和泉守くんとは寝るだけの関係だ。 和泉守くんとは寝るだけの関係だ。
──こう言うと語弊が出かねないので補足をすると、この《寝る》は文字通りの意味で……つまり、睡眠である。私が、私のベッドの上で、和泉守くんに抱き締められながら、寝ているだけ。私たちは付き合ってもないし、ましてやセフレでもない。
じゃあなんでそんなことになってるのか。それは正直私のほうが聞きたいくらいだけど、あえて説明をさせてもらうなら……それは私と加州くんとの出会いから始まる。
昔から、変な人に好かれやすいような気はしていた。はっきりと自覚したのはごく最近のことであるけれど、思い返せば徴候はあった。
例えば中学生の頃。電車で少し空いた襟元から胸を覗き込まれたり。高校生の頃。わざとじゃないみたいな顔でスカートに液体をかけられたり。他にも深夜3時に携帯にイタズラ電話がきたり、知らないおじさんにいきなり握手を求められたこともある。
私はその様々のことを、ずっと「少し変だなぁ」と思っていた。だってまさか、自分が変な人に好かれやすい体質だなんて、誰が進んで自覚するだろう。
周りから見て一目瞭然でも、当人は意外と気づいていない、もしくは自分を誤魔化していることが多い。もしかしたら人は『気づかない』ことで自分の心を守っているのかもしれない。
その日も、いつも通りの一日だった。いつも通りに大学に行って、いつも通りの講義を受ける。その日の講義は必修じゃなく、私が好きで取った講義だったから友達はいなかった。私は窓際の席が眩しくってあったかくって結構好きで、その日もそこに一人座って春のポカポカ陽気を楽しんで授業を受けていた。
陽気に眠くなりながら板書をしていると、隣から小さく呻き声がした。隣に座っていたのは加州くんで、自分の筆箱を覗き込んで眉を寄せている。
加州くんは私と同じ学科の美しい男の子だ。いつも剣道部の美形なメンツとつるんでいるのも相乗して、入学から1月も経たない内から注目の的だった。だけど当の彼はそんな視線を気にもしてなくて、今時の大学生にしては居眠りもせず、すごく真面目に講義を受ける男の子だった。
あんなにカッコ良くてお洒落で真面目なんて非の打ち所がないなぁ、と噂に疎い私でさえ彼のことは知っていた。同じ講義を取ってたとは知らなんだ。彼は私の視線に気づくと、しかめ面のまま会釈をした。
思わず声をかける。
「どうかしたの?」
「や、なんでも……えーと……ごめん、消しゴム貸してくれない?」
たっぷりの躊躇いの後、申し訳なさそうに言われた。なんだ、そんなこと。
「ちょっと待って、もう一個持ってるから」と、鞄にしまってしまった筆箱を探す。ところが奥に入った筆箱はなかなか出てきてくれない。えーと、これでもない、これでもない……と机の上に次々物を置いて、鞄を見やすくしてようやく見つかった。
消しゴム一つスマートに貸せない自分を恥ずかしく思いながら差し出す。
「はい」
「あ、ありがとう……」
鞄から出てきた物たちを穴が開くほどジッと見つめながら、彼は消しゴムを受け取った。
「それ、返さなくて良いからね」
「うん……」
消しゴムを握って生返事をする加州くん。いっぱい物が出てきて驚いたのかな?
首を傾げつつ、私は出してしまった物たちを再び鞄に戻す。これはここ、これはこっちに縦に入れて……と整理しながら入れて、やっと最後の一つを入れようと手をかける。すると、加州くんがたまらずといった風に声をかけてきた。
「っ、ねぇ」
「ん? なぁに?」
「それって……
スタンガン?」
私は自分の手の中にあるものに目を移す。無骨に黒光りするそれは、──ご指摘の通りのスタンガンであった。
「護身用」
私の言葉をそのままオウム返す加州くんは、貸してあげたスタンガンを物珍しそうに裏返したりして観察している。
消しゴムのお礼に、とお昼を奢ってもらうことになって一緒に学食に行った。100円そこそこの消しゴムが500円の日替わりAランチに変わるなんて、随分なわらしべ長者だ。けど加州くんの本当の目的は件のスタンガンだと思うので大人しく奢られておこう。
「スプレーとかも考えたんだけど、自分の目に入りそうで怖くて」
「女子って全員こんな装備持ってるの?」
「どうかな。あんまり聞いたことないけど」
「それってかなり特殊ってことじゃん」
「ううん、そういう護身用具の話をしないってこと」
「どっちも一緒でしょ。話題に出ないのは皆持ってないからだよ、多分」
指摘に、そうなのだろうか、と首を傾げる。今までそんなことには考えも至らなかった。
それから促されるまま、私は今まで身の回りで起こってきた少し変な出来事を話した。覗きのこと、イタズラ電話のこと、液体のこと、その他様々なことを。
そして最後に、それでも明確な被害に遭ったりはしていないことを付け加えた。例えば性的な部分を触られたり、家を特定されてストーカーされたり、一連の出来事によるトラウマがあったり、そういうことは私にはないのだ。
これは本当に重要なことで、自然と耳に入ってくる性的被害と比べてみても、私は自分が女性性に産まれた中では非常にラッキーな部類に入ると自負していた。
しかし。
「それ、普通に痴漢とかストーカーされるよりキモくない?」
彼は私の自負心をそのたった一言でサックリと打ちのめした。
普通に痴漢とかストーカーされるより気持ち悪い。その表現に私は雷に打たれたみたいな気分になった。
確かにこれまで、はっきり痴漢にあったとか、ストーカーされたとか、そういう目にあったことは一度もない。その代わり、時々思い出したように気味の悪いことが起きる。声高に言えるような被害があるわけでもないから、ずっと心にしまってきたこと。
私、──ちょっと変な人に好かれやすいのかもしれない?
