君は運命を知らない
編集部に一通の手紙が届いた。差出人は女性。先日この編集部から写真集を出版した五条鶴丸宛てだった。
長谷部国重は机の引き出しからカッターを取り出し、手紙の背をビッと切って中を確認する。手紙からは、ふわりと甘い香水の匂いがした。
別に嫌がらせじゃない。担当作者宛てに届く、編集部を経由した手紙やプレゼントを、中身も確認しないで転送するわけにいかないのだ。誹謗中傷の内容ならば除外するし、それこそカッターの刃が入っていないか確認しなければならない。
とは言え、仕事の中で、これが長谷部の一番嫌いな作業だった。送り主が作者だけに打ち明けたいと思っている私的な告解を、覗き見るように思えるから。
なので、仕事の片手間にサラリと読むに限る。一つひとつの意味をはっきりと拾わず、単純に、作者への人気のバロメーターとしてカウントするように。長谷部はメールチェックをしながら、心を無にして手紙を読んだ。
「……?」
しかし、一度サラリと通して読んだ内容は良く理解できなかった。長谷部はもう一度手紙を読む。今度は両手に持ってじっくりと。しかし、何度読んでも内容は同じだった。
中身は五条鶴丸への愛の告白だった。
いや、普通に読めば写真集への讃歌なのだが、「すごく綺麗で」とか、「感動して」とか、「あなたの写真が好き」という並びの文字列から、底知れぬ好意が滲み出すような手紙だった。
長谷部は手紙を閉じた。そして、封筒に戻して机の隅に置くと、仕事を再開した。昼頃までそうして放っておいたが、常に目の端に入るプレッシャーに耐えきれず、昼休憩に行く前にどうにかしなければともう一度手紙を読んだ。やっぱり恋文だった。どうしたものか。
そこには『仕事はスピード』を信条にする、長谷部らしからぬ迷いがあった。
何を迷うことがあるのか。さっさと封筒ごと封書に入れて、五条鶴丸宛てに送ってしまえば良いじゃないか。たとえ恋文だとしても、誹謗中傷が書いてあるわけでも、際どい写真が入っているわけでも、SNSのDM宛てにメッセージをくれだの、そういう裏で繋がりたい欲がぶちまけられているわけでもない。そうだ、この手紙に悪いところはない。悪いのは……これを転送する相手が、こういう手紙を面白がりそうな、とんでもない輩だ、というだけで。
長谷部は迷った。そして悩んだ。そしてその末に、とうとう差出人の住所が入っている封筒から便箋だけを抜き出し、出版社の名前が入った素っ気ない茶封筒に入れて封をした。
許せ、ファンの子よ。貴殿が写真から受け取る五条鶴丸の印象と、実物の五条鶴丸とは天と地ほども差があるのだ。本物の五条鶴丸なら多分、封筒の住所を頼りに面白がって会いに行くくらいはするのだ。それほどの阿呆なのだ。諦めたほうが身のためだ。
もちろん大ごとにならない可能性だって十分ある。しかし、自分が編集部に連れてきて本まで出させた写真家が、一ファンに自ら会いに行って手を出すなど、真面目唐変木の長谷部にとっては許しがたいことだった。
「あいつは信用がならない」
茶封筒に宛名を書きながらボソリと言う。五条鶴丸が長谷部の信用に足ったことなど、同級生として日々を過ごした学生時代から数えても一度もなかった。
ペンを茶封筒に滑らせ、親の仇を討つ形相で宛名を書き、郵便回収ボックスに入れた。これで心置きなく飯が食える。
「長谷部さ~ん」
と、席に戻る途中で声をかけられ振り向いた。上階にあるシステム部の女性だった。
「なんです」
「今度、新しいスケジュール管理のシステム導入されるんです。聞きました?」
「はい。聞いています」
「じゃあこれ、入る時用のパスワードです」
ニコッと笑って言われる。長谷部は、メールで寄越せ、と思いつつ「はぁ」と言って受け取った。裏紙くらいにはなるだろう。
「用件はそれだけですか」
「え? あ、……はい」
「では」
「あ、あの! ……お昼、一緒にどうですか?」
「コンビニで済ませるので結構」
踵を返して席に戻る。鞄を持つと、同様に昼休憩に立とうとしていたらしい隣の席の同僚が珍獣を見るように長谷部を見上げていた。
「……なんだ、その顔は」
「いや……長谷部、マジで長谷部しか許されないことガンガンやるよな……」
「意味が分からん」
一緒にエレベーターという名の密室に乗ると、「いや~だってさ、あの子、オメガじゃん?」と同僚は言いにくそうに囁いてくる。
「知らん。そうなのか?」
「えっ!? 知らんて何!?」
「知らんものは知らん」
「えー……だってあの子結構休むじゃん。あれってオメガの発情期休暇でしょ? それにあれ、アルファならたまにフェロモンとか感じんじゃねぇの?」
ぼんやりとした憶測混じりの話をされ、長谷部の眉は怪訝に寄る。
「だとしたらなんだ。仕事上不都合でもあるのか?」
「いやいやいや、お前、明らか狙われてんじゃんっつー話よ。末は社長と目される、社内唯一のアルファ様だから。まさか気づいてないとは言わねぇよな?」
「……知らん」
チン、音を立ててエレベーターがロビーに着く。長谷部がズイズイとロビーを抜けて行くと、小走りに同僚が付いてきた。
「おま、足早すぎ、っつーか長すぎ!」
「俺はコンビニで済ませる。お前は?」
「え、蕎麦屋行くけど」
「そうか。じゃあな」
