ぬいの本懐 わたくしはこの魔界でそこそこ有名な某お方を模して作られたぬいぐるみです。名前はまだありません。どこで作られたのかは見当もつきません。何でもぴかぴかと派手に光る箱の中でじっとしていたことだけは覚えています。
「あーっ! もうちょっと横! 横!」
「わかってるって…………キタコレ!」
「やったー! ありがとうレヴィ!」
何やら騒がしい声と共にわたくしの体は暗い空間に落下します。痛くはありません。綿ですから。
直後、何者かに掴まれて明るい、というよりもぎらぎらした空間に出ました。
「はー……本当にバルバトスさんのぬいぐるみだ……! 今日からよろしくね、ぬい!」
ぎゅ、と抱きしめられました。悪い方ではなさそうです。動けるなら握手の一つでもしたいところですが、生憎わたくしは綿なので動けません。その代わりと言っては何ですが、よろしくおねがいいたします、と心の中で頭を下げました。
その日から、わたくしの主――は大げさすぎるので「彼女」と呼びましょうか――との生活が始まりました。
どこへ行くにも一緒です。雪の冷たさに震えたり、満開の桜の隙間から空を見上げたり、雨音を聞きながら本を読んだり、夜空に咲く花の振動を感じたり、雷の音に驚いて二人で布団の奥に潜り込んだり、落ち葉の爆ぜる音を聞きながら暖をとったり。炬燵に入れられたまま彼女が寝てしまったときは思いがけずフカフカになってしまったものです。すべて、彼女と共に過ごした大切な思い出です。
彼女のD.D.D.には季節の風物詩と共にわたくしが写った写真がたくさんあることでしょう。
わたくしは喋ることも出来ず、そこにいることしか出来ませんでしたが、それでも彼女は満足しているようでした。
こんなに愛してもらっていいものだろうか、と疑問に思いましたがそれには理由がありました。
彼女が話す内容から推測するに、どうやらわたくしのモデルになった人物は彼女の恋人らしいのです。随分と忙しいようで、会えない寂しさをわたくしで紛らわせているようでした。
代替品、と聞いて人間であれば悲しむのでしょうが、わたくしはぬいぐるみです。持ち主の寂しさに寄り添う。ぬいぐるみとしての本懐ではないでしょうか。
……本当はわたくしのモデルと同様に彼女のお世話が出来ればよかったのですが。いえ、ぬいぐるみとしては過ぎた願望です。今は忘れましょう。今は。
わたくしが彼女の元で暮らすようになってまだ間もない頃、とある寒さの和らいだ夜、とうに他の皆は眠りについているような時刻にその男は部屋を訪ねてきました。久しぶりの逢瀬らしく、彼女の絶えることのない笑顔や薄く桃色に染まった頬を見ただけで待ちわびていたことがわかります。
わたくしによく似た男でした。いえ、残念ながらわたくしがこの男に似ているのでした。
魔界は不思議なところですから、わたくしのオリジナルということで何か通じるものがあったのかもしれません。この男だけはわたくしが意思を持っていることに気付いたようでした。
そして、どうやらそれを面白く思っていないようなのです。四六時中一緒にいてお世話をしてもらい、その上あの男がいない間の彼女まで知っているのですから当然です。
彼女を想う者として彼女の前で争うなど醜いことはしたくありません。それはあちらも同じようで、わたくしたちはお互いに不干渉とする条約を視線のみで締結いたしました。
そのはずなのに、腹いせとばかりに仲睦まじく寄り添っている最中やベッドの中から二人の姿をわたくしに見せつけてくるのには些か辟易しました。わたくしは綿ですから、行為の意味は知っていてもそのような欲を抱くことはないのに、です。
そんな日々が過ぎ、彼女と出会ってから季節が一巡した頃、ついに計画を実行する日がやってまいりました。夜な夜な、月から零れ落ちる僅かな魔力を溜めに溜め、ようやくこの綿の体に魔力が満ちたのです。
物音を立てないよう静かに立ち上がります。以前、彼女がわたくしのために作ってくださった大切なマフラーを机の一番上の引き出しから取り出して巻き、机の隅で埃を被っていたイヤホンのケーブルを使い手近にあったペンとメモ帳を体に括り付けます。窓を開けて外に出、おっと、窓は閉めておかなくては。彼女が風邪をひいてしまいます。しっかり閉めたことを確認すると窓から中庭へ落下。ええ、痛くはありません。綿ですから。一路、魔王城へ急ぎます。
暗い夜道とは対称的に星がきらきらと冬の空に輝いています。いつか彼女と並んで天体観測などしてみたいものです。
魔王城に到着しました。辺りはひっそりと静まり返っています。
「あなたですか。ご用件は?」
