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    呆れるくらい凡庸な愛のうたを ニールが音を立てて部屋に入ってきたとき、男は浅くまどろんで、さして興味を惹かれない娯楽小説に栞を挟んだところだった。
     外気の気配を漂わせながら猛然と飛び込んできたニールは、脱いだコートをその場に落とし、雪の結晶を頭に載せたまま男が座るソファに突進した。「おかえり」と声をかける前に氷のように冷たい唇が自分の口をふさぐのを、男はほうけたように受け止めた。
     ニールの身体は芯から冷えていた。彼自身がそれをわかっていたようで、ニールは唇以外で男に触れなかった。
     酔った勢いなどと理由をつけてこういった行為を無理強いしたりしない相手だ。どうしたのか訊きたくて肩に手をかけて身体を押しても、より強い力で顔を近づけてくるのでしようがない。口を開けて言葉を発しようとするとほのかに温かい舌が割り込んできて話せない。両手で顎をつかんで上に向けて、ようやく口が離れた。
    「なんだ、いったい」
     思い切りしかめつらをしながらも冷えた顔を両手でつつんでやると、ニールは鼻を鳴らすようにした。眉を下げて目を半ば閉じ、さっきまでのキスを心に浮かべているようだ。やっと表情が見えて男はかすかに安心した。自暴自棄にでもなっているのかと不安になったが、そうではないらしい。とはいえ、口元にある男の親指を口に含もうとして顔を動かしているので油断はならない。
    「ニール、なにがあった」
     決然とした声を出して注意を引く。ニールは口元から離れる親指に視線を投げると、そのままなにも言わずに男の顔にむしゃぶりついた。今度は冷たい手で顔と首を固定され、背筋に緊張が走る。質問に応えないのも、無理にキスするのも、まったく彼らしくない。だというのに──だからこそだろうか──押しのける腕に力を入れられない。それに、性急に求められるのも悪い気はしなかった。お互いに目を開いて相手がなにを期待するのかを探り合ねいながら口づけを深める。ニールはソファの上に乗り上げた身体をぴったりと押し付けて男の身体から暖を取ろうとするようだった。
     ニールの背に腕を回し、彼が落ち着くまで好きにさせるべきか、服に手をかけられたら抵抗するべきか、そもそも抵抗する気はあるのかと自分の胸に問いかける。
     少しも離れたくない様子だった薄い唇が息継ぎのために離れたとき、彼が常にない行動を取った理由を当初よりは知りたいと思わなかった。雰囲気に流されたと言えばそうなのかもしれないが、ニールが自分を求める切実さに当てられていた。
    「おれは逃げない、知ってるだろうに」
     男の体温が移って氷から冷蔵の肉くらいの温度になったニールの指が顔の上をなぞる。明るい日のもとで青く光る瞳は、天井から下がる蛍光灯のもとでは影になって灰色にけぶって見えた。まつげが震えるのがわかり、ひょっとして泣くのではないかと思った。ニールは泣かずに小さく声を出す。
    「どうかな、ぼくにはわからない」
    「なにがあった?」
    「キスしたいだけ。いいだろう、いつもしてるんだから」
     再び顔を近づけてくるのを男が止める。今度は胸に手を当てただけでニールは止まった。制御を取り戻してもらえてほっとする。
    「話しをしろ、ニール。ちゃんと聞くから」
     ニールは話したくないと言うように唇を噛んで男を見つめた。男はその顔に両手を伸ばして歯から唇をはずしてやる。頬を撫で、濡れた頭も撫でてやると、目を閉じて男の肩口に頭を預けた。膝の上に乗るぐったりと脱力した身体は、それまでより重く感じられた。
    「さみしかった」
     ニールはひとことだけ言うと身を擦り寄せてくる。男はニールがそうする以上の力で自分の身体に引き寄せ、しっかりと抱きしめた。
    「さみしい思いをさせてすまない」
     男が言うと、くすぐったそうにニールは笑う。身体に回されている腕からは徐々に彼本来の体温が感じられてきた。耳元で小さくため息が聞こえる。悲しげではなく、どこか照れたような、言い訳をするような温度を感じた。
    「そんな理由で謝ってたら一生謝り通しの人生だ。きみにはもっと傲岸不遜でいてほしい」
     男は含み笑いをした。偉そうにしろと言われるのは慣れていない。ニールだって、本当はそんな態度を取られたくはないだろう。そこまで考えて、果たしてそうだろうかと、はたと気づいた。彼の中には未来を生きる自分の姿が存在する。その男は、いまの自分の存在よりもニールの心の中に大きく座を締めていると男は確信していた。
