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    いざない 静かにドアを開くと予想通り部屋の電気は消えていた。真っ暗な室内に廊下の光が煌々と差し込む。深夜二時、睡眠を取る宿泊客が多い時間帯だ。ニールはするりと部屋の中に身を潜ませてドアを閉める。標的がいるであろう寝室は突き当たりにある。しかし、右側にある浴室の扉から光が漏れていた。注意深く観察しても音は聞こえないし、誰かが使用中ならば動くはずの人間の影が漏れた光を遮ることもない。
     ──消し忘れか?
     手にした銃を握り直し、扉に耳を近づけるもののひとの気配はない。そのとき、水に触れるかすかな音が聞こえた。続いて、水をすくって落とすような音も。
     ──入浴中か。
     仕事が楽になる、とニールは他人事のように思った。出てきた相手に見つかっても、裸ならば銃火器を使った反撃もないだろう。
     標的の所持品を持ち帰るのが今回の任務だった。具体的になにを必要としているのかは知らされていないから身につける服や靴、腕時計なんかも必要となる。標的が浴室にいる間に仕事を終わらせようと肩の力を抜いてニールは寝室に向かった。
     室内には替えの服はもとより鞄もなかった。ルームサービスが掃除をしたときのまま、部屋に足を踏み入れていないかのように整っている。
     ニールは嫌な予感がした。足音を忍ばせて浴室前に戻る。扉の外から耳をすますと先程と同じく水を落とす音がする。重く感じられる手の中のグリップを握り直し、意を決して扉を開けた。
     温かい空気と石けんの香りがニールを迎えた。
     勢いよく開いた扉の音にも銃を構えたニールにも反応はなく、洗面所の向かいにあるバスタブの中には闖入者を振り向きもせずに背を向けて湯に浸かる男の背中があった。男の手の届く範囲に棚はなく、銃火器やナイフなどの兇器を置いてはいないと見える。ただ、身体の前に忍ばせている可能性はあった。
     男の前に回り込み銃の照準を合わせる。標的についてニールに与えられた情報はほとんどない。写真はなく、一、名前はダニエル・ウォーカー、二、アフリカ系アメリカ人の男性、三、旅行客、ただそれだけだった。
     ニールは注意して男の身体に目を走らせた。見たところナイフやほかの兇器は見当たらない。
     情報のない男はニールのことなど気にも留めないというように目を伏せ、気だるげに脚を投げ出して両腕も開いていた。顔の下半分を覆う丁寧に整えられた髭のせいで年齢が分かりにくいが、三十代半ばくらいだろうか。がっちりと引き締まった体型が現役だと示唆する。実戦に出ているに違いない。素っ裸で湯につかっているが素手でサイレンサーとやり合うつもりかもしれない、油断は大敵だ。
     こちらを見もしない男になにか言ってやろうと思ったとき彼が動いた。ふう、とひとつ息をつくと重たげなまぶたを上げてニールを見上げた。
    「遅かったな」
     やはり、この仕事は仕組まれた罠だったようだ。もったいぶったセリフも、誰かの思惑で動かされているらしいのも面白くなくてニールは皮肉たっぷりに聞こえるように言った。
    「待っててくれたんだ、ダーリン」
     憎らしいくらい澄んだ茶色の瞳の間に照準を合わせる。銃口を向けられているのにも関わらず、とろんと落ちたまぶたの下には恐れはおろか緊張すら滲んでいない。長く入浴していたようで、額には汗が滲み白目と肌が赤らんでいる。
     この男はもしかしたら馬鹿なのかもしれないとニールは訝しんだ。あるいはこちらを舐め腐っているのか。どちらにせよ、そんな相手の整えた舞台に立つのは癪だ、さっさと仕事を終えてしまいたい。
     ニールはあくまでも事務的に、持ち物はどこかと質問しようとした。それを遮るように男が口を開く。
    「いまの仕事、気に入っているのか」
     初対面の相手に訊くには随分と立ち入っているし、この場にふさわしくない質問だ。思わずニールは鼻で笑った。
    「それがきみの命乞いか」
    「おれを殺したいか」
     男はまっすぐにニールを見る。殺したいかと問われれば別に強くそれを望むわけではないというのが正直なところだ。どちらでも構わない。必要があればそうするし、なければしない、ただそれだけ。
    「きみ次第かな。きみがこのホテルに持ち込んだものを手に入れられればぼくは出ていくよ」
