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    To be with you. 1


     その金属の棚は、男子トイレの突き当たりの壁から生えている。
     棚の下は空間があるから、ウォールシェルフと呼ぶのかもしれない。かつては扉があったと思われる蝶番の跡があり、二段構えの棚板には何も置かれていない。すぐ隣の壁に窓があるけど、棚が邪魔をして奥の方が開けられなくなっている。
     今日みたいに晴れた日に鏡越しに棚を見ると、上段の天井というか、天面の裏がほのかに明るくなっているのが見える。もやのように輪郭の定まらない陽だまりは、窓の外のどこかを反射しているらしく、すぐ外に植わっている緑の色もうっすら見てとれる。
     ところが実物を見てみると、棚のどこにもそんな反射は起きていない。緑の映り込みもない。トイレの、埃を被った照明にうすぼんやり照らされているだけだ。棚板に手を泳がせてみても反射は遮れず、ほのかに明るいまま変わらない。
     この不思議な鏡像を見ると、鏡の向こうの世界というものを考えさせられる。不思議な、少し良いことが起きる世界。鏡に映るこの俺も、現実を過ごす俺より幸せに過ごしているのかもしれない。
    「膝丸」
    「……すまん、今行く」
     水気を振り落としハンカチで拭う。振り返った位置では鏡像もあの光も見えない。無人のトイレがあるだけだった。
     外に待たせていた大倶利伽羅広光は、スマートフォンでだれかと話していた。無口な彼が電話を嫌わないのはいつ見ても意外だ。謝るように手を合わせると、ちらと目を向けられる。床に置いていたリュックサックを拾い上げ、スマホで時刻を確認する。と、貞からの着信履歴があった。画面を見せ、次いで相手の耳元を指差すと、大倶利伽羅は頷いた。
    「それで。……聞いてない。……ああ、……うん……」
     部活動停止期間を終え、張り切った様子の運動部の声が遠くで聞こえる。大倶利伽羅のぽそぽそとした返事は、それと同じくらい小さい。俺は壁に背中をつけて、光の射したところが窓の形に白く切り取られている床板を、見るともなしに見る。
    「貞が、鎌倉駅に来いと言っている」
    「貞? なんで」
    「光忠のお使い。あとは意味が分からん」
     差し出されたスマートフォンを耳に当てると、電車の走行音と鎌倉行きのアナウンスが聞こえてくる。どうやらもう電車に乗っているらしい。「もしもし、貞?」
    『あっ膝丸? 加羅に聞いた?』
    「いや、あまり。どうしたんだ」
    『それがさ、膝丸、絶対驚くよ。地味だけどマジですげーの』
     浮ついた声で前置きたっぷりに言われて、一体何事かと気になってくる。エンターテイナーの素質を感じさせる貞こと太鼓鐘貞宗は大倶利伽羅の従弟だ。俺たちより二つ年下の中学二年生。ご両親は海外で働いていて、大倶利伽羅の家で暮らしている。
    「何がすごいんだ」
    『見ちゃったんだ、ドッペルゲンガー。膝丸の』
    「はあ?」
    『そいつ紀ノ国屋でバイトしてるんだよ。一緒に見に行こうぜ!』
     大倶利伽羅を見る。が、ただ肩を竦められる。
     光忠さんのお使いがあるから、大倶利伽羅たちはどちらにしろ行くと言う。初めての中間テストや担任との二者面談を終えたばかりで、開放的な気分だった。たまにはこんなのも面白そうだ。
     学校をから最寄り駅まで歩いていく。江ノ電は鎌倉駅から藤沢駅を往復する。運行間隔は約十二分に一本。高校の最寄りから鎌倉駅までは大体二十分かかる。いつも観光客で混雑しているのであまり乗りたくないが、バスはこちら側を走っていないから仕方ない。
     細長いホームの一番奥で電車を待つ。同じく電車待ちの人たちがずらりと並んで、緑と卵色の古い車両にカメラやスマホを向けるのも見慣れた光景た。
    「夕飯、大丈夫なのか」
     車内に入ってから、思い出したように大倶利伽羅が尋ねてくる。リュックを前に抱え直しながら「ちょっと見て帰るだけなら」と答えると、大倶利伽羅は小さく頷いた。
     揃って内向的な俺たちは小学二年生のときから友達をやっている。俺たちを結びつけるのは、おばさん——彼の母だ。おばさんは、祖父と二人で暮らしの俺を何かと気にかけてくれる。おかずを届けてくれたり、おじいさんの代わりに学校行事に出てくれたり。少々強引なところもあるが、そのおかげで俺たちは、毎日の登下校を中学高校と欠かさず共にするほどの間柄になった。
