヘルメットを被った。この男には基本的にデリカシーが欠けている。かと言って堀川くんがこのヘルメットを被った私と鉢合わせた所で特に怒る想像もできないから、男の子ってこういうもんなのかもしれないけど。
タンデムシートに乗って和泉守の腰に掴まる。和泉守は平均男性より全然大きいので背中も広い。昔は手が回り切らないことが不安定で少し恐ろしかった。だけどいつか何の気なしにそう言った時から、私を乗せる時は少しスピードを落としてくれるようになった。
そういう所は気が回るのにな、と少々失礼なことを思いつつ、ゆっくりと発進するのを感じてぎゅうと抱き着く。指に感じるライダースジャケットは一瞬身を引きたくなるほど冷たかったけど、すぐに手に馴染んだ。
景色を置いていくように、風を切って走るバイク。当然ながらその上は、とてつもなく──寒い。
「やっぱり寒いじゃん!!」
「あぁ!?」
「さーむーいーっ!!!」
「はっ、聞こえねーっ!」
「嘘つけバカーっ!! 腹筋震えてんの分かってんだからね! わーらーうーなーっ!!」
走るバイクの上でひたすら言い合った。なんであの軽装備でこの風が耐えられるのか理解できない。こちとら叫ぶだけでも歯が震えて仕方ないっていうのに。感覚が狂ってんじゃないのか、この男。内心、宇宙人に相対した時のような感覚の違いに憤っていると、すぐに最寄り駅付近に着いた。
「あ、ここでいい」
住宅街に入って更にスピードを落とした運転手の肩を叩いて言うと、怪訝な声が返ってくる。
「アンタんち、もうちょい先だろ?」
「前に貴様がうちのアパートの前でバイク吹かしてくれたから、近所迷惑だって死ぬほど大家さんに怒られたんだよ! いーから降ろして!」
叫んで返せば、アパートから2ブロック手前辺りでようやっとバイクが止まる。よっこいせ、ともたもた私がバイクを降りる間、和泉守はエンジンを切った。ちょっと気にしてくれたらしい。愛いやつ。
ヘルメットを外して、心の中で堀川くんに感謝と謝罪をしつつ和泉守に渡す。このヘルメットのおかげさまで無事に帰れました、堀川大明神ありがとう。
「それじゃ、また一か月後にね」
「おう。家入ったら連絡いれろよ」
「そっちこそ、出張終わったら連絡してよ。これから和泉守が出張行って帰ってくる度に、いつもの面子でお疲れさま会やるからね」
「あいつらは飲みたいだけだろ」
「いーから、約束ね」
念を押せば、へぇへぇ、と気のない返事が返ってくる。まぁ、たとえ和泉守が連絡を意図的に忘れたところで、堀川くんが教えてくれるから大丈夫だろうが。
それじゃ、と名残惜しい気持ちで手を振って踵を返した。私が和泉守を見送ることはない。私が家に到着したのを確認するまで、和泉守は動かないからだ。そういう男なことを知っているから、なるべく早く家に着いてメッセージをいれようと早歩きで進む。その間、突然寂しさが襲ってきて下を向いた。地面を眺めながら、あーあ、と思う。また和泉守のいない日々が始まるかと思うと気が滅入る。つまんないの。
家に着いたら存分に悪態をつこう。気分は晴れないだろうけど、それでも堪えるよりは心に良い気がする。
「あぁ、そうだ」
と、後ろで声がするから振り向いた。街灯に照らされた和泉守に、無言のまま全身で首を傾げるポーズを取る。帰ってくる日でも教えてくれるのだろうか。待っていると、
「誕生日、おめっとさん」
という言葉が、静寂にポンとぞんざいに放られた。衝撃に微動だに出来ずにいると、バイクのエンジンがかかる音が耳に届く。私はヘルメットを被りなおす和泉守を見つめて、信じられない気持ちで立ち尽くしたままだった。
なんだよ、覚えてたんじゃん。もっと早く言えよ。そしたらなんか、もうちょっと上手いことも言えたのに。ていうか。ていうか、もしかしてこれを言うために、出張ずらしたのか。バカじゃないのか。私の誕生日なんて、和泉守にとっては何でもない日なのに。覚えて、無理に予定を空けて、祝ってやろうだなんて、そんなこと。毎日会ってた学生時代でもないのに。
なんだよ。ズルいな。
相変わらずめちゃくちゃカッコ良くて、めちゃくちゃズルいな。
「和泉守!!」
エンジン音に負けないように声を張り上げる。和泉守がこちらを向く。
「あーりーがーとーっ!!」
ヒッチハイクでもするみたいに大きく手を振って叫んだ。和泉守が優しくしてくれるのが、私はいつも、すごく嬉しい。
和泉守は泣き笑いのまま不格好に左右に振れ続ける私に、近所迷惑だろ、と言って笑った。
会社にいる。休みの日なのに、会社にいる。
何故か。休日出勤をしているからだ。