     男は顎をしゃくってニールの後ろ──洗面台の奥──を示した。視界の中心に男を捉え、照準を合わせたたままニールは下がり、ボストンバッグが床に置いてあるのを確認する。引き寄せて持ち上げると一泊するには心もとない軽さだった。眉をひそめるニールに男が声をかける。
    「時計は洗面台の上、気になるなら中を確認してもらって構わない」
     ニールは面倒になってきた。どうして自分がこの男の言うなりに相手をしてやらなければならないのかという思いがくすぶる。だが、それと同じくらいの強さでこの茶番につきあってやろうという気持ちも湧いた。裸で湯に浸かって待っていたのに敬意を表するというところだろうか。
     この任務に際しては持ち物を確認する必要はないのだが、ニールは片膝をつくと左手で拳銃を握り、右手でバッグの中を探った。危険物が入っている可能性もあったが、武器が中にあるかもしれず、男にファスナーを開かせるわけにはいかなかった。中には男が着ていたと思われる服が入っていた。スーツの上下にベルトとシャツ、下着、靴下。ひっくり返して中身をすべて出すと最後にネクタイピンが転がり落ちた。念のために底板を押したり布と布の間になにかないかと触ってみた。やはりなにもない。
     ──「コレクション」ではなさそうだな。
     用途はどうあれ荷物は手に入った。たとえこの任務が目の前の男をホテルから裸で叩き出すためだけのいたずらなのだとしてもニールには無関係だ。報酬を得て次の任務に当たり、忘れてしまえばいい。けれど、これはきっと男が仕組んだもので、だとすると目的があるはずだった。自分を裸で放置してほしかった、などと言われても納得はできない。
     ──露出魔の可能性はあるか。
     ニールは半分ほどまぶたをおろして眠たげにしている男を改めて観察した。赤の他人に自分の裸を見せて喜ぶというやつだ。現在、ニールがさらされているのももしかしたらその一環なのかもしれない。
     自分が変質者を楽しませるための道具になっているのではないかという疑念で俄然むっとした。銃を持つ腕を伸ばす。気に食わないと思うとひとこと言ってやりたくなった。
    「鍛えた身体を不特定多数に見せつけたいと思っているのか。それとも、きみはマゾヒストでこの状況を楽しんでる? こうやって、銃口を向けられたら勃つのかな」
     バスタブにもたせかけた頭を上げて男は笑った。嫌味のない白い歯が見える。
    「まさか、そういう趣味はない。できればそれは下ろしてほしいし、服を着てきみを迎えたかった」
    「なにが目的だ」
     好奇心に抗えずニールは問いただした。男は一度目を閉じてから身を起こした。
    「きみの能力を存分に活かせる仕事がある。この世界のことわりをくぐり抜けて互いの裏をかきあうんだ。一度も見たことのないものが見られると保証する」
     よほど自信があるのだろう、まばたきもせず、確信を持って男は断言した。
     大きく出たものだ、一度も見たことのないものが見られるだなんて。呆れて肩をすくめるとニールは男に銃を向けるのをやめてバスタブに浅く腰掛けた。そうは言っても実情は、どうせ取るに足らない些事なのだ。こちらの関心を引くには安すぎる口説き文句にニールは苛ついた。
    「つまらないな、身の程知らずのでくのぼうでさえ、もっと気の利いたセリフでぼくを誘ったっていうのに。せっかく裸なんだから、それを使ってうまくぼくを誘ってみろよ」
     吐き捨てるような言い方になった。床に落ちた荷物をまとめ、さっさとこの場をあとにすればいいのに、自分を待っていたとのたまう男のそばから離れられないでいる。湯船からは温かい蒸気が立ち上り、ニールの身体を湿らせた。
     男はじっと顔を見つめてきた。それを知っていながらニールは相手を見ないようにした。おかしな動きをしないかどうかは湯の中の身体を注視すれば分かる。ニールの挑発に乗らないと決めたのか、男はなにも言わなかった。浴室に音はなく、温かい湯気と互いの息づかいがあるだけだ。じっとしていると徐々に緊張感が薄れていき、眠くなるような気がしておかしかった。改めて状況を整理する。バスタブの中にいる目的の読めない怪しい男となにやら勧誘されているらしい銃を持つ自分と、どう考えても変な取り合わせだ。
     重いため息が聞こえた。男は目を伏せてつぶやいた。
    「おれになにをしてもいい。一緒に来てほしい」
