水底より「離れたくない」
男はそう言ってニールの腰に腕を回した。きれいに爪を整えてある指がしっかりとニールの背中を摑む。なんの前触れもなく抱きしめられ、喜びよりも訝しみがニールの胸に浮かんだ。なにかの間違いか、あるいはふざけているのだろうか。飲酒をした? それにしてはアルコールは少しもにおわない。
ふたりは氷を砕く船の上にいた。必要な訓練をする隊員たちを過去に送ったところだった。その隊員たちを特訓したのはつい半時間前までのニールと男のふたりだ。隊員たちとの訓練を終え──隊員たちにとってはこれからが始まりになるのだが──時間を巻き戻るようにして回転ドアに吸い込まれる彼らを見届けることで今日の仕事を終えた。時間の行き来を頻繁に行うふたりにしてみれば、普段どおりの一日と言ってよかった。いまの男の行動を別にすれば。
男の額がニールの首筋をこするようにして上下する。常ならない行動にニールは不安を覚えた。なにかあったにちがいない。
ニールは縋り付く男の肩口を軽く叩き、「どうした、なにかあったのか」と、普段どおりの声音を出した。
言葉を受けた男は、なにも言わずにより一層身体を密着させた。締め上げているようでもあったが、男のようすは切実に感じられた。
かわいそうだな、とニールは思った。慰めてやらないといけない。優しく声をかけてやり、温かな抱擁を与えてやるのだ。男はそれを望んでいる。
だからこそ、ニールはそうしてやらなかった。望みを叶えたら、彼は自分の前からいなくなるという漠然としていながらも確固とした予測があった。望むものを手に入れてしまったら、彼は自分から離れていくのだ、きっと、必ず。彼からの関心を失ったあとの自分の姿など想像したくもなかった。だから、ニールは落ち着いて男の肩口に顎を乗せ、ゆっくりと背中をたたいた。
「人恋しくなったのか。ぼくで良ければいくらでもこうしていていいよ。ただ、少し力を弱めてくれないか、かなりきつく締め上げてるぞ」
笑みをにじませた言葉でお互いの緊張を解こうとした。ふたりの間にこうした居心地の悪い不安定な瞬間を作らないようにニールは注意してきた。男も同様に気をつけていたはずだ。試行錯誤しながらふたりの時間を大切に育ててきた。だからこそニールは彼といると静かで落ち着いて安心できた。相手も自分に対して同じように感じてくれているだろう。双方の努力によって積み上げてきた関係を壊すなどニールには考えられなかった。いまのまま仲の良い上司と部下であるのがいい、それが一番だ。
男はニールの言葉が聞こえなかったとでもいうように背に回す腕の力を弱めない。心臓のあたりに息が当たってどんどん熱がこもっていく。男にはニールの上辺の声は聞こえていないのだった。ニールの口のすぐ近くに耳があるのに聞く気がない、なにも言わない。ただ、ニールに体温を分けてじっと抱きしめ続ける。身体を動かした後だからか男は温かく、かすかに汗のにおいがした。
ニールの手の下には筋肉の張った肉体があり、呼吸に合わせて上下する。彼の両腕はニールの腰を回り込んで背中を摑んでいる。額を首筋に当て、頬を胸元に擦り寄せる。胸も腹もニールの身体にぴたりと引っ付けて、両脚で腿を挟み込むようにしていた。
ニールはだらりと腕を落とした。抱きすくめられるまま、男に身体を預ける。ほんの少しだけ、頭を彼の側にかたむけた。
最初から勝ち目はなかった。そんなことはわかっていた。ふたりの努力だなんてまやかしだった。彼が付き合ってくれていただけだ。主導権は常に彼の手にあり、自分はあるだけの自制心を動員して彼の前で自然に見えるように振る舞うのみ。おかしなことを口にしないように、愚かに見えないように、頼れる相棒と思われるように、男が自分から離れていかないように。
「離れたくない」
男は同じ言葉を繰り返した。
「離れたくない?」
ほうけたようにニールは言った。質問というよりも、直前に聞いた言葉を単に口に乗せただけだった。胸に当たる息のひとつひとつが身体の中心からゾクゾクしたしびれを伴って皮膚の上を這って足の先にまで届いた。動けない身体を身じろぎさせる。思わず深くため息をついた。