自覚をすると少し、ほんの少しだけだけど、うっすら背筋が寒くなった。き、気を付けよう……。
「その危機感の無さで今まで明確な被害が無かったっていうのは奇跡に近いね。けど、次も絶対に大丈夫っていう保証はないから気をつけなよ」
彼はそう言うと、すっかり汗をかいている紙パックのイチゴミルクを飲み干した。ズココココ、と盛大な音を立てて紙パックがへこんでいく。私の心もその紙パックと同じくらいベッコベコだ。
加州くんの意見は全部正論だったけど、同性に言われるよりもなんだか悲しい。個人的には危機感を持ってるつもりだったし、このスタンガンも買った時はそこそこ勇気がいったのに。そりゃぁ今じゃ鞄の中でやたらとスペースを占める無用の長物感あるけど……。
私が何も言えずにいるとスタンガンがこちらに差し出された。思わず受け取ろうと手を伸ばすと、ひょいと躱される。行き場なく乗り出した身体に、加州くんはさらに顔を寄せてきた。
「ていうか、こんなもんで安心感買ってたら逆に危なくない? 上手く作動しなかった時、完全に詰むじゃん。そこんとこはちゃんと考えてる?」
これまた正論だ。上手く作動しなかった場合のことなんて考えてもいなかった。ぐうの音も出ずヘラリと笑ってみる。ため息をつかれた。
「あのさぁ……」
「だ、だいじょうぶだよ。今までも結構なんとかなってきたし、今回もなんとかなる!」
これでも運だけは良いんだ、とサムズアップしてみせる。すると加州くんの目がギラリと光った。気がした。
「今回も……って何それ? まさか現在進行形で付きまとわれてるわけ?」
……なんだか地雷を踏んでしまったらしい。咄嗟に口を抑えてみるけどもう遅い。彼の眉間の皺はますます深くなって、美形のキレ顔ホントに凄絶怖い。
「スタンガンが新品だったからおかしいとは思ったんだよ! 誰に何されたの!?」
すごい勢いで詰め寄られて、椅子の背もたれに限界まで背を逸らす。と、加州くんの顔に影が落ちたのを見た。そして次の瞬間──彼の顔はものすごい勢いで私から遠ざかっていった。
「加州! テメェ、女相手に何してやがる!」
ガン、と加州くんの足とぶつかって椅子がけたたましい音を立てる。その彼の首根っこを掴んでガタガタと揺さぶる、大柄な影。濡れ羽色の髪と空色の瞳。加州くんといつも一緒にいる剣道部の美形なメンツの一人、噂に疎い私でも名前を知ってる有名人、──和泉守くんだった。
あまりのことに呆然としていると横からさっと小柄な影が間に入る。
「兼さん! 首締まってるから!」
これまた有名人の堀川くんが言って二人を引き離すと、加州くんは咳き込みながら椅子に崩れ落ちた。
「外野はすっこんでてよ!」
「あぁっ!? ぶっ飛ばされてぇのか!?」
激昂する二人が睨み合う間、現状を静観していたもう一人、大和守くんがこちらに寄って来る。
「大丈夫?」
「え、あ、はい、私は全然……それより加州くんが……」
「和泉守ー、清光放してやって。喧嘩じゃなかったみたい」
和泉守くんはその声にこちらをチラリと見た。初めてまともに目が合って、あまりの美しさに息を呑んだ。本当にこんなに美しい人っているんだ。急に現実と夢の境目が曖昧になったような気さえして、世界に二人きりだけのような心持ちがした。
私が彼を見ている間、彼もまた私を見ていた。微動だにせず。時が止まったように。
「あんた……」
彼は熱に浮かされたようにそれだけ言って、無言で私を見つめた。幽霊でも見たみたいに立ち尽くすから、だんだん不安になってくる。ぎこちなく首を傾げてみるが、一向に反応しない。
「いつまで人の襟足掴んでんだよ!」
と加州くんが彼の手を振り払って初めて、ハッと現実世界に引き戻されたような感じで体を震わせる。
「悪い、」
言って行き場のない手を降ろす。
なんだったんだろうと思いつつ「友達が来たなら私はこれで……」と席を立とうとしたら、加州くんにものすごい形相で手を掴まれた。
「話、まだ終わってないから」
怒られる気しかしなくて、きゅ、と心臓が縮こまった。
1週間前、私に起きた少し変な出来事。
ある夜、といっても6時くらいだったけど、私はアイスが食べたいと思い立って徒歩10分程度のコンビニに向かった。
財布だけ持ってレモンシャーベットを買い、またひたすら来た道を戻る、なんてことない日常。ちなみに近所の気安さもあって完全にすっぴんだったし、なんなら普段着につっかけだった。辛うじてブラトップを下に着けていたのは我ながらナイス判断だったと思う。
歩いていると、後ろから車のエンジン音がした。邪魔になるかと思って端に寄って歩き続けるが、車はちっとも通り過ぎない。ずっと小さなエンジン音を後ろで吹かせたままだ。私は歩きながらそっと後ろを見た。銀色のありふれた車がいる。
邪魔で追い越せないのかと思い、今度は端に寄って立ち止まってみる。運転席の窓は開いていた。乗っていたのは男の人みたいだけど、反射で顔はよく見えなかった。
車は異常なほどゆっくり進んでくる。嫌な感じがしたのでなるべく早く離れようと、再び早足で進む。
きっと勘違いだ、自意識過剰だ、品定めされてるような気がするなんて。
ところが私がペースを速めると、車も同じような速さでついてくる。いよいよ怖くなってきて、少し考えて先の角を曲がったところで車をやり過ごすことに決めた。その時はそれが一番良い解決策に思えたのだ。後から、コンビニに戻って警察を呼んでもらったほうが良かったかもと気付いたけど、大体こういうピンチの時には頭は回らないように出来てる。
早足で角を曲がり、死角になりそうな電柱に身を寄せて待った。車は私が見えなくなった途端にスピードを上げたのか、すぐに角に入ってきた。道路の幅は住宅街らしく狭めなので、一旦曲がったら戻るのは一苦労だろう。
車が全部こちら側に入ったのを見届けたら、元の道に戻って走って帰ろう。そう思った時だった。
「かわいいね」
男の声だった。吐息を多く含んだ、少し掠れた低い声。運転席からこちらに向かって、そう言われた。
叫び声こそ出なかったが、ほぼ本能的な危険察知で考えるよりも足が動いたのは、不幸中の幸いとしか言いようがない。
とにかく脇目も振らずに全速力で走った。咄嗟のことながらちゃんと元の道に戻って追いにくくしてから逃げられたので、思考を止めないことは大事だなと家に入って鍵をかけながら思った。
正直、今年入って一番びっくりした。少しばかり死を感じたし、突然の全力疾走に脱げもせず耐えてくれたつっかけには感謝しかない。
今まではそこそこ栄えた地域にある実家住みだったこともあって、実家の近所周辺に変な人が多いだけだと思っていた。でも違った。変な人はどこにでもいるのだ。こんな学生がいっぱいいるようなのんびりした住宅街ど真ん中にも、変な人はいるのだ!