先方都合……というか先方社長都合なのでしょうがないのだが、ひたすら案件が上がってくるのをパソコンの前で待ち続ける休日、というのはなかなかヘビーなものである。それも先週再三直しに直して、こうじゃないああじゃないと散々ネチネチやられ、その上でもう良いと投げるようにOKを貰ったものが、実はまだ社長の確認が取れていない案件でした、なんて言われた日にゃぁ、腹の虫ももんどりうって歯軋りするというものである。
いくら先方の若い仲介役の女性に何度電話口で
「すみませ~ん」
と謝られようが、私の刻一刻と無くなっていく休日の時間は戻ってこない。心境としては
「ごめんで済んだら警察いらない、っていうかそもそも犯罪とか存在しなくないですかぁ~?? お前の社長を蝋人形にしてやろうかオイ~??」
って感じだけど仕事相手になかなかそんなことは言えない、っつーか言ったら始末書って感じなので
「いいんですよ~」
としか言いようがない。不毛である。
すぐ終わると踏んでいたから昼ご飯も買わずに来てしまったのに、もう16時だ。切実にお腹がすいた。隣席の同僚が非常食用にデスクに隠しているカップ麺に何度手を付けそうになったことか。だけど私は泥棒にはなりたくなかったし、コンビニにも行けなかった。
何故か。私以外に会社に人がいないからだ。
先方から会社に電話がかかってきても! 私以外に! 取る人間が! いないからだっ!!
つまり私は朝11時というちょっと遅めの出勤をしてから今まで、だだっ広いフロアに一人で先方の返答を待っていたわけだ。正直、人っ子一人いない放課後の教室よりも寂しい。電気代節約のためという理由で、私のデスク近辺しか電灯が点いていないのもこの寂しさに拍車をかけている。いや別に点けりゃいいんだけどさ。なんとなく面倒くさくてこのままになってるだけで。
あんまりにも返事が来ないから、諸々の雑務、経費整理までこなしてしまった。それから個人のSNSチェック、アプリゲームにetc.それでも時間が余ったので、さっき一頻りミュージカルごっこまでやってしまった。いよいよやることが無い。
しかしそんな心もとない時間もようやっと終わりを告げた。先方からのお返事を見て、私は天に拳を突き上げた。
やった……!! これで帰れる……!!
先方のメールには最後にチラと一文、「お待たせして申し訳ありませんでした」と書かれている。彼女もこれで帰れるんだな……良かった良かった……と、妙な連帯感を感じて、心の中で握手するつもりで受け取りの返信をする。
その受け取ったデータをさらに検分して別の所に転送したら、私の仕事は終了だ。ギリギリまで締め切りを伸ばしてくれた転送先の相手にも深い謝意を表したメールを送り、ついでに電話でちゃんと届いてるかどうかの確認をして、完了。
そこまでやってようやくデスクで伸びあがる。
「ん~っ、つっかれたぁ……」
口にするとドッと疲れが増してくるようで、深いため息をつく。
あーぁ、今日はホントは会社用の夏服買いに行く予定だったんだけどなぁ。あと新しい靴。そんでどっかで美味しい昼夜兼用のご飯を食べて、家でゆっくり眠る……そんな楽しく、実用性も兼ねた休日がぜーんぶおじゃんだ。
冷静に考えると虚しくなって、しばらく目を瞑って熟考した。服と靴は……今日は諦めよう。だけど昼夜兼用の美味しいご飯の予定ならまだ間に合う。多分。それもとびきりのやつが。
思い立って、すぐに目当ての相手にメッセージを送る。
『今日の夕飯なぁに』
しばらくすると既読がついて、
『鍋』
という簡潔な答えが返ってくる。てっきり『決めてない』とか言うと思って、どこか誘おうとしていた心が別方向に飛んでいった。
鍋。鍋かぁ。
『もう夏だよ?』
『いつでも鍋は美味いだろ』
そう言われたらそんな気がしてきた。何鍋かにもよるけど。
『私キムチ鍋食べたい』
『国広に言え』
『え、なんで!?』
『さっき材料買ってこっち向かうって言ってたから』
『仲良しか』
既読はついたけどそれきり返事が無くて、むぅ、と口を尖らせる。これは行っていいってことかな。少し考えたけど、もう会う気分になってしまったので止められない限りはゴリ押しで行こうと決める。
『これから会いに行くねダーリン♡』
と送ってからパソコンの電源を落とす。鞄を掴んでスマホを入れようとすると返信が来た。
『鍋食いに、の間違いだろ。つぅか、国広に言え』
「和泉守だいすき!」
独り言を言って、タイムカードを切る。小走りでエレベーターホールまで出ると、ゴキゲンでボタンを押した。
やったね、今日は人の作ったお鍋だ!!