素っ気なく手を上げてコンビニの方向に舵を切れば、同僚は「世間話くらいしろよ!」とギャンギャン喚いた。うるさいことこの上ない。長谷部は立ち止まり、少し離れた同僚に言う。
「俺は確かにアルファだが、オメガのフェロモンは感じたことがない。だから誰の性別がどうだとか、そういう話は知らない。これで満足か?」
「は? ……え、でも、アルファって、だってフェロモンレイプとか、」
「俺の鼻はポンコツでな。生まれてこの方、そういった類の匂いは感じない」
それだけ言うと、呆然とした同僚を置き去りに、長谷部は足早にコンビニに向かった。今日は午後から取材に行かなければならない。急がなくては。
◆
この世界には先天的に六つの性がある。男性、女性、それに加えアルファ・ベータ・オメガ。
社会的地位を約束された優秀な性別であり希少種であるアルファと、同じく希少な存在ではあるが、ヒートと呼ばれる発情期を有しているため社会に進出しづらいなどの欠点があり、アルファと繋がることでアルファ性の子供を生む可能性を持った唯一の性であるオメガ、そしてその間を埋める有象無象であるベータ……うなじを噛んで唯一無二の相手を持ったり、【運命の番】がいたりする、アルファやオメガの間柄からは、完全な蚊帳の外を食っている一般人。
しかしその通説も今は昔だ。
性別問題は時代と共に研究が進み、血液検査によって個々の性別はもっと細分化された。現在、確認されている性は十四である。
アルファの中のアルファである【αα】、アルファの中でもベータの部分を持ち合わせる【αβ】、その逆にオメガの中でもベータ寄りの性別を持ち発情期が若干軽いとされる【Ωβ】、混じりっけなしのオメガである【ΩΩ】……など。
中でも特に細分化されたのが、世界の大多数を占めるとされていたベータである。ベータの中にもアルファやオメガの性質を遺伝的に多少受け継いでいる者がいることが分かり、ベータは更に【βα】、【ββ】、【βΩ】の三つに分けられた。中でも【βΩ】は少し特殊で、ごくごく軽くではあるが、オメガのように発情期があり、フェロモンを有すらしい。
長谷部が所属するのは、その細分化された部分の【αα】……ヒエラルキーのトップと言われる生粋のアルファ性だ。自分がアルファなことは小学生の頃の簡易検査で把握していたが、【αα】だと分かったのは大学入学の頃の精密身体検査でだった。
医者曰く【αα】の特徴はこうだ。
アルファの中でもかなり優秀な部類であり、数多くの分野で秀でた能力を発揮できること。
しかし、アルファの性質が強く出る分、フェロモンにも左右されやすいこと。
【ΩΩ】はもちろん、【Ωβ】、時には【βΩ】の微量なフェロモンにも引き寄せられ、フェロモンレイプの被害に遭いやすいこと。
なので普段からオメガ用のフェロモン抑制剤と自分用のアルファ抑制剤を常備して、万が一に備えたほうがいいこと……。
自分は絶対に【αβ】だと疑っていなかった長谷部は、大学が開いたアルファを集めた講習会でそう説明され、かなり深めに首を傾げた。
長谷部はこれまで一度も、オメガのフェロモンとやらを感じたことがなかったからだ。
「どうした? 首なんか傾げて」
隣に座っていた同学部の鶴丸に聞かれた。その頃から彼奴との悪縁は続いているのだが、それはさておき。
「いや……今の話は本当なのか?」
「どの部分が?」
「【αα】はフェロモンの影響を受けやすいという話だ」
「当たり前だろう。嘘をつく理由もなし」
「……じゃあ、やはり俺の診断が間違っているのか」
「なんだって?」
鶴丸は長谷部の持っていた診断書を横から覗き見て「何が違うんだよ」と言う。
「俺は今まで、フェロモンを感じたことがない」
「周りがものすごく良識的な連中ばかりだったのかもしれんが……」と続ければ、逆隣に座っていた長船光忠が言った。
「いや、それはないんじゃないかな」
長谷部が振り向くと
「ごめんね、初対面なのに急に。話が聞こえちゃって」
「構わん。それより今のはどういう意味だ」
「もちろん、君の言うように良識的な人がほとんどだ。だけど、それでもやっぱり、たまには匂うよ。不特定多数の人がいるところでは特に。僕も【αα】だけど、中学の時から抑制剤を欠かしたことはない。加害者にも被害者にもなりたくないからね」
と光忠が言う。
「本当か」
「俺もそうだな。全く匂わないってことはない」と鶴丸も言う。
光忠は「あとはまぁ、可能性は低いけど、……鼻が匂わない、とか」と言ったが、可能性が低すぎると一蹴した。ならやはり診断間違いか、あとで申告しようと思ったところ。
「もしかして長谷部。お前、今付き合っている彼女、オメガだと思って付き合ってるのか?」
と、鶴丸が爆弾を放り込んできた。
「……なんだと?」
信じられない気持ちで鶴丸を見る。
長谷部が当時付き合っていた女性は、入学初日から彼にアタックを仕掛けて、自らをオメガと称する女性だった。特別惹かれたわけではなかったが、少し興味もあったし、まぁオメガなら良かろうと告白を承諾したのだ。
ベータを恋人にするアルファというのは、少々外聞が悪い。アルファ種を産む可能性のあるオメガを見繕って結婚するまでの繋ぎにベータを使った、スケコマシだと噂されかねない。
それを、わざわざ、回避するために、選んだ女性が? オメガじゃないと? この男は今、遠回しに言わなかったか?