すぐさまネット通販でスタンガンを買った。護身術を習うより早いと思ったし、自分のにわか体術なんかよりはずっと信用できると思ったのだ。万全の態勢を整えて1週間、何もなかった今時分の複雑な乙女心とかはまぁ、察してほしいが……。
──という話をブラトップ辺りのことは割愛しつつ一通りした。私的にこの話で一番の重要ポイントかつ笑いどころは、すっぴん普段着つっかけ装備の女に萌えるニッチな市場がある、という所なのだが、4人にはこのユーモアはちっとも響かなかったらしい。事件から何もなく1週間がたってしまってるので、もはや与太話の範疇なのだが……そろいもそろって渋面を作って、私だけ場違いな感じにしないでほしい。
特に和泉守くんの顔はすごくて、今さっきそこで人を殺してきました、と言っても信じられる鬼の形相だ。話だけでこれって、みんな気が短すぎやしないか……。
「完全に事案じゃん、スタンガン1個でどうするってのさ」
口火を切ったのは加州くんで、ぁあーもう、と大きく悪態をつきながら乱雑に頭を掻く。今日初めて会話した女子に対して、こんなに親身になってくれる人も珍しいよなぁ。思わず逃避めいたことを考えてしまう。
「車で女の子を追いかけるって、なかなかのクズだよね」
大和守くんはそう吐き捨て、堀川くんは
「差し支えなければおうち、どこか教えてもらっても良いですか?」
と笑ってない目で尋ねてくる。銀の車を私の家付近で見かけたら、闇討ちでもしそうな雰囲気だ。オーラに気圧された私が大体この辺、と教えるとスマホで検索していた彼はパチクリと瞬いた。
「兼さんの家と近くですね」
「ぁ?」
ずっと険しい顔で黙り込んでいた和泉守くんはピクリと片眉を上げて反応する。しかし
「確かに。目と鼻の先」
と、和泉守くんを無視して加州くんが堀川くんのスマホを覗きこんで同意してしまう。二人は同時にスマホから視線を上げ、顔を見合わせた。
──すごく、嫌な予感がする。
「無理だよ無理! 絶対無理!!」
食堂に響くのは私の絶叫。だけどここで叫ばなくてはとんでもないことが決定してしまう!
「大丈夫ですよ、兼さんは紳士だから送り狼になったりはしませんよ!」
「そういう問題じゃないよ!」
「腐っても剣道部のエースだし、この図体のでかさだから、きっといい牽制になるよ」
「そういう問題でもない!」
慌てて拒否する私をよそに、二人はしきりに和泉守くんを推してくる。何にって、私の送り迎えのボディガードに、である。
「和泉守じゃ不安なんじゃないの」
「そうじゃないんだよぉぉぉぉっ!」
大和守くんの言葉に慌てて否定を返すけど、どう言ったら良いのか分からない。
そりゃぁボディガードとして、和泉守くんはとんでもなく優秀だろう。こんな、神に愛されるっていうのはこういうことを言うんだろうなってしみじみ思う男の人、隣にいたら大抵の人は近寄ってこないだろう。万が一寄ってきたって、うちの大学の部活動の中でも特に強いと評判の剣道部の、エースと呼ばれるような人だ。変な人との一対一で負けるとも思えない。
けど、問題はそこじゃないのだ。
「あの、みんな一旦冷静になろう?」
「冷静に考えての結果だけど」
「いや、これは別にそんなことしてもらうほど大きい問題じゃ……」
「車で追いかけまわされて? 警察にも言ってなくて? それが大きい問題じゃないわけ?」
「そりゃそうなんだけど、知り合って間もない男の子にそんなことを頼むのは気が引けるっていうか……」
「兼さんはそんなこと気にしませんよ!」
反論を3回も潰されて、心中どうしたものかと涙目になる。この一口には言えない気持ちを、完全なる戦闘モードに突入してしまった正義感あふれる男の子たちに、どう説明したら分かってもらえるのだろうか。
こんな学内の有名イケメンを連れて歩くのは本当に忍びないし、女の子たちに邪推されて彼に迷惑をかけるのも嫌だ。明確な被害があったわけじゃないし、追いかけまわされたのだって一回きり。それも少したった今では、スタンガンなんて買ってアホなことしちゃって、という笑い話なのだ。何かあってからじゃ遅いって言うけど、何もなかったら本当に申し訳ない。悲劇のヒロイン気取りで近寄ったんじゃないかなんて、噂されても困ってしまう。それに、それに……
──『被害者』みたいに言わないで。笑い話にしておいてよ。
消えてなくなりたい気分で唇を噛む。と、大きな手が目の前にすいと割り込んだ。和泉守くんの手だった。
「ったく、ぎゃんぎゃんうるせぇな。お前らには品てもんがねぇ」
「はぁ!? 喧嘩売ってんの!?」
「相手が良いって言ってるもんをゴリ押すなっつってんだ」
眼前に出された腕は、まるで私を隠してくれてるみたいだった。
「そもそも男に追い回されたことのある人間が、初対面の男をボディガードに雇えるわけねぇだろ」
「でも、」
「でももかかしもねぇ。こんなところで油売らせて引き留めるより、明るい内に帰らせてやったほうがよっぽど良いやな」
3人を押し黙らせたフラットな声色にホッとした。良かった、私の味方がいた! と胸を撫で下ろしたのも束の間。つっても、と和泉守くんはさらに続ける。
「それじゃコイツらも納得しねぇよなぁ?」
ニッコリ笑って言われてやっと気が付いた。あ、この人別に味方じゃなかったなって……。
「和泉守んちってどの辺?」
「兼さんの家はね、ここから3つ目の十字路を左に曲がって……」
「なんでおめぇが答えんだ、国広」
「あ、コンビニ寄りたい」
「我慢して、安定」
口々に言いながら家路を歩く私の後をついてくる4人の男。自由かよ。どうしてこうなった。
いやそりゃぁ「コイツらになんでもないってことを分からせるためにも今日一日、オレらに家まで送られてやってくんねぇか」って和泉守くんに言われて、渋々ながらも頷いたのは私だ。私だけれども。
ここまで帰ってくる間も道行く人の視線は私の想像の5倍はあったし、いたたまれなさに今すぐ走って逃げたいなぁ~と思うのも仕方ないと思う。
今日を乗り切れば解放される、今日さえ乗り切れば……! 頭の中で半ば呪文のように唱え、努めて無心で家路を急ぐ。アパートが見えた時は救いの光とさえ思った。
「あ、ここです」
「おう、玄関まで送る」
階段下でありがとうございました、と頭を下げて解散させるはずが、和泉守くんにグイグイと押されて上がらされてしまう。
うぅ、遠慮が無いよぉこのイケメンたち。お茶出さなきゃじゃん、お茶っ葉あったかなぁ……と算段しながら部屋の近くまで行く。と、自分の部屋にどことなく違和感を感じた。
なんだろう、何か嫌な感じがする。ふと、扉が汚れているのに気付いた。
「あれ、なんだろ……」
よく見ようと近付く。何かが扉の下方に散っている。白い、何か──
それが何か認識する前に大きな手で目を覆われた。
「見るな」
低い声が耳元で言って、さっと大きな背中の後ろに隠される。目を白黒させていると固い表情の和泉守くんがどこかに電話をかけ始めた。
「一緒に、大家さんの所に行きましょうか」
堀川くんが言って、私を促す。訳が分からないながら頷くと、加州くんと大和守くんがピタリと後ろについてきた。周囲に視線を走らせるその二人の様は、まるで見えない敵を威嚇するようだった。