     口先だけではなく、心からの切実な言葉に聞こえた。なにが目的か知らないが、彼はよほど仲間に引き入れたいらしい。銃を向けていたときには感じなかった嗜虐心がニールの心に生まれた。男はさっきまでずっとこちらに視線を合わせていたのに、いまは顔を見ようとしない。
    「……なにをしてもいいって、それ、ぼくにメリットあるかな? なんでもするって提案の方がいいんじゃないか」
     やはりこいつは馬鹿だとニールは悟った。さっさと馬脚を表せばいい、そう思って男との距離を詰めると銃を握っていない方の手を彼の顔に伸ばした。ちらりとこちらを見た男は、ニールの指がこめかみから頬をたどって顎まで撫でるのを無反応に受け入れた。思っていた反応──身体を強張らせたり嫌がって振り払ったり──がなくてニールは拍子抜けした。もしかしたら、そういう仕事にも慣れているのかもしれないとようやく思い至る。彼の肌はしっとりとしていて髭は厚みがあった。濡れた手を握り、もう一度触って確かめたくなる気持ちに蓋をする。
    「ぼくになにをしてくれるんだ」
    「世界の見方を変える手助けを」
     今度は間を開けずに答えが返ってきた。まっすぐに瞳の奥を覗き込まれる。こちらを丸裸にしたいのだとその視線が表していた。あまりに率直なので、彼の求める通りにありのままの自分を見せたらどんな気分になるだろうとニールは想像した。笑いたいときに心から笑えて、嫌いなものには嫌だと言えて、皮肉も追従ついしょうも必要なく、ただ存在することを寿ことほいでもらえるならいったいどんな気持ちになるだろう。
     きっと彼は、ニールが好き勝手に動いて感じたことを言っても批判せずに黙って受け入れてくれる。にわかに胸に生じた期待は、ニールの心の真ん中をつかんで二度と離すまいとするようだった。
     息を詰めたのが相手に伝わったのにニールは気づいた。こちらからなにか言う前に先手を打って男が訊いた。
    「名前は?」
    「スコット・ランバート」
     一番よく使う名前が咄嗟に口から出た。言ったそばから、この国に来たときの名前にしておけばよかったと後悔した。だが、そもそもこの場限りの付き合いの相手なのだから、なにを言ったって構わないはずだ。
     男は、ニールの胸に浮かんだ一瞬の心の揺れに再び気づいたようだった。
    「おれに呼んでほしい名前は?」
    「……ニール」
     思わず本音が漏れてニールは自嘲の笑みを浮かべた。たいしたことではないと装うつもりでこちらからも問いかける。
    「きみの名前は? ダニエル・ウォーカーじゃないだろう、なんて呼べばいい?」
     男はにっと口角を上げて「スコットと呼んでくれればいい」と言った。ふたりの間に共犯者じみた笑みが咲く。
     ──ほんとうに、変なやつ。
     この仕事が好きなのかと彼は訊いた。
     最初は悪くないと思っていた。だが、一つひとつが刺激的な仕事でも日常に組み込まれれば同じ動作の繰り返しになる。誰かの大切なものを奪い、壊し、おびやかすのには飽きていたし、指示を与える相手について知らない振りをし続けるのも無理があった。
     ボスはもう「終わり」だった。事業に失敗したわけでも誰かに裏切られたわけでもないというのだけが救いで、ニールの周りで終焉に気づいている者は少ない。まだしばらくはこれまでの余力で資金繰りもできるだろうが、もってあと三ヶ月というところだろう。
     彼は「コレクション」に執心していた。始めたのは一年ほど前からで、その蒐集によって身を持ち崩したのだとニールは推測する。蒐集品をしっかりと確認したことはない。だが、自分たちがなにかを集めさせられているのには気づいていた。
     それは歯車やボルトなどの工業製品に見えるものが多かった。大量生産されているほかの製品とどう違うのか分からなかったが、ボスはスクラップにしか見えないなにかに価値を見出していた。
     スコットと呼ばせようとする男の持ち物にはコレクションになる品物はなさそうだった。彼はニールを引き抜こうとして待っていたようだし、そういう横やりが入りやすくなったというのも、組織の瓦解が間近と思うに足る根拠となる。
     おかしなやつだと思いつつも、大言壮語な言葉を言い続ける相手に興味が湧いていた。こちらのアプローチにどんな反応が返ってくるのか試したくなる。それにこのタイミングだ、いまいる組織に見切りをつけてほかに移るのも悪くないと思える。しかし──
    「そう簡単に世界の見方は変えられない。きみがなにをしたとしてもね」
     ニールは男に向かってぐっと身をかがめた。なにを、と彼は初めてうろたえた声を上げて水音を立てる。
     ニールは男の口を封じた。
     腕を伸ばして引き金を引く。バン、と重い音がした。さすがに銃声には驚いたようで、ニールの下で男がビクリと動いた。睨みつけるような視線が至近距離からニールを刺すが、彼は覆いかぶさる相手を引き剥がそうとせずにおとなしく座っている。浴室内から反響が消えるのを待ち、ニールは男が声を上げないようにと塞いでいた唇に指を添えて静かに身体を起こした。銃を腰元に突っ込み、自分の口の前でも人差し指を立てて見せる。
    「片付けを頼む」
     そう言うと、ニールは自分の耳から通信機を取り出し湯船に落とした。男に向かって口の動きだけで「ほかにあるか」と訊く。男が首を横に振るのを確認すると立ち上がって浴室の扉を開けた。身体が熱いのは中が暑すぎるからに違いない、頭を冷やさなければ。
    「あと十分もすれば『清掃』が入る。服を着てここから離れろ」
     男はバスタブの後ろの壁にあいた穴を見て眉をひそめる。
    「おまえはどうするんだ、逃げないのか?」
     ニールは軽く肩をすくめて「なんにも考えてなかった」と笑った。男もつられて笑うようにする。そのとき、部屋のドアを控えめにノックする音がした。いくらなんでも早すぎる、近くで待機していたのだろうかとニールは顔をドアに向けた。
    「ニール、おれの上着のポケットに入ってる手袋を渡してほしい」
     男はノックの音など気にしないというように湯に浸かったままニールに指示を出した。
    「手袋? なんだよそんなもの、さっさと服を着て寝室にでも隠れてろ。この仕事はあんたが仕組んだんだろう、メンツを潰すのはご法度だぞ」
    「いいから、上着を取ってくれ」
     再びドアを叩く音がする。膠着状態から脱したい一心で、浴室の扉の前にいたニールはわざわざ奥まで戻って床に落ちたジャケットを取り上げた。適当に手を入れると言われたとおり革の手袋がある。男に向かって放り投げると彼は流れるように身に着けた。
     ──裸に革手袋とは、やはり変態かもしれない。
     部屋のドアをノックする音が大きくなった気がした。男の相手なんてしている場合ではなかったのに、とドアに向かおうとしたときに「見ろ」と彼が命じた。
     男は手袋をした手を伏せてから手前に引っ張り、くるりと手のひらを上に戻した。すると、そこに吸い寄せられるようになにか小さなものが飛び込んでいった。ヨーヨーの玉が手に戻っていくような急な動きだ。革手袋の上には男のバッグに入っていたネクタイピンが収まっている。
    「なんだ? こんなときにマジックか?」
     ニールがネクタイピンに手を伸ばそうとすると「触らないほうがいい」と言って男は床に落とした。拾おうとしてかがむとニールの目の前でネクタイピンは床から男の手のひらの上へと引っ張られるように戻っていった。仕込みの糸なんてまったく見えない。手のひらの中にネクタイピンをしまい込み、男は薄く笑って言った。
    「おまえのボスが集めているものだ」
     しつこくドアを叩く音がする。ニールは「清掃員」を迎えるためにトイレの水を流した。結局バスタブから一歩も出なかった男を振り向いて確認する。
    「あとで全部教えてくれるんだろう」
     男もニールを振り仰いで満足げに言った。
    「そのつもりでここに来た」
     浴室の扉を閉じて部屋のドアに向かいながらベルトを緩めてシャツを出す。ドアスコープの向こうには案の定「清掃員」がいた。彼女がノックしようと手を上げたタイミングでドアを開ける。
    「ゆっくり用も足せないとはね」
     不機嫌を装ってニールは清掃担当のコバルトを迎える。四十がらみの女性で仕事は的確で迅速丁寧。捜査されても青く光るルミノール反応を出さないことからあだ名がコバルトブルーのコバルトになったと聞いている。彼女はいつもと同じように担当するホテルの制服を着込み、後ろに二名の男女と作業用のワゴンを引き連れていた。
    「早いな、ぼくが手を下すと分かっていたのか」
     ニールの質問には答えず、彼女たちはいつものように無表情に部屋に入った。コバルトと小柄な女性と痩せている男性の三人を先に通して現場である浴室の扉を指差し、部屋のドアを閉める。浴室に向かう者はおらず、コバルトのあとから入った男女がニールに向き直った。ふたりともワゴンの上のニールからは見えない場所に片手を潜めている。
     ──コバルトは非戦闘員だから二対一か、どうするかな。
     あくまでも仕事を終えたところだという態度を崩さずにニールは顎を掻いた。ふたりが手にしているのは銃かナイフか。どちらを先に相手したものか──
     浴室の扉が開きバスローブを着た男が顔を出した。全員の注目が集まる中、部屋にいる四人に驚いたような顔をして言う。
    「パーティーでも始まるのか?」
     男の一番近くにいた清掃員の女がナイフをバスローブに向けて突き出した。それを皮切りにして清掃員の男もニールに銃口を向ける。取っ組み合いをしている女の方に向けてワゴンを蹴り飛ばしたニールは、銃口から逃れようとしてたたらを踏んだ。尻もちをついた頭の上を銃弾が跳ぶ。すかさず自らも銃を引き抜き脚を狙った。弾があたったと見えて体制を崩す相手の肩に蹴りを入れる。手から銃は落ちない。銃を握った手を踏みつけて、ニールは痩せた男の額に銃口を向けた。
    「投降しろ」
     叫ぶような声が背後からして女がニールに飛びついた。銃を向けるより早く腕が切り裂かれる。鋭い痛みに顔が歪むがナイフより銃がやっかいだ。ひざまずいた男が動かないように彼の頭に銃を押し付ける。
     そばにいた女の気配がなくなった。見ると、床に昏倒している。それに気を取られたニールを見逃さず、足元の男がサイレンサーをつかんで銃口を自分から外した。その先には寝室の前でうずくまるコバルトがいる。
     踏み留めていた足の下から男の腕が自由になった。ニールは握っていた銃を手離し、自分を狙う腕をつかもうとした。
     撃たれる──
     白い塊が目の前に飛び込んだ。バスローブをたなびかせてダニエルだかスコットだかいう男がタックルしたのだと、倒れた相手を見てから理解した。うまく受け身は取れなかったと見え、清掃員の男は頭を床にぶつけてうめいている。その首を腕で絞めてバスローブの男は清掃員を失神させた。
     室内に秩序が戻った。
     ニールは大きく息をつくと壁に背を預けた。なぜだか足に力が入らず、ズルズルとずり落ちてしまう。切られた腕がしびれていた。反対側の手で止血しようとして、両手とも震えているのに気づく。
    「なんだこれ……」
     倒れた男女の武器とニールの落とした銃を回収した男がそばにひざまずいた。なんのためらいもなく出血した傷口を確認し、うつむくニールの顔を自分に向かせて目を覗き込む。
     ニールには男の顔がぶれて見えた。
    「力が入らない……」
     声が上ずり視界が回る。回転するコバルトがこちらに近寄るのが見えた。ふたりはなにか会話をしている。自分抜きでなにを話しているんだとニールは言ったつもりだったが、うわ言のようなうめき声にしかならなかった。

     ニールは肌寒さで目を覚ました。身体に目を向けると上半身が裸になっている。隣では、ついに服を着た男がニールの腕に包帯を巻きつけていた。応急処置とは思えない丁寧な手付きだ。
    「すまない」
     枯れた喉を震わせる。まだ頭が重いような気はするが起き上がれなくはない。身を起こそうとすると、すかさず男の手がニールを止めた。片手で胸を押さえられただけなのに身動きが取れなくなり、ニールは動くのを断念して頭を枕におろした。
     乱闘を起こした部屋の寝室にいるようだった。移動しなければほかの刺客が現れるのではないか、それなのに、男は余裕のある様子で救急用品を片付けている。
    「逃げなくていいのか」
     ニールが訊くと男は口の端を持ち上げた。
    「ここは真上にある部屋だ。心配しなくていい」
     別の部屋だとしても、早く逃げたほうがいいのではないか、そう思うものの口を動かすのが億劫だった。切られた腕の痛みとしびれはマシになっている。動かしたら痛むのだろうが、寝ている状態ならば気を失う前のような感覚にはならない。自分に巻かれた包帯とこちらを見下ろす男とを見比べた。彼は、ニールがボストンバッグから床に散らばらせたスーツを着直しているようだった。ネクタイピンは身につけていない。
     ニールの視線に応じるように男が口を開ける。
    「体調はどうだ」
     軽くうなずいて問題ないと示すと男は安心したように微笑んだ。少し前に初めて会った相手──しかも銃を向けていた──に対する表情がこれなのか、とニールは居心地が悪くなった。顔を見ていられなくなり、眉をひそめて天井に目を向ける。男は構わず話し続けた。
    「ナイフに薬品が塗られていたらしい。致死性のある毒物ではないが動けなくなる。やつらはきみを狙っていた」
    「どうしてぼくなんか」
     ぼやくようにつぶやくと、悪かったと男が謝る。
    「おれがきみを引き抜こうとしたからだ。おれの持っているものとの交換材料にしたかったのかもしれない」
     首を振って分からないと伝える。ぼんやりとしてうまく頭が回らない。
     解説者のような男の声を聞いているとだんだんまぶたが重くなる気がした。天井から目を離し、ゆっくりとまばたきをして彼を見つめると男も同じように見つめてくる。どこも触られていないのにやさしくさすられているような気持ちになった。
    「あのネクタイピンの出どころにまつわる話だ。長くなるからまた今度にしよう。疲れただろう、もう一度寝るといい」
    「いやだね、起きたらきみはいなくなってるだろ」
     男はニールの言葉に首を傾げてみせた。それからニールの目の上に手のひらを当てる。物理的に目の前が真っ暗になった。きっと、頭をひと振りすれば男は素直に手をどけるだろう、だが、ニールは拒絶しなかった。手のひらは温かく、寝かしつけようとする気持ちだけが伝わってくる。
    「いなくならない、約束する」
     静かな声に導かれるように目を閉じると睡魔が忍び寄ってきた。眠ってしまいたくないのに身体が重くなっていく。じわじわと身体に染み入ってくる手のひらのぬくもりは、ニールが浴室で男にしたことを思い出させた。
    「なんで避けなかったんだ」
    「なんのことだ、おれは怪我していない」
     ニールはたまらず笑みをこぼした。
     忘れられているとは思わなかった。意識していたのは自分だけだったとは。
    「きみがバスローブを着る前のことだ。ぼくがキスしたとき、なぜ避けなかった」
     男はなにも言わなかった。手のひらを当てられていなければこの場から立ち去ったのかと思うほど静かだった。
     答えが欲しかったわけではない。なにをしたのか思い出してほしかっただけだった。案の定忘れていたようだし、蒸し返してバツの悪い気持ちにしてやれただけ上出来だと自分を慰めた。
    「銃を持ったやつに脅されたら誰だってなんでもする、そうだよな」
     ニールが言うと目の上から手のひらが離れた。表情の読めない男が見下ろしてくる。彼は小さな声で言った。
    「なにをしてもいいと言ったのは本心だ」
    「あんなに睨みつけておいて?」
    「すべてを許すとは言ってない」
    「いまもそれ、生きてるのか」
     男は一瞬、言葉に詰まったようだったが平静に返した。
    「なにがしたいんだ」
     おやすみのキスを、と言おうとしてニールは考え直した。なぜだか、ひどくもったいない気持ちになったからだった。彼とのキスは簡単に消費していいものではない、やるならきちんと場を整えて自分を意識させてからでなければ、そう感じた。
    「さっきみたいに手を載せてくれ」
     きょとんと目を開く姿がおかしかった。ニールは少し笑ってから目を閉じて彼の手のひらがおりてくるのを待った。温かくなったのは目の周りだけではなかった。肌寒く感じていた上半身も足の先までもが温められているようだった。
     ──気持ちがいい。
     疑問に思うことだらけで不安に襲われてもいいはずなのに、ニールは眠りに落ちかけていた。襲ってきたふたりがどうなったのか、コバルトはボスのもとに戻ったのか、宙を走るネクタイピンに謎の男、その男に引き抜かれた理由も自分のこれからだって分からない。
     それでも、このぬくもりを得られたのは悪くないと思った。
     シーツで肩を覆われ、おやすみという声がやさしく耳朶を打つ。目を覚ましてから今後のことは考えればいい。ニールは居心地の良い眠りにいざなわれた。手のひらはずっと温かかった。
    narui148 Link Message Mute
    2022/11/26 19:45:52

    いざない

    #主ニル  #いい風呂主ニル
    (10415文字)

    別組織で働く若ニルが主さんに勧誘される話。

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