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    運命の人じゃないあなたへ

     
     私が五条鶴丸に出会ったのは、私が高校生の頃だった。
     と言っても、本当に会ったわけじゃない。最初、私は彼の顔を知らなかった。どういう人となりかも。
     塾までの時間つぶしに本屋に行って、ぶらぶら店内を歩いていて、そこで見つけた写真集が、偶然、彼のものだった。それだけ。表紙の鳥の写真がすごく良くて、思わず手にとったのが始まりだった。
     なんとなしにパラパラめくると、中身も良かった。写真のことは何も分からなかったけれど、美しいと思った。心が震えた。だけど全ページカラーの分厚い写真集は高校生が一冊の本に出せる値段の範疇を超えていて、時間ギリギリまで悩んだ末に、平積みの群れの中に戻して塾に向かった。
     数学を解いて、英語を読んで、さぁ帰ろうとすっかり暗くなった空にピカピカ光る街灯を見上げて、ふと思った。
     ──やっぱり欲しい。あの本。
     写真集のことなど勉強ですっかり記憶の隅に追いやられたと思ったのに、その時強くそう思った。結局、本屋に寄って、他には目もくれずにその本だけを懐に抱えて帰った。宝物を手に入れた気分だった。
     家に帰って、ページをめくる。やっぱり美しい。誰か有名な写真家なんだろうか。そういえば作者の名前も見ずに買ってきてしまった。

    「五条、鶴丸」

     一番後ろのページに載っていた名前を口の中で転がす。なんだか貴族みたいな名前。
     世界をこんなに美しく切り取る人。一体、どういう人なのだろう。ページをめくりながら空想する。

     必要なことは写真で語るから、もしかしたら口数は少ないかも。
     世界中を飛び回って景色や動物を撮っているみたいだから、もしかしたらヒゲモジャの屈強なおじさんかも。カメラマンというより山男的な、堅牢な背中を持った、日に焼けたアクティヴなおじさん。寄りかかっても倒れない、大樹のごとき。
     天然パーマにニット帽、たっぷりとしたお腹を覆い隠すセーターに、裾がボロボロの動きやすいジーンズ、それに、年季の入ったウインドブレーカーを羽織っている。だけどシャッターを押す爪はきっと綺麗で──ここら辺が貴族感──、そして、きっと優しい目をしてる。

     しばらくそうやって空想して過ごした。学校で、帰り道で、時々彼のことを思い出しては、彼の目にはこの景色はどう映るのだろうかと、頭の中で形作った『五条鶴丸』を目の前に召喚する。
     彼ならば私のなんでもない、受験だなんだと鬱屈した日常も、美しく彩ってくれるのではないか。そんな期待があった。
     いつしか居ても立っても居られなくなり、便箋を買ってきて、生まれて初めてファンレターを書いた。彼の個人宛てのものは分からなかったので、写真集を出した出版社宛てに。
     ウンウン唸って考えて、何度も書き直して、出来上がったのは感想、というよりは、ただただ写真集を賛美するようなものだった。「すごく綺麗で」とか、「感動して」とか、「あなたの写真が好き」とか、とにかくふんわりした感じの出来。自分の語彙のなさが情けなくなる。
     なんかファンレター、というより、ラブレターみたいになっちゃったのも、ちょっと変かも。なんでだろう。最後にお母さんの香水をひと吹きしたのが余計だったのかな。小細工凝らしすぎた? でも、なんかこの手紙は特別だって、彼に思ってもらいたかった。
     これ、もらって嬉しいのかな。不安になり、一瞬出すのをためらったりもした。けど、せっかく書いたしな、と最終的には勿体無い精神で投函した。
     三か月後、彼から返事が届いた。簡素だけど手触りの良い白い封筒。お母さんが「あんた宛てだよ」と渡してくれた時、驚きすぎて変な声が出た。

     すごい、返事が来た!

     部屋に入って、一人きりになって、そろそろと封を切った。開けた瞬間、ふわりと良い匂いが漂い、背骨が痺れた。高鳴る心臓を抑え、中を読む。
     手紙に書かれていたのは、写真集を買ってくれたことへの感謝と、感想をくれたことへの感謝と、と、大半はごくごく普通のこと。だけど、本当にすっごく嬉しかった。彼が私の人生に参加しに来てくれたように思えたのだ。
     空想で思い描いていた人物が、実感を伴って私の人生に現れた。その瞬間、世界が少しだけ、子供の頃に感じていたようなめくるめく色彩を取り戻した。それは痛切に胸を叩くほどの喜びだった。
     手紙は最後、こんな言葉で締めくくられていた。

    『ところで、お手紙からすごく良い匂いがしたけど、なんの香りですか? 教えてくれると嬉しいです』

     返事を求めるような言葉に私は浮かれ、夢中になり、また新しい便箋を買った。あと、自分のお小遣いで手が届くくらいの香水をひとつ。お母さんの香りではなく、私の香りを気にしてほしくて。
     きっと、本当はこの時から好きだった。会ったこともないけれど。できる小細工の全てを使って、目に留まりたくなるくらい。彼のことが。