     食事はおじいさんと毎日交代でつくっている。当番の日は朝から米を炊いて、朝食と、二人分の弁当を作る。夜の仕込みをしてから行くか、帰ってから作るかは献立によるが、俺は作り置きする方が好きで、土日にまとめて下ごしらえしておいたものを使うことが多い。
     日毎の当番制になったのは高校に入ってからで、剣道部だった中学までは朝昼は俺が用意し、夜はおじいさんの担当だった。
    「いなかったら無駄足だな」
    「おじいさんに漬物でも買って帰るさ」
     カーブに差し掛かり、車体がギイギイと音を立てる。その音に紛れるよう、抑えた声で尋ねる。
    「ドッペルゲンガーなんて、本当にいると思うか?」
    「さあ。だが貞は見たんだろう」
    「光忠さんも見たのか」
    「知らん。あいつは調味料でも見てたんじゃないか」
     そう言ってスマートフォンの画面を見せてくれる。馴染みのないスパイスの名前と、お祈り絵文字付きの「買ってきてください」というメッセージ。
     光忠さんは、これまた大倶利伽羅と貞の遠い親戚であり、大倶利伽羅のバイト先の上司でもある。彼が江の島に地中海バルを開いたのは俺たちが中学に上がる直前だった。
     光忠さんはずっと料理が好きで、大学時代にはもう自分の店を開くことを志していたそうだ。卒業後は海外で二年ほど修行し、帰国後、大学時代の友人と共同で店を立ち上げた。
     きちんとした計画を立て、目標を達成する姿は立派だ。大倶利伽羅と貞は昔から光忠さんを尊敬している。俺も話を聞くたびにすごいと思っていたが、今は、ただ感心するばかりではいられない。
    「ところで、ドッペルゲンガーが何か知っているのか」
     大倶利伽羅の質問に意識が引き戻される。そういえば、何となくのイメージはあるが詳しくは知らない。そういう曖昧な知識はいったいいつ入ってくるのだろうか。
    「もう一人の自分……みたいな……?」
    「見たら死ぬらしいぞ」
     何気なく発されたその言葉が、頭の中に重く響く。死。だれにでも、いつかは訪れるものだ。
     もやのように忍び寄る暗い気分を誤魔化そうと、大げさに顔をしかめた。
    「まさか。……ちなみにどっちが死ぬんだ」
    「本物の方、とこれには書いてある」
    「もう一人の自分なら、向こうも自分が本物だと思っているんじゃないのか?」
    「なら両方死ぬんだろう」
    「殺すな」
     大倶利伽羅は口元にかすかに笑みを浮かべ、スマホの画面をスクロールしている。貞は大げさなところがあるから、それほど似ていないだろうし、ドッペルゲンガーを信じているわけではない。だけど、もし本当に居て、目撃すると死んでしまうとしたら。
     もう、何も恐れなくても良くなるのか。
     安堵の気持ちが宙に浮く。

     貞はホームのベンチで動画を見ながら待っていた。学生服姿はあまり見なくて新鮮だ。似合っていると褒めると、おどけてポーズをとってくれる。連れ立って改札を抜ける。
     江ノ電の駅舎は、JR鎌倉駅の西口側にある。鶴岡八幡宮がある東口と比べると、こちらはあまり観光地的な作りではない。
     正面に伸びる市役所通りの先にスクランブル交差点があり、紀ノ国屋はその中央に建っている。
     周囲より数メートル高くした敷地に、車や自転車を停めるスペースを広く取ってある。夕方近いためか、自転車置き場はいっぱいだった。
     買い物客に混じって店内入口までのスロープを上がっていく。すぐ隣の植木売り場で店員がせっせと鉢を入れ替えていた。
    「俺ちょっと見てくる。加羅、みっちゃんのスパイスよろしく」
     店内に入るなり貞は颯爽と行ってしまった。呆れて溜め息する大倶利伽羅の隣で、俺は店内の様子に感動していた。
     洗練された陳列に、計算された明るい照明。入ってすぐその日オススメの惣菜が置かれているところが、仕事帰りの大人にはうれしいポイントだろうか。ブランドロゴの入ったオリジナルのエコバッグまでさり気なく売られていて、近所のスーパーとは大違いだ。
    「……ちょっと、野菜見ていいか」
    「好きにしろ」