いつか笑い話にする今日のこと
「キムチ鍋じゃない」
煮え立つ前の鍋を前に、私の第一声はそれだった。
「キムチ?」
「あ、やべ」
堀川くんと和泉守の声が重なるように響いた。これだけで責任の所在が分かる。
「悪い。国広に言い忘れたわ」
煮えているのは紛うことなき寄せ鍋で、和泉守の雑な謝罪にガックリと項垂れる。
「もう……キムチの……お腹で来てしまったんですけど……」
「悪い悪い、とりあえず食え」
「うぇぇ、休日出勤を頑張った私になんて仕打ち」
謝罪されてもなかなか気分が上がらず、うえうえ言って嘆いていると、堀川くんがスススッと近づいてきて私の手から鞄を取って椅子に置いてくれた。
「すみません、キムチ鍋が食べたかったんですね」
と、苦笑交じりに謝罪されて首をブンブン振った。
「なん、なんで堀川くんが謝るの、違う、違うんだよ、私寄せ鍋も好き」
「なら良かった。生姜たっぷり入れた鳥肉団子、沢山作ったので食べてください」
「うん、食べる、ちょう食べる」
ニコ、と笑われて、あまりの眩しさに目が潰れそうになりながら赤べこの如く頷いた。和泉守は素知らぬ顔で、一足先に鍋をつついている。この差よ……と思いつつ、促されるまま手を洗って食卓についた。
「いただきます!」
「召し上がれ」
堀川くん特製の鳥肉団子はアツアツで、口に含むとプリッとした食感の後に旨味と共にホロホロ崩れて、それはもう絶品だった。ほんのり鼻から抜けていく生姜の香りが後を引き、もうひとつ、もうひとつ、と箸を繰り出す手が止まらない。
「この肉団子おいしい! 堀川くん、やはり天才なのでは」
「あはは、ありがとうございます」
「いや本当においしい、店を開けるレベル」
「そりゃまぁ、国広だからな」
「なんで和泉守が偉そうなの」
「今日、休日出勤なんでしたっけ」
「そうなの聞いて! もう超ちょう無為な時間を過ごした!」
「給料泥棒か?」
「人聞き悪いこと言わないでくださいー、先方都合ですぅー! OK貰ってたはずのものが実は相手社長的には寝耳に水案件で、急きょ確認取ってもらってたんですぅー!」
「それは……大変でしたね」
「うっ、堀川くん駄目……今優しくされると泣いてしまう、号泣してしまう」
「おう、泣け泣け」
「タオルありますよ」
「胸でも貸してやろうか?」
「お酒飲んで忘れます?」
「優しさのコンボやめろ、ホントに泣いちゃうだろ!」
じんわり汗をかきながら三人で話しながら鍋をつついていると、良い頃合いで堀川くんが問いかけた。
「シメは……おうどんとおじや、どっちにします?」
「米!」
「うどーん!!」
対立する意見に、向かいに座る和泉守を思わず信じられない目で見る。と、ガンをつけられた。むぅ。
「うどんうどんうどん、絶対にうどん! 定期外の所にわざわざ足を運んだ私に譲ってよ!」
「なら他所で食え、他所で!」
「いーやーだー! みんなで食べなきゃ美味しくないもん!」
「人んちだと思ってでけぇ声出すんじゃねぇ!」
長い腕がテーブルの向かいからヌッと伸びてきて、鼻をつままれる。ふがふが言いながらも猫パンチで手首を狙うが、その前にパッと離され逃げられてしまった。和泉守のほうがよっぽど声が大きいくせに、解せない。
「じゃぁ、おうどんにしましょうか」
「好きにしろ」
堀川くんが言って、和泉守は後ろ手をついてぞんざいに返す。勝利を得た! 満足して鼻を鳴らすと、和泉守は呆れ返ったような、憐みのような、慈愛のような目を向けてくる。
「何その顔」
「変わんねぇなと思ってよ」
「やーん、変わらず若々しいねって?」
「いや、食い意地が張ってるところが」
「ねぇ、ホントにうるさいんだけど」
言い合っている間にうどんが投入されて、出汁をたっぷり吸ったそれが堀川大明神の手で取り分けられる。社会に出てから、同期と比べた時に露呈する自分の取り分け技術とか配慮の無さには愕然としたものだけど、恐らくそれは学生時代から飲むと言ったらもっぱら和泉守とだったからな気がする。和泉守のいる所には大抵の場合、こうやっていち早く取り分けてくれる堀川くんがいたのだ。
お椀を受け取って、
「ありがとう、堀川くん」
と、お礼を言う。堀川くんは、熱いですから気を付けてくださいね、と気遣いの言葉まで添えてニコリと笑ってくれた。