この体では喋れませんから、持参したメモ帳に全身を使ってペンで字を書きます。
『でんかにおはなししたいことがございます』
「お約束はなさっていますか」
『ありません』
ここで帰されるわけにはまいりません。慌ててメモに追記します。
『ほかにおきゃくさまはいらっしゃらないようですが』
「……ご案内いたします」
この男とはソリが合いません。明らかに不快に思っているのが伝わってきます。ですが、仕事に私情は持ち込まないとみえて、通常と変わらないと思しき対応をして頂けました。ここで揉めて貴重な魔力をロスするわけにはまいりません。こう見えても良いところはあるようです。
ディアボロ殿下の前に立ち、お辞儀をします。何しろ動けるようになったのがついさっきなのですから、お辞儀をするのも初めてです。上手くできているでしょうか。
「やあ、よく来たね」
『やぶんおそくにもうしわけありません。おはつにおめにかかります』
「君とは何度か彼女とのお茶会の席で会ったね。今日は何の用だい?」
どうやら自己紹介は不要なようで助かりました。全身を使って文字を書くのは骨が折れるのです。わたくしは綿なので骨はありませんが。
『おねがいがございます』
「聞かせてもらおうか」
『ひとのからだをいただけないでしょうか? いちにちでかまわないのです』
「どうして人の身を得たいのか、理由を教えてもらえるかな」
『いつもおせわになっているかのじょにおんがえしをしたく』
「なるほど。では、君は何を対価として差し出すんだい?」
『わたくしのまりょくを』
「……それでは少々足りないな」
困りました。充分に溜めたつもりだったのですが、まさか足りないとは。他に差し上げられる物はこの身一つ。ですが、わたくしがいなくなっては彼女が悲しみます。
「そのマフラーはいかがですか?」
『もうしわけありませんがこれはわたせません』
対価としては充分に思えました。ですが、彼女から頂いたものを渡せるわけがありません。それに、いつの間にかマフラーがなくなっていることに気付いたら、彼女はさぞ心を痛めることでしょう。この男はもしわたくしと同じ立場だったら、このとんでもない提案を呑むのでしょうか。
困り果て、なかったことにして帰ろうかと思い始めた直後、悩んでいるわたくしを見かねたのか殿下が一つの提案をしてくださいました。
「そうだな……では、足りない分として君が人になっている間に体験したことを聞かせてもらえるかな」
殿下はなんとお優しいのでしょう。どこぞの男とは天と地の差です。
『おこころづかい、かんしゃいたします』
客室のベッドに寝かされ、顔の上に手がかざされます。
視界がぼやけ、体の感覚が薄れ、意識が遠のく中、殿下とあの男の会話が聞こえました。
「あの程度の対価でよろしかったのですか?」
「自我を持った物体が人としての体を得る体験談なんてそうそう聞けるものではないよ。それに、今はホリデーシーズンだからね。いつも貰ってばかりだから、たまには私もプレゼントする側になってみたいんだ」
◇◇◇
枕元でけたたましく鳴る目覚ましを手探りで止め、しぶしぶ目を開く。
「おはよう、ぬい」
いつものように声をかけた隣はもぬけの殻。え? え? と辺りを見回し、机やベッドの下まで確認する。
「ぬいがいない……」
窓もドアもしっかり閉まっていて持ち去られるのも考えにくい。
朝食の時間ぎりぎりまで部屋中を何度も何度も探してもぬいは見つからなかった。
「何かあったのか?」
よほど顔に出ていたらしい。
「……ぬい……ぬいぐるみが朝起きたらいなくなってて」
「前に僕がゲーセンで取ったバルバトスのやつ?」
「うん……」
「窓は閉めてた?」
「寝る前に閉めたし、朝起きた時も閉まってた……」
「とりあえず、これ食ったら館ン中探すか」
「ありがと……」
とても朝食の気分ではなかったけど、何か食べないと、とパンを手に取ったとき、ダイニングのドアがすごい勢いで開いて何者かが駆け込んでくるなり、私に抱き着いた。
「ああ、よかった! ここにいらっしゃったのですね! お部屋にいらっしゃらなかったので探してしまいました」
「……バルバトス?」
全員の声が揃うなんて滅多にない。
「あ……もしかして、ぬい?」
そんな中、私の声はダイニングによく響いた。
場所をリビングに移し、私とぬいが並んで座ったソファの正面にはルシファーとレヴィ。もしかしたらぬいを取った者として気にしているのかもしれない。他の皆は思い思いの場所で好きなように過ごしているけれど、中身が違うといえど甘えるバルバトスさんなんてまず見られないからか、ちらちらとこちらに視線が寄越されるのを感じる。