     許可を得たので遠慮なく野菜売り場へ向かう。葉の状態やかたちがきれいで、野菜そのものも何となく洒落た雰囲気だ。
     全国的に有名な鎌倉野菜は、見慣れた人参から海外原産の珍しい野菜まで栽培されているが、朝市や即売所で大体売れてしまって、夕方のスーパーではまず見られない。ここにあるのも輸入物や日本各地から仕入れた品だった。質は良いが値段もそれとなく都会的なので、この点は近所のスーパーに軍配が上がりそうだ。
     野菜コーナーが終わってすぐ、漬物の並んだ冷蔵ケースがあった。初めて見るメーカーのものばかりだが、どれも美味しそうだ。大きな水なすの袋を取って、大倶利伽羅とスパイスコーナーへ向かう。
     貞はもう偵察を終えて俺たちを待っていた。スパイスの瓶を俺に手渡すと「四番のレジにいる」と囁く。大倶利伽羅と顔を見合わせていると、子どもに言い聞かせるような口調で、見れば分かるよと言い足した。
    「俺たちはあっちで見てるから」
    「押すな」
    「これ、レシート貰えばいいか?」
    「うん」
     二人が商品棚に隠れるのを見送ってから、四番のレジに並ぶ。他が空けばそちらに呼ばれてしまうので、そう都合よくいくものかと思ったが、レジの進みは順当だった。
     前の客が進み出て、買い物かごをレジ台に載せる。レジスターのディスプレイの間から、店員の姿がわずかに見える。年は近いようだが、うつむき加減の横顔で、似ているかどうかは判断がつかない。
     ドッペルゲンガーでなくとも、自分とそっくりな人は世の中に三人くらいいるという。おそらくそんなものだろうと思っていると「お待ちのお客様、どうぞ」と、やわらかい声に呼ばれた。
     停止位置から進み出て、店員と正面から向き合う。すると、向こうが小さく息を呑む音が聞こえた。俺は息をするのを、忘れていた。
     前髪を分けて三角巾に留めているため、顔の全てのパーツが見えている。それは正に今朝も、帰りのトイレでも見てきた自分の顔そのものだった。目頭から鼻筋に至る起伏も、上くちびるがなだらかなところも同じ。一瞬現実を忘れ、鏡の向こうの世界のことを思い出す。
    「あ、」
     手元に触れるものがあって、見ると、レジ台の上で店員が両手のひらを差し出していた。指先が水なすの袋に触れている。半ば押し付けるように手渡した。
     向こうの方が回復が早い。てきぱきと動く彼の胸元に目をやる。丸みのある書体で、田辺という名字が書かれている。源ではないことに安心したような、残念なような、おかしな気分を感じながら、彼が働くのを見守る。
    「お会計、八百六十二円です」
    「あっ」
    「はい」
    「ごめんなさい、分けてください……」
    「……ああ」
    「すみません……」
    「じゃあ……ええと……お漬物、お先に」
     袋は不要だと伝えたが、財布から小銭を出している間に「田辺」は水なすを水物袋に入れてくれた。レジ台の上で袋がふにゃりと倒れていくのが、妙に目に留まる。そこにわずかに添えられた「田辺」の手も。
     今度は滞りなく支払いを終える。もう少し、何か無いかと、品物を受け取りながら礼を伝えてみるが、彼はただ頭を下げるだけだった。目が合わないどころか、少しそっぽを向くようにして顔を上げる。
    「ありがとうございます、またお越しくださいませ」
     マニュアル通りの返答。そして機械的に流暢な抑揚で、次の客を呼んだ。
     入ってきた時より、混雑してきたようだ。「田辺」は買い物かごの品物を次々と精算かごへ移していく。その様子を見ながら、水なすをリュックにしまった。スパイスとレシートは片手に持ったままで出口へ向かう。途中で合流してきた二人と揃って店の外へ出る。
    「どうよ!」
     入口脇で立ち止まり、貞は振りかぶるように尋ねてきた。大倶利伽羅に瓶とレシートを渡し、代金を受け取りながら顔を向ける。
    「なんだよその顔。驚きすぎて言葉もないって感じ?」
    「……まあ……」
    「すっっっっっっげ〜似てたろ? 最初見た時ほんとに膝丸かと思ったもん」
    「彼に会計してもらったのか?」
    「んや、こないだは見ただけ。なあ、あいつも驚いてた?」
     驚いていた、と思う。息を呑む音を聞いたし、彼もすぐには動けなかった。けれど、本当に現実に見聞きしたものなのか、なんだか自信がなくなってきた。彼は本当に存在したのだろうか。存在はしているとして、本当に俺と似ていたのだろうか。