「気遣いヤバ。嫁に欲しい」
「なんて?」
「なんでもない。おうどん美味しいです」
「こんな出来た男がアンタの所に嫁ぐわけねぇだろ」
「うるさいな! 夢見たい日だってあるの! 独り言を拾わないで!」
容赦なく和泉守に切って捨てられつつも、シメまで美味しく頂いて満足感に息を吐いた。至福だ。これで今日の不幸と幸福のバランスが取れた。どころか終わり良ければ全て良し効果か、今日一日がまるっと幸福な日であったかのようにさえ思える。
「幸せだなぁ」
思わず口から零れ落ちて、なんだか自分でも簡単なタイプの人間だなぁ、と思う。だけどお椀をシンクに下げるために席を立った和泉守が褒めるようにグシャグシャと髪をかき混ぜたので、多分これは良いことなんだ。と思うことにする。
三人で後片付けをしたり、材料費を割り勘したりしながら、しばらく満腹感でのんべんだらりと過ごしていると
「あ、じゃぁ僕そろそろ帰りますね」
と堀川くんが時計を見ながら席を立った。てっきり堀川くんは和泉守の所に泊まっていくのだと思っていたので、はてと首を傾げる。
しかし和泉守は特に理由も聞かず、おう、と堀川くんを見送った。堀川くんが去って行った後、
「泊まってかないんだね、堀川くん。用事でもあるのかな」
と和泉守に言ったら、彼は
「あぁ、女だろ」
とだけ返してきたので目を剥いた。
「えっ、堀川くん彼女できたの!? 和泉守、捨てられちゃうじゃん! って、イタタタタ、人の頭を肘置きにしないで!!」
「ふざけたこと言うからだろうが。つぅか、あいつ今まであんまり女切れたことねぇだろ」
淡々と言う和泉守にますます信じられない気持ちで口元を抑えた。
「嘘……一度も報告してもらったことない……」
「オレだってされたことねぇよ」
「え、じゃぁなんで知ってるの」
「勘」
「以心伝心……?」
「勘だっつってんだろ」
和泉守経由でそこそこ仲が良いと思っていた私が愕然としていると、女ってそういうの報告し合うの好きだよなぁ、と和泉守は大きな括りでもって言ってテレビのチャンネルを替えた。
「男の子ってそういうのしないもん?」
「オレはしねぇな」
「えー……」
「言っても別に付き合い方が変わるわけでもねぇだろ」
「うーん……」
そうだろうか。そういうものだろうか。和泉守は彼女が出来ても、彼女優先とかにはならないってことなのだろうか。確かに和泉守は誘うといつも二つ返事で、昔も今も変わらないノリの良さで遊んでくれるけど……と、そこまで考えてハタと一つの可能性に気付く。
「え、待って。今とんでもないことに気が付いた。もしかして和泉守、彼女いたりする? なう」
そうだ。付き合い方が変わらないということは、私ではその状況の変化を見抜けないかもしれないということなのだ。つまり、現在進行形でいるかもしれないということなのだ!
和泉守は怪訝な顔でこちらを向き、真剣な私の顔を一眺めした後、
「いるっつったらどうすんだよ」
「いる!? いるの!? なう!?」
「いねぇよ、例えばの話だ! 叫ぶんじゃねぇよ!」
思わず掴みかかる勢いで聞いた私を手で制し、和泉守はそう重ねて問う。例えば、と言われて安堵したのも束の間、その状況を思い浮かべて気分が重くなる。
例えば。もしも、和泉守に彼女が出来たら。
「えー……困る、困る、けど……そりゃ、控えるよ、色々と」
「色々」
「う、ん。連絡とか、飲みとか、色々。生物学上、私も女だし、未来の彼女さんが嫌がるだろうことは、なるべく」
私が捻り出した答えを、和泉守は聞いてきた張本人のくせに、ふーん、とも、はーん、ともつかない興味無さそうな声で返してチャンネルを替えた。どこもかしこもCMだらけで、しばらくカチャカチャ替え続ける。
私は色とりどりに替わり続けるテレビをぼんやり眺めて、
「教えてね。ちゃんと。その時になったら。……和泉守が悪者にならないように、ちゃんとするから」
と言った。和泉守は延々チャンネルを替え続けていたリモコンを最終的に放るようにすると
「言わねぇよ」
と答えた。
………。
「いや、なんでだよ!」
「あぁ?」
「今けっこー意を決して言ったけど私! なんで? なんで人の気遣い無に帰すようなこと言うの? え、怖い。訳分からない通り越して怖い!!」
