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    しおり
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    芥河を越えろ
     
     実家の近所に住んでいた和泉守兼定くんは、幼少時代から、地元で評判の美しい男の子だった。
     聡明そうな額に、キリリと上がった眉、ツンと尖った高い鼻。桜色の唇は花びらみたいに柔らかそうで、長い睫毛は扇のように目元に濃い影を落としていた。真っ黒の髪は後ろで一つ括りにまとめ、サイドの髪は三つ編みにして横に垂らしてある。
     まるで楚々としたお人形みたいな美貌は小学校入学時から噂の的だったが、学年が上がるごとに新たな魅力を増す様はまさに燎原の火といった具合。
     私も、初めて彼を目にした時には随分年が離れているにも関わらず、こんなに美しい生き物が世に存在するのかと度肝を抜かれた。そんな記憶。



    「ただいまー、疲れたぁ!」

     九月某日。社会人二年目、上司のセクハラとモラハラに嫌気がさして、夏休みと有給を併せて長期の休みを取って、実家に帰った。家に着いて大声で嘆くと、一緒に暮らしているおばあちゃんが奥から出てきて歓迎してくれる。

    「あぁ、よく来たよく来た、饅頭食べるかい?」
    「わーい、食べる食べる!」

     居間に入って饅頭をつつきながらしばらく談笑していると、母に見つかって怒られた。

    「社会人にもなって、おばあちゃんにたかるんじゃありません!」
    「たかってないもん、おばあちゃんがくれたんだもん」
    「かぁーっ、都会に行って成長するかと思えば、図々しくなって帰って来るとは何事なん? もっと大人になりんさい」

     ぺし、と尻を叩かれブゥたれる。大学入学と共に東京で一人暮らし、そのまま就職と、六年も自由を謳歌した今の私に、母の小言よりうるさいものはない。こんなことなら地元になんて帰って来ずに、家でゴロゴロしていれば良かった。
     と、突然

    「そうや、あんたこっち帰って来て暇でしょ?」

     と母が言った。なんという決め打ちだろうか。心外である。

    「暇じゃないですぅ」

     と返せば

    「神事に若い子借りたいって言われてね。お母さん、あんたのことオッケー出しといたから」
    「はぁ!? 何勝手に、」
    「お昼に寄り合い行って来てね」

     問答無用でそう言われ、昼時になったら本当に家から叩き出された。ガン萎え。
     プリプリしながら寄り合い所に行くと、畳敷きの広間には近所のおじさんやおばさんがみっしり詰まっていた。「久しぶりねぇ」「もう結婚したんか?」と飛び交う質問を、社会人生活で培った愛想笑いを駆使して適当に流しながら末席の座布団に座る。
     私の地元では年に一度、邪鬼払いの神事のお祭りがある。男の子は高校生になると、邪鬼を払う男神を降ろす依り代の神官として、地域から一人が選出される。そして白の狩衣姿で馬に乗り、夜の街を練り歩くのだ。観光客もそれなりに来る、地元の一大行事。

    「みんな来たか? じゃ、今年の役の割り振りを……」

     しばらくすると地元の名士のおじさんが仕切り出した。
     そういえば、ここんちの子って、今年高一だったんじゃなかったっけか? ふと思い出し、あの子好きじゃなかったんだよなぁ、と苦々しい気持ちになった。みんなに甘やかされて、偉い偉いって言われて、選民意識まみれの嫌味な男の子だった。
     今年は家柄的にあの子が神官で決定かぁ。こっそりテンションを下げていると、

    「すんません、遅れました」

     と一人の男の子が入って来た。場が俄かにざわつき、私も声のほうを振り返る。
     そこには絶世の美男子が立っていた。
     白のシャツに、素っ気ない黒のズボン。とてもシンプルなのに、それは彼の長い黒髪と青い瞳によく映えていて、まるで神様みたいに美しい。
     小さい頃からの地元の有名人、紅顔の美少年と名を馳せた、和泉守兼定くんだった。私が知る小学生の頃よりも随分と精悍になっていて、少し心が跳ねる。
     そういえば、彼も高校一年生だったっけか。

    「遅いぞ、和泉守んとこのボン」
    「すません。昼休みに抜けて来たんで……」
    「言い訳は良か。全く、そんなんで神官が務まるんかね」

     名士のおじさんが眦をつり上げて当て擦る。和泉守くんはムッと眉を寄せた。

    「オレだって別にやりたいわけじゃ、」
    「あーっ!! いいからいいから、座って兼定くん!」
    「ほら、ここ! 煎餅もあるよ。食べるかい?」
    「や、弁当あるんで……」
    「じゃぁほれ、ばぁちゃんとこ座って食べんね、ほれ、早く!」

     一触即発の空気の中、みんながドヤドヤと畳み掛けて、和泉守くんを座らせてしまった。彼は気勢が削がれたのか、据わった目をしつつもその場で弁当を広げてむしゃむしゃ貪り始める。
     結局寄り合いが終わるまでギスギスした空気が保たれ、大変居心地が悪いまま解散の流れになった。一体どうしたんだろう、あれ……。
     怪訝に思って、一緒に帰ろうと声をかけてくれたおば様たちに尋ねると、帰り道に声を潜めて教えてくれた。

    「会長さん、自分とこの孫が神官に選ばれなかったから、機嫌悪ぃのよぉ」
    「あ、そうなんですか。じゃぁ、やっぱり今年の神官って……」
    「和泉守さんとこの兼定くんになったの」
    「なんでも、会長さんのお孫さん、体育の授業で腕折ったかなんかしたんだって」
    「あぁ……それで」

