【新刊サンプル】審神者ちゃん無双! 〜記憶のない主と刀の90日TA〜
「あなたには■■■■を使って、令和へ■■■■に行っていただきたいのです」
誰かが私に言った。私はそれを、ああ、あれが適用されるの、と瞬時に理解して頷いた。
「連れて行ける■は■■■まで。わたくしとしましては、■■■を済ませた■である■■■■■には必ず付いて行っていただきたいと思っています。■■■の■■にもっとも慣れ親しんだものが付くのが、一番リスクが低いので」
そういうものか。説明の半分も聞き取れないにもかかわらず、私は納得して頷いた。
「受けていただけますね?」
有無を言わせぬ厳かさで、相手が言った。顔は見えない。ただ、獣のように光る二対の眼だけがある──。
◆
テレビ局に勤める友人に拝み倒されて渋々テレビに出たせいで、以降職場でのあだ名が、番組名と同じ『ハタメシ』になった。
働く人のお昼ご飯を紹介していく番組で、よりにもよって公共放送のゴールデンタイム、それも社長直々に広く社内メールで知らしめられた上での放送だったので、多くの社員の目に触れたのだった。社長め、余計なことを。
まあ、それでも皆さん、いい大人なのだし、近い内にお飽きになられるでしょう……と、静観していたら、なんと放送から一カ月がたった今でも『ハタメシ』呼ばわりが続いてしまっている。
やれ「ハタメ~シ、こないだの資料ってまだ手元にある?」だの「フォルダ名『ハタメシ』に入れといたから」だの「ハタメシさん、またコンビニのサンドイッチですか」だの……。ほっといてくれ。
メールを見ていない社員さんには、本名と全く違う呼び名で呼ばれていることで無用な気を遣わせてしまうし、営業の話のネタに使われたりもするので、初めてお会いする方にまで「ああ、あなたがハタメシさん!」などと言われ、名前だけが一人歩きしてしまっている現状。時々、なんでそう呼ばれてるか知らないけど右に倣っておけば間違いないだろう、という雰囲気で呼ばれることすらある。まるで逸話や語源の分からない妖怪みたいだ。
だんだん自分が自分でない生き物に思えてきたな。拒否のタイミングも逸してしまった感があるし、もしかしたらこれ、今後このまま末長く『ハタメシ』として生きていかなくてはならないのだろうか……などと、仕事とは全く関係のないところで悶々とする日々である。
しかもなお悪いことに、このあだ名が付いてからというもの、どうも周囲には私がマスコット的存在に見えている節があり、仕事を頼むハードルが下がっているようなのだ。よって、残業が続いている。
いや、分かる。残業が多いのは私が毅然と断れないからであって、困ってる人を無視して通るとムズムズしてしまうタチなせいでもあるから、別にこのあだ名のせいだけじゃない。けど、せめてもうちょっと気に入るとか、馴染むあだ名だったら良かったのにな、とは思う。自分に馴染むあだ名ってどんなものか、ちょっとすぐには思いつかないけれど。
「ありがとうございました!」
昼食調達のために、社屋の向かいにあるコンビニに行くと、店でよく見る、大学生くらいの感じの良い赤眼鏡のイケメンがにっこり笑って言ってくれた。荒んだ心がほっこりする。
あのあだ名を知らず、私を色眼鏡で見ない赤の他人だけが最近の癒しになりつつあることを、心中健康に悪いと自覚しながら礼を返して、会社近くの小さな公園に向かった。前はデスクで食べていたけど、いい加減からかわれるのも煩わしくて、最近はずっとここだ。夏になる前に騒ぎが収まるといいのだけど。
はあ~……思わず重たいため息が出てしまう。
私だって何も好きこのんでコンビニのサンドイッチ食べてるわけじゃないんですよ。時間がなくて面倒だから、自炊から遠ざかっちゃってるだけで。作っても、自分しか食べる人いないのって、費用対効果が薄い気がしちゃうんだもの。
もはやおふくろの味より食べ慣れたハムサンドを飲み込んで呟いた。
「早く終わんないかなぁ」
何が、とは取り立てて思わなかった。ただ、何もかもが面倒だった。
仕事を終え、仕事場と最寄りの連絡駅に着く。乗り換えの際、改札向こうにあるささやかな駅ビルが目に入り、そういえばSNSで話題になっていたアイブロウペンシルを試してみたかったのだ、と思い出した。百均なのに優れもの、という謳い文句に、そういえばここに店があるな、いつか寄って見てみようと思っていたのだ。
急遽改札を出て、駅ビルのエスカレーターの流れに乗り込んだ。上階に上がり、頭上の案内を目印にコスメの棚に向かう。品揃えの豊富さに圧倒されつつ進んで行くと、目当ての商品を見つけた。手に取ると、それが最後の一品だった。
「お、ラッキー」
独りごちて、手に大事に握る。一人暮らしだからか、最近とみに独り言が激しくなっている気がする。周りをチラと見て誰にも聞かれていないことを確認したものの、気をつけなきゃ、と心に刻む。
そのまま横にスライドして棚を順々に冷やかした。コスメ、梱包材、掃除用具、文房具……へー、最近こんなのまで百均で売ってるんだ。目に新しくて、楽しく見て回る。
食器のところに差し掛かると、ふと和風のレンゲが気にかかって手に取った。これ可愛いな、桜が付いてて。思ったものの、既に家は洋食器で揃えてある。レンゲなんかあってもそうそう使わないしなぁ。そもそも私はこれからもコンビニ弁当で生きて行くのだからにして、食器そのものが無用の長物。名残惜しく棚に戻し、その場を離れた。
一体いつからこんな味気のない生活になってしまったのだっけ。ちょっと前まではもうちょっと……と、他の棚を物色しながら考えていると、棚の一番上、三段に積まれたワイヤーバスケットが目に入った。
着替えの収納にいいかも、と手を伸ばして一番上の一つだけを取ろうとするが、肩に掛けた硬い通勤カバンが邪魔をしてなかなか上手くいかない。とうとう背伸びをして網に指を引っ掛けた時、バランスを崩した足首がかくりと落ちた。
まずいと思ったが、とっさに指が抜けず、やっと抜けたと思った時には、バスケットが頭上で大きく傾くところだった。
落ちる──!