理解が及ばず混乱する長谷部に、「やっぱりそうか。真面目一辺倒のお前が一体どのカテゴリで同意したのか、前々から聞きたかったんだ」と鶴丸はケラケラ笑った。
「いやぁ、まさか知らずにベータと付き合ってたとは! こりゃ傑作だ」
「ふ、ふざけるな!!」
椅子を蹴立てて長谷部は立ち上がった。講習に参加した全員がこちらを見る。しかし長谷部の絶叫は止まらない。
「分かっていたなら止めろ!!」
「だって、鼻が匂わないなんて、そんなポンコツだとは思わないじゃないか。明らかに【αα】のお前が」
「それでも止めろ!!」
「いやぁ、性に関しては奔放なのかと」
ニヤニヤ笑いながら鶴丸は言った。本当に、あの時ばかりは縊り殺してやろうかと思った。
とまぁこのような発端で再検査をし、しかし結局ミスは発覚せず、長谷部の性別も変わらず……フェロモンを感知できないポンコツ【αα】のレッテルを、主に鶴丸に貼られて今に至っているわけだ。
しかし、発覚した当初は動揺したものの、長谷部の人生に《フェロモンを感じない》ことが特段の不具合を与えるかと言えば、そうではなかった。
むしろこまめに抑制剤を管理する光忠のような几帳面さや、誘われれば適当に後腐れなく遊ぶ鶴丸のような鷹揚さがなかった長谷部にとっては、そもそも匂わないのはうってつけだった。オメガがフェロモンを出してアルファの理性のタガを意図的に外すフェロモンレイプ事件に巻き込まれることもなければ、それを隠れ蓑にオメガをレイプし、罪をなすりつけるなどという、もっと複雑な事件にも縁遠くいられる。
交際相手をフェロモンに左右されず、自分で探せる。
つまり、──ベータと同じだ。
◆
「長谷部さん、五条さんからお電話です」
言われて出たら、開口一番
『お前、あの手紙の外側はどうした』
と脅すような声で鶴丸が言った。やはりだ。長谷部は自分の予感が的中したことを心中嘆いた。
「あの手紙とはどの手紙だ」
『……分かってるぞ、わざとだろう』
恨みがましい声色を無視して
「向こうの住所は俺が把握している。返事が書きたいなら、編集部を経由して送ればいいだろう。ストーカーでないとも限らん」
『そんなんじゃないことは分かってるだろ。俺が俺のファンに直接返事を書くのの何がそんなに気に入らないんだ!』
「信用がならない」
思っていたことを率直に言うと、電話口では珍しくたじろいだ気配がした。
『返事を書くのがか?』
「それだけに留まるかどうか、がだ。言っておくが、相手は高校生だぞ。妙なことを考えるのはやめろ」
『俺への手紙の内容を覚えるのはよせ』
「俺だって好き好んで読んだわけじゃない。仕事だ。とにかく、俺はお前のことを信用したことがない。だから相手の所在が分かるようなものは送らない。分かったか?」
『おま、学生時代からの付き合いでよくもそんなことが』
「知らん」
ガチャンと音を立てて電話を切った。すぐにまた掛かってきたが、取り次ぎした部下に「これから出る。不在と言え」と告げて無視した。実際、外出の予定があるのは本当だった。
鞄を持ってエレベーターに向かうと、ちょうど昼休憩から帰ってきた同僚と行きあった。
「お、長谷部。これから飯?」
「いや、交渉だ」
「あ~、あの取材拒否店。落とせそう?」
「雑誌のコンセプトを丁寧に伝えれば、できないことなどない」
「いや、それはお前だけっしょ……飯食いなよ、体に悪いから」
鞄の中からゼリー飲料を取り出して印籠のように見せたら、生温い目で見られた。文句があるなら言え。
電車に揺られて鎌倉まで行く。駅に着いたら地図を頼りに目当ての店までえっちらおっちら歩いた。日を遮るものが何もなく、そろそろキツイな、と思った頃にやっと店に着いた。
「ここか……」
こじんまりとした白亜のカフェ。中を覗けば、ご近所住まいらしきご婦人方がぎっしりと座っているのが見えた。フランス帰りのパティシエが古都でひっそりとオープンしたカフェは、絶品のケーキとコーヒーが出るが、開店当初から一切の取材を断っている、知る人ぞ知る店だという。それをうちの雑誌が、一番先に、世に出す。そういう話だ。
長谷部は頭の中でプレゼン内容を確認し、店に足を踏み入れた。中からは芳しいコーヒーの香りと、ほのかに甘い匂いがした。
「いらっしゃいませ!」
鈴の転がるような声が奥から響いた。ふと目を上げると、サイフォンの前に立ってこちらを見つめる女性がいた。
あれ、パティシエは男性のはずでは。
そんな疑問よりもまず先に、なぜだか酩酊するような心地がした。
「お一人様ですか?」
「は、い」
「カウンターで構いませんか?」
「……はい」
「空いてるお席、どこでもどうぞ」
接客業らしく、ニコリと愛想よく微笑まれ、長谷部は糸で吊られた人形のようにするするとカウンターに座った。サイフォンが目の前に来る位置で、まるで彼女に呼ばれたかの如く。
「何になさいますか?」
メニューを差し出される。
「あ、……えっと」
「今の時期のオススメはキルシュトルテです。ただ洋酒がきついので、苦手な方は他の、」
「あの」
「はい?」
遮るように声をかけると、説明のためにメニューに落とされていた彼女の瞳が長谷部に移る。その瞬間、心の内側からぶわりと花が開くような幸福が長谷部を包んだ。
「結婚してくださいませんか」
「……はい?」
ポロリと口から零れ落ちた嘆願に、ご近所のマダムの視線が一斉に長谷部の背中に突き刺さり、彼女は首を傾げた。
長谷部が帰社すると、出がけに会った同僚が声をかけてきた。
「おかえりー。どうだった、落とせた?」
「……ああ」
「おぉ!? マジかよすげー、さすが長谷部様々!」
同僚は諸手を挙げて喜んだ。長谷部は未だ夢見心地だったが、他人に祝福してもらうと俄かに現実味を帯びて、少し実感が湧いた。
「なんて言って落としたんだよ~」
「結婚してください、と」
「……え、ごめん、なんの話?」
「お前、取材交渉に行ったんじゃないの?」と問われ、はてと首を傾げる。
「……あぁ、そうか。そういえばそうだった。プレゼン……資料を持って帰ってきてしまった」
「いやいやいや、お前何しに行ったんだよ!」
鞄からずるりとファイルを取り出す。行きと全く同じ、枚数の減っていない資料を眺める。
「分からん……俺は一体、何をしてきたんだ?」
「いや知らねぇけど!?」
同僚が叫ぶ。
「どうしよう、長谷部が壊れた!」「ほら~編集長が長谷部くんにばっかり仕事押し付けるから~」「え、私のせい?」「取材行かせ過ぎなんですよ~」
部署に飛び交う言葉の応酬の数々は、長谷部の耳には届かない。陶然とした面持ちで座りながら、長谷部は口の中に微かに残ったコーヒーの味をひたすらに反芻する。それと、カフェオレを注いでくれた、彼女の白い指先を。
長谷部が彼女に無意識にプロポーズした瞬間、奥からコックコートを着た壮年の男性が飛び出してきたのには、熱に浮かされたような心地だった長谷部でもかなり驚いた。