大家さんに会ったものの、事情は堀川くんが全て話してくれた。大家さんは気のいいおばさまで、事情を聴くや否や憤慨してくれ「何かあったら必ず知らせて!」と息巻いておられた。ほどなく和泉守くんの知り合いの長曽祢さんという警察の人とその部下の人が来てくれて、そこでも私ではなく男子4人が憤慨をぶつけるようにとうとうと事情を説明していた。その後、私はみんなと一緒に室内に入って、出た時と部屋の様子が変わっていないことを確かめた。鍵穴の周りに開けようとした傷がついていたからだ。その間に長曽祢さんの部下らしき人がお隣さんに聞き込みをしてくれたりした。
……いくら鈍い私でも、ここまでくれば大体分かる。あの白いのは多分男の人の体液で、そしてそれが車の男であるかどうかは定かではないけれど……私の家を誰か男の人が知っていて、悪戯をした。そういうことだ。
簡単な鍵を開けられないことから空き巣のプロだとかそういうことは無いし、扉への悪戯から見ても、性的な目的があっただろうということだった。
テーブルの木目を見つめながら考える。──今日、もしかしたら鉢合わせてたかもしれない。加州くんと話さなければ、みんながいなかったら、無事じゃなかったかもしれない。
ゾッとしたし、急に怖くなった。運が良かった。ひとえにそれだけだった。
「どこか、身を寄せる所は無いか。実家に一度帰るとか友達の家に行くとか」
向かいに座った長曽祢さんの気遣いの言葉に小さく首を振る。
「実家は遠くて……友達は全員実家か寮で、私、寮の抽選外れちゃったので」
寮は部外者の泊まりは禁止だ。絶望的な気持ちで下を向く。
「じゃぁ和泉守んちに泊まれば? 近所なんだし、物とか取りに行くのも簡単じゃん」
「嫁入り前の女子になんつーこと薦めてんだよ」
「ならホテル?」
「この辺ホテルないじゃん」
「お金もバカにならないしね……パトロールを増やしてくれるって言っても、いつ捕まるかは分からないわけだし」
次々に案が出るものの、あまり現実的とは言えなくてうんうん唸る。するとずっと黙り込んでいた和泉守くんがやにわに口を開いた。
「オレが泊まってく」
「「「「「え」」」」」
「オレが、ここに泊まる」
ふん、とふんぞり返るみたいにして、和泉守くんは言い切った。
一瞬の静寂。後。
「ばっかじゃないの!?」
「付き合ってもいない女子の家に上がり込もうとか図々しいな!」
「兼さん、さすがにそれはちょっと……」
みんな爆発したみたいに和泉守くんを非難する。それでも和泉守くんは目を瞑って頑として動かない。困惑していると、長曽祢さんがポンとおもむろに和泉守くんの肩を叩いた。
「和泉守。信じていいな」
問いかけとも断定とも取れる言葉に、和泉守くんは睨み上げるような目をして「おう」と一言応えた。長曽祢さんは深く息をつくと、私に向き直って言った。
「お嬢さん。こいつはこう言っているが、どうする」
「え、」
「ちょっと長曽祢さん!?」
「加州、お前は黙っていろ」
一声で加州くんを押し黙らせ、長曽祢さんは続ける。
「事態が事態だ、安全のためにも護衛役がいるに越したことはないだろう。他に頼る者が今は思いつかないようなら、取り急ぎではあるが和泉守を護衛に立てて、後々のことはまた後から考えればいい」
「は、」
「男を近くに置くことに抵抗はあるかもしれんが、和泉守がきみに危害を加えたりしないことはおれたちが保証しよう」
「え、と」
思わずみんなを見回す。加州くんは憮然としながら、大和守くんは呆れ顔、堀川くんは目をキラキラとさせている。
「でも……悪いですし、」
「緊急事態ですから遠慮は無用ですよ!」
「そーそ。こっちも乗り掛かった舟だし気にしないで」
「長曽祢さんが言うならいいけどさぁ……」
みんなが口々に言う中、和泉守くんをチラと見る。
目が合って、不覚にも心が震えた。あぁ、これは選ばれる側の瞳だ。選ばせてやる、という健全な自信が満ち満ちている。
みんなの視線が集まる中、私は少し考えてから静かに頭を下げた。
「……よろしく、お願いします」
せめて今日だけは、誰かに側にいてほしかった。
一通りの聞き取りと扉の掃除などが終わり、長曽祢さんが帰ろうとすると和泉守くんが
「そんじゃぁオレは一回家帰って色々済ませてくるから、お前ら後頼むぞ」
と言って一緒に出ていった。本当に泊まってくれる気なのだと理解して安堵感が押し寄せてくる。ご飯でも作ったほうが良いだろうか、と思っていると残ってくれた3人にお風呂をすすめられた。
「一人の時に入るの不安でしょ」
「誰か入ってきたら首落としとくから」
ぐ、と握り拳を作る加州くんと大和守くん。続けて堀川くんもニコニコして
「兼さんがいない間の警備は任せてください!」
と自身の胸を叩く。この人たち、私が仮にも女性性を持つ生き物だってことは分かってるのかな……? 変なところ心配になるほどあっけらかんとした善意だった。
促されるままお風呂に浸かっている間、もしかして私の『魅力』的なものは本当にとんでもない変質者にしか通用しないのかもしれない……と少し悶々とした。今まで男の子と付き合ったこともないのはそのせいだったのだろうか……とか、死ぬほど不毛な所まで想像して頭を振る。やめよう、暗い気持ちになる。
あがってスキンケアと、髪を乾かすところまで済ませて戻ると、和泉守くんがすでに来ていた。胡坐をかいてどっしりとしたその傍らには、剥き出しの竹刀が用意されていて少しひるむ。
多分この空間に見知らぬ人が入ってきたら、和泉守くんは本当にやる気だ。普段そういう武道的なものとはかけ離れた所にいるから、覚悟のようなものに慣れていなくてそわそわする。
私を見るや否や和泉守くんはビニール袋を差し出してきた。
「あんたも食え。気分じゃねぇとは思うが、なんでも身体が資本だ」
受け取って中を見るとおかかのおにぎりが入っていた。私はおかか好きだからいいけど、なかなか人に渡すのに躊躇いのある具のチョイスだと思う。自分の好きなものは人も好きだろう、みたいなカラッとした和泉守くんの思考が透けて見えて、ちょっと和んだ。
しばらく5人でだべっていたが、長居してもあれだからと3人が腰を上げた。中でも一番腰が重かったのは加州くんで
「万が一コイツに何かされたら俺が殺すし、言って」
と和泉守くんを指して言って、その指を叩き落とされていた。
みんなを見送ると当然ながら二人きりになってしまって、少しだけドギマギした。
別に和泉守くんみたいなイケメンで人気もある人が、私相手に何かするとは思ってない。思ってないけど、男女が同じ部屋で一晩過ごすというのは言い知れない緊張感があるものだ。
ところが和泉守くんはそんな私の心を知ってか知らずか、さっさとベッドから1メートルほど離れた床に座って
「オレはここで寝る。あんたも早めに寝ろよ」
と言って壁に寄りかかってしまった。思わずギョッとして腕を掴む。
「ちょっと待って、布団敷くよ!」
「んなもんいらねぇよ。護衛がガッツリ寝ちまったら意味ねぇだろ」
「え? えっ!? え、じゃぁ、えっと、掛布団だけでも!!」
慌てて押し入れから掛布団を引っ張り出して彼に手渡す。「おぅ、悪いな」と言って受け取ってくれたので安心したのだが、剥き出しのつま先にふんわりかけるだけで、彼は満足そうだった。思ってた使い方と違うよ……?