慌てて押し戻そうと手を伸ばしたら、それより早くバスケットを抑えた手があった。革ジャンから伸びた、薬指にシンプルな銀の指輪がはまっている、大きな右手。私の頭なんか、軽々片手で掴めそうなくらいの。
「あっぶね……」
誰かの低い囁きが真後ろから聞こえた。手を目線で辿るようにして振り返ると、男の人が立っていた。特徴的な長めの前髪と裏腹に、後ろはスッキリと刈られた短髪。店内の真白い蛍光灯のせいで、私を見下ろす顔には濃い影が落ちている。しかしその影も、彼の高い鼻や、長い扇型のまつげ、凛々しい眉なんかは隠しようもなく、私はポカンと口を開けて彼を見上げた。絶世の美男子だ。
彼は私の食い入るような視線に気づくと、いやに緊張した様子で居心地悪そうに目をそらし、棚に押し戻したバスケットからそーっと手を離す。そうして二、三歩退くと、くるりと踵を返して、まるで逃げ出すような勢いで去ろうとする。
「あ、あの! ……ありがとう、ございます」
慌てて呼びかけ礼を言っても、彼は背を向けたまま。しばらく待って、やっとのことでぎこちなく背中越しに右手を振ってもらえた。けど、それだけ。彼はそのまま無言で去って行った。早足に。猛スピードで。……照れ屋さんなのかな。呆然と背中を見送って思う。
ああ、びっくりした。助かった。もういい大人なのに、たんこぶこさえるところだった。しかし……背が高くて、滅多にお目にかかれないレベルのイケメンだった。眼福だったなあ。もう一回じっくり見てみたいくらい。この近くで働いてるのかなあ、それとも、ただの通りすがりかなあ。……また、会えるといいなあ。
ついさっき醜態をさらしたばかりだというのに、妙に浮わついた気分で思う。久しぶりに豊かな気持ちになった。
そこでは結局、当初の予定通り、ペンシルを一本買っただけで帰った。
コンビニで買ったお弁当を片手に自宅の鍵を開け、身を滑り込ませるようにして中に入る。今日は親切にされて気分が良かったので、デザートにスフレプリンも買ってしまった。ふふふ。
音が無いと一人の寂しさが襲いかかってくるようなので、パソコンで動画サイトを立ち上げながら、着替えてご飯を食べつつ、スマホをチェックする。見れば親友のきぃちゃんから『マジ最悪 同僚が仕事ミスった』という愚痴メッセージが入っていた。
『お疲れ~』
『ミスっていうか、仕方ないっちゃ仕方ないんだけどさ~ もっと良い対応できたんじゃないの? っていう』
『お客様対応ミスっちゃった感じ?』
『そーね。クライアントがね、ちょっとご立腹だよね』
『あらら』
『おかげさまでこっちが残業で~す』
「うわ、最悪じゃん」メッセージの応酬を見て、思わずひとりごちた。再度『本当にお疲れ』と労いを送っておく。
『ま、いいんだけどね。わりと残業好きだし』
『きぃちゃん、ワーカホリックだよね。前、夜勤も結構好き、とか言ってなかった?』
『そうだっけ? そっちはどうだった?』
その問いに、少し悩む。帰りに会ったイケメンのことを報告しようかとも思ったのだが、どうなる予定もない相手のことを噂するのは憚られる気がした。考え直して、
『いつも通り。まだハタメシ呼ばわり続いてるよ~泣』
と返す。それに、きぃちゃんは床に転がって大笑いする熊のスタンプを返してくれた。この件に関しては、もう散々愚痴は聞いてもらった後なので、笑い飛ばすターンに移行したのはありがたい。きぃちゃんがこういう反応するなら、会社でもそろそろ古いネタとして終わるかな。そんな希望が見えてくる。
やっぱり、今日結構いい日だったかも。私に食べられるのを待っているスフレプリンを横目で見ながら、ふふ、と幸福に頬を緩めた。
◆
男は煌々と光るスマホから顔を上げ、路地裏の隅からマンションの一室を見た。三階、三つ並んだベランダのど真ん中。両隣の部屋に人の気配はなく、ひっそりとしている。誰も住んでいないのだ。
カーテン越しにぼんやりと、中で人が動く気配を感じる。道路に面したここのベランダは、太い手すりを刺しただけの簡素なもので、少し目を凝らせば中の様子が丸分かりだ。築二十年以上のマンションは、建物の造りからして現代よりずっと防犯意識が薄い。
あそこの家主のことはよく知っている。この一カ月、彼女がテレビに出たその日から、ずっと追いかけてきた。
『どう? マズそうだった?』
耳を飾るイヤリング型のイヤホンマイクから、アルトの声が柔らかく尋ねてくる。それに男は
「いや……一回くらいなら平気でしょ。ニアミスだし、バレてないよ。多分ね」
と返しながらスマホに目をやる。画面には先ほどまでしていた彼女と自分──今は『きぃ』という彼女の親友を装っている──のメッセージのやり取りが映し出されていた。少なくとも文面からは、こちらの尾行に気づいた様子は見受けられない。
『ならいいんですが……』
先ほどとは別の声が不審そうに割り込んだ。作戦が失敗しやしないかと、これはいつも気を揉んでいる。
「大丈夫だって。接触も一瞬だったし、そんなに心配しなくても。向こうはこっちが何してるかなんて、なんにも分かってないんだからさ」
『それはそうですが……』
「とりあえず、今日はこれで一旦撤収するね。あとは家から見張りでいいでしょ」
『了解』
返事を待ってからスマホを尻ポケットに仕舞うと、男はゆっくりと歩き出す。彼女が住まうマンションから、道路を二つ挟んだマンションである、自分たちの仮の根城に帰るために。
◆
エクセルで数字を入力していると、自分がなんだか途方もない大きな組織の歯車になったような感覚がする。止まることを許されない、大行進の中にいるような。そうして少しずつ疲弊していく。
朝方に買った甘いコーヒーでも脳みその疲れが回復しなくて、これはそろそろ潮時だな、と目線を時計に向ける。やはり昼時だった。
「ご飯行ってきますね」
部署に唯一残っていた部長に告げ、カバンを持つ。最近、煩わしさから昼食の時間を遅くしているので、部署をカラにしないように昼時をみんなとずらしている部長と二人きりになることが多いのだ。
するとその時、総務部に人が駆け込んできた。振り返ると、入社して一カ月弱の新入社員が。彼は私を認めるや否や
「ハタメシさん、すいません、第二会議室にお茶三つ!」
と出前のごとく頼んで、再び風のように走り去って行ってしまった。
ポカンとしていると、部長は少し申し訳なさそうな顔で言う。
「悪いんだけど、やってからお昼行ってくれる?」
仕方なくお茶を用意して第二会議室まで向かった。中には先ほどの新入社員を含めた、顔見知りの三人が鎮座して難しい顔をしていた。
えっ、単なる社内会議でお客もいないくせに、身内に茶を入れさせる神経が分からん。思いつつ、それぞれの前に茶を置いた。が、礼どころか返事もない。なんなら一人はペットボトルを持参していた。これは一体、なんのお茶なのですか……? 虚無の気持ちでお盆と共に部屋を出る。
なんて日だ。
例のごとくコンビニに行き、あのイケメン眼鏡青年ににこやかに対応されても、気分はちっとも上がらなかった。
いや、別にいいんだけど。いや、よくないけど、百歩譲っていいことにするとして。お礼くらい言おうよ!? 三人もいたんだから一人くらいは言ってくれてもよくない!? 世界の終わりか!? 無人か!? 砂漠か!? そもそも会議=お茶、みたいな構図がよくないんじゃないの!? そういう、そういう固定観念の踏襲が、不要な業務を作ってるんじゃないんですか、改革しようよ改革! そもそも一番の後輩にお茶出し業務を総務に連絡させるのからしてもうダメ! 全てがダメだよ!! 本当にお茶がほしかったら貴様が総務に言いに来~~~いっ!!
