Eeny, Meeny, Miny, Moe「お疲れさまでした!」
The Fallから出てきたバルバトスを見つけるなり顔を綻ばせて駆け寄ってくる留学生を見ただけで、この労働をこなした甲斐があると思えた。
「わざわざ迎えにいらっしゃらなくてもよろしいのですよ」
「私の代わりにアルバイトしてもらっているのに、そんなことできないです。バルバトスさんの取り分以外にもお礼したいので何がいいか考えておいてください」
「ありがとうございます。考えておきます」
そうは言ったものの、この後いつも通り二人で適当なカフェに立ち寄り、他愛ないお喋りをして嘆きの館まで留学生を送って行く。デートにも似たそれと笑顔だけで報酬としては充分である。
「今日はどちらに寄りましょうか。もし決めていないようでしたら新しく出来た――」
「あの、そのことなんですけど……今日はちょっと用があって……ごめんなさい」
「そうでしたか。ではまた次の機会にでも」
「本当にごめんなさい。お疲れさまでした」
余程急いでいるのだろう。ぺこりと頭を下げると振り向きもせずに走り去ってしまった。
たまにはそんなこともあろうとバルバトスは胸の内のざわつきから目を逸らして魔王城への帰路についた。
「ごめんなさい。今日もちょっと……」
今日もまた留学生は挨拶もそこそこに立ち去ってしまう。そこまで急ぐ用事なのだろうか。それなのに迎えに来るのをやめないとは妙なところで律儀なものだと感心した。誰か好い人でも出来たのだろうかと思ったが、それにしては浮かれているような雰囲気は感じられない。
許可もなくプライベートに踏み込むなど許されることではないが、不埒な輩に誑かされなどしていたら留学生の身に危険が及ぶ。そしてそれは巡り巡ってディアボロの立場をも脅かしかねない、と言い訳をしながら留学生の後を追った。
薄暗く細い入り組んだ路地を往く。地面には一昨日の雨が作った水溜りが残っていて靴を汚したが、今はそのような事は気にしていられなかった。見失わないよう、しかし気付かれないようにと慎重に何度目かの角を曲がったそこは少し開けた場所になっていて、その中央に留学生は立っていた。
角に身を隠し、様子を窺う。待ち合わせにしてもこのような場所で……? とバルバトスは訝しんだ。留学生はいつの間にかD.D.D.を手にしている。相手にチャットでも送るのだろうか。
送信し終わったと思しき直後、それに応えるように留学生の前に扉が出現するのを見た。
あれは――。
緑の瞳が見開かれる。扉も、感じ取れる魔力も、そこから覗く腕もすべてよく知っている。
バルバトスが飛び出そうとしたとき、留学生の姿は既に扉の向こうに消えていた。
翌日もバルバトスのアルバイト終了時刻に留学生はやってきた。
ここ最近お馴染みとなっている労いと謝罪の言葉を述べ、そそくさと立ち去ろうとする。
「お待ちください」
その腕を掴んで引き留めた。
「あの、私行かないと……」
「どちら、ではなく私の元へ、ですか?」
「……つけてたんですか?」
「その件については謝罪致します。申し訳ありません」
「……どこか入りませんか。そこの喫茶店とか」
この重荷を下ろしたい。留学生の心の声が聞こえた気がした。
食事よりは談話向けの落ち着いた雰囲気の店の隅にある目立たないテーブル席を確保し、適当なドリンクを二つ頼む。奇しくもここは先日誘おうとしていた喫茶店で、このような形で訪れることに多少の恨めしさを感じた。
バルバトスの向かいに座った留学生は俯いたままぽつぽつと喋りだした。
「……ある日、チャットが届いたんです」
「見覚えのないアイコンで知らない人なのになぜか読むのを止められなくて」
「読んでいるうちに気付いたら魔界に留学生として招かれたときと同じような状況になってて」
「過去らしいんですけどこっちとは少し違ってるみたいです。当たり前ですけど、みんなからは知らないひと扱いされました……」
「でも、慣れてからは普通に生活できるようになって、こっちと同じようにアルバイトなんかもお願いしたりして」
「あっちのバルバトスさんに何かお礼をしたいって言ったら、アルバイトが終わったら迎えに来てほしいって言われて迎えに行くようになったんです。働いてもらってる以上は断れなくて」
ずっと気掛かりだったのだろう。顔を上げた留学生の瞳の奥には不安が揺れていた。
「あの、やっぱりこれって良くないことなんですか? その、世界が滅ぶ、みたいなそういう危険は……」
「恐らく呼ばれる必然性があってのことでしょう。それに、万が一問題があればあちらの私が何かしら対処するはずです」
その返事を聞き、胸を撫で下ろす留学生と反対にバルバトスの心中は穏やかではなかった。
「ところで、あちら側の私は何か無礼を働いたりはしませんでしたか?」
「全然そんなことないです。何もわからない時から親切にしてくれてとても助かりました。それに迎えに行くと、折角来て頂いたので、ってカフェに誘ってくれるんです。どっちが労ってるのかわからないですよね。違う世界でも優しいんですね」
優しいのは相手が他でもないあなただからです、という言葉は飲み込んだ。
それにしても、アルバイト終わりに迎えに来させて、カフェに誘うとは今の自分とまるで同じではないか。
バルバトスの事はバルバトス自身が一番理解している。
まさか一人の人間を自分自身と取り合う羽目になるとは。
そして到底一筋縄ではいかないこともよく知っている。
安心したのか
「あっ新作のケーキも頼んでいいですか?」
と弾んだ声で尋ねる留学生に
「ええどうぞ。今度、私の新作のお菓子も召し上がっていただけますか?」
と答えながら、どうしたものかと次の一手を考えるのだった。
牽制の果てに辿り着いたのはシンプルで歪な関係だった。
「もう行ってしまわれるのですか」
ベッドに横たわったまま、目の前で身支度中の、シャワーを浴びたばかりで石鹸の香りを纏っている留学生にせがむように問う。
「はい。あっちのアルバイトが終わる時間なので」
いつ開けようとも扉の先はアルバイト終了直後なのだからもっとここに居てもいいのでは、とバルバトスは思う。尤も、好きなだけ引き留めるわけにはいかないのも理解している。頭で理解してはいるが――。
「じゃ、いってきますね。……っ」
いつものように去り際のキスをしようと近付いてきた留学生の腕を引くと、目論見通りバランスを崩してベッドに倒れこみ、マットレスが弾んだ。
そのまま組み敷いて唇を重ねる。さっきまで散々キスをしていたのに、いざこうすると全く足りていないと思い知らされた。
抵抗したものかと迷う腕、遠慮がちに応える舌、もぞもぞと動く脚。隙間から漏れる吐息は声を出すのを堪えようとして逆に熱を帯びたようになってしまっている。そのような姿はバルバトスを煽るには充分過ぎた。
しゅるりと音を立てて結んだばかりのタイを解き、ブラウスのボタンに手をかけた――ところでバルバトスの指に留学生の指が絡められ、動きを止められる。
「こら」
叱る事はあれど、こんな幼子の様に叱られる事などないバルバトスにとってその言葉は新鮮でむず痒く、思わず苦笑した。
「失礼いたしました」
ベッドに腰掛け、乱れた衣服を直す留学生の耳の後ろ、本人からは見えない位置に残っていた赤い跡を治癒魔法を纏わせた指先でそっとなぞって消す。
急な刺激にひゃっと小さな声を上げ、またですか? と困ったような笑みを浮かべて振り向いた留学生には、もしかしたらくすぐるのが好きだと思われているのかもしれない。
あちらの自分とこちらの自分、お互いに留学生を疲弊させまいと適当なところで切り上げるくらいの分別はある。
その反動か自分のものだと主張するマーキング行為は止まる所を知らず、最終的には周囲に隠し通すことに限界がきた留学生に客室の絨毯の上に正座させられ、怒られた。その最中、あちらの自分も同じ目にあったのだろうと思い至ったときは実に愉快で思わず微笑んでしまい、話聞いてましたか? と更に怒られることになったのだが。
それ以来、こっそりと付けた跡は留学生があちらへ行く前に消すようにしている。バルバトスの元を留学生が訪れた際に本人からは見えない位置にわざと残したと思しき跡が時折付いているのは、未熟者が消し忘れたと思うことにして早々に消している。
留学生は気を遣っているのか、バルバトスの視界に入るところであちらに行くことは決してしなかった。
「それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃいませ」
部屋のドアが閉まり、向こう側にあった気配が消えると、バルバトスの表情は恋人を見送る男から次期魔王の執事のそれに変わり、起床直後と同じ様に身支度を始めるのだった。