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    砂塵と星シリーズ監督生さん漂流記 ~私の元カレ(仮)がスパダリ過ぎてツラいっ!!~



     VDCが終わってしばらくたった頃、中庭で偶然にジャミル先輩と行き合った。
     先輩はその時、珍しく一人きりで、私は先輩と連れ立って学園の緑の中を歩いた。私はすでに、五月の新芽に似た幼い気持ちではあったけど、先輩を好きになっていたので、隣を歩くのは緊張した。
     やがて世間話で間が持たなくなって、VDCの話題になった。
     私がステージ上の先輩の勇姿を褒めると、ぞんざいな頷きが返ってくる。

    「本当ですよ?」

     と念押すと

    「負けたのに?」

     と、自嘲めいた台詞。

    「そりゃ、負けたのは私も残念ですし、悔しかったですけど……先輩はかっこよかったです。本当に、世界で一番。というか、いつもジャミル先輩はかっこいいですけど」

     そこまで言って、ははは、と誤魔化すように笑った。盛大に口が滑った。
     この頃の私は芽吹き始めた恋心を上手いこと胸の内にしまっておけず、ジャミル先輩を目にするとすぐに、かっこいいだの素敵だのと彼に伝えてしまう傾向にあった。しのぶれど色に出にけり、どころの騒ぎではない。普通にペロッと言ってしまっている。なんてことだ。
     しかし先輩は本気にしていないのか「それはどうも」と、淡々としている。毎回こうだ。誤魔化し笑いも引っ込むドライさ。
     沈黙のまま二人で歩く。こんな時に限ってグリムはデュースと補講だ。助けは望めない。
     私は言った。

    「私、ジャミル先輩のこと、夜空に輝く一等星みたいに思ってるんですよね」

     いや違う、何を言っているんだ私は。普通に世間話をしてくれ頼むから。初恋のエンジンをふかすな。
     先輩は「……はぁ」と怪訝な様子だ。後ろに『ドン引き』と文字で書いてありそう。
     いや違う、違うんですよジャミル先輩、他意はないんです。でもでもだって、先輩が自分を卑下するようなことを、あなたが好きで好きでたまらない私の前で言うから、これは私の好意の見せ所だなっていうか、励ましたいっていうか、どれだけジャミル・バイパーが素晴らしい人物かって話になるじゃないですか流れとして!!
     私は指折り、ジャミル先輩の素敵なところを羅列していく。

    「まず、頭がいいでしょう。それに、運動神経も抜群で、バスケもダンスもできて、おまけに歌も上手くてラップもできるじゃないですか。ルーク先輩が、ムシュー・マルチって呼ぶのも納得だなって、私いつも思ってて。それに、とっても綺麗でしょ。佇まいからかっこいい。どこにいても、そこだけ光って見えるから、遠くにいてもすぐに見つけられます」

     ジャミル先輩は、何を言ってるんだお前は、という顔を隠しもしなかった。ひ、引かれている……!
     でも、正直満足だった。推しに対してきちんと感想を伝えられたファンみたいな気持ち。
     えへへ、と照れ隠しに笑うと、ジャミル先輩はいつもより露骨に褒められた手前、邪険にできなかったのか、言葉を探しながら

    「……ありがとう、嬉しいよ。星は……俺の国では知恵の象徴だ。星見は最古の学問だからな。もちろん、諸説はあるが」

     と言ってくれた。

    「へぇ、そうなんですね。単純な印象の話だったけど、本当に、ジャミル先輩にピッタリ」
    「でも君も……君も……よくやっているさ」

     続いた言葉に、うんうん頷いていた首が止まる。
     今、褒め言葉を受け取ってもらえた嬉しさに一瞬流しそうになったけど、もしかして今私……ジャミル先輩に気を遣わせていませんか……?
     あ、え? 何? 褒めてくれたから褒め返そうみたいな? やだ、先輩律儀! でもいいんですよ無理しないで、自分でも自分のダメさ加減はよく分かってますし!
     私は慌てて手を振った。

    「あの、あの! 別に、気にしないでください! 自分でも分かってるので! 褒めるとこ無いって! ジャミル先輩が星なら、私はほら、砂漠の砂粒みたいなものですし!」

     ……なんか自分で言っててダメージ食らうな、これ。いや、事実なんだけど。事実だからこそより抉られるっていうか。

     魔法士養成学校、唯一の非魔法人種。異世界からの異分子。何も持っていない女の子。

     私は正しくそういうものだったし、他の何ものでもなかった。
     私は根無し草で、空に舞う砂塵よりも軽く、ゆらゆらふわふわ、辺りを漂っているだけの存在で。
     何言ってるんだろう、私。
     私なんかに褒められたって、そりゃあジャミル先輩だって反応に困るよ。この世界に地盤を持たない私が何言ったって、ただのたわ言だもの。
     なんだか急に恥ずかしくなって俯いた。
     しかし先輩は笑うでもなく、冗談として流すでもなく、蔑むでもなく、下に見るでもなく、ただ、私を振り返った。
     そしてただ一言、

    「いいな」

     と言った。

    「どこにでも行けて、良さそうだ」

     弾かれたように顔を上げた。先輩はもうこっちを見ていなかった。
     遠くを見る横顔。風が黒い髪を舞い上げて、髪を飾った鈴がチリリと鳴った。
     私の胸は愛しさでいっぱいになって、その時、とうとう弾けてしまった。

    「——あなたが好きです」

     思わず口から転がり落ちた告白を、あの日、なぜジャミル先輩が受け入れる気になってくれたのかは今でも分からない。
     けど、あの日から私はずっと、彼のことが好きだ。
     それはまるで目印の何もない真夜中の砂漠、空に一つ、静かに光る星を見上げる気持ちに似た感情だった。
     祈るような気持ちで、ずっと、私はあなたのことが好き。



     ……だから本当に、夢にも思っていなかった。いつかそうなった時には、もう嫌だと言い出すのは、きっとジャミル先輩のほうだと思っていたから。

     まさか私から、彼に別れを切り出す日が来るなんてことは……本当に、欠片も想像していなかったのだ。





    「う、わぁぁあぁぁっぁ!!」

     不意にアスファルトの水たまりの中の自分と目が合って、ぐるりと世界が回転した。ここまではいつものこと。で、急に浮遊感と寒さに襲われた。と思ったら、私の優秀な三半規管が、自分が落下の真っ最中であることを告げてきた。

     なに、なに、なに!?

     思う間もなく、背中から水面に叩きつけられるような衝撃の後、今度は猛烈な寒さと轟音が襲いかかってきた。

    「いったぁ……」

     起き上がろうとしたが、体が思うように動かない。何かとんでもない冷たいものに阻まれて、身動きが取れないのだ。
     目を開けると、自分の周りを白い低めの壁が取り囲んでいた。まるで井の中の蛙、蓋の開いた棺の中みたいだ。
     棺の中の死体よろしくまっすぐ上空を見上げると、ものすごいスピードで白い煙が流れていた。びゅうびゅうという轟音はこれか、と得心する。

     いや、違う。これ、煙じゃなくて……雪?
     待って、もしかして、私、——雪に埋まってない?

     冷たい地面に阻まれながら、苦労して体を起こす。

     ——吹雪だった。

     あたり一面の銀世界、なんてキャピッとした生ぬるいものではない。命の危険を感じるレベルの、紛うことなき吹雪だった。目を凝らしてよく見ると、はるか向こうにはぼんやりと丘陵や、木のような輪郭がちらほら、分厚い雪を纏いながらある。

    「え、うそ……? ここ、どこ……?」

     よろよろとその場に立ってみる。強い横風のせいで、雪片が頬に突き刺すようだった。着ていた春物のコートもびしょびしょだ。
     いや、そんなことより。ここ、まさか。

    「ゆ、雪山ーーーーーっ!?」

     私の大絶叫は本来ならその場を揺るがすほどのものだったけど、強風に吹き飛ばされ、雪片と共に彼方にかき消えてしまった。


       ◆


     高校生だったある日、私は突然、異世界に転がり落ちた。
     転がり落ちた先の世界は、ツイステッドワンダーランド。そこは魔法や人魚、妖精に獣人、冥界のご親戚(?)までもが存在する、とんでもファンタジー世界だった。
     そしてそれを夢と疑っている暇もなく、私はその世界で魔法士養成学校・ナイトレイブンカレッジに所属し、本来魔法士になれるはずもないモンスター・グリムと共に、大魔法士を目指す羽目になる。
     で、それから結構色々あって、私はその学園を卒業した。ちゃんと卒業試験をパスして、なんと認定魔法士試験までパスしたんだから、我ながらすごいと思う。まぁ、魔法士って言っても一番下っ端の六級魔法士だし、登録証にはグリムの名前しか載っていなくて、私はその条件的な扱いだけど。運転免許とかにある『眼鏡使用』の眼鏡、みたいなものだと思ってもらえると良い。要は補助輪。
     学園にきっちり四年通っても、全然元の世界に帰る方法が見つからない私に、本格的に魔法士を目指すことを勧めてくれたのは、担任のクルーウェル先生だった。

    「このままNRCにずっと留年して通っているわけにもいかないだろう、困った王族でもあるまいし」

     と言われ、まあ確かに、と頷いたのは私だ。

    「仔犬。お前が望むなら、お前を『調教師』として認定魔法士試験にねじ込んでやろう」

     そう言ってニヤリと微笑んだクルーウェル先生は非常に頼もしく、有能で、本当に私に試験資格を与えて試験会場にねじ込んでくれた。
     論文の書き方、面接の切り抜け方、その他諸々を叩き込まれたとは言え、『魔法士を目指すモンスターとその調教師』なんて、本来、門前払いされて当然の二人組だ。それを試験まで受けさせてくれた上、本当に合格させてくれたんだから、クルーウェル先生って本当にすごいと思う。
     会場にいた試験官の一人がグリムを連れている私を見て

    「君があのクルーウェル君の! どんな悪童が来るかと思いきや、ハハ、あのやんちゃな彼も少しは丸くなったということかな」

     と笑っていたから、別の意味でもすごい人なのかも、と思わないでもないけれど。
     まあ、それは置いておいて。
     この話の最も重要なところは、偉大なクルーウェル様への賛辞……ではもちろんなく、私の決意と覚悟、賢明さの部分である。

     だって四年だよ? 四年も元に戻れず、急に、明日帰れます! となるとは思わないじゃない。私はそこまで楽観的じゃない。それならとりあえず、ここで自分の肩書きを作って、お金を稼ぐ手段を見つけて、ってやっていかなきゃのたれ死んでしまう。
     それには『魔法省の認定した魔法士』というのが一番手っ取り早い……かどうかは分からないけど、私にとっては一番身近で、なおかつ一番箔が付きそうな、格好の肩書きだったのだ。
     こっちに履歴書制度があるかはその時は分からなかったけど——なにせ私はそれまで、学園長に貰うお小遣いと、学校内のカフェ施設であるモストロ・ラウンジでのアルバイト、それに選択授業の一環の調理実習などでしかお金を得たことがなかった——、武器は多いに越したことはない。

     つまり何が言いたいかっていうと……私は、こちらで生きる覚悟を着々と決めていたってこと。
     ちゃんと仕事をしようとしていたし、なんならこっちで彼氏まで作って、人生をエンジョイしていたわけです。うむ。
     しかし六級魔法士になって、学園長に泣きついてNRCでの教職をもらう約束を取り付けて、これで何も憂うことはない! と、ウキウキだったある日。学園の掲示板を見ていたら、ふと、掲示物を守るガラスケースに反射した自分と目が合った。
     と思ったら、世界がぐるりと回転した。
     で、気がついたら見知らぬ漁港近くの薮の中にいた。

    「は……?」

     体を起こす。わけが分からなかった。
     けど、いきなり別世界、というか異世界に飛ばされた経験がないわけじゃないので、常人よりはいくらか落ち着いて行動できたと思う。
     薮から抜け出し、しばらくふらふら当てどなく歩いていると、道行く眼鏡のおじさんに出会った。第一村人発見。私は旅行者を装っておじさんに声をかけ、話を聞き出した。こんなこと言うのもなんだけど、私、NRCに通ってから、大分……こう、なんか、染まったな、って思う。
     それはさておき。

     おじさんが言うには、そこはカナザワの小さな漁港らしかった。
     漁港といっても、TWL内のものではない。要は、元の世界の、石川県金沢市。の、漁港。

     私はもちろん混乱した。
     それはもう、眼鏡のおじさんの前で、あからさまにピシリと硬直してしまうほど。
     わけが分からなかった。

     だって、今まで私、NRCにいて、魔法世界で、学園の連絡事項を見ようと思って、なのに、……帰って、きた……の?

     しかしそんな混乱も長くは続かなかった。
     漁港で出会ったおじさんの眼鏡に映る自分と目が合ったと思ったら、再び、ぐるり、音を立てて世界が回ったから。
     気がついたら私は元いたTWL内の学校の中にいた。
     NRCではない、全然別の、魔法士養成学校ではない普通の学校の、講義中の教室に、突然。
     こうして私はあちらとこちらを、前触れなく、TWLに転がり落ちた時と同じくらい唐突に、自分の意思とは全く関係のないところで、行ったり来たりするようになってしまったのだ。


       ◆


     初めて元の世界に弾き返された時ほどではないが、どこかの雪山——パターンから言えば、今はTWL内の雪山——で、私はかなり動揺していた。

    「さっ、寒いぃぃ……!」

     だって寒い。無理。普通に。えぐい。十回以上あっちとこっちを行ったり来たりしている中で、いつもわりかし平和な所に飛ばされていたので油断していた。まさかこんな所に放り出されるとは。このパターンあるなら先に言っといてよ!

    「ぁあ、そうだ、スマホ、すまほぉ~……」

     ネックストラップを引いて、首にかかっていたスマホを服の中から引っ張り出す。自分でも予期せず行ったり来たりしている関係で、肌身離さずスマホを身につけて、帰ってきた際にはすぐに連絡を入れろ、と恋人に……いや、元カレに厳命されているのだ。
     うぅ、と声にならない唸りを上げながらしゃがみ込んで、なんとか風の当たる範囲を狭めようとしたけど、あまり効果はない。震える手で出来得る限り早くスマホの電源を入れるよう努める。

    「はやくはやく、はやく付いて~……、あ、え? えっえっ? うそ、嘘嘘うそ、待って、!!」

     音を立てて起動したかと思ったスマホ。しかし次の瞬間

    『バッテリー異常 強制シャットアウト中……』

     という無情な表示が出たかと思ったら、プツンと画面がブラックアウトしてしまった。

    「うそ……寒すぎて電源入んないってこと? ……どうしよ、」

     とにかく風を避けなきゃ。立ち上がって木のほうを目指そうとする。けど、それも三歩で諦める寒さだ。足が取れそう。
     何を隠そう、ただの都会の街行く春服である。ペラッペラである。とても雪山の装備ではない。しかも吹雪いている。木は遠く、逃げ場がない。

    「うわっ、」

     雪に足を取られ、その場にべしゃりと転んだ。膝も、手も、耳も、鼻も、ありとあらゆるところが千切れそうなほど冷たい。外気の冷たさに、息を吸うだけで中から凍りそう。なんとか温めようと胸辺りに突っ込み直したスマホも、雪と同じくらい冷たくなっていた。
     雪原で途方に暮れて膝をつき、風の流れを見つめる。

     ああ、私、死ぬのかな。ここで、……いや、ここがどこかも知らんけど。知らない場所で死ぬんだ。できるなら、ベッドの上で死にたかった。

     あまりの寒さに身体が自然と丸まっていく。歯の根が合わず、カタカタ鳴る。背中に雪が積もってますます寒いのに、それを払うこともできずに震えながら目を瞑る。

    「……みる、……せん……」

     ふと、頭に思い浮かんだ人の名前を舌の上で転がした。

     ベッドの上じゃなくてもいい。
     せめて最後に一度、あなたに会いたかった。

    「……、……!」

     と、遠くから、吹雪の轟音に紛れて何かが聞こえた。幻聴かしら、と思いつつ、のろのろ首をもたげる。
     向こう三メートルはろくに視認できないような吹雪の向こうから、黒い影が豪速で近づいて来るのが見えた。
     力を振り絞ってその場で手を上げる。すると、空中で迷うように蛇行していた影が、吹雪をまっすぐ突き刺してさらにスピードを上げ、ぐんぐんとこちらに近づいて来る。
     白く烟る中から魔法石の赤が灯台のように光って、黒髪が鞭のように靡いたのを見た。
     次の瞬間には、落ちていた時とは別の浮遊感が私を宙に攫っていた。

    「怪我は!?」
    「な、い、と思いま、」
    「なら良い! 急いで離れるぞ!」

     空飛ぶ絨毯に浮遊魔法で乗せられ、速攻でパーカーを被せられて小脇に抱えられる。そのまま返事もできない内に絨毯が発進した。
     豪速移動のせいで体にかかる凄まじい重力に耐えながら、助かった確信を得た私は、口元までを覆うパーカーに、ジャミル先輩の匂いだなぁ、などと呑気なことを思ったりした。



     そのままオンボロ寮に直行し、ジャミル先輩はすぐさまゴーストたちに指示して、寮内にある、ありとあらゆるタオルと防寒具を集めた。そしてそれを、魔法で服を豪速で乾かされた私にこれでもかと巻き、火のついた暖炉の前に放る。
     ゴーストたちは私を心配そうに見ていたが、「お前らがいると部屋の温度が下がる」と言ってジャミル先輩が全員追い出してしまった。彼らの去り際に、ごめんね、と手を振ると、やっとホッとしたような顔をしていた。
     しばらくすると、ほら、と暖かいミントティー——アッツァイが出てくる。ありがたく口をつけると、爽やかなミントの香りと甘い砂糖にホッとした。至れり尽くせりだ。これを飲むと、ああ、帰ってきたなぁ、と思う。

    「身体が芯から温まります……!」

     絶望から救い出された安堵に、図らずも涙ぐみながら言う。ジャミル先輩は「良かったな」とだけ言って、自分もアッツァイを一口飲んだ。
     TWLでの私の居住地は、相変わらずNRCのオンボロ寮だ。身一つでこちらに来ている私に、部屋を借りるお金の余裕はない。あと、これは推測だけど、モンスターと一緒に借りられる部屋って、さすがのTWLでも無いと思う。勝手知ったるところなので、便利は便利だけど。

    「今回の漂流はわりと長かったな」

     ジャミル先輩がスマホの時計を見ながら言った。

    『漂着したらまず時間を確認しろ』
    『いざという時のためにスマホの電池は節約』
    『些細なことでも違和感があったら頭に叩き込んで持ち帰れ』

     この三つの《向こうでの心得》は、繰り返しジャミル先輩に言われてきたことで、私ももれなく実行している。今回はちょっと……色々あって、出来ないこともあったけど。

    「あー……そう……ですね。私の体感としては二、三時間なので、こっちで言うと……」
    「……大体十八日だな」

     ジャミル先輩は私をチラと見てから答え合わせをすると

    「今、学園長に戻ったと連絡した。すぐ来るだろう。あと、イデア先輩にも連絡しておいたからな」

     と言ってスマホをポケットに捩じ込んだ。

    「え? イデア先輩に? どうして?」
    「今後、周囲が何℃でも強制シャットダウンが起きないように、魔法工学界の麒麟児に君のスマホを改造してもらう」

     まさか輝石の国の雪山に落ちるとは思ってなかったからな、とジャミル先輩は腕を組んで不満げに言う。あそこ、輝石の国だったんだ。ぼんやり思う。
     確かに、私もあんな危険は想像していなかった。なにぶん予告なくあっちとこっちを行ったり来たりしちゃうので——私のこの妙な体質? を知ってる人はみんな、これを『漂流』と呼ぶ——、念のために寝る時にも靴を履いて、スマホを常に首から下げていたのだけれど、雪山は想定外だ。

    「防水加工も強くしたほうがいいな。今後、海に落ちる可能性が全くないとも言えない」

     と不吉なことをぶつぶつ言う先輩に、「そういえば」と思いついたことを聞いた。

    「どうして場所が分かったんですか? 連絡、結局できなかったのに」
    「電源ボタンを押しただろう。そちらで操作はできなくても、一瞬電源は入ったんだ。その時、設定しておいたスマホの位置探知が作動した」
    「ああ、なるほど」
    「いつもなら連絡を待つところだったんだが、またすぐに電源が落ちたから、何かあったんだろうと思って。すぐに絨毯に乗って正解だったよ」
    「毎度ご迷惑をおかけしまして……」

     へへ、と頭を掻くと、「無事ならいいさ」と、さらりと言われた。

    「今後は向こうに行っても電源は切るなよ。こんなことがあるなら、電池の節約だのと言ってる場合じゃない」
    「はぁい」

     と、玄関が開く音がした。

    「戻ったゾ~」と仕事帰りのお父さんじみたグリムの声。その後に「お邪魔しますよ」と学園長の声が続いた。ジャミル先輩に呼ばれた学園長が、グリムを連れて様子を見に来たのだ。
     モコモコの着ぐるみ状態で、ジャミル先輩の手を借りながら談話室に向かう。

    「すみません~、お待たせしました」

     入室とともに言うと、学園長は談話室のソファに座って高々と足を組み、ジャミル先輩が用意しておいたであろうお茶を優雅に啜っているところだった。

    「おや、お帰りなさい」
    「……ただいま戻りました」

     本当に図々しいんだから。私の命の恩人の厚意を当然のように……内心鼻白んでいると、「ほら」とジャミル先輩が私の手を引いて安楽椅子まで連れて行ってくれた。椅子近くの暖炉にはすでに薪が燃えている。……私に学園長を詰る権利はないかもしれない。
     足元に寄ってきたグリムが

    「今回は雪山だったんだってな。つくづく災難だな、オマエも」

     と、ケラケラ笑いながら私の足をてしてし叩く。
     私はその、ふっくら艶やかなまん丸ほっぺをじろりと睨む。

    「そういうそっちは、今回もトレイン先生のところで随分やりたい放題してたみたいね?」
    「してねーんだゾ!」
    「嘘、見るからにムクムク肥えちゃって。どうせお世話になってる間中、ずっと高級ツナ缶でもおねだりしてたんでしょ。お礼言った?」
    「こ、これは冬毛なんだゾ!」

     あんまり否定するので持ち上げて重さを確認しようと体を折ると、えらく抵抗されて距離を取られた。本人にも体の重い自覚はあるようだ。トレイン先生、ああ見えてイデア先輩と一緒で、猫っぽいものに見境がないからなぁ。私不在の間にグリムの世話を頼んでいる教師の甘やかしを憂いた。
     ソファに座った学園長が言う。

    「それで? 今回は何日間の滞在だったんですっけ?」
    「滞在って……毎度毎度、旅行みたいに言わないでくださいよ。今回こそは死ぬかと思ったんですから」
    「それは失礼」

     で、何日? と首を傾げられ、素直に憎たらしく思った。

     私が漂流を始めて、かれこれ二年がたった。学園長やグリム、それにこちらの世界でできた沢山の友人たちが大慌てしたのはごくごく初期の頃だけで、今ではみんな、心配するのも馬鹿らしいとばかりに振る舞う。
     オンボロ寮の元監督生は、あちらとこちらをなんの理由もなく行ったり来たりする、そういう、『変わった生き物』。ひとたびそうやって認識してしまえば、大慌てする理由も、大変に心配する理由も消えてなくなった、ということらしい。
     もうちょっと心配してくれてもいいんじゃないの、もちろん、ジャミル先輩ほど心を砕けとは、さすがの私も思わないけれど。と、小憎らしくは思うものの、みんなの反応も無理からぬことと納得しているのも事実だ。
     人が消える度に心を壊すほど心配していたら、その内に人は本当に心を壊してしまうし。
     実際、私は何度漂流しても、こうしてTWLに無事に帰ってきているし。
     こんなことは、もはや日常茶飯事になってきたのだし。
     大騒ぎして心配するだけ不健全だ、やたらと一人旅に出ている人間だとでも思ったほうが、ずっと心と体に良い。……とまぁ、そういうことなんだろう。

     けど納得と感情は別物だから、こうも目の前で、ま~ったく心配していませんでした☆何日不在だったかも数えてませ~ん♪と態度で表されると、憎たらしく思う気持ちは止められない。しかも仮にも雇い主に!!