     怪我をしてたら、確かに役は譲るしかないだろう。納得していると、おば様たちは

    「でもまぁ、こんなこと言っちゃ悪いけど、こっちとしちゃ有難いわよねぇ。神官様はやっぱり見栄えが良くねぇと」
    「そうそう。和泉守さんとこの兼定くんも、ここいらじゃ有名なガキ大将だから心配しとったけど、なかなかどうしてちゃんとやってくれそうやしねぇ。これもきっと神様の思し召しだわよぉ」
    「これで観光客がいっぱい入ってくれっといいけどね」

     と好き好きに言い出す。おば様たちも、結局のところイケメンが好きなのだろう。少しだけ、怪我をした彼に同情した。



     選ばれた神官役の男子は、乗馬の練習を三日ほどした後、一週間の潔斎をして祭りに備える。その期間は宿に泊まり込み、しめ縄を張った部屋から出ず、女性の触ったものを触ることも、女性の作った料理を食べるのもタブーとされる。
     私も女であるので、期間中はなるべく宿には近寄らないようにと言い渡されたが、宿内じゃなくても神事の手伝いは山ほどある。「まだ老眼じゃねぇから、目がよく見えるでしょう」と細々とした作業を回され、てんやわんやだ。
     そんな手伝いに入って四日目の土曜日。お盆に乗った山ほどのおにぎりを持たされ、

    「これ、宿の人に持ってってくれる?」

     とお使いを頼まれた。和泉守くんの潔斎がはじまったので、お世話役の人への差し入れらしい。えっちらおっちら宿まで向かう。
     宿の人に声をかけて上がり框におにぎりを置くと、ふ、と溜め息が出た。
     若いからと散々こき使われて、ちょっと疲れた。
     休憩がてら、少しだけ宿の庭でも散策していこうかしら。この宿の庭なら、女の人はそんなに近寄らないし、サボっていてもそうそうバレないだろう。
     思い立って、てろてろ庭を歩き出す。虫の鳴き声が微かにするけど、概ね静かでホッとする。木の下の大きな石の上に座って、しばしぼーっとする。
     あぁ、このまま寝ちゃいそうだな。ゆっくり瞬きをした瞬間、遠くから誰かが呼ぶ声が聞こえた。
     咄嗟に居住まいを正し、キョロキョロ辺りを見回す。誰もいない。気のせいだろうか、と首をかしげると

    「おーい、そこのあんた」

     とやはり声が聞こえる。どうも宿から聞こえるようで近寄っていくと、部屋の低いところをしめ縄でぐるりと一周張り巡らされた部屋に、和泉守くんが座っていた。声の主は彼だったらしい。

    「えっと、どうかしたの?」
     尋ねれば、足元を指さされる。ハタと目を向けると、そこには教科書らしきものが落ちていた。

    「悪いけど、それ取ってくんねぇか。滑らしたら下に落ちちまって」
    「あぁ、しめ縄からは出ちゃいけないんだもんね、」

     軽く頷き、拾い上げようとして、指が止まる。

    「……これ、今必要なの?」
    「宿題やろうと思ってよ」
    「でも、女の人の触ったもの、触っちゃいけないって確か決まりが」
    「あー……まぁ、今回はイレギュラーってことで」

     和泉守くんはバツ悪そうに頭を搔く。やはり他の人を呼んだほうが、でも目の前にあるのにスルーするのも。うんうん唸って考えて、

    「ちょっと汚くなっちゃっても良い?」

     と聞く。彼がよく理解しないながらも「別に構わねぇけど」と許可を出したので、その場でサンダルを脱いだ。
     裸足で砂利に立ち、直接教科書に触れないよう、両手にはめ込んだサンダルの甲側のほうを使って教科書を挟んで持ち上げる。そして「そこどいて」と彼を襖近くから退避させてから、勢いをつけて教科書を放り投げた。
     教科書は縁側をするする滑って部屋の中に吸い込まれていく。私は「よし!」と一仕事やり遂げた達成感にガッツポーズをし、彼は小さく手を叩いた。

    「おぉ、すげぇ」
    「ははは……」

     ちょっと成人女性がすることじゃなかったかもな、とサンダルを履き直しながら一瞬反省したけど、高校一年生の目には結構カッコ良く映ったらしい。

    「ありがとな。助かった」
    「どういたしまして。神事の間に宿題なんて偉いね」

     私の言に、彼はチラリと不本意そうな顔をした。美人なガキ大将のひと睨み、少しビビる。
     少し子供に言うようになってしまったから、気に障ったのかもしれない。けど、十六歳なんて、いくら身体が大きくてイケメンでも、二四歳の私からすれば子供には変わりないしなぁ。

    「この神事の間、どーせ暇だろうから宿題でもやっとけって担任に言われて」
    「そっか。大変だね」
    「まぁな。古文なんか読んでてもつまんねぇしよ」
    「あぁ、さっきの古文の教科書なの?」

     聞けば、ん、とページを捲ったものを見せられる。遠目からだと少し見づらいので、縁側に上がってしめ縄ギリギリまで近寄って見た。

    「月やあらぬ……あぁ、昔男ね」
    「伊勢物語だぞ?」
    「うん。だから、伊勢物語の別名でしょ?」

     和泉守くんは首を傾げて思案顔である。これは、……全然宿題進んでいないと見た。
    『伊勢物語』とは、平安時代の歌人にして名うてのプレイボーイ・在原業平をモデルにした男の生涯を、他の庶民の物語なども交えて作られた歌物語である。
     恋愛の話を中心に、『むかし、男(ありけり)』という冒頭文から始まる一二五の段から成っており、ここで言う『男』が在原業平だとされていて、これが俗に『昔男』と呼ばれる所以だ。

