モーニング・グローリー・フィズ 頭が痛い。頭蓋の奥から響く鈍痛が私を責め立てる。なにこれ……。
呻きながら体を起こした先で目に入ったのは何度か目にしたことのある部屋。どうやら魔王城の客室らしい。なんでこんな所に……?
何か手掛かりはないかと辺りを見回すと、床には二人分の制服が散らばっていた。まさか、と恐る恐る隣に目をやるとそこには柔らかな布団に包まれてこちらの混乱も知らずに穏やかな寝息を立てているバルバトスさんがいた。服は床にあるわけでつまり――。
昨晩の記憶を辿って思い出したのは酔ってベッドに倒れこむ私、ふざけてバルバトスさんを引っ張り込む私、甘い声、熱い唇、肌を滑る手、快楽。うわごとのように「ください」だの「もっと」だの何度も何度も繰り返した挙句、「すき、すきです」とまで言った気がする……。
そこまで回想したところで我に返り、床に手を伸ばしたところで後ろから声がした。
「おはようございます」
「お、はよう、ございます……」
ぎこちない動きで振り向いたそこにはやっぱりバルバトスさんがいた。この事態になぜ微笑んでいられるのか。
「あの、昨日……」
「ああまで求めて頂けるとは、大変光栄です」
もしかして夢だったかも、という微かな希望はさらさらと崩れ去った。
「これって過去に戻ってやり直すことって……」
「坊ちゃまから許可を頂けるとお思いですか?」
「思いません……」
仮に許可が出る見込みがあったとしても事情を説明するなんて到底無理だ。あなたの執事と人間界のお酒が飲める店に行って泥酔した挙句に一夜を共にしました、なんて言えるわけがない。留学生として素行不良が過ぎる。
「なら、今日のことは忘れていただきたく……」
「おや、対価もなしに悪魔にお願いとは」
「うっ……何をすればいいですか?」
「そうですね……」
楽しそうだ。さすが悪魔。
「また私とご一緒していただけますか」
何を言われるかと身構えていたのに拍子抜けした。
「なんだ、それくらいならいいですよ」
安心した途端、壁の時計が鳴った。この時間ならすぐにここを出ればみんなが起き出す前に帰れるはず。服を引っ掴んで急いで着ると
「お世話になりました!」
と挨拶もそこそこに客室を後にした。制服のタイを忘れてきたことに気付いたのは部屋に着いてからだった。
***
…………またやらかした。
もう何度目だろう。一緒に食事に行っては酔い潰れて翌朝隣で目覚める。対価と称して次の約束をする。
私たちがいつも行く、大衆居酒屋とバーの中間のようなお店は人間界のお酒の中でもカクテルに力を入れているようで、分厚いメニューには無数の見知らぬ名前が並んでいた。
「カクテルは詳しくなくて……どれが飲みやすいですか?」
「飲みやすいもの、ですか? ……これなど口当たりが良いかと」
スクリュードライバー、シルクストッキング、ルシアン、キス・イン・ザ・ダーク、ビトウィーンザシーツ……。
勧められたものは毎回本当にどれも飲みやすくて、食事に行くたびにお酒に詳しくなっていった。だけど、その反面、バルバトスさんが何を考えているかはさっぱりわからないままだった。
「……こういうの、もう終わりにした方がいいと思うんです」
こうなるのが片手では到底足りなくなった頃、タイを結びながら、聞こえなければいいのにと願いつつ小さな声で呟いた。
残念ながらしっかり聞こえていたようで
「かしこまりました」
と朝食の席でパンのおかわりを頼んだ時と何ら変わりない返事が返ってきた。少しは理由を聞いたり引き留めてくれてもいいのに、と思いかけて、でも付き合ってるわけでもないしと思い直す。
「あの」
「どうかなさいましたか?」
「……」
好きです、なんて言うのも今更だし、さっきの残念さが微塵もない様子ではどう考えても望みがない。……それに最初の時、私が「好き」って言ったのを聞いているはずなのに。
「次回の……最後のお酒は私に選ばせてください」
上手く笑顔が作れているといいのだけど。
***
お待たせいたしました、と向かい合わせに座る私たちの間にグラスが二つ置かれる。片方はオレンジ、もう片方は白の液体が満たされている。
「どうぞ」
最後に相応しい名を冠する白いカクテル、XYZをバルバトスさんの前に滑らせ、私はもう片方――ただのオレンジジュースにした――を口にする。程よい甘みと酸味が喉を潤していった。
「勧めてくれたお酒、強いのばっかりだなんて酷いです」
「ふふ、飲みやすいもの、とだけ伺ったので」
リクエストにお応えしたまでです、と全く悪びれる様子もなくカクテルを一口飲むと続けた。
「ご存じだったのですね」
何度か同じことが続いた後、飲んだお酒のことを調べていて知った。
「もっともっと知りたかったんですけど、朝帰りするたびにルシファーの眉間の皴が深くなっていくんです。それ見てたら申し訳なくなって。それにバルバトスさんと一緒にいるとはいえ、もし私に何かあったらルシファーの責任問題になっちゃいますし」
朝食までには帰ります、という軽い連絡は入れていたけど保護者としていい気分ではないだろう。それでも、罪悪感が許す限り関係を終わらせたくなかった。
「相手が恋人ならここまで悩む必要もなかったんですけどね。ルシファーは別の意味で眉間に皺寄せそうですけど。ふふっ」
一息に言った後にあおったオレンジジュースはさっきよりもずっとずっと苦かった。
「つまり、私が恋人になれば何の問題もないということですね……おや、どうなさいました?」
余程変な顔をしていたらしい。もう三秒早ければむせていた。
「そんなつもりないのかと思ってました……最初の時、何て言ったか聞いてるはずなのになんていうかずっと、スンってしてましたし」
バルバトスさんが小さく溜息をついた。あ、呆れてる。
「忘れてください、と私にお願いしたのをお忘れですか?」
あー……まさか私が原因だったとは。
「その部分は忘れなくてもよかったというか……忘れてほしくなかったというか……」
「そうでしたか。それは何よりです。……私も忘れたくないと思っておりましたので」
「忘れるのは泥酔の部分だけでお願いします……」
どうやら無駄に遠回りしてしまったらしい。同じことに気付いたのか、目が合うなり二人で笑いあった。
「もう一杯付き合っていただけますか? 今度は私が選んだもので」
「いいですよ」
その前に、とルシファーにメッセージを送る。
『帰るのは明日の朝になります。信頼できる相手と一緒なのでご心配なく』
返事はすぐに来た。
『わかった。バルバトスによろしく伝えてくれ』
知ってたの!? ……お説教すらないわけだ。
「こちらなどいかがでしょうか」
正面のバルバトスさんは微笑むだけで、今はおすすめのお酒以外何も教えてくれなかった。