     
     私が【βΩ】の診断を受けたのは、このファンレター事件から一年後のことだった。
     この話をする前に、まずはこの世界のことを少し。
     この世には先天的に六つの性がある。男性、女性、それに加えアルファ・ベータ・オメガ。
     社会的地位を約束された優秀な性別であり希少種であるアルファと、同じく希少な存在ではあるが、ヒートと呼ばれる発情期を有しているため社会に進出しづらいなどの欠点があり、アルファと繋がることでアルファ性の子供を生む可能性を持った唯一の性であるオメガ、そしてその間を埋める有象無象であるベータ……うなじを噛んで唯一無二の相手を持ったり、【運命の番】がいたりする、ロマンチックかつ少々野生的な文化のあるアルファやオメガの間柄からは、完全な蚊帳の外を食っている一般人である。
     しかしその通説も今は昔。
     性別問題は時代と共に研究が進み、血液検査によって個々の性別はもっと細分化された。現在、確認されている性は十四である。
     アルファの中のアルファである【αα】、アルファの中でもベータの部分を持ち合わせる【αβ】、その逆にオメガの中でもベータ寄りの性別を持ち発情期が若干軽いとされる【Ωβ】、混じりっけなしのオメガである【ΩΩ】……など。
     中でも特に細分化されたのが、世界の大多数を占めるとされていたベータである。ベータの中にもアルファやオメガの性質を遺伝的に多少受け継いでいる者がいることが分かり、ベータは更に【βα】、【ββ】、【βΩ】の三つに分けられた。
     私が所属するのはその細分化された部分の【βΩ】……ベータの中でもオメガよりの性質を持つ性別だ。大学入学の頃の身体検査で発覚した。
     それまで【ββ】だと信じて疑っていなかったので、かなり驚いた。
    【βα】や【βΩ】の人はそもそも珍しいという話だったし、小学校の身体検査で調べた時はベータとしか言われなかったし、その時はまだ細分化の研究が発表されて間もなくだったので適用されていなかったのを差っ引いても、まさか自分がその希少性を持ち合わせているとは夢にも思っていなかったのだ。
     医者曰く【βΩ】の特徴はこうだ。
     三か月に一度、PMSと誤認されがちな体調不良期間があること。
     それはオメガで言うところの発情期に当たるもので、フェロモンを発することになるが、オメガよりずっとフェロモン量は少なく、軽く済むものであること。
     しかしフェロモンがあるからと言ってアルファとの子供を孕んでも、【Ωβ】や【ΩΩ】のように、アルファ性の子供を産める可能性はないこと。
     男性の【βΩ】にも子宮があるにはあるが、とても小さく、遺伝の名残のようなもので妊娠はできないこと……
     その診断によって、私はこれまで人生に薄ぼんやりとかかっていた靄が晴れた気分だった。自分のPMSがなぜ時々重くなるのか、倦怠感がひどいのか、熱が上がったような感覚がするのか……自分では全く分からなかったのだ。
     処方されたごくごく軽い抑制剤を飲んだら、その倦怠感とオサラバできたのは僥倖だった。定期的に病院に行って、抑制剤をもらわなきゃならないのは面倒だったけど、私は概ね自分の性別を気に入っていた。
     ──私の好きな人が、アルファだと分かるまでは。

     
       ◆

     
     仕事帰りに本屋に寄ると、新刊や話題の本を平積みする用の一角に、五条鶴丸の本が置いてあった。色とりどりの華やかなポップにはこう書かれている。

    『イケメン写真家が撮る数々の美女たち……『美女撮』!』

     ご丁寧にも、中の女優ではなく、彼のカラー写真付きで。
     しばらくそれを、目を眇めて見ていた。こんなポップのある所で買うのは、なんだかファンとしてのプライドが傷つけられる気がして。だけど目当ての本はこれしかない。仕方なく一冊手に取り、レジに出す。
     店員の顔が「あぁ、あなたも」と言っているようで大変居心地が悪く──多分、いや、絶対に私の考えすぎなんだけど──、逃げるようにして店を出た。やっぱりネットショップで買うんだった。
     家に帰り着き、着替えもせずにページを開く。めくってもめくっても、中身は美女ばかりだった。タイトルが『美女撮』なのだから当然なのだけど。
     ていうか、大体中身知ってるし。ちゃんとこの『美女撮』が載ってる雑誌、毎号買ってスクラップしてたし。
     それでも一冊の本になって手元に残るというのは、やはり格別な魅力がある。一通り目を通してから、大事に大事に本棚に挿した。これで彼の写真集コレクションは五冊目だ。
     五条鶴丸と彼の写真集を介して出会ってから、六年がたった。
     私が高校を卒業して、大学に入り、また卒業して、社会人になる間に、たくさんのことが変わった。
     まず、彼が人物写真を撮り始めた。
     それまで風景や動物を主なモデルにしていた彼から『今度人物を撮ることになったから、もしよかったら見てみてくれ』という、定期的に送っていたファンレターの返事──返事は五通送って一通返ってくる程度──をもらったのは、私が大学二年の頃だ。
     彼が撮る人はどんなに素敵だろう。ワクワクした。人物だったら、もっと彼自身の仕事も増えるだろうし、今よりずっと彼の作品に触れる機会は増えるだろう。そのことも嬉しかった。まさか隔月で美女を撮る雑誌の企画とは思いもしなかったけど。
     突然の大きな企画に、もしや何か撮りたくないものを撮らされているのでは、と斜に構えたが、ページを見たらそんな一般人の杞憂は霧散した。彼の撮る女優やモデルたちは、美しい背景と共に画面に収まる彼らしいものだったから。
     背景とモデルはいつも対等に比重がおかれ、その元の美しさばかりに頼らない媚びない潔さが、また互いの美しさを引き立たせるようだった。こんなふうに彼の新たな魅力を引き出せる人が世の中にはいるのか。そのことに、少しだけ嫉妬した。
     その写真が本になったのが、この度発行された『美女撮』、というわけだ。
     写真集は大変良かった。当たり前だ、私の推し写真家が撮ったんだもの、悪いわけがない。……売り出し方は、気に入らないけど。
     次に変わったこと。彼がSNSを始めた。
     これは前述のファンレターの返事がきたのと同じ頃だったと記憶している。
     もちろん、すぐにアカウントを作ってフォローした。別にリプライも送らないし、あっちの投稿もほぼ宣伝だし、ただただ一方的に『いいね』を押して、見守るだけだけど。まぁ、情報は追いやすくなったな、とは思う。いい時代になった。
     他にも、変わったことはたくさんある。『美女撮』の他にも、写真集が二冊新しく出たし、個展も開いていた。タイミングが悪く、彼の在廊中に行くことは叶わなかったけど、個展会場にいると彼に包まれているようで幸せだった。
     もちろん、私のほうもたくさん変わった。
     性別が変わったのはイレギュラーだとしても、高校生が社会人になっているのだから当然だ。
     私はそこそこ大きな会社のデザイナーとして拾われ、仕事を始めた。自分で自由に使えるお金が増えたので、五条鶴丸の仕事関係にお金を落とすのには拍車がかかった。昔彼が出していたデビュー写真集も新品初版で手に入れられたし──本当にいい時代になった──、あとはあれ以来ハマってしまった香水収集にも日々精を出していた。それに、おしゃれな便箋も。……今は、少しお休み中だけど。
     私と彼に起こった、たくさんの変化。六年の月日は容赦無く人や環境を変える。
     その中でも私が、私の人生史上これ以上のことはもう起こらない、と思った変化がある。まるで足元がガラガラと冷酷な音を立てて崩れて行くような変化。
     その変化が起きた頃、私は自分の人生に闖入してきた『就活』と向き合うべく、彼へ手紙を出すのを封印していた。書けばペンの先から弱音が滲みそうで、そういうのはファンレターではない気がしたからだ。
     山ほどの説明会に、ES、それが通れば今度は筆記、お次は面接……そこまで行っても、ダメな時はダメで。毎日まいにち、私って誰にも選ばれないくらい、人としての魅力がないんじゃないかな、なんて。運や向き不向きもあるっていうのに勝手に地の底にまで落ち込んで。そんな状態で、助けて、って意味のないことを書いて彼のことを困らせたくなかった。
     そんな折、彼がお昼のワイドショーで『今週の時の人』コーナーで取り上げられたのだ。
     そこから、私と彼の閉じられた──と私が思っていた──世界は一変してしまった。
     新進気鋭のカメラマンとして初めてテレビ露出を果たした彼は、その美しさで、あっという間にお茶の間の話題を掻っ攫った。