ドカッ、と定位置の公園ベンチに座り、燃え尽きたボクサーのごとく膝に伏す。覚えていないほど昔から、大事にお守りのようにしている指輪型のネックレスを服の上から握りしめ、落ち着こうとした。
「っづぁ~~~……褒められたい」
それでも、おじさんのような唸りと共に、つい渇望の祈りが口をついて出てしまう。と、ぶふ! と誰かが吹き出した音がした。
うそ、私以外、誰もいないと思ったのに!
音のしたほうを振り返ると、ちょうど公園の入り口に背の高い男の人が立っていた。しかも遠目から見ても分かるほどのイケメン。明らかに、しまった、という顔をして口元に手を当てている。
火がついたみたいに顔が熱くなっていく。よりにもよって男の人、それもおじさんでなく、年若いイケメンに聞かれていたなんて。
とっさに場を移ろうかと思ったものの、それも気にさせそうで躊躇われる。仕方なく「えへへ……」と笑って会釈なぞしてみたら、向こうも決まり悪げに会釈を返してくれて……っていうか待って。ちょっと待ってくれ。私すごく重大なことに気がついた。
あの人……昨日のあのイケメンではない?
あれ、昨日私を百均でたんこぶから救ってくれた、あのイケメンではない?
卵型の輪郭。きっちりとうなじの刈り込まれた艶やかな黒髪。凛々しい瞳。そして何より、見覚えのある革ジャン。
間違いようもなく、昨日会ったあの彼だった。
「ぁぅ、あ、うっ……」
気づいた途端、呻きが喉にへばりつく。もう一度会えて嬉しい気持ちと、昨日の奴だと気づいてほしいような気持ち、絶対に気づかないでほしい気持ち、とにかく色んな感情でぐちゃぐちゃだった。
違うんです、普段はこんな、こんな感じではなくて、流石にもうちょっと大人の女性といいますか、ちゃんとしてるっていうか、生活に支障をきたさない程度の分別と良識は持ち合わせているつもりで、いや二日連続の失態に全然説得力がないのは分かってるんですけど、その、あの。
頭の中では無数の言い訳が並び立ったが、どれ一つとして舌には乗らなかった。だってそんな、言い訳するほどの仲じゃないし、そもそも私のことを覚えているかどうかも分からないし。
身動きできずに動揺していると、彼はすーっと私に近づいてくる。なぜだか、怒られる! と思って首をすくめて身構えたが、彼は私の前を横切ると、そのまま公園を通り過ぎ去って行った。最後に私のほうをチラと見て、もう一度、気まずげな会釈をするのを忘れずに。
私はその背中を呆然と見送り、情けなさに涙を呑んで思った。
ああ、あれ、絶対気づかれてたな……と。
世界とタイミングを呪いながら帰宅して、味気のないコンビニ弁当をつついた。あんな情けない偶然があるだろうか。
しかもあんな、ショートカットになりようもない公園をわざわざ横切って行くとも思えないから、きっと彼もあそこで休憩か食事か何かをする予定だったのだろう。
二つしかないベンチを分け合う前に彼が「隣いいですか」と聞き、私が「どうぞ」と言う。そこから「あれ? 昨日の……」「ああ! 偶然ですね! 昨日はありがとうございました……」から始まって二人並んで食事をする、そして恋が始まるパターンもあったかもしれないってのに、私ときたら! いや、それもそうだけど、彼からしたら休憩場所を奪われたようなものだろう。普通に悪いことをしてしまった。自分が笑ってしまった女の隣に座るの、気まずいもんな。すみません、私がちょっと人目を憚らない大声独り言女なばっかりに……!
いや、でも待って? すごくすごくポジティブに考えて、だ。きっかけはどうあれ男女が一組出会ったのだから、もしかしたらここから恋が始まる可能性も、万が一、億が一、無きにしもあら……あら……いや、始まらないな。どうポジティブに見積もっても始まらない。私が絶世の美女とかならともかく、普通にヤバそうな凡人とイケメンでは恋は始まらないんですよ。
はぁ~、深いため息が漏れる。いつもならそこそこ楽しく見れるゲーム実況も、今日は右から左に抜けていくばっかりだ。今日に限って、いつもレスポンスの早いきぃちゃんから返事も来ない。この惨事を聞いて慰めてほしかったのに、画面に映る最後のメッセージは
『聞いて~ イケメンの前ですごい醜態を晒してしまった… 悲しい』
という私発信のもの。昨日残業だと言っていたから、もしかしたら今日も忙しいのかもしれない。最近つくづくタイミングが悪い。
私は脱力して首を振った。
「もぉ~、本当に最悪の日だよ~」
◆
部屋があった。室内を満たすのは、全てをつまびらかにするような明かりと、微かな時計の秒針の音のみだ。
部屋には三人の男がいた。二人は向かい合っていて、その内一人は足を肩幅に開いて仁王立ち、足元に尻尾の大きな小麦色の動物を従えていた。もう一人は正座をして、男の前で項垂れている。
そして大きな窓の前には、少年と青年の境目にある、赤いフレームの眼鏡をかけた男が一人、窓に向かって椅子に座っていた。彼はカーテンとカーテンの境目、薄く開いた隙間を、何か観察でもするようにじっと見つめているのであった。
一人立ち尽くしていた男は言った。
「お前、なめてんの?」
目の前で正座する相手は、大きな図体を必死に丸めて縮こまっている。だがそんなポーズだけでは、男の怒りは収まらない。
「ただでさえデカくて目立つんだから、視界に入んなってあれほど言ったじゃん。それを? 独り言にわざわざでかい声で反応して? 見つかりました? 本当にマジで仕事なめてるでしょ」
相手は珍しく反論せず、神妙な様子で床をじっと見ている。男は、ケッ、と心の中で呟いてため息をついた。
「この仕事失敗したら、どうなるか分かってんの?」
「悪かった……」
「悪かった、じゃ、すまないんだよ! 主の命がかかってんだから!!」
男──加州清光は吠え、正座する相手──和泉守兼定を強く詰った。
話を少し巻き戻そう。
ある日、政府から派遣されている本丸付きの管狐・こんのすけが、加州清光の主の執務室に、特別任務の話を携えやって来た。
「審神者様には御供制度を使って、令和への出向調査にあたっていただきたいのです」
「出向調査……?」
「ええ。具体的には、令和にしばらく滞在して、生活をしていただきたいのです」
「生活……え、それだけ?」
「はい。基本的には」
なんでも無いことのように言って、こんのすけは「因みに」とおもむろに書面を差し出した。
「報酬はこのような形になってございます」
「あ、はい、確認します。……っ小判、ひゃくまっ……!!」
あまりの高報酬に、主と、その時近侍だった加州は揃って目を剥いた。主が震えて問う。