「オレが付き合い方変えねぇつってんのに、そっちが変えてどうすんだよ。絶対言わねぇ」
「頑な~~~!? いや、絶対嫌がると思うよ相手。普通に考えて無理でしょ、好きな男が他の女と二人で会ったり飲んだりするの」
なぜ、私のほうが説明し、諭しているのか全く分からない。分からないけどそうしなくちゃいけない使命感に駆られて口うるさく言う。しかし和泉守はとうとう腕を組んでしまって、
「それが嫌な女とはそもそも付き合わねぇ」
と宣った。
そんな心の広い女、世の中に存在する……? それ、もはや和泉守に興味のない女じゃない……? 動揺しつつも、和泉守の意志を変えるのはなまなかには出来ないことなので溜め息をつくに留める。
「でけぇ溜め息」
「誰のせいよ!」
手近にあったティッシュケースで殴ると、和泉守はケラケラと、学生時代から変わらない快活さで笑った。
他愛のないことをポツポツと話していると、すぐに時間は過ぎた。和泉守は時計を見ながら
「明日は?」
と聞く。
「い、ちおう、午前休」
「なんだ一応って」
「午前休、好きじゃないんだよ。なんか損した気分になんない?」
「ならない」
「早起きの健康優良児め!」
「午前休なら泊まってくか?」
突然の提案に言葉が止まる。いつもは気分だけですぐに答えが出るのに、今日はなんだか色々考えてしまう。
さっきあんな話をしたからだ。いつかの時のために、せめて今からでも『泊まり』という選択肢は外しておいたほうが良いんじゃないか。そんなことを思ってしまう。
考えた結果、私は首を振った。
「か、える。帰ります、今日は」
「なら送ってくわ。ちょい待ってろ、着替える」
意外に呆気なく言われて少し肩透かしを食った気分だった。用意していた言い訳が霧散していく。
何か言うかと思った。変な気を回すな、とか。そういうことを。
「行くぞ」
着替えを終えた和泉守に声をかけられて、私は動物のように飛び上がる。そして廊下を先行く和泉守の後を追って、先手を打つように話しかけた。
「あの、さ、和泉守」
「んだよ」
「えっと、」
だけど責められてもいないのに言い訳は出来なくて、髪を触ったりして誤魔化していると和泉守は私をジッと見下ろした後
「オレは変わらねぇけど、アンタに変わるなとは言わねぇよ」
と言った。
「アンタが変えたいと思うなら、変えりゃぁ良いだろ。オレはオレで好きにするし、アンタもアンタで好きにすりゃぁ良い。オレとアンタは、対等なんだからよ」
それを聞いて、私は──
「やっぱり泊まるかもしれない……」
「あぁ!?」
「嘘です! やっぱり帰ります今日は!!」
舌の根も乾かぬ内に大きく顔の前でばってんを作ってみせれば、和泉守は、どっちだよ、と笑う。
チャリ、と鳴るバイクの鍵をポケットに突っ込んだ彼がドアを開けると、にわかに湿った重たい空気がブワリと中に吹き込んだ。舞い上がる黒髪に蛍光灯の光が踊る。
ずっと、このままいられたら良いのになぁ。ずっと、──変わらなくちゃならない日が来なきゃ良いのに。
和泉守の後ろ姿を見て思う。けれどそれは彼の不幸を願うことにも似ていて、なんて友達甲斐の無い奴だろうと自省する。
頑なで、強情で、変な所が気難しくて、魚も棲まない澄み切った心の、美しいこの人が、どうか幸せになりますように。
和泉守兼定の願いが、どうか叶いますように。
生涯通して神に祈りそうもない友人のために、いつかそうやって祈れるようになりますように。
今はまだ彼のために、それだけしか祈れない。そのことを罰するように、頬の内側を柔らかく噛んだ。
君のいない今日のこと
しばらく連絡が来ないな、と思っていた和泉守から久方ぶりに連絡が入った。案の定、というかなんというか、飲みの誘いだった。さてはコイツ、見送り会を避けるために私に黙って出張に行ったな? 堀川くんに口止めをして……と勘ぐっていたところだったので、なぁんだ日本にいるんじゃん、と自分の疑い深さをこっそり悔いたりした。
とにかく久々の逢瀬に、わーい、と思いながらルンルン気分で了承し、適当に仕事をやっつけて待ち合わせの居酒屋に赴く。
和泉守はもう席に座っていて、先に始めていたようだった。四人掛けのテーブルに一人でどっかり座るスーツ姿の大柄な男。私の姿を見て取ると、半分ほどに減ったグラスを手元でくるくる回しながら片手を上げた。