    『やば、超勝ち組』
    『一回でいいから遊ばれたい』
    『絶対アルファ。しかも【αα】』

     などという下世話な話題とともに『五条鶴丸』の名はその日のうちにSNSのトレンドで世界一位を取り、フォロワー数は一気に万越え、老若男女、全てが彼の虜になった。
     その番組を初めて見た時、私は愕然とした。録画予約をした時は、あんなに胸が踊っていたというのに。

     一番初めに思ったのは、想像と違う、だった。
     五条鶴丸はヒゲモジャのおじさんではなく、屈強で壮大な大樹を思わせる男でもなく、線の細い美青年だった。
     ジーンズは確かに履いていたけど、もっとオシャレだったし、黒々しい天然パーマをニット帽に押し込めてもいなかった。
     自分の中の五条鶴丸像が一瞬で崩れ去った瞬間。自分はもしかしたらおじさん好きなのかもしれない、と大学時代に一瞬悩んだことが馬鹿らしいほどだった。
     こんなことならやっぱり個展に日参して、どうやっても彼に会うべきだった。そうしたらこんな……こんなショックは受けなかったはず。

     そう。私はショックだった。
     彼が私の想像よりもずっと軽妙洒脱な青年であったことも、あんなに応援してきたのにそのことを自分だけがずっと知らなかったことも、彼が一躍時の人としてスターダムを駆け上がっていくことも、彼が──きっとアルファなことも。何もかもが。
     誰もが言った。あれがアルファでなかったらおかしい。あんなに才能もあって、美しい男が、アルファ以外の何だというの、と。
     私もそう思った。
     彼を一目見た時、彼は明らかに手の届かない人だ、と。
     その日の夜、ベッドの中で、オメガだったら良かった、と泣いた。最終面接で落とされた時も泣かなかったのに。
     ベータど真ん中の【ββ】だったなら、諦めもついたかもしれない。下手に【Ω】性を持っているから、なぜ、どうして、とひどく泣けた。どうせ【Ω】性があるのなら、オメガで良かったじゃないか、そうしたら万が一にでも彼の運命になれた可能性もあったのにと、胸が引き絞れるような気持ちだった。
     【βΩ】の診断を受けて初めて、この性別じゃなければ、と思った。本当に自分が【ββ】だった時、諦めがついたかどうかは分からない。たとえオメガだったとしても、運命になれない確率のほうがはるかに高い。その時に運命でないとなったら、もっと絶望した気もする。けど、たらればをいくら考えても、今現在の胸の痛みが一番辛かった。
     私はこの日初めて、彼が好きなのだと、自分は彼を死ぬほど恋しく思っているのだと気がついた。
     私は会ったこともない男に、手紙を送っただけの男に、そうとは気づかずに何年も片想いをしていたのだ。
     それから、ファンレターが送れなくなった。就活が終わっても、社会人になっても。だって、私が今まで書いていたのはファンレターでもなんでもないから。こんなものはただの恋文で、……そんなのは裏切りだ。
     純粋に彼の仕事を応援する気持ちが自分の中になかったことが、ただひたすらに悲しかった。
     だけど彼の写真を見つけたり、SNSをチェックしたり、写真集を買うのはやめられない。彼の写真が好きだったし、私の人生から完全に彼を閉め出すのは苦し過ぎたから。
     だから私は今日も家で、彼の写真集を眺めてから眠りにつく。
     彼への恋心を手放せないまま。なんのアクションも起こすことができないまま。
     彼が私の人生に参加しに来てくれたように思ったのも、世界が色付いたのも、全部私の独り相撲だったことを、まだ認められないまま。
     

       ◆
     

    「五条鶴丸って知ってる?」

     ぐ、と気管にペットボトルの紅茶が入り込み、思わずむせ込んだ。話題を振って来た隣の同僚・加州清光は仕事の手を止めないまま「え? ちょっと、大丈夫?」などと呑気に呼びかけてくる。