「誰だぁ、うちの姪っ子に変なこと言ってんのは!?」
「わ、おじさん、びっくりした。キルシュトルテ切れた?」
「あ。いや、それどころじゃ、」
「おじさん! お客さん待ってるんだけど」
長谷部より少し年上と思われるシェフが、彼女の怒りに目を泳がせる。奥に座っていた、ケーキを注文していたらしいマダムが
「い、いいわよ、ケーキはいつでもぉ」
と恐縮するように声をあげた。
「いいえ、お待たせしてすみません。おじさん、早く!」
「分かった、分かったよ! すぐにお持ちします!」
シェフはバタバタと奥に引っ込んでいく。その様子を、長谷部はポカンと口を開けて見送った。
「ごめんなさい、うちのおじさん、ちょっと過保護で」
向き直った彼女は照れたように言う。長谷部は子供のようにふるふると首を振った。
「えーっと、じゃあ……何か飲まれますか」
「は、はい」
「ホットミルクとかが良いですかね。なんだか疲れてそうだから」
「はい……あ、あの、あなたは、ここで何を」
「ん? あぁ、バリスタです。まぁ、おじさんみたいにきちんと修行をしたわけじゃないんですけど。あとは……ちょっと軽食とか出す担当ですかね」
「……では、あなたの淹れてくださったものが、飲みたいです」
彼女はきょとんとして、それから薄く微笑んで何度か頷いた。
「分かりました。じゃあ、ミルク多めにしときますね」
コポコポとミルクの煮える音がする。長谷部は彼女の手元や、顔を伏せた時に顔にかかる髪の筋などを、飽きることなく見つめていた。時間が止まったようだった。
「はい、どうぞ」
出されたカフェオレにそっと口をつける。彼女は微笑んで長谷部の様子を見ていた。見られているのが気恥ずかしくて、顔がどんどん下がっていく。と、奥からシェフが出てきた。トレイに載ったキルシュタルトを彼女に押し付けると「ほら、持ってけ」と顎をしゃくる。
「……はーい」
不満げな返事を残し、彼女がカウンターから去っていく。代わりに長谷部の前にはシェフが立つ。かなり、居心地が悪い。今度は別の意味で顔が上げられなくなった。
一旦撤退して、態勢を整えるのが吉かもしれん。
長谷部は大急ぎでカフェオレを喉に流し込むと、鞄を持って会計に向かう。会計はシェフがしてくれた。終始無言だった。強大な敵を前に遁走するように店を出る。
どうしたものか。悶々と考え込みながら駅に戻っていると「あの!」と呼びかけられて振り返る。
彼女が長谷部の鞄を持って立っていた。自分の空の両手に気づき、慌てて引き返す。会計の緊張感に忘れてきたようだった。
「す、すみません! お手を煩わせてしまいまして……!」
「いーえ」
長谷部の手の上に鞄を載せると、彼女がふっと笑った。笑いは尾を引き、肩を震わせている彼女に、長谷部はなんだか胸が苦しくなった。失態を見られた恥ずかしさと、笑う彼女への恋しさと、その小さい肩を抱き寄せたいような気持ちで、胸がぐちゃぐちゃとかき混ぜられるようだった。
「ふふ、すみません、笑っちゃって」
「いえ……」
彼女はいたずらっぽくキラリと輝いた瞳で長谷部を見上げる。そしていたたまれずに顔を赤くする長谷部に、
「お名前、教えていただいても良いですか」
と言った。
「は、長谷部国重、と申します」
彼女も名乗り、長谷部はそこで初めて、自分が彼女の名前も知らずにいたことに気がついた。なんという間抜けだ。己に歯噛みする。苦悩する長谷部に彼女は笑い、そして
「お付き合い、してみましょうか」
と言った。
「……は?」
信じられない気持ちで見つめると、彼女が首を傾げる。
「あれ? そういう話じゃなかったですっけ? あ、もしかしてさっきの、冗談でした?」
「は、いえ! いえ……そういう、話です。冗談でもなく、本気で」
なら良かった、と彼女は胸を撫で下ろす仕草をする。
「結婚はできませんけど、お付き合いなら」
ニコリと微笑まれ、一瞬長谷部の頭には高速の走馬灯が流れた。許容量をオーバーする幸福に死を感じたのかもしれない。実際息も止まった気がする。
こうして、長谷部と彼女の交際が始まった。
◆
『五条鶴丸様
お返事ありがとうございました。まさか返事がくるとは思っていなかったので、すごくびっくりしました。私は今受験真っ最中なのですが、お返事をいただいて、ものすごく元気になりました。お返事がいただけるなら、もっときちんと見直せば良かった、と、ちょっと後悔しています。
字もお上手で、それも驚きました。美的センスのある人は、字もお上手なんでしょうか? 私はそういうことにはからきしなので、手紙、読みづらかったらすみません。ペン字始めます。
手紙に付けていたのは香水で……』
続く手紙を最後まで読んで、長谷部は便箋を折りたたむ。鶴丸が編集部経由で返事を出したのは知っていた。なんなら添削もした。というか、妙なことが書いていないか検閲した、というのが正しい。
「連絡先を聞き出すような一文があったら、そこだけ千切って投函する」という長谷部の脅しが効いたのか、鶴丸の返事は彼にしては大人しめのものだった。
それに対して、向こうからまた、返事がきたのだ。勉強をしろ受験生。長谷部はこっそり思う。しかしまぁ……好きな相手のことを知りたい、と思うのは当然の欲求でもある。長谷部にも、その気持ちに覚えがあった。とは言え、前まではあまり思わなかったので、これは長谷部が今現在浮かれていることの証明でもある。
彼女とは何度かデートをした。正直、何があったかはいまいち覚えていない。彼女が無闇矢鱈に可愛いので、脳みそがそれ一色で、あまり他のことを考えている余裕がないのだ。
新たに知れたことと言えば、バリスタらしくコーヒーに詳しいこと。カフェ巡りが好きなこと。美味しそうなケーキ屋の前では、必ず足を止めること。甘いものに目がなくて、長谷部が疲れたふりをしてカフェに寄る提案をすると、隠しきれずに浮き足立つこと。
その日も、下調べをしていた、レモンケーキが美味しいと評判のカフェに寄った。彼女は「来てみたかったんです、ここ!」と嬉しそうに手を叩き、長谷部は大変満足だった。人の嬉しそうな顔が己の幸福に直結する日が来るなんて、考えたこともなかった。まるで物語の世界だ。
しかし入った直後、やはり止すべきだった、と後悔した。席に座っていた女性陣が、二人を見てあからさまにギョッとした顔をしたからだ。
「え……ねぇ、あれって」
「え? うわ~あきらかアルファじゃん、初めて見た」
「カップル……ってことは、あれって番持ち? ってこと?」
「え? でも相手、首出してるし、ベータなんじゃない? オメガの人って、番がいようがいまいが首隠してる人多いもん」
「なるほど。ってことは、あのアルファは遊んでるってことかぁ」
「うわ、チャラ~。アルファってベータ弄ぶ奴多いって聞くけど、マジなんだ」
「つーか引っかかるベータもどうかしてない?」