「よぉ」
「おつおつ! 何飲んでんの?」
「八海山」
「ほほぉ……」
「分かったふりすんじゃねぇよ」
席に座ると「もう適当に頼んだぞ」と言うので、飲み物だけ頼むことにする。私には良いお酒のことなんぞついぞ分からんので、度数の低くて甘そうなものから気分で選んだ。
鼻歌まじりに手を拭いて、久しぶりに見る美しい顔面を堪能する。やに下がっている私を、和泉守は不審そうに見た。
「なんだよ」
「なーんでも」
目の保養、っていうのはこういうことだよね。うんうん、と一人納得したみたいに小さく頷き続ける私。和泉守は諦めたのか、またグラスを取って口に運ぶ。その伏せられた睫毛すら美しいんだからズルい。さしずめ気分は、兼さんカッコイイよ! って感じだ。
気を抜くとニヤニヤしてしまう口元を別のことで満足させようと、運ばれてきた刺身に手を付ける。ひんやりした鯛の甘い脂と薄口しょうゆの旨味が絶品で、舌の付け根がキュッと疼く。魚らしい固く崩れていく食感を楽しんで、喉の奥に流し込んだ。
チラリと見ると、和泉守も箸を割って手を付ける所だった。私は結構、気に入った食べ物を際限なく食べがちだけど、和泉守は満遍なく取っては口に運んでいく。味わいながらもモリモリ食べていくその姿は、見ている側に一種の爽快感すら与える見事な食べっぷりだ。だのに下品さとは無縁なのが、この男のすごいところなわけだけれど。
そういえば、食べ方はセックスに似てるって聞いたことあるな、とどこかで聞きかじった程度の話を思い出す。確か、満遍なくガツガツ食べる人はすごく上手いって話だった。
「そんなところまで抜かりなく完璧なのかよ、お前さん……」
「?」
思わずひとりごちると、和泉守が問い返す瞳で見てくるので首を振った。いかんな。久々に会う完璧な男友達に、テンションが上がり切って変な思考になっている。
頭を切り替えたくて
「最近どう?」
と、漠然とした質問を投げかけた。和泉守は少し考えて、
「んー……久しぶりの酒は美味いな、ってとこか」
と答えた。
「なに、禁酒でもしてたの?」
「まぁな」
殊勝な心掛けだわね、と笑うが、別に悪い酔い方をするでもない楽しい飲み方だったのに、と思って首を傾げる。
「なんでまた?」
と聞くと、和泉守は一度言うべきか言うまいか、というように逡巡した後、あー……、とバツ悪そうに頭を掻いた。
「怒んなよ?」
「え、何、怖い」
「バイクが壊れた」
「えっ!?」
あの大切にしてたやつ? という気持ちを込めて言えば、ていうか、と歯切れの悪い言葉を重ねられる。
「追突された」
「は!?」
「横から、左折の車に」
「え、」
「で、転んで、バイクは大破。で、オレもまぁ、その、ちょっとばかし入院をだな……」
「はぁ!?」
初耳のことばかりで混乱する。待って、何、なんの話してんの!?
「にゅ、うんいんって、あんたそれ、」
「やめろバカ、急に泣くんじゃねぇ! 大したことねぇんだってマジで、あーっ、だから言いたくねぇんだよ!」
べし、と飛んできたお手拭きを顔面でキャッチする。情報の衝撃に、不用意に流れ出てきそうな涙を気合いで引っ込め、先を促す。
「入院って、どこ悪いの」
「……鎖骨骨折。もうボルトいれる手術も終わって、今はもっぱら通いでリハビリだ。仕事も復帰した」
「脊椎とか、」
「ねぇよ。あったらこんな所で酒なんか飲めるか」
「そ、っか……そうだよね」
動揺のあまり言い募られる事象の数々が上手く飲みこめない。自分でも聞いてんだか聞いてないんだか良く分からない返事をしているな、と思う内に、さらに畳みかけられる。
「駆けつけた警官が言うには、転び方が絶妙に上手かったおかげで助かったってよ。オレ様の運動神経の賜物だな」
「そう……そうなんだ」
「まぁ、ボルト抜くのにはもうちょいかかるけどよ。マジで健康だから心配すんな」
冗談めかして語られる当時の様子。そして最後にダメ押しとばかりに、な? と言い聞かせるように言われて、あまりの顔の良さに、そうか、と納得しかけた。けど、慌てて頭を振った。
和泉守はいつもこうやって、なんか不都合があるとすぐ私を言いくるめようとしてくる! 私が勝手に言いくるめられちゃうだけだけど!