    「だい、大丈夫。ちょっと変なところに入った」
    「そっか。でさ、その人カメラマンなんだけど」

     は、話が続いている……! 動揺しつつ、適当に相槌を打った。同僚には私のSNSは教えていないから、私の五条鶴丸フリーク具合を彼が知らないのは当然だけど。

    「彼女が好きなんだよね。その人のこと」
    「へぇ~……」
    「いや、全然興味ないじゃん俺の話」
    「そ、そんなことは……」

     言葉を濁すと、「まぁ最後まで聞いてよ」と釘を刺された。

    「でさ、今度そのカメラマンがサイン会するんだよね」

     知ってます、SNSでその話を彼が呟いた時、真っ先に『いいね』を押しました、とは言えずに黙る。すると加州くんは

    「で、彼女が絶対行きたいって言っててさ」
    「行ったらよろしいんじゃないでしょうか……?」
    「それが向こう、どうしても外せない出張と被っちゃったらしくて。俺に代わりに行って、サイン貰ってきてって言うんだよ」
    「なるほど」
    「で、五条鶴丸。知ってる?」
    「え、その話に戻るの?」
    「いや、知ってたら説明省けるなと思って。その人、とにかくイケメンでさ。顔出しした途端に女子ファンがめちゃくちゃ増えたって話なんだよね」
    「ふぅん」
    「その獰猛な女子の群れの中にさ、貴重な休日を潰した俺一人、放り入れられようとしてるわけ。可哀想じゃない?」
    「そ、うだね……? うん?」

     話の全容が掴めず首を傾げる。と、彼はこの話をし出してから初めてこちらを見て「言ったな?」と悪い顔で微笑んだ。それは営業さんに無茶苦茶な案件をポイと放られた時、彼が口八丁で締め切りを伸ばす言質を取る時の顔と一緒だった。……嫌な予感がする。

    「じゃあ、再来週の日曜。〇〇駅の本屋の前に九時でよろしく」

     パッキリと言われ、頭がフリーズした。小さく首を振り、

    「……わ、たし、その日は予定が、」
    「ダウトー。昨日探り入れた時なんもないって言ってましたー」
    「え、あ! あれ、そういう? え、ズルくない!?」
    「人聞き悪ーい」
    「そういうそっちは人が悪くない……? 一人で行きなよ」
    「やだよ。なんか悪目立ちしそうだし」
    「そんなことないって。きっと同志として受け入れてもらえるよ」
    「みんながみんな、あんたみたいに善良な心の持ち主だったら良いんだけどね」

     どういうこと? と聞けば、なんでもないよ、と返ってくる。

    「とにかく頼むよ、今度昼奢るから」
    「えぇ……」
    「その人の撮る写真、かなり良いよ。デザインにも活かせそう」

     ぐ、と閉口する。そんなことは知ってる。けど。

     ──本当は一番会いたくて、本当に絶対会いたくない。

     加州くんに日曜の予定を聞かれた時、「何もない」と言ったのは、自分に言い聞かせるためでもあった。サイン入り写真集は、もちろん喉から手が出るほど欲しいけど。それでも。
     だって、会ったらきっと泣いてしまう。彼はきっと困ってしまって、私に優しく接してくれるだろう。それはまるで、道端で迷子になった少女をあやすように。初めてみたいな顔をして、私を見るのだ。
     このガチ恋が叶わないことは私が一番よく知ってる。それを今、彼自身の手で、完膚なきまでにトドメを刺される必要があるだろうか。この果てのない寂寥に、より身が凍えるだけではないのか。
     人生には最初から、私ただ一人きりだということを、今更思い知ったところで、一体、何が。

    「……ごめん、そんなにやだ?」
    「え、」
    「眉間、すごい皺」

     眉のあたりを示されて、はたと自分の強張った眉間に触れる。

    「はぁー、分かった。一人で行ってくる。忘れて」

     加州くんは一瞬肩を落とし、再びシャキッと背筋を伸ばして仕事に向かう。
     ……直接聞いたことはないけど多分アルファの加州くんには、同期として就職してからこっち、かなりの頻度でお世話になっている。優秀なあまり、そのうちすぐに独立して自分の会社を持つだろうと社内でもっぱら噂されている彼は、その抜群の機転と優秀さで、いつも完璧な助け舟を出してくれた。

    「……本当に、ごめんね」
    「いーよ。大丈夫」

     その恩に報いることのできない自分が、無性に恥ずかしかった。
     



     
    「 来ないなら、こっちから仕掛けるぞ 」


     

     
     ある朝、悪夢を見て飛び起きた。額に玉のように浮かんだいくつもの汗。それを手の甲で拭いながら、もう一方で心臓の上あたりを抑える。
     なんだ、今の。今、いまの……?
     ひどい悪夢だったと思ったのに、飛び起きたら忘れてしまっていた。胸騒ぎだけが胸に残る、なんとも嫌な目覚めだ。
     嫌だな、なんだか虫の知らせみたい。ひとたびそう思えば、じわじわと嫌な気分が全身に広がる。時計を見れば、まだ午前五時。あと二時間は眠れたのに。もう一度ベッドに横たわって目を瞑る。しかし、いくら待っても眠気は一向にやって来ない。
     手持ち無沙汰で、スマホを開いた。癖でSNSを開き、五条鶴丸好きたちの呟きをなんとなしに眺める。と、『は?』『マジかよ死ぬ』という呟きが目に入った。
     その後も『うそでしょ?』『いやいるだろうとは思ってたけども』『信じられない。脳が理解するの拒否してる』との悲痛な文字の羅列。ざわりと心が波立って、スクロールの手が止まる。
     この上に、何か嫌なことが待っている。予感にスゥと指先が冷えた。一度画面を暗くして、やっぱり気になって再度明かりをつける。
     嫌だ。確認するのが、どうしても嫌。
     そう思うのは本当なのに、指先は自分の意思と反してそろそろと画面をスライドさせていく。いや。嫌。いや、いや、いや。
     指が辿った先、あったのは、『イケメン過ぎるカメラマン・五条鶴丸にホテル密会報道! お相手は写真集にも登場するあの美女』というタイトルのネット記事。
     世界が、色彩を失った。


     
    「おはよう」
    「おは、……え、大丈夫? めちゃ体調悪そう」
    「そう?」

     出勤した私を見て、加州くんがあからさまに顔を歪めて言葉を失った。次いでされた呼びかけに、私はなんでもないように返す。
     私の顔がひどいことになっているのは、誰に言われなくても分かっていた。朝から泣き通しの吐き通しで、いくら大きめのマスクと眼鏡でも、絶不調なことを隠せるわけもない。私の返しに、これは聞かれたくないこと、と敏感に察知した加州くんは