    「膝丸?」
    「あ、すまん。向こうも……驚いていたが、初めのうちだけだったぞ」
    「えーっ。おかしくねえ? こんなに似てる人が突然現れたら、ふつーもっと盛り上がるだろ」
    「バイト中だし……」
    「おいおい、仕事中って脳みそ死んじゃうわけ?」
     貞は大げさに肩を落とし、交差点の方へとぼとぼ向かっていく。大倶利伽羅をつついて、脳みそ死ぬのかと尋ねてみると、彼はしばらく考え込んだ。
    「同じ顔のやつが来たとして、ただ食事して帰るなら、ただ接客する」
    「……俺もそうすると思う」
     前を歩く貞を見やると、丸めていた背中はピンと伸びて、歩みもしっかりしていた。俺たちとは性格が違うんだろう。彼のドッペルゲンガーもきっと陽気だから、二人が出会ったら、たいへんな騒ぎになるに違いない。

     今度は三人で江ノ電に乗り込む。ドッペルゲンガーへの興味はもう薄れたようで、貞はずっと、昨夜のテレビの話や中間テストがやばかった話をしていた。
     三人で居るとたいてい貞が話し役だ。俺たちは相槌役を勤め、時々大倶利伽羅がつっこみや訂正をする。
     二人はずっと一緒だからか、本当の兄弟のように仲が良くて息が合っている。俺にとっても貞は弟のような存在だが、やっぱり二人の間には入れない。少しだけ、羨ましいと思う。
     「田辺」に兄弟はいるだろうか。彼が鏡の向こうの存在だとしたら、(そんなもの無いに決まっているけど、もしもの話だ。)きっと彼は俺の望むものをいろいろと手にしているだろう。兄弟や両親。不安のない未来。彼がどんなふうに今日まで過ごしてきたのかを知りたい。
     現実的に考えれば、あんなに似ている人間が同じ市内にいたら噂になるはずだ。けれどこれまで聞いたことが無いし、他校と合同開催される行事でも彼を見ていない。どこか他所から引っ越して来たのだろうか。俺は鎌倉の暮らししか知らないから、他の町のことも聞いてみたいと思った。
    「膝丸、腰越で降りるよな?」
     話しかけられ、慌てて頷く。もう鎌校前を過ぎたところだった。
    「加羅はバイトだから、このまま乗ってくって」
    「そうか。がんばれよ」
     がんばるほどのことはないと言うように、大倶利伽羅は目を伏せた。
     貞と一緒に腰越で降りる。海に誘われたが、食事当番だからと断って別れた。
     大倶利伽羅家は駅から少し離れているが、うちはすぐだ。裏手に抜け、坂を上がって左に折れる。コンクリートの石垣越しに梅の木が見えたら、そこが我が家だ。
     壊れているせいで開きっぱなしの、小さな門扉を抜ける。梅の木以外にも直植えの低木が何種類かあって、多年草の鉢も置いてある。子どもの頃はそこら中に花が芽吹いて花畑のようだったが、おばあさんが亡くなって規模を縮小した。玄関近くに植わっている梅の木だけはあの頃と変わらずに花を咲かせ、実をつけ続けている。
     おじいさんはちょうど、樹の手入れをしているところだった。
    「ただいま」
     声をかけると手招きされ、鋏をくれと言いつけられる。ガラス戸を開けたままの縁側に、梅の実がいっぱいの籠と、黒い枝切り鋏が置かれている。
     鋏を渡してから、籠の隣に腰を下ろす。手にとって鼻に近づけても、まだほとんど香らない。サイズや傷の有無で選り分ける。毎年梅酒や梅干しをつくってご近所に配るのだが、梅が植わっている家は他にもあるし、この樹は配っても余るほどの実をつける。今年も相変わらず豊作だ。
    「まだごまんとある」
     俺の心を読んだようにおじいさんは声を上げた。伐った枝を手に梯子を降りて傍まで来ると、ぐっと伸びをした。呆れたように樹を見ているが、植えたのはおじいさんだと聞いている。おばあさんとの結婚祝いとか何とか。
    「梅仕事が終わらんな」
    「大変なら、そろそろやめてしまってもいいんじゃないか」
    「そういうわけにはいかん。ばあさんの樹だから」
     おばあさんが亡くなってから、おじいさんはこの家の管理と俺の世話を一人で引き受けている。
    「今年も漬けるの手伝ってくれるな」
    「うん、もちろん」
     おじいさんはにっこりして、俺の肩を叩いた。