「なるほど。つまり今日一日だけ人としての肉体を得た、と」
「はい。殿下が一日だけこの体を与えてくださいました」
ルシファーの眉間に少し皺が寄っている。また面倒なことを……と思っているのかもしれない。
「それにしてもよく元ぬいぐるみだなんてすぐわかったね」
「私が前にぬいに作ったマフラーが手首に巻かれてたから」
それを聞いたぬいが嬉しそうに頷く。
「あと、僕が取ったときは悪魔姿じゃなかった? その服、どうしたのさ」
「私がこの姿になったときは既に制服だったのです。恐らく殿下が気を利かせてくださったのでしょう」
「あー、たしかに。何もないのにバルバトスが悪魔姿で歩いていたら何事かって思うわ」
「それならいっそ別人の姿にしてくれればよかったんだが。……これからどうするんだ?」
「今日一日、彼女のお世話をさせて頂きたいのです」
「世話?」
「はい。彼女にして頂いたことをお返ししたく」
さっき、ぬいが私を膝に座らせようとした理由がよくわかった。
「バルバトスは承知しているのか?」
「はい。許可は頂いています」
「えー、つまりバルバトス公認で浮気ってわけ?」
好奇心に負けたようで、アスモが参戦してきた。
「いいえ、違います。彼女を好いているのは事実ですが、そのようなことではありません」
「でも、そんなのどうやって線引きするのさ?」
「私の目的は彼女への恩返しとしてのお世話です。ですので、彼女が私にしたことはしてもいいと。それに元がぬいぐるみなせいでしょうか、私にそのような欲はありません。そして、万が一彼女に不埒な行いをしようとした場合、即座にぬいぐるみに戻り、燃えるよう呪いをかけて頂きました」
「わーお……情熱的だね」
「それくらいしなくてはあの男の信用は得られませんので」
「お前はどうなんだ?」
とルシファーが私を見る。
「バルバトスさんも知ってるならいいかな。それに変なことはしないって言ってるし」
「……わかった。で、この後どうするつもりだ」
「そうですね……やはり彼女にして頂いたこととなりますと」
「あ、か、買い物! 買い物に付き合ってほしいな! ちょうど服とか見たいと思ってたから! すぐ準備してくる! すぐ!」
私に自覚がないだけで、とんでもないことをしている可能性がある以上、ぬいに提案させるのは危険すぎる。
服なら僕も付いていこうか? というアスモと、お待ちください! というぬいの声を背後に部屋に駆け込んだ。
「遅くなっちゃったね」
夢中になって店を巡るうちにすっかり時間という概念が消えていた。
二人並んで嘆きの館への道を歩く。公園の前に差し掛かったとき、ぬいが立ち止まった。
「……一つ、私の我儘を聞いていただけますか」
「どうしたの?」
「もう遅いのは承知しているのですが、少々こちらに寄ってもよろしいでしょうか」
指さしたのは公園。時間のせいか、ここから見える園内に人影はない。
「何か気になるものでもあった?」
「私がこの身になるため魔王城へ向かっていた道中、今と同じように夜空に星が輝いていて、その時思ったのです。あなたと一緒に見られたら、と」
「いいよ。寄ろっか」
周りに障害物の少ない、見通しのいいベンチに並んで座る。軽く見回してもひとの気配はなくて、少し安心した。別に見られてもやましいことはないのだけれど、なんとなく誰にも邪魔されたくなかった。
「寒くはありませんか?」
「大丈夫だよ」
満天、とまではいかないけれど今まで人間界で見てきた夜空よりずっと多くの光が瞬いていて、ぬいが見せたいと思った気持ちもわかる気がした。
「今日は一日、私に付き合って頂き、ありがとうございました」
「最初はちょっと驚いたけど……楽しかったよ」
「こうしてあなたと同じものを見て、触れて、感じて――そして、あなたのお世話が出来て、もう思い残すことはありません」
そんな最期みたいなことを言わないでほしい、とぬいを見た先には不安が瞳の奥で揺れていた。
「……教えてください。私はきちんとあなたのお世話が出来ていたでしょうか? 恩に報いることが出来ていたでしょうか?」
それに答えてしまったら本当に終わってしまう気がして、少しだけ考えた後、勢いよくベンチから立ち上がる。
「今日はまだ終わってないからわからないかな! 帰ろ。夕飯が待ってるよ。夕飯のときもお世話してくれるんでしょ?」
湿っぽい空気になるには、早すぎる。
◇◇◇
夕食と片付け、それに入浴――入浴の経験がないわたくしは扉の外で待つことしか出来ませんでしたが――を済ませ、いつもと同じようにベッドに二人並んで寝ます。普段と違うのはわたくしが人の姿をしていること。同じ高さの目線で見る彼女はなんだか新鮮です。