    「あんた、東京行って国語教師にでもなったのか?」

     私の説明を聞き終えた和泉守くんが言うので、「普通の会社員です」と答えた。
     八歳も離れているから、てっきり私のことなんて覚えていないかと思ったけど、一応顔くらいは覚えているようだ。近所のお姉ちゃん程度のことだろうが。

    「でも詳しいじゃねぇか」
    「古文、それなりに好きだったから。で? これの何が宿題?」
    「これ、次までに詳しく現代語訳してこいって」
    「へぇ。そりゃまた面倒そうな……」

     古文が好きじゃない人にしてみれば、ほぼ苦行の宿題である。

    「なぁ、あんた暇?」
    「暇って……」

     最近、この手の質問を母にもされた気がする。この時期にフラフラしている社会人、よっぽど暇に映るらしい。

    「これ、読んでもよく分かんねぇからさ、あんた暇なら教えてくんね?」
    「え……」
    「この、昔男? の考えてることがちっとも分かんねぇんだよな」

     彼は面倒そうに頭を掻く。私は慌てた。

    「で、でも、和泉守くん、ここは女人禁制で」
    「別にしめ縄越えなきゃ大丈夫だろ。それに、……あんた、どうせここで手伝いサボってたんだろ?」

     う、と口ごもる。

    「なぁ、頼むよ。この宿屋電波入ってねぇんだわ。ネットで調べられねぇから、マジで困ってんだよ」

     このとーり! と拝まれ、ほとほと困ってしまう。ちょっと休憩のつもりが、とんでもないことになってしまった。しかし困っている高校生をこのまま放っておくわけにもいかないし……、というか、サボりを告げ口されても嫌だ。二四歳にもなって近所の人に怒られるの、すごく嫌。
     仕方ない。溜め息をついて言う。

    「和泉守くん、いつも何時ならここにいるの?」
    「あー……学校終わってからだから、多分、夕方の五時なら確実。ってことは、教えてくれんのか!」
    「家に昔のノートと教科書が残ってたらね。その代わり、間違ってても責任取らないよ」
    「恩に着る!」

     思いの外時間を食ってしまったので、それだけ約束するとそそくさと宿を出る。寄り合い場に帰り、「あら、遅かったねぇ。あっちで引き留められちゃったかね?」と言うおば様方に愛想笑いをしながら神事の手伝いに戻った。
     それも終えて、急いで家に帰ると、夕飯もそこそこに自室の引き出しをひっくり返す。

    「古文、古文……あ、あった!」

     教科書と、伊勢物語の現代語訳が載っているノートを見つけ、懐かしさにパラパラと捲る。好きだった教科だからか、それなりに綺麗なノート。けど、やっぱり隅っこには小さな落書きが散見される。そうそう、あの頃こういう絵を描くのが流行ってた。なんて、思い出に浸る心を振り切るようにノートを閉じ、鞄に入れる。
     不思議な二重生活の始まりである。



    「……ここの、ほかに隠れにけり、っていうのの、隠れるは、当時で言う引っ越しだね。徐々に心を寄せて、愛した人が引っ越してしまったっていう話で、」
    「なぁ」

     神事の手伝い終わり、夕方五時。
     縁側に座り、襖越しに小さな声で解説をしていた私の声を、和泉守くんが遮った。なに? と促せば

    「この女、誰?」

     という質問が投げかけられる。

    「んー……この伊勢物語に出てくるのは大体一人として同じ女の人はいなくて、大概名前はないんだけど」
    「マジかよ、全然分かんねぇ在原業平」
    「プレイボーイだからねぇ。あ、でも、この『西の京』に出てくる女の人は二条の后だよ」
    「二条の后ぃ?」
    「そう。『西の京』から……確か『芥河』までは同じ女の人との一悶着だね。この二条の后のことを説明するには、先のこともちょっと読まないといけないんだけど……」

     和泉守くんは唸り声を上げた末に、小さく「……頼む」と言う。納得できないと先に進めないタイプかぁ、と私はノートと教科書を捲った。

    「じゃぁ、まず第五段の『関守』の話をします。良い?」

     それから一時間、六時になるまで和泉守くんと一緒に伊勢物語を読んだ。宿題である部分の読解は全く進んでいないが、枠組みの理解という点では大きな進歩、ということにしよう。

    「それじゃぁ、私もう帰るから。自分でも読めるところは進めておいてね」
    「へーへー」

     気の抜けた返事に、本当かなぁ、と訝しむ。しかし彼は私の視線を意に介さず、しめ縄の向こうでひらひらと手を振って

    「そんじゃ、また明日な」

     と言う。少しだけ、ドキリと胸が高鳴った。その手を振る角度が完璧で、得も言われぬ美しさだったから。
     何をドキドキしているんだろう。いくらとんでもなくカッコ良くたって、あっちはまだ学校に通ってる子供よ? 学生同士でもあるまいし、同級生に二人きりで勉強を教えてトキめくような、邪な気持ちは無しにしなきゃ。
     心中己を叱咤して、手を振り返して家路についた。
     家に続く坂を下っている時、ふと、そういえば「お疲れさま」以外の言葉で人と別れたのは久しぶりだ、と思う。

    「また明日、か」

     ポツリと呟く。本当に学生に戻ったみたいな気分だ。
     暗くなった帰り道、少しだけ暖かい気持ちになった。



     次の日、宿に赴くと、彼はまだ制服のままだった。

    「まだ着替えてないの?」
    「さっき帰ってきたばっかなんだよ。部活早引けして」
    「え、そうなの? 部活あるなら昨日言っといてくれれば、今日は来なかったのに」

     間の悪さに舌打ちしたい気分で言えば、彼は怪訝な顔をした。

    「こっちの都合で来てもらってんのに、変更すんのもおかしいだろ」

     あっけらかんと言われ、そんな当たり前の気遣いになぜか胸を打たれた。
     会社では何を言っても良い相手とされて、地元に帰ってもこき使われて、久しぶりに人に尊重されたような気がしたのだ。

    「……別に、そこまで気を遣わなくても。子供なんだから、もっとわがままでも良いんだよ?」

     心の震えを隠し、大人ぶって言った。しかし彼は鼻白んだように

    「子供扱いすんなよ。つーか、例え子供だって、最低限の礼節くらい弁えてらぁ」

     と言って、学ランを脱ぎ出した。彼が学ランをその辺にほっぽるのを、ぼけっと突っ立って見ていると、ばさり、今度はシャツを脱ぎ始めた。
     学生の象徴のような白くて清潔なカッターシャツが彼の手の中でくしゃくしゃに乱れ、下から黒のタンクトップ、その隙間から少し腰履きのズボンが見える。
     慌てて後ろを向いた。

    「き、着替えるなら言ってよ!」
    「あ? あぁ。悪ぃ悪ぃ、見惚れちまったか?」
    「な……! お、大人をからかうんじゃありません!」

     何が最低限の礼節よ! 弁えた大人は女の前でシャツなんか脱がないっつーの!
     噛み殺した笑いが聞こえ、口惜しい気持ちで下唇を噛む。
     こんなことで動揺してしまうなんて。これじゃまるで、まるで……私が彼を男として意識しているようではないか。
     ぶんぶん首を振って、頭から考えを追い出す。ついでに目に焼き付いた、男らしいながらも少しだけ幼さの残る鎖骨や、肩の筋肉のことも。欲求不満でもあるまいし、子供に欲情するなんて、あってはならないことだ。
     しばらくすると、和泉守くんの「もう良いぜ」と言う声が聞こえた。振り向くと、部屋着に着替えた彼は面白がるような笑みを口元に浮かべたままだった。
     これ以上からかわれないように、意識して不機嫌な顔を保つ。

    「……教科書を開きなさい」
    「なんだ、もう終わり? つまんねぇの」
    「お黙り。今日はもうこれで十分ロスしてる。宿題が期間内に終わらなくて困るのはそっちでしょ」

     時計を示して言えば、肩を竦められた。融通が利かない、とでも言うように。

    「ほら、早く!」
    「へーへー、全くお堅いね。マジで教師なんじゃねぇの?」
    「偏見ばっか言ってないで、早く」

     のろのろとページを開いた彼を見て、説明を始める。
     教科書を眺める伏せられた目元の美しさに見惚れないよう、細心の注意を払いながら。



     そんな、夕方五時からきっかり一時間だけの講義は翌日も続き、さらに翌日……と二人で伊勢物語を読み進め、やっと第六段の『芥河』まで辿り着いた。
     この段は、男が叶わないと知りながらもずっと求婚し続けていた女性を、親の許しなしに連れ出すシーンから始まる。
     男が芥河のほとりを連れて行く道中、箱入りで世間知らずの女は、草の露を見て「あれはなに」と尋ねる。しかし、先を急ぐ男は愛しい女の無邪気な問いに答えない。
     その内に雷が鳴り、雨が降ってきたので、途中にあった掘っ建て小屋めいた戸のない蔵の奥に彼女を押し込め、雨宿りをすることにする。男は蔵の外で弓を背負って番をしていたが、翌朝になって蔵の中を見てみると、女はいない。実はここは鬼の住む蔵で、彼女は夜の内に鬼に食われてしまっていたのだ。女の悲鳴は雷に紛れ、男の耳には届かなかった。
     そうとは知らずに女を蔵に入れてしまった男は、女のいないことを悔しがって泣き、
     
     白玉か何ぞと人の問ひしとき 露と答へて消えなましものを
     
     と詠む。これは、愛しい人が「あれは真珠か何かかしら」と問いかけた時、「あれは露だよ」とそう答えて、自分の身も露のように消えてしまっていたなら良かったのに。そうしたら、こんな悲しみもなかったというのに、という歌である。

    「……急に出て来たな、鬼」
    「そうねぇ」

     不可解極まりない、と言わんばかりの声音に、少し笑う。

    「これは後にも書いてある通り、女性の泣き声を、参内する折に彼女の身内が聞きつけて、彼女を取り返した、という話もあるの。そのことを鬼に食われた、って比喩して言ってるんだよ」
    「つまり、こいつは求婚を受け入れてもらったから一緒に連れ立って逃げたんじゃねぇってことかよ。……クソ野郎だな」

     吐き捨てるように言うので、とうとう声をあげて笑ってしまった。

    「何笑ってんだよ」
    「勝手に連れ出したかは分からないよ。彼女は泣いているだけで、ここに女性の同意云々は書いてないもの。ほら、前に読んだ第五段の『関守』では、彼女は彼が夜に通うのを許していたように書かれてるでしょ?」
    「あー……そうか、ここ繋がってんだっけか」
    「そうそう。なんなら第四段も繋がってるから」
    「ややこしいな……」