本当にそれで良いのか何度も確認したけど、最後には「くどい」と一喝されて、私はすごすごベッドに入った。心がざわざわして眠れる気がしなかったけど、目を瞑って眠るように努める。
時折、本当に和泉守くんがそこにいてくれているか怖くなって何度も目を開けた。彼は竹刀を抱えた状態で片膝を立て、壁に寄りかかるようにして目を瞑っている。
寝入り端からずっと武士のように微動だにしないその姿をしばらく見つめていたが、あれでは身体を痛めてしまう。半ば押し付けられる形だったとはいえ、護衛なんてものを頼んでおきながらこの扱いは我ながら非道過ぎるだろう。
「和泉守くん、やっぱりベッド使って」
起き上がって声をかけると、和泉守くんはスッと目を開けた。やはり眠れないのだろう。他人の家の、それも床に座り寝なんて、居心地が良いわけがない。家主の私が床に寝るのが得策だ。
和泉守くんは少し考える素振りを見せた後、無駄のない動きですっくと立ち上がる。どうやら聞き入れてくれるようだ。
安心してベッドから滑り出ようとすると、和泉守くんが私の前にのっそりと立ち塞がった。疑問に思いつつそこから降りられなくなってしまったので横にずれようとお尻を動かすと、和泉守くんは言った。
「詰めろ」
「え?」
「奥に詰めろ」
有無を言わさない口振りに、言われるがまま奥の壁側にずれた。すると彼はその空いたスペースに座ってさっさと横になってしまった。
「え、……と、」
現状に理解が追いつかない。和泉守くんをまたいで降りろということか。一瞬「俺の屍を越えてゆけ」という言葉が頭の中に響いた。……馬鹿みたいなことを考えている場合じゃない。
目を白黒させていると、横から和泉守くんの手がヌッと伸びてきた。反応する前に腕を掴まれる。
「ひっ」
喉が震えたような声が出て、引っ張られるままベッドに倒されてしまった。混乱しながら目の前に現れた和泉守くんの鎖骨を見つめていると、頭上から小さく
「寝ろ」
という声が聞こえた。
ねろ……練ろ、ネロ、…………寝ろ!?
いや無理だよ、うら若い男女が同じベッドで同衾って! 慌てて起き上がろうとする私を、抑え込むように大きな腕が乗っかってきて「ぷぎゃ」と情けない声が出る。お、重い……!
今度は足をばたつかせて脱出を試みるが、それもうるさいとばかりに足を乗っけて制される。ちょ、待っ、近い近い近いっていうか触ってる!!
つむじにかかる息に、こっちは呼吸もままならない。どんどん顔が熱くなって、この1分程で起きたことがあまりにも常識の範疇外で沸騰する。
しかし。
混乱する私をよそに頭上からはすぅすぅと穏やかな息が聞こえてくる。まさかと思い顔を上げると……和泉守くんは眠っていた。
これ、え……この状況って結構あれ……え、変だよね? それとも私がおかしい? 最近の子はこれくらいのことは普通……? ていうか和泉守くん、この状況でおやすみ3秒とか、嘘でしょ……?
加州くんの「万が一コイツに何かされたら俺が殺すし、言って」という言葉が思い起こされた。これは……何かされた範疇の出来事なのだろうか。いや、でもこれは眠れない私を思いやって、何かこう安心させようとしてのことなのでは。いやいや、それにしたってさすがにこれはやり過ぎか? ていうか護衛はガッツリ寝ないんじゃなかったんかい。てこでも動かないってことは逆に起きてるのか?? いやでも……
そのまま悶々としていたらいつの間にか朝になっていた。
カーテンがうっすら明るくなって、新聞配達のバイクがアパートの前を通り過ぎていくのを聞いた時には絶望にも似た気持ちを感じた。私、一体何してるんだろう……。
痛む目をこすりながらアラームを止めて、眠気を取るためにシャワーを浴びることを考えたけど、和泉守くんがいるのにシャワー……男の人のいる部屋でシャワー……熟考の末、却下した。
そそくさとベッドから這い出て着替えを持ってバスルームに閉じこもる。いや、立てこもりと言ったほうが良いかもしれない。とにかくなるたけ素早く着替えていると、廊下を行き過ぎる音が聞こえた。
慌ててシャツを上からすっぽり被って扉を開けると、そこにはもうすでにきっちり身支度を整えた和泉守くんがいて、ちょうど三和土で靴を履いている所だった。
「え、あ、和泉守くん、あの」
「おう、おはようさん」
「おは、よう……え、っと何処行くの」
「家だよ。流石にここで一っ風呂、ってわけにもいかねぇからな」
和泉守くんは頭を乱雑に掻いて言うが、こっちとしては、同衾は良くて風呂はNGなのか……と愕然とするばっかりだ。
「目覚まし掛けてたってことは、あんた今日は1限だろ。また迎えに来る」
オレが出たらすぐ鍵かけろよ、それだけ言って和泉守くんは行ってしまった。言いつけ通りに鍵をかけて、しばらくその場に突っ立っていた。
行きも送ってくれるのか、明るいのに。ていうか和泉守くんは今日1限あるのかな。無いのに送ってくれるのかな。……なんだか軽い感じで始まっちゃったけど、実はとんでもなく和泉守くんサイドに負担のかかるお願いだったのでは。いや、私がお願いしたんじゃないんだけど。でも今更やっぱりいいよと言ってもなんだか角が立ちそうだし、和泉守くんが加州くんに責め立てられる図しか思い浮かばない。あれ、これ結局流されるより他にないのでは……
──和泉守くんは一体何を思ってこんなことになっているんだろう。昨日、私たちの間には何が起こっていたんだろう。
頭の中は大混乱、だけど目下の火急案件はただ一つ。
「和泉守くん、ご飯、食べるかな……」
呟いてたっぷり3秒。大慌てで身を翻し、フローリングの床を滑るようにしながら冷蔵庫の中身を頭に思い浮かべる。眠気は一気にどこかに吹き飛んでしまった。
ボディガードを頼んで分かったことだけど、和泉守くんはとても頑固だ。彼は一度約束したことは絶対に破らない。
このボディガード生活にもその性格は端々に現れている。登下校の付き添いは勿論、休みの日の食材の買い出しにも付き合ってくれるし、果ては友達との勉強会の送り迎えまでしてくれる。私が「悪いから良いよ」と断っても
「オレはオレの好きにする」
と頑として譲らず、駅まで迎えに来てくれるのだ。本当に《守る》対象として扱われてるんだなぁと感じてくすぐったくなると同時に、とても頑ななタイプなんだろうとも思う。
友達には「愛されてるね」なんて度々冷やかされて困ったりもしたけど、そういう時、和泉守くんは特に否定も肯定もしなかった。他人からの評価よりも自分がどう思うかを大事にするのだろう。なんとなく、らしいなと思った。