    「十八日です」

     ムッとしながら質問に答えると「おや、少々長め」と、学園長は口元に手をやって小首を傾げた。仮面のせいで表情が読めないので、腹の中で何を考えているかは読み取れない。それは六年の付き合いがたった今でも変わらなかった。

    「……分かりましたか。この漂流体質、止める方法」
    「いえ、さっぱり!」

     このクソ教師。喉まで出かかった言葉を飲み込む。学園長は

    「そもそも分かっていることがずいぶん少ないですからねぇ。新しく気づいた事実とか、ないんでしょう?」
    「それは……」
    「今持っている情報から考えられる可能性は、あなたが初めて失踪した時にほとんど調べ尽くしましたし」

     と言って、やれやれとばかりに肩をすくめ、手のひらを見せて首を振った。腹立たしいことに、反論できない。
     初めて漂流から帰ってきた時に、友人たちの手を借りて、似たような事件は調べ尽くしていた。私たちは書物から前例を探り、仮説を捻り出し、ありとあらゆる解決法を考えたが、……その全てが空振りだった。
     今、この漂流について分かっていることは、三点だけ。

     ・向こうで過ごす十分間が、TWLでの一日に相当するということ。
     ・トリップのきっかけは、虚像の自分と目が合うこと。
     ・その際、虚像が映る物体は、本物の鏡ではいけないこと。

     たったこれだけ。それ以外のことは、本当に、何も分からずじまいなのだ。

    「引き続き、失踪に関する資料は集めていますがね? どれも空振りです、今のところ」
    「そうですか……」
    「蓋を開けてみれば、妖精や人魚による連れ去り、犯罪による死亡事件、誘拐、それに駆け落ち……と、とにかく理由なき失踪など、この世にあるわけが無いわけで。異世界に行っていた、なんて話は論文どころか体験談の一つですら出てきません」

     肩を落とす私に、学園長はポンと手を打ち、

    「いっそのこと、この漂流について論文を書いたらいかがですか? きっと良い評価が得られますよ!『マジカル・メソッド』に載ったりなんかしてねぇ。私も鼻が高い! ああ、もちろんその際には、我が校の講師である記述をお忘れなく」

     などと権威ある学術誌の名前をいたずらに出して、ゲスの提案をしてくる。思わずため息が出た。

    「じゃあ、まぁ……検討しときますよ。論文」
    「そうでしょうそうでしょう。もしあれだったら、敬愛する師として論文に私の名前を出しても構いませんよ。私優しいので!」
    「はいはい」

     漫才もどきをする私たちに、すでにこの話題に飽きてきているグリムが、くぁ、と大きなあくびをする。ジャミル先輩はその間もずっと沈黙していたが、ちょうどかかってきた電話に出るために「失礼」と言って一旦退室した。
     多忙な人だ、きっと仕事の電話なのだろう。文字通り、仕事を放り出して飛んで来てくれた彼には感謝しかない。
     扉を見つめていると、学園長が「……喧嘩でもしたんですか?」とヒソヒソ声で尋ねてきた。

    「え? どうしてです?」
    「なんだかいつもよりも素っ気なくないですか? お互いに」

     私はそれに少し考えた後、「喧嘩、では……ないと思うんですけど……」と煮え切らない返事をした。他にどう言えばいいのか分からなかったから。

     喧嘩ではない。多分。
     ただ、——別れ話は、したばかりだけど。

     学園長は神妙ぶって「ふむ」と言い、ジャミル先輩が電話を終えて談話室に戻ってくると同時にそそくさと席を立った。そして、

    「それでは大事な教員の無事も確認できたので、私は学園の業務に戻ります。それに、その漂流体質の治し方も早く調べないといけません! ああ、忙しい忙しい!」

     とわざとらしく言ってオンボロ寮を出て行った。喧嘩まがいに巻き込まれたくないだけのくせに、物は言いようだ。
     先輩はその大仰な説明口調に首をひねっていたが、学園長が出て行ってしまうと、私の元まで来て

    「それじゃあ、俺ももう帰るよ。仕事に戻る」

     と言う。

    「あ、はい。お仕事中にわざわざ、ありがとうございました」
    「今度来る時には替えのスマホを持ってくる。その時に今使っているやつは回収するから、データ移行の準備をしておいてくれ」
    「はい、了解です」
    「念のために、後で医務室にも行っておけよ」
    「はい」

    「見送りはいい」と言う先輩の言葉を無視し、喋りながら毛布をずるずるさせて玄関まで付いて行く。
     ふいよふいよと空を飛んで先導するかのような絨毯と共に玄関を抜けるジャミル先輩は、いつも通り、機嫌の読めないポーカーフェイスだった。今日起こったことをまるきり気にしていないような、気にさせないような、そういう顔。
     なんだか胸がざわついて、私は彼の背中に向けて口を開く。

    「あの、」

     ——なんで今日、来てくれたんですか? あんな雪山まで、仕事中に。わざわざ。
     ——私たち、つい一ヶ月前に、別れ話をしたばかりなのに。

     喉まで出かかったそんな質問は、ん? となんでもない顔で振り返るジャミル先輩に、ついに口からは出てこなかった。

    「……いえ。今日は本当に、ありがとうございました」

     重ねて礼をすると、「ああ」とだけ言って、先輩は絨毯に乗って去って行った。見えなくなるまで見送ると、室内にノロノロ戻る。さっきまで私が座っていた、暖炉に一番近い安楽椅子にはグリムが陣取って丸まっていたので、仕方なくその隣の敷物の上に腰を下ろした。
     パチパチと薪が燃える音が響く。私の冷え切っていた足先は、ジャミル先輩の献身によって、もうすっかり温まっていた。
     私は丸まるグリムの滑らかな毛並みを撫でながら、「あーぁ」とため息混じりの呻り声をあげた。

    「私の元カレって、なーんであんなにカッコイイんだろうね?」

     問うような言葉に、グリムは律儀に瞑っていた片目を煩わしそうに開け「知らねーんだゾ」と返すと、再び目を瞑ってしまった。先ほどよりもぐっと巻きを強くして丸まるグリムの頑なさはアンモナイト並みで、これ以上邪魔をするなと言わんばかりだった。
     二週間以上ぶりに会ったっていうのに、つれないね。毛並みを撫で下ろしながら思う。
     ……グリムも学園長も、もう私の帰りを泣いて喜んではくれない。エースもデュースも、誰だって。
     みんな、どこに行っても私がこのオンボロ寮に帰ってくると、信じて疑っていないのだ。

     この世界でただ一人、——ジャミル先輩を除いては。


       ◆


     初めての漂流から——もっと正確に言えば、石川県金沢市から——帰った私を待っていたのは、友人たちからの再会のハグ……ではなく、取り調べだった。
     帰った先がNRCだったらここまで大ごとにはならなかったんだろうけど、私が現れた先は普通の学校で、しかもなお運の悪いことに、魔法士養成学校でもない、ただの学校だった。さらに言えば、その学校はかなり厳格な校風だった。
     講義を受けていた人たちのレジュメや何かを、登場の風圧で吹き飛ばして突然現れた私に、教室中は阿鼻叫喚。それもそのはず、TWLの大抵の施設では、あらゆる瞬間移動系の魔法に対して防止呪文がかかっている。教室に人が突然降ってくるなんてことは、天地がひっくり返ってもあり得ない。それこそ、——テロでもない限りは。

     私は教授や学校警備員の人たちに、すぐさまとっ捕まった。混乱によってか、ちょっと記憶が混濁していて、あまり覚えていないけれど……かなり厳重な取り調べを受けた……ように思う。真っ白い建物に連れて行かれて、ベッドと洗面台とトイレだけがある真っ白い一室に案内されたのを覚えている。
     そこではかなり多くの人が順繰りたんぐり私に会いに来た。山ほどの質問と、よく分からない器具をつけさせられてのたくさんの検査。それこそ違う人に何度も同じ質問を繰り返されて、情報共有ができていないのかと憤慨した記憶があるくらい。
     今思えば、あれはテロリストだと思われていたのだと思う。

     しかし調べても何も出なかったのか、結局私は一週間ほどで無罪放免になった。このまま濡れ衣で死刑になっちゃうのかな……なんて映画みたいな心配も少ししていたのだけれど、そんなこともなく。
     そうか、君自身に分からないことなら、外野の私たちに原因が分かるわけはないね? とばかりに唐突に解放された。

     急に元の世界に飛んで、急にまた戻って来て、取り調べ尽くしで、また放り出されて訳が分からなくなっている私を迎えてくれたのは、今度こそ、相棒や友人たちの涙と、恋人からのハグだった。
     良かった無事だった本当に心配したんだぞ。そんな言葉をたくさんもらった。
     漂流から帰ってきたことを報告しても『あ、そうなの? おかえりー』『今度、飯でも行こう』とだけメッセージが返ってくる今となっては、あれは夢だったのでは? と疑いたくなるレベルだけど、その時はみんな本当に喜んでくれたのだ。

     私は彼らに事の経緯を説明した。
     どうやら元の世界に一瞬、帰っていたみたいだということ。それでちょっと滞在したら、またこの世界に戻ってきたこと。原因もきっかけも、自分では全く分からないこと。
     私はそこで初めて、自分がこの世界で三日も行方不明だったことを知ったのだ。

     みな神妙な顔をして、それぞれに原因を探してくれた。まぁ……その結果、NRC卒業生の英知を結集しても、何一つ分からなかったと知った時は打ちのめされた気分になったものだけど。
     そもそも、異世界からの闖入者、という身分からして、イレギュラー中のイレギュラーなのだ。学園長の言う通り『異世界に行っていた、なんて話は論文どころか体験談の一つですら』無いのが現実だった。
     漂流が始まって三ヶ月。学園長はジャミル先輩がまとめ上げた、友人や先輩たちの調べに基づいて立てた数々の仮説をことごとく一蹴すると、肩をすくめて言った。

    「そもそも。そもそもですよ? 異世界からの闖入者が過去に万一この世界にいたとして。その人物がこちらにしばらく滞在した後、元の世界に無事帰ったとして……その資料は残されているものなんでしょうか?」
    「……どういうことですか?」
    「元の世界に帰った証明は、こちらからも、向こうからもできない。そういうことでしょう?」

     ジャミル先輩が友人たちに託された資料のページを繰りながら言った。ほとほと疲れ切った、というような気だるげな声だった。
     学園長は「さすがはバイパーくん!」とわざとらしく手を叩く。ジャミル先輩はわずかに眉をひそめた。

    「なにせ私たちの間に連絡の手段はありません。君が異世界からやって来た、という前提だって、本来は仮定の話です。君はこの世界の住人で、今はただ記憶喪失なだけ。で、失った記憶を空想で埋めている。そう考えることだってできるわけです」

     非魔法人種はなにも、この世界でもそう珍しくはないんですから、と学園長は無慈悲に突き放す。

    「そんなこと……!」
    「ああ、もちろん、私は『君の記憶に間違いがない』と信じていますよ。私とびきり優しいので。今のはただの、論理的な観点から見た事実の話です。とはいえ……」
    「それを信じたところで、状況は変わらない」

     ジャミル先輩が音を立てて資料を閉じて、言葉を継いだ。

    「君が異世界から飛んできたことを証明する手立ては今のところないし、逆にいえば、……もしも無事に帰れたとしても、それも証明できないんだ。証明できないことを記録に残しても、空想や創作として処理されるだけだろう。もし仮に記録が残っていたとしても、見つけるのは至難の技だ。稀代の名作でもない限り、学術的価値のない話が埋もれるスピードは速いからな」
    「その通りです!」

     学園長は言う。

    「ついでに言えば……もし仮に、君より以前にそういう人がいたとして。その人を懸命に探し、後世に残すために書物に記すまでに相手に執着した人物が、果たしてこの世にいたんでしょうかねぇ」
    「それって……」
    「学園長、」

     ジャミル先輩が声を尖らせて制止しようとしたが、学園長はどこ吹く風で語りを止めない。

    「この世界に縁のない人間が探されること自体、常識的に考えて滅多に無いことでしょう? 記憶のない空想癖のある人間が一人いなくなったところで、困る人はそうはいません。むしろ、頭のおかしな人間の世話をする手間がなくなって、ラッキーとでも思うところでは?」

     学園長の言葉に、私は動きを止めた。

     ——空想癖の女の子が、ある日突然いなくなった。自分から出て行ったのかもしれないし、誰かに攫われたのかもしれない。しかしそうなった時に、——私をずっと、探す人はいない。だからこの件に割けるリソースは微々たるもので、諦めて、流されるまま暮らしていなさい。

     学園長の言いたかったことは、多分、そういうことだった。
     思い返せば、随分ひどいことを言われたと思う。事実だって言われればそりゃあそうでしょうけども、もうちょっと言い方ってもんがあるんじゃないの、こっちに来た時も思ったけど本当にデリカシーのない教師、っていうか、人の心がないんだな、この感じじゃ、私の帰る方法だって本当に調べてくれていたのかどうか。
     そう思って、深く傷ついた。

     結局、私がいくらこの世界に基盤を作っても、その上にいくら上等な生活を築こうとも、それは砂上の城なのだ。
     何かあればすぐに土台から砂に飲まれて、消え去ってしまう。
     ——それはきっと、私ごと。

     そのことに気づき、途端に苦しくなって、私は下を向いて黙り込んだ。TWLに初めて来た時も、こんなに心細い気持ちがしたのだっけ。
     その時、ジャミル先輩が言った。

    「心配するな」

     その頃、私と付き合って四年ほどがたった、気心の知れた恋人だった先輩は、うつむく私の肩を抱くと、目を合わせて続けた。

    「俺が探すよ。必ず」

     ジャミル先輩はそう告げた後、余計なことを言うなとばかりに、ジロリと学園長を睨んだ。
     涙が出た。

    『心配するな。全てうまくいく』

     彼と付き合ってからずっと、この言葉は私のお守りのようなものだった。彼にこう言われると、私は無条件に安心して、全ての不安は靄がかかって認識できなくなり、愛用の毛布に包まってすやすやと眠るような、奇妙に幼い気持ちになった。
     その時も、そうだった。
     彼がそう言って、どうにかならないことはなかったし、彼にどうする術がなくても、私の体はもう彼の言葉を全てそのまま受け取るように作り変えられていたので、きっと平気なのだと思ったし、何より彼が私を気遣ってそう言ってくれたのが心の底から、涙が出るほど嬉しかったのだ。
     そして先輩は、その言葉を今まで違えたことはなく、私がいなくなれば必ず探し、戻ればいつも絶対にいの一番に駆けつけ、私を迎えに来てくれるのだった。
     私がどこにいても。たとえ、雪山に落ちようとも。必ず。
     そしてそれは、私が別れ話をした後も、変わらなかった。


       ◆


     ジャミル先輩が耐久度の上がったスマホを持ってやって来たのは、それから三日後の夜のことだった。
     仕事終わりらしい彼は連絡なしにオンボロ寮までやって来たかと思えば、談話室に入るなり「ほら」と新品のスマホを差し出してきた。

    「あ、ありがとうございます! 爆速ですね。……イデア先輩、お暇だったんですか?」
    「そんなわけないだろう、今や魔法工学界のエースだぞ」
    「ですよね……じゃあ、これどうやって……」
    「前人未踏の最新技術と聞くと、挑戦せずにいられない人だからな。そのうち君のスマホをモデルケースにした、耐災害用のスマホが発売される日も近いだろうさ」

     その言葉に滲む邪悪かつ誇らしげな色に気づき、これは、「もしかして……できないんですか?」とか言って煽ったに違いないなぁと察する。すみません、イデア先輩。無理を言って。

    「グリムは?」
    「寝てます。夕飯終わるといつもそうなんです。お腹がいっぱいになると眠くなっちゃうみたいで」
    「ふぅん。まるで赤ん坊か、本物の猫だな」
    「あはは」
    「ところで、あの後ちゃんと医務室には行ったのか」

     談話室でデータ移行をしながら世間話をしていると、ふいに痛いところを突かれた。
    「あー……」言葉を濁すと、「そんなことだろうと思った」とため息をつかれる。

    「ちゃんと行けよ」
    「でも、」
    「君は医者か?」
    「……チガイマス」

    「だろうな」と呆れ声が続き、居た堪れなくなり、

    「でも、本当に平気ですよ」

     と、にこりと微笑んで誤魔化した。それは、これ以上彼に心配をかけないように、と思っての笑顔でもあったけど、ジャミル先輩は私の顔を見ると途端に不機嫌になってしまった。

    「……最近、君と話すと頭痛がしてくる」

     顔を逸らして言われ、ふと、心細い気持ちになる。
     この人のために私ができることって、本当に少ないんだな。
     そう思って。

    「……あの、先輩」

     私が思い切って口を開くと、先輩は先回りして席を立った。

    「もう行くよ」
    「え? ……あの、」
    「その話はしたくない」

     硬い声音での拒絶に、心が折れそうになる。だけど拳を握って立ち上がり、食い下がった。

    「でも、ちゃんと話さないと……」
    「前にも言ったが、俺の答えは変わらない。だから君が考えを改めない限り、この話はいつまでたっても平行線のままだ」

    「悪いが、不毛な話に割く時間はないんでね」と言って部屋を出て行く先輩の後ろを、駆けてついて行く。

    「待ってください! こないだの返事、私は納得いってません!」
    「へぇ。どの部分が?」
    「全部です!」

     叫び、先輩の服の裾を掴んだ。ぐんぐんと進んでいた先輩はそこでやっと止まり、こちらを振り返る。
     挑むように見ると、先輩は怜悧な瞳で私を見下ろした。

    「……お別れしたいって、私、言いました」
    「……そうだな。で、俺は断った。何か問題が?」

     さらりと言われ、ムッとする。

    「問題だらけですよ。普通、こういう話って、片方に……もう気持ちが無かったら、解消されるものでは?」
    「それは道理が通らない。交際というのは、二人でするものだ。双方の気持ちが通じ合って、初めて『恋人同士という肩書きを持ち、他に目移りせず互いを愛し続ける』という取り決め……失礼、約束に至る。そうだな?」
    「はぁ」
    「なら、別れる時も双方の了解が必要なわけだ。だからこの間も言った通り、この約束をなかったことにしたい、という君の気持ちは分かった。だが、俺はそれを拒否する。結末は変わらない」

     淡々と語られる言葉に、勢いがしぼんだ。
     なんか、……むやみに説得力があるんだよな。この間、「別れたい」って初めて言った時も、こんな感じでこっちが混乱しているうちに逃げられたのだ。
     だけどもう、これ以上ズルズル長引かせるわけにはいかない。

    「いや、でも! 片方の気持ちが離れているわけだから、これはつまりその、もう契約を存続する前提が崩れているわけで、」
    「つまり、君の一存による契約不履行だな」
    「そ……っ」

     待って、なんか今、アズール先輩もびっくりのゾッとするワードが出たぞ。
     契約不履行? 契約不履行って、……しかも私の一存で? ……待て。待って待って待って。

    「え……っと」
    「聞こえなかったか? 契約不履行だと言ったんだ」
    「いや、その……あの、ちなみになんですけど……契約不履行だと、この場合、どういったことが起きるんでしょうか……?」
    「一般的には、……そうだな。損害賠償の義務が発生するな」

     損 害 賠 償 。

     頭の上に石でできた文字が降ってきた気分だった。
     そんがいばいしょう、って、損害賠償だよね? お金とか発生するやつですよね?

    「それはあの……具体的にいうと、どのくらいの額に……?」
    「俺の心を、君が傷つけた代金を知りたいって?」

     腕を組んで応戦する姿勢を見せるジャミル先輩に、ガン、心を金槌で打たれたような衝撃が走った。

     ちが、違うんですよ先輩。私は決してあなたを傷つけたいわけではなく、むしろあなたを救うためにこういう選択をしたいと思っていてですね、まぁ、初手から付き合ってさえいなければこんなことにはならなかったんだけど、いやでも、確かに告白したのは私ですけど了承したのはそっちなわけだから、そっちにも多少の責任はある契約だったっていうか……

     ……って、違う!! そもそも交際は契約じゃない!! 分かんないけど! 多分違う!! まんまとジャミル先輩のペースに乗せられている!!