「ど、な、何がどうしたらこんな高報酬に……?」
「任務の詳細は、任務を引き受けてくださる方でなければお話しできません」
「えぇ? 任務内容も知らずに、引き受けるかどうかなんて判断できるわけないじゃん」
「規則ですので」
「うーわ、うさんくさ」
加州が当然の理論を展開し、野次を飛ばしても、目の前の頑なな管狐は一向に口を割る気配がない。
なるほどね。うまい話には当然、言えないような裏があるってわけだ。主と目を見合わせる。彼女は苦笑していて、この要請はスルーするしかないね、と二人で暗黙のうちに確かめ合った。
しかし、そこで予期せぬことが起こった。
こんのすけが地に伏して頭を下げたのだ。
「ちょ、何してんの、こんのすけ。頭上げなよ」
「いいえ、今日は元より、私にできることならなんでもする所存で参りました。「うん」と言っていただくまで帰りません!!」
「えぇ……?」
粘られても。加州は鼻白んだ。しかしこんのすけの演説は止まらない。
「他にお願いできる方がいないのです! 詳しい条件こそ申し上げられませんが、今の現場に、審神者様がいてくださったらどんなに心強いことか!」
「現場がどーとか知らないよ。主の現場はここだから」
「なんと冷たいことを仰るのか!! それでも時代を守護する刀剣男士ですか!?」
「いや、冷たいとかじゃないじゃん。ていうか、ここに主を配属したのはそっちじゃん」
「そう仰らず、どうか助けると思って、どうか……!」
聞いちゃいない。いよいよ首根っこを捕まえて外に放り投げるしかないか。加州が思っていると、主がおずおずと言った。
「そんなに困ってるの?」
ギョッとする。こんのすけが顔を上げた。
「はい! 困っています!!」
「ちょちょちょ、ちょっと、主! まさか受ける気じゃないよね!?」
「でも清光……」
「こんなのいつもの政府の常套手段でしょ!? 主が行かなくたって絶対現場回るって! こいつら楽したいだけだって!」
「すごくすごく困っています!!」
「おい、黙ってろこの狐!」
尻尾を股に挟んだこんのすけと睨み合う。
両者一歩も退かないでいると、先に主が折れてしまった。
「……分かった。いいよ。仕事受けます」
「ありがとうございます!!」
「主!!」
「ごめんって。でもさ、清光。小判百万あったら、すっごく助かると思わない?」
「報酬の価格は危険度に比例してるんだよ! 何かあったらどうすんの!」
「でも、さっき生活するだけだって……」
「いやいやいや、どう考えても騙されてるでしょ!?」
昔から、彼女はお人好しだ。というか、こんな時空の狭間に突然、霊力が高いから、という理由で連れて来られ、粛々と業務をこなしている審神者は大体そうだ。
その中でも特に主は押しに弱く、どこか自己犠牲的で、自分が飲み込んでしまえばそれで済むと思っている節があった。
加州は彼女のそういうところを我慢強いとも思っていたし、集団の中で割を食う気質だとも評していた。だから、こうしてなるべく注意するようにしていたのに!
「本当に本当にありがとうございます、審神者様!」
「まあ、困ってるなら、お互い様だしね」
「これで、『囮』の成功確率が上がります!!」
「そっか、良か……え? お、おとり?」
「はい! 審神者様には、ただそこで生活をし、霊力を垂れ流していただければ!!」
主はピタリと動きを止めた。ああもう、だから言わんこっちゃない!
こんのすけはそこでやっと、朗々と調査内容をつまびらかにした。言質を取られた後が故に、どんどん血の気を失くしていく主と、頭を抱える加州を置いてけぼりに。
令和への出向調査、それはまさしく囮任務だったのである。
時の政府が時間遡行軍の脅威に立ち向かうため、審神者となれる霊力の高い人間を徴集するのは、何も二二〇五年の時間のラインのみからではない。八百万に対抗するには、こちらも八百万。数を集めるためには、あらゆる時間のラインからの徴集が必要なのである。
審神者はあらゆる時代──政府が言うところの『過去』──から見繕われることも間々ある。その徴集ラインとして今回浮上したのが、令和。COVIDー19──通称・コロナウイルスと呼ばれる疫病が、人間の叡智の結集によって収まった後の時間軸だ。
しかしながら、過去から見繕う……ということは、不便もわりと多くある。なにせこの時代にはまだ『歴史修正主義者』そのものがいない。故に、二二〇五年にはメジャーな徴集方法である、霊力検査がそもそも無い。国民一人ひとりの霊力量をまとめた資料が皆無なのだ。
すると徴集はどうなるか。……資料を作るところから始まる。
もちろん、時代をパッとスキャンしただけで「これは逸材!」と思える人間も、いるにはいる。ただそんな逸材が見つかる可能性はごく低い。だから政府は一人ひとりをしらみつぶしに測定して、成年を越えた使えそうな人材の元には、引き受けてもらえなかった場合に使用する記憶消去の道具を携えて、戦争従事者になってくれないかと頼みに行くより他にないのだった。
「ところが今回、見つかったんですよ。その『逸材』が!」
「簡単なスキャンだけでピンとくる、超霊力の人が?」
「その通りです!」
エッヘン! と胸を張るこんのすけをどつき回したい気持ちを堪え、「それと主と、一体なんの関係があんのさ」と加州は声低く尋ねる。
「審神者様は、霊力が高いですよね」
「……うん、まあ、そうね」
主は歯切れ悪く頷いた。彼女も過去からの徴集組で、スキャンで見つかった逸材の一人だ。ただ、霊力の高さと、それを上手く使用できるかは別問題。加州の主には最近まで、いささか──問題があった。
それはさて置き、話が見えない。もったいぶった説明に眉根を寄せると、こんのすけが語り出した。
「我々も時間遡行軍も、目的は違えど、過去に送り込んでいるものは基本的に付喪神です。物の心を励起させるのに、霊力は不可欠。審神者に必要不可欠な要素は、時間遡行軍にも不可欠となります。それ故、逸材は戦力として、常に両者の間で取り合いとなっているのです」
「向こうも、常に新しい戦力を探してるってことね」
「ええ。今回はこちらが先手を打てたようですが、問答無用で連れ去る歴史修正主義者と違い、我々は人道的観点から過去の時代にいる方には特に、説得をする形で参戦していただくようにしています」
「だから、それと主となんの関係があんの? って」苛立ちまぎれに再度口を挟むと、こんのすけは一度瞬いて「説得が難航しているのです」と言った。
「難航って……」
