相即不離(サンプル)身代わり「おまえは二振りめだ」
顕現したばかりの髭切に審神者はそう言った。
厚い雲が蓋のようにかかった蒸し暑い日だった。湿気が人の体を芯にとぐろを巻き、それを手に掴めそうな気さえした。時折吠える風に審神者の声はかき消されたが、髭切はじっと耳を傾ける。
潜めた声で語るによると、一振りめは戦場で折れた。弟の膝丸は同じ戦場でそれを目の当たりにし、少しの間錯乱していた。しばらく前のことである。要は後釜だと髭切は理解した。
閉じきっていた襖を開けると、続く小部屋に膝丸が控え、床にへばりつきそうな深い礼をしていた。審神者が一言呼ぶと、体を低く保ったまま入室し、
「あなたをお待ちしていた」
審神者が居心地悪そうに身動ぎした。髭切は、膝丸の瞳に満ちる喜色を静かに見下ろす。錯乱を引き起こす程の思いは折り畳まれしまい込まれているのか、月日に押しつぶされ消え失せたのか、今は何一つ感じられない。ただいっしんに髭切を見つめる瞳は、明るい色をしている。
二振りは本丸を見てまわった。日本家屋を基に西洋風の技を取り入れた建物は、目を引くような細工が随所に施されている。髭切にはどれも馴染みがなかった。入り組んだ間取りは視界に流れていった。
膝丸は最後に居住棟へ髭切を連れていった。部屋へ案内され、髭切は膝丸が落ち着いている理由が分かった気がした。雑多に物が置かれた室内は一振りめと膝丸が共に暮らしていた時のまま保たれている。膝丸の心はここにあるのだ。
「戦に出られるのはいつ?」茶の用意をする背中に尋ねる。膝丸は白と黒の湯呑みと茶請けを用意しながら、そう遠くはないと答えた。
「早ければ明日にでも簡単な任務を与えられるだろう。補助は俺が務めるから、存分に身体を試してくれ」
「分かった」
手渡された黒の湯呑みはぬるい茶で満たされている。飲んでみると体のどこかに消えていくようだった。
翌日になると早速出陣の命が下された。風は昨夜からいっそう強まり、戦装束は空に飛び上がりそうだった。いつの間にか準備に加わった膝丸が預かった道具の説明をしてくれる。髭切は小さな御守を苦労して上衣の内側に留めた。
二振りは函館へ跳んだ。
「この任務中に一つ頼みたいことがある」
膝丸の轡は常に髭切より前にある。ぴんと張った背中が馬の歩みに合わせて揺れている。
「俺を斬ってくれ」
言葉の意味が、髭切には分からなかった。「どういうこと?」
「この先で戦闘になる。敵を斃したら俺も斬ってほしい」
膝丸の喜色に満ちた瞳を思い出すと、胃の腑がゆっくり落ちるような感覚がして、髭切は口を閉じた。答えない兄を振り返らず膝丸は続ける。
「主から聞いただろうが、俺は目の前で兄者を喪った。その時に俺の心も死んだ。もう戦えない。役に立たない戦刀に価値がないことは分かるだろう。情けがあるなら斬ってくれ」
「……少し考えさせて」
やっとそれだけ答えた髭切に、膝丸は重ねて言う。「頼むぞ、兄者」
戦闘の最中、膝丸は慣れた様子で敵部隊を追い込み、幾度となく髭切の前に身を晒した。敵ごと一刀にという意図は明らかだが、髭切が刃を浴びせることはなかった。
膝丸の頼みを聞いていいものか、髭切には判断のつけようがなかった。新たな主人や人理を思うのであれば斬ってはならないだろうし、弟の気持ちや戦刀の性を思うのであれば斬ってやりたい。どちらか選択をするだけの意志が髭切にはまだ備わっていなかった。
敵の気配が失せ、膝丸は刃を納めた。「次は斬ってくれ」
膝丸は兄を責めなかった。しかし本丸に帰還すると不機嫌になり、髭切の初陣を祝う宴会さえも早々に抜けていった。
外は嵐になっていた。日付が変わった頃、髭切は居住棟の玄関ホールの椅子に座り、窓を叩く雨を見ていた。部屋に帰りたいがここからどう行くのか思い出せない。
古いガラスを流れる雨が絨毯に歪んだ影を落としている。上から下に落ちる動きは眠気を誘う。ベルベッドの座面に身体をもたせかけ、髭切は微睡みに落ちた。
「風邪をひくぞ」膝丸が肩を揺さぶる。
優しい声だが、夜の暗がりで顔までは見えなかった。髭切は手を引かれて階段を上がった。