    「そういうの! 良くないです!!」

     ハッとして返すと、

    「そういうのって? 急に恋人に別れを告げることか?」
    「ち、違います! 屁理屈で煙に巻かないでって言ってるの!!」
    「屁理屈? 心外だ。これは俺の正当な権利の主張だぞ」

     と言い返される。立て板に水だ。私は言葉を探すけど、元より頭の出来が違うからか、上手い反論は出てこなかった。これまでずっとピンチを助けられ続けた刷り込みもあるとは思うんだけど、私はジャミル先輩には何をどうやったって勝てないのだ。
     私が言葉を失くしていると、

    「今日は帰るよ。もう夜も遅いしな」

     と、サラリと勝利宣言をされてしまった。
     また説得できなかった。無力感に思わず「ぐう、」踏まれたカエルみたいな声が出る。それにジャミル先輩は満足そうに笑った。

    「君が妙な考えを捨てるまで、この話は保留にしておこう。それでいいだろう?」
    「……そっちの屁理屈が論破されるまで、の間違いじゃないんですか」

     せめて、と思って詰ったけど、明らかに負け犬の遠吠えだった。先輩は首を反らし気味に傾け、私をさらに高くから見下ろして言う。

    「なにが不満だ。君が納得するまで、そういう意味合いでの触れ合いは無しにしてやっただろう。これが俺の持ち合わせる最大限の誠実さだぞ」
    「……私は、これ以上あなたに、誠実になってほしいわけじゃありません」

     うつむき、喉の奥から絞り出すと、存外苦悶の響きが乗った。つむじに痛いほどの視線を感じる。

    「君は馬鹿だな」

     唐突にジャミル先輩が言った。内容は明らかな悪口だったけど、優しい声だった。顔を上げる。

    「なに、」
    「俺を、誠実な男だと思ってる」

     違うの? とっさに問いかけたくなったが、言わなかった。
     私が思うジャミル・バイパーと、この人の自己分析との間に齟齬があることは、随分前から肌で感じていた。
     先輩はしばらく無言で私の瞳を見返していたが、やがて、ポツリと尋ねた。

    「君はまだ、俺を星だと思ってるのか」
    「……え?」

     藪から棒の問いかけに、一瞬混乱した。それが、彼に告白した六年前の自分の発言だったと思い出せたのは、彼が「いや、いい。もう帰る」と言って裾に絡む私の手を振り切り、踵を返した後だった。
     箒に乗って帰っていく彼の背中は別れを言う間も無く遠くなり、私は風の音ばかりがする、静かな月夜に浮かぶ彼のシルエットを見上げた。

    「……思ってますよ」

     だから別れたいんじゃない。

     もう届かない答えを口の中で呟く。
     夜でも、雪の中でも、いつでも見つけられるその様は、六年前と同じ、ただの一つも変わらない。私の目には、いつもジャミル・バイパーだけが、とびきりの光を纏って見えるのだった。

     まるで夜空に浮かぶ一等星のように。



     翌日、元カレ(仮)の言いつけ通りに医務室に行った。別に怖いわけじゃないけど、行くまでうるさく聞かれると思って。
     結果はもちろん異常なし。一緒についてきてくれたグリムは、「ホントにうるせー奴なんだゾ……」と悪態をついていた。これはもちろん、ジャミル先輩のことを指している。
     どこも悪くありませんけど一応、と軟膏をもらってオンボロ寮に帰る途中、授業終わりのクルーウェル先生に出くわした。

    「こんにちは、クルーウェル先生」

     声をかければ、先生は「ああ」と応える。と、今度はすれ違おうとした私の背中に声がかかった。

    「仔犬」
    「はい?」
    「少し話そう」

     顎でしゃくられ、クルーウェル先生の研究室兼準備室まで二人と一匹で連れ立って向かった。廊下に響く学生たちの笑い声から少し離れたそこは、いつ入っても良い匂いがする。

    「紅茶でいいか」
    「お構いな、」
    「オレ様冷たいのが良いんだゾ!」
    「……お構いなく」

     割って入る元気な要望を打ち消して、勧められるままふわふわのソファに座った。毛皮のカバーがかかった革張りのソファはかなり高価そう。万が一にも汚さないようグリムをがっちり膝に抱き込むと、しばらくして暖かい紅茶と冷たいミルクがコップに入って出てきた。
    「ひゃっほう!」とミルクに飛びつくグリムに、「お気遣いすみません」と頭を下げる。

    「気にしなくていい。貰い物を一人で飲むのも味気ないと思っていたところだ」

     聞けば、トレイン先生からの頂き物の、良い茶葉だそうだ。一口飲むと、華やかな良い香りが広がる。

    「美味しい!」
    「トレイン先生に伝えておこう」

     しばらくそうやって二人と一匹で落ち着いていると、ふいに先生が尋ねた。

    「何かあったのか?」
    「え?」
    「向こうで。……誰かに会ったか?」

     とっさに言葉が出なかった。

     どうして分かるの?

     そんな衝撃だけが頭を占めていた。

    「図星か?」
    「い、……いえ、いいえ。誰とも、会っていません。会いませんでした」

     重なる問いにぶんぶん首を振った。事実だった。
     誰かと会ったのではなく、——むしろその逆。

    「コイツは誰とも会ってねェんだゾ」

     グリムが繰り返した。私を炙るように見つめていた先生の瞳が、きらりとグリムのほうを向く。

    「ほう? なぜ分かる。一緒に付いて行けたわけでもあるまいに」

     その言葉に含まれる挑発を敏感に感じ取り、グリムはムッと眉根を寄せる。

    「帰ってきた夜に、子分がそう言ったんだゾ! 誰かに会うどころか、誰にも探されてなかったって、」
    「グリム!!」

     慌てて相棒の口を塞いだが、後の祭りだった。クルーウェル先生は珍しく目を見開いて、本当にびっくりしているようだった。
     しまった、という顔で私を見上げるグリムに、そっと首を振って口を覆っていた手を離した。

    「あ、お、オレ様、」
    「……ううん、いいの。グリムは悪くない。誰にも言っちゃダメって、私、言わなかったでしょう?」

     それでも珍しくしょげ続けている相棒の気を逸らそうと、ミルクのカップを手に持たせてやる。グリムはそれを受け取ると、背中を丸め、私の膝の上で大人しくなった。

    「……本当なのか?」

     クルーウェル先生が気遣わしげに問う。

    「お前がこれまで漂着していた先は、お前の元いた世界ではなかったと?」
    「……ああ、そうか。そういう考え方もできるんですね。私、てっきり……向こうでは、私の存在そのものが、消されちゃったんだとばっかり」

     すごく良く似た別世界ってこともあるか。一人納得して頷いていると、クルーウェル先生が音を立ててカップを机に置いた。焦れた様子に困ってしまって、自然と眉が下がった。

    「えぇっと、……どこから話したらいいかなぁ?」



     ——この間。
     私がTWLで十八日間いなくなり、向こうで三時間を過ごした間。
     私はその日、偶然、向こうの警察署の前に流れ着いた。いつも通り、帰れる擬似鏡を探そうとした私は——TWLに帰る時はプラスチックとかガラスとかを片っ端から覗き込むようにしている。その時々によって相性があるのか、帰れるタイミングはまちまちだ——警察署の自動ドアに映る自分を見て立ち止まった。

     私を探している人はいるだろうか。

     そう、一度思い至ってしまったら、もうだめだった。私はほぼ無意識に警察署に入り、窓口に行って、自分の行方不明届や捜索願が出ていないかを尋ねた。
     担当してくれた人は親切で、ちょっと記憶が曖昧で、と異世界で過ごした間のことを誤魔化す不審者丸出しの私に、実に根気強く質問——聴取? を続けてくれた。
     保護者の住所と電話番号を告げ、顔写真を撮られ——レンズを見つめる時は少しソワっとした。もしかしたらこの瞬間に漂流してしまうかもしれないと思って——、で、調べるからこちらでお待ちください、と席に座らされて一時間。
     うっかり擬似鏡の中の自分と目が合わないように、ひたすら自分の手の甲を見つめていると、担当さんが私のところに戻って来た。そして長椅子に座る私の隣に片膝をつくと、こう言った。

    「君の名前、間違っているってことはない?」

     該当の住所も電話番号も行方不明名簿の中には登録がなくて、君の名前もないんだけど、他に手がかりはあるか……そんなことを担当さんが続けている。

     私はその時、全てを理解した。

     TWLでの一日がこちらでの十分。単純に考えてもTWLで一年を過ごしている間、こちらでは二日と半分は不在なはず。それが六年だ。単なる女子高生の家出と捉えるには、十五日は長過ぎる。思春期らしいいざこざはあったものの、両親との仲はそこまで悪くなかったし、捜索願が出ていないとは考えにくい。

     ——私はもう、この世界にはいない存在なのだ。

     砂漠から持ち帰り、庭の土に混ぜ込んだ砂は、それはもう、庭のもの。違いは明確にあれど、分離することは適わない。私はそういう存在で……もう、TWLの住人になってしまったのだ。そう思った。

     もちろん、クルーウェル先生の言う通り、もしかしたらあそこは、本当は私がいた世界じゃないのかもしれない。
     全くの異世界まであるのだ、私のいたところと良く似たパラレルワールドの一つや二つ、あったって何もおかしくない。そこに何らかの原因で私が紛れ込んでしまった可能性だって。だけどその時の私はそんな可能性には気づかなかった。

     でも、それでも。一つはっきり言えるのは。

     ——あの世界に私を探している人はいなかったのだ。

     私は小さく「間違っていません。何もかも。本当に」と言って席を立った。担当の人は追いかけて来て、私を保護すると言ってくれたけど、私は首を振った。

    「大丈夫です。誘拐とかの事件じゃないし……私がいなくなって、誰も悲しんでいる人がいないなら、それが一番いいので」

     担当さんは私を残念そうに見つめ、名刺をくれた。私は親切なその人に頭を下げて警察署を出た。
     胸の辺りがスゥスゥした。心に穴でも空いたみたいだった。
     少し状況を整理したくて、そのまま警察前のガードレールに腰掛けてしばらくぼんやりしていた。
     不意に突風が吹いて、手の中の名刺をさらった。私は水たまりに落ちたそれを拾おうと近づいて……再び、TWLの雪山へ戻った。



    「ああ、けど先生、誤解しないでください。私、落ち込んでるわけじゃないんです」

     苦虫を噛み潰したような表情のクルーウェル先生に、慌てて付け加えた。

    「だって、考えてもみてください、先生。向こうを離れて、もう六年ですよ? そりゃ人並みに里心くらいはありますけど、人生の最新の四分の一以上をこっちで過ごしてるんだもの」
    「だが、」
    「分かりました、正直に言います。分かった時は、確かにショックでした。寂しい気持ちも、悲しい気持ちもありました。……けど、警察の人に伝えた言葉に、嘘はありません」

    『私がいなくなって、誰も悲しんでいる人がいないなら、それが一番いい』

     とっさに出た言葉だったが、そのセリフは意外なほど私の心にストンと落ち着いた。とっさだったからこそ、本心が出たのだろうと思う。

    「……もしかして、分かっていたのか」

     先生は私をじっと見る。

    「こうなることを、お前は、分かっていたのか? 仔犬」

     私は黙り、それから笑った。

    「言ったでしょう、先生。……もう六年ですよ?」

     クルーウェル先生は小さく息を飲んだ。
     私だって、全部分かっていたわけじゃない。ただ、予感はあった。
     なんとなく、こうなる気はしていたのだ。

     漂流が始まった時点で、向こうの世界から離れて四年がたっていた。私はその時すでにTWLで生きる覚悟を決めていたし、言ってしまえば家族の声も、顔も、よくは思い出せなかった。
     それに何より、私が望んでいたのはこの漂流を止めることで……元の世界に留まることではなかったのだ。
     そんな人間が、元の世界に呼ばれるなんておかしい。長いこと、そう感じていた。

     それに、漂流の時はいつも、地元から離れた土地に流れ着いてきた。しかも、いつも全然違うところ。お金がないので公共交通機関は使えず、それどころか人っ子一人見当たらない田園に落ちることもよくあって、私は三十分から一時間ほど、あてどなく周囲を散策するしかなかった。
     毎度、体に染み付いた、どこか懐かしい風景を見て回るばかり。
     この漂流に誰かの強い祈り——例えばそれは家族からの——に導かれるような、人と会う目的があるようには思えなかった。

     ——私が向こうで会うべき相手は、もういないのだ。

     私はソファの背もたれに音を立てて寄りかかった。肩を竦めておどける。

    「これで正真正銘の根無し草です。やっと身軽になれました。……ふふ。薄情ですよね」
    「いや、」
    「でも本心なの」

     口の中で呟けば、言葉は香り高い紅茶の空気に溶けていった。元の世界に心残りがあるとすればそれは、誰にも別れを告げられなかったことくらい。それだけはずっと、心に棘のように刺さっている。
     壁際に置かれた薬品棚をぼんやり見る。
     ピンク、グリーン、イエロー。
     ていねいにラベリングされた、この世のものとは思えない不思議な色味の液体を見つめていると、ふと思考が飛ぶ。

     ——けど、悲しむ相手も、私を呼んでいる相手も向こうにいないのならば。
     ——どうして私はいつまでも、漂流を続けているのだろうか?

     しかしそんな疑問はすぐに霧散した。膝に座っていたグリムが、私の鳩尾に手をかけて体重をかけたから。
     何? と目線を落とすと、相棒は口元にミルクの髭を付けながら、子供が初めて持つ宝物のガラス玉にも似た、ターコイズブルーの瞳でまっすぐと私を見る。

    「も、元の世界なんかなくたって、大丈夫なんだゾ! なんたって子分には、このグリム様がついてやってるんだからな!」

     私は呆気にとられ、それから笑ってグリムを抱きしめる。

    「そうね、平気ね。大魔法士がついてるもん」
    「おう! 感謝しろよ」
    「ふふ。ねぇ大魔法士さん、感謝の印に口元拭いてもいいかしら? ミルクが付いちゃってるの」

     グリムは「ん」と目をぎゅっと瞑る。袖で拭ってやると、されるがままになっていた。世話されることにすっかり慣れた相棒の、濡れた、柔らかい毛並み。それをこっそり堪能していると鐘が鳴った。

    「あらやだ、ごめんなさい。もしかして私、すごく長居しちゃいました?」
    「いや、構わん。時間は取ろうと思っていたからな」

     素知らぬ顔で紅茶を啜る先生に、ふ、と笑いが漏れる。

    「なんだ」
    「いえ。ただ……この世界で、私、本当にたくさんの人に救われて生きてきたなぁと思って」

     気にかけてくださってありがとうございます、と礼を言えば、先生はなんだか居心地悪そうな顔をした。

    「なんです、その顔」
    「いや……カウンセリングが必要だと思ったら言え。手配くらいはしてやろう」
    「あはは。じゃあ、必要になったら」

     先生はつっけんどんに「変わらぬ図太さで結構なことだ」としめくくると立ち上がって、グリムが飲み干したミルクのカップを回収していく。私は慌てて、まだ半分ほど残る紅茶をぐいと煽って飲み干した。ああ、こんな雑に飲んでいい紅茶じゃなかろうに。
     飲み干したカップを先生に渡して席を立つ。戻った夜にグリムに話した時も思ったけど、一人で抱えるよりずっとスッキリした気分だった。
     ジャミル先輩には絶対に言えない話だと分かっているからこそ、無意識に吐き出す先を探していたのかもしれない。先生、意外とカウンセラーに向いてるんじゃない?

    「仔犬」

     それじゃ、と出て行こうとした背中に声がかかって振り向いた。グリムは私が少し開けた部屋のドアの隙間から、すでにするりと廊下に出てしまっている。
     先生は言った。

    「お前がこちらに残るのは、バイパーが理由か」

     一瞬、息が止まるかと思った。
     愕然とする。
     先生は私をじっと見ていた。
     そういえば私の好きな人に、目の色が似ている。
     遠くから「おーい」と声をかけられた。ハッとする。私があんまり出てこないので、グリムが外から声をかけたのだった。
     私は鎌の刃に似た瞳から逃れるように、何度も首を振った。

    「いいえ。まさか。そんなんじゃありません。私は薄情なの。本当に、ただそれだけ。……紅茶とミルク、ごちそうさまでした。トレイン先生によろしく」

     言い切って、ドアを大きく開ける。逃げるようにして部屋を出た。



     その二日後、夕飯を終え、洗い物をし、もらった保湿の軟膏を指先に塗って、すっかり夜の雑事を終えていた私を、ジャミル先輩が訪ねてきた。
     先輩は基本的に私にアポを取らない。それは多分……漂流が始まってから、ずっとそう。
     私は突然やって来た恋人……いえ、元カレを、多少驚きつつも快く談話室に迎え入れた。

    「こんばんは、先輩。何かありましたか?」
    「いや、大したことじゃない。少しカウンセリングにな」
    「はい?」
    「グリム、悪いが少し外してもらえるか」

     お腹がいっぱいになって、ソファでうとうとしていたグリムはムゥとへの字口を作ったが、文句を言うよりも眠気が勝ったのか、ノロノロと起き出して二階の部屋に上がっていった。
     グリムがいなくなると、当然ながら二人きりになってしまった。長いこと付き合って来た人だ、今更緊張もないけれど、……嫌な予感がして、冷や汗が出た。
     どちらとも、座らなかった。立ち尽くしたまま向かい合うと、先輩はこちらが怯んでしまうほどまっすぐと私を見た。

     怒ってる。

     肌で感じて、無意識に体が強張った。

    「君、」

     先輩がおもむろに口を開く。

    「向こうで探されていなかったんだって?」

     頬を張られたような衝撃に、目を見開く。ブリキ人形めいた動きで、やっとの思いで瞬いた。

    「……え、?」
    「向こうの警察に行ったんだろう。家族からの捜索願は出ていなかったとか」

     畳み掛けられ、膝が笑う。

     単なる当てずっぽうじゃない。
     本当に、知ってるんだ。

     一気に呼吸が苦しくなる。

    「な、んで、」
    「クルーウェル先生に聞いた。ああ、口止めが足りなかったとは思わなくていい。元より、俺が先生に依頼したことだ」

     まぁ、迂闊な君のことだ、口止めをしたとも思えないが。先輩はそう続けて、肩を竦めた。

    「依頼……」
    「戻って来た時、様子がおかしかっただろう。だから訳を聞き出すように頼んだんだよ。さすがの君も、一番敬愛し、信頼している教師に隠し事はできないらしいな」
    「おかしいって、そんな、」
    「……俺が今回の漂流の長さを聞いたら、君は長考した上で『体感としては二、三時間』と言ったんだ。覚えてるか?」

     もちろん、覚えている。とっさに自分がどのくらい向こうにいたのか答えられなくて、曖昧にしたのだ。だけど、そんな些細なことで、まさか。

    「いくら君が呑気で、この漂流に慣れて来たと言っても、今まで自分の漂流時間を把握していなかったことはなかった」
    「それは、だって」
    「そう、当然だ。『漂着したらまず時間を確認しろ』、『いざという時のためにスマホの電池は節約』、『些細なことでも違和感があったら頭に叩き込んで持ち帰れ』。再三そう言いつけておいたはずだからな。この、俺が」

     先輩がジリジリと近寄って、私はその度距離を取る。
     とうとう踵が壁にぶつかって退がれなくなると、先輩は私の顔の横に手をついて追い詰めにかかる。

    「君がうっかり忘れるわけがない。だから、よっぽどのことがあったんだろうと思ってね」

     頬に吐息が触れるほど近づいて、先輩は言った。私は立ち竦む。まさしく、蛇に睨まれた蛙だった。

    「気分はどうだ」
    「え……?」

     てっきり怒られるのだと身構えていたので、悠然とした響きの問いに、無意識に聞き返していた。
     先輩は聞く。

    「もう帰る場所なんかないだろう? これで君は、どうにかしてこの世界に残るしかなくなった。——世界に一人きりの気分、教えてくれよ」

     どこか嘲りを含んで聞こえるセリフには、肉食獣が尖った歯先でいたずらに獲物を嬲るような意地の悪さがあった。まるで故意に悲しみに引きずり込むよう。
     私が唇を噛み締め俯くと、その耳に、彼がそっと吹き込んだ。
     毒でも仕込むみたいに。

    「——君にはもう、俺しかいない。俺しか頼れない。その気分を」

     私は彼の足元をじっと見つめる。
     砂漠を歩く、頑健な足がそこにはあった。
     一人、どんな重荷を背負わされようが、しっかりと大地を踏みしめ、苦しくても辛くても流されず、吹き飛ばされず、ただそこに立つ、金剛の足だ。
     まるで私の愛する、ジャミル・バイパーそのもの。

     ——私はこの人にだけは、もう頼りたくない。

    「……別れてください」

     自然と口からこぼれ落ちていた。
     耳元でかすかに、ハッと息を飲む音がする。私を飲み込んでいた影が退き、ゆっくりと顔を上げた。
     先輩は、何を言っているのか理解できない、と言うような顔で私を見た。そして何度か瞬きをした後、素早く首を振る。

    「駄目だ」
    「……別れたいんです。お願いします。もう無理なんです。私には」
    「だめだ。許さない。俺はこの件に関しては絶対に、君の願いは叶えない」

     硬い声音で、はっきりと拒否された。それでも、一歩退いた先輩の服の裾を掴み、私は追い縋って繰り返す。
     馬鹿の一つ覚えみたいに、何度もなんども。

    「お願いします、別れてください。どうしても……」
    「……駄目だ」
    「謝れって言うなら何度でも謝ります。損害賠償も、どんなに高くても頑張って払います、だから」
    「よせよ……」
    「私、本当に馬鹿だったんです、こんなことになるとは思ってなくて、本当にごめんなさ、」

     謝罪を遮って手が掴まれた。
     はたと振り仰ぐと、私の手首を掴んだ先輩の瞳は悲憤に濡れ、親の仇かのように私を睨みつけていた。

    「……っどこにも行くあてなんかないのに、どうしてそんなに頑ななんだ。なにが不満だ、言ってみろ!!」
    「不満なんか、」
    「ならもう諦めろ!! 君から奪えるのも、与えられるのも、もう俺だけだって言ってるだろう! 別れたくて仕方ない嫌な男から、君は生涯逃げられないんだ、ざまぁみろ!!」
    「あなたに不満なんかないって言ってるでしょ!!」

     あんまりな言葉に、気づいたら我を忘れて絶叫していた。

     ジャミル先輩が嫌いだから別れたいんじゃない。
     あなたに悪いところがあるから、遠ざけたいわけじゃないのに。

     目を白黒させている先輩に、私は言った。

    「……私です。悪いのは、全部私。あなたじゃない。先輩だって、本当は分かってるでしょう?」
    「なにを、」

    「——私の体、指の先まで不幸が詰まってるの」

     私の言葉に、先輩は一ヶ月近く続くこの別れ話の中で初めて、途方に暮れた顔をした。



     初めて漂流した時。私は混乱して、動揺して、使い物にならなくなった。だけどそれをジャミル先輩が救ってくれた。まるでそうすることが当然かのように、いつも通り。

    『心配するな。全てうまくいく』

     あの魔法の言葉をかけられて、私はすっかり落ち着いてしまった。
     彼がそう言って、どうにかならないことはなかったし、彼にどうする術がなくても、私の体はもう彼の言葉を全てそのまま受け取るように作り変えられていたので、きっと平気なのだと思ったし、何より彼が私を気遣ってそう言ってくれたのが心の底から、涙が出るほど嬉しかったのだ。
     そしてそれからしばらくたって、私はこの体質のことが、いよいよどうでも良くなった。

     なぜかって、二人きりの時でもあまり感情を露わにしない恋人が、私が漂流から帰って来た時だけは、ひどく感情的に見えたからだ。
     帰って来た夜は決まって身も世もなく激しく求められ、世界の真理が分かりそうなくらいの深い交わりで、互いが欠けていた間の情報を、触れたところから言葉なく交換する。そういうのが恒例になって、私はそれが途方もなく嬉しくて、……ついに考えることをやめてしまった。

     もちろん、不安なことはたくさんあった。いつ治るのかとか、この状態で雇い続けてもらえるのかとか、私のいない間のこととか。けど、ジャミル先輩との行為には不安を全て塗り替えてしまえる威力があった。

     要は、悦に入っていたのだ。

     たった十分、二十分、一時間、元の世界でぼんやり過ごすだけで、恋人が私を狂おしく愛してくれるなら、これほど実入りのいいことはない、と。お釣りがくるほど幸福だって、私はいつしかそう思っていた。
     それがかなり馬鹿馬鹿しくって、子供じみていて、私の恋人に全然ふさわしくない考えだって分かった頃には、もうとっくに漂流回数は十回を越えていた。

     ——最初に不思議に思ったのは、ジャミル先輩が、未来の話をしなくなったことだった。
     私が将来の不安の話をしても、前はきちんと解決策を一緒に考えてくれるなり叱咤するなりしてくれていたのが、いつしか彼は曖昧な相槌を打つだけになっていた。
     それに気づくと、あとはもう芋づる式。そういえばジャミル先輩は、いつかしたいと私が言った同棲の話を詰めることをしなくなったし、それどころか私と約束してデートをするのも、ごくごく遠回しに断ったり、嫌がるようになった。
     先輩はいつも突然来て、深い話をせずに、そっと帰っていく。いつの間にか、それが普通になっていた。

     そういえばこれも、それも、あれも、——どれも。

     不思議なことばかりが目につくようになったある日、私は唐突に理解した。
     彼が私を身も世もなく求めるのは、全然安心していないからだってこと。

     どれだけ抱き合っても、不安なのだ。ジャミル先輩は。私が目の前にいても、触れていても、いついなくなるか分からないから。
     私のこの世界での唯一の拠り所は、他でもない『私』が『恋人』だから、不安なのだ。

     ——私は彼を不安にさせている。

     その事実は私を打ちのめした。未来の話ができないほどに不安なのに、安心したいのに、求めているのに、それを解決する手立てはどこにもないのだ。

     美しい彼。
     賢い彼。
     何もかもができる彼。
     それ故に、たくさんのものを背負わされている、彼。

     こんな厄介な恋人さえいなければ、彼はもっと楽しく暮らせていたはずだった。
     普通の恋人を持ち、普通の生活をして、突然消える恋人にいつも気を揉まず、無理にスケジュールを調整して、知らない土地に迎えに来なくてもいい。
     そもそも、異世界からの闖入者である私を恋人にするのだって、それなりに雑音が多いのだ。それが、急に世界を漂流し始めたとあっては、彼の心労はいかばかりか。私には推し量ることさえできない。
     ただでさえ色んなものを背負わされている彼にとって、私は明らかに重荷だった。

     愕然とした。
     そんなつもりはなかった。
     それどころか、私はずっと彼と一緒にいるつもりで、資格まで取って、就職までして、この世界で、ずっと。
     けど、私の固い決意なんて、この漂流体質の前ではまるで意味を成さない。
     私は意図せず、私を愛する人を最も傷つけ続ける悪魔になってしまったのだった。

     でも、私だって、こんなつもりじゃ。

     ——こんなつもりがなくても、その体質は事実でしょう。あなたの気持ちは関係ない。

     でも、この体質が治ったら何もかも元どおりに。

     ——それまで彼を針の筵に座らせておくつもりなの? それっていつ治るの? そもそも、治る保証があるの?