「端的に申し上げれば、かなり抵抗をされています。家族や友人、時代から離れるのがどうしても嫌だと」
ふ、と主の顔が翳った。家族や友人の存在を、時代ごと手放してきたのは主も一緒だ。思うところがあるのだろう。
「なまじ霊力が強い分、抵抗も激しくてですね。先日など、説得に行った監査官が、顔に青あざを作って帰ってまいりました」
ふう、と嘆息するこんのすけに、「は、激しいね」と主は言う。今回の逸材は、お人好しの彼女には考えもつかない気性の持ち主のようだ。
「ただ、こちらも「はい、そうですか」と帰るわけにはいきません。我々が諦めたものを掠めて行くのは敵の陣営ですからね。ですが……グズグズしている間に、遡行軍に我々の動きが勘付かれたようなのです」
「……え、まずくない?」
「そうなのです! まずいのです!! 最悪、令和の時代自体が戦力の取り合いで、戦場になる可能性まで出てきたのです!」
こんのすけはワナワナ震えている。
「あ、じゃあ、もしかして私にお呼びがかかったのって、審神者業の先輩として、その人を説得するとか……」
「違います」
すっぱり切られて、主は渋い顔だ。こんのすけは、『囮』だって言っただろう、と言わんばかりの呆れ顔で言う。
「説得は引き続きこちらでいたします。ですが、歴史修正主義者の大群が押し寄せれば、それも難しい。ですので審神者様には、撹乱の役目をしていただきたいのです」
「それって……」
「強い霊力反応がその時代にいくつもあれば、どこを襲撃すればいいか、向こうも悩むでしょう。戦力を分散せざるを得なくなる。ですから──」
「反対反対、絶対反対!!」
そこまで聞いて、加州はブチ切れて立ち上がった。
「おい、狐! 契約書出せ! 俺がお前ごとぶった斬ってやる!!」
「しょ、書面には術がかかっておりますから斬れませんよぉ! それに、もうすでに審神者様の声紋署名があって、」
「なら、お前の首を政府に送りつけてやるよ!」
逃げ回る管狐の首根っこを捕まえようと、執務室をドタドタ走り回る。やっと隅に追い詰めた、と思ったら、「まあまあ」と後ろから来た主がこんのすけを救出していった。
「主!!」
主はこんのすけを抱えて困った顔。その胸で、心なしかほくそ笑んでいるように見える管狐が疎ましい。
その時、玄関から遠征部隊の帰還を告げる鐘が鳴った。帰宅の声を聞き、加州は決意する。これは一度、主もこってり叱られて痛い目を見るべきだ。
「……分かった。主がその気なら、俺にも考えがある」
「え?」
「こんのすけ──和泉守呼んできて。今帰って来たから」
この本丸で主が最も恐れる刀の名前に、主の顔から、ザッ、と一気に血の気が引いたのを加州は見た。
「なん……っで、あんたはそうなんだ!!」
本丸中を震わす大音声に、主がピャッと肩を竦める。
「オレぁ常々言ってるよなぁ? 正義感と考え無しは違ぇってよォ! あぁ? 仕事引き受ける時は内容聞いて、周りに相談して、って手順を踏めよ! 自分だけで対処しようとするんじゃねぇ、あんたが欠けたらその時点で、この本丸は終わりだっつー自覚があんのか!?」
盛大な巻き舌で繰り出される正論に、主は「はい、そうです、はい」と壊れたレコードのように肯定し続けている。
「それとも何か? 聞いてなかったのか、オレの忠告をよォ!!」
「いえ、聞いてました」
「声が小せぇ!」
「聞いてました! ごめんなさい、二度としません!」
「聞き飽きたっつーんだよ!!」
捨て台詞のように言い放つと、和泉守はサッと加州に目をくれた。
「契約は」
「撤回不可。自動声紋署名済みで、術式付き」
「く……そったれがぁ」
「ごめん、俺が止めるべきだった」
ドッカ、と主の横に座り込んだ和泉守に、加州は素直に謝った。和泉守は苦々しく首を振る。
「いいや、お前のせいじゃねぇ。どうせ向こうも、こっちの予定は把握済みで案件持って来やがったんだろ」
青の双眸にジロリと睨み上げられたこんのすけは、サッと顔を伏せる。その首を、こんのすけの隣についた堀川国広がグイと上げさせた。加州の和泉守出動要請に、なんぞの時のストッパーとして付いて来たのだった。
この本丸で、主の自己犠牲的迂闊を咎めるのは、概ね和泉守の役目だ。本丸立ち上げからさほど間を置かずに顕現した和泉守は、当初から彼女のそういう一面に人一倍厳しく接し、異を唱え続けており、今でも主の一番恐れる刀だから。この狐はそれを知っていて、お目付役不在の主の甘さに付け入りに来たのだ。
「ごめん、みんな」しゅん、と萎れる主が「今回も力を貸してください」と言うと、他にどう言うこともできない。
「……とにかく、説教は後だ。続きを言え」
「えぇっと……審神者様には御供機能を使って、出向調査に行っていただきます」
「その供、っつーのは護衛って意味か」
「はい。戦力を分散させるとは言っても、遡行軍相手に審神者一人で対処など、まず不可能。襲撃時の撃退には刀剣男士が必要です。連れて行ける刀剣は、通常の御供と同じく三振りまで。私としましては、初期刀である加州清光と、和泉守兼定には必ず付いて行っていただきたいと思っています」
「当然だな」和泉守が請け合ったのとほぼ同時、主の肩が跳ねた。和泉守は
「言いたいことがあんなら言えよ」
と脅すような声で促す。
「あ、いや、ででででも、和泉守と清光の両振りに付いて来てもらうと、ほら、本丸の警備が手薄になっちゃうんじゃ……」
「ご指摘はごもっともです。しかし、本丸と審神者であれば、政府は審神者の無事に重きを置いています。審神者様と最も結びつきの強い刀剣に供をさせるのは、当然のリスク回避手段かと」
「そ、ですか……」
こんのすけの返答に、しおしおと主の身がまた一段細くなった気がした。その肩を、和泉守が乱暴に片手で抱いて揺さぶる。
「おう、今あんたオレじゃ不満だって言ったか?」
「滅相もない! 曲解です!!」
全力で否定する主を知らぬふりで、堀川が尋ねた。
「じゃあ、襲撃の時以外は本当にただ、その時代で生活するだけなんですね。この任務はどれくらいの数の審神者に打診がいっているんですか?」
「三百人ほどに。その内の半数からは、すでに了解が取れています」
「最低百五十人、か。一時代の戦力分散には十分過ぎるほどだと思うけど……主さんが絶対に行かなくちゃ駄目なんですか?」
「ええ。逸材が産まれた瞬間から、我々が声をかける十八歳までは、囮が必要となりますからね」
「あー、そういうこと」合点がいった加州は苦悩した。「〇歳で向こうに攫われちゃったら意味ないもんね」
そういうことです、とこんのすけが続ける。
「囮の審神者一人に割り振られた期間は三カ月。それを間断なく配備することで、初めてこの作戦は成立します。それ以上の長期任務は、通常の審神者業務に影響を来たしかねませんしね」
「百五十で足りんのか?」
「おそらくは。敵も、いくら強い霊力者といえど、一戦力確保にそこまでの人員は割かないだろう、というのが上の考えです」
それでも、霊力の強い審神者が一気に百五十人も本丸を空けるのだから、それなりに大掛かりな任務だ。思案する様子の和泉守に、こんのすけが言う。
「少なくとも今回の任務、審神者様には和泉守兼定が付けば、そこまでの危険はないかと」
「あはは。だってさ、兼さん」
堀川の笑いに、和泉守は舌打ちする。
「世辞で許してもらおうってか? なめやがって」
「いえいえ、これは政府所有の演算システム・ワダツミが弾き出した予測に基づいた正当な評価です。ただ、……護衛をしているのが向こうにバレないよう、刀剣男士には『目眩しの術』を纏っていただき、その上で、審神者様からはある程度距離を取っていただくので、予想と結果には多少の誤差があるかもしれませんが……」
「距離? ってどれくらい?」
不穏な単語に、加州は思わず身を乗り出す。
「刀剣男士の見た目は目立ちますし、遡行軍も見覚えのある容姿です。審神者様の周りにぴったり張り付いてしまえば、囮がバレる可能性も上がり、作戦自体が継続不可能になってしまいます。ですので、術で誤魔化せたとしても最低……十メートルは取りたいところですね」
「それ、護衛の意味ある!?」
「刀剣男士ならば、本気を出せば十メートルは一瞬で詰められる距離ですし、問題ないかと。もちろん、敵方に違和感を感じさせないよう、審神者様の生活圏内で刀剣男士にも生活をしてもらうことになりますので、ニアミス程度の接触はあると思いますがね」
そのこんのすけの言い分に「えっ!」と声を上げたのは主だ。
「そ、それって、どの程度の接触……?」
「生活圏内ですので、一緒の電車に乗るくらいはあると思いますよ。一緒の職場、は流石に近過ぎるので無いとは思いますが」
「え、主さん、向こうで働くんですか?」
「ええ。その時代の霊力の強い人間が全員無職でも不自然でしょう。審神者様にはこちらが用意した会社で、審神者関連の入力作業などをしていただくことになっています」
「機会を有効活用し過ぎだろ、政府」
「転んでもタダじゃ起きねぇな」
加州と和泉守のツッコミも聞こえないのか、主はピクリとも笑わずに顔を曇らせている。
「それって……私は向こうで自分の刀を見かけても、気づかないふりで無視しなきゃいけない、ってことだよね?」
「まあ、そうなりますね。バレては困りますので」
「……自分に務まるか、自信がなくなってきた」
「ちょっとぉ! 今からそんな弱気でどうするんですか!?」
こんのすけが悲鳴を上げた。主は眉を下げる。
「だって私、三カ月も演技し続けられる自信ないよ……どうしても清光のこととか、見かけたら名前で呼んじゃいそうだもん」
「ああ、なるほど……うーん、困りましたね」
「え、でも、目眩しの術をかけるんだから、自分の刀だなんて認識しようがなくないですか?」
「全く知らない相手ならともかく、自分が保有する刀ですから、そこまで術が効くか保証はできません。目的はあくまでも、敵の目を欺くため、ですから」
「なら友達設定にでも……だと近過ぎるのか」
こんのすけが即座にNGを出したので、加州も提案を引っ込める。うーん、と寄り集まって考えたが、良い案は出ない。
「……いっそのこと、記憶を操作してみましょうか」
こんのすけがおもむろに言った。
「え、そんなことできるの!?」
「ええ。元より向こうでの生活に困らないよう、出向する時代に合わせた知識をインプットしてから向かうのが大前提ですから、そのタイミングで操作はできます」
「んな簡単に足したり引いたり……算盤弾いてんじゃねぇんだぞ」
和泉守の渋面も、こんのすけはなんのそのだ。
「ご心配なく。まるきり記憶を消去するわけではありません。演技ができる程度で構わないわけですから、あくまで隠す処置を施すのみです。刀剣男士や本丸に関する記憶に、本人がアクセスしにくいようにベールをかける……と言えば分かりやすいでしょうか。もちろん、このベールは随行する刀剣男士の判断によっていつでも解除が可能ですし、任務が終われば自動的に解除される仕組みにできます。審神者様と同じような理由で、記憶操作を選択された前例もあります」
「……なんかそれって、聞けば聞くほど、いつでも主の記憶なんか操作できるんだぞ、って言われてる気分なんだけど」
「記憶操作に関してはあくまでも一時的な処置でございますので、ご容赦いただければ」
「一時的に、政府の都合のいいように、ってね」
加州の苦言に、こんのすけはパチリと瞬く。お得意の、善意も悪意も悟らせない、管狐の顔だ。加州はムッとする。
顎に手を当てて考え込んでいた主が言った。
「うーん、まあ……思うところはあるけど、その方法でやるしかないかもね」
「主! こんな得体の知れないもの……!」
「だってぇ。実際私、演技なんかできないもん。清光の極記念のサプライズパーティーで私だけ超不自然で、大失敗に終わったの忘れた?」
う、と加州は口をつぐむ。堀川と和泉守も、宙を見たり目を逸らしたり。
誤魔化し下手の主の言動で、加州が計画に勘付いたあの事件以降、本丸サプライズ担当の乱や鶴丸の意向で、誰のサプライズ計画にも彼女は関われなくなった。三振りの頭には一様に、祝われる本人と同じくらい毎度驚いている主の姿が思い浮かぶ。
何も言えなくなってしまった三振りを順々に見た主は「ほらね」とため息をついて、
「あ、ねえねえ、それって、任務で来てる、っていう意識を薄れさせることとかも可能なの?」
「と言いますと?」
「本丸の記憶を薄れさせるだけじゃなくて、その時代でずっと生きてて生活してるー、って、自分に思い込ませることとかも可能なのかなって」
などと、こんのすけに問う。
「主!」
「しょうがないでしょ。みんなや本丸の記憶がなくたって、これはスパイ任務だ、とか意識してたら私、右手と右足同時に出ちゃうもん。そんなのソッコーでバレちゃうよ。みんなだって、私の演技下手知ってるんだから異論ないでしょ?」
またも三振りは口をつぐむしかない。それぞれに縋るように見られたこんのすけは、突然針の筵に座らされた心許なさに、少しだけ顔を伏せた。
「技術としては、可能です。……検討いたします」
「やった! ありがと、こんのすけ!」