それにしても、わたくしにそのような欲がないとお伝えしたとはいえ、あっさり信じて共にベッドに入ってしまったのはとても心配です。もし嘘だとしたらどうするつもりだったのでしょうか。
……非常に癪なことに、あの男が傍にいる限りは不要な心配なのでしょうが。
彼女は今日一日で疲れたのでしょう。早くもうとうとし始めています。
「お疲れのようですね。もう寝ましょうか」
「……嫌。寝て起きたらぬいは戻っちゃうでしょ? まだお喋りしたい」
なんと可愛い我儘なのでしょうか。ですが、早く寝なくては明日に差し支えます。
「そのように言っていただけるとは、わたくしは幸せ者です」
おや、思わず本音が出てしまいました。
「一つだけ聞かせて」
「はい、なんでしょうか」
「いつから……えっと、意識、でいいのかな? あったの?」
「あなたの元に来る前から。あの眩しい箱の中にいたころから意識はありました」
「そんな前からなんだ…………えっ? じゃあ……」
何かを思い出したのでしょう。恥ずかしそうに手で顔を覆ってしまいました。悶える姿も可愛らしいものです。
しばらくの間震えたりごろごろと転がったりしていましたが、ふう、と一息つくと真っ直ぐにわたくしを見つめます。
「でも……ずっと一緒にいてくれたんだね」
「はい。そしてこれからも」
「……また、こうやってお喋りできる?」
「……」
今日限りという約束ですので。わたくしの無言の答えで何かを悟ったのでしょう。
「そんなに泣かないでください。姿が変わってもわたくしはあなたのお傍におります」
そっと彼女の涙を拭います。彼女の姿がぼやけているのですが、上手く拭えたでしょうか。
それに応えるように彼女の手がわたくしの頬に触れました。
ああ、そろそろ限界のようです。
彼女がこの頬に触れた手の温かさはわかるのに、わたくしが触れているはずの彼女の頬の温かさが、もうわからないのです。
意識が遠のいてゆきます。
残された力でいつも寝る前に彼女がしてくれていたように、抱き寄せてぎゅと抱きしめ、されるばかりだった挨拶をします。
「おやすみなさい」
◇◇◇
「あれ、寝てた……? おはよ……」
まで言いかけて思い出した。
「ぬい! ぬいは?」
ブランケットを勢いよく捲ったところからころりと出てきたのは一昨日までと同じ姿をしたぬいとマフラー。
ぬいはともかく、引き出しに入れていたマフラーが勝手に出てくるわけがない。
「夢じゃなかった……」
こんな思いをするなら夢の方がまだよかった。
コンコン。部屋のドアがノックされる。
「はい……」
なるべくいつもと同じ声を出そうとしたけれど、出来ていなかったらしい。扉の向こうの人物は私の状態を察してか、ドアの向こうから用件を告げた。
「ディアボロから連絡があった。ぬいぐるみを連れて魔王城まで来てほしいそうだ。……遅くなるとは伝えたが、あまり待たせるなよ」
「ん……わかった……」
今できる精一杯の返事をして、今日ばかりはその言葉に甘えさせてもらうことにした。
「やあ、わざわざすまない」
一体何を言われるのかと緊張していたけれど、ディアボロは朗らかに私を出迎えてくれて、悪いことではなさそうだと少し安心した。
「いえ、ぬい……この子がお世話になりました」
席に着くよう促され、座るとお茶が出される。いつもとは違う、落ち着く香りのハーブティーだった。
「君の膝にいる彼のことだが、どうやって人の姿になったかは聞いたかな?」
「はい……ぬいから聞きました」
「実は、彼からまだ対価をすべて貰っていないんだ」
さっきとは一転、真剣な表情になり、重々しく私に告げる。
「そう、ですか……わかりました。私に払えるものであれば。ぬいは一体何を対価にしたんですか?」
「彼が溜め込んでいた魔力。それと人の姿だったときの思い出話をしてもらうことになっているんだが、まだ思い出話はしてもらってなくてね」
「それなら私からの視点でよければ……」
「申し訳ないが、君でなく彼の口から直接聞きたいんだ」
「え……?」
でも人の姿になれるのは一日限りって……。
ディアボロがいたずらっ子のような顔でこちらを見る。
「だからまた魔力を溜めてから来てもらえるかな。その時は再度人の姿になってもらって話をするとしようか」
「じゃあ……」
「年に一度くらいはいいのではないかな。バルバトスもそう思うだろう?」
「……坊ちゃまがそう仰るのでしたら」
「いいんですか?」
「あなたが悲しむところは見たくありませんので」
「ありがとう、ございます……」
滲む視界の向こう側から「よろしくお願いいたします」と聞こえた気がした。