     でも、私が一番彼を愛していて。

     ——愛しているなら手放してあげたらいいのに。傷つけてるって自覚があるんでしょう?

     でも、

     ——これ以上、言い訳するのはよしなさい。あなたがジャミル・バイパーを手放せないのは、この世界での唯一の拠り所だからでしょう。全力で頼れる相手。頼もしい彼氏様。でも、それって愛って言える? エゴじゃないの?

     そんなことない、私は彼を愛してる!

     ——なら証明して見せてよ。あなたの愛とやら。

     ——大事なのでしょう? 慈しみたいのでしょう? 彼のためなら、なんでもしてあげたいのでしょう?

     ——今のあなたが、一番、彼のためにしてあげられることは何?

     何百回と自問自答した。けど、いつも結論は変わらなかった。
     私たちは明らかに別れるべきだった。
     彼はいつも不安に苛まれていた。明日の話もろくにできないほど、未来を信じられなくなっていた。待ち合わせ場所に私が来ないことを、約束が意図せず破られることを、彼は心底から嫌がっていた。

     ——彼は私といても、幸せになれないのだ。私が私である限り。



     途中で放り出したりしない、責任感の強い人だから、私が手を離してあげなくてはと思った。だから何度目かの漂流で、いつも通りに彼に迎えに来てもらって、オンボロ寮まで送り届けてもらった後、帰ろうとする彼を玄関まで見送る際、意を決して口にした。

    「お別れしたいんです」と。

     何度となく頭の中でシミュレーションした言葉は、なんの引っ掛かりもなくするりと口から出て行った。
     彼は目を見開いて振り返った。そしてしばらく黙って私を見つめた後、

    「本当に?」

     と静かに聞いた。
     私はとっさに、どう言えばいいか分からなくなった。先輩はきっと、「そうか」と言って去って行くと思っていたからだ。
     それ以外ないと思うほど彼は、この関係に疲れ切っていたはずだった。だからこそ、彼は私に踏み込もうとしなくなったのだから。二人の未来の話なんかしたって、本当に叶うかどうかも分からない。
     だから、絶対、絶対そのはずなのに、……こんな質問は意味がない。

     ——本気で別れたいわけないじゃない。でも、これが一番いい選択じゃないですか。ああ、でも、そんなことを馬鹿正直に言ったらダメかもしれない。彼は優しいから、私には優しい人だったから、「心配するな、全て上手くいく」と、また私を抱き寄せて、私はそれにまた流されてしまいたくなるのだ。

     だけど想定外の質問が挟まれたことにより混乱した私は、そうです、と瞬時に肯定はできなかった。
     結局私はなぜだか、「えぇ?」と聞き返していた。死ぬほど悲しいのに、へらへら笑んでいるのは、本当にばかみたいだった。

    「そりゃ、そりゃあ、本当ですよ。嘘じゃない。本当に別れたいんです、私は。だから……だから、そう言ってる」

     慌ててうつむき、リカバーするような言葉を並べ立てた。本当はもっと色々、別れる理由も考えてでっち上げていたはずなのに、土壇場になるとそんな筋書きは全て吹っ飛んでしまった。
     先輩はその場に微動だにせず立ち尽くしたまま、

    「……君の気持ちは分かった」

     と言った。
     瞬間、地面が抜け落ちたような心持ちがしたが、幸いなことに倒れ込む前に先輩が続けた。

    「だが、俺がそれを了承するかは別だ」

     言葉が出なかった。

    「…………へ?」

     何言ってんだ、この人。
     思わずそんな感想が頭をよぎった。
     だってそうだろう。完璧で、これ以上ないほど簡潔な別れになる予定だったのに。
     そういうの、屁理屈って言うんじゃないですか? って。

     そしてそれから私がどんなに勇気を振り絞って話し合いの場を設けようと思っても、彼は屁理屈をこねて、自分の主張を押し通そうとし続けたのだ。


    「私はあなたに相応しくない。だから別れたいんです」
    「……意味が分からない」

     先輩は途方に暮れた顔のまま言った。

    「嘘。先輩に分からないわけありません」
    「ああ、分かってる。君が大変な身の上だなんてことは、とっくに承知しているさ。けど、それがどうして別れるだなんだという話になるのか、俺にはさっぱり見当もつかない」

     淡々と紡がれるもう何度目かの屁理屈に、カッとなって声を張り上げた。

    「どうして分からないふりするの! これはあなたのためでもあるんです! 私と一緒じゃ、ジャミル先輩はいつまでたっても幸せになれない!!」
    「何をいまさら」

     息交じりに言われ、愕然とする。

    「い、まさら、って」
    「今更だろ。君は、俺の恋人だが、俺を幸福に導くものじゃない」

     頭の後ろ側、金槌で叩かれたような衝撃。
     ならどうして。

    「……じゃあ、やっぱり付き合ってる意味なんか、ないじゃないですか」
    「なぜ」

     なぜ? なぜって、そんなの決まってる。

    「私、知ってるんですよ。ジャミル先輩が未来の話をしないのも、約束を嫌う理由も。……私に必要以上に踏み込んで、裏切られるのが怖いんだ、あなたは」

     ジャミル先輩の顔色はいつもと変わらない。図星を突いているはずなのに、彼はこんな時でも冷静沈着で、理路整然としていて、熟慮の塊のような人だった。
     なのになぜ、そんな人がここまで意固地になって、私と別れようとしないのか。私には分からなかった。

    「私はあなたに恐怖を与えている。意図的ではなくても。私はそれが嫌なんです。だって私は……あなたが好きなんだもの。幸福にするどころか、一緒にいるだけで悲しませる恋人なんて、いる意味ない」

     だから別れたいの。
     俯いて、もう一度繰り返す。と、ジャミル先輩が何事か呟いた。よく聞き取れなくて顔を上げる。

    「……あの、今何か、」

    「聞こえなかったか。——『この高慢ちきのクソ女』と言ったんだ」

    「は、」

     絶句。
     高慢ちきって、クソ女って、まさか、……私のこと?
     思い至った瞬間、怒りが天元突破した。

    「な……なんですって!? 私は、これでもあなたのことを思って!!」
    「ああ、そうかよ。大きなお世話だ!!」
    「はぁ!?」
    「何様だか知らないが、ずいぶん上から物を言ってくれるじゃないか。俺を幸せにしたい、だ? 押し売りもいいところだ、クソッタレ!! 押し付けがましくて賢しらで、……っ本当に、反吐が出る!」

     さっきまでの平静ぶりが嘘のように、先輩はギャンギャンと喚きたてた。反論の隙間もない。

    「御高説ぶってるところ申し訳ないが、俺に言わせれば他人が誰かの幸せに寄与できるなんていうのは全くの幻想だ。相手が誰であろうと、たとえ親だろうと恋人だろうと、他人を自分の手で救えるなんていうのは思い上がりなんだよ。しかもそれを? 非魔法人種で異世界人の君が? 俺にしてやろうって? 笑わせるんじゃない!!」
    「はぁ!?」

     心の底から腹が立った。

     なんなのこの人、私だって一生懸命考えて考えて考えて、たくさんのことを飲み込んで、やっと出した結論だっていうのに!!

     もういい、と癇癪を起こして彼を突き飛ばして退かそうとした。それを見越していたのか、彼は未だ掴んでいた私の手首を抑えて、難なく勢いを殺した。
     押しても引いてもビクともしなくて、怒りの行き場がなくなった私の目には涙が滲んだ。
     何もかもが上手くいかなくて、苦しかった。
     うー、と唸りながら泣き出す子供じみた私に、彼は小さく言った。

    「言っただろう。俺を世間一般の、相手の幸福を常に願うような誠実な恋人だと思うな。この通り、俺は君に対してだって、一度も誠実だったことなんてない。……俺は君を手に入れたくて、そばに置きたくて、そうしてきた。君が欲しくて。君が離れていかないように恋人らしいことをして、君の機嫌を取ってる。それが一番、コストがかからないからだ」

     だからどうだって言うの。
     叫び出したい気持ちになった。
     あなたがどう思って私に優しくしてきたのかなんて知らない。だけど私はそれを、あなたの誠実さだと思ってここまできた。あなたは否定するけど、あなたはやろうと思えば、本当は誰にでも優しくできる人なのだ。たとえ巧妙に作り込まれていようがなんだろうが、偽善だろうが、善は善だ。

    「……あなたを愛する人なんて、この世にたくさんいます。私以外にも。もっとコストがかからなくて、面倒じゃない、美しくて、聡明な人が、たくさん、」

     言い募ろうとしたら、手首が万力の如き力で握り締められた。細い骨がたわんだ気がして、痛みに眉をしかめる。
     ジャミル先輩が声を荒げた。

    「そんなこと言ったって仕方ないだろ!! できるものならとっくにそうしてる! けど俺は……」

     先輩はそこで言葉を切る。声のトーンと比例するように段々と手の力が緩み、やがて掴まれているだけになった。

    「俺は、君が俺に幸福を与えてくれるから一緒にいるんじゃない。……もう離れられないから一緒にいるんだ」

     切実な呟きが落ちた。
     私は目を大きく開く。

     初めてこんなふうに言われた。

     私じゃなきゃだめだって、初めて。

    「だから今更怖気付いて逃げようったって無駄だ。俺はもう君を手に入れた。俺は善い人間なんかじゃないから、君がどう思おうが、一度この手に落ちて来たものを手放す気なんかさらさらない。今度「別れたい」だなんて口にしてみろ、次は躊躇しない。君の心に入り込んで、自由を奪い、二度と外なんか自由に歩けないようにしてやるからな!!」

     ジャミル先輩が私のうなじと頭の境目を掴んで声を引き絞った。無理矢理に目を合わせる形だ。しかし言葉の強さとは反対に、私が彼のユニーク魔法で洗脳されることはなかった。
     むしろ私より、彼のほうがずっと苦しい顔をした。

    「……なに笑ってるんだよ、くそ……」

     言われて気づく。どうやら無意識に笑ってたらしい。
     呆れて顔を伏せる彼に「ごめんなさい」と言ったけど、まだ自分の口が笑っているのが分かった。

     だってなんだか怒られているっていうより、熱烈な告白をされたような気がして。

     私は私の手首を掴んだままのジャミル先輩の手に、自分の手をのせる。
     これほど軽やかに決意が変わることがあるとは思っていなかった。

    「ジャミル先輩」
    「……なんだよ」
    「私、昔からずっと、変わらず星だと思ってますよ。先輩のこと」

     のろのろと顔を上げる先輩に、心から出た笑みを向ける。

    「あなたが好きです。ずっと、ずっと好きです」
    「こっの……、本当に分かってるのか?」
    「うん。だから、」

     近づきたくて顔を寄せると、先輩の瞳に映る自分と目があった。

     あ、まずい。

     思った瞬間、ぐるりと世界が回転した。と思ったら、アスファルトにどしんと尻餅をついていた。「いっ……!!」尾骶骨から背骨まで、じんと痺れて悶絶する。
     辺りを見ると、日本の都会の風景が広がっていた。アスファルトにコンクリート、地下鉄に入る階段、銀色の路駐自転車。通りを走る何台もの車。

    「う……っそでしょ、今、人生で一番大事なとこだったのに!!」

     もう!! 立ち上がり、地団駄を踏む。
     今度ばっかりは怒った! どうしてこう、いつもいつもタイミング読まずに漂流しちゃうのよ! せめてコントロールさせてよバカ!!

     しかしこんなところで地団駄を踏んでても状況は変わらない。一刻も早く向こうに帰って、ジャミル先輩に会わなくちゃ。
     いつもなら、時間を確認しがてらスマホの電源を落とすところから始めるけれど、今日ばかりはそんな余裕はない。目に付く擬似鏡に手当たり次第に映りに行って、自分と目を合わせていく。ここが都会で良かった。いつもみたいに田園に落ちていたら、擬似鏡を探すだけで一苦労だった。
     キョロキョロと擬似鏡を探しながら歩く。映しては次、映しては次。しかしどれほど繰り返しても、一向に世界が回る感覚は訪れない。

     困った。
     困るし、焦る。

     いつもは、どうせ帰れるタイミングでしか帰れないしな、と諦めているけれど、早く帰りたい今日だけは困る。そのうち、焦りからどんどん悲観的になってきた。

     このまま帰れなかったらどうしよう。
     二度と先輩に会えなかったら。
     私、まだ謝ってもいないのに。別れたいって弱気になったことも、そのせいで傷つけたことも、何もかも。

     走り回りながら私は祈る。

     ——先輩、先輩。ジャミル先輩。

     ——幸せにできなくてごめんなさい。けど、もう離れられないから一緒にいましょう。

     ——誠実じゃなくていいの。エゴでいいの。可哀想だから仕方なく、なんて善意じゃなくて、どこまでも自分のために、私と手を繋いでいて。

     ——これまでもそうだったように、私たち、離れないように、一生懸命ふたりでいましょう。

     ショーウインドウの前で涙ぐむ。このガラスも駄目だった。
     でも、探さなきゃ。帰れるやつ。
     怖くて止まりそうになる足を、懸命に踏み出して次を探しに行こうと振り向いた時、すれ違う男の人と肩がぶつかった。

    「わ」
    「あ、ごめんなさい!」
    「ああいや、すみません、こっちこそ……」

     向こうが立ち止まったので、こちらも足が止まった。何か言いたげな視線が降ってきて、思わずこちらも見返す。
     顔を見て、息が止まりそうになった。

     知り合いだった。

     家が近所の、小学校のクラスが一緒だった、いわゆる幼馴染。
     漂流先で初めて会う知った顔に、どうして良いか分からず硬直する私に、彼が言った。

    「あの……どっかで会ったこと、ありますっけ?」
    「……いいえ。気のせいだと思います」

     ここで認めたら。
     向こうが私を認識したら。
     もう二度とTWLには帰れない。

     そんな直感が働いて、とっさに顔を伏せ、嘘をついた。彼は首をひねって怪訝そうにしている。

    「本当に? 絶対知ってると思うんだけどな……」

     やめて。

    「あ! あのさ、」

     やめて。

    「もしかして小学校で一緒だった、」
    「あの!」

     大声で続きを遮った。彼は目を見張って私を見つめる。雰囲気に流されないよう、ほぼ睨む形で見つめ返す。ただ、声をかけたは良いものの、何を言うかは考えていなかった。目を見ながら言葉を探す。
     ジャミル先輩以外の男の人の瞳を、こんなに食い入るように見たことはかつてなかった。
     彼の目は切れ長でもなく、灰色でもなかった。静かな炎がいつも燃えている、そういう強さもない、穏やかな瞳だった。私に常に何かを問いかけるような色も、何もない。
     ただ、純粋に、見ている。それだけの。
     ああ、——やっぱり、この目じゃない。

    「あの、……もし、もし覚えてたら、機会があったらで良いんですけど」
    「うん?」
    「私の身内に、伝えてくれませんか。……世界で一番好きな人と、一緒に暮らしてる。きっと帰れないけど、元気でやってるから、心配しないで……って」

     本来言うつもりのなかった台詞が、つらつらと口をついて出た。

     この世界での、私の唯一の心残り。
     たとえ両親が私を忘れていようとも。私は、楽しかったことを覚えているから。愛し愛されたことを、覚えているから。

     彼は突然の嘆願に、困惑しきって頭を掻いた。

    「え……っと、家出でもしてんの?」
    「いいえ。違うの。そうじゃなくて……ふふ……駆け落ち」

     ふいに思いついた言葉を口に出したら、おかしさに笑ってしまった。けど、事実だとも思う。
     あちらの世界で生きたいと、私に選ばせたのはジャミル先輩だった。私が向こうにいる理由の一番は彼なのだ。逆に彼を失ったら、私はもうどこに行ったって抜け殻だった。
     あちらでも、こちらでも。
     それを言い表すのに、一番適切な言葉だった。

    「それ、どういう、」

     問いかける彼の胸に、キラリと光るものが見えた。ふと目をやると、そこにはコインを模したペンダントトップがあった。

     あ。

     思った時には、もうコインの中の自分と目が合っていた。
     ぐるりと世界が回転する、望んだあの感覚が私を襲う。
     次の瞬間、私は再び落下していた。
     空中を垂直に落ちていく私の眼前に迫っていたのは広大な真っ青。

     ——海。だ。

     思う間もなく、爪先から杭のように海に沈んだ。勢いがあって、かなり深い。準備ができていなかったので盛大に海水を飲み、空気が漏れ出ていって、気管に焼けるような痛みが走った。

     苦しい。苦しい。
     死んじゃう。
     いやだ。

     ——ジャミル先輩!!

     心の中で彼を呼んだ。それから先は、よく覚えていない。
     次に目が覚めると、ジャミル先輩が私の顔を青い顔で覗き込んでいた。無意識に咳き込んで声の出せない私の頭を、彼は感極まったように腕に抱く。ジャミル先輩の肩口はびしょびしょで、髪もしっとりと濡れていた。

     ああ、また助けに来てくれたんだな。

     働かない頭でぼんやり思う。

    「じゃ、み、」
    「分かった、分かったから。喋らなくていい。じっとしてろ。すぐに救急隊が来るから、」
    「せんぱ、ジャミル、先輩」
    「じっとしてろって」
    「私、帰ってきました、よ」
    「分かってる、分かってるよ……」
    「私、必ず、帰ってきますから」

     水の中でもがいたのか、変なところが痛む腕を伸ばして抱きしめた。彼の濡れた背中をさする。

     夜空に輝く一等星。
     私の星。
     砂粒ではないから、いつも夜空の同じところに掛かってる。
     他のどこにも行けないあなた。

     ——毎日、変わらずそこにいてくれた、あなた。

    「これから、たとえどこに流されても、……たとえ、あなたが私を忘れても。私、あなたを目印に、必ずここに帰ってきます」

     だからきっと、何度でも、私の手を取ってくださいね。

     ジャミル先輩は何も言わなかった。何も言わずに、私をきつく抱きしめた。私は力の入らない腕で、救急隊が来るまで彼の背を抱き続けた。





     TWLに来て、七回目のハッピービーンズデーが終わった頃。私は学園長室で、学園長とソファで対峙していた。

    「治った?」
    「はい。多分ですけど、そうなんじゃないかなって」

     学園長は胡乱なものを見る目だ。せっかく事前にアポまで取って、グリムと一緒に報告にきたのに、あんまりな反応である。まぁ、当の相棒はこの報告自体に、あんまり気が乗らないようだけど。

     私が最後に漂流してから——つまり海に落ちて溺れてから——、すでに一年が経過していた。今まで、漂流と漂流の間が二ヶ月以上空いたことはなかったから、私の勘はこれを『完治した!』と言っているのだけれど。

    「バイパーくんは、なんと?」
    「……私のことなのに、ジャミル先輩の意見が優先されるのはおかしくないですか?」

     学園長は私の抗議を「ははは」と笑って流す。そりゃ私の判断よりよっぽど信用に足るとは思いますけどもね。

    「先輩は、『完治、とは言わないまでも、寛解、と表現して差し支えない気がする』って言ってました」

     言われたことをそのまま伝えると、学園長は「ふぅむ」と顎に手を当てて、やっと検討のフェーズに入る。

     ふん、だ。みんな私の勘を全然信じてないんだから。これで二度と漂流が起こらなかったら、絶対文句言ってやるんだから。
     くさくさした気分で膝の上のグリムを撫でる。

    「それで? 寛解したから、なんです?」
    「え?」
    「なにか要望があって来たんでしょう?」
    「あ、そうそう! だから、仕事ください!」
    「はいぃ?」

     学園長は耳を疑う言葉を聞いた、とばかりに大仰に首を傾げてみせる。私は口を尖らせた。

    「だって学園長、私、ここに就職してもう三年ですよ? その間、いただいた給料っていくらかご存知ですか?」
    「ゼロですね。あげてませんから」
    「そうですよ! もちろんオンボロ寮に無料で住まわせてくださったことは感謝してます。けど、色んな方に助けていただいたり、貯金切り崩したり、短期バイトで食いつなぐのも、もういい加減限界です! グリムもそう思うでしょ!?」
    「まぁ……アズールの店でこき使われるのは、オレ様ももう嫌なんだゾ……」
    「でしょ!? ホラ、グリムもそう言ってます!!」

     短期バイト中、人生二度目のスポンジ代わりにされたのがよほど堪えたらしい。ブルリと身を震わせたグリムを印籠のように掲げて言った。
     学園長は嘆息する。

    「仕方ないでしょう、仕事をしていない人に払えるお給料はありません。急にいなくなってしまう人に講師を任せられるわけもなし」
    「そこですよ!!」

     ぐっと身を乗り出す。

    「私、もう急にいなくなったりしません。完治したので」
    「寛解ですね」
    「名称はこの際重要じゃありません! とにかく仕事です! お金! お金が欲しいんです、私たち!!」

     名称は無視できないと思いますが、と学園長は小首をかしげて続ける。

    「しかし、お金ですか。あけすけですねぇ」
    「慎みでお腹は膨れませんからね!」
    「バイパーくんは? この件に関してはなんと?」
    「っも~~~~やめてくださいよ! この寛解宣言だって、引き出すのにめちゃくちゃ苦労したんですからね!? 一年ですよ? 一年! 仕事復帰に一年!!」
    「心配してるんでしょう、分かってやりなさいよあなた」
    「分かってますよ! 分かってるからこそ、早く全部普通に戻して安心させてあげたいのに! 本末転倒なんですよ、みんなして」

     漂流が治まって半年。仕事復帰に向けて、ジャミル先輩に許可をもらうため、意見を聞こうと相談したみんなの顔を思い出す。エースもデュースもエペルもセベクも、あのストイックなジャックにまでも、