「どうしてそんなことを言うの」
吐息に紛れた声になった。男はようやく話をする気になったようで、ニールの顔を掬うようにして見上げてなにかを言いかけて口をつぐみ、再び開いた。
「おれが欲しいか」
本当にどうしたんだろう、とニールは変に冷静な頭で考えた。なにか悪いことがあったにちがいない。いままでの距離をなくしてしまいたいと思わせるなにかが。でなければこんなふうに自分を差し出すようなまねを彼がするはずがない。頬にのぼる熱を感じながらニールが訊く。
「どうしてそんなことを言うの」
先ほどよりも声は小さくなった。そもそも、耳は口のすぐそばにあるから声を張り上げる必要はない。かといって聞き耳をたてなくても聞こえるほどでもなかった。きちんと声を捉えていた男はニールの言葉に答える。
「おまえが欲しいから」
ニールは目を細めた。男の真意をはかろうとするように見えるだろうか、と気をもんだ。実際は泣きそうになっているのを隠したかっただけだった。
なぜこんなにもまっすぐに欲しいと言えるのだろう。相手からの拒絶は予想のうちに入っていないとこちらに感じさせる強さがあった。独善的で断定的だが、やはり、傍から見ていて気持ちのいい言動を取るな、と他人事のように感じた。そうすると、少しだけいつものペースを取り戻せるようだった。
「いやに、急じゃないか。こういうことは段階を踏んで進めるものだろう。ぼくと……」言葉を探す。「君、なにかあったんだろう? でないと、こんなこと」
「なにかなければいけないのか」
話している途中に言葉を挟まれた。背中に回されていた男の腕が緩みぬくもりが離れる。拘束を解かれてもニールは動けなかった。自分の意志でその場から動かなかった。さっきから鳥肌を立たせているだけだった腕の先で指がピクリと動く。
ほとんど崩れかけてはいるが、ふたりの間に横たわる足元のタラップにはまだ体重を預けられる。だが、少しでも動けば自分は落ちて溺れてしまうだろう。そうしたら、二度と自分の力では浮かび上がれない。じわじわとは沈まない、勢いの良い海流に押し流されるように急速に沈む。人間の体温と同じ温度の水に覆われて底に漂うニールを見たとき、彼はどうするのだろう。哀れに思って一緒に落ちてくれるのだろうか、それとも、一瞥もなく背を向けて地上に戻っていくのだろうか。彼がどちらを選ぶにしても、水底から男を見上げるイメージはニールの心を強く揺さぶった。
「君が離れていくんだろう」
いま、ぼくから離れたように、と心のなかで恨みがましく付け加える。
男の体温が自分の身体からなくなっていくにつれ、落ちて沈んだ水底からの景色を見てみたくて仕方がなくなった。
──揺れる水面に映るあなたを見上げたい。
「ぼくを望む理由を言え」
水の鳴る音がする。空気がごぼごぼと音をたててのぼっていく。力を抜いて、両手も両足も投げ出して、重力にしたがって身体が落ちる。ぐいぐいと底に引きこまれる。
男の表情は普段どおりに落ち着いて見えた。見上げるようにしてニールを見て以降、ずっと離れなかった視線が、自分の内側に向かうようにして外れた。ニールは沈みながら彼を待つ。
「一緒に生きたいと思っている。これは理由になるだろうか」
男は伏せた瞳をニールに戻した。先ほどまでの性急さを失い、なぜか不安げにも見える表情をしていた。ニールは彼を慰めたかった。そして、彼に慰めてほしかった。
「戻れなくなるぞ」
ニールの言葉を聞いて男は、構わない、と笑った。
「おまえがどう感じるかだけが問題だ」
そんなはずがない、とニールは苦く笑う。手のひらを握ったり開いたりしながら答える。
「……君から受け取るだろう言葉や感情、体温がどう自分に伝わるのかを知りたい。その気持ちはある。でも、それを受け取る前にぼく自身が変わる。いまの、このぼくじゃなくなる。醜くて愚かで厭なやつになる。君はきっと嫌いになる。君に嫌われるくらいなら、ぼくはいまのままの関係でありたい」
いまのままがいいと言いながら、ニールは目の前の相手を摑んでいた。