    「ふーん。ま、なんかあったら言いなよ。仕事だったらカバーしてあげられるし」
    「……ありがとう」

     純粋な善意が胸に染みて、言葉に詰まった。
     多分これは、世間一般に言う『〇〇ロス』というやつで、当人からすれば重大事件でも、はたから見れば単なる空回り、くらいのところなんだろうと思う。
     私も、自分で思う。こんなにショック受けちゃって、勝手に裏切られた気分になんかなっちゃって、馬鹿なんじゃないの? って。
     だけど辛い。
     辛くて、苦しくて、悲しい。

    「加州くん」
    「はい、なにー?」
    「この間のことだけど、やっぱり行くよ」
    「ん? なんの話?」
    「サイン会。誘ってくれたでしょ。行くから」

     それだけ言って、朝一番のメールチェックを開始する。加州くんはしばらく何か言いたげに私の横顔を眺めていたが、やがて「分かった。じゃ、九時で」と了承してくれた。
     有名人だって人間なんだから、恋くらいするよ。そんな使い古された言葉は、今更言われなくてもとっくの昔に知ってる。むしろ、相手が人間だって知ってるから、なおのこと、私に恋してくれないことが悲しいのだった。

     写真集を通して、私、あなたを見ていた。
     あなたの瞳を通して実像になったモデルたちを見て、私、あなたの中に入り込んだ気になった。
     私とあなたは紙の上で、介在するものは何もなく、ひとつに溶け合っていた。この上なく。
     その瞬間、あなたは私だけに寄り添い、私の弱音を飲み込み、ただただ美しいものだけを愛する、二人でひとつの無敵な生き物だった。
     だけどそんなのは全部私の妄想だ。
     もうこんなことで泣いたりしたくない。仕事に支障が出るほど泣きたくない。誰にも心配されたくない。
     私は私の人生に、ずっとずっと一人きりなんだもの。最初からそうだったんだから、……五条鶴丸を失うことくらい、訳もないんだ。本当は、きっと。
     六年引きずったこの恋を、これは手放す良い機会なのだ。そう思った。


     
     日曜、午前九時。
     見上げた本屋はどっしりと大きくて、周囲はめかし込んだ女の子だらけ。私はその中の一角でポツンと立って、写真集を買いに行った加州くんを待っていた。
     カバンの中には、今日のために久しぶりに筆を取って書いたファンレターが一通。久しぶり過ぎて、何を書けばいいのか分からなくて、初めて書いた時よりもよほど悩んだ。恋心が滲み出さないように慎重に検討した結果、当たり障りのない感想文が出来上がった。今まで乱用していた「好き」という単語は、写真を褒める文脈でも使えなかった。
     渡せるかどうかは分からない。そもそもファン一人に割り当てられる時間が多いとも思えないし、こちらはテンパって泣いてる可能性が高いから、「応援してます」と言うのが精一杯かもしれない。
     ふと身じろぎすると、付けてきた香水が香った。一番初めに送った手紙と同じ香水。母のではなく、今度は自分のお金で買ったもの。気づいてくれるかな、なんて、本当に未練がましいけれど。
     しかし、この女の子の群れの中にいると、つくづく思う。私って本当に、有象無象の一人なんだなって。ベータここに極まれりって感じだ。
     香水なんか付けてきて、私って本当に馬鹿みたいだな。
     ひっそりと自嘲していると、本屋の中から女の子の群れをモーゼのように割って加州くんが現れた。

    「お疲れ。買えた?」
    「買えた。買えたけど、ごった返しててマジで死ぬかと思った……」

     はい、と新品の写真集を渡される。「お金返すね」と財布を出そうとすると、「いいよ、付き合ってもらってんのこっちだし」と制される。

    「始まるのもう少し後だって。九時半から列形成して、整理券配って、それからようやく開始って感じ」
    「そうなんだ。サイン会初めてだからよく分かんないや。とりあえずこの辺にいればいいのかな?」
    「かな。はぁ~、つっかれた!」

     言って、加州くんは道の向こう側のガードレールに寄りかかる。私もならって横に立った。
     しばらく仕事の話などをしていたが、ふと、やけに視線が突き刺さることに気づいて顔を上げる。いくつかの女の子グループがこちらを見て──というか、加州くんを見て──ヒソヒソとやっていた。

    「……やっぱり目立つねぇ」

     なんの気なしに挟み込めば、「一人の時はもっとひどいよ」と加州くんが応えた。

    「職場以外で会わないから知らなかった。大変だね」
    「あんた、俺に興味ないもんね」
    「なんだか語弊があるなぁ」
    「事実じゃん」

     フッと笑われ、確かに、こんな些細な笑みが美しい男の子だものなぁ、としみじみ思う。

    「けど、加州くん、彼女いるのにね」

     自分の思考を打ち消すように言えば、加州くんは額を掻く。

    「まあ。でも、彼女持ち、って名札付けとくわけにもいかないからね」
    「それにしたって」
    「……あきらかにアルファなのに、って?」

     返された言葉に、答えに窮した。その通りだったのもあるけど、少しだけ、軽んじるような響きがあったから。

     ──アルファはベータを選ばない。それがこの世界の常識だった。
     ベータを恋人にするアルファは、その大半が遊びだ。アルファ種を産む可能性のあるオメガを見繕うまでの、繋ぎ、とでも言えばいいだろうか。
     どんなアルファもいつしか必ずオメガと結婚して、遊び相手だったベータをあっさりと捨てる。そういうセオリー。だけどアルファに遊んでもらいたがるベータは後を絶たない。
     優秀で、見目麗しく、誰も彼もを魅了するアルファ。誰の運命にも成り得ないベータたちは、アルファに遊んでもらうことで自分の内なるシンデレラ願望を満たしているのだ。
     だからみんな、物欲しげな顔で彼を見て、噂をする。私はその持たざる側の浅ましさが、本当に好きじゃなかった。自分だってアルファの男にガチ恋してるくせに、と思うこともあったけど、それを自覚すればするほどに同族嫌悪的な気持ちには拍車がかかるばかりだった。