     家に上がり、漬物を冷蔵庫に入れてから風呂場を確認する。おじいさんが昼のうちに掃除してくれているが、念のためにシャワーで流してから湯を沸かす。山から離れていても、古い家に虫は簡単に入り込む。湯面に浮いた小虫を見つけると、何とも言えない気分になるものだ。
     制服から着替え、台所の床下収納を覗いてみると、案の定古い梅干しの瓶がごろごろ出てきた。何年ものか分からない、ものすごく深い色をしたものもあって、見ているだけで唾が沸いてくる。
     実るともったいなくて漬けてしまうが、消費する努力が必要なようだ。今夜は魚のつもりだったが、豚の梅肉和えに変更する。他のレシピも後で調べてみようと思いながら、まずは弁当箱を洗った。
     おじいさんが庭仕事を終え風呂に浸かっている間に、食事の準備はあらかた整った。短い廊下を行き来して居間の食卓へおかずを運び、箸を用意する。水茄子は一口サイズに切ってから、袋の水ごと保存容器に移した。食べる分はそれぞれガラス皿に盛り付ける。弁当のことを考えるともう一品欲しいところだが、今から用意するとおじいさんの食べるタイミングには間に合わない。
     夕飯の用意をするようになって二ヶ月だが、こういう見通しを立てて料理するのが本当に難しい。学校でも、午後にはもう夕飯作りのことを考えている日もある。毎日こなしていたおじいさんへ尊敬の念を送りながら、茶碗に米をよそった。
     仏壇にご飯を上げている間に、おじいさんが居間へ入って来る。注いでくれた緑茶のコップを受け取って、二人で手を合わせた。梅肉和えを箸でつまんで、おじいさんはフッと笑って見せる。
     うちでは、食事中に会話はほとんどしない。テレビも見ない。そういうルールがあるわけではないが、昔からそうだった。美味しいとか、今日は何があったとかいう話をすることもあるが、食事中にするという決まりもない。
    「この水茄子うまいな」
    「ああ、鎌倉のスーパーで買った」
    「わざわざ行ったのか」
    「光忠さんのお使いで、大倶利伽羅に着いていったんだ」
     おじいさんは頷き、もう一切れ口に運んだ。まだ冷蔵庫にあると伝えたが「田辺」のことは言い出せなかった。だって、本当に現実だったのか実感がない。
    「そういえば、面談があるとか言ってなかったか」
     その話題もあまり好ましくない。味噌汁椀を傾けながら「二者面談だ。今日終わった」と短く答える。
    「何の話をしたんだ」
    「テストの結果とか……学校に馴染めたかとか」
    「どうなんだ」
    「どちらもまあまあだ……多分」
     おじいさんは笑いながら頷き、白米のお代わりをしに席を立った。俺は少しホッとして、梅肉和えを頬張る。
     二者面談の話題はもう一つあった。「進路について」だ。進学と答えたものの、口にした途端、まるで嘘を言ったような気分になった。自分が大学生になっている想像が全くできなかったからだ。
     学びたいことややりたいことはまだ見つけられていない。だけどそれより、未来そのものが俺の想像を妨げている。未来にはいくつもの可能性がある。考えてもみなかった事態に陥ることだってあるだろう。
     もしもおじいさんの身に何か起きたら、大学なんて行っていられない。なにせ俺は、他に頼れる親族が居ないのだ。

    2


     六月も中旬に差しかかっているのに、梅雨入りの気配はまだ無い。江ノ電の車内は西日に染まり、乗客たちは海に向かって目を細めている。俺はリュックを抱え直して目を閉じた。まぶたの内まで日が追ってこないことに、少し安堵する。
     二日続けて江ノ電に乗っているのは「田辺」に会いに行くためだ。彼がいったい何者なのかどうしても知りたい。貞の言っていた「盛り上がる」はこういうことだったのだろうか。その場で盛り上がれなかったために、無謀なことをする羽目になって落ち着かない。
     電車を降りると、緊張は更に高まってきた。意味もなく周辺を見回してみる。
     改札を出てすぐ左手が御成通り。小町通りと比べると大人向けの落ち着いた雰囲気だったが、最近は洒落た店ができて若い人にも人気らしい。
     右手が待ち合わせによく使われる時計台広場。その脇道を進んで、地下道を通れば東口に出られる。
     市役所通りの先には、峯山のこんもりした緑と、紀ノ国屋の白い建物が見えている。
     用がなければ来ないが、見慣れた鎌倉駅西口だ。住み続けている町に応援されているつもりで、一歩踏み出す。