     ニールの言うさみしさは、もしかしたら過ぎた日にあった未来の自分との記憶を懐かしむ気持ちから生まれたのではないか──
     深く考える前に疑問が口をついて出た。
    「昔を思い出したのか?」
     ニールが男に顔を向けるように首元で動く。
    「昔ってなに?」
    「好きだったやつを思い出して人恋しくなったとか」
     ぼそぼそと吐き出すように言うとニールは身体を起こして正面から男を睨んだ。
    「馬鹿にするなよ」
     低い声がふたりの間に垂れ込めた。外から帰ってきた直後の彼自身よりもさらに冷たい視線にさらされて男は眉をひそめる。そんなふうに見つめられる謂れはない。
    「別に構わない、忘れる必要もない。おまえの好きにしたら──ニール、どうした」
     ニールは身体を起こして男から離れた。そのまま後ずさりして壁まで退き、背中が当たるとその場に座り込む。そしてひとこと「ばーか」と罵った。
     男は自分が間違った態度を取ったらしいと気づいた。まごつきながら立ち上がると、まずニールの着ていたコートを拾い上げて雫になった雪を払い、とりあえずソファに放り投げる。それから床に座り込んだニールに近づき、片膝をついて目線の高さを合わせようとした。ニールは腹が痛いというように顔をしかめて男から顔をそらした。
    「……気に障るようなことを言ってすまない」
     そう謝るとニールは一度口を引き結んでから諦めたように言った。
    「きみは悪くない」
     ──沈黙。
     部屋に静けさが広がった。自分の不用意な発言のせいでニールが苛立ったのはわかった。だが、ニールの中に未来の自分の姿があるのは明らかだと男は思っていた。いまとなっては隠す気もないようだが、彼の視線や動作から──きみはこうするはずだ、きみはこれが好きだ。ぼくはそれを知ってる──未来の自分への好意が滲み出し、居心地が悪くなったのは一度や二度ではない。その自分のひととなりに興味はあるが、ふたりのこれからに影響を及ぼすかもしれないと思ってこれまであえて聞かなかった。だが、もしかしたら、かつてニールは未来の自分と先ほどのように求め合ったりしたのかもしれない。その想像は、まったくおもしろくなかった。
    「話してくれないのか」
     床に目を向けてニールは口をつぐんでいたが、なにか話したそうにしているように見えた。男は彼が話すまで動かないと決めていたし、相手が自分のその性質を把握しているのも知っていた。我慢比べをするつもりはないらしく、ニールは口を開いた。
    「あんなふうに言われて、どう返せばいい? ぼくの心には過去に会ったあなたしかいないと言えばきみは気が楽になるのか。だとしたら、そう言うよ。かつて一緒に過ごしたひとはどこからどう見ても完璧で美しくて、ぼくの理想だった。彼はぼくに入れ込んでいて、ぼくは彼なしでは生きていけなかったと言ってやる」
     話すうちに興奮したニールはイライラした様子を隠さなかった。けれど、その苛つきは長く保たず、髪をくしゃくしゃにかき上げて顔を覆うと「ごめん」とつぶやく。
    「八つ当たりだ。頭を冷やしてくる」
     目を合わせずに立ち上がると、ニールはコートを置いたままドアに向かおうとする。
    「ニール」
     静止の声はよく効いた。彼は立ち止まって動かない。男は片膝をついた姿勢で言う。
    「ひとりになりたいならおれが出ていく。おまえはシャワーでも浴びたらいい。変なことを言って悪かった。おまえを試したかったわけじゃない。……いつもと様子が違うからびっくりして口が滑ったんだ」
     男は立ち上がり、先ほどまでニールが着ていたコートを羽織って隣をすり抜けようとした。
    「行かなくていい」
     腕をつかまれて男は振り向く。ニールは眉をひそめて口をつぐみ、神妙な顔をして言う。
    「なんでそう思い切りがいいんだよ。もっとぼくを問い詰めるなりしたらいいだろうが」
    「そんなことをしたって、きみはここから出ていくだけだろう。おれは言い負かしたいわけじゃない。ひとりになりたいときもあるだろうから……」
     ニールは男に近づき、肩口に額を押し付けるようにした。くぐもった声で「ばーか」と繰り返す。
    「ひとりになりたくない。一緒にいたい。でも、きみの言葉に過剰反応してしまう。……馬鹿みたいだ」
    「嫌なら嫌だと言っていい。帰ってきたときのあれも、なにか理由があるんだろう? 言ってくれればふたりで解決できるんじゃないか」
     肩を軽く叩いて男が訊くと、「言えない。言いたくないのもある」とニールはきっぱりと告げた。