「まぁね~、でもあんだけイケメンだとちょっと揺れるかも~」
「ちょっと、倫理観ヤバイよ!」
こそこそと話しているつもりだろうが、長谷部の耳にはしっかりとその囁きが届いていた。そしてそれは、きっと彼女の耳にも。はらわたが煮え繰り返る思いだ。
自分のことはいい。だが、彼女が侮辱されるとなったら話は別だ。
「出ましょうか」
長谷部が言うと、待合席でメニューを見ていた彼女が「え?」と顔を上げる。
「客層があまり良くない」
「……国重さんは、気になりますか」
「いえ、俺は良いんです。ですが、俺はあなたが」
「……レモンケーキ、食べたくないですか?」
残念そうに呟かれると、ぐらりと揺れる。困った。彼女を傷つけたくないのに、これでは待望のレモンケーキから遠ざける長谷部のほうが悪者のようだ。
「……分かりました。ですが、嫌なことがあったら、すぐに言ってください。場所を変えますから」
結局長谷部が折れた。彼女はにこりと笑って長谷部の提案を了承した。
なるべくあそこから遠い席に、と店員に言って、要望通りの席に通された。レモンケーキとモンブランで悩んだ彼女に合わせて、半分こしようと長谷部がモンブランを、エスプレッソとカプチーノと共に頼む。届いたエスプレッソは、当然のごとく長谷部の前に出された。二人で少し苦笑しながら、彼女の前に置かれたカプチーノとそっと交換する。
「でも国重さん、コーヒー苦手じゃないですよね。エスプレッソでも平気そう」
「そうですね。ただ、……どうしても、仕事の時を思い出すので」
眠気覚ましにカパっと大口を開けて喉に流し込むブラックコーヒーは、長谷部の仕事上の相棒だった。それに、……長谷部自身、自分が思うよりもずっと単純で浮かれやすい気質だった自分に驚くのだが、彼女がカフェオレを注いでくれて以来、こちらのほうが好きになってしまったのだった。
彼女は「なるほど」と少し笑って、エスプレッソに口をつける。
「……うん、香りが華やかで美味しい。このブレンドいいなぁ」
「でも、レモンケーキと食べると味がぶつかっちゃうかな?」と一人首を傾げながら思考する彼女を見て、長谷部もカプチーノを飲む。
「俺はコーヒーのことは分かりませんので、これは素人考えですが、もう少し酸味があってもいいかもしれませんね」
「あ~、それっぽい! さすが国重さん」
「恐れ入ります」
全身から花びらが舞うような心地で褒め言葉に悦に入っていると、レモンケーキにフォークを入れた彼女が言った。
「不躾なことを聞いてもいいですか?」
「は、なんなりと」
「長谷部さんって、アルファですよね?」
「……そうです」
やはりさっきの心無い言葉が聞こえていたか。長谷部は心中舌打ちしたい気分だった。しかし彼女はあまり気にする様子もなく、単なる思い付きを言うようにあっさりと続ける。
「今更言うのもなんなんですけど、お付き合いするの、オメガの方じゃなくて良いんですか?」
「俺は性別関係なく、あなたが良いのですが……」
「いや、それは本当にありがとうございますって感じですし、嬉しいんですけど、そうじゃなくて、それが嫌だとか言ってるんじゃなくて……なんて言ったら良いのかな」
うーんと唸る彼女に、長谷部はどう答えたものか悩んだ。彼女の言いたいことは分かる。ただ、……恋人に自分の欠陥を晒すのは、長谷部にはなんだか途方もなく心もとないような気がするのだった。
しかし、嘘をつきたくない気持ちのほうが強まり、ポツリと言った。
「そのことなら、気になさらないでください。俺は良いんです。元々、……その、生憎、フェロモンをあまり感じる体質でもないものですから。むしろ、あなたのほうが、」
口ごもりながら言うと、「はい、あーん」とフォークの上で震えるケーキを差し出される。真面目な話を軽くする心遣いだと分かる。一瞬照れが先に立ったが、いろんな意味でもったいなくて迎え入れた。
鼻腔を抜ける爽やかな柑橘の香りと、顎の奥をキュッと刺激する酸味が程よい。
「美味しい?」
「はい。美味しいです」
「良かった」
彼女は笑い、それから自分が食べる用にケーキを崩す。
「それは、うーん……言いたくなかったら大丈夫なんですけど、何か、ご病気だったり、ですか?」
その間に彼女の口からこぼれた気遣わしげな問いかけに、長谷部は慌てて首を振る。
「ちが、違います! 健康に難があるとか、そういう話ではないんです、ただ……感じない、というだけで」
彼女は目を伏せる長谷部のことをじっと見て、それからレモンケーキを一口食べた。
考え込むようにゆっくり咀嚼し、言う。
「じゃあ……不具合も、多いでしょうね」
その問いに、長谷部は自分の今までを振り返る。あまりピンとこなかった。
「いえ、そこまでは。むしろ面倒ごとが少なくて、助かっているくらいです」
「ふーん。国重さん、もう一口?」
「は……あ、いえ、大丈夫です。モンブランもどうぞ」
「それじゃあ国重さんの食べる分、なくなっちゃいますよ」
話を混ぜ返され、慌てて自分の分のケーキを丸ごと差し出したが、首を振られた。やはり一口大に切って与えるしかないのか、と思い、いそいそとケーキにフォークを入れる。と、彼女が言った。
「でも、……ほら、運命の番の方とか、分からないんでしょう?」
「ああ……そう、ですね。確かに、そういったものからは、縁遠いですね。ただ、俺はフェロモンで決まる運命というものに、そこまでの執着がなくて」
「そうなんですか?」
「ええ。元々感じないから、というのもあるんでしょうが、こだわりが希薄なほうなんです」
「はい」と切り分けて差し出したケーキは、瞬く間に彼女の口に吸い込まれる。陶然と目を閉じて味わうその様子になんだか楽しくなってきて、長谷部が上に載っていた栗も差し出せば「それは国重さんの!」と断られた。
「でも俺は、あなたの幸せそうな顔が見られれば、別に栗は食べられなくても平気です」
率直に言う。彼女は困ったような顔で、
「でも、私は美味しいものは、国重さんにも食べてほしいですよ」
と言った。ぎゅ、と胸が甘く締め付けられた気がした。
この人と結婚したいな。長谷部がそう思ったのは、直感的な初対面を除けば、それが初めてだった。人の目だとか、外聞だとか、そんなものはどうでも良かった。
ただ、彼女が良かった。
◆
彼女と付き合い出して、二年がたった。
少し仕事が落ち着いて、お互いの仕事のペースや繁忙期も知れて、無理をして彼女との時間を捻出していた付き合いたての頃──あとで知った彼女には激怒された。会えば元気になるから良いんです、と言ったら殴られそうな勢いだった──よりも、長谷部の浮ついた心も多少は落ち着いて、穏やかな時間を過ごせるようになっていた。
そうなると、長谷部の頭にはある思いが浮かぶようになっていた。
──なんで結婚していないんだろう。
なんで俺はこんなに居心地が良くて、楽しくて、一緒にいるだけで幸せな人と、未だに恋人のままなんだ?