    「もう少し先輩とのんびりしてやってもいいんじゃねぇか」

     とやんわり否定されたのは記憶に新しい。
     あああ、と今までの苦労を思い出し、唸っていると、学園長は言う。

    「ま、バイパーくんが折れたなら良しとしましょう」
    「え……ってことは……!」
    「ええ。これが無許可で乗り込んできたら、我が身可愛さ……ゴホンゴホン! あなたの身を案じるあまり追い返していたところですが、そろそろ私も、何でも屋さんが欲しいと思っていたところです」
    「ぃ……やったぁ!! やったね、グリム! これで大魔法士グリム様の活躍譚、やっと始動だよ!!」
    「お、オレ様、ジャミルの世話になるのも嫌いじゃないんだゾ……」
    「何言ってるの大魔法士!! 永久就職の魅力に負けないで!?」

     ほっぺをムニムニ揉むと、もごもご言って抵抗する。
     と、学園長が言った。

    「しかし随分と確信を持っていらっしゃるんですね?」
    「え?」
    「完治についてです。間が空いたから、というだけでは、その確信の説明にはならないのでは?」

     私の手が止まると、グリムがするりと膝から飛び降りた。あ、と思うと、グリムは床に降り立ち、水を切るようにブルブル震える。
     それを見ながら、私は言う。

    「……これは仮説なんですけど」
    「はい」
    「私、……あれってロスタイムだったんじゃないかと思うんですよね」

    「ロスタイム、と言いますと?」学園長は鸚鵡返して首を傾げた。私は言葉を探して腕を組んだ。

    「うーん、なんて言うんだろう。世界の慈悲、っていうか。ほら、私って勝手にこっちに飛ばされて来たわけじゃないですか」
    「まぁ、そうですね」
    「だからこう……やっぱりあるんですよ。懐かしむ気持ちっていうか。最初の一年はホームシックっぽかったし、この世界に慣れた今でも、たまに景色とか見て、故郷とは全然違うなーって思う気持ちっていうか。その……望郷っていうのかな。それに世界が反応して、向こうを捨てる、って踏ん切りがつくまで見せてくれてた夢というか……」

     ふっ、と学園長が笑った。

    「あなたの価値観における『世界』というのは、随分優しいものなんですねぇ」
    「そうそう。私とびきり優しいので……みたいな?」

     チラと見た学園長の仮面の奥の表情は全く読み取れない。ただ、口元と目元の光だけがいつも通り微笑みを形作っていた。七年たっても、この人はいまだに得体が知れない。

    「……私ね、思うんです。私のTWLでの役目って、本当は四年で終わってたんだろうなって」
    「ほう?」
    「だって、この漂流、卒業間近になって始まったんですもん。それまでどんなに懐かしがっても、絶対帰れなかったのに。だからきっと、TWLで頑張ったご褒美っていうか、……状況をひっくり返せる最後のチャンス? を与えられてたんじゃないかって」
    「それで、ロスタイムですか」
    「ええ」

     私は頷く。

    「私が向こうを選んでいたら、五日間だけ行方不明になった女の子。こっちを選んでいたら、綺麗さっぱり消えて無くなる。そのジャッジをする期間が、この漂流だったんじゃないかな、と思って」

     言い切ると、ふと沈黙が落ちた。まるでお化けのお腹の中みたいだ。なぜだかそう思った。

    「私のこと、頭のおかしな女の子だと思います?」

     私は聞く。
     すると学園長は口元のカーブを強くし、嘘臭くニッコリ笑った。

    「いいえ、まさか! あなたの発想はいつも素晴らしく奇想天外で大変結構。ですが……論文には使えそうもありませんね!」

     と言った。
     ああ、そうですか。本当に、こんな些細な言葉一つとってもクソ教師だわ。遠回しに『根拠がなくて実に突飛だ』って、言ってるようなもんじゃない。そっちが聞いてきたくせに。
     私は表情を消して告げる。

    「戻ります」
    「お見送りは」
    「結構です。行こう、グリム」

     グリムを追い立てるようにして先に出し、続いて退出しようとすると、

    「こちらに残ったことを、後悔していますか?」

     と、学園長が私の背中に問いかけた。
     私は振り返って首を振る。

    「いいえ、ちっとも。今回はちゃんと、この世界で生きるって、選んでここにいますから。最初に無理やり飛ばされた時と違って」
    「そうですか」
    「ええ。私はジャミル先輩が好きで、一番に優先すべきことはそれだけです。だから……他のことは、まぁ、どうとでもなるかな? って」

     小首をかしげると、ふ、と笑われる。

    「なるほど。ずいぶん惚気てくれますねぇ」
    「えへへ。あんまりノロケ話、聞いてくれる人いなくて。あ、そうだ、ちゃんと仕事回してくださいね。あと、あの……雇用契約書? 一度確認したいって、ジャミル先輩が。休暇も、バカンスとウインターホリデー、どっちもきちんと取れるようにするのは雇用側の義務だとかなんとか言ってました」

     げ。と言わんばかりに、学園長の顔はあからさまに歪む。……先に言っておいて良かった。ほんと、油断も隙もないんだから。

    「頼みましたからね。バカンス、取れなかったら怒りますから」

     直近の長期休暇を引き合いに出せば「はいはい」とぞんざいに頷かれる。

    「バカンスはどちらへ?」
    「まだ具体的には。ジャミル先輩と話はしてるんですけど、グリムが飛行機乗れるかも調べないとだし。でも、色々回って、旅でもしようかって」
    「おや、いいですねぇ。気をつけて」
    「はい。でも、きっと大丈夫です」
    「はい?」

     私が握り拳を作って言うと、学園長は怪訝そうだ。それに、顔の横でピースサインを作って返す。

    「二人なら世界中、どこに行っても何があっても、きっとすっごく楽しいので!」

     学園長は、異世界から来た唯一の教え子の宣言に一瞬ポカンとした後、「ははは、ほんと、あなたって!」と、心底おかしそうに笑ったのだった。



    砂塵と星(謙虚であれ、あなたは土から出来ているのだから。気高くあれ、あなたは星から出来ているのだから。)





    最強従者奮闘記 〜俺の彼女の様子がおかしい件について〜



     
     
     
     手が届くと思ったのに、掠め取られるのには慣れていた。努力しても努力しても、結局のところいつも勝利はジャミルの手からこぼれ落ちていったし、何度、今度こそはと意気込んでも、結果は変わらなかった。他者の評価というのは曖昧なもので、ジャミルが多くを望めば望むほど、世界は彼の敵に回った。

     ——強欲過ぎる。
     ——分不相応。
     ——身の程を知れ。

     ジャミルが必死に積み上げてきた努力は、無残に蹴り倒されることこそ無かったものの、より多くを産まれ持ってきた人間の前では無いに等しかった。
     ジャミルはいつも負けた。少しずつ評価を上げることは叶っても、一番にはなれなかった。たとえ誰の力を借りても、それは変わらなかった。
     悔しくないのか、と問われたこともある。
     もちろん、悔しいとも。負けた時はいつも、頭が真っ白になって言葉も出ない。だけどジャミルの頭には、やっぱり、と思う気持ちもあった。負ける時にはいつもそうだ。やっぱり。やっぱりそうか、と。

     ジャミル・バイパーがジャミル・バイパーである限り、世界は彼を選ばない。

     そういう仮説は、負ける度に、ジャミルの中で強化されていった。それこそ、鋼のように鍛えられた諦観だった。
     だからジャミルはいつも平然とした顔でいて、その実いつも絶望していて、野生の猫のように疑心暗鬼で、降ってわいた褒美には手を出さないようにいつも気をつけた。頑なだった。
     慎重に、何があっても浮かれ過ぎず、ミスだけはしないように。自分が気をつけていれば、少なくとも積み上げてきた評価を奪われることはない。自分にはそれしかないし、誰かさんのように強靭なセーフティネットがあるわけでもない。これだけはしっかり抱きしめて、離さないようにしておかないと、世界から振り落とされてしまう。そう思っていた。

     そんなある日……VDCで、敗北してしばらくたった頃だったと思う。オンボロ寮の監督生と話す機会があった。
     彼女はVDCでのジャミルを大げさに褒めた。
     自分たちは精一杯やった。もちろんそれは嘘偽りようがない事実だ。あれ以上の努力はできなかったし、常に全力だった。だが、今回も、世界はジャミルに微笑まなかった。だから監督生の言うそれは、ありがたいとは思いつつも、どこか空々しくも聞こえた。
     ジャミルは簡単に礼を言った。それで話を切り上げたつもりだったが、彼女は横に立つジャミルの顔を覗き込むと「本当ですよ?」と念押しした。あまり響いていないのが分かったのだろう。
     誰もジャミル自身に興味を持たないよう、目立たず騒がず振る舞ってきたおかげで、ポーカーフェイスの内側を汲み取られるのは珍しい。驚嘆に、思わず「負けたのに?」と、卑下するセリフが口をついて出た。

    「そりゃ、負けたのは私も残念ですし、悔しかったですけど……先輩はかっこよかったです。本当に、世界で一番。というか、いつもジャミル先輩はかっこいいですけど」

     ははは、と彼女が笑う。冗談のつもりなのか、単に馴れ馴れしいだけなのか、彼女はよくこういう誉め言葉を口にした。「それはどうも」と、こちらも冗談として返せば、彼女は笑いを引っ込めた。そしてしばらくすると、こう言った。

    「私、ジャミル先輩のこと、夜空に輝く一等星みたいに思ってるんですよね」
    「……はぁ」

     突拍子も無い話が始まり、ジャミルは怪訝に相槌を打つ。すると彼女は抑えきれないとでもいうように、

    「まず、頭がいいでしょう。それに、運動神経も抜群で、バスケもダンスもできて、おまけに歌も上手くてラップもできるじゃないですか。ルーク先輩が、ムシュー・マルチって呼ぶのも納得だなって、私いつも思ってて。それに、とっても綺麗でしょ。佇まいからかっこいい。どこにいても、そこだけ光って見えるから、遠くにいても見つけられます」

     と、指折り数えながら饒舌に語った。納得するところもあったが、正直、半分は何を言っているのかよく分からなかった。特に、容姿の部分。
     ジャミルは自分が特別に目立つ容姿をしているとは思わない。なるべく目立たないように生きてきたし、外ならまだしも、この学園の中にいたなら尚更だ。世界的モデルのヴィル・シェーンハイトや、王子の称号を持つレオナ・キングスカラーがいるし、色味の派手さでいったらいつも隣にいるカリムのほうがずっと目立っている。遠くにいても見つけられる背の高さなら、リーチ兄弟に勝る奴はいない。
     しかし彼女が照れ臭そうに、満足そうに笑ったので、整合性はどうでも良くなった。彼女にとってはそうだというだけで、一般的な基準と照らし合わせても意味がないのかもしれない。
     だからジャミルは感謝と共に、自分が拾えそうで、特に胸を打った部分に心を寄せた。

    「……ありがとう、嬉しいよ。星は……俺の国では知恵の象徴だ。星見は最古の学問だからな。もちろん、諸説はあるが」
    「へぇ、そうなんですね。単純な印象の話だったけど、本当に、ジャミル先輩にピッタリ」

     とても嘘には思えない褒め言葉の数々を差し出され、手に余る気分だった。お裾分けのような気持ちで、「でも君も」と言いかける。

    「君も……よくやっているさ」

     異世界から来たわりに、という言葉は、途中で付け加えるのをやめた。哀れみや同情の類の含まれない、率直な褒め言葉を捧げてくれた相手の頬を張るような真似は、さすがに憚られた。
     しかし、特別に褒めるところを一つもあげなかったせいで、褒めるところが一つもない、と言外に言っているみたいになってしまった。なにかフォローの言葉をかけるべきか。悩んだところで、「あの、あの! 別に、気にしないでください!」と差し込まれる。

    「自分でも分かってるので! 褒めるとこ無いって! ジャミル先輩が星なら、私はほら、砂漠の砂粒みたいなものですし!」

     彼女は慌てたように言った。謙遜かと振り返ると、彼女は恥じ入るように斜め下を向いていた。ああ、違う、自嘲か。そう思い至ったが、思い至ったところでどうすることもできなかった。砂粒というのは言い得て妙だったし、それを否定するのは上手くないと思った。

     魔法士養成学校、唯一の非魔法人種。異世界からの異分子。何も持っていない女の子。

     彼女はこれ以上ないほど小さな存在だった。
     しかし、だからこそ彼女は自由だった。
     それこそ小さすぎて、踏み付けて傷つけようとしても、逆にあらゆる隙間にうまく入り込まれてしまって、結局傷ひとつ付けられない。彼女にはそういうところがあった。
     評価に固執することも、一番の望みも、彼女には無かった。誰と競争して、勝つ必要もなかった。

     この世界で、彼女以上に自由な存在はいなかった。

     ジャミルは、ふと、自分をてらいなく褒める彼女が羨ましくなった。
     だから

    「いいな」

     と言った。

    「——どこにでも行けて、良さそうだ」

     本心だった。その時その瞬間、ジャミルは確かに、オンボロ寮の監督生のことを羨んだ。
     砂漠の砂塵。拠り所のない根無し草。何も持っていない代わりに、どこにでも行ける女の子。まるで風に乗るみたいに。
     風がジャミルの髪を舞い上げて、髪を飾った鈴がチリリと鳴った。彼女の視線がジャミルの頬に突き刺さる。気づきながらも、ジャミルは振り向けなかった。

     ——滑稽だろう。俺は、この世界で一人きり、何も持たない君のことすらも羨ましくて堪らないんだ。なんでも持ってる奴のことも、歯軋りして見ているくせに。無い物ねだりばかりして、自分が時々、世界で一番惨めな生き物に思える時があるよ。だけど羨む気持ちは止められない。それがジャミル・バイパーだから。


    「あなたが好きです」

     唐突に場を揺らした言葉が、一瞬、理解できなかった。
     なんだって? と振り返ると、思いの外真剣な瞳とかち合って、いつもの冗談を鼻で笑う気持ちが、瞬時に霧散した。彼女はまるで、本当の一等星を見上げるみたいにジャミルを見つめていた。

     本気なのだ。
     きっと、今までの冗談みたいな褒め言葉も、全部。
     彼女にとっては。

     そう思ったら、胸の奥のほうが握りつぶされたように、キュッ、と鳴った。

    「……前から不思議なやつだとは思っていたが、君、本当に変わってるな」

     ようやく絞り出した返答は、間抜け以外のなにものでもなかった。彼女は告白の返答でもなんでもない、ただの感想を返されて、困惑したようだった。

    「え。そ、うでしょうか……?」
    「ああ。……変わってる」

     馬鹿みたいに繰り返して、ジャミルはこちらを真っ直ぐに見る監督生の視線から逃れるように横を向いた。
     かなり驚いていて、動揺していた。柄にもなく。

    「ええー……あ、で、あの、……返事、とかは、あの、気にしてないので。いや、ちょっとは考えてくれたら、嬉しい、ですけど、でも、その」
    「いいよ」
    「え」
    「付き合おう」

     間髪入れずに答えた。ちょっとでも我に返って考えたら、やめにしてしまいそうだったから。
     一瞬死人のごとく黙った後に、爆発したように喜ぶ監督生に腕を掴まれてブンブン振られながら、ジャミルは、久々に深謀遠慮の信条に背いた、と思った。
     それは幼い子供の頃に、目の前に出された好物を誰にも取られないよう手の内に慌てて隠すような気持ちで、降って湧いた褒美を警戒して遠くから眺めるいつもの疑心暗鬼は、ジャミルの奥深くで静かに眠ったままだった。
     こうしてジャミル・バイパーは、人生で初めてと言ってもいい、『一番』の座を手に入れた。
     それは本当に、ただ、降ってわいたような称号だった。

     



     幸せというのは、ある日、音も立てずに終わる。どんなに大事にしていても、他の何ものにも触れさせない、見せないように隠していても、籠の中の鳥は一瞬の隙をついて飛び去ってしまうし、宝箱の中の宝石はふと見た時には盗られている。そういうものなのだ。
     だから、ある朝起きて大事な人がこの世界から忽然と消え去ってしまっていたとしても、それは全然不思議なことじゃない。……その理解が人の助けになるかというと、必ずしもそうではないけれど。

     ジャミルにとっての終わりが来たのも、突然だった。
     仕事中、プライベートのスマホが鳴った。ちらと画面を確認すると、彼女からの電話だった。ジャミルの仕事を知っている彼女が、日中に連絡を入れてくることは滅多にない。あったとしても、精々が単発のメッセージで、電話は初めてだ。

     ——嫌な予感がした。

     カリムの従者として商談中だったのもあって、先伸ばすように電話を取らなかった。商談が終わって確認すると、着信が七件。彼女からが四回、あとの三回は、部活の後輩だったエース・トラッポラと母校の学園長、それに彼女の恩師であるデイヴィス・クルーウェルからだった。
     ジャミルはオアシスの片隅に隠れるようにして、彼女に折り返した。呼び出しのコールに固唾を呑んで待つと、彼女の相棒のモンスター・グリムが電話に出た。
     グリムはべしょべしょに泣いていて、『どうしよう、どうしよう』とひたすらに繰り返した。

    「グリム? 何があったんだ、まさか、彼女に何か、」
    『わか、分かんねぇんだゾ、でも、急に、いなくなって』
    「いなくなったって、どういうことだ? 買い物にでも行ってるんじゃ、」

    『ちげぇんだゾ! オレ、オレ様の、目の前で、……消えちまったんだぁ!!』

     ……急に耳が塞がり、ツー、と耳の中で音がした。グリムの声も、オアシスの水のせせらぎも、ずっと遠い。それが耳鳴りだと理解したのはずっと後だ。
     ジャミルはしばらく呆然と耳の中で響く不通音を聞いていたが、やがて「分かった」とだけ言って、喚くグリムを置き去りに電話を切った。そしてくるりと踵を返すと、仕事に戻った。激しい動揺が、ジャミルから思考を奪ったのだった。
     ジャミルはそこからただひたすらにマシンのように仕事をこなした。カリムが彼女について何かを言ったような気がしたが、あまりよく覚えていない。
     仕事が終わり、自室に戻ると、まずはクルーウェルに電話をした。彼は、彼女が忽然と姿を消したこと、目撃情報から拐かしなどではなさそうなこと、もしかしたら元の世界に帰ったのかもしれないこと、といった事実を淡々と述べた後、最後に一度気遣わしげに

    『……大丈夫か?』

     と尋ねてきた。

    「……ええ。大丈夫です。予測の範囲内でしたから」
    『そうか。……あまり、気を落とすなよ。自棄にもなるな。お前にはお前の人生がある』
    「ええ。分かっています」

     神妙に答え、電話を切る。それからエースや学園長にも電話をして、最後に一度グリムにも電話をした。ジャミルは機械的に、クルーウェルに言われたことをそのままグリムに言った。あまり気落ちしないように、お前にはお前の人生があるのだから、と。慰めの言葉がそれしか思いつかなかった。
     だが、グリムは落ち着くどころか尚更ぐすぐすと鼻を鳴らし、

    『この薄情者め!!』

     と叫んで、今度はこちらが一方的に電話を切られた。
     電話が終わると、部屋には静寂が満ちた。電気も点けずに電話していたものだから、部屋は真っ暗だ。隅にある小窓から差し込む月明かりだけが、スポットライトのように部屋の一点を照らしていた。光に目をやると、向こう側に姿見が見えた。寄る辺ない顔をした自分が、ぼうと立ち尽くしているのが映っている。

     ——ああ、だから言ったのに。世界一マヌケのジャミル・バイパー。お前ほどのマヌケはそうはいない。

     ……うるさい。

     ——彼女なら手を伸ばしても平気だと思った? きっとどこにも行かず、隣で一番に自分を愛し、見つめ続けてくれるとでも?

     うるさい。

     ——彼女はこの世界のものじゃない。いつかどこかに帰っていく、風に舞う砂塵を、手のひらで囲うことに、一体どれほどの意味がある?

     うるさいうるさいうるさいうるさい。

     ——ほら、ご覧。
     ——お前が愚かだったから。お前が幸福なぞを信じたから。
     ——今、お前は、こんなに苦しい。

     うるさい黙れ!!

     部屋の鏡が割れた音でハッと我に返った。無意識に投げつけたスマホが、粉々に砕けた鏡の海で沈黙している。いつの間にか荒くなっていた息をそのままに呆然と近づいて、スマホを拾う。こんなことしたって、なんにもならない。後片付けの分、気分がますます落ち込むだけだ。

     滑稽だった。
     本当に。
     この世の誰より、自分が。

     世界一マヌケのジャミル・バイパー。全くその通りだった。あれほどの苦渋を越えて尚、まだ自分に『一番』の称号が永劫与えられるなど、どうして思えたのだか。

     どうして心を預けてしまったんだろう。
     彼女がジャミルを愛していても、世界はジャミルが嫌いなのに。
     ジャミルの手に入りそうなものを、全て奪っていくのが世界なのに。なぜ。

     入り込ませてはいけない。
     踏み入ってはいけない。
     溶け合ってはいけない。
     溺れてはいけない。
     全部分かっていたのに!

     ジャミルは床に伏して声なく泣いた。子供の頃以来の涙だった。誰にも見られたくないから声を殺して泣いたのに、彼女がここにいれば、と幾度も思った。もういないのに。
     自分で割った鏡も、そこでうずくまる自分も、もういない女への感情も、何もかもが滑稽だった。

     
     
     ところがその三日後、彼女はあっけなくこの世界に帰って来た。
     始まりはまた、電話だった。仕事をしているほうが気が紛れるのに、カリムに無理やり休むよう言われて、仕方なく自室のベッドの上でぼんやりしている日中にかかってきた電話だった。今度は非通知だった。
     この頃、ジャミルの元には彼女との交際を知るありとあらゆる人間から電話がかかってきていたので、その時も単なる流れで電話に出た。心はとっくに死んでいて、何を言われようが揺れなかった。
    「はい」と出ると、

    『……先輩?』

     三日ぶりに聞く声は、どこか頼りなげで、不安に充ち満ちていた。
     ジャミルは訳が分からなくなった。
     タチの悪いイタズラだとか、そんな可能性も浮かばなかった。とっさに体を起こし、怖々問いかけた。

    「君か……?」

     嘘だろう、どうして、だって。何から質問すればいいか分からない。地獄に叩きつけられて仮死状態だったのが、突然息を吹き返した気分だ。かなり混乱していた。
     その合間にも、彼女はポツポツと意味の繋がらない単語を紡ぎ出す。

    『先輩、私、カナザワ、うみ……海に、おじさんがいて、あの……ここはカナザワだって、言われて、』

     電話口のただならない様子に、冷や水を浴びせられた気分になった。
     そうだ、彼女は急に世界から消えた張本人なのだ。何があったのかは分からないが、悲しみの淵にいながらも地続きの日常を過ごしていたジャミルとは、混乱の度合いが違う。
     ジャミルは自分に舌打ちしたくなった。こちらが取り乱してどうするんだ。

    「君、今どこにいるんだ?」

     心臓はばくばくと強く打ったままだったが、できるだけ平坦に聞こえるよう語りかける。

    『どこ……どこって……学校』
    「学校にいるんだな? NRC? 待ってろ、すぐ行くから、」
    『ううん、NRCじゃなくて……』

     ジャミルは彼女が告げた学校の名前を手近にあったPCの検索欄に書き込み、現在地との距離を測る。これならすぐに着ける。そう伝えると、彼女は

    『あ、でも、会えない、かも』
    「なに? どうして?」

     立てかけてあった箒を手にした体が思わず止まる。

    『これから、検査するって言われて……』
    「——検査?」
    『そう、必要な検査だって、』

     そう言う彼女の声が遠く聞こえる。

    「誰がそんなことを?」
    『誰って……警察? の人?』

     ドッと背中に汗が噴き出し、焦燥がさらに強く胸を叩く。
     警察? どうして警察が。いいや、そんなことより、今は彼女に忍び寄る危機を退けるのが先だ。
     もしも検査だか聴取だかで不利なことが出たら? 塀の外には二度と出られない。それどころか、行政への連行を一度でも許せば、異世界人の彼女は最悪の場合、横のつながりでたらい回しにされた挙句、魔法機関のモルモットになる可能性だってあった。
     だが、渦中にいる彼女には、どうやら事の重大さが分からないらしい。小さく『でもね、検査する前に、私、どうしてもジャミル先輩の声が聞きたくて、お願いして、今、電話をかけてて』などと呑気なことを言っている。

    「——いいか、よく聞け。今から大事なことを言うぞ」
    『っ……はい』

     彼女に勉強を教える時、要点を言う前に必ず使ってきた言い回しをあえて使った。すると彼女は、何度も繰り返された慣習による反射で、静かに聞き入れる姿勢を見せた。誰かが彼女の横で「もう電話は終わったか?」と切り上げるべく言ったのが聞こえたが、彼女は俺の言葉を待ち、その声には返事をしなかった。

    「俺が行くまで、誰の言葉にも頷くな。なんの書類にもサインするな。決して、誰のことも信用するな。分かったか?」
    『……はい。分かりました』

     先ほどの混乱が嘘のように、彼女が意思を持った返事をする。その返事に、少しだけホッとした。無知や混乱に付け込まれてする契約など、大概ろくなものではない。

    「連れて行かれる前に、俺に電話をしてきたのは良い判断だった。偉いぞ」
    『うん』
    「電話は繋いだままでいい。周りの言うことは気にするな。いいな?」
    『うん』

     ジャミルは箒を持って外に出ようとしていた足をUターンさせてPCの前に戻ると、フットワークの軽さがウリの後輩、エースに

    『緊急事態 今すぐ監督生の知り合い、捕まる奴全員連れて下記の住所に来い』

     と書いたメッセージと彼女のいる学校の住所を送る。案の定、すぐに既読がついた。頼むぞ、拡声器。
     箒を握り直し、スマホを顎に挟む。と、彼女が言った。

    『……ジャミル先輩、……早く来て』
    「行くよ。すぐ行く。待ってろ」

     蚊の鳴く声に、心臓を握られて無理やり焦らされる心地がした。ジャミルは自室から出て箒にまたがり、弾丸のように飛び出した。

     しかし、どれほど急いだところで彼女との逢瀬は叶わなかった。百戦錬磨の行政機関からすれば、混乱した小娘一人言いくるめるなど、赤子の手をひねるより容易い。ジャミルが息も絶え絶え学校に着いた時には全てが終わった後で、野次馬の一人もいなかった。途中で電話が切れた時によもやと思ったが、現実を目の当たりにするとがっくり来た。ひどく心が疲れた気分だった。
     それでも力を振り絞って駆けつけたエースや彼女の友人たちに事情を説明すると、彼らは学校の責任者に会うと息巻き、校長室に半ば押し込み強盗のごとく詰め行った。学園前で毎日抗議のデモをしたっていいんだぞ、と脅されたその学校の校長は、学校の評判を落とさないために渋々ながら「彼女は魔法機関に連れて行かれた」と教えてくれた。
     ジャミルはとうとう立ちくらみがした。そもそも、彼女を引き取りに来たのは警察の人間ではなかったのだ。想定していた中でも、最も悪い予測が的中してしまった。
     だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。ジャミルは限界を訴える脳みそに鞭を打ち、瞬時に自分の手元にあるカードの中で使えそうなものをピックアップした。一番効率良く魔法機関に圧力をかけられそうな人物を探す。
     長者番付の常連であるカリム・アルアジーム? いや、少し弱い。ある程度までは行けるだろうが、魔法機関のトップが金で動くかどうかは未知数だ。なら、世界的セレブのヴィル・シェーンハイト? 確かに発信力はあるだろうが、魔法機関に発言力があるかと言えばそうではない。では、夕焼けの草原の第二王子、獣人のトップ・オブ・トップに近い、レオナ・キングスカラー? これはなかなか良い手札だ。無論、彼が協力してくれればの話だが。いや、待てよ。それなら、レオナからマレウス・ドラコニアに伝えてもらうのが手っ取り早いか……? 考えながら、とにかく行動せねばと各所に連絡をした。

     ここからは、筆舌に尽くし難い、途方も無い作業の連続だった。使えそうな人材には手当たり次第に電話をしたし、電話で済ませられない間柄の相手には手紙を送り、あらゆるツテを使って魔法機関との懇談の場を設けた。
     あまり大勢でぞろぞろ行っても仕方ないと思い、一番親身になって、かつ力のありそうなクルーウェルに時間を空けてもらって共に懇談に臨んだ。
     権威ある学術誌『マジカル・メソッド』に何度も論文を発表し、いくつもの賞を受賞してきたクルーウェルは、NRCの外に出ればただの教師ではなく、魔法薬学の権威だ。魔法機関にも舐められない箔があるし、弁も立つ。交渉の援護射撃要員としてかなり重要だろうと思ったからだ。
     ところが、連日懇談の場を設けても、交渉ははかばかしくは進まなかった。魔法機関の狸ジジイ共はこちらの追及をのらくらと躱し続け、ついにはそんな人間は保護していないとまで言い出す始末。その頃には魔法機関の根回しで、彼女が現れた先の学校にも箝口令が敷かれていて、目撃者としてコンタクトを取っていた相手までもが口を閉ざし始めていた。
     元生徒のためとかなりの我慢をして対応していたクルーウェルもこの時ばかりは激怒し、魔法機関の連中を悪し様に糾弾したが、状況は変わらなかった。
     こちらがもっと金を積み上げれば。だが、金で証言を買ったと言われればまた苦境に立たされる。万事休すだ。
     彼女が捕らわれてから、この時すでに一週間が経っていた。中で何を強いられているかを思うと、居ても立っても居られない気持ちになるのに、自分ではもう打つ手がない。ジャミルは頭を抱えた。

     しかしそんな一向に成果の出ないシーソーゲームを、いとも容易くひっくり返す人物が現れた。
     マレウス・ドラコニアだ。
     この頃、名実ともに茨の谷の妖精王として君臨していたマレウスは、机に埋もれた、犬猿の仲であるレオナからの手紙を運良く開いてくれた。そしてそこに監督生の名前を見ると、すぐにスケジュールを空け、文字通り魔法機関まで飛んで来た。
     ジャミルが苦慮して場を設けた何度目かの魔法機関との懇談。あらゆる瞬間移動系の魔法に対して防止呪文がかかっているはずの魔法機関本部に、その男は突如空間に穴を空けて現れた。

    「僕の友人を監禁していると聞いたが……それは本当か?」

     雷鳴を背負った妖精王が尋ねると、場は異様な雰囲気に包まれた。ジャミルやクルーウェルの追及には眉一つ動かさなかった魔法機関のお偉方が、皆一様に額に汗をかく。
     自然に近い妖精は、人からすれば未だ神秘の存在に近い。それも妖精王とくればなおさらだった。
     マレウス・ドラコニアを怒らせること、それは人間と妖精の第二次戦争の幕開けといっても過言ではなかった。五百年前、国を一つ消しとばした第一次戦争と同等の争いが起こることを危惧したのだ。
     結局、マレウスにプレッシャーをかけられた魔法機関は、あっけなくその日中に監督生を解放すると約束した。当の妖精王はその約束を取り付けると「他にも用事があってな」と言って、さっさと引き上げて行ったが。
     ジャミルはさっさと去ろうとする妖精王を捕まえると、礼を言って頭を下げた。頼らざるを得なかったことへの屈辱もあったが、自分にはどうにもできなかったのは事実だ。
     妖精王は謝意を述べるジャミルのつむじをチラと見ると、

    「……いや、僕こそ、遅くなって悪かったな」

     と言った。あ、謝った……!? あの妖精王が!? 内心で激しく動揺するジャミルに、マレウスは続ける。

    「バイパー、お前の使えるものはなんでも使う、その姿勢はなかなか良い」
    「はぁ……」
    「褒め言葉だ、素直に受け取れ。お前は僕の友人を預けるのに最適な男だとも。お前ほど執念深い男はそうはいないからな」

     褒められた気分のしないジャミルは、近々の疲れも相まってポーカーフェイスを崩して仏頂面をした。それにマレウスはにんまり、歯を見せずに笑って、今度こそ去って行った。

    「人の子に、僕のところにも顔を見せるように言っておけ」

     と言い残して。
     こうして彼女は一週間と三日ぶりに、ジャミルの腕の中に帰ってきた。
     そして言ったのだ。

    「私、元の世界に一瞬、帰ってたみたいなんです」

     と……。

     
     
     一度きりであればと願ったが、そう簡単にはいかず、彼女は以降、何度も世界を行き来するようになってしまった。
     ジャミルは彼女の漂流を止める手がかりを得るためと、彼女を決定的に失わないために、繰り返し彼女に言い聞かせ、守らせた。

    『漂着したらまず時間を確認しろ』
    『いざという時のためにスマホの電池は節約』
    『些細なことでも違和感があったら頭に叩き込んで持ち帰れ』

     この三点を、彼女は素直に守った。
     一方でジャミルは、実家の有名リストランテ以外にも幅広く事業を展開する事業家で、天敵でもあったアズール・アーシェングロット、因縁の相手であるディア・クロウリーにですら頭を下げ、漂流を止めるための情報集めに靴底をすり減らして駆け回った。加えて彼女がいなくなるとすぐに、魔法工学の麒麟児であるイデア・シュラウドの協力の元、魔導エネルギーだの召喚術だの古代呪文だのを使った、あらゆる仮説を片っ端から試した。

     しかし、その全ては徒労に終わった。

     どのアプローチでも、どの方法でも、彼女は戻ってこなかった。そしてジャミルの奔走虚しく、漂流も一向に収まる気配を見せなかった。
     戻る引き金はただ一つ。彼女が擬似鏡の中の自分と目を合わせることのみ。
     それでもジャミルは諦めきれず、仕事の合間に文献を読み漁り、週に一度はアズールやクロウリーの元に顔を出して何か有力な情報が得られたか聞いて、漂流の度にイデアの元に駆け込んだ。

     ……そんな生活が、一年半を過ぎた頃だろうか。ジャミルの中で、蟻地獄でジタバタともがくような果てしのない焦燥に、一先ずの決着がついたのは。
     きっかけになったのは、協力を仰いでいたイデアの弟、オルト・シュラウドの一言だった。

    「シミュレーションプログラムが終了しました。……今回も、ダメだったみたい」

     漂流中の彼女を取り返すため、何度目かの仮説を試した後だった。挑戦が今回も失敗に終わって肩を落とす弟に対し、イデアは何事か言って宥めていたが、ジャミルの耳には入らなかった。

    『今回も、ダメだった』

     そんな一言で、と、誰かは笑うかもしれない。誰かは蔑むかもしれない。だけどこの時、ジャミルはようやく、はっきりと理解したのだ。

     彼女を向こうの世界から取り返す方法はない。
     ジャミルにできることは、何もないのだ。
     ただ、この世界でずっと、彼女をいつ失うか恐れ、震え上がって眠るしかない。

     ジャミルは打ちのめされた。『心配するな』とまで言ったのにこのザマか。オルトに勧められた仮眠用ベッドに横になると、魂が抜けた気分だった。その次には無力感がやってきて、そのうち、ジャミルは自分がどんな人間だったのか、よく分からなくなってしまった。
     端から解けていきそうな、蜃気楼のようにぐにゃぐにゃと歪んでしまって、姿形を保っていられないような、そんな心持ちだ。それと同時に、恐怖が大波になってジャミルを襲った。

     怖かった。
     彼女を失うことが。
     そんなことで、自分が自分でなくなることが。

     手が届くと思ったのに、掠め取られるのには慣れていた。そのはずだった。なのに、今の自分はどうだ?

     ジャミル・バイパーがジャミル・バイパーである限り、世界は彼を選ばない。

     そんなことはとっくの昔に分かっていたはずなのに。だからこそ、慎重に、何があっても浮かれ過ぎず、ミスだけはしないよう、戒めてきたのに。

     初めて彼女が消えた日と同じように、ジャミルは自分を滑稽だと思った。本当に、心の底から。
     彼女はジャミルの恋人であり、同時に絶望そのものでもあった。世界で一つのかけがえのないものであり、ジャミルからありとあらゆるものを奪う悪魔だった。
     ジャミルの中の獣性を呼び覚ましたのに、それに問答無用で蓋をし、憩いを教えたのに、休んではならないと追わせ、全てを与えるふりで、全てを奪う。

     ——どうして俺がこんな目に。

     ここに至るまでにも、幾度も幾度も考えた。

     もう疲れた。やめにしよう。君を捨てたい。愛なんかいらなかった。俺の人生には必要ない。希望なんか与えるな。どこか、俺の見えないところに行ってくれ。頼むから、もう解放してくれよ。

     そうやって、幾度も心の中で悪態をついた。彼女がこの世界に不在の時には、ことさらに口汚く。
     なのに、いざ、彼女が戻ったと通知が来たら、ジャミルの心はいつも安堵に震えた。信じてもいない神に感謝したくなり、すぐに彼女に会いたくなった。腕の中に収めておかねば気が済まない気持ちになって、どこに行ってもジャミルのことを思い出すよう、印でもつけるみたいに執拗に求めた。
     そんな自分が、頭のてっぺんからつま先まで隙なく無様で滑稽だった。
     だからジャミルは、仮眠用ベッドの中で決めたのだ。自身の形を保つために、ありったけの自制をすることを。
     入り込ませないように、踏み入らないように、溶け合わないように、溺れないように、……いつでも、やめられるように。
     それ以上の深手を負わないように。

     
     
     しかし、そんな決意と裏腹に、ジャミルの身体はうまく言うことを聞かなかった。
     四年以上も無償の愛を注がれ続けて生きてきたのだ。身体に水分が必要なのと同じ程度には、ジャミルには彼女が必要だった。付き合いたての頃ならいざ知らず、急に水を断とうとしたってうまく行くはずもない。せめて客観視できる距離まで戻ろうとしたのに、ジャミルは彼女と一定の距離を保つのにすら、いまいち成功しなかった。せいぜいが、いつ消えるとも知れない相手と未来の話をしないとか、約束をしないとか、希望を持たないようにするとか、そんな悪あがき程度。

     結局、彼女を取り返す方法を探るのもやめられなかった。
     これは単なる趣味の延長で、完璧に放棄してしまうよりも、ずっと何かしら動いているほうが楽だし、事態の深刻さを直視せずに済むはずだ……そういうふうに自分に言い聞かせて、ジャミルは茨の道を歩み続けた。
     そうすると案の定、心は常に反対方向に引っ張り合う。天秤は振り子のごとくグラングランと揺れ続け、定まらないまま、体裁だけを保とうとしているのだから当然だ。その内千切れそうだと思うこともあったが、その時のジャミルにはそれしか選べなかった。
     歪な形を保ったまま、進み続けるしか。

     それでも最初の頃は、綱渡りながらもなんとかうまく行っていたような気がする。
     ヘラヘラしているようにも見えるが、彼女は漂流の当事者だ。外から分かりづらいだけで本当は自分のことにいっぱいいっぱいで、時折物思いに耽るようにもなっていたから、そうそうジャミルの変化に気がつかなかったし、ジャミルも彼女の眼差しをうまく誤魔化せた。
     だが半年も経つと、さすがに誤魔化しきれなくなってきた。彼女は先の約束をしたがらないジャミルをひたと見つめ、アポを取らずに訪問してくるジャミルに問いたげな視線を向けてくることが多くなった。
     彼女はジャミルの変化に気がついている。分かっていたのに、何も言えなかった。言い訳も、誤魔化しも、見えないふりで遠ざけた。

     そんな、ヤスリで心身を削られる日々に転機が訪れたのは、ある冬の日だった。
     漂流はいまだ続いていて、すでに両手足の指全て入れても足りないほど繰り返されていた。どんなに彼女が気をつけようが、こちらに留まっていられるのは保って二ヶ月。いっそ目隠しでもしておけ、と言いたいところだったが、本当に律儀にしそうで言えなかった。なにも彼女から自由を奪いたいわけではない。
     いつものように、漂流のせいで夕焼けの草原の荒野に一人ポツンと佇むことになった彼女を迎えに行き、オンボロ寮まで送り届けた。二、三世間話をして、またいつもの通りに帰ろうとした。
     すると、彼女はジャミルの服を玄関先で引き止めるように掴んだ。振り返ったが、うつむいた彼女のつむじしか見えなかった。それでも覚悟を決めたような頑なさが伝わってきて、瞬時に肝が冷えた。

    「どうした、何か、」
    「——お別れしたいんです」

     頭が真っ白になった。別に、青天の霹靂、というわけでもなかったのに。

     だって、ジャミルだってそう思っていたから。

     お互いを高め合うだとか、安心感を得たいだとか、交際に付いて回る理由や言い訳が何もない状態で、ジャミルたちはただ頑なに手を繋いだまま、同じところをぐるぐる回っていた。二人の間に横たわる問題を何ひとつ解決に導けないで、どこにも行けず、ただ。
     進むにも戻るにも、この関係は終わらせるしか道はない。ジャミルがそう思うのと同じように、彼女がそう思うのも無理はなかった。最近の彼女の問いたげな様子を思えばなおのこと。

     なのに、真っ白になった頭に、次に浮かんだのは、——紛れもない怒りだった。
     胸のずっと奥のほうがざわめいて、首の後ろがチリリと焼け焦げるように震えた。

    「——本当に?」

     愚かぶって尋ねたが、その瞳にはすでに力を込めていた。

     ——次、彼女が上を向いたら。
     ——この女を支配する。

     そう瞬時に決めた。
     この関係に疲れ切っていたのに。深入りしないように、慎重に己を制御していたのに。距離を保とうと決めたのに。それならもう、きっと彼女の言うことに頷いて、別れてしまったほうが本当は楽なのに。
     全部分かっていたのに。

     彼女はジャミルの尋ねにゆっくりと顔を上げ、戸惑ったように

    「えぇ……?」

     と返した。口元は確かに笑みを作ろうとしているのに、下がる眉は泣きそうだった。
     その顔を見たら、全身に込めていた力が抜けた。毒気を抜かれたと言っても良い。本気で言ってるわけじゃない。少なくとも、本当の望みというわけではない。そう理解したから、気が抜けた。

    「……そりゃ、そりゃあ、本当ですよ。嘘じゃない。本当に別れたいんです、私は。だから、だから、そう言ってる」

     彼女はパッと顔を伏せて言う。なんの説明にもなっていないセリフ。

     ——そんな稚拙なゴリ押しで、俺が頷くとでも思ったのか? だとしたら、君は俺を誤解してる。

     ジャミルは言った。凛とした声で。彼女の提案を、一笑に伏す頑なさでもって。

    「君の気持ちは分かった。だが、俺がそれを了承するかは別だ」

     彼女はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げ、

    「…………へ?」

     と、心底理解できないとばかりに言った。

    「言いたいことがそれだけなら、もう行ってもいいか。仕事を置いてきてるんでな」
    「え? あ、はい……はい。すみません、お引き留めして」
    「いいや。君なら構わない」

     さらりと言って、癖でうっかり、いつものように顔を寄せる。一瞬、殴られるか? と警戒したが、避ける気配がなかったのでそのまま別れの口付けをした。と、顔が離れた途端、彼女は思い出したように難しい顔をした。あれ? これで本当にいいんだっけ? そう自問しているような顔だ。

    「それじゃあ、また」
    「はぁ……いや、ちょ、ちょっと! ちょっと待ってください!!」
    「まだ用でも?」
    「よ、用っていうか、」

     知らないふりで帰ろうとしたが、さすがの彼女も騙されなかった。先ほどジャミルがいつもと変わらず奪った唇を抑えて目を泳がせる。

    「ちょ……っと、今の、変では?」
    「何が?」
    「何がって……私、今、別れ話をしたのですが!」
    「その話はもう済んだだろ」

     絶句した彼女はまたも難しい顔をする。まるで未知の生き物に遭遇したような顔だ。

    「……私は、納得してません」
    「そうか。だが、」
    「だから! ……キスは、困ります」

     先手を打たれた。知恵がついてきたな。何も解決していないのに、妙な誇らしさまであるから厄介だ。ジャミルは肩をすくめた。

    「分かったよ。なら、君が納得するまでは、俺は一切、君にそういう意味での触れ合いはしない。……それで良いか?」
    「納得って、」
    「これ以上の譲歩はなしだ。断るつもりなら、相応の覚悟でしろよ」

     髪のあわいに指を差し込み、耳の縁を探り当てる。上から下までするする撫でて、抜きざまに中指と薬指の腹で首を撫でてやれば、怯えた亀のように首を引っ込めた。真っ赤な顔から察するに、これ以上言うなら抱いて帰る、という意図は正確に伝わったらしい。ジャミルはそれ以上何も言わずに帰った。
     ジャミルはそうやって、決死の覚悟を持って懇願してきた彼女を、とっさに言いくるめた。そしてそれから、何度彼女が話し合いの場を設けようとどんなに堅い面持ちでいても、まともに取り合わなかった。結果が決まっていることに割く時間は、仕事と恋人の漂流とで多忙を極めるジャミルには、生憎となかったからだ。
     訳も聞かずに。
     彼女の言い分を聞いたら、よくないことが起こりそうだと、心のどこかで分かっていたから。

     
     
    「おや、別れなかったんですか」

     イデアの工房、魔導エネルギーを使った大掛かりな装置で、もう何度目かの彼女を取り返す方法を試している真っ最中。ジャミルがポロリとこぼした話に、なぜかその場にいたアズールが意外そうに言った。

    「……何かおかしいか」
    「いいえ、とんでもない」

     言わなきゃ良かった。その胡散臭い笑みを見て、ジャミルは心底うんざりした。普段は協力してもらっていることもあり、もう少し愛想良くもするのだが、この時ばかりは違った。恋人が漂流して、二週間以上……正確に言えば十八日が経っていたから。
     ジャミルの忍耐は限界だった。

    「人の話にいちいち口を挟むなよ。そもそも、なんでお前がここにいるんだ」
    「視察ですよ。イデアさんには、僕も少しばかり出資をしているので」

     そう言われれば、追い出すこともできない。ジャミルは疲れ切り、その辺にあった椅子にどっかりと座り込んだ。
     彼女がいなくなって、一週間がたって、十日がたって、二週間が過ぎた今。ジャミルの疲労はピークに達していた。

     もう帰って来ないのだろうか。この間の別れ話、実は彼女は本気で言っていて、それゆえに帰ってこないことを選んだ? いいや、そもそも向こうに無事に辿り着けていなかったら? どこかの狭間に落ちて、孤独に彷徨っていたら?