あと、一度懐に入れた人間に対してすごく優しいし、そういう人に対してあまり遠慮が無い。
スピードを出し過ぎの車から庇ってくれたりもするし、荷物もサラッと持ってくれるし、逆に私が和泉守くんから離れたりし過ぎると「何かあったらどうする」と怒られる。
だけどそういう、和泉守くんが何かしようと思う時は大抵腕を掴まれたり、肩を抱かれたり、最悪抱き上げられたりするもんだからビックリしてしまう。聞けば考えるよりも先に手が出てしまうということらしいけど、勘違いされかねないからあんまり女の子に対して発揮するもんじゃないとは思う。
私は護衛対象だという自覚があるからあれだけど、それでも最初の頃は躊躇なく触られたり、抱き上げられたりする度ぎゃぁぎゃぁ騒いでた。そのくせ「悪い悪い」と軽く謝るばかりで全然改めてくれないのだ。最近じゃもう諦めが入ってきて、とりあえず和泉守くんから極端に離れさえしなければ不用意に抱っこされることもなかろうと、なるべく側にいるようにしてる。
他にも、一緒にご飯を作って和泉守くんの不器用さを発見したり、レポートをやってる横でアプリゲームをやって怒られて彼の短気を実感したりした。
たまに様子を見に来がてら遊びに来る加州くんたちは、その様を物珍しそうに眺めていてちょっと笑ってしまう。堀川くんは「仲良しですね」なんてニコニコ言うだけだけど、大和守くんなんかは「夫婦みたいだね」となんの気なしに言って加州くんにシバかれていた。
そして夜は必ず、和泉守くんの隣で眠る。あの日からずっと。
初めは緊張してドキドキして眠れなかったけど、私を抱き枕にしてすよすよ眠っている和泉守くんを見ると、意識しているこっちが馬鹿らしくなっていつしか眠れるようになった。今じゃその存外高い体温を近くに感じると安心してちょっと眠気が襲ってくるくらいで、パブロフみたいと我ながら単純さに呆れる。
変質者のことなど考える余地もないくらいの混乱をもたらしたこの習慣には感謝もしてる。けど、護衛の任が終わった頃にはきっと寒くて物足りなくて、しばらく眠れなくなるだろうなと思う。普段の精悍さからは想像もつかないくらい可愛い寝顔をもう見れなくなるかと思うと、今から少し寂しい。
そんな風に毎日楽しく過ごしていたら、あっという間に1月がたってしまった。
世間は梅雨入り、べたつく空気が迫る夏を知らせてくる。長曽祢さんからは逐一連絡が入るけど、犯人らしき男は一向に捕まらなかった。状況は何も変わらないまま、時間だけが過ぎていく。和泉守くんは変わらず優しい。
──どれだけ仲良くなろうとも、難しいことは沢山ある。中でも相手が一方的に犠牲を払わなければならない関係は、相手にストレスが溜まるだけだろう。
1月一緒に過ごして、和泉守くんたちが本当に良い人たちなんだということを知った。そして知れば知るほど、彼に護衛をしてもらうことが心苦しくなっていった。今後も仲良くしたいなら、この和泉守くん側にメリットが一つもない関係を続けていては駄目だと思う。
和泉守くんはきっと怒るだろう。「何も解決していないのに」と、憤慨するだろう。だけどそろそろ学期末テストも始まってしまうし、ここらが潮時だと思う。
私は彼らと、これからも友達でいたい。
「ダメだ」
眉間に深く皺を刻んだ和泉守くんはキッパリとそう言って、「話はそれだけか」と席を立ってしまう。私は慌てて食堂を出て去っていく和泉守くんの腕を引いて引き留めた。
「待ってよ、和泉守くん! ちゃんと話聞いて!」
「何度聞いてもダメなもんはダメだ。護衛は辞めねぇ」
「でも、もう1月も何もないんだよ? もしかしたらあっちも諦めたのかもしれないし……」
「前にもそう言って1週間後に家バレしてただろうが! ちったぁ危機感持て!!」
大きな声に知らず肩が跳ねる。だけどこれだけは譲れなくて、懸命に言葉を紡ぐ。
「い、えに、悪戯したのは、車の人とは別の人かもしれないじゃない、」
「あぁ?」
「車の人には家、バレてなくて、他の愉快犯的なのが悪戯したのかもしれないし、その」
「……何が言いてぇんだ」
地を這うみたいな声が降ってきて泣きそうになる。今まで優しくされてきた分、厳しさが突き刺さるようだ。和泉守くんは優しいだけの人じゃない。分かっていたのに身が縮む。
「可能性の話、です。違うかもしれないし、そうじゃないかもしれないけど、でも、だって、これから先、ずっと送り迎えしてもらうわけにいかないし」
しどろもどろになりながら、それでも言いたいことは伝える。和泉守くんは私の話を遮ったりはしなかった。けれどしばらくの逡巡の後、
「それでも、今はダメだ」
と言った。
「なんで」
「……まだ早過ぎる。しばらく様子見ろ」
「でも、もう期末テストも近いし、和泉守くんにばっかり負担かかっちゃう」
「んなもん、あんたは気にすんな」
カッと頭に血が上る。それじゃ対等じゃない。そんなの、友達じゃないじゃないか。
「気になるよ! ずっとずっと、気になってたよ! 和泉守くんは気にするなって言うけど、私はずっと、モヤモヤしてた。こんなのずっと続けてられない、いつかちゃんと一人暮らしに戻らなきゃって、ずっとずっと思ってたよ」
どんなに夜が怖くても、頼ってばかりじゃいられない。ここが終わりの時なのだ。
掴んでいた腕を放す。和泉守くんの腕は所在なさげに宙に浮いたままだ。
「今日は一人で帰るから」
「おい、」
「だいじょうぶだから。……本当に。心配しないで」
唇の端を無理やり上げて笑って見せる。まるで自分に言い聞かせてるみたいだって、心の隅で思った。
一人で帰るのは久しぶりでそわそわしたし、やたらと人にぶつかった。いっつも隣に和泉守くんがいたから、結構みんな気を遣って道を空けてくれたんだよね。たったの1月で人波にも上手く乗れなくなるなんて、恐ろしいことだ。
歩きながら、校門前に立っていた和泉守くんを思う。腕組みをして手に持った傘をイライラと動かし、しきりに校舎のほうを気にしていた。目の良い堀川くんまで引き連れて。
多分、あれは私を待っていたのだ。私の時間割をもう和泉守くんはあらかた把握していて、何限で終わりか知っているから。いつもは互いの時間割を擦り合わせて食堂で待ち合わせなのだけど、今日は私が食堂には寄らずにそのまま帰ると踏んだのだろう。大正解だ。