     確実に話をするためのプランは、バイト終わりに直接声をかけることだ。彼が居ることを確かめたら、どこかに身を潜めて待つ。求人サイトの情報によれば夜のシフトは八時半まで。早上がりの可能性もあるから、出入りを見張れる場所が望ましい。彼が不在の時点で失敗の策だが、他に方法が浮かばなかった。
     信号で足を止めて辺りを観察する。向かいのビルにカフェがあるようだが、通りに面しておらず、見張りには適していない。市役所通りに交差する今小路通りには高校生が一人で長居できる店は無さそうだ。どうしたものかと思いながら、青に変わった信号を渡る。
     紀ノ国屋に入り、惣菜を横目に陳列棚を迂回する。レジを覗き見してみると、他の店員と会話する「田辺」が居た。どきりとして棚に体を寄せる。
     話しているのは、母親くらい歳の離れた女性だ。「田辺」は穏やかに相槌を打ち時々微笑んでいる。やっぱり同じ顔をしている。昨日どころか今朝も見たと錯覚するほどそっくりだ。だけど俺は、あんなに優しい笑顔はつくれない。
     客や店員に見られないように顔を伏せつつ、怪しまれない程度で店を出る。居ることは確認できたから、次は待機場所だ。
     紀ノ国屋の駐車スペースは開けているうえ、交通整理の守衛が常に二三人立っている。道路を挟んだ隣は交番で、路上に長時間留まると怪しまれそうだ。交番の裏に有料駐車場があるが、防犯カメラもあるだろう。店の前で堂々待つという最悪の手が早々に消え、むしろ安心する。
     ひとまず建物に沿って歩いていくと、鉄扉の開く音と共に「お疲れ様でーす」と言う声が聞こえてきた。立ち止まってスマホをいじるふりをしていると、女の人が出てきて通り過ぎて行く。前髪をしっかり分けてピンで留めた様子は、三角巾をしていた「田辺」と同じだ。従業員は店の入口ではなく、この通用口から出入りするらしい。ガッツポーズしたいのをこらえ、ここを見張れそうな場所を探してみる。
     駅方面の市役所通りには良い場所が無かった。今小路通の店もだめだ。交番に隣接する御成小学校よまで歩いてみたが、離れ過ぎていて見張りにならない。
     小学校から交番まで戻ってきたとき、中にいた警官がちらりとこちらを見た。制服姿でうろついていると目立って仕方ない。着替えを入れておくんだった。
     残る候補は、紀ノ国屋の裏手にある複合ビルと、市役所通りの奥にあるスタバだけ。スタバなら長時間居られそうだが、混んでいるし少し遠い。
     複合ビルはこれまた鎌倉らしい商業施設だ。雑貨屋や喫茶店が軒を並べ、前庭に植えられた大きな木やヨーロッパ風の外観がコンセプチュアルだ。通りに面した一階がパン屋なのも雰囲気を盛り立てている。
     二階の喫茶店には大きな窓がある。変わった店名で、古めかしくメルヘンチックな看板がいくつも出ている。閉店時間も遅く、喫茶店らしいメニューも充実しているらしい。店内の雰囲気と窓際に座れるか分からない点がネックだが、立地で言えばスタバよりも見張りやすそうだ。
    「……よし」

     明るい夜だった。座布団の綿のように薄い破れ雲が散らばり、その隙間を埋める星がじらじらと光っている。
     壁を背にして潜めた呼吸を繰り返していると、自分の気配が薄れていく気がする。目立つのではないかと思っていた詰襟も、今は夜の色と紛れて良い感じだ。
     数メートル先の通用口から、女の人が二人出てくる。扉を押さえたまま中に向かって喋っていたが、そのうち駅の方へ去っていった。スマホの画面を袖で覆いながら時刻を確かめる。八時五十分。「田辺」は出てくるだろうか。
     カフェでは難なく窓際に座れたものの、肝心の通用口は枝葉に隠されほとんど見えなかった。仕方なく通りを見張っていたが、長時間居座るカモフラージュとして勉強するふりもしていたから、見落としがないとは言えない。今はただ、彼が出てくることをひたすらに祈りながら待っている。
     しかし、何と声をかけようか。カフェであれだけ時間があったのに、すっかり失念していた。彼のことを知りたいと言っても、何をどれくらい知ればいいんだろう。彼が自分と違う人間であることは分かりきっている。
     また鉄扉の音がする。つられて顔を上げると、今度は一人だった。黒っぽい上下に、大倶利伽羅よりは長いが、ショートヘアー。女の人は後ろからでも分かるが、男だと分かりづらい。あれは「田辺」だろうか?