何をぐずぐずしているんだ俺は。最近は一緒にいるだけでなんだか幸せで、すっかり失念していた。そうだ、俺はそもそも彼女と『お付き合い』がしたかったのではなくて、『結婚』がしたかったというのに!
思い立ったが吉日、長谷部は早速デザートの美味しい良いレストランを予約し、指輪を用意して、いそいそと準備を整えた。
彼女にデートと称したプロポーズ決行の約束を取り付けたその日は、平日だった。週末は彼女の仕事が忙しいので、なかなか時間が取れないからだ。
朝、指輪を鞄に入れて、いつもより少し高いジャケットを着て出勤した。道中、夜のことを考えて浮かれていた長谷部だったが、会社のデスクに荷物を置いた直後、編集長に呼ばれて爆弾を落とされた。
「五条鶴丸さんから電話があってね、担当を長谷部くんから他の人間に変えてほしいって言ってるんだけど……君、何かした?」
編集長に悪意なく見つめられ、長谷部は混乱した。寝耳に水だった。
「とりあえずね、変えてほしいというものをそのまま続投させるわけにいかないから、引き継ぎしてくれるかな」
「は……ですが、すぐというわけには。進んでいる企画もあります、多部署との合同企画の『美女撮』だって、あらかた纏まったとはいえまだ青写真の状態で、」
「長谷部くん。先方がね、すぐにでも、って言ってるんだよ」
編集長が言った。……決定打だった。引き継ぎ担当の後輩が申し訳なさそうにこちらを見ている。長谷部は頭を下げてデスクに戻り、引き継ぎの挨拶をするために鶴丸に電話をかけた。
何度目かのコール音。鶴丸が『はい』と電話に出た。
「お前、俺に恨みでもあるのか」
長谷部が開口一番そう問えば、電話口の鶴丸は
『あると言えばあるな』
と軽口を叩いてきた。長谷部のこめかみあたりが引きつる。
「担当を代えろ、と編集長に直談判したそうじゃないか。俺のマネジメントの何が不満だ。人が撮りたいと言うから企画まで通してやったのに、」
『何も。お前は優秀だよ、何も落ち度はない。ただ、目先を変えたかっただけだ』
『編集長にもそう言ったはずだぜ』と鶴丸は続け、真意の見えない相手の様子に長谷部は閉口する。作家がこう言うのだ、編集に止める手立てはない。編集長ももう了承した話で、長谷部の後輩が担当することも決まっている。
長谷部は思考を放棄した。五条鶴丸の考えていることが理解できたことは、長谷部にはない。なら、考えるだけ無駄だった。
「……あまり妙なことはするな。慎重にやれ」
『はいよ』
長谷部は返事を聞き届けたあと、新しい担当である後輩に電話をかわった。引き継ぎ資料をまとめて後輩のフォルダに突っ込み、『五条鶴丸取扱説明書』として印刷したものを、未だ電話を続ける後輩のデスクにそっと置く。
緊急連絡先(海外を飛び回る鶴丸には定住地がない)や、顔出しをさせないこと(本人が嫌だと言った)、公式SNSを作らせないこと(気まぐれな鶴丸に妙なことを発信させないため)、とある人物からの手紙は鶴丸に相手の住所を知らせないこと(例の手紙の少女の件だ)、その他にも色々記してある。まだまだ可能性のある写真家だから、自分の手を離れるのは胸がざわつくが、長谷部はこれも巡り合わせだと全てを飲み込んだ。
他にも仕事はあるのだし、鶴丸ばかりにかかずらわっているわけにもいかない。夜のことでも考えて気分を紛らわそう。そう気を取り直して仕事をしていたら、二時間後には後輩がこの世の終わりのような顔をしていた。
「長谷部さん……あの、ご相談したいことが……」
呼ばれて行った後輩のデスク。そのパソコン画面には『五条鶴丸公式SNS』のウインドウが表示されていた。もうフォロワーが五十以上はいて、取り消させることもできない。のたれ死ねば良いのに、と長谷部は思った。
──思えば、長谷部の苦難に満ちた一日の、これは始まりに過ぎなかった。
彼女との約束は八時だった。定時を少し過ぎても間に合う時間で、実際、長谷部が彼女との約束に遅れたことは今日まで一度としてなかった。
しかし、その日は少し違った。
長谷部は向こうのシステムトラブルでなかなか送られてこない原稿を歯軋りしながら待ち、なんとか相手から原稿をもぎ取った。定時から実に三十分過ぎのことだ。今日は遅れても二十分だろう、と見越していた長谷部は焦った。いつも早めに送ってくれる相手だったことが災いした。
少し遅れるかもしれない旨を彼女に送り、逸る気持ちを抑えてエレベーターに乗り込む。駅まで走ろう、そう思って、ロビーに向かった。
外は雨だった。
長谷部は出鼻をくじかれた気分だった。
いや、いやいやいや、雨がなんだ。こんなことで。しかし、朝の天気予報では何も言っていなかったのに。
長谷部はいつも用心のために鞄の中に入れてある折り畳み傘を取り出す。走るのに心許ないにもほどがあるが、ないよりはマシだ、と思って差して駅まで駆け出した。
ダッシュで駅まで向かい、コンコースを疾走、改札を風のように抜け、発車寸前の電車に身体をねじ込んだ。ズボンの裾は泥に汚れ、息は切れている。時計を見れば、待ち合わせまであと三十五分。……なかなかに厳しい状況だった。
今日、プロポーズするのは、なんというか、すごく、……日が悪い。そんな気がした。そしてそういう予感というものは、往々にして当たるものだ。
乗り換えの駅に着いたら、乗るはずの電車が止まっていた。復旧の見通しは立っていないという。長谷部は真っ白になりかけた頭をなんとか動かし、タクシー乗り場に向かう。しかし皆、考えることは一緒だ。そこにはすでに長蛇の列が出来上がっていた。
屋根のない所で傘を差して順番を待つ。遅々として進まない。おまけに風が出てきて、横殴りの雨にどんどん体が濡れそぼっていく。
もう今日は無理かもしれない。長谷部は泣きたい気分で、彼女にメッセージを送った。