     第四段からここまでの話を纏めると、こうだ。
     男は二条の后という大変身分の高い女性に恋をしていて──彼女がまだ清和天皇女御となるずっと前のことではあるが──噂になるのを恐れた彼女の兄達に妨害されたりしながらも、物を贈ったり足繁く忍んで通ったりして親交を深めていた。
     だが彼女はその後宮中入りを果たして、おいそれとは近付けぬ人になってしまった。男は会えぬ苦しさにしばらく泣いていたが、ある日、宮中から彼女を背負って盗み出そうと決意する。
     しかしその際、彼女があまりにひどく泣くので、参内していた彼女の兄達──つまり男から見た鬼だ──に見つかって、取り返されてしまった、と。

    「本当に嫌がっていたのかもしれないし、逃げた後の不幸や不安を思って泣いていたのかもしれない。詳細は当人にしか分からないんだよね。それに、彼女は元より后になるような身分の人だったから……身分の低い男との逃避行なんて、きっと許されなかったんだろうし」
    「そんなもんかねぇ」

     しめ縄の中で教科書を片手に寝転びながら、和泉守くんは、ふん、と鼻を鳴らす。
     恋というのはままならず、理屈ではないものだ。彼はまだそのことを知らないのだろう。鼻息ひとつで恋を一蹴する横顔は、新雪のように無垢であった。
     しめ縄に囲われ、この世の澱を全て雪いだ、美貌の神の依り代。
     彼もいつか、身も世もないほどの恋をするのだろうか。誰の許しも得ないで、思いのままに突っ走る、そういう恋をする日が。
     今の高潔な面差しからは、ちっとも想像がつかない。
     
     ──彼が愛するのは、一体どういう人なのだろう。
     
     私は、

    「恋っていうのはそういうものよ。盲目で、向こう見ずで、身動きができなくて、……それで時々、手遅れだったりする」

     と言う。少し、諭すような声になった。彼は私に一瞥をくれ、

    「知ったような口きくじゃねぇか」
    「あのねぇ。私だってもう良い歳なんですから、恋の一つや二つ、」
    「へぇ。付き合った?」

     と今度は身を乗り出してくる。まるで子供だ、と思って、いや、子供なのだった、と頭の中で訂正。しかしただの好奇心で聞いてきただけの相手に、ペラペラと喋らされるのは癪だ。私は

    「ご想像にお任せします」

     と、ふいと顔を背ける。彼は興が削がれたように肩をすくめた。

    「でもま、その口ぶりじゃぁ叶ったほうが稀なんだろ?」
    「しつこいなぁ」
    「そっちが言い出したんじゃねぇか」
    「そういうそっちはどうなの。学校で誰か、好きな子とかいるんじゃないの?」

     言って振り向くと、彼は冷や水を浴びせられたように口をつぐむ。そして少しだけ目を泳がせ

    「……いねぇよ、そんなもん」

     と言った。その言葉に、心にスゥと風が通ったような心持ちがした。僅かにホッとして、そして考える。
     
     ホッと、って、なんだ。
     私、今、何にホッとしたんだろう。

    「どうかしたか?」

     声をかけられ、ハタと現実に引き戻された。彼は私の顔を心配そうに見つめている。
     私は自分の考えたことが信じられなかった。思わず口元に手を当てる。
     今、私、彼に好きな人がいないことを聞いて、……まさか、安心したの? 
     まさか、違うよね? 流石にそこまで簡単じゃないよね、私。ねぇ。ねぇ!

    「ははぁん、さては俺に見惚れてたな?」
    「ちが、違います、」
    「じゃぁなんだよ。どっか痛ぇのか」
    「いや、大丈夫……」

     喋りながら頭の中に浮かぶ考えを否定し続けていると、彼の手が熱でも測るためか、こちらにまっすぐと伸び、しめ縄を越えようとした。私は弾かれたように立ち上がる。
     
     一瞬、触れられる期待に頬が熱を持って、自分で自分に驚いたから。
     
     和泉守くんはその反応に、面食らったような顔で私を見上げた。その顔は年相応のもので、時々びっくりするほど大人っぽい空気を醸す人と同一人物とは思えない。
     彼は子供だった。紛うことなく、子供であった。なのに、どうして違和感を感じるのだろう。
     まだ大人が守らなければならない、そういう義務のある少年。そんなこと、全部分かっていたはずなのに。

    「きょ、うの講義はここまで! ちゃんと復習しといてね!」
    「は? おい、待てよ、まだ時間」
    「しめ縄から出ちゃダメよ! じゃぁね!」

     一方的に言い、踵を返して宿を出た。逃げるように足を早める。
     ──嘘だ。嘘、うそうそ、うそ。
     坂道を転がり落ちるように駆けていく。社会人になって初めてこんなに全力で走ったかもしれない。けど止められない。止まらない。
     そんなの嘘だ。私が、こんなたった数日で、高校一年生の、あんなに綺麗な男の子に、恋をしているなんて。
     そんなの、絶対、嘘。
     そんなことを考えていること自体が、もう落ちている証拠だ。だけど否定せずにはいられなかった。
     ──だって、こんな恋、叶うはずない。傷付くのが目に見えてる。今ならまだ、引き返せる。だから、
     こんなの、絶対、嘘なんだ。
     
     嘘にしなきゃ、だめだ。



     翌日、死ぬほど気分が重かった。それでもまだ宿題の部分が終わってないし、ドタキャンするわけにもいかないので、重い腰を上げて宿に寄った。宿で和泉守くんに会うと、否応無しに胸が高鳴り、本当に嫌になる。
     彼は私を見るなり、拗ねたような声音で