主が喜びに拳を握る。反対に三振りは、自分たちの完全敗北にガックリと肩を落としたのだった。
「では、最終確認をいたします。今回の記憶操作は、令和時代の知識共有の他、審神者としての記憶の秘匿、令和時代で生きた記憶の移植、でお間違い無いですね? 同意書はお持ちいただいておりますでしょうか」
「はい、ここに」
「……はい、確認いたしました。お預かりいたします。それではこれより、審神者様には記憶操作の施術を受けた後、令和の指定の時代に向かっていただきます」
政府の庁舎の最上階、記憶操作室の前にある待機椅子に座ってこんのすけの説明を聞き、主は頷く。
横には御供として選ばれた加州清光、堀川国広、和泉守兼定が付いている。
「目覚めは政府指定の貸しマンションの一室、午前九時。起きたら職場へ出勤の予定です。全体としての期間は三カ月。設備は全てこちらの支給です」
「はい」
「刀剣男士は常に一振り以上が審神者様の側、十メートルの範囲に配置。刀剣男士は連絡用のイヤホンマイクを受け取りましたか? それは現場の分析役を務めます私との通信にも使用しますので、電源は常に入れたままでいるように」
「はい」
「その他の予定としましては、任務開始日中に審神者様の会社にはテレビ取材が入ります」
「は、」頷きかけた主の頭が止まった。「て、テレビ? なんで?」
「我々は三カ月の最短決着を目指しています。そのため、囮の露出を増やすように、との命がありまして」
「……それ、囮全員テレビに出るってこと?」
「いえ、一部の審神者のみです」
「横暴じゃない!?」
なんで私だけ!? と狼狽える主に、
「ここまで多くの記憶操作を施す審神者なら、ある程度の無茶もきくだろう、とのお達しでして」
と、こんのすけは非情に言った。言わんこっちゃない。加州はこっそり息を宙に逃がす。
「だから、あれほどよく考えろっつったろ」
「う」
和泉守の歯に衣着せぬ苦言に主は胸を抑える。が、断ることもできそうにないと気づいたのか、最終的には「……分かりました」と渋々了解した。
「具体的には、働く人の昼ごはんを特集する公共放送です。審神者様のお昼ご飯をメインに撮影しまして……」
「詳しい内容はいいよ。どうせ記憶操作しちゃうんだし」
「そうですか? では、連絡事項は以上です。お、記憶操作の機械が空いたようですね。入室してください」
こんのすけが先導して部屋に入っていく。主は重たい腰を上げたが、その際に突き刺さった、何か言いたげな三者三様の刀の視線におののいたのか、へラリと意識的に笑みを作ってみせ
「ま、まあ……こうなったらやるしかないよね! みんなが付いててくれたら絶対大丈夫! 目指せ、最短決着! ゆけ、報酬への道!!」
と拳を上げて、和泉守にほっぺをつねられていた。
──とまあ、こういった顛末で、主と加州たち三振りは令和時代に出向することとなったのだ。が。
まさか身内に、主以上のポンコツがいたとは。
加州は額に手を当てて憂いた。
「一回目は許したよ、緊急事態だったからね。あのままバスケットが落ちてきてたら、主が怪我してたかもしんないし。俺があの場にいても、助けちゃうような場面だったからさ。でも、今回は違うじゃん。明らか気づいてたじゃん、主。和泉守の存在に。「あ!」って顔してたじゃん。どーすんの?」
「どうするったって……」
「兼さんには任務、外れてもらうしかないかなぁ」
二人の口論に冷徹な意見を割り込ませてきたのは、赤い眼鏡をかけた堀川だ。今回の任務では、主の職場近くをうろついていても不自然でないよう、職場の向かいにあるコンビニの店員として紛れている。
「制服は相手の警戒を解き、目立つ特徴は相手の目を曇らせるものですからね!」と言って、常に赤い伊達眼鏡を外さない。確かに彼の言う通り、パッと見ただけでは赤い眼鏡の印象が強く、もしも主に目眩しの術がさほど効いていなくても、堀川が究極に目を惹く容姿であることはバレにくくなっている。
「こうなってくると、一緒の電車に乗ってもすぐ見つかっちゃいそうだし」
「すまん……」
「今から僕と交代して、コンビニ店員するわけにもいかないし」
「悪かった……」
「本当に困ったなぁ」
「悪かったっつってんだろ!?」
チクチクとした言葉に耐えきれず、和泉守が火を噴く。
しかし、長年の付き合いの堀川は全く動じず加州を振り返った。
「やっぱり兼さんにはガソリンスタンドの店員さんか、宅配のお兄さんが良かったんじゃないかと思うな。隠蔽と偵察値の高い僕らが多めに近接護衛について」
「でも主、車持ってないし、宅配がずっと同じとこウロウロしてたら変じゃん。コンビニ店員でも背丈で目立ち過ぎるからって却下したの、忘れた?」
「それはそうなんだけど……」
短期間の出向調査、一囮の審神者に車が支給されるわけもない。主が毎日立ち寄る場所でもないところに、三振りしかいない戦力を割くのは惜しかった。
一人は十メートルの範囲で近接護衛、一人はそれより広い範囲を索敵、最後の一人は彼女の行く先に先回りして待ち伏せが無いか確認。このローテーションを三振りで三カ月回して行くのだから、余力は無い。
それに元々、和泉守はこの三振りの中で一番索敵能力が低い。それを考慮し、主の十メートル範囲内を見張る近接護衛の役目を多く受ける配置になっていたのだ。
「そもそもが目立ち過ぎなんだよな。やっぱ別の奴のほうが良かったって絶対」
加州は苛立ちまぎれに頭を掻いて、この面子の選別に多大なる影響を与えているこんのすけをジロリと睨んだ。加州の足元で和泉守に無言の抗議を行っていたこんのすけは、急に矛先の変わった怒りにピャッと飛び上がる。
「そ、それを言うなら、元は審神者様が悪くありませんか!? そもそも和泉守兼定を儀式に選んだのは審神者様で……!」
「あーもう、その話いいから」
無用な掘り返しを加州はピシャリと拒否し、「まあ」と気を取り直す。
「うちで一番強いのは和泉守だし、これはどうしたって覆らないから、しょうがないっちゃしょうがないんだけどさ」
「そうだね。メンバーに関してはもうしょうがないかな。一応向こうからの奇襲は夜って予想されてるけど、万が一のために昼戦にも強い打刀を入れておきたい、っていうのは主さんの意向でもあったから」
「短刀入れるのは無理があったしね」
「そういうこと」
今回、主の設定はオフィスワーカー。学生設定ならいざ知らず、短刀たちでは見た目が子ども過ぎて、夜中にオフィス街をウロウロしていたら通報されかねない。短刀たちが駆けつけた警察の補導をかわせないとも思わないが、それはそれで『実録・警官二十四時~姿の見えない子どもたち~』とかの幽霊騒ぎに発展しそうだから、と辞してもらったのだ。