『すみません、間に合いそうもありません。かなりお待たせしそうなので、帰っていただいても構わないです』
断腸の思いで送信すると、すぐに既読がついた。もうレストランに着いているのかもしれなかった。メッセージが届く。
『分かりました! じゃぁ、気が済むまで待ってます』
涙が滲んだ。どうしても、辿り着かねばならなかった。
「わ、国重さん、びしょびしょ!」
タクシーを降りると、店先に彼女が立っていた。そして長谷部を見つけると、その惨状に目を見開いて駆け寄ってきた。雨はにわか雨だったらしく、いつしか止んでいた。
「ごめんなさい、こんな状態だったらお家帰りたかったですよね、すみません私気が利かなくて」
「いえ、嬉しかったです、いてくださって。……予約は」
「あー……三十分過ぎると、キャンセル扱いだそうです」
長谷部は時計を見た。待ち合わせからは三十分どころか、もう一時間はたっている。彼女が店を追い出されてから、三十分たっている、ということだ。なんてことだろう。長谷部は自分が許せなかった。それなのに、彼女が待っていてくれたことに、簡単に心が熱くなる。
「大変でしたね、本当に。どこか別の所で仕切り直しましょうか?」
そう言って、鞄からハンカチを取り出して長谷部の肩を拭く彼女の指を掴む。突然の長谷部の行動に、呆ける彼女に、言った。
「結婚、してくださいませんか」
指輪を出そうとか、そんな余裕はなかった。とにかく、言いたくて、頷いてほしくて、このまま持って帰りたくて、それだけだった。
しかし、彼女は何度か瞬きをするとそのまま黙り込んでしまった。彼女の瞳が惑うように揺れ、薄く開いた唇が言葉を探すように震えている。
──気が遠くなるような心地がした。
「……少し、時間をもらえますか」
無情な返答に、背を殴られた。肺のあたりを、鈍器で、重く。体から必要な酸素が全部出て行ってしまって、そのまま長谷部は崖の淵から突き落とされたような気がした。
ぽっかりと開いた、底の無いような、奈落。
それからどうやって家に帰ってきたのだったか。それは判然としないが、長谷部は風邪をひいた。気付いたら玄関で、濡れ鼠状態で寝ていたので、まぁ当然の帰結だった。長谷部は久しぶりに会社を休んだ。
学生時代ぶりに引く風邪は、風邪ってこんなに辛いものだったろうか? と疑問に思うほどだった。精神状態がすこぶる悪いのも関係しているだろうが、とにかく辛い。体の節々が痛いし、だるいし、頭も痛い。しかも時間だけはあるので、嫌なことばかり考える。
なぜ断られたのだろう。本当は嫌われていたのだろうか。いや、それはない。……ないと思う。なら、結婚を考えるほどではなかったのかもしれない。……いや、いや。そういえば最初に会った時、確か彼女は「結婚はできない」と言ってはいなかったか。なぜだろう。そういう主義なのだろうか。いや、もしかして……アルファの妻になるのが嫌、とかかもしれない。
アルファの妻がオメガではなくベータだった場合。恋人関係でさえ良くは思われないのだ、結婚となったらもっとひどい状況になるかもしれない。長谷部の周りでも、ベータと結婚したアルファは聞かない。かなり特殊な部類に入るだろう。
彼女がカフェに行った時のような陰口を気にしている様子は、今まで見たことがなかった。だから、平気な人なんだと思っていた。本当に自分は最良の伴侶を得たのだと。だけど、それは顔に出なかっただけなのかもしれない。実は影でひっそりと傷ついていて、自分がそれに気づいてやれなかっただけなのかもしれない。
今以上に好奇の目にさらされることを、彼女が忌避しているのだとしたら。
──俺は彼女の心を無視して先走った、最低最悪のクソ野郎なんじゃないか?
彼女からは、連絡がこなかった。長谷部も、怖くてできなかった。風邪が治って、職場には行けても。
彼女に贈る予定だった指輪は、ずっと鞄に入ったままだった。
『お話があるので、今夜お部屋に行ってもいいですか』
プロポーズから二週間。彼女から届いたメッセージは、長谷部のネガティブ思考に大量の燃料を投下した。
別れ話かもしれない。朝、そのメッセージを見た時には予想だったものが、仕事をしている間に確信に変わった。
どうしよう。全然別れたくない。
土下座をして謝ったら許してもらえるだろうか。あなたが嫌だと思うことを強要する気持ちは全くなくて、本当にただただアルファとの結婚をあなたが嫌だと思う可能性を排除していて、いやそもそも考えていないのもどうなんだという話なのだが、兎にも角にも無理強いしたいとかそういうのは全然ないし、別に生涯一緒にいてくれるならあんな紙切れ、なくたって構わない。そうだ、こだわる理由はない。
長谷部がしたいのは『彼女との結婚』だっただけで、『結婚』自体ではなかった。そうだ。この方向で行こう。どうにか引き留めなくては。
しかし、そんな強硬な気持ちも、家の呼び鈴が鳴って、彼女を玄関に迎え入れたら……砂浜に建てた砂の城よりも早く瓦解した。
顔を合わせた途端にボロボロと泣き出す長谷部に、彼女がギョッとしたのが分かった。彼女は慌てて玄関の扉を後ろ手に閉めると
「国重さん、」
とこわごわ呼びかけてくる。涙が止まらなかった。堰を切ったように懇願の言葉がこぼれ落ちる。
「ゆ、許してください」
「え?」
「俺は、あなたの気持ちを無視して話を進める気持ちは全くなくて、だから、どうか、」
「え? 何? ちょっとま、」
「俺を捨てないでください、お願いします、」
「落ち着いて、国重さん!」
「捨てるって何!?」と彼女は絶叫し、ぐずる長谷部の肩を、ぐっと力強く持った。
「捨てたりしませんよ」
「でも、ぷ、ぷろぽーずを、断って」
「え!? 断ってませんよ! ちょっと待って、って言ったんです!」
「お、同じことでは」
「全然違います!!」