     加州くんは言う。

    「誰と恋したって良いんだよ、本当は。性別とか関係なくさ。俺は、そう思ってる」
    「……ごめん」

     彼が私の言葉に滲む差別的な要素に敏感に反応したのかと思い、思い切って謝ってみる。互いに無言になり、気まずい雰囲気が流れて居た堪れない。しかし彼はしばらくすると

    「ううん。今の、多分八つ当たり。ごめんね」

     と言う。意味は分からなかったけど、彼はそれきり黙ったので、私もそれ以上は聞かなかった。黙りこくった彼の横顔は美しく、誰もが触れるのを躊躇う絵画のようだった。
     やっぱりアルファだな、って、性懲りも無く思った。


     
     整理券をもらって、近くの商業施設で少し時間を潰し、いよいよ私たちのグループの番になった。本屋に入った途端に心臓が口から出て行きそうで、なんだかムカムカと胃の奥から吐き気までもがせり上がって来る。

    「気持ち悪い」

     写真集を抱きかかえて静かに零せば「大丈夫?」と加州くんが尋ねた。私が五条鶴丸の大ファンのガチ恋勢だといまだに知らない彼は、それがサイン会という特殊な状況下における緊張だと思っている。私も今更言う気はないので、「大丈夫」と軽く頷くに留めた。
     本当は、単なる緊張とは一味違う。プレゼンの時に感じるような、指先が冷えるとか、床が抜け落ちそうとか、そういうのとはまた違うのだ。なんだか冷や汗も出るし、そのわりに身体はポッポッと火照っていく。六年恋した相手に会う時、私ってこんな感じになるんだ。そんな妙な感心すらあった。
     列がじわじわと動く。あの衝立の向こうに、五条鶴丸がいる。時折話す声などが聞こえ、彼が実在の人物であることを知らされる。
     私は加州くんの後ろに並び、首の後ろからゾワゾワと広がる熱に耐えていた。なんだろう、緊張……というより、本格的に体調が悪くなってきた。
     また、列が動く。自分の番が近づけば近づくほど、体調は坂道を転がるように悪くなる。
     列が動く。「じゃあお先」と言って加州くんが私の前から消え、衝立の向こうに吸い込まれていった。先ほどまで甲高く耳に入ってきた並んでいる女の子たちの話し声も、もう聞こえない。まるで耳が塞がってしまったみたい。
     視界がぼやける。頭がぼーっとする。心臓の音が鼓膜をどんどんと忙しなく叩く。
     身体中の水分が全部下に集まったみたいに重怠くて、これ以上もう一歩も動けない気分だった。
     口から吐き出す息が、熱くて熱くてたまらない。

     私、一体どうしちゃったの。
     こんな、発情期のひどい版みたいなの、一度もなったことがない。
     変だな、おかしいな。私、発情期は先月来たばかりだから、まだ来るわけないのに。ていうか、発情期でもこんなふうになったことないのに。

    「次の方どうぞ」

     呼ばれ、自分の番だと気づいて、懸命に足を動かす。私を呼んだ人は、顔を真っ赤にして明らかに体調の悪そうな私に辟易とした顔をしたが、ここまで来た人間を止めるわけにもいかないのか、溜め息混じりに私を衝立の向こうに通した。
     果たして、フラワースタンドの間の机に、彼は座っていた。
     がん、と頭を殴られたような衝撃があった。鼻腔から、脳髄を殴りつけられたみたいだった。
     何、なんの匂いなの。こんな、涙が出るほど強い匂い、一体何?
     彼がこちらを見る。金の瞳がきゅうと弧を描く。

    「やあ、やっと来たな」

     あと少し、少しだから、ちゃんとしなきゃ。これが終わったら倒れたっていい。あ、そうだ、手紙。手紙、せっかくだから、渡さなきゃ。
     ぼう、とした頭で考え、カバンの中を漁る。と、写真集を取り落とした。私が何よりも大事にしている五条鶴丸の写真集を落とすなんて、そんなの有り得ない。なのに、全く指に力が入らなかった。

    「大丈夫ですか?」
    「あぁ、いい。俺が拾おう」

     話し声が遠い。しゃがみ込んだらもう立ち上がれなくなりそうで、呆然と落ちた写真集を見つめていると、誰かが近づいてきてそれを拾った。また、匂いが強くなる。ふいと差し出された写真集を受け取る。
     差し出した相手は、五条鶴丸その人。

    「あ、の……」

     呂律が回らず、辿々しく呼びかける。彼の金色の瞳は先ほどよりも色濃く太陽のように輝き、まるで火で炙られるようだった。

     怖い。なに。私、どうして。
     息が、止まる。

    「……あなた、なに」

     ふと呟けば、彼はうっそりと笑った。

    「きみの運命」

     それきり、ふっつりと意識が途絶えた。
     

       ◆
     

     夢を見た。
     ぐじゅりぐじゅりと泥濘む沼に、足を取られる夢だ。
     絶対に入ってはいけないのが分かっていたのに、私は好奇心から足を止められなかった。案の定生ぬるい泥は私をぐずぐずと飲み込み、腿のあたりまで一気に引き込まれた。足がついているようでついていない頼りない浮遊感や、腿を這い回るさざ波が恐ろしく、「怖い」と呟く。

    「大丈夫、怖いことなんかない」

     誰かが宥めるように言った。誰かは分からなかった。「やだ、怖い」私は言い返す。

    「大丈夫だ、きみはただ任せていればいい」

     首を振った。問答の間にも、泥はどんどん深く私を飲み込んでいく。怖いならば抵抗すればいいのに、私は足を動かすこともできず、恐怖心ばかりが膨れ上がったまま棒立ちで沈んでいく。
     生ぬるい泥。じゃりじゃりとした小石が研磨するように私の足をなぞっていく。とうとう腰が浸かり、背中が浸かり、胸の半分まで来てしまった。いよいよ胸の内で恐怖が弾け、そこでようやく暴れられた。しかし泥の中で重たくなった腕や足は、もはや満足には動かせない。四肢の自由を奪われ、涙が出て来る。沼の中で情けなく泣いていると、うなじを何かに撫でられた。見えもしないのに、蝶のような虫の羽だと感じる。
     急所に触れられている感覚にゾワゾワと鳥肌が立つ。無意識に逃げようとして、顎が前に出た。触れた何かはそれを追いかけるようにぴったりとうなじに当てられたままだ。

    「やだ、それやめて、怖い」
    「すぐに良くなる」
    「違う、それやだ、やだ」
    「聞き分けがないな」
    「いや、いや」
    「先に俺の領域に入ってきたのはきみのほうだぜ」
    「やぁ……」

     涙が出る。泥が鎖骨の下まで迫っている。顎先が泥に触れ、ひどい危機感にまた涙が出る。

     怖い。

     それはまるで、今まで感じたことのない快感が先に待っていることに対する恐怖だった。もう戻れないことに泣く、稚児めいた感情。

    「諦めろ。俺はもう、きみを見つけた」

     首の後ろを、何かが刺した。それは明らかに蝶ではない、もっと大きくて獰猛な、獣の牙が食い込んだ感触だった。
     

       ◆
     

     目を開けると、目尻がガビガビしていた。辿れば泣いた跡があり、指先でこする。身体を起こすと、ぐわんと世界が揺れる。熱があるのだ。覚えのある感覚に反射的に、抑制剤を飲まなくちゃ、と思う。
     抑制剤のありかを探し、うろうろと視線を彷徨わせる。そこでようやく、そこが知らない場所なのに気がついた。
     どこ……。熱に浮かされ、ぼんやり思う。しかし一分もそうしていると、だんだん事態の異常さに意識が向く。
     あれ。私、さっきまでサイン会で、……五条鶴丸に会っていたはずでは。しかし、それからの記憶がない。じゃあ、ここは一体どこだ。こんなベッドがあるところ、絶対本屋じゃない。
     ふらふらとベッドから滑り出る。壁に大きな鏡があったのでふと視線をやると、下着はかろうじてつけているものの、明らかに男物のワイシャツ一枚だった。ますます混乱する。
     貞操の危機を感じ、シャツを引っ張って出来た襟の隙間から自分の身体を確かめる。特に変わったところはなかった。痛いところも……まぁ無い。首を傾げていると

    「きみも仮にも【Ω】性を持つ人間なら、一番先に自分のうなじの心配をしたほうがいいぜ」

     との声が飛び、驚いて声のほうに身体を向ける。
     五条鶴丸が立っていた。

    「な、んで」
    「その疑問はどこにかかる? なぜここに俺がいるのか? それともこの状況の説明がいるかい?」

     あまりのことに口が聞けぬままでいると、彼がおもむろに近づいてくる。

    「説明する前に、覚えていることを聞こう。どこまで記憶がある?」
    「え……っと、サイン会で、……あなたに、会ったところまで、です」

     彼は私が先ほどまで眠っていたベッドに腰掛ける。瞬間、ふわりと甘い匂いが漂った。途端に意識が現実と薄皮一枚隔てたような、不思議な感覚がした。

    「そうか。なら、そのあとから話をしよう。きみは俺のサイン会に来て、俺の目の前で倒れた」
    「え」
    「俺はきみを介抱するため、サイン会を中止してここにきみを連れて来た。道中あんまり暑い暑いと呻くから、着いてやむなく服を薄いものに変えた。女物は持ってないからな、当然俺の私服だ。今は四時だから、きみが倒れてからは、そうだな……ザッと五時間は経っているか。付け加えておくと、ここはホテルで、俺が泊まっている部屋で、きみが寝ていたベッドは俺が使っていたものだ。世界中飛んで歩いてるもんで、定住地がなくてな」

     何か質問は? と聞かれ、情けないやら恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔から火が出そうだった。

    「そ、れは、大変なご迷惑を……」

     しどろもどろにそれだけ言うと、彼が再び口を開く。

    「きみの聞きたいことはそれで全部かい? なら、今度は俺の番だ。なにせ、きみには聞きたいことが山ほどある」
    「そ、うですよね……なんか、あの、サイン会中止の保障金の話とか、ありますよね……」
    「そんなことはどうでもいい」

     え、と顔を上げると、彼の隣に座るよう促された。
     そ、そこに……!? 一瞬動揺したが、まぁサイン会に来ている時点で私が彼のファンだということは分かっているだろうし、これはファンサービスの一環かもしれない、と思い直し、おずおずと隣に座る。しかし、……なんだろう、さっきからずっとする、この甘い良い匂いは。頭がバカになるような、不思議な香りだ。
     ぼんやりする私の手を、五条鶴丸がとった。サービスが過ぎる。借りてきた猫のようにじっとして、触れた部分を凝視していると、彼が言った。

    「あの男は誰だ」
    「は、」

     男? 質問の意味が分からず顔を上げると、彼は静かな微笑みを浮かべていた。詰問めいた声色と表情があまりにミスマッチで、混乱する。

    「聞こえなかったか? ならもう一度聞くが、きみと一緒に会場に来ていた、あの男は何者だ? 倒れたきみを自分が送っていくと聞かなかったのを、ようやく説得したんだ」

     そこでようやく、加州くんのことを聞かれているのだと知る。私はしどろもどろになりながら

    「あ、の人は、会社の同僚、です」
    「友達?」
    「そう、ですね……そうだと思います」
    「けど、あの男はアルファだろう」
    「? えっと、……それが何か?」

     矢継ぎ早にされる質問に、ぼうと一回り膨らんだような心地の脳みそをフル回転させて答えていると、彼が小さく溜め息をついた。なぜか五条鶴丸は苛ついていて、それは私の回答によるものらしく、私は彼を怒らせているようだった。
     どうして怒るの。
     不意に悲しくなり涙が滲む。こんなのは子供みたいだから嫌だ、と頭の片隅では真っ当な私が絶叫している。なのに、ふわふわとした大部分が傷つけられたくないと癇癪を起こす。
     この人にだけは、叱られたくない。怒らせたくない。嫌われたくない。
     スンと洟を啜ると、「あぁ、泣くな泣くな」と彼は私の頭を自分の胸に引き寄せた。あの甘い匂いにぶわりと周囲を取り囲まれ、耳が熱くなる。