    「でも、ひと月後には言えると思う。ぼくの気持ちに整理がついたらだけど……いまはここまでだ」
     男には肩をすくめることしかできなかった。ニールを抱きしめて安心した男は、彼の気持ちの整理がつくのを待つと決めた。

       *

     翌日、男は任務中に部下をかばって肩と腕に怪我をした。医務室でギプスによって肘から手のひらまでを固定され、右手は指先しか自由にならない。つけられたばかりのギプスを左手でつつくとすかさずニールに止められた。
    「今日からは絶対安静です」
    「こんなにガチガチに固めなくてもいいんじゃないか」
     不満げな男にニールが微笑みかける。
    「骨を折るのは初めて? 肩に裂傷があるし、すこしヒビが入っただけでも感染症を起こす可能性はある。絶対安静だよ」
     口だけは笑みの形をとっているが目がまったく笑っていない。
    「裂傷って、すり傷だぞ、大げさな……」
     仏頂面をする男にアイヴスが声をかける。
    「怪我人は大人しくしてるんだな。明日は一日家で待機だ。なにかあれば連絡するから養生してください。家まで送りましょうか?」
     ありがたい、と善意を受け取ろうとしたとき、ニールが割って入った。
    「ぼくが送るよ。夕飯の買い出しもしたいからついでにさ。迷惑かな、きみが無事に家まで帰り着くのを確認して彼にも伝えないといけないしね」
     彼というのは男がかばった隊員のことだ。足を滑らせて落ちた隊員を階下で受け止めようとして下敷きになり、男は腕を怪我したのだった。
     アイヴスは引き止めず、男もなにも言わなかったために、ニールは怪我人を連れて駐車場に向かった。
     着ているシャツやジャケットはギプスのせいで袖を通せないので右肩にかけている。その上からコートを羽織りボタンを止めた。右腕がごわついて不格好だが、そうしないと肌が外にむき出しになるので致し方ない。廊下を歩くとコートの隙間から冷たい風が吹き込んできて思わずくしゃみをしてしまう。
     同じ家に住むニールに連絡を取らなければならなかった。家に誰かががいるのだと勘ぐられるのは困るので皆の前ではあえて家まで送るという提案を拒絶しなかったが、適切に対処しなければならない。アイヴスが相手ならば、ふたりだけのときに誰に電話をするのもメールを打つのも簡単だ。彼は詮索してこないし誰かに連絡したという事実自体をほかに漏らしたりしない。しかし、ニールが相手だとそうはいかなかった。
    「夕飯は買って帰る? それとも、家に用意してくれるひとがいたりする?」
    「いや、そんな相手はいない。スーパーでなにか買って帰ろう。冷凍食品でもいいし、簡単なものを」
     ニールは満足げに笑み、助手席の扉を開いて乗車を促す。いま、男が自由に動かせるのは左手のみだ。運転席からは丸見えで、隠れてテキストも打てない。ひとりになる時を待つしかなかった。
     ひとりになれる時間が必ず来ると、男は楽観視していた。普段あまり使わないスーパーに車を向けてもらい、そこで買い出しをする際には、と高をくくっていたのだ。だが、ニールは男のそばから片時も離れずにカートを押してついて回る。自分の夕飯の買い出しをしてきていいと言っても、荷物持ちが必要だろうと言って聞かない。ここで、脳内に警告のアラートがようやく響いた。このままでは家の近くでふたりが鉢合わせしてしまうかもしれない。
    「すまない、支払いを頼めるか、トイレに行ってくる」
     ニールは男のコートの下にある右腕のあたりをまじまじと見て真面目な顔をして言った。
    「手伝おうか」
     うなずけば、衆人環視の中であっても彼が自分に手を貸すのを厭わないと男は直感した。断っても食い下がってくるような気がする。
    「……やっぱり、やめておく」
     男の答えを聞くとニールは大人しく引き下がった。手伝う手伝わないといった不毛なやりとりに時間をかけたくなかったのでほっとする。連絡をせずとも、近頃、同居する彼が帰ってくるのは夜遅くなってからだ。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせてつばを飲み込んだ。
     ニールには家の前で車を停めさせた。部屋に電気はついておらず、暗がりに沈む姿は見たところ無人に思える。ここまで来たらできるだけ早く屋内に入ってしまうしかない。フロントドアを開けると冷たい風が吹き込んできた。右腕は熱を持っているように感じるのに悪寒がしてぶるりと震え、またくしゃみをしてしまう。