    「あんた、具合は?」

     と聞いてきた。具合? と首を傾げると、どことなくバツ悪そうに

    「昨日、すぐ帰ったから。具合悪かったんじゃねぇの」
    「あぁ、うん、まぁ……でも、もう大丈夫!」
    「なら良いけど」

     と、少し口を尖らせる。こうして見ると本当に子供だ。だけどそれも、ただただ可愛らしいとしか思えなくなっている。
     もう駄目だ。
     ふと、諦観が湧く。腹を出した獣の気分。降参だ。勝ち目がない。
     もう、好きなんだ。どうしようもなく。欠点に思えるところも、可愛い、愛しいとしか思えなくなっているなら、それはもう、戻れないってことなんだ。
     
     私、この子のことが、好きなんだ。
     
     気付いてしまったらもう、知らなかった頃には戻れない。
     目を細めて和泉守くんを見る。こんなキラキラした気持ち、日々に忙殺されて久しく胸に抱いていなかった。久しぶりに心の底から高揚する感情を大事にしたい気持ちが湧いてくる。
     そして、それと同時に、隠さなければ、とも思った。
     この気持ちは、彼に知られてはいけないものだ。
     だってそうだろう? 八歳も年の離れた私に気持ちを伝えられたところで、彼は困るだけだ。嫌悪すら抱くかもしれない。それが怖かった。
     ──困らせたくない。煩わせたくない。嫌われたくない。
     この土地で、色んな人に愛されながら、健やかに育ってほしい。そうして、こんな神事の間のイレギュラーは、すぐに忘れてほしかった。
     私は彼のことを、きっと会うほどに好きになる。
     大きくなり過ぎた感情は、いつか我慢できずにポロリと口の端から溢れてしまうだろう。
     もう、会わないほうが良い。
     それが懸命だ。
     私は和泉守くんを見て、意識してニッコリ口角を上げる。彼は怪訝に首をかしげた。

    「なんだよ」
    「ううん、なんでもない。さ、やろう。今日は最後まで行くからね! 気合い入れるよ!」

     取り出したノートを叩き、活を入れる。彼はあからさまに嫌そうな顔をした。
     
     その日、私は宣言通りに彼の宿題を完璧にやっつけた。物語の内容を簡単に要約してしまうと、一時間も経たない内に終わってしまった。なんともあっけない終わりで、突然虚しさが襲う。
     最初から、簡単に終わらせておけば良かった。仕事として、感情なんか持ち込まなければ良かったのに。
     和泉守くんは本当の教師に教えられているみたいに、黙々とノートに私の言葉を書きつけている。伏せた睫毛や、顔に降り落ちる髪などの細部は息を呑むほど美しいのに、畳に胡座をかいてちゃぶ台に向かう全体像は、板書を取る学生そのものだ。
     私は夢の終わりを感じて、教科書とノートを閉じた。

    「はい、おしまい。分からないところあった?」
    「あー……いや、」
    「特に無かったら、私、明日からはもうお役御免でいいかな?」

     彼はハタと顔を上げる。明日も会うことを疑ってもいなかったのか、驚いているように見える。
     私は笑い、

    「だってそうでしょ? 私、あなたに宿題を教えに来てたんだもん。それが終わったら、ここに来てもすること無いよ」
    「あぁ、」
    「でも良かった、無事に終わって。神事の手伝いのほうがちょっと忙しくなっててさ。これから時間取りづらいだろうなって思ってたから」

     と畳み掛ける。彼は物言いたげに口を開くが、その先が出てこない。
     私はサッと縁側から降り、彼の顔を見ずに「それじゃぁ、また神事の時にね」と出口に向かった。
     他にどうすることもできなかった。
     私は成人していて、普段はここに住んでいなくて、彼は地元の男の子で、八歳も歳が離れていて、……どんなに願ったって、この恋が叶うことはない。
     なら、傷の浅い内に離れるべきだ。距離を取って、早く忘れるように努めなくては。
     彼にはきっと、もっと相応しい相手がいる。例えば、そう、クラスで一番可愛い女の子。髪なんかサラサラで、色白で、成績優秀で、笑った顔が可愛くて、彼が頼めば、古文なんか私よりもずっとずっと上手く教えてくれる。そういう女の子。
     家に帰ると、自分の部屋に引っ込む前に母と目が合った。

    「どうしたん、死にそうな顔して」
    「……ちょっと、気分悪くて」
    「あらま。まぁ、毎日六時過ぎて、遅かったもんねぇ」

     母は見当違いに私を心配する。この人も、まさか自分の娘が高校生に懸想してるだなんて、夢にも思っていないのだろう。

    「……でも、大丈夫。明日からは、ちょっと早く帰れると思うから」
    「そうなん? なら、今日は早く寝るんだよ。ご飯は? 食べれそう?」
    「うん。ちょっと休んだら、食べる。ありがと、お母さん」

     言って、二階の自室に上がる。扉を閉めて、鞄を床に落とした。中身が床に散らばる。
     息が苦しくて、胸に手を当てる。何度か平手で胸を叩き、落ち着けようとした。上手くいかない。次第に涙が出てくる。辛かった。
     こんな、息もできないほど恋に溺れるだなんて。これではまるで、私のほうが昔男みたいだ。床に転がった教科書を見て思った。
     高貴な身分の相手を愛すけど、これはお前には過ぎたものだと、取り上げられてしまう男。今の私はさながら、もう会えない相手を想ってさめざめと泣く男だ。
     だけど私には、道ならぬ恋と知っていても愛しい人を攫うようなガッツは無い。
     今の私にできることは、彼をいつか恋の中に盗んで行き、蔵に隠してしまう相手が、私が妬む隙もないくらい素敵な人であることを願うだけ。
     その場にへたり込む。
     涙が古文のノートを濡らす。
     いつかの日に、彼とプレイボーイだと笑った、恋に直走れる物語の主人公が、この時ばかりは羨ましかった。