     男は駅の方に向かって歩いていたが、ふと立ち止まって鞄の中を覗いた。壁に背をつけたまま、鞄の中を探る仕草に目を凝らす。男は髪を耳にかけて、しばらく鞄の中を引っかき回していた。何か無くしたか忘れたかしたらしく、振り返って通用口を見た。そして俺に気が付き、身を固くする。
     だれも居ないと思っていたところに人が立っていたら驚くに決まっている。しかし、目を逸らして無害を主張してやることはできない。男はやはり「田辺」だった。
     彼だけを見つめたたまま一歩近付く。向こうはゆったりした動作で鞄を背負い直すと同時に、さり気なく片足を引いた。重心が動くのが分かる。何かあればすぐに走って逃げられるように。とてつもなく警戒されていることに面食らって「あっ」と声が落ちる。その隙に「田辺」は素早く辺りに視線を走らせ、交番を見た。
    「ま、待ってくれ。不審者じゃない」
     声を発したことで、相手の足にぐっと力が入った。俺は慌ててスマホのライトを点け、自分の顔を照らす。「田辺」の顔が一瞬、歪んだように見えた。
    「……この前の」
    「そうだ。漬物とスパイスを買った」
     警戒の姿勢が、わずかに緩む。一歩近づいても「田辺」はその場に留まっていた。しかし冷たい声で問いかけてくる。
    「ストーカーみたいなことして、いったい何の用?」
     真っ当な指摘が刺さる。策を思いついた時点で悪行だと自分でも思ったし、される側の恐怖や嫌悪感も想像がつく。しかしこれだけ似ている相手に向かって何の用とはあんまりだ。今なら貞の気持ちが少し分かる。
    「話がしたくて待たせてもらった。やり方がまずかったことは、謝罪させてほしい」
    「一回レジ通しただけで調子に乗らないでくれる」
    「……本当に申し訳ない、反省している……」
     腰を折って頭を下げながら、悔いる気持ちに悲しさが加わって、あることに気がつく。俺は自分に似ている人が居てうれしかった。そして「田辺」も当然そうだろうと思い込んでいたが、これは万人が歓迎する状況ではない。
     ドッペルゲンガーに会うと死ぬ。たとえ迷信でもそういう謂れがあるのだ。ただのストーカーよりもよほどたちが悪いじゃないか。
     本当に自分のことしか考えていなかった。弁明のしようもなく動けずにいると「田辺」がつかつかと歩み寄ってきた。もしや殴られるのかと思った瞬間、腕を強く引かれる。よろめくと強い握力で無理やり立たされ、駅の方角へ引っ張られた。骨まで食い込んでいる。かなり痛い。
    「で、話ってなに」
     背後で鉄扉の開く音がした。振り返ろうとするとまた腕を掴まれる。顔を向けると、彼も同じようにこちらを見た。身長も大体同じで、視線がぴたりと合う。
    「本当に、鏡みたいだ」
    「そんなくだらないことを言うために待っていたのかい」
    「きみ、性格きついな……」
     ぴくりと「田辺」の目元が引き攣り、不快感が顔中に広がる様を見せられる。すかさず謝罪を入れながらも、なぜだか気持ちが持ち直してくるのを感じる。
    「俺は源膝丸。高校一年だ。ずっと鎌倉に住んでいるが、きみみたいな人に会うのは初めてだったから、なんというか……とても気になっている」
    「何が」
    「きみのことが。分かって聞いているだろう」
     不快そうな顔のまま「田辺」は半目になった。胡乱、警戒、呆れ、嫌悪といったところか。実際の気持ちは分からないが、ひとまず会話はしてくれて安心する。何なら大倶利伽羅と話すより話せている。
    「僕も同い年。鎌倉には春に引っ越してきた」
    「どうりできみを知らないわけだ。高校は? 七高?」
    「横浜の方。前はそっちに住んでたから」
    「電車で通っているんだな。ところで……名前を聞いても?」
     返答は無い。「田辺」はそっぽを向いていた。
     無言のまま駅前のロータリーに戻ってくる。まだ二十一時過ぎだが行き来する人はまばらで、辺りの店はほとんどが閉店している。シャッターの降りた店の角で足を止めて「田辺」は俺を見た。
    「家はどっち?」
    「え? ああ、江ノ電で帰る」
    「どこから来たの?」
    「……腰越」
     そんなところからわざわざ?とか罵られるかと思ったが、どうもぴんと来ていない様子だ。鎌倉の地理に詳しくないのかもしれない。
    「……こんな時間まで出歩いて、親御さんが心配するんじゃない」
     取り繕うみたいな口調に親しみを感じる。彼にはご両親がいて、帰りが遅くなれば心配してくれるのだろうと想像した。
    「もう帰るよ。きみも気をつけて。それから、その、本当にすまなかった」
    「次待ち伏せしたら通報する」
    「しない。絶対しない」
     レジでのやりとりを思い出す。あの時ももう少し何かあってほしいと思っていたし、今だってそうだ。しかしこれ以上話してくれることは無いだろう。