「いや! いやいやいや、心配は、するでしょ……痛くないの?」
「最近はそうでもねぇよ。ただ、上司も一回ボルトいれたことあるって言ってたけど、すげぇ脅されたな」
「えっ!? 何、痛いの!?」
「いや。金属だから、冬になるとすげぇ冷たくなるって」
「あ、そ……」
「あからさまに興味を無くすな」
「だって、冷たいってあーた、痛いよりかは全然ましでしょ……あービックリした……」
身体から力を抜いて、ボス、と背もたれに寄りかかる。なんか、すごい、疲れた……。でも、まぁ……不幸中の幸いってやつなんだろう。運動神経もそうだけど、悪運が強いな、この男は。
しばらくホッと胸を撫で下ろしつつそんなことをボンヤリ考えていたけど、あることに思い至ったタイミングで沸々と怒りが沸いてくる。
背もたれから身を起こして、据わった目で和泉守に聞く。
「それって、堀川くんは知ってんの」
「おう」
「いつから」
「……怪我したその日に」
私の短い言葉の問いかけに、どうも旗色が悪くなってきたことを察したらしい。和泉守の答える声は小さい。
「他の面子は? 知ってんの?」
「まぁ……」
「いつから?」
「見舞いには、来てたな。入院した時」
そこまで聞いて、ブチン、堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた。
「なんっで! 私だけ! 今日の今日まで知らないわけ!?」
ガン、テーブルを思いっきり叩いて絶叫した。店員がチラとこちらを見たけど、気にしてる場合じゃない。
もう怒った! なんで!? なんで私だけ見舞いにも行けず手術のことも知らず、出張を勘ぐったり、久しぶりだな~みたいな呑気な気持ちで会いに来て、いきなり爆弾落とされなきゃならないの!?
「言えよ! もっと早めに!!」
怒りが収まらなくて何度かテーブルを叩いた。和泉守が図体に似合わないボソボソ声で何か言いかける。
「お前、だって……だろうが」
「はぁ!? 何! 声が小さくて全っ然聞こえない!!」
「だぁら! 聞いたら泣くだろうが、お前は!!」
叫び返されて、一瞬気圧された。けど、言葉の中身を整理して理解したら、もう一度身を乗り出して怒鳴り返していた。
「当たり前でしょ!? それが何!? 友達が大怪我して、一歩間違えたら死ぬとこで、それで泣いたらなんだっつーのよ!!」
泣かせたくないならそもそも怪我なんかすんなバカ!! と、怒りに任せてお手拭きを和泉守の顔目がけて投げつけ返す。手で軽々キャッチすんな腹立つ!!
「それが困るんだっつーの!」
「あぁそう、なら延々困ってろ、このスカタン! 私の涙で和泉守の罪悪感が呼び起こせるなら安いもんだわ、この場で号泣してやろうか!?」
「やめろバカ、スイッチ入れたみてぇに泣くんじゃねぇよ!」
「そっちこそ反省しなさいよ! 心配くらいキチンとされろ!!」
緊張感なくボロボロ泣き出す私に、和泉守は途方に暮れたような顔をして、しばらく手を上げたり下げたりしていた。だけど私の涙が止まらないことを悟ると、観念したように目を瞑り、おもむろに立ち上がってこちらに来る。そして私の隣に座ると、無言で何をするでもなく私を見つめる。
嗚咽まじりにズルズル鼻をすすると、和泉守が止まらない涙に濡れた目元を手で覆う。温度が移ってふんわりと暖かくなる。もう一度鼻をすすると、和泉守が纏う清潔な石鹸の香りと、かすかなアルコールの匂いがした。
「化粧剥げてるぞ」
「誰のせいよ」
「オレ、だな」
「そうだよ」
短く詰るように言うと、和泉守は諦めたように一つ深く息をついて
「分かった、悪かった。オレが全部悪いわ。だからもう泣くな」
「……手で隠しちゃって見てもいないくせに、調子いい」
涙声で返したら、痛い所を突かれたというような間の後、和泉守が派手な傷口を見るみたいにおそるおそる手を下ろす。涙でベタベタになったほっぺのまま睨み上げると、なぜか和泉守のほうが傷付いたみたいな顔をしていた。
下ろした手が迷うように揺れて、それから私のほっぺを拭うように触れる。涙が塗り広げられるような感覚に、鼻に皺を寄せて耐えた。
「もう泣き止めって」
「なんで上からなの」
「悪かったって言っただろ」
「反省の意が感じられない」
「どうしろっつーんだよ……」
駄々をこねる子供に相対する親戚のように、和泉守は困り果てた顔をした。そして私の肩に腕をかけてガックリと項垂れると
「なぁ、頼むって。……アンタに泣かれると、どうして良いか分かんねぇんだわ」
と言う。女の涙に弱いだなんて、大時代な男だな。そんな感想が頭にのぼった。
私は別に、和泉守に私の涙をどうしてほしいとも思わない。ただ、激情に誘われて出てくるものは出てくるし、止められないものは止められないのだ。
だけど和泉守の弱った姿を見ていたら私の心の荒波もどうにかこうにか収まってきたので、スン、と再度鼻をすすった。目がしょぼしょぼして仕方ないけど、幾分スッキリはした。塗り広げられた涙をお手拭きで抑えながら言う。
「本当にもう、どこも痛かったりしないんでしょうね」
「ないない」
「本当に? 嘘ついたら酷いよ?」
「ねぇって」
「……今度内緒にしたらひっぱたくからね」
「おう」
私の涙が止まっていることに、和泉守はホッとしたのか笑って請け合った。だけどこっちとしては、そうか、と急に信用も出来ないので、今度堀川くんに会った時には必ず報告するよう釘を刺さねばとコッソリ決心する。
私の胸の内など知る由もない当の本人は、私の前に料理の皿を集めて押しやっている。そして私の使っていた箸で卵焼きを一切れ摘まむと
「ほれ」
と口元に寄せてくる。
物を食べさせとけば機嫌も直るだろう、みたいな思考が透けて見えてムカついたけど、実際泣き止んだらお腹が空いていたことを思い出してしまった。仕方なく餌付けされる雛の如く、五口ほどは入れられるままに咀嚼した。
しかし口元で椀子蕎麦みたく次の一口がぶら下がってるのは妙に気まずくて、結局は和泉守の手から箸を引ったくった。ご飯くらい私のペースで食わせろ。
拗ねた気持ちのまま食事を再開する。こうなったら和泉守の財布がすっからかんになるまで食べて、意趣返ししてやる。
モリモリ食べまくる私をよそに、和泉守は私の隣に座ったまま、自分の席から引き寄せてきたグラスの酒をちびちび飲んでいた。ちゃんとご飯を食べてるか、ちゃんと元気が出たかどうか、観察でもするみたいにじっくりとこちらを見つめながら。──正直、目線がうるさい。人の食事姿を肴に酒を飲むな。
様子を窺うような視線に、またムカムカが戻ってきたので口にする。
「言っとくけど、私の目の黒い内は二度とバイクなんか乗せないからね」
和泉守は、ぐ、と口ごもる。
「いや、それは」
「何!? なんか不満でもあんの!?」
メンチを切らんばかりに睨みつければ、和泉守は苦虫を噛み潰したような顔で目を瞑った。
「返事は!?」
「……った」
「声が小さい!!」
「分かったっつってんだろ、うるせぇな! ……っていうか、なんで追突されたオレが怒られんだよ、意味分かんねぇ」
まだぶつくさ言うので、拳を振り上げて殴り掛かるポーズを取る。和泉守は口を噤んで、「ケッ」と吐き捨てるように言う。全然反省してないじゃない、と知らず眉間に皺が寄った。
ダメだコイツ、早急になんとかしないと。なんとか……こう、良い感じに矯正しないと。
いつか私の知らない所で、花火が散るみたいにいなくなってしまう。
それは静かに老成していくよりもずっと和泉守の雰囲気に合っていたけど、私はそれでは嫌で、なんとかこの男を現実に繋ぎ止めておきたかった。
──彼女の一人や二人、出来たら落ち着くようになるのかなぁ。酒を飲む横顔を眺めて考える。けど、和泉守の隣に立つ私の知らない女子、というのがちっともピンと来ない。それどころか、なんだかちょっとジェラシーまで感じるではないか。
変なの。和泉守は友達なのに。
そう思ってもどうしても具体的な想像が出来なくて、モヤモヤしたまま思考が霧散していってしまった。私は深いため息をつく。和泉守はそれを見て、私の前に料理の皿をいっそう密集させる。
そうじゃないんだよなぁ、と思ったけど、とりあえず黙々と口に運ぶ。和泉守は満足げに笑った。
……名案が思い浮かぶまでは、一旦保留にしておこうかな……と考えを先送りにした。この、自信満々にどこまでも走って行って、ある日ぷつりと消えていなくなってしまうようなところのある男のことを、ちゃんと叱って、管理して、手綱を握ってくれるような女の子を探すのはなかなか至難の業であるように思えたからだ。
考えれば考えるほど知恵熱が出てきそうな案件に、私は頼んでおいたサワーをグイと飲んだ。甘くて美味しいはずのそれは、なぜだかちっとも私を酔わせてくれなかった。
君のいない今日のこと(は、想像だけでも狂おしい)
その後、風の噂に和泉守がバイクを新調したと聞いた私が怒り狂って家まで乗り込むのは……まぁ、また別の話だ。