「だから、今回は全面的に兼さんが悪い」
「それ」
二振りにキッパリと言われ、自覚のある和泉守はぐうの音も出ない。加州が息まじりに言う。
「とにかく、認識されちゃったもんはしょうがないし、メンバーチェンジもポジション移動も不可だから、このまま行くよ。和泉守は今後一切、主に気づかれないように気をつけて」
「うす」
「次見つかったら、その高ぇ鼻折るからな」
「……っす」
心に刻めよ、と念押しして、その日の反省会はお開きになった。本日の夜間の主の家周辺の見張りは堀川なので、二振りはそれぞれ休息のため布団に潜り込む。
加州は布団の中で、三時間前に届いた、彼女の親友設定である『きぃ』宛の文面を見る。そこには明らかに和泉守兼定の存在を認識するメッセージがあった。
これからどうなっちゃうんだろ。加州は布団の中で、こっそりとこれからの任務を憂いた。
◆
「あの! ……ストーカー、ですか」
和泉守は言葉の意味がとっさに理解できず、そっと後ろを振り返った。
主に認識されてから一週間、和泉守は近接護衛をする際にはなるべく彼女からギリギリまで遠ざかり、見つかりそうになれば近場のものに隠れたり、店に飛び込んだり、目が合いそうになれば逆方向へ急カーブを描いて遁走し続けてきた。それはもう涙ぐましいほどの努力を重ね、気を張り、そろそろグロッキーになってきたほどだった。
しかし今日、和泉守が一番彼女に近い近接護衛を務める本日に限って、彼女が突如、隠れるものなど電柱くらいしかない──和泉守は電柱には隠れられない。縦に大きければ、必然、横にも大きいからだ──見晴らしの良い小径を選んで帰宅を始めたのだ。その日、堀川は運悪く勤め先の店長に捕まって電車を一本乗り逃し、より遠くからの索敵をしていて、交代できない。ならば、と加州に、ピアス型のイヤホンマイクから通信を飛ばした。
「加州、見晴らしの良い道に入る。オレじゃ十メートルあってもバレるかもしんねぇ」
『分かった、すぐ行く。それまで見といて!』
彼女のマンション近辺を確認した後、帰宅して夜の見張りに備えていた加州はすぐに出ると請け負ってくれたが、それでも二、三分はかかるだろう。和泉守は注意してそっと、足音を立てないように彼女の後ろについた。なるべく遠く。十メートルギリギリのところに。
しかし、その二、三分が仇となった。
急に振り返った彼女に見つかって、隠れる暇もなく、とりあえずこちらは気づいていません、というふうを装って横道に入ろうとしたら、「あの!」と大きな声で呼び止められてしまったのだ。
足を止めてしまったのが運の尽きだ。無視すれば良かった。もしかしたら和泉守に話しかけたのではないかも、というわずかな可能性に賭けて、足早に。だが、果たしてどの刀剣男士が、主の切羽詰まったような声を無視して行けるだろうか?
立ち止まったものの振り返れず、冷や汗をダラダラ流す和泉守に、彼女は尋ねた。
「……ストーカー、ですか」
と。
──すと……なんだって?
和泉守は言葉の意味がとっさに理解できず、そっと後ろを振り返った。
彼女はその怪訝な様子に気づいたのか、言葉を改め
「あの、だから、……付き纏……ってますか? 私に」
と再度尋ねてきた。和泉守は黙りこくった。言い直されてもよく分からなかったのだ。
付き纏う? オレが? 主に?
『いや、まあ、そりゃそうだよね。普通に怖いよ、一八〇センチオーバーの男に、夜道尾けられてたらさ』
ピアスから、諦めたような半笑いの加州の指摘が飛んだ。もう近くに到着したのだろう、息が弾んでいない。ただ、この状態で交代も何もなかった。
『避けてるつもりでも目立つんだよな。デカイから。こっちが目を逸らしても、主の視界には入ってんのよ、お前。この精一杯気をつけてた一週間でも、多分何回かは気づかれてたよ』
加州の指摘は続いている。だが、和泉守は突然降りかかった大きな濡れ衣に、理解がちっとも追いつかない。
付き纏う? 付き、纏う……?
侮辱だ。ようやく言葉の意味を理解した時、真っ先に浮かんだのは怒りだ。
いや、しかし。
すぐに戸惑いがそれを覆った。
実際、付き纏っているようにしか見えないのだろう。記憶のない彼女にとって、今の和泉守は。
最近よく見かける男が、自分を追って夜道を歩いている。女性にとって、これほど恐ろしいことも他にないだろう。
和泉守は愕然とした。
──主から見ると、今のオレってマジで『すとーかー』ってやつなんじゃねぇの?
自分が主に、そういった意味合いでの恐怖の対象として見られるなどと、夢にも思っていなかった和泉守は固まってしまった。
それに慌てたのは堀川とこんのすけだ。
『どうしよう、兼さんがショックのあまりフリーズしちゃった! 兼さん、聞こえてる!?』
『いいから喋って誤魔化してください、和泉守兼定! なんでもいいですから!』
一人と一匹は、彼を現実問題への対処に戻すべく、懸命に声を上げた。
その進言に、和泉守は我に返る。そうだ、これは任務だ。任務なのだから、ここは無理やりにでも納得させて、彼女を家に帰らせるより他にない。
コンマ零二秒の間に思案して思案して、結局、己がはたから見ると彼女に付き纏っているようにしか見えない現実を受け入れるのが一番簡単だと悟った。
覚悟を決めて口を開く。
「あー……悪い、不快にさせるつもりじゃ、」
「あの、違うんです! そうじゃなくて、責めてるんじゃなくて!」
言葉を遮るように彼女が大声を出す。
責めてるんじゃない? これは相手を刺激しない方便だろうか。じゃあこの後は……警察にでも突き出されるのだろうか。
考え得る中で最悪のパターンを想定し身構えると、主が言った。
頬をわずかに赤く染めて。
「あの……本当に、お付き合い、してみませんか」
『『『「……は?」』』』
奇しくも、三振りと一匹の声がハーモニーを生んだ。あまりに素っ頓狂な提案に、全員が耳を疑ったのだ。
しかし和泉守の他に二振りと一匹が現状をつぶさに観察しているとは知らない彼女は、勢い込んだ様子で続けた。
「違うんです、変な意味じゃなくて! その、私も、あなたのことが気になっているので、お互い、遠くから見てるんじゃなくて、その、お互いに相手がいないなら……お付き合い、してみませんか? 思い切って」
──いや、思い切り過ぎだろ。
和泉守の頭にはそんなツッコミが即座に浮かんだが、口には出せなかった。驚き過ぎると、刀でも声は出ないのだ。
セーブデータが見つかりません(最初っからやり直し)