「おれが告白して、おまえに拒絶されたままの状態で?」
男は笑みを口に残したまま、ニールに握りしめられた自分の手に目を落とす。しっかりと手のひらを握り返して口を開く。
「変わったあとのおまえも好きだ」
なんでわかるんだよ、と返す声は震えていた。
男はいま一度ニールの手を強く握ってから離すと、今度は肩を抱き寄せた。頭を支えるように手を添え、柔らかく撫でる。
「おれは離れていかない。おまえを嫌わない」
本当だろうかと疑ったままニールは腕を男の背中に回した。水底に沈んだままでは抗いようもない。男の与える甘言を飲み込んで酸素の代わりとした。
「ぼくがなにをしても、なにをしなくても、幻滅しないか?」
「しない」
「キスしたいって言ったらしてくれる?」
「したいのか」
「したい」
ニールは目を閉じ、近づく顔を待ち構える。唇が軽く触れてそっと離れた。薄く目を開き、こちらからも近づけると逃げずに受け入れてくれる。
静かな口づけを交わしながら、ニールは、舌を突き出してぐちゃぐちゃと音を立てるような一方的なキスをしても、このひとは自分を好きだと言ってくれるのだろうか、とひとりごちた。ここで急に自分が彼の服に手をかけて肌の上に指をすべらせ、性器に直接触っても受け入れてもらえるだろうか。
唇が離れていく。お互いに回す腕は離れない。
「肌に触れたい。君とセックスがしたい。ずっとしたいと思ってた。触ったり舐めたりしたい。抱きしめあって、一緒に朝を迎えたい」
ぼうっとした頭のままなにか口走っていた。言った内容をニールが思い出す前に、男は相手の口をふさいだ。水の音がする。お互いの唾液が立てる音だ。相手の口元から口を離すと窒息すると信じているように唇を合わせた。
「構わない」
キスをしながら男は言った。
「おれもそうしたい」
水底に沈むニールと共に泳ぐと言うのだった。
「ほんとうに?」
息を吐くためか、吸うためか、どちらともわからない合間にニールがつぶやく。これ以上はないくらいに身体を密着させていた。熱くてどうにかなりそうだった。残った理性を動員して男に言う。
「まともじゃなくなったら、ちゃんと教えてくれ。もう自分ではどうにもできない」
「わかった。必ず言う」
男の返答を聞いてニールはようやく緊張をほどいた。彼がそう言うのだからそうなのだろう、と一応の納得をした。それでもやはり気になることがある。なぜ、いまなのか。きっかけは何なのか。
自分に吸い付いてくる男を両腕で掻き抱きながら、なにがこのひとを怖がらせたんだろうか、と考えた。男の唇や指によって身体を反応させるたびに空気が水面にのぼる音が聞こえる気がする。そうして、ふと思った。自分ばかりが水の底に沈むイメージを持っていたけれど、もしかしたら、このひとも同じように感じていたのではないだろうか、と。
この発想はニールを安堵させた。可能性のひとつとして心に留めておいてもいいと思えた。ニールには預かり知らない彼だけが持つ不安があるのだろう、人間なんだから当然だ。いつか原因を教えてもらえるだろうか。そのときまでは、彼のそばから離れずに、時にはこうして抱きしめあって不安を取り除いてやりたい。
ベッドのある部屋に移動する間にそう考えていると、男が振り返ってニールの手を引いた。抱き寄せて耳元でつぶやく。
「離れたくない」
ニールは笑って言葉を返す。
「離れたりしない」
──もし、あなたが深い水の底に沈んでいるのなら、ぼくも同じ場所で一緒に沈む。上にのぼりたいなら全力をあげて協力する。苦しかったら酸素をあげる。怖くなったら守ってやる。ぼくから離れたくなるまでは、ずっとそばにいる。だから、それまでは、
「一緒に生きたい」
泣き笑いの顔をしたニールに男が口づけをする。キスをしたぶんだけ深みに沈むような、それでいて浮き上がるような、不思議な気持ちになった。そして、ここはまだ、底ではないのだと気がついた。底など最初からないのかもしれない。上も下もなく、漫然と心地よく溺れている。果てがなく、終わりがなく、どこまでも続いている。
ここには「いま」があった。「いま」は永遠だった。