    「神官、宮出しーっ!」

     地元の青年団の誰かの声が聞こえる。私は沿道の観光客に混じって、彼が通るのをぼんやりと待っていた。
     神事の前までは何くれと用事もあったのだが、最中はすることがない。おば様方に「外行って見てきて良いよぉ」「片付けはどうせ明日になるし、女衆はこのまま帰っても平気や」と促され、こうしてのこのこと沿道に立っている次第だ。

    「今年の神官、和泉守なんでしょ?」
    「やばーい、絶対写真撮る!」
    「動画のが良くない? あとでアップする」

     隣の女子高生が言うのが聞こえた。彼と同じ学校なのかもしれない。
     制服姿の彼女たちをチラと見る。弾けんばかりの瑞々しさに、自分がとても草臥れた生き物に思えた。
     制服を脱いだあの瞬間から、私は老いと戦っていたのかもしれない。敵うわけもないのに。
     空虚な心を抱きながら、沿道に吊るされた提灯の、柔らかい橙の光を眺める。その内に遠くから拍子木の音が聞こえ、それが段々とこちらに近づいて来た。
     ──この道に、神が通るのだ。
     
     わぁ、と道の先で歓声が上がる。拍子木と、微かな鈴、それに馬の蹄が道を叩く音。
     やがて先導している、拍子木を持った水干姿の青年団の一人が見えて来た。その後ろに御幣を振る人がいて、その後ろにようやく和泉守くんの乗った、鈴をつけてめかし込んだ黒い馬が通る。
     狩衣を纏い、烏帽子をかぶった和泉守くんが人波の向こうに見える。手には扇を持ち、街を闊歩しながら場を清めるように振っていく。
     万一に備え青年団の何人かで馬を取り囲んでいるので、私から見た彼は人に担がれた神様のように映った。

    「ねぇ、ヤバイかっこいいんですけど!」
    「それなー。顔の造形が良い~」
    「ほんと神。あのビジュアルは神」

     女子高生たちの色めき立つ声や、有象無象のざわめきが、彼が近づくほどに遠くなった。
     隣の人の熱や、立ちっぱなしだった足の痛み、全てが遠く、別世界のことのように私から離れていく。
     鈴の音が大きい。滑らかに動く扇に隠れていた彼の青い瞳が見えた。額に少し汗をかいている。
     血が沸き立つ。不意に涙しそうで、慌てて舌の先を噛んだ。
     カン、高く聞こえる拍子木の音。
     目が合った。
     瞬間、彼が扇の隙間で微笑んだ。
     胸の真ん中を、何かが突き抜ける。
     風のようなものが。
     ──あぁ、神様。
     
     目の前を通り過ぎていく神様を見送って、私は上気した頬のままホッと息をついた。
     心臓がばくばくいっている。知らず、息を止めていたようだった。

    「ねぇ、今こっち見た……?」
    「見た! 笑った!」
    「よね!? 見たよね!?」

     姦しい学生の声を置いて、沿道の列を離れた。観光客の間を縫い、出店のあわいを抜け、熱に浮かされたように道を歩く。
     もう胸がいっぱいで、このまま家に帰る気分じゃない。少し熱を冷ましてからでないと。
     そうやって歩いていると、いつの間にかあの宿屋にいた。どこをどうやって歩いて辿り着いたのか分からない。まるで呼ばれたみたいだ、と自嘲して、少しだけ散策していこうと中に歩を進める。
     入り口から進んで、途中で折れる。そうすると庭に出る。砂利を踏んで、大きな石を撫でてから、縁側に座った。宿の人は全員外に出ているのか、なんの気配もしなかった。
     今日まで和泉守くんが生活していた部屋。襖が大きく開け放され、中のしめ縄が風に泳いでいる。
     ここに彼が戻ってくることは、もうないのだろうな。ぼんやり思う。
     ふと見上げると宿の真上に月が出ていた。
     
     私は思う。
     これは弔いだ。
     神様と私の、ささやかな逢瀬の末に産まれた淡い気持ち。それを、神様と会ったここで見送る。

    「お酒でもあったら、もっと様になったんだけどねぇ……」

     空の両手を笑って、宿の一室をひたと眺める。
     和泉守くんと過ごした奇跡のような日々が思い起こされ、胸を満たした。
     やがて涙が滲み、ぱちりと瞬くと頬を流れた。夜風が軌跡を冷やして、寂しさに拍車がかかった。
     
     恋が叶わない時って、こんなに寂しいものだったんだな。
     恋をするの自体が久々で、そんなことも忘れていた。

    「終わっちゃったなぁ……」

     口の中で呟いた時、砂利を踏む音が聞こえた。
     ハッと縁側から降りて見ると、そこには白い狩衣の男が立っていた。

    「い、ずみのかみ、くん……」

     呼びかけると、彼は大股で近付いてくる。肩で息をする彼は鬼気迫る様子で、思わず一歩退いた。

    「ここだと思った」
    「え、」
    「あんたは、ここにいると思った」

     額の汗を袖で乱暴にぐいと拭って彼は言う。

    「練り歩き、もう終わったの?」
    「あぁ。戻ってすぐ、走ってこっちに来た」
    「そっか、」
    「……さっき、目ぇ合ったな」
    「あ、うん……気付いてたんだ」
    「あんたのこと、探してたから」

     その言葉に、息が止まった。
     いや、違う、勘違いするな。これはきっと、急に一方的に来なくなった私に、恨み言の一つも言いたくて、とか、きっとそんな話だ。それか、どれだけ良い方向に考えても、精々宿題のお礼とか。
     私は歪んだ顔を見られないように伏せて、

    「そ、うだったんだ。なんか、言いたいことでもあった?」
    「や、」
    「あ、宿題! どうだった? 先生、あれで良いって……」
    「おい!」

     突然大きな声で遮られ、肩が震える。
     おそるおそる見た彼は、思い通りにいかないことに駄々をこねるみたいに、手で髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。

    「茶々入れんなよ……」
    「ご、めん、」
    「こっちだって、ちったぁ緊張してんだ」

     緊張、と小さく鸚鵡返し、なんの話だろうと心中首をかしげる。話が見えない。
     しかし和泉守くんはわけの分からないままの私を置いて、すぅと一度深く呼吸すると

    「あそこにいると、あんたの声を思い出す」

     と言った。彼の指が宿の部屋を指し、それからゆっくりと体の横に降りる。

    「あんたが、オレに恋を説く声だ」

    『恋っていうのはそういうものよ。盲目で、向こう見ずで、身動きができなくて、……それで時々、手遅れだったりする』
     
     自分が嘯いた言葉が思い起こされ、急に恥ずかしさが湧いてきた。

    「あ、あの時は、変なこと言ってごめんね、ちょっとテンションがおかしくて……」
    「あんたはどうだか知らねぇが、オレは手遅れにはしねぇ」
    「え?」

     顔を上げる。
     月明かりに照らされて、彼の頬に影が差す。
     青い瞳が鮮烈な輝きでもって私を見下ろしている。

    「あんたが好きだ」

     彼が言った瞬間、時が止まった。
     信じられない思いで棒立っていると、

    「……もう触っても良いんだっけか」

     と彼が言う。

    「……え、」
    「神事。終わるまでは、女に触っちゃいけないって」
    「え、と……ど、うだろう」

     神様然とした男の子が、私の頬に手を伸ばす。私はそれを仰け反って避けた。
     慌てて距離を取り、目を丸くして彼を見る。

    「な、何、今、」
    「何って」
    「まだ返事してないでしょ!!」

     絶叫すれば「じゃぁ駄目なんか?」とポツリと言われる。

    「だ、めっていうか、そうじゃなくて、いや、だって君、私たちはすごく年が離れていて、」
    「知ってる」
    「君は高校生で、私は社会人で、こんなことは到底許されることじゃないっていうか、」
    「……」
    「ほら、それに、君は見目も麗しいから、その内に可愛い同級生の女の子と付き合うだろうし、」
    「……」

     彼が深淵を覗き込むような無表情で、言葉を発さず私をじっと見るので、私はなんだか後ろめたい心地がしてくる。
     なぜ、私が責められているのだ。
     私は、私は正しいことを言っているはずだ。
     間違っていないはずだ。

    「……こんなのは、一夏の、夢だ。私が少し都会に出ていて、ここら辺じゃあんまり見ないような雰囲気でいるから、惑わされてるだけで……大人になったら、こんな女はどこにでもいる、路傍の石だって、すぐに気が付く。だから、こんなところで若さを無駄にしないで、」
    「恋って、そういうもんなんじゃねぇの」

     彼が言った。
     震え声で言い募る私のあがきを、ただ一言で両断する。

    「あんたが言ったんだぜ。盲目で、向こう見ずで、身動きができない。そういうのが恋だって。なら、オレがそう思ってるのを、あんたが否定する権利は無くねぇか」
    「けど、」
    「あんたが言って良いのは、はい、か、いいえ、か、……そんだけだろ」

     手遅れにしたくねぇんだよ、あんたもうすぐ東京帰っちまうんだろ、と重ねられ、私は大いに動揺した。
     心が振り子のように大きく揺れ、彼が私の手を取ったことで、その揺れ幅はさらに大きくなる。
     目の前がグラグラと揺れる。
     何もかも分からない。
     彼の手が触れていることしか。

    「なぁ、駄目か……?」

     だめだ、だめだよ、だめだってば。
     頭の中で理性が金切り声を上げて、私を止めようとしている。
     受け入れちゃだめ、突っぱねなきゃだめ、この手を払って、押しのけて、ほら早く、さぁ、さぁ!!

     だけど心の声に反して、私の身体はピクリとも動かない。
     蝋で固めたみたいに立ち尽くす自分が信じられない。
     唯一動いた口は奇声を発するでもなく、そぅっと顔を寄せてきた彼を受け入れるように少しだけ開かれた。
     くっついた唇から蜜に似た毒が入り込んでくる。
     そこから自分の体がぐずぐずと溶けて、爛れていくようだった。

    「なぁ、」

     口を離した彼が言う。もう少しも待てないという顔で。

    「あんた、狩衣の脱がし方、分かるか?」

     ──あぁ、神様。
     身も世もない恋って、なんて無様で、滑稽で、それでいて、なんて、芯から震えるほど気持ちがいいの?
     
     私がこくりと一度頷くと、和泉守くんは私の腕を取り、そのまま宿の部屋に押し込んだ。
     その際に足が引っかかって、しめ縄は外れて、ふつりと切れてしまった。



    芥河を越えろ(神様と混ざる日)



    1000_cm Link Message Mute
    2022/06/04 21:14:15

    芥河を越えろ

    pixivからの保管用です。
    神事の大役に抜擢された、地元で評判の美少年・和泉守くんの家庭教師をする現代パロディ話です。

    初出/2019年9月20日 21:27
    #刀剣乱夢 #兼さに #現パロ

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