     せめて彼が立ち去るまでは見届けたい。そう思って彼を見ると、向こうもまたこちらを見ている。同じような顔をしているのに、彼の目つきや表情が変わるたびに少しだけ胸が踊る。これは、新しいものを見つける喜びだ。
    「ねえ、名前なんだっけ」
    「源、膝丸」
    「みなもとひざまる」
     くちびるがまろやかに動く。
    「僕は、髭切」
    「……田辺じゃなくて?」
    「やっぱり名札見てたんだ」
     言葉に詰まると、勝気に微笑まれる。「田辺で合ってる。田辺髭切」
     ひげきりと呟くと、彼は頷いた。ひげきり、髭切。何度も音にしたくなる、不思議な名前。
     どうして教えてくれる気になったのか尋ねかける俺に被せ、髭切も問い掛けてくる。
    「木曜日は空いてる?」
    「え……」
    「放課後。空いてたら東口の……スーパーあるよね。あの向かいのカフェで待ってて」
     東口、スーパー、カフェ。瞬時に場所を浮かべる。分かる?と念を押すような瞳に頷き返すと、彼は帰り道の方へ体を向け、そのまま歩いていく。
     いったい、なにがどうして。迷惑そうにしていたのにどこで気が変わったのか。今度会って話すときには、その心の変化が少しは理解できるようになるだろうか。
    「ありがとう、待ってるから!」
     彼は首を傾げて笑い、こちらに手を振ってくれた。
     夜の江ノ電はとても空いている。座席の端に座り、向かいの大きな窓に黒っぽく浮かび上がっている自分の顔を見つめる。彼を待ち構えていた時とは違うどきどきが、まだ胸を叩いている。
     話したかった相手と話せた。それに、また会う約束まで。こんなふうに行動を起こしたのも、うまくいったのも初めてのことで、事態をどう捉えていいのかよく分からない。彼を知る機会に恵まれたことが、ただ、うれしい。
     彼はドッペルゲンガーでもなければ鏡の世界の住人でもない。現実に存在している。ひょっとすると親しくなれるかもしれない。
     窓に映った顔が緩んでいる。不明瞭でも、髭切の笑顔と違っているのが分かる。どんな偶然を重ねたら、これだけ似た顔に生まれて、同じ街に住むようになって、互いに出会えるのだろう。
     腰越で降りるのは俺一人だった。国道を走る車も少なく、打ち寄せる波の音が聞こえてくる。まばらな街灯は、水で薄めたような光しか発していない。学校の傍や新興住宅地ならもう少しまともなはずだが、髭切の住む辺りはどうだろう。
     玄関を開けると明るかった。ぎょっとしながら靴を脱ぐ。おじいさんは、居間に居るうちは玄関の明かりを点けておく。普段ならとっくに部屋に引き上げている時間だ。
    「ただいま……」
     居間を覗くと、おじいさんは高座椅子に深く座り、新聞を広げている。紙面から目を上げ、銀縁の老眼鏡越しにこちらを見た。「おう」
    「先に寝ていて良かったのに」
    「新聞を読んでいただけだ
     さみしいことを言うなあとぼやいて、おじいさんは新聞を畳んだ。古紙入れに差し込みながら「どうだった、映画は」と聞いてくる。映画を見てくると言い訳したのだ。
    「楽しかった、とても」
     思いがけず熱のこもった声が出た。映画なんて滅多に行かないのに怪しまれないだろうかと思ったが、おじいさんは笑って「そうか」と言うだけだった。
    「夕飯はいらないんだったな?」
    「ああ、食べてきた」
    「じゃあ、お風呂に入りなさい」
    「うん」
    「先に寝るから、電気頼むな」
     湯呑みと急須をまとめて台所へ向かっていく背中を呼び止める。
    「ありがとう」
     おじいさんは、髭切がしたように、首を傾げて笑った。
    暮正 Link Message Mute
    2023/04/22 18:43:57

    To be with you.

    高校一年生の膝丸は子どもの頃から恐れているものがある。
    同居の祖父が亡くなって、天涯孤独になること。
    突然やってきた知らせは、救いの手なのだろうか。
    「見ちゃったんだ、膝丸のドッペルゲンガー」

    2023年5/3開催 SUPER COMIC CITY 30 超閃華の刻 発行予定
    全年齢向け/文庫サイズ(A6)/表紙込み204p /800円
    スペース 東1 ウ25a

    通販ページ https://sp.alice-books.com/item/show/10848-2

    【注意】
    ※人間パロです。前世も今世も刀ではありません。
    ※モブがたくさん出て喋ります。
    ※作品はフィクションです。実在する人物・地名・店名・歴史・事件等とは関係ありません。
    ※犯罪行為ならびに危険行為を推奨・肯定する意図はありません。


    #刀剣乱舞BL #膝髭 #源氏兄弟

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