残像グラデーション アイスマンが目覚めたときより空は青さを増し、夜がゆっくりとほどけていく。
澄んだ風が、真っ白な制服の下にある両腕に鳥肌を立たせた。風につられて校舎を振り返り、今日はまだ誰も姿を現さないと気づく。
日曜日の朝なのだ、生徒の多くは無理に早起きする必要もなければ、ゆっくり――といっても普段より一時間長いだけだが――眠っても誰にも咎められない。職員やスタッフも同じく緩やかな時間を過ごしているのだろう。
アイスマンは視線を戻し、網目のところどころにサビの浮いたフェンスに越しに、実習訓練で利用する砂漠の方角を臨んだ。市街地を背にして見えるものは、点在する家と広い道路、その先に連なる標高の低い山ばかりだ。道路に沿って整然と並ぶ木は植樹されたもので、砂漠に向かう道が人間の手によって整備された緑とそうでない樹木とで仕切られている。見るうちに、濃い青色だった夜はさらに色を薄め、山の輪郭が浮き上がっていく。
鳥が鳴き始めた。
珍しくパトカーのサイレンも聞こえない朝だった。
低いエンジン音が遠くから近づいてくる。バカみたいにふかしていて、嫌がらせのつもりなのかと疑うほどだ。音に驚いた鳥たちが、山の方へ飛び去っていく。
アイスマンはゲートへ歩き出した。通常、日中以外は鍵がかかっているが、警備員を買収するなりうまく言いくるめるなりして鍵を開けておいてもらう生徒やスタッフがいるのはアイスマンも知っていた。そうして出入りするたいていの者は、静かにこっそりと帰宅するのがセオリーであるのに、騒々しい音を立てる男は、むしろ侵入自体を誇っているかのように出迎えを要求した。
このような愚かな行為をする人間は、ひとりしか思い当たらない。
建物を回り込み、ゲートを視認したときには、すでにエンジン音は止まっていた。その代わりに、クソだのこの野郎だのといった悪態が小さく聞こえる。
「届かねえ……っ、あんにゃろ覚えてろよ」
バイクから降りたマーヴェリックが、鉄扉に取りすがってゲートの内側にある閂に手を伸ばしている。右手を柵の隙間から伸ばし、届かないので左手に変更し、再度右手を伸ばす。指から閂までの距離はちょうど手のひらひとつぶんといったところでブンブン振っても少しも引っ掛からないため、マーヴェリックの顔が次第に赤くなっていく。
アイスマンは通路の真ん中に立ち、腕を組んでその光景を眺めた。ゲートの内側からだと、猫が隙間から腕を伸ばして獲物を捕らえようと遊んでいるようにも見えた。
腕を伸ばすのを諦め、自身の身長より一メートルほど高いゲートを乗り越えようというのか、ジャンプしようとしたマーヴェリックが、ようやくアイスマンの存在に気づいた。助かった、と大きく顔に書いた笑顔でアイスマンを見つめる。
「アイス、これ外してくれないか、開けとくって言ってたのに、開いてないんだ」
腕を組んだまま、アイスマンは目を細めた。自分が頼めば誰だって意のままになると無邪気に思い込んでいるのが滑稽だった。背を向けて放置し、少しくらいお灸を据えたほうがこの男のためになるのではないだろうか。
すぐに動かないアイスマンに、マーヴェリックは早くも業を煮やした。
「おい、聞こえてんだろ、早く開けろ。じゃなきゃここでバイクを乗り回して中にいるやつを全員起こす。連帯責任になるぞ」
素直に助けてほしいと言えないばかりか脅迫する相手を前に、アイスマンは眉をひそめた。マーヴェリックは、本気だぞ、いますぐやるぞと言いながらバイクにまたがろうとする。
後先考えずに動くのが性分だったと改めて感じながら、アイスマンは深く息を吐いてゲートに足を向けた。途端にマーヴェリックはにこにこと顔をほころばせ、早く早くとせがむようにアイスマンの動きを目で追いかけた。
閂を外し、すでにバイクを支えて待ち構えているマーヴェリックのために門を開いてやる。マーヴェリックが通り過ぎるのを待ち、我ながら甘いと思いながら、自分のためでさえ開閉したことのないゲートを閉めて閂をかけた。その背中にマーヴェリックが声を掛ける。
「悪いな、助かった。なんでこんな時間にここに? もしかして、お前も朝帰りか?」
「一緒にするな。目が覚めただけだ」
苛つきが棘になって口から出る。なにに苛ついているのかアイスマン自身にもしかとせず、それ自体にも落ち着かない気分にさせられた。
マーヴェリックは口をとがらせ、「なんだよ、朝から機嫌わりーな」とぶつくさ言い、思いついたというように指を立てた。
「わーかった、おまえ溜まってんだな。だからイラついてんだ」
アイスマンはバイクの音につられてゲートまで来た自分を呪った。マーヴェリックに背を向けてもといた場所に戻ろうと歩き始める。追いすがるようにして後ろからマーヴェリックが引き留めた。
「待てって、変なこと言って悪かった。機嫌直せよ、さっきはありがとう、まだ言ってなかったよな」
ちらりと振り返るとマーヴェリックと目が合った。バイクを押しながら、なにが楽しいのかニッと笑っている。
思わず舌打ちしたくなり、アイスマンはうろたえた。理由もなく喧嘩を売るつもりはないのに、この男が相手だとどうにも抑えが効きにくくなる。いまはとどめているけれど、なにかきっかけでもあれば一発殴ってしまう自分を簡単に想像できた。
しかめつらで黙ったアイスマンを見て、マーヴェリックは間を持たせるためか口を開いた。
「早く目が覚めたからって、なんでここに? なんかあるのか? なんで制服着てるんだ?」
「質問が多い」
「じゃあなんで制服なんだ? そんな格好してるから、朝帰りなのかって思ったんだ」
「なんでそうなる」
「そりゃあ、女の子引っ掛けて一晩遊ぶのに効果的だから、とか、ほかのやつらもやってるだろ」
アイスマンはマーヴェリックに向き合い、きっぱりと言い捨てた。
「おれはしない」
左手に駐車場があるにも関わらず、マーヴェリックはアイスマンと並んでまっすぐ歩く。怪訝に思ったアイスマンが駐車場のほうを見ると、マーヴェリックは「じゃあ二個目、なんでここにいたんだ」と訊いた。
「べつに、意味はない」
駐車場の入口を通り過ぎ、建物の後ろ側に回り込んでもといた場所まで戻った。その間中、マーヴェリックは離れず隣についてきた。
すっかり明るくなった空は、フェンスの向こうに太陽が昇るのをいまかいまかと待ち構えている。
マーヴェリックはざっと景色を見はるかし、山の端を見つめるアイスマンに目をやり、もう一度街と山と空を見た。
「なんだ、日の出を待ってたのか」
隠すことないのに、と続け、マーヴェリックはアイスマンの肩を軽く叩いた。
ほんのかすかな甘い香りがふっと鼻先をかすめた。まっさらに澄んだ空気に似つかわしくない、人工的な花の香りだ。
触られた肩をはたきそうになって、アイスマンは拳を握った。今朝早くまで、マーヴェリックがどこでなにをしていたのかを、生々しく突きつけられた。やつは、たぶんシャワーも浴びていない。
だからどうした、スライダーだって朝帰りしてそのまま昼まで寝ている日もあった。アイスマンはそれを見ても、ただ、だらけていると思っただけで批難したくはならなかった。自分と一緒に飛ぶ際に、頭がしっかりしていればそれでじゅうぶんだと認識していたからだ。
それなのに、いまは、腹の奥から立ち上る嫌悪感がひどくて腐臭がするようだった。急激な感情にあおられて、アイスマンは目の前のフェンスをつかんだ。ぐらぐらと腹の底が茹だつようだ。
――触られたくない? どうして。
マーヴェリックが誰と交際しようが別れようが、アイスマンの価値判断にはなんら影響を与えないはずだ。他人の香水の残り香をつけているからといって、だらしないと評価する以上の感情など起こりようがない。そもそも、交友関係に口を出すなんてナンセンスにもほどがある。
そう思うのに、数分前の出来事が脳裏をよぎる。
ゲートの奥で、マーヴェリックが安心したように笑うのを、進んで隣に立って歩くのを、日の出を見るために並んで立つのを、嬉しいと感じたのは自分だけなのだと思い知らされた。
――バカか、バイクの音がしたときからわかってたはずだろうが。
さっさとこの場から離れるべきなのに、悔しさか怒りなのか、どろっとした感情に足を絡め取られて動けない。なにもかも無視してひとりでここに立ち続けていればよかった。そうすれば、閉め出されたマーヴェリックはひとりで途方に暮れたあと、上官からの叱責を受けていつものつるっとした反省をする。アイスマンは同期に阿呆がいると思うだけで済み、気分は少しも落ち込まなかったはずだ。
なにかとうるさかったマーヴェリックは、アイスマンの様子に気づいているのかいないのか、静かに山の端を見つめるようだった。
ふたりの眼前をオレンジの光が強く刺した。
太陽は容赦ない明るさを空にもたらし、空気ごと世界を塗り替える。
アイスマンは、ともすれば浅くなる呼吸を意識して深くした。隣から、同じように息を吐く音がする。
「結構いいもんだな」
ぽつりとつぶやくような声がアイスマンを呼んだ。
「なあ、ちょっと外に出ないか」
アイスマンはわけもわからず振り返った。自分の顔がゆがんでいると気づき、急いで表情を取り繕う。
そんなアイスマンに気づかず、マーヴェリックは太陽に目を細めながら、バイクのグリップを握り直した。
「走るには最高のコンディションだ」
アイスマンの肩からどっと力が抜けた。腹の底にあった冷たいものも一緒に流れ出たようで、あとには脱力感だけが残った。自分自身にしか興味のないマーヴェリックを見ていると、途端にばかばかしいほどつまらなく思えた。実際に、あの衝動的な感情なんてたいしたことではないのだ、そう、鼻で笑ってやればいい。
アイスマンをやっと見たマーヴェリックは、顎を上げて言った。
「乗せてやってもいいって言ってる」
申し出を断られるとはまったく想定していない、得意げな瞳がアイスマンを捉えた。彼の頭の中ではすでに、後ろに自分を乗せて走る未来が見えているのだろう。
「断る」
マーヴェリックは顎を後ろに引き、思いのほか屈託のない笑顔で笑った。
「気持ちいいのに」
腹の底から流れきらなかった冷たい澱がアイスマンの気を引いた。無理にでも太陽に顔を向け、その圧倒的な明るさと温かさに意識を集中させる。
そして、振り切るようにして口を開いた。
「さっさと行ってこい。みんな起きてくるぞ」
マーヴェリックは、ううんと唸り、こともなげに言った。
「おまえが行かないならやめておく」
深いため息がアイスマンの口から漏れた。おかしな期待は二度としないと言い聞かせた直後にこれだ。
マーヴェリックはバイクをスタンドで立たせながら、「なんだよ、失礼なやつだな」とのたまい、キーを抜いた。
「駐車場は向こうだろう」
「前も適当に駐めて問題なかった」
「今回は駄目だ。さっさと置いてこい」
マーヴェリックは頭の後ろで両手を組み、気が向いたらな、などとうそぶく。
まともに相手するだけ無駄だ、とアイスマンは何度目かのため息を飲み込んだ。グースはどうやってこの男と付き合っているのか疑問に思う。
彼は太陽をひとにらみし、よし、と満足したように頷くと校舎に向かって歩き出した。本気でバイクを置いていく気らしい。
「日の出も見たし、一眠りするかな」
アイスマンはバイクからマーヴェリックの背中に目を向けた。振り返るなとなにともなしに念じたとき、マーヴェリックが勢いよくこちらに顔を向けた。
「わかった。おまえ、今日を月曜だと勘違いしたんだな? だから制服着てるんだ」
「な……」
油断していた顔に熱がのぼってくる。
ついうっかり起き抜けの頭でいつものルーチンをこなしただけだ。平日を休日と間違うよりいいではないか、誰にも腐される謂れはない。
無言でいると、マーヴェリックは口の端を上げ、「黙っててやるから安心しろ」と言って歩き去った。後ろ姿しか見えないというのに、その顔がニヤニヤ笑いでいっぱいなのが手に取るようにわかった。
釈然としないアイスマンは、マーヴェリックを振り切るようにしてフェンスに向かった。先ほどより高い位置に昇ったオレンジ色の光は、アイスマンの視線を捉えて離さない。
「……クソ」
目に染み入るほど光を見つめる。
限界まで耐えて目を閉じると、まぶたの裏に光が見えた。緑の光はくるくる動き、アイスマンの心を乱した。