    「主体がオメガじゃないとは言え、子供のようになるのは変わらないな」

     ポツリと落ちた囁きを耳が拾う。誰かと比べられている気がして嫌になり、彼の胸を押しのける。しかし彼はその離れようとした腕をがっしりと掴み、私の顔を覗き込もうと身体を折る。

    「どうした」
    「触らないで」
    「言ってくれ。なにが気に入らない」
    「……変わらないって、何、オメガって」

     彼はしばし面食らったあと、「きみ、まさか分かってないのか」と言う。そしてさらにぐっと顔を近づけたかと思うと

    「きみは今発情してるんだ」

     と囁く。金色の瞳がぐにゃりと歪んだ。

    「……で、も、こないだ、終わったばっかり」
    「運命が近くにいれば、そんなサイクルは狂ってしまうさ」
    「うん、めい?」

     誰が?
     誰の?
     だって私は、確かに【Ω】性は持ってるけど、ベースは紛うことなきベータであって、うなじを噛んで唯一無二の相手を持ったり、【運命の番】がいたりする、ロマンチックかつ少々野生的な文化のあるアルファやオメガの間柄からは、完全な蚊帳の外を食っている一般人なはずで。

     しかし彼は私の問うような言葉に「そうだ」と力強く頷く。

    「運命の番に会った時、【Ω】性のある人間は突発的にヒートになることがある。普段抑制剤で発情を抑え込んでいる人間は特に、それがかなり顕著に出るんだそうだ。咳止めを飲んで一旦は咳を収めても、薬が切れた時にはその反動でよりひどい咳が出るみたいなものだな」
    「でも、私、ベータで」
    「分かっている。【βΩ】だろう」
    「どうして」
    「どうして分かるかって? 俺が正気を保っていられるからだ。混じりっ気なしのオメガなら、きみはとうに俺の下に組み敷かれている」

     そう言う彼の瞳は熱を持ったガラスのようだった。表面張力ギリギリに汲まれた水のような危うさがあり、正気を保てる、というのは、全て彼の理性ありきの話なのだと察する。

    「きみ、手紙をくれただろう」

     熱い吐息が顔にかかり、背筋が震える。同時に、なぜ私のファンレターのことがバレているのか、疑問で頭がいっぱいになった。
     私は名乗ってない。今日書いてきた手紙も、まだ渡せていないはずだ。

    「匂いがしたのさ、手紙から。気が狂うかと思うほどの甘い匂いが。次の手紙では香水が変わっていたが、奥に染み付いた甘い匂いは変わらなかった」

     きみが手紙で教えてくれた香水を買って振ってみたが、こんな匂いは一切しなかった、と私の疑問を察知して立て板に水のごとく答えた彼は、私の首筋あたりに顔を寄せて

    「あぁ、やっぱりこの匂いだ」

     と続ける。熱に浮かされたような声だった。彼が近づけば近づくほど、私の世界も一気に濃く靄がかり始める。彼の一挙手一投足にだけアンテナが向いて、他の感覚は一層鈍く。

     【βΩ】がアルファの運命なんて、そんなことがこの世にあるの?

     頭の中で思った言葉は知らぬうちに声に出ていたようだった。彼が答える。

    「現にきみの発情のサイクルは俺の前で完璧に狂っている。それが何よりの証拠だ」
    「だけど」
    「もう問答はいい」

     ピシャリと言われる。ヒクリと怯えて震えた喉に、宥めるような口づけが落とされる。

    「きみが手紙を送ってこなくなって、繋がりが断たれてもう随分たつ。もしや別のアルファが俺の運命と知らずに手を出したかと思って、相当に焦れたぞ。まあ、SNSではそんな素振りもなかったから安心してたんだが……面倒な撒き餌までして誘いだしたんだ、晴れて俺のものになったきみを堪能させてくれ」
    「……撒き餌って、なに」

     思考が匂いの霧に飲み込まれ、働かなくなっていく。まるで徐々に泥濘みにはまっていくみたいに、動かない部分が増えていく。私の身体が私の意思からどんどん遠ざかっていく。辛うじて聞けた質問に、彼が答えた。

    「全部だ。サイン会も、この写真集を出したのも。手紙が来なくなってからしたことは全て。きみが来る確証は無かったから、かなり布石を打っておいたんだぜ? 気づいたかい?」
    「じゃぁ、……密会は」
    「ん? あぁ、あれか。まさか、あれが気になって来たのか? 可愛いなぁきみは。駄目押しに仕掛けてみた甲斐があった。しかし門前払いしたのに、あぁも大きな噂にするものかねぇ」

     甘い匂いが鼻から脳に届く。なにも考えられない。真っ当な思考の道筋から、何度も足を踏み外す。

    「本当は個展の頃に会えたらベストだったんだが……残り香だけがあった時は気が狂うかと思った。まあ、もう良い。こうして番えたんだからな。あぁ、やっとこの手に落ちてきた」
    「……?」

     もはや声が発せられない。
     番うって、だって、まだ、まだ私はなにも答えていないのに。そんなことが頭をぐるりと回るばかり。
     彼は全身の力が入らずくにゃくにゃになった私のうなじをひと撫でして、

    「きみが寝ている間に噛むのは済ませた。これでもう、きみはどこの誰とも寝れない。俺以外とは」

     他のアルファが近くにいると分かって、マーキングもせずに帰すほど俺は愚かじゃないからな。続けられた言葉に目眩がする。

     加州くんはそんなんじゃ、というか、もう番ったって、私、そんな、聞いてない、なにも。

     私の困惑に気づいていないわけがないのに、彼は熱っぽい瞳で微笑むばかり。

    「さぁて、きみが目覚めるまで健気に待った俺に、褒美をくれるだろう?」

     最後に一度そう言って、彼は私のうなじの噛み跡らしき部分に、愛おしそうに口付けた。
     
     

    手ぐすね引かれた先の命運



    1000_cm Link Message Mute
    2022/06/04 21:21:57

    運命の人じゃないあなたへ

    pixivからの保管用です。
    五条鶴丸(写真家)に恋するヒロインのオメガバースものです。

    初出/2020年3月30日 22:44
    #刀剣乱夢 #鶴さに #オメガバース

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