今日は運良く、私のほうが先に和泉守くんを見つけられたから裏門回避出来たけど……明日からどうしようか。きっと今日の夜も家に来る。どうして待たなかったって不機嫌な顔で怒りに来る。
困ったなぁと思いながら、そのことを思うとなんだか楽しくなってくるから不思議だ。もう家の前だし、と思って浮かれているのかもしれない。一人で帰れただけで喜ぶなんて、子供みたいだ。
アパートの階段を登りながら、薄明るい空に浮かぶ月をなんとなしに見つめる。
和泉守くんが来たら「ほら、もう平気だったでしょ」って言ってやろう。歯噛みする顔が目に浮かんで思わずクスリと笑みが漏れた。
そうしたら、……
そうしたら、今度こそまともな友達になれるだろうか。私ばかりが背負わせるのでなく、和泉守くんの悩みも聞けるような、対等な関係になれるだろうか。
頑固な彼が私に弱みを見せてくれるなんて、今はちっとも想像がつかないけど。
そんなことを考えながら鍵を回し、扉を開けた次の瞬間。
ドン、と背中を押されて室内に倒れ込んだ。
咄嗟に三和土についた手がビリビリと震える。
なに、なにが、今、
後ろを振り返る前に何か暖かいものがのしかかってきて、四つん這いで前に逃げようともがいた。しかしベッタリと背中に張り付いた重みが邪魔で、ちっとも前に進めない。頭の中に『油断』という言葉が明滅する。
嫌だ。いやだいやだいやだ、
耳元に吹きかかる興奮したような荒い息。梨の腐ったような匂い。乗りかかる重たい身体。
「かわいいね……」
あの声だ。
目の端で長細い虫のような指がおそるおそるといった感じで私の髪を撫でた。私が恐怖で動けなくなっているのが分かると、今度は無遠慮に髪をかき混ぜてくる。吐き気がした。
指一本動かないのに心臓ばかりがドンドンと胸の内を叩き続けている。
男のささくれた指が頬に触れる。無粋にまさぐるその指を切り落としてやりたい。なのに声一つ出なかった。
かみさま
助けて
信心深くもないくせに、何故そんなワードが出てきたのか分からない。けど私は神様を呼んでいた。心の中で、あらん限りの力を振り絞って祈っていた。声を出す、体を動かす、ありとあらゆる抵抗の力が全部内側で爆発したみたいに、祈っていた。
かみさま、世界なんかなくなっちゃえばいい、かみさま、かみさま──!!!!
「…か、……」
締まり切った喉の奥から、搾りカスみたいな声が出る。
「……かみ、」
ゴッ──!!
鈍い衝撃音と共に背中から男の影が引き剥がされた。何が起きたか分からず地に伏せたままジッとしていると、今度は金属に何かを打ち付けるような高い音が響く。
そっと振り返ると、一人の男がこちらに背を向けて立っていた。ゆたかな黒髪の美しい男。その背中には飲み込まれてしまいそうな暗い影が落ちていて、冴え冴えとしたシルエットだけが浮かび上がるようだった。
かみさま、
大きな影はおもむろに右手を掲げる。手の中にはわずかにひしゃげた傘が握られていた。
仁王立つ両足の隙間から、廊下の柵に寄りかかって座り込む足が見えた。人だ。沈黙している。気を失っているのかもしれない。頭上に掲げられた傘に、左手が添えられる。まるで空に浮かぶ月を斬らんとするような、荘厳な構えだ。
止めなくてはならない気がするのに、呆然と見つめるまま動けずにいた。
風切り音と共に振り下ろされる切っ先。
「、だめ──っ!!!」
何か大きな力に突き動かされたように叫んだ時、間に割り込む影を見た。
バシンッ──、振り下ろしかけた傘が止められた。間に入って同じような傘で攻撃を止めたのは堀川くんだった。
ギリギリと押し込まれる力に震えながら、それでも彼は退かずに語りかける。
「兼さん、やめよう。これ以上やったら死にます、」
「……退け。国広」
「兼さんっ!」
「退けっつってんだ!! この野郎、ぶっ殺してやる……!!」
慟哭だと思った。怒りで震える肩は、怯えているように見えた。
「和泉守くん……」
小さな呼びかけに彼は大袈裟に体を揺らした。
「和泉守くん」
もう一度呼ぶ。ゆっくりと傘を降ろし、肩を落として和泉守くんは振り返った。
あぁ、やっぱりそうだ。この人、泣いてる。
涙なんて流していない彼の顔を見て思う。
謝りたかった。怖がらせてごめんね。守れないかもしれないなんて、一瞬でも考えさせてごめんね。貴方の剣の届かない所に行って、ごめんなさい。
色んな『ごめん』が頭の中に浮かんで、どうしようもないから手を伸ばした。濡れてもいない彼の頬をぬぐってあげたくなった。
伸ばした指を彼が掬う。触れるだけの熱を私から握れば、ようやっと観念したようにきちんと触れてくれる。座り込んだままの私の前にしゃがんで、私が謝る前に目線を合わせず聞いてくる。
「怪我は」
「……だいじょうぶ」
「どこ触られた」
「髪と、あと少しほっぺたを。けど、だいじょうぶ」
「あんたの大丈夫は信用してねぇ。どこが大丈夫だ、そんなもん」
「和泉守くんが、来てくれたから。……もう、だいじょうぶ」
和泉守くんが顔を上げる。傷ついた瞳が私を見つめて、それを見ていたらこっちのほうが泣いてしまいそうで、でも泣いたらきっとこの人が気にするから、そのまま彼の肩口にぽすりと寄りかかった。
私はだいじょうぶ。この世界には貴方がいるから……私は平気だ。
そんな念がくっつけた額から伝わったのか、和泉守くんは私を囲い込むように緩く背に腕を回した。赤ん坊にするように柔く背中を撫でられると、知らない間に肺いっぱいに吸い込んでいた息が細く吐き出された。一気に血がぐるぐる巡っていく。
「オレはよぉ」
和泉守くんは無理に話を変えるように言って、それから少し逡巡して、
「あんたを、世界中の誰よりも幸せにしてやりたかったんだぜ」
と言った。心にストンと落ちるような声だった。身体から完全に強張りや恐怖が抜けて、自分が軟体動物になった気がした。ぺったりと和泉守くんの肩口に頭を預ける。和泉守くんの首元からはミルクのような匂いがした。安心するのに鼻の奥がつんとして、神経が馬鹿になるような不思議な匂いだった。
私、この人が好き。
漠然と思った。言いようのない気付きは何よりも決定的で、そう思ったら最後、目の前にある身体が隅々まで美しいことにドキリとした。
きゅ、とつま先を引き寄せて丸くなろうとすると、和泉守くんは私の動きに合わせるように覆いかぶさってくる。和泉守くんの匂いにより深く包まれて、殻に引っ込むヤドカリになった気分だった。
