泣かないで 軽くノックをしただけで返事を待たずに扉を開けた。いつもなら、きちんと彼の合図を待つのに、ついいましがた別れたばかりだったから気が緩んでいた。あるいは、明るい調子で話していたのに、不意に顔を曇らせて会話を切り上げ、足早に仮眠室へと入っていく姿に不安を覚えて、その理由をとにかく早く知りたかっただけなのかもしれない。
ぼくの不安は的中した。
彼はベッドの向かい側の壁にもたれかかるようにしてこちらに背を向けている。先程までの溌剌とした様子とは違い、肩を落として自身の胸を見るようにうつむき、背中を震わせていた。
――泣いている。
音はなかった。部屋は人間がふたりもいるとは思えないくらい静かで、張り詰めた緊張感のみが漂っている。声をかけようとして口を開けたままのぼくは、静かに肩を震わせるボスから目を離せなかった。
遠くから隊員の談笑する声が聞こえてはっとした。この状態の彼を見せるわけにはいかない。出て行くべきだと理解しながら、仮眠室に足を踏み入れて扉を閉めた。
ぐっと息を詰める嗚咽が漏れ聞こえた。それと同時に、堪えられないというように彼はしゃがみこんだ。息を大きくついて胸の前で握った拳を抱きしめるようにして身を縮ませる。大切なものを誰にも奪わせないために全力で守っている。涙を流して、ひとりきりで。
腹の真ん中が空洞になったような気がした。指先から熱がなくなり徐々に身体が冷えていく。空気が重い。息苦しい。胸が詰まる。――痛ましい。
鼓動が早まった。恐ろしさに似た感情に包まれて口が乾き、身じろぎもできなくなる。
彼は感情を見せるのが得意だ。楽しいときは涙を浮かべるほど笑って周りを明るくし、つらいときは他人がいても恥ずかしがらずに泣く。彼がそうするからぼくたちも盛大に笑えて簡単に泣けるのだと知ったのはいつ頃だっただろう。
でも、こんな姿を見るのは初めてだ。
誰かが死んだのだと思った。けれど、直前に話した内容は死とはまったく関係がなかったし、端末やなにかから情報を受け取った様子もなかった。いつも通りに話をしていたら、急になにかを思い出したように彼はぼくの前から立ち去ったのだ。
はあはあと、無理に感情を抑えようとする息遣いがした。苦しげな様子から、本当は声を上げて泣きたいのに我慢しているのが分かる。
なにもできない自分のつらさを紛らわせたかった。
しゃがみ込む彼のそばまで歩み寄ると、真下を向く顔から涙がぼとぼとと落ちるのが見えた。隣にかがんで固く強張った肩に手を載せ、静かな震えに触れる。なぐさめたくてたまらなくなり、背中に両手を回してボスを抱きしめた。刺激したくはないから、できるだけそっと、あてがう程度の力加減で。
どうしてこうも大胆になれたのだろう。なにが正解かなんて分からない。ただ、ひとりではないと伝えたかった。
息を詰める音がした次の瞬間、彼に羽交い締めにされた。背中に回った腕が、ぼくの身体を彼自身に押し付ける。抱きしめられるというよりも、逃げないように捕まえるといった強さだった。
驚きで固くなった身体を無理やり動かして、ボスにも負けない力を込めて背中をぎゅっとつかんだ。
「大丈夫、大丈夫だ」
自分でもなにに対してそう言うのか分からない。身体を震わせて泣く相手を慰める方法が他に浮かばなかった。
きっと、悲しいことがあったのだ。理由を教えてもらい、彼を悲しみから解き放ち、また笑顔を見せてほしいと思ってしまう。
こんなときまで自分のエゴが一番だなんてくだらない。そう思うのに、頭の中に余計な考えが溢れてしまう。この場にいたのが自分以外であっても、彼は同じように抱きしめるのか。あるいは、もしかしたら、と別の魅力的な可能性も頭に浮かぶ。そもそも彼は最初からぼくに慰められたかったのではないか。だからこそ、話を打ち切って急にいなくなったのではないか。
「……っ、ニール」
ボスが名前を呼んだ。
切実に求める声に聞こえた。
「ここにいる。きみのそばにいる」
自分に、彼を支えられるほどの度量があるのかと、すがりつくようにして泣く姿を前にして疑わしくなる。もし、そうした力があるのなら、すぐにも彼は泣き止んでくれるに違いないはずだから。
心まで全部包み込めたらいいのに。深い穴の中に落ちていきそうなきみを、決して落とすまいとして爪を立てて必死にしがみつく。
一緒にいて。置いて行かないで。そばにいさせて。ぼくを頼って。
「泣かないで」
かすれた声が漏れた。背中に回された彼の手が、ぎゅっと服をつかんだ後、静かに緩んだ。
落としてしまう、捕まえていなければ。
喉の奥が詰まって息苦しい。彼を追い詰めたものすべてに憤りを感じ、それは自然と自分自身へとぶつかった。
「頼りにならなくてごめん。もっと頑張って、きみが少しも不安に思わないくらい完璧に、すべてこなしてみせるから」
安心させてみせる、と重ねて言った声は、変な調子に裏返った。
押し付けるようにしていたのとは違う力強さを背中に感じた。水面を両手で掬うようなやさしい感触で、そんなふうに触れられる自分が壊れ物みたいに思えて悔しくなった。力の限りつかみ続けても、少しもブレないしっかりとした支柱になって彼を支えたいのに、現実はこのざまだ。
ふっと笑うような音がして、彼が首を振った。
「いいんだ、おまえは完璧だ」
涙の滲んだ声だった。
「……嘘だね、この間も詰めが甘いって言ってたろ」
背中に回された手が肩の上に動き、上半身がぴったり重なる。肉親や恋人にする親密な触れ合いみたいだった。彼は悲しみを追いやるように大きくため息をついてから、毅然として言った。
「嘘じゃない。いまも助けられてる。こっちこそ、こんな姿を見せてすまない」
謝らないでほしかった。でも、泣かないでと言ったのはぼくだ。いまみたいにつらくなったときに、少しも虚勢を張らずに寄りかかってもらえる存在になりたいのに、甘えてばかりで嫌になる。
「気にしないで。ぼくのことは忘れてしまえばいい。好きなだけ泣いたら……」
収まりかけた波に再び襲われたように、彼はまた震えだした。首元に涙が落ちる感触がして、かわいそうで胸が沈んだ。ぼくの力なんかじゃ、とうてい彼を笑顔にはできない。
頭と頭をひっつけて、悲しくなくなりますようにと願っているうちに、ボスがこうなったきっかけである自分の言葉を思い出した。
「連絡もなく遅れたなら、ぼくを忘れて好きなことをして」と言ったのだった。
軽い雑談の中で、待ち合わせした相手が遅れたらどうするかという話になった。ボスは時間に厳しいから、きっとすぐに見切りをつけて帰るか、別の行動を取るだろうと予想した。それに反して、彼は相手と連絡がつくまでは待つと言った。
ぼくは、もしその遅れた相手が自分だったら、あなたは待たなくていいと伝えた。
彼は黙り、その場を去った。
「悲しませるようなことを言ってごめん、ごめんなさい」
謝れば彼は必ず許すと知っているのに、言わずにはいられなかった。
「バカ、なに言ってる」
たしなめる声がやさしい。
「おれが勝手に泣き出したんだ。おまえのせいじゃない」
涙で湿った声が次第に明るくなっていく。ぼくが落ち込んだから、励ますためにそうしているのだ。
彼を思い切り泣かせてあげることもできない。この、貧弱な支柱では誰も支えられない。
もっと太くてたくましくて、どんな衝撃にも耐えられるしっかりとした柱になろう。できるだけ早く、彼が悲しみに再び襲われる前に。今日みたいになったときに、支えて、受け止めて、抱きしめて、彼を安心させられるくらいしっかりとした人間になるのだ。
決意を込めて背中を抱く。
「ニールはなにも悪くない」
やわらかな声がぼくを撫でた。きみもなにも悪くないと、心の中でつぶやいた。