     夜毎、狂気は増すようで、苦しくなって目を覚ますこともしばしば。そのくせ昼間はじっとしていられず、イデアのところに日参して進捗を聞き、アズールのところに顔を出し、マレウス・ドラコニアにさえ無理を通して会いに行った。彼女の長の不在を聞いて、誰もが厳粛な顔をしたが、成果はないとなれば尚更だ。
     イデアが大掛かりな機械の画面を操作しながら言う。

    「まあ、アズール氏の言いたいことはなんとなく分かるよ。ジャミル氏って、監督生氏相手だとちょっと異常なぐらいカッコつけなところあるもんね」
    「は!?」
    「わ、ごめんなさいごめんなさい!」

     聞き捨てならない言葉に声をあげると、イデアは椅子の上で身を縮こめるようにして背を丸めた。しかしジャミルが目を剥く一方で、アズールは訳知り顔で深く頷く。

    「確かに、イデアさんのおっしゃることにも一理ありますね。僕はそうとは言っていませんけど」
    「うーわ、アズール氏悪どい。全責任を僕に押し付けた上でジャミル氏に文句言おうとしてる、鬼畜」
    「……何が言いたい」

     じろりと睨めつけると、アズールは眼鏡のブリッジを押し上げて「お分かりにならない?」とせせら笑う。挑発に黙っていると、アズールはふと気勢を削がれたような退屈そうな顔で肩をすくめた。

    「そもそも僕は、ここまで来て別れを選択していないほうが異常だと思っていますよ」
    「なに?」
    「だってそうでしょう? 事件の渦中に長居し過ぎて客観的になれないとおっしゃるなら、この際全くの部外者である僕がはっきり申し上げましょう。——ジャミルさん、あなたはもう限界だ」

     頭の後ろ、ガラス瓶で殴られたような衝撃が走った。

    「自分ではどうにも出来ないと分かりきっていることに、もう二年近く、あなたは立ち向かい続けている。恐るべき執念だ。だが、これ以上先に行ったらあなたは壊れますよ。そしてその原因は、全てあなたの恋人にある」
    「そんな相手とは、どんな障害があったって別れたほうが良いに決まっている。監督生さんが別れ話を切り出すのも当然だ。愛する人が自分のせいで傷つき続けているんですから。愛しているからこそ手を離す。まるで御伽話のような美しい愛情ですね?」
    「ですが、ふふ、困ったことに、あなたは別れないとおっしゃる。別れるくらいなら恋人を操って、どこかに軟禁するほうが良いとさえ考えていませんか? 本当に恐ろしい人だ。ジャミルさんのそういうところ、僕はむしろ好ましいと思っていますけどね。そういう、目的のために手段を選ばないところ。だがそれで本当に漂流が止まる確証もない。困りましたね。八方塞がりだ」
    「何が言いたい……っ!」

     滔々と、いや、わずかに面白そうに語られる現状に、ジャミルは吠えた。するとアズールは薄ら笑いを引っ込め、ブルーグレーの瞳でひたりとジャミルを見つめ返した。

    「あなたは現状を理解できていない。いいや、聡明なあなたのことだ、本当は誰より分かってる。この場合の最適解、お分かりになりますか?」
    「なにを……、」
    「縋りなさい。あなたの恋人に」

     図らずも、は、と怯えたような息が出て、唇を揺らした。イデアが「あーあ、言っちゃった」と遠くでぼやくのが聞こえる。アズールはそれでも止まらない。

    「もうお分かりでしょう? 彼女の体質は治りません。誰にも治すことはできない。あなた方はどちらももう、互いの救いには成り得ないんです」
    「アズール氏、その辺にしといたら?」
    「いいえ、やめません。この半年、僕は友人の腑抜けた姿を見せられてイライラしてきたんだ。良い加減に肚をくくってもらわねば、付き合ってられませんよ」

     アズールはイデアの忠言を一蹴し、「いいですか、ジャミルさん」と再びジャミルに向き直る。

    「あなたの前には二つの選択肢がある。だが、どちらを選んでも、あなたの心は壊れます。彼女を捨てようが、追おうが、どちらにしろ。あなたが真に選べるのは……彼女の最深の傷になれるか否か、だ」

     ゴクリ、耳の奥に生唾を飲む音が響いた。

    「このまま監督生さんの提案に頷いて別れたら? きっと彼女の中で、あなたは美しい思い出になることでしょう。彼女の意思が作用するかどうかは定かではありませんが、この漂流も、もしかしたら止まるかもしれない。彼女が元の世界に留まることを選ぶ、という結果でね。ですが、もう自分では彼女を救ってやれない、それでも別れたくないと、泣いて引き留めたとしたら? 人の良い彼女のことだ、きっと……」

     ブルーグレーの瞳に気圧されて、ジャミルが一歩退いた時。スマホがけたたましい音を立てて震えた。その音を聞くと、何もかもが遠くなり、思考の全てが歓喜で埋め尽くされる。

     ——彼女だ。彼女が帰ってきた!!

     ジャミルは慌ててスマホを取り出した。しかし、その時にはすでにアラームは止まっていた。おかしい。電源が入っている間は、こちらがアラームを切らなければ鳴り続ける仕組みだというのに。

    「誤作動、か……?」

     ぬか喜びに、浮上しかけた心がまた沈む。しかしそれにイデアが待ったをかけた。

    「ジャミル氏待って。僕の作ったアプリがそうそう誤作動するわけない。貸して」

     もぎ取られるようにしてスマホを渡すと、イデアはものすごい勢いで画面をフリック操作し、PC上の地図と最後に電源の入った場所を照らし合わせた。

    「不具合ナシ、システム正常、誤作動ナシ。ならやっぱり帰ってきたんでしょ? 帰還ポイントは……、は? は? マジ? え、いやあり得るとは思ってたけど、マジでそんなピンポイントで落ちるとかある? 監督生氏、幸運Eー奴なの??」
    「どういうことですか? 何が、」
    「雪山」
    「は?」

     イデアが白い顔を青白くして振り返る。

    「監督生氏……今回は、輝石の国の雪山に落ちたっぽい」
    「はぁ!? ちょ、ちょっと待ってくださいイデアさん、落ちたって、」
    「分かんない、分かんないよ!? 分かんないけど、アプリはそう言ってる! それも標高三千越えの超級山で万年雪が積もってるとこ、っあ! ……もしかして、寒さに耐えらんなくてスマホの電源落ちたのかも……」

     ジャミルはいてもたってもいられずに身を翻す。「ジャミル氏!」イデアがスマホを投げて寄越した。コントロール悪く頭上高く行き過ぎようとしたスマホを、バスケのリバウンドの要領で飛び上がってキャッチする。

    「位置情報と最短飛行ルート送る!」
    「っ助かります! 絨毯、行くぞ!!」

     工房の外で待たせていた絨毯に呼びかけると、ぷるるる、と身を震わせて飛び上がった。監督生がこういう体質になってから、少しでも助けになるなら、と、カリムが半ば押し付けるようにしてジャミルに貸しているのだ。絨毯なら、自分で意識して操作しなくてはならない箒よりも圧倒的に早く飛べる。この時ばかりは、カリムに心の底から感謝した。
     イデアのルート通りに絨毯をかっ飛ばし、雪片に視界を遮られながら、ようやく雪に埋もれてうずくまる彼女を見つけた。頭がどうにかなりそうだった。昔、彼女がまだジャミルにとって取るに足らないものだった頃は、自ら吹き飛ばした過去もあるというのに。
     抱えるようにして帰って、毛布でぐるぐる巻きにして世話を焼いて、彼女の唇が血色を取り戻し始めて、ようやくホッとした。

     ——もうどこにも行かないでくれ。

     そんな弱音を覆い隠すように、ポーカーフェイスを装って尋ねた。

    「今回の漂流はわりと長かったな」

     すると彼女は目線を上げ、空を見つめる。

    「あー……そう……ですね。私の体感としては二、三時間なので、こっちで言うと……」

     変だ。直感的に思った。彼女はジャミルの言いつけを破らない。どうしてもできなかった場合は、まずは謝罪から説明を始めるのが常だった。

    「……大体十八日だな」

     嫌な予感を抱きながら、彼女をチラと見る。彼女は何も言い返さなかった。誤魔化すように微笑むので、言う気がないのだと悟る。
     何かあったんだろう? 今すぐ言えよ。君に隠し事をされるのは我慢がならない。そう問いただしたい気持ちを抑えたのは、こう着状態の別れ話が二人の間に横たわっているからだ。
     仕方なく、「今、学園長に戻ったと連絡した」と話を変えた。彼女は話に乗り、結局その小さな違和感は流れた。ただ、ジャミルは諦める気ははなからない。あとで誰か……そうだな、クルーウェルがいいかもしれない。きっとうまく聞き出してくれるはずだ。そんなことを考えながら話し合いをしたり、中座して仕事の電話に出たりしていると、彼女の無事を確認したから、とクロウリーはそそくさと寮を出て行った。不審に思いつつも、こちらも急ぎの仕事の連絡が入ってしまったので、倣って部屋を辞する。雪で濡れた体を乾かしていた絨毯に合図して呼び寄せると、「見送りはいい」と言って玄関に向かった。あまり長居しても仕方ない。二週間以上ぶりに会えた恋人に、ハグの一つもまともにできない身分になった我が身を呪いたくなりそうだ。

     それから三日後、イデアから包みが届いた。頼んでいたスマホが仕上がったらしい。しかも二個も入っている。『完全防水・摂氏マイナス百~二百度対応。特別対応でジャミル氏のも作っといたよ』と謳い文句のように書かれた走り書きのメモを見ながら、メッセージを送っておく。

    『素早い対応、ありがとうございます。しかも俺の分まで』

     すると瞬時に既読がついて、次にはもうメッセージが届いていた。

    『いーえ。今回は僕の読みも甘かったから』
    『オルトに搭載してた調節機能を少しいじっただけだし』
    『スマホに入れられるほど小型にするのは手間取ったけど』

     三連撃でメッセージが届き、ただ画面を眺めていただけなのに一気に既読がついてしまった。ジャミルが『いえ、助かりました』と打ち込んでいる間にも、

    『オタクの早口、スマソwww』

     とくる。しばらく考えたが、文面の意味がいまいち掴めず、結局打ち込んでいたメッセージをそのまま送り返した。きっと失礼はないだろう。
     夜、仕事を終わらせ、届いたスマホを持って彼女の元へ急いだ。渡して、いつも通りの応酬。つい小言を言うと微笑みを返された。途端、心に靄がかかる。まただ。彼女はまた誤魔化そうとしている。ジャミルを。彼女の恋人を。

    「……最近、君と話すと頭痛がしてくる」

     ふと口をついて出た恨み言。椅子の肘掛けにもたれるようにして顔をそらす。こんなことを言って責めたいわけじゃないのに、制御が利かない。

    「……あの、先輩」

     おそるおそるされた呼びかけに、ジャミルはとっさに席を立って話を打ち切った。どうせ別れ話の続きをされるのだろうと思ったから、わざわざ「その話はしたくない」とはねつけたのに、彼女は諦めなかった。
     玄関に向かうジャミルを服の裾を掴んで引き止めると

    「待ってください! こないだの返事、私は納得いってません!」

     と叫ぶので、ジャミルはとうとう立ち止まって振り返る。

    「……お別れしたいって、私、言いました」

     挑むような視線に心臓が炙られる。意識して冷たく見下ろしてみたが、彼女から頑なさは消えない。

    「……そうだな。で、俺は断った。何か問題が?」
    「問題だらけですよ。普通、こういう話って、片方に……もう気持ちが無かったら、解消されるものでは?」
    「それは道理が通らない。交際というのは、二人でするものだ。双方の気持ちが通じ合って、初めて『恋人同士という肩書きを持ち、他に目移りせず互いを愛し続ける』という取り決め……失礼、約束に至る。そうだな? なら、別れる時も双方の了解が必要なわけだ。だからこの間も言った通り、この約束をなかったことにしたい、という君の気持ちは分かった。だが、俺はそれを拒否する。結末は変わらない」

     彼女は難しい顔をしている。そのまま黒目がぐるりと一周して戻ってきたかと思うと、またギャンギャン喚くので、「君の一存による契約不履行」とさらに畳み掛けたら今度こそ黙った。
     ついでとばかりに「損害賠償」と付け加えたら、ジャミルの服の裾を掴んでいた力が明らかに緩んだ。さらに応酬は続いたが、彼女ももう勝てるとは思っていない。

    「今日は帰るよ。もう夜も遅いしな」

     とサラリと告げると「ぐう、」踏まれたカエルみたいな声が返ってきた。思わず笑う。

    「君が妙な考えを捨てるまで、この話は保留にしておこう。それでいいだろう?」
    「……そっちの屁理屈が論破されるまで、の間違いじゃないんですか」
    「なにが不満だ。君が納得するまで、そういう意味合いでの触れ合いは無しにしてやっただろう。これが俺の持ち合わせる最大限の誠実さだぞ」
    「……私は、これ以上あなたに、誠実になってほしいわけじゃありません」

     彼女はうつむいて、喉の奥から絞り出すように呟いた。

    『縋りなさい。あなたの恋人に』

     アズールの言葉が不意に、甘い誘惑のように頭に浮かんだ。けれど無視し、「君は馬鹿だな」と告げた。彼女が顔を上げる。

    「俺を、誠実な男だと思ってる」

     違うの? そう、彼女の瞳が言葉なく問いかける。

     ——違うさ。君の考える俺と、俺が知っている俺は。俺は、君が言うならそうかもしれないなんて、楽観的には思えない。誤解を恐れず言えば、君は俺に騙されてるんだ。

    『ジャミル氏って、監督生氏相手だとちょっと異常なぐらいカッコつけなところあるもんね』

     イデアの言葉が響く。

     ——そう。イデア先輩の言う通りだ。俺はずっと君の前では取り繕ってる。自分がどんなに無様だと思えても、君にはそう思ってほしくなくて。

     俺を一等星だと君が言ったその日からずっと、その瞳に、世界中の誰より長く、美しいものとして留まりたくて。

    「……君はまだ、俺を星だと思ってるのか」

     聞いたのはこっちなのに、彼女が首を傾げて困惑すると、急に心がしぼんだ。決定的な言葉を聞きたくなくて、「いや、いい。もう帰る」と、ジャミルは身を翻して彼女の指を振り切り、箒に乗ってその場を去った。
     帰路の途中、クルーウェルに電話をした。

    「彼女が何を隠しているか、それとなく尋ねてほしいんです」

     そう頼むと、彼はわずかに渋ったが、なんとか了承してくれた。

    『そんなことより、お前は平気なのか』
    「は? ええ……はい、平気です。俺は、全然」
    『……そうか。まあ、聞くだけ聞いておこう。お前もあまり無茶はするな。俺にとっては、お前も俺の生徒だ。分かるな、バイパー』

     その時、ふと、心臓が引き裂かれそうに痛んで、考えるより早く

    「憐れまないでください」

     と口をついて出ていた。電話の向こうのクルーウェルが息を呑んだ気配が分かる。その音を聞いて、ハッとした。俺は今何を言った?

    「っいや、その、すみません」

     頭に砂嵐が起こったみたいに、適切な言葉が拾えない。次に言うべき言葉が分からない。言葉を失っているのではない。驚きによる絶句でもない。こんなことは初めてだった。
     クルーウェルは何事か言おうとしたが、ジャミルは「とにかく、よろしくお願いします!」と一方的に言って電話を切った。肩で深く息をしながらスマホにじっと目を落とす。

    『あなたはもう限界だ』

    頭の奥で、アズールの声が響いた。

    「くそ……」

     悪態をついて、髪をかき上げる。屈辱と後悔と自罰の気持ちがないまぜになって、心臓がまた千切れそうに痛んで、奥歯をぐっと噛み締めて耐えた。

     
     
     次にクルーウェルと話したのは、二日後の午後のことだった。画面に教師の名前が表示された時、一気に気が重くなった。ああ、先日の無礼を謝る時が来た。

    「クルーウェル先生、先日は大変失礼しました。少し、疲れていて」
    『それはいい。お前の状況は分かっているつもりだ』

     何か言われるより先に謝ってしまおうと出たら、すぐに流された。肩すかしを食った気分だ。

    『それより、例の件だが』
    「聞き出せましたか?」

     ジャミルが言葉尻に被せるように聞くと『妙な言い回しをするな。俺は卒業生の悩み相談に乗っただけだ』と、クルーウェルはいたく不満そうだった。

    「すみません、気が急いて」
    『まあいい。……本当はお前に伝えるべきか悩んだんだが、一晩考えて、隠しておくのも限界があるだろうと思ったから伝えておく』
    「は」

    『探されていなかったそうだ。向こうで』

     クルーウェルの言葉は、ジャミルの耳朶をひどく甘く打った。

     
     
    『——警察に行って調べてもらったそうだが、捜索願も出ていなかった、と言っていた。様子がおかしかったのはそのせいだろう。辿り着いた先が本当に元いた世界かは確証がないが、ショックでぼんやりしていたら、時間を数えるのを失念していたようだ。本人はどうも、そういうこともあるだろうと予感していたようだし、『落ち込んでいるわけじゃない』とは言っていたが、お前から見てカウンセリングが必要だと思うなら、手配してやるから言え。あとなんだったか、『私がいなくなって、誰も悲しんでいる人がいないなら、それが一番いい』と言っていたな。……今までのことを思えば、本人の感情が漂流の如何に作用するとは考えにくいが、ケアくらいはしてやるべきだろう——』

     クルーウェルの説明を聞いて、正直、最初に湧き上がったのは怒りだった。そんな大事なことを、どうして言わないでおくのか。どうしてクルーウェルにだけは言う気になったのか。どうして。どうして。どうして。
     その次に浮かんだのは、心配と、これは使える、という思い。
     これで彼女は正真正銘、天涯孤独の身の上だ。縋るものも、頼るものも、拠り所も、家族も、何もない。そう、彼女に手を差し伸べ続けて来た、ジャミル・バイパー以外には。
     ジャミルを失うことは、彼女にとって文字通り致命的だろう。これを機会に、別れ話を撤回させることができる。そう思った。

     夜空を箒で飛び抜け、彼女の元へ向かった。夜中に突然訪ねて来たジャミルを、彼女は呑気に談話室に迎え入れた。

    「こんばんは、先輩。何かありましたか?」
    「いや、大したことじゃない。少しカウンセリングにな」
    「はい?」
    「グリム、悪いが少し外してもらえるか」

     なんでもないように言って、渋るグリムを追いやり、彼女に目を向ける。目の前に立ち尽くす彼女は、ジャミルの異様な雰囲気を感じ取ってか、わずかに緊張しているようだった。それを労わることもせず、気を抜くことを許しもせず、ジャミルは口火を切った。

    「君、向こうで探されていなかったんだって?」

     目を丸くした彼女はしばらくピクリともしなかったが、やがて一つ瞬くと

    「……え、?」
    「向こうの警察に行ったんだろう。家族からの捜索願は出ていなかったとか」
    「………な、んで、」
    「クルーウェル先生に聞いた。ああ、口止めが足りなかったとは思わなくていい。元より、俺が先生に依頼したことだ。まぁ、迂闊な君のことだ、口止めをしたとも思えないが」

     わざとらしく肩を竦めると、震え上がっていた彼女は「依頼……」と口の中で転がすように呟く。

    「戻って来た時、様子がおかしかっただろう。だから訳を聞き出すように頼んだんだよ。さすがの君も、一番敬愛し、信頼している教師に隠し事はできないらしいな」
    「おかしいって、そんな、」

     まだ誤魔化すつもりか。不意に苛立ちが強く前に出て、怒りで体が弾け飛びそうな心持ちがした。それを静かに深く呼吸して収めると、

    「……俺が今回の漂流の長さを聞いたら、君は長考した上で『体感としては二、三時間』と言ったんだ。覚えてるか?」

     と尋ねる。彼女は目を泳がせた。それが答えだった。

    「いくら君が呑気で、この漂流に慣れて来たと言っても、今まで自分の漂流時間を把握していなかったことはなかった」
    「それは、だって」
    「そう、当然だ。『漂着したらまず時間を確認しろ』、『いざという時のためにスマホの電池は節約』、『些細なことでも違和感があったら頭に叩き込んで持ち帰れ』。再三そう言いつけておいたはずだからな。この、俺が。君がうっかり忘れるわけがない。だから、よっぽどのことがあったんだろうと思ってね」

     ジャミルが一歩踏み出す。彼女が退がる。もう一度距離を詰めようと大股で近づくと、また遠ざかる。本能的な恐怖に対する当然の反応とも思うが、そんなことは許さない。逃げようだなんて、そんなことは。
     さらに詰め寄っていくと、彼女の背中が壁にぶつかった。その顔の横に手をついて顔を近づけると、大きく見開かれた瞳に自分が映るのが見えた。

    「……気分はどうだ」
    「え……?」
    「もう帰る場所なんかないだろう? これで君は、どうにかしてこの世界に残るしかなくなった」

     喉奥に何か詰まったような顔で、彼女がジャミルを見返した。

    「——世界に一人きりの気分、教えてくれよ」

     地獄に突き落とす気持ちで尋ねると、彼女は唇を噛み締めてうつむいた。

     ——そうだ。絶望してくれ。もっともっと深くまで。
     そして、その絶望から君を救い出すのは俺だ。
     そうでなくてはいけない。
     君を傷つけるのも、救うのも、全部、——

    「——君にはもう、俺しかいない。俺しか頼れない。その気分を」

     耳元で、トドメとばかりに囁く。彼女は微動だにしない。なぜだかその無反応に、振り上げた拳の行き場を失った気分になる。心もとない気持ち。いや、そんなはずはない。だって、彼女はもう、ほかに頼るものなんて、

    「……別れてください」

     思わず息を呑んだ。きっと彼女にも聞こえただろう。失態だ。ジャミルは一歩退いた。態勢を立て直すためだった気もするし、怖気……だった気もする。不本意ながら。
     彼女がゆっくり顔を上げる。頑なな瞳。どうあっても動かないような。

     ——やめろ。そんな目で見るな。そうじゃない。俺は、だって……君が、

    「駄目だ」

     何度も首を振って拒否する。しかし彼女はジャミルの服を掴んでさらに言う。

    「……別れたいんです。お願いします。もう無理なんです。私には」
    「だめだ。許さない。俺はこの件に関しては絶対に、君の願いは叶えない」

     ——やめろ。

    「お願いします、別れてください。どうしても……」
    「……駄目だ」

     ——よせ。

    「謝れって言うなら何度でも謝ります。損害賠償も、どんなに高くても頑張って払います、だから」
    「よせよ……」

     ——どこにも行くな。

    「私、本当に馬鹿だったんです、こんなことになるとは思ってなくて、本当にごめんなさ、」

     ——頼むから。

     情けない心のうちと裏腹に、ジャミルの手は無意識に、素早く彼女の手首を抑え付けていた。今まで彼女にこんなに乱暴に触れたことはなかった。頭の片隅で自分に幻滅した。けど、どうあっても、止められない。

