わだかまりの行方「自分の命を粗末にしないように。生きようとすることが周りを救いもする、これは事実だ」
あのひとはそう言ってぼくたちを鍛えた。それなのに、自分自身に対してはその「教え」を一切適用しないで今回もまた身体に傷を増やして帰ってきた。かばわれた同僚は真っ青になって彼を抱えて震えていた。このままじゃ、ぼくのいないところで勝手に死ぬんじゃないだろうか、そう考えてもおかしくないと思えた。
「自分を愛していないのか、ぼくがそうするだけでは足りない?」
眠る相手を見下ろしてつぶやく。今回負った傷は比較的軽症だった。軽いと言っても重症でないというだけで、傷口は縫合されている。胸に巻かれた白い包帯が肌の色に映えていた。彼が眠るこの部屋は、清潔で静かで落ち着いていた。隣の部屋には医師がいて、ぼくの上司になにかあれば適切な処置をする。ぼくたちが普段動いている場所とは離れたところにあるから笑い声や話し声が聞こえてきたりもしない。
ぼくらはふたりきりだった。
しばらくは目覚めないと医師は言っていた。だからぼくはここにいた。それなのに、彼はまぶたを震わせて眉を歪めて目を覚ました。何度かまばたきをしてぼくを見つける。
ほっとしたように力を抜くのが見て取れた。自嘲するように唇を笑みの形に曲げて自分を笑うようにと促した。ぼくは口元から目をそらして小さく言う。
「のどが渇いただろう、水を持ってくるよ」
用意をするのを彼は視線で追っているだろうと思った。冷蔵庫からペットボトルを取り出してキャップをひねったとき、なんでさっき笑いかけてやらなかったんだろうと、強い後悔に襲われた。一度大きく息をつく。そのことを頭から締め出すことに決めて後ろを振り返った。
「飲ませてやろうか?」
冗談めかして言ったものの、彼は無言でじっとしていた。さっきの笑みはもうなくなっている。枕元のサイドボードに水を置くと手持ち無沙汰になった。目覚める前には話しかけていたのに意識がある相手には話しかけられないなんて、意気地がない。でも、自分がなにか言ったところで彼は気にかけないだろうとも予感していた。だからこれまでは直接言ったことはなかった。彼自身の問題であり、ポリシーなのだろう、それを尊重したいと思っていたからだ。でも、もしかしたら彼は自分を大事にしていないのではないだろうかと最近は思うようになっていた。なにがそうさせるのかはわからないけれど、自暴自棄にも見えるような無謀な行動をするようになり、傷を負うことが格段に増えていた。
「今月に入ってこの部屋に入るのは二度目だ。きみは、もしかして生き急いでる? 自分のことなんてどうでもいいと思っている?」
病床にあるひとに対してかける言葉ではないと思いつつ、包帯の巻かれた胸を見ると口が動いた。
「傷ついたきみに会うぼくが、なにも思わないと思っている?」
彼はまぶたを半分下ろしてぼくを見つめた。見つめるだけでなにも言わないので、ぼくはひとりで話し続けた。
「全部ぼくの勝手だとわかってる。あなたがどうしようが、なにを決めようが、ぼくには預かり知れないし言う必要なんてない、たぶんそうなんだろう。でも、どうしてなんだ、これまではそうじゃなかったのに。ぼくたちに自分を大切にしろと説くなら、あなたが一番にそれを体現しないとおかしいだろう」
ぼくは、と言いかけたとき、膝のそばで握りしめていた手をそっと握られた。
「すまない」
彼はただそう言って、悲しそうにぼくを見た。ぼくはまた、どうして笑いかけてあげられないんだろう、と思って眉を歪ませた。謝らせたいわけではないのに、そうさせてしまって息苦しい。結局そのままなにも言えず、なにも聞けず、彼が再び眠りに落ちるのを確認するまでベッドの隣で立ちすくんでいた。
翌日、彼はしっかりとした足取りでぼくたちの前に現れた。昨日かばわれた同僚は少しの傷もなかった、それがぼくらの上司にとっては一番大切なことなのだという意味のことを言っていた。ぼくは後ろの方で話しを聞き、元気そうだと安心しつつも、あの傷が痛まないはずはないのだと服に隠された胸の包帯を思った。
他のみんなが出てしまってから出口に向かった。部屋を出る際に彼に呼び止められるのを、ぼくはきっと期待していた。それなのに、彼は自分の仕事に集中しているような素振りで机に向かい、ぼくを視界から逃した。積極的に笑いかけることはできなくとも話しかけることはできるので、彼に調子を訊いてみることにした。
「もう平気なのか、痛みは?」
彼はちらりとこちらに目をやり、ない、と短く答えた。嘘だとすぐにわかることなのに、ずいぶんときっぱりと言い切る。このあとにおまえと話すこともない、と言外に言っているようでもあった。ぼくは昨日の続きを、彼の答えを聞きたかったけれど、話す気はなさそうだと察して諦めることにした。彼にとっての優秀な部下であるこの場所を誰かに譲る気は少しもない。
「……これからは気をつけてくれよ。いつまでも若くない、わかっているはずだろう。そうだ、今度はぼくを盾にすればいい。うまく使えば──」
「ニール!」
彼は強い口調でぼくを止めた。振り仰いだ顔にはなぜか怯えが走っていて、ぼくはなにか、口にしてはいけないことを言ったのだと悟った。自分が間違えたのはわかったが、どういった間違いなのかは判断がつかない。自己犠牲的なものが嫌なのだとしたら、彼が昨日したこと自体がそうではないか。
でも、彼の目には怒りと恐怖がないまぜになったようなゆらめきがあった。ぼくはすぐにそれを取り除いてやらなければならなかった。
自分の怯えなんか、彼が持っているのものに比べたらよほど小さいものにできる。最初から持っていない振りも得意だ。不安なんて少しもない、ぼくは彼を信じている。彼が信じさせたいものを信じることができる。
「なんだよ、冗談だ。本気にするなよ。それより、本調子になったら近くにできた軽食ワゴンで昼飯を食べよう。チリソースが美味しいタコスなんだって。日替わりでみんな行ってるらしくてさ、人気みたいなんだ」
ぼくは邪気のない笑みを浮かべた。昨日は笑えなかったけれど、今日はしっかりと笑えたはずだった。彼も笑ったらそれでおしまい。ぼくらはいつもどおりに過ごすことができるようになる。
それなのに、彼はぼくを見て顔を歪めた。
「ニール、すまない」
また謝らせてしまう。
「構わないよ、大丈夫、わかってる」
ぼくはそう言って彼に腕を伸ばした。軽く肩を抱くと、思いの外強い力で抱きしめ返された。
「傷に障る、あまり力を入れると……」
「いいんだ、こうしたいから」
彼はしがみつくみたいにしてぼくを抱きしめた。肩の上から腕を回して、どうすればこのひとを安心させてやることができるのかと、傷口のある側を触らないようにしながら考えた。考えるまでもなく、ひとつしかなかった。
「ぼくがあなたを大好きだって言ったら、元気になる?」
ふ、と笑うような息遣いがして、小さく、ああ、と言うのが聞こえた。耳元に口を近づけて本当の気持ちを伝える。
「大好きだよ」
うん、とうなずく動きと強い腕の力を感じてぼくは目を閉じた。
どうか、このひとができるだけ幸せでありますように、とどこかにいるかもしれない特別な存在に祈った。そして、それとは別に、もう二度と、昨日みたいなことは起こさせない、と決意した。彼の前に立ちはだかるものは全部ぼくが蹴散らしてやる、いまのぼくには誰も敵わない。
「さあ、あなたはそろそろベッドに戻るんだ。傷を治すのが喫緊の重要案件だからな」
ぼくが言うと、彼は背に回した腕から力を抜いてわずかに身体を離した。照れたように目を伏せて軽くうなずく。
ほとんど反射のようなものだった。間近にあった彼の顔に引きつけられるように自分の顔が近づいた。軽い接触で収めるには長い時間、唇が触れ合った。してみてから、ずっとこうしたかったんだな、と気が付いた。
「早く良くなってくれ」
驚いた顔をする彼にそう言ってその場をあとにした。自分が思った以上に彼を特別に思っているのだと、ようやく認める気になった。