全身に絡む彼の艶やかな髪を引っかけないようにしなければ、と思った。そのことを彼が気にする姿は想像できなかったけど、私が彼を慈しみたいからそれでいいのだ。
目を瞑る。熱と、息遣いと、匂いと、和泉守くんの全部で感覚がいっぱいになって、私は安心して少し眠ってしまった。
和泉守くんは堀川くんの連絡を受けた長曽祢さんが到着するまで、そのままずっと私を抱き締めていてくれた。
戦争のために力を貸して欲しい。
そう、お上の人間に言われた時には、考えもしなかったことがある。
戦争だなんだとうるさく騒ぐから、オレはてっきり、歳さんのような剛毅なバラガキがオレを振るうのだと思っていた。それがまさか年若い娘に起こされ、身体を与えられるとは。それも自分で畑を耕し、物を食い、馬の世話をして、真の人の仔のように『生活』をするだなんて。どの刀が想像するだろうか。
最初は戸惑いが大きかった。けど日を重ねる内に『生活』には慣れ、物の味も分かるようになった。『審神者』と呼ばれるオレの持ち主も主君らしくなり、初めて起こされた時の頼りなさげな娘ではなくなっていった。
そうやって短いながらも日々を過ごす内、オレたちはいつしか審神者と刀ではなく、主君と臣下になっていった。刀としての本分を忘れた訳ではなかったが、持ち主とつぶさに話が出来るというのは今までなかったことだったから……いや、今さら誤魔化すのはやめだ。やっぱりオレは、どこかで己が刀であるという意識を捨ててきてしまったのかもしれないと思う。そうでなければ説明のつかないことが、娘と過ごしている間にいくつもあった。
数多大勢の人の仔の一人ではなく慈しみたいような気持ちや、後先考えずに猛りをぶつけたいような日もあった。
国広はオレのそういう部分に気づいていたようだったが、特に口を出すこともなかった。何故かは分からない。国広なりの許しだったのかもしれないし、オレが越えてはならない一線を越えるまでの阿呆だとは思っていなかったのかもしれない。
実際、幸か不幸か、オレは一線を越えなかった。最期まで、娘の一振りであり続けた。
娘がオレを男として求めた時でさえ、オレはそれを良しとしなかった。刀としての意地だとかそういうことではなく、……オレはそれが、娘の幸福だと思ったのだ。
オレは娘を幸福にしてやりたかった。この世の何よりも。
後に之定にそのことを話したら、アイツは微かに眉根を寄せて言った。
「本当に、互いに不器用なことだね」
多分ああいうのを、切ない顔、と言うのだろう。心が千切れそうな顔だと思ったから、恐らく。
──話を戻そう。刀の身でありながら人の仔に懸想をしたオレだったが、それでも最後の最後は戦場で、歳さんのようにパッと散ってゆくのだと思っていた。例え娘のほうが先に逝くとしても、それは討死であると。
まさか娘が老衰でこの世を去るとは、本当に考えもしないことだった。
オレにとって永遠に娘は娘だったが、人の仔の生涯は瞬きのように短い。娘は人で言う『老齢』となり、オレたち刀は、ゆっくりと死の支度をする娘を見守るばかりになった。
その別れは花火のように散った最初の持ち主のものとは全く赴きが違った。
起こされて以降ずっと聞き続けてきた娘の拍動が、日を追うごとに弱まっていく。それは言葉で言い表せない寂寥感と無力感を連れてきて、オレは度々唇を噛んだ。
──ある日。娘は布団の上から、側に控えるオレを呼んだ。
清潔な布団の上に横たわる身体はカサカサと渇いている。人の仔は魂から肉が剥がれ落ちるように死ぬのだな、と誰かがしみじみ言ったのを思い出した。
娘はそこで、オレに初めて懺悔をした。
「和泉守。ごめんなさいね。私、幾度も貴方を困らせた。謝るわ」
「そんなこたぁねぇよ」
オレが言えば、肉の薄い喉を震わせて「嘘吐きね」と娘は笑った。
「オレたち刀は嘘は吐けない。あんただって知ってるだろ」
「ムキにならなくたって良いじゃない」
「なってねぇ」
「そうね。貴方が言うならそうかもしれない。けど、私は貴方を困らせてしまったと思うから、どうか謝らせて」
娘は綿毛を吹くような囁かな笑みを浮かべた。
床に伏せってからというもの、娘はオレたちよりも永い時間を生きてきたかのように笑うことが度々あった。死期を悟った人間というのはこうも訳知り顔をするのかと鼻白んだこともあったけれど、確かにオレたちは主観的な死を知らない。
オレたちは刀である限り永遠に、死を観念のものとして捉えることしか出来ないのだった。
娘は重たそうに手を上げて、オレはその手を握った。娘の手は驚くほど冷たかった。
娘は言った。
「私、ずっと自分のことを運が悪いと思っていたの。審神者になって、戦争に加担して、やっと出来た好きな人にも振られて。でも、今思えば、私って本当にラッキーよね。たくさんの神様が、私を愛してくれたんだから」
唇から漏れ出る吐息に、死の匂いを感じた。
他の刀を呼ばなくては。死に目に会わせなくては。思っても声は出ない。
手の平から零れ落ちそうになる指を、ぎゅうと握りしめる。
「次の世では幸福になれよ」
オレの言葉に娘は瞬きを繰り返した。
「あんたがおぼこい、貞淑な女だってことは知ってる。だから、次は必ず、好きな男と幸福になれよ」
娘は目を見張り、小さく瞳を動かした。真意を探るような瞳だと思う。負けぬように喉奥から声を振り絞った。
「オレのことは忘れて、幸福になれよ」
娘は気が抜けたような顔をした。この世の全てを諦めたような顔だった。ダメだ。まだ、逝ってはダメだ。
掠れた声が言った。
「……良いわ。次の世では、絶対、貴方を思い出さない」
力の入らない指先がオレの手の甲を掻く。命の断末魔。死が、娘を攫っていく。
「約束するから、きっと……見守って、ね……」
拍動が消えていく。魂が剥がれていく。空になった肉を残して、高潔な魂だけが搦め取られて。
──オレが諾と言う前に、娘は逝ってしまった。随分とそそっかしいことだ。
遠くで之定の声が聞こえる。短刀たちの咽びが届く。国広の足音が響く。握っていた娘の手を静かに胸の前で組み合わせてやってから、オレは本体を手に取った。
あんなものは人の仔の世迷言だ。オレは約束もしていない。分霊の分際で神の身を捨て人に堕ちるなど、あってはならないことだ。例えオレが本霊で、全権限を持っていたとしても、そう許されることではない。……そんなことは分かっている。けど。
鞘にパキリとひびが入った音がした。
だけど、行かねば。
──主が待ってる。
あの娘とは前世からの関係だ。