    「……っどこにも行くあてなんかないのに、どうしてそんなに頑ななんだ。なにが不満だ、言ってみろ!!」

     頭ごなしに怒鳴りつけると、「不満なんか、」と彼女は緩く首を振る。

    「ならもう諦めろ!! 君から奪えるのも、与えられるのも、もう俺だけだって言ってるだろう! 別れたくて仕方ない嫌な男から、君は生涯逃げられないんだ、ざまぁみろ!!」
    「あなたに不満なんかないって言ってるでしょ!!」

     叫びを叫びで返されて、頬を打たれた気分で口をつぐんだ。彼女は懇願の瞳でジャミルを見上げる。

    「……私です。悪いのは、全部私。あなたじゃない。先輩だって、本当は分かってるでしょう?」
    「なにを、」
    「私の体、指の先まで不幸が詰まってるの。……私はあなたに相応しくない。だから別れたいんです」

     それで、全てが腑に落ちた。
     彼女が別れたいと言い出した理由。こんなに頑なに言い張る理由。ジャミルがどれほど言っても折れない理由。
     彼女が問題視しているのは、二進も三進もいかないこの状況ではない。

     彼女の手を離さないように繋ぐジャミルの手が、指が、茨を払い続けて傷だらけなことなのだ。

    「……意味が分からない」

     途方もない気持ちになって、ジャミルはポツリと呟いた。

    「嘘。先輩に分からないわけありません」
    「ああ、分かってる。君が大変な身の上だなんてことは、とっくに承知しているさ。けど、それがどうして別れるだなんだという話になるのか、俺にはさっぱり見当もつかない」
    「どうして分からないふりするの! これはあなたのためでもあるんです! 私と一緒じゃ、ジャミル先輩はいつまでたっても幸せになれない!!」

     胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで言うから、思わず

    「何をいまさら」

     と本音が出た。しまったな、とぼんやり思いつつも、なんだか気が抜けた気分だった。やっと言えた。そういうような。
     彼女は怯んだように怒らせた肩を下げる。

    「い、まさら、って」
    「今更だろ。君は、俺の恋人だが、俺を幸福に導くものじゃない」
    「……じゃあ、やっぱり付き合ってる意味なんか、ないじゃないですか」
    「なぜ」
    「私、知ってるんですよ。ジャミル先輩が未来の話をしないのも、約束を嫌う理由も。……私に必要以上に踏み込んで、裏切られるのが怖いんだ、あなたは。私はあなたに恐怖を与えている。意図的ではなくても。私はそれが嫌なんです。だって私は……あなたが好きなんだもの。幸福にするどころか、一緒にいるだけで悲しませる恋人なんて、いる意味ない。だから別れたいの」

     重大なことを言われている。多分。だけどジャミルの心にはちっとも響かない。そりゃそうだろ、とか、そんなこと前から気付いてた、とか、そういう気持ちが絶え間なく湧き上がるだけだ。
     全く本当にいまさらな議論過ぎて、呆れるよ。呆れで腹まで立ってくる。
     頭の中でアズールが言った。あの、なんでもお見通し、みたいな心底ムカつく顔で。

    『そもそも僕は、ここまで来て別れを選択していないほうが異常だと思っていますよ』

     そうだ。そうだよ。全くの他人まで分かってるのに、どうして君はそうなんだ。いまさらジタバタしやがって。……ムカつく。本当に。
     だから言ってやった。

    「この高慢ちきのクソ女」

     と。
     最初、彼女はまさかそんなことを言われると思っていなかったのか、怪訝な顔をして聞き返してきたが、ジャミルがもう一度繰り返してやると顔を真っ赤にして怒り出した。

    「な……なんですって!? 私は、これでもあなたのことを思って!!」

     叱責されると、こっちも大概苛立っているせいで、倍以上に叫び返した。

    「ああ、そうかよ。大きなお世話だ!! 何様だか知らないが、ずいぶん上から物を言ってくれるじゃないか。俺を幸せにしたい、だ? 押し売りもいいところだ、クソッタレ!! 押し付けがましくて賢しらで、……っ本当に、反吐が出る! 御高説ぶってるところ申し訳ないが、俺に言わせれば他人が誰かの幸せに寄与できるなんていうのは全くの幻想だ。相手が誰であろうと、たとえ親だろうと恋人だろうと、他人を自分の手で救えるなんていうのは思い上がりなんだよ。しかもそれを? 非魔法人種で異世界人の君が? 俺にしてやろうって? 笑わせるんじゃない!!」

     口を挟む余地もないくらい畳み掛けると、彼女は癇癪を起こしてジャミルの手を振り払おうとした。それも許さず抑え込むと、とうとう唸って泣き出した。ひどく疲れた気分だった。

    「言っただろう。俺を世間一般の、相手の幸福を常に願うような誠実な恋人だと思うな。この通り、俺は君に対してだって、一度も誠実だったことなんてない。……俺は君を手に入れたくて、そばに置きたくて、そうしてきた。君が欲しくて。君が離れていかないように恋人らしいことをして、君の機嫌を取ってる。それが一番、コストがかからないからだ」
    「……あなたを愛する人なんて、この世にたくさんいます。私以外にも。もっとコストがかからなくて、面倒じゃない、美しくて、聡明な人が、たくさん、」

     そこまで聞いたら、もう限界だった。彼女の手を掴む指に無意識に力が入り、声が自然と荒ぶる。

    「そんなこと言ったって仕方ないだろ!! できるものならとっくにそうしてる! けど俺は……」

     彼女が苦悶の表情でジャミルを見た。泣きたくなる。どうして。どうして。どうして。……いいや、本当は分かってる。彼女がいまさらジタバタしてる理由くらい。

     ジャミルが縋らなかったからだ。

     ——どこにも行ってほしくない。どうしても行くと言うなら、その先で、俺以外を選ばないでくれ。俺は君じゃなきゃ嫌だから、君も、俺でなくては無理だと言ってほしい。

     本当はそうやって言って、縋るべきだった。
     だけどどうしても言えなかった。
     だってそんなのは無様で滑稽で、自分の抱えている傷ほど醜いものはこの世に無くて、……彼女がいつか評したような『一等星のような男』とは程遠い姿だったから。

     だからあの日、ジャミルは、イデアに借りた仮眠用ベッドの中で決めたのだ。ありったけの自制をすることを。
     それは壊れかかった心が決定的に壊れないよう守るためでもあったし、彼女の一等星であり続けるためでもあった。

     入り込ませないように、踏み入らないように、溶け合わないように、溺れないように、……いつでも、やめられるように。
     それ以上の深手を負わないように。

     彼女が恋したジャミル・バイパーのまま、最後までいられるように。

     それが、カッコつけの見栄っ張り、出し惜しみして、努力も傷も何もかもを隠して強がりたがった、ジャミル・バイパーの真実。

     だけど、もう無理だ。それが、今この瞬間に分かった。

     ——もう良い。

     ジャミルは思った。

     ——もう良い。君を取り返そうだとか、元に戻りたいとか、そんなことはもうどうでも良いんだ。
     悪かったよ、俺が浅はかだった。深入りしなければ、失ったときに冷静でいられるなんて、そんなものは嘘っぱちだった。あんなのは、俺を含めて、本当の出会いを知らない奴らが言う戯言だ。
     俺たちはもう別れられない。君がどこに帰っても、俺のそばに戻らなくても。君との出会いはそういうものだ。
     だからもう、このままでいい。俺は君に振り回され続けて、どっちにも転べないまま、高く分厚い壁の前で、いつかまたそれを軽やかに乗り越えてくる君を待ち続ける。
     ひたすら上を向いて口を開けて、今か今かと待つ姿は、きっと今よりもっと無様だろう。
     だけどもう良いんだ。
     その壁の向こう、君も同じだけ俺に焦がれているのなら——

    「俺は、君が俺に幸福を与えてくれるから一緒にいるんじゃない。……もう離れられないから一緒にいるんだ」

     ——傷つけたくないだなんて、いまさら言うな。監督生。
     ——認めろよ。俺たちはもう、とっくに後戻りできないところまで来てる。そうだろう?

    「だから今更怖気付いて逃げようったって無駄だ。俺はもう君を手に入れた。俺は善い人間なんかじゃないから、君がどう思おうが、一度この手に落ちて来たものを手放す気なんかさらさらない。今度「別れたい」だなんて口にしてみろ、次は躊躇しない。君の心に入り込んで、自由を奪い、二度と外なんか自由に歩けないようにしてやるからな!!」

     ——俺は君の傷になりたい。だから君も、俺の傷になると決めてくれ。

     ジャミルは彼女の首の後ろ、頚椎を丸ごと抑えるようにして引き寄せて、彼女と無理やりに目を合わせて叫んだ。本気だと分からせてやろうと思ったのに、彼女は目を大きく開いて驚いてはいたが、次の瞬間には目を潤ませ、眉を下げて笑っていた。

    「……なに笑ってるんだよ、くそ……」
    「ごめんなさい」

     謝罪は空を切るようで、悔しかった。ここまで虚勢を張ってやってきたのに、あっけなく崩れた自分が情けなくて、穴があったら入りたい気分だ。
     彼女の肩口に顔を埋めるようにして落ち込んでいると、彼女の手を掴んでいたジャミルの手に、彼女の手が乗った。

    「ジャミル先輩」
    「……なんだよ」
    「私、昔からずっと、変わらず星だと思ってますよ。先輩のこと」

     嘘つくなよ。こんなに無様で、情けなくて、結局君のことも何一つ解決してやれない男が、君の一等星でいられるわけがあるものか。
     そう思って顔を上げたら、彼女の慈愛に充ち満ちた瞳とぶつかった。
     彼女は言う。耳に甘い蜜の声で、ジャミルの心の傷をまた一つ深めるように。

    「あなたが好きです」
    「ずっと」
    「ずっと好きです」

     むやみやたらに愛しい。なのに、これ以上ないくらい憎らしい。

    「こっの……、本当に分かってるのか?」
    「うん。だから、」

     ふと、彼女が一歩近づく。久方ぶりにこれほど親密に近づいた。もう触れても良いのだ。そう安堵して、彼女の腰を引き寄せようと深く目を合わせたその時。
     彼女の、しまった、という顔を見たと思ったら、彼女は光の粒子になってジャミルの腕の中から消えてしまった。
     まるで、握りしめていたはずの、砂漠の砂のように。

    「……嘘だろ」

     オンボロ寮の談話室には、ただ一人、己の手のひらをじっと見つめて途方にくれる男だけが残った。

     
     
     何が縋れだ、あのへっぽこ人魚。縋ったところで、何も変わりはしなかったじゃないか。漂流だって止まらないし、縋ろうが縋るまいが彼女はジャミルの恋人でそれは変わらないし、とにかく彼女の前で無様を晒しただけだ。くそっ、あのタコ、今度会ったらいつもピカピカにしてる靴の先、目一杯踏んでやるからな。
     ジャミルは何度も頭の中でアズールをこき下ろす想像をしながら、日中は仕事を、その他の時間は睡眠とイデアのところで過ごして、彼女の帰りを待った。いつもは、まぁジタバタしても三日は帰ってこないだろうと多少の諦めもあるが、今回はいつにも増して落ち着かない。何かしていなくてはいられない気分で、終始そわそわとしていた。
     それが、彼女の漂流帰還ポイントを予期してのものだったのかは分からない。だが、彼女は今度は海に落ちた。雪山の次は海。なんとも運のない話である。
     アラームが鳴ったのは夕方、仕事中。ちょうどカリムの自室で明日の予定を確認しているところだった。
    「悪い」と前置きしてスマホを操作すると、

    「おっ、監督生、帰ってきたのか?」

     と身を乗り出した。それに「ああ、そうみたいだ」と小さく頷く。だが、そんな落ち着き払った風に装えたのも、帰還ポイントを見るまでだった。賢者の島近く、海のど真ん中に、彼女のスマホの所在を示す赤い点が明滅している。

    「あのバカ、よりによって……!」
    「え、なんだ、どうした!?」
    「カリム! 予定チェックは明朝やる、少し早いが今日の業務は終了だ、絨毯を借りるぞ!!」
    「お、おう!」

     返事を聞く前に飛び乗って、ベランダから空に向かって急上昇。

    「監督生によろしくな~!!」

     というカリムの呑気な声に見送られ、ジャミルは賢者の島へと救急隊を呼びながら、自分も急行した。
     しかし近くに着いても、彼女らしき姿は見当たらない。スマホの位置と照らし合わせても、この近辺なはず。ジャミルは魔法石を操作して自分の顔まわりに空気の層を作ると、絨毯に

    「近くで待て! 救急隊が来たら、俺はこの下だと伝えろ!」

     と叫び、迷わず海にダイブした。
     平泳ぎの要領で手を動かし、深く、深く潜っていく。水深はかなりあるが、比較的穏やかな潮目のところに落ちたのは不幸中の幸いだった。海水が濁って、魔法石で照らしても、一メートル先も目視できない。イデア謹製の防水仕様のスマホで、バタ足を止めずに潜りながら自分の位置の青い点と彼女の赤い点を照らし合わせる。ピタリと重なっているのを信じて、また潜る。

     ——どうか。どうか、この先にいてくれ。頼むから。

     祈るような気持ちで水を掻き分ける。その時、何かの反射があった。チラチラと、魔法石の光を映している。
     彼女だった。胸元からスマホが飛び出しているが、ネックストラップの紐は辛うじて彼女の首に引っかかっている。ジャミルは彼女の周りに空気の層で泡を作って、彼女を下から押し上げるようにして浮上した。肺がキリキリ痛むのを無視して水面に上がる。
     空中を心配そうに忙しなく右往左往していた絨毯が、二人の浮上に気づいてすっ飛んでくる。ジャミルは肩で息をしながら、意識のない彼女を抱えて絨毯に乗り上げ、岸に向かった。
     絨毯の上で彼女の胸を叩き続け、ようやっと水を吐かせた。ゲホゲホと咳き込み、苦しげに目を開ける。その瞳に自分が映って、ようやくホッとした。
     泣きそうになりながら、未だ咳き込む彼女の頭をかき抱く。

     ——良かった。本当に良かった。帰って来た。

    「じゃ、み、」
    「分かった、分かったから。喋らなくていい。じっとしてろ。すぐに救急隊が来るから、」
    「せんぱ、ジャミル、先輩」

     ぎこちなく動いて喋ろうとする彼女を「じっとしてろって」とたしなめるが、彼女は言うことを聞かない。必死に何か伝えようとする。

    「私、帰ってきました、よ」
    「分かってる、分かってるよ……」
    「私、必ず、帰ってきますから」

     彼女の細い腕が背に届く。

    「これから、たとえどこに流されても、……たとえ、あなたが私を忘れても。私、あなたを目印に、必ずここに帰ってきます」

     海水で冷やされた指先が、ジャミルの背中をゆっくりとさする。

    「だからきっと、何度でも、……私の手を取ってくださいね」

     ジャミルは何も言えなかった。口を開いたら泣いてしまいそうだった。だから唇を噛んで、彼女をきつく抱きしめた。
     まるで縋るように。ただ。
     
     


     
    「首尾は?」

     かかってきた電話に開口一番そう尋ねると、電話の相手であるエースは『いやぁ~……』と歯切れ悪い。どこかのパブで飲んででもいたのか、後ろの喧騒がやけに大きかった。

    『そのー、……』

     ジャミルは煽るように、大きく溜め息をつく。

    「説明はいい。どうせ駄目だったんだろう。お前に頼んだ俺が馬鹿だった」
    『あっ! ちょ、その言い方ひどくないすか!? オレらだってこれでも精一杯やりましたよ! ただ……監督生の意思が予想より大分固すぎたってだけで』

     ごにょごにょ言うエースの後ろから、『すんません、バイパー先輩!』『申し訳ないっす』『力及ばず、かな……』『人間、まさかあれほど手強いとは……!』と、四者四様の神妙な謝罪の声が聞こえる。まさか同級生を総動員していたとは思わず、ジャミルは「いや……」と口ごもる。


     
     彼女の漂流は、あの海に落ちた一件以来ピタリと止んだ。漂流の原因も分からないまま治まってしまったので、何が良かったのかさっぱりだし、またいつ再発するとも分からない状態だ。
     本人は

    「愛の勝利です!」

     などとくだらないことを言うばっかりだし、協力を仰いだ全員、どんな魔法を使ったのだかと首を傾げていた。
     だが、とりあえず落ち着いた。今まで、二ヶ月以上の間を置かず行ったり来たりしていた彼女は、もう半年ほどいなくなっていないし、ジャミルの側で今日も笑っている。
     良いことだ。実に。
     実に良いことではあるのだが……漂流が治まって半年ほどがたった現在、一つ、新たな問題が出てきた。

     彼女が働きたいと言い出したのだ。
     もちろん、ジャミルは「何かあったらどうする」と言って許可しなかった。働き始めたら不測の事態は今よりもっと多くなる。擬似鏡を目に入れる機会だって増えるだろうし、ずっとスマホを首にぶら下げて働いていて、気付かないうちに充電がなくなったら? その時、運悪く漂流が再発したら? 彼女は自分の幸運に果てしのない自信があるようだが、あれが運が良いとされるなら、ジャミルは豪運の持ち主になってしまうと思う。
     しかし彼女は

    「絶対絶対もう大丈夫!! 完治したので!!」

     の一点張りだ。

    「根拠は?」
    「……勘?」
    「却下」
    「横暴!!」
    「どっちがだよ!」

     切り捨てたら心外なことを言われ、思わず言い返したら、今度は下手に出られた。

    「だってだって、考えてもみてくださいジャミル先輩。私、せっかく頼み込んで仕事もらったのに、まだ一回も働けてないんですよ?」
    「別に労働なんてそんなに良いものじゃないだろ……」
    「でも、お金が手に入るじゃないですか!」
    「毎月まとまった額置いてってるだろ。足りないのか? なら、」
    「違くて! ……手、つけてないもん」
    「なぜ」
    「私はヒモじゃないからです!! 今私、学生時代のバイト代とか、短期バイトで食いつないでるんですよ? 由々しき事態だと思いません!?」
    「待て、君、短期バイトなんてしてたのか? いつ? どこで? 誰と?」
    「え……っと、…………アズール先輩の紹介で」
    「あのタコ、二度と陸に上がれないようにしてやる!!」

     とまぁ、いらない情報まで吐くものだからジャミルの怒りはあらぬ所に飛び火までしたのだが、……とにかく。彼女はこの件に関して頑ななのだ。
     顔を合わせる度に打診されるものだから、最近は無の境地で聞き流していたら、全然聞いてないのが伝わってしまったらしく、とうとうどこから出してきたのか銀のお盆まで持ち出してきて、ジャミルの目の前で自分を写して

    「ほら!! 目が合ってもどこにも行きません!!」

     とまで言い出す始末。さすがに肝が冷えて「馬鹿なことをするな!!」と取り上げたが……ジャミル一人で、果たしてどこまで凶行を食い止められるか。自宅に帰って銀のお盆をゴミに出した時、ふと一抹の不安が胸によぎり、この度、後輩のエースに説得役を頼んだわけだ。まぁ、無意味だったわけだが。


     
    『だってあいつの理屈、チョ~~訳分かんねぇんっすよ! 仕事中に再発とかあったらどうすんのって言っても、愛があるから大丈夫しか言わねぇし、いや、全然理由になってねぇじゃん? グリムもグリムで『何言っても無駄だゾ』って諦めてるし、なのにデュースは『一理あるな』とかよく分かんねーとこで共鳴しちゃうし! 何あのやっすい洗脳』
    『ぼ、僕のせいか!?』
    『そうだよ、バーっカ!! お前が監督生を調子付かせたんだよ!!』
    『なんだと!!』

     ギャイギャイと電話口で喧嘩が始まってしまい、ジャミルはスマホを耳から離す。うるさい。
     切ってやろうか、と思っていると、不意に電話口が静かになった。耳を近づけると、ジャックの声がした。通話中のスマホを机に放り出しての口喧嘩になってしまったので、エースの代わりに説明を引き継いでくれるらしい。何をやってるんだアイツは……。

    『まぁ、大体はエースの言った通りで……』
    「訳の分からない理屈で押し通された、と」
    『そんな感じです。あ、でも一個、まともに返ってきたのは、『もう少し先輩とのんびりしてやってもいいんじゃねぇか』って俺が言ったら……』
    「俺とはゆっくりしたくないって?」
    『いや、そうじゃなくて、『早く全部普通に戻して安心させてあげたいんだ』って、そう言ってました』

     ふん、思わず鼻で笑ってしまい、電話口のジャックがたじろいだように『先輩?』と呼びかける。

    「いや、すまない。なんでもないよ。悪かったな、付き合わせて。このスマホの持ち主にも、よろしく言っておいてくれ」

    「ウッス」と従順な返事を最後に、ジャミルは電話を切り上げた。気心の知れた友人たちと別れ、相棒と一緒にオンボロ寮に帰り着いた彼女は、きっとすぐにジャミルに電話をかけてくるはずだ。取れないと困る。

    「『全部普通に』……か」

     通話の切れたスマホの画面を見つめて独り言ちる。
     きっと彼女の言う『普通』は、いつかジャミルが彼女の漂流の完治を認めたり、なんの心配もなく仕事をしたり、未来の話をし合ったり、そういうことを指しているのだろう。
     だがたとえそういう観点からでも、ジャミルの人生に『普通』が戻ってくることはないと思う。
     例えばジャミルは、イデアの作ってくれた探知アプリを、未だに消せていないし、生涯消す気もない。ある日、音も立てずに終わるのが幸せなら、失わないように最大限の防衛の策を講じておくのがジャミルだ。
     冷静沈着、深謀遠慮、全てを自分の掌中で把握しておかねば、我慢がならない。たとえそれが、ごくごく些細なほころびだとしても、早めに芽は摘んでおく。それが自分だし、それで良いとも思っている。

     ジャミルがその深謀遠慮の信条に背いたのは、物心ついてからはただの一度。
     差し出された彼女の手を取った、ただ、あの一度だけだ。

     ジャミルは手の中でスマホをくるりと回転させながら思う。

     ——普通になんか戻りはしないさ。何もかも。
     ——あのたった一回で、俺の人生は狂ってしまったんだから。

     彼女の言う『普通』が『漂流前』であるのに対し、ジャミルにとっての『普通』は『彼女と付き合う前』まで遡らなければならない。二人の感覚は土台から違っていて、きっと永遠に互いに不理解のままだ。

     ジャミルの恋人。希望の灯の形をしてやって来て、その実嵐のような激しさで、ジャミルの人生を根底から狂わせた女。なのに彼女は今でもへらへら、彼の手をどこに行くのも一緒だと——たとえ頂上だろうと地の底だろうと——ばかりに強い力で握りしめて、隣で笑っている。

     ジャミル・バイパーの人生を、愛という名の凶器で、現在進行形でめちゃくちゃにかき混ぜながら。

     つい、また鼻で笑ってしまった。嵐って、大概自分のことをそうとは思ってないよな、なんて。砂粒なんてとんでもない。
     ジャミルは笑いながら、スマホをズボンのポケットに滑り込ませた。そうしておくと、彼女からの電話にいつでも気がつけるからだ。

     
     
    衆人の砂塵、あなたのためのダイヤ



    1000_cm Link Message Mute
    2022/06/04 11:31:25

    砂塵と星シリーズ

    pixivからの保管用です。
    突然元の世界に帰ったり、また戻って来たりする監督生さんと、それに振り回されるジャミくんの話。

    初出/2021年4月11日 22:06〜2021年6月25日 20:56
    #twst夢 #ジャミ監 #女監督生

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