彼女が心底驚愕した、というように言うので、長谷部の涙が止まった。違うのか……、と頭の中で思うが今度は、じゃあなぜ待たされたのだろう、という疑問が湧く。
彼女は使い物にならない長谷部の腕を引いてソファに座らせると、自分は向かい合うように床に正座した。まるで陳情を述べる民のようなポーズだった。
彼女は言う。
「私、性別検査を受けてきたんです」
長谷部は返事ができないまま、俯いた彼女の旋毛を見つめる。
よく分からなかった。プロポーズと性別検査は、長谷部の中でとても遠い位置にあった。
「性別検査って、詳しくやろうと思うと結構時間かかるんですね。私、もっと早くできるのかと思っていて、そしたら、二週間もかかるって言うんですもん。びっくりしちゃった」
「そ、れは……大変でしたね」
「そうなんです。で、私やっぱりベータでした」
「は、」
情報を出される度に、長谷部の混乱はゆっくりと深まっていく。自分は今一体なんの話をされているのだろうか。とりあえず、プロポーズの話ではなさそうだった。
「いや、まぁ、なんか、部分的にオメガっぽいところのあるベータ、みたいな感じではあったんですけど。なんだっけ、えーっと、【βΩ】? とかいう」
「はぁ。……え、大丈夫ですか、体に何か不具合は!?」
「え? あぁ、それは、全然。むしろ薬もらうと、ちょっと良くなるみたいです」
膝に置かれた手をぐいぐいと引いて顔を上げさせて聞くと、その質問は予想外だった、というように彼女は簡単に首を振った。しかし長谷部は大焦りだ。
だって【βΩ】と言えば、ごくごく軽めではあるが、発情期がある性別ではなかったか。
自分はそれを知らずに、何か彼女に無体を強いたことはなかったか。無理をさせたり、強制したり、そういうことはなかったか。今までのことを振り返るが、自分では全く分からない。
「俺はあなたに、性別のことで、何か嫌なことをしましたか」
おそるおそる尋ねる。もしやそれが結婚を躊躇する理由なのでは、とまで思えてきて、絶望する。
「……国重さん」
「はい! やっぱり何か、」
「好きです」
「はい! ……はい?」
予想外の返答だった。もう長谷部には何がなんだか分からない。
そんな長谷部を置いてけぼりに、彼女は続ける。
「私、やっぱりベータだったんです。調べたの、昔のことだし、国重さんが私を好きになってくれたってことは、もしかしたらワンチャン間違ってた、とかあるんじゃないかなと思って調べたんですけど、……やっぱりオメガじゃなかった」
彼女が神妙な顔をして言うものだから、なんだか嫌な予感がした。
やっぱり、これは、最初の予想通り、
「アルファの人って、オメガをお嫁さんにもらって一人前、みたいなところ、あるじゃないですか。そういう話、たまに聞くし。それが普通っていうか」
「そんなことは」
「でも、今までも私と付き合ってて、国重さんは沢山たくさん嫌な思いをしたんじゃないかなって。実際、聞こえるように悪口言われてたこともあるし、……私が、オメガじゃないから、」
「待ってください」
「はい?」
「……これは、」
別れ話ですか、とは、口に出せなかった。
俺がアルファだから、オメガをもらうのが普通だから、俺はあなたの恋人のままでもいられず、夫婦にもなれず、「もっと良い人がいます」とかなんとか耳障りの良い言葉で捨てられて、あなたに生涯恋したまま、一人で暮らして行くんですか。
──今がその、あなたのいた人生が終わる瞬間なんですか。
時間にすれば、たった二年だ。だけどその二年は、長谷部にとって何にも代えがたい二年だった。
フェロモンなんて感じなくても、運命だったら、見つけられるんじゃないか、と。やっぱり出会えるんじゃないか、と。本当にそう思ったのに。
「国重さん」
「……はい」
呆然としながらも、彼女に呼びかけられると、自動的に返事をしてしまう。こんなに染み付いているのに、今更捨てられたら、どうすれば良いんだろう。
「お嫁さんになっても良いですか」
「……え?」
誰のですか、なんて、馬鹿みたいな言葉が思い浮かんだ。彼女は言う。
「オメガだったら良いなぁ、って、思ってたんですけど。でも、ベータ変わらずだったんですけど。それでも国重さんしか嫌なので、甘えてしまっても良いですか」
「甘える、とは……」
思考の渦に入り込んで、ポンコツな返事しかできない長谷部に、彼女は笑う。長谷部の手をとって引き寄せ、嘆願するように自らの頬に当てる。
「鼻の効かないアルファの国重さん、私がもらっちゃっても良いですか」
問いかけに見せかけた断定の、そんな言葉。長谷部の中に断る選択肢はハナからなかった。
◆
夕食後、長谷部が皿洗いをしてリビングに戻ると、テーブルの上に置いておいた写真集を彼女がソファに座って眺めていた。
「興味が?」
聞くと、彼女が慌てて本を閉じる。
「ごめんなさい、お仕事のものを勝手に」
「いえ、構いませんよ。以前に担当だったので貰ってきただけで、もう終わった仕事ですから」
「そうなんですか?」
「ええ。良い写真ですよね」
「はい、とっても綺麗で、つい」
えへへ、と笑う彼女の横に座り、長谷部は彼女の手元の本を覗き込むようにする。見る人に新しい物語を想像させるような、完璧な写真だった。
「……本当に、写真だけは良い」
長谷部がポツリとこぼすと、彼女は「なぁに、それ」と首を傾げる。
「その写真を撮った男のことです」
「あ、男の人なんですね」
「そうです。学生時代からの腐れ縁で、俺の鼻が匂わないのを一番最初に大笑いした男です」
「あらら」
「ポンコツと呼ばれてたんですよ、俺はこの男に」と長谷部が憤慨して言ったら、彼女はしばらく惚けたあと、爆発するように笑った。
「私は長谷部さんがポンコツで良かったと思ってますよ」と言って。
「だって、フェロモンに左右されないでも結ばれたんです。なんだか、本当に運命みたいで素敵じゃないですか?」
不肖のアルファの冴えた恋人