「昼間、斬らないでくれてありがとう」
髭切は顔を上げ、先を歩く背中を見た。髭切には闇しか見えないが、慣れた膝丸には昼と変わらず見えるのかもしれない。おぼろげな輪郭を辿ると、確かに髭切の右手を掴んでいる。
「戸惑われたことだろう。昼間の俺が言ったことは忘れてくれ。このまま死ぬつもりはない」
「……まだ錯乱しているの?」
「錯乱など」自嘲の含みを持たせて膝丸は吐き捨てた。
自室には二振り分の床が整えられ、常夜灯の淡い光に柔らかく浮かび上がっている。思い出したように疲労に満たされ、髭切は綿毛布に座り込んだ。眠くてたまらなかったが、すぐ傍で頑なな顔をして立っている膝丸を仰ぎ見た。切に揺らぐ瞳は、決壊を押さえ込む盾のように髭切には見えた。
「昼間の弟も正気に見えた」髭切は独り言のように言った「弟は二振り居るのかな」
膝丸は歯軋りして腰を下ろした。脱力した腕が鳩尾の辺りに収まっている。
「遠からず。しかし俺ではない……昼間この身に居るのは一振りめの兄者だ」
「折れたって聞いたけど」
「……その寸前だったが、まだ生きていた。太刀はひびだらけで地に転がり、兄者の身体は物のように固くなりつつあった。命の消えゆく様は、恐ろしくて……」
「心外だな、僕ってそんなに生き汚いの? おまえに取り憑こうなんて」
膝丸は首を左右に振ると、石のように黙り込んだまま、小さく震えていた。その能面のような顔を見て、髭切は弟の方へ布団を移ると、手を握って励ました。
膝丸は青白い唇をようやく開き、呼吸に紛れそうな声で言った。「俺が兄者を殺し、生かしてしまった」
「おまえが?」
「死に様を見届けることも、一振り遺されることも耐えられないと思って、兄者でこの身を貫いた。衝撃で太刀は腹の中で折れた。けれど俺が御守を持っていたために、共に折れることは叶わなかった。俺は生き残ったばかりでなく、この身で以て兄者を生の囚人としている。兄者は御魂を還してほしいだろう、けれど俺は、どうしても生きていてほしい。愚かな弟を許してくれ、兄者……」
啜り泣きが落ち着くと、膝丸は改めて平伏し、「どうか斬らないでくれ」と髭切に頼み込んだ。
再び出陣の命が下された。任務概要の説明が済むと、髭切は膝丸を先に行かせ、執務室に残った。台風一過の空の輝きは分厚い遮光カーテンで遮られている。審神者はその影の中から髭切を見上げている。
「錯乱した弟はどんな様子だった?」
「自分が誰だか分からない……というより、膝丸ではないと思いこんでいるようだった」審神者は驚きながらも渋々答えた。「記憶の保ちも悪かった。寝て起きると前日の事をほとんど覚えていないような日が続いた」
「どうして弟を刀解しなかったの?」
審神者は目を剥いたが、髭切が黙って見つめ返すばかりなので、いらいらと額を手でこすりながら、
「無事に帰ってくるように願って御守を持たせてるんだ。折れずに戻ってきた刀を手放すことはしない」
その道理は髭切には分からなかった。
時間遡行が済むと膝丸は「一つ頼みがある」と言った。
「兄に弟を斬らせるのか。不孝者」
「……返す言葉もない」
「おまえが僕を斬るなら考えようかな。どう?」
膝丸は答えなかった。
「おまえだけ本当のことを言わない、聞かん坊の悪い子だ。まあいいよ。おいで」
髭切は太刀を引き抜くと、歩み寄る膝丸を袈裟斬りにした。よろめいたところを蹴倒して馬乗りになる。傷口から血が溢れ、髭切の真っ白な下肢を汚した。膝丸は満足げな笑みを浮かべて横たわっていたが、次第に恐怖と苦痛に顔色を変え、じりじりもがいた。
「だめだ、だめだ……兄者。いやだ」懇願は悲痛な響きを帯び、髭切の鼓膜を震わせる。
髭切は弟の腰の物を奪い、あっという間に自身を貫いた。膝丸の喉がヒュッと短く鳴った。
「おまえたちの考えはどれ一つとして理解できない。この身体はあげるから、ちゃんと謝るんだね」
柄が膝丸の胸につっかえ、髭切の背中から刃がずるずると伸びる。膝丸の唇は兄の生暖かい血に濡れた。
御守の温かい光がぽっと二つ灯る。