     車中のニールは、自分が家のドアを開けて中に入るまでこの場所を動かないような気がした。
    「送ってくれてありがとう、冷えるから早く帰りなさい」
     そう言って車から降りようとすると「待って」と引き止められる。
    「夕飯、せっかく買ったのに忘れてる」
     ニールはリアシートから紙袋を取り、苦笑するようにして手渡した。
    「なにかあったら迷わず電話してほしい。力になれると思うから」
     彼のしおらしい姿を見ると、隠し事のある自分が欺瞞に満ちた人間に思えて心苦しくなった。そう思うことすらエゴイスティックでどうしようもない。
     案の定、ニールは男が屋内に入るまで車を動かさなかった。いつものようにまっすぐな視線で自分の姿を見送っているのかと思うと振り向いたりはできなかった。
     急いで中に入りドアを閉める。外から見たとおり、屋内に照明はついておらず誰もいない。ほっとして廊下を進むと胸に違和感が溢れ出した。
     部屋が片付いている。
     いつもならテーブルの上に置いたままにされているニールのマグカップやコップなどの食器がない。シンクの中も空っぽだ。今朝の同居人の様子はどうだったかと記憶をたぐりながら食器棚に目をやり、息を呑んだ。自分が腕を怪我したのを忘れて右手を伸ばそうとしてまだ脱いでいなかったコートに阻まれる。自分のカップの隣にあるはずのニールのマグカップがなかった。マグカップだけでなく、常にそこにあるはずのふたり分の皿やカトラリーがひとり分しかない。焦燥が背をはい登る。男は身を翻してリビングに向かった。
     ソファの背もたれの上にニールが普段着ている灰色のコートがかかっている。思わず手を伸ばしてその存在を確認した。昨日の夜、ニールはこのコートを着て外から帰ってきた。
     だが、それ以外にニールの存在を匂わせるようなものはなくなっていた。この家に住んでいたのは、はじめから男ひとりだったというように整然としている。彼が日頃使っているブランケットやクッション、机に置きっぱなしのメガネや読みかけの本と栞、頭脳労働の対価だね、とうそぶきながら口に含む甘いチョコレートやキャンディ、部屋の中に散らばった彼の欠片が跡形もなく消えている。
     男はぐっとコートを握って昨夜のニールの行動を思い出した。帰宅してすぐにキスをしてきた彼らしくない行動は、姿を消す前触れだったのではないか。
     携帯端末が震える。電話ではなくテキストメッセージで、そこにはたった一文「しばらく留守にする」とだけ書いてあった。こちらからの連絡を拒絶するような文面に見えて、男は急によるべない感覚に襲われた。ニールは連絡をまめにするたちで、彼が送ってくる単なる報告や挨拶──おはよう、おやすみ、今日は天気が悪い、気をつけて──なんかには返信をせずに受け流していた。だが、いま送られてきたメッセージは受け流せない。「しばらく留守にする」の一文だけを残して理由も言わずに自分の元から去って行くなんておかしい。
     視線が廊下の先に向かう。寝室の扉を開いたら取り返しがつかなくなるのではないかと根拠のない不安が忍び寄ってきた。足を廊下に踏み出そうとしたときにチャイムがなった。ニールが帰ってきたのかとドアに目を向け、彼ならチャイムなど鳴らす必要はないのだと思い至る。
     ふと、ニールはこの訪問者から逃れるためにいなくなったのではないかという考えが頭によぎった。
     足音を忍ばせてドアに向かう。「誰だ」と問うと、ためらうような間のあとに「ぼくだ、ニールだ」という声が返ってきた。
     ドアを開けると、車で別れたばかりのニールがいた。コートも着ずにジャケット姿で紙袋を携えている。
     出迎えた男の顔を見ると訪問者は表情を強張らせた。視線を外し、開きかけた口を閉じることもできずにばつの悪さを隠せないでいる。
     彼がここに来たのと、同居人がいなくなったことに関連があると思うと気持ちが沈んだ。来意を確認するために、どうしたと短く訊く。ニールは居心地悪そうに咳払いをして答えた。
    「さっきスーパーで痛み止めを買っておいたんだ。あと、明日の朝食もきっと必要だと思って……。ごめん、余計なことをした。馬鹿だな、なにしてるんだろう」
     ニールは自嘲するように口を歪ませた。
     いやに部屋が片付いていたのは、彼が来ると同居人が事前に知っていたからだろう。ならば、抜かりなく準備をしたはず。男は身体をずらして部下であるニールを招き入れた。
    「お節介だよな、気を遣わせてしまってごめん、すぐ帰るから」
     リビングまで通しても気詰りな空気は変わらない。
     「なにか飲むか?」と聞いてから、男は自分の腕を見下ろした。ニールはその様子を見て、気にしないでと微笑んだ。部屋を見渡し、床に放置された袋に目を留める。
    「買ったもの、冷蔵庫に仕舞おうか? きみ、まだコートを着ているじゃないか」
     ニールに指摘されてそれに気づいた。左手でボタンを外そうとしてまごつくと、手伝っていいか提案される。同居人を思い出し、おとなしく腕をおろしてニールの指が胸を下るのを眺めた。
     同居人のニールは男の世話を焼くのも、自分の世話を焼かれるのも好んでいた。一緒に暮らし始めた当初はボタンを留めるときも外すときも、指先のリハビリになるから自分にさせてくれと頼んできたものだった。そんなとき、男はニールに身を任せ、彼の指が時間をかけて胸元のボタンを留めたり外したりするのを眺めていた。
     ボタンを外し終えたニールはコートを男の肩からおろして自分の腕にかけた。特別な仕事を終えたというように息をつくので、男は思わず笑みを浮かべてしまう。目の前のニールに当たっても同居人は帰ってこない、気持ちを入れ替えなくては。
    「ありがとう。薬も、朝食も。心配してくれたんだな」
     ニールは小さく首を振り、そんな、とつぶやく。
    「きみもおれと同じものを買っていたよな、レンジで温めて一緒に食べるか?」
     男が提案すると、ニールは数回まばたきをして声もなくうなずいた。
     コートは脱いだもののジャケットとシャツは肩に乗せただけの状態で動きにくい。トレーナーかなにかに着替えようと思い寝室に向かう。扉を開けようとしてドアノブの前で逡巡した。昨日までそこにあったものが猛烈に欲しくなる。彼を感じさせるものが必要なのに、きっとここにはなにもない。
     中に入ると案の定、彼の私物はなくなっていた。自分のものしかない部屋は空虚で物悲しい。寒さもあってか、感傷的な気持ちになった。気を取り直そうと、ジャケットとシャツを脱ぎ捨ててトレーナーを探していると、ドアのそばにひとの気配を感じる。振り向くと、ひっそり中を伺うニールの顔が見えた。
    「……なにしてる」
    「コート、掛けておかないといけないと思って。……覗いてごめん」
     ため息を飲み込んでニールのもとに向かう。彼は男が着ていたものとソファにかけていた同居人のものとを携えていた。男は自分の分だけを手に取り、灰色のコートはニールの腕にかけたままにした。
    「そっちは、元にあった場所に置いておいてくれないか」
     首を傾げつつも、ニールは素直に従った。
     服を着替えてリビングに向かうと、ニールが冷凍食品のパスタをレンジで温めて用意していた。片手しか動かせないので楽に食べられるものをと思って選んだが、利き手ではない手を使うのは意外と難しく、うまく口に運べず格好がつかない。フォークで巻き取れないパスタが落ちるのを向かい側から見つめられ、思わず、同居人と一緒にいられたらよかったのにと考えてしまう。
     ──なにしてるんだ、意外と不器用だなあ。馬鹿になんかしてないさ、ぼくに食べさせてほしいっていう精いっぱいの自己主張なんだろう。ほら、素直に口を開けたまえ、パスタを進呈いたしましょう──
    「腕、痛む?」
     習慣的に自分の席についてしまった男は、同居人の席に訪問客を座らせた。そのニールの声で現実に引き戻される。
    「痛みはないな、身体が動かしづらいだけだ。思ったよりも不便だな」
    「二十四時間は安静にして、それ以降はできるだけ動かさないように。そうじゃないと、落ちた隊員が気に病むだろうからね」
     顎でうなずいて左手を動かす。パスタが落ちる。フォークを回す。ポロポロ落ちる。右手は強ばる。
     ──どうした、不味いのか、ぼくのを食べる? お腹いっぱいになってほしいって思うのはわがままかな──
     自分がヘマをしたからニールがいない。彼はいま、どこにいてなにをしているのか、なにもわからない。
     時間をかけて食べ終わるまで、相対するニールはなにも話さなかった。仏頂面でフォークに苛ついている男にかける言葉もないだろうし、話しかけられても楽しくおしゃべりができるとも思わなかったからほっとした。水を飲んでようやく落ち着いたと思ったとき、ニールがおもむろに口を開いた。
    「あなたの手伝いがしたい。明日の朝まででいいから、ぼくをここに置いてくれないか」
     男は思わず鼻で笑った。コートのボタンを外させるのではなかった。腕を折ったくらいで大げさな、ひとりでは自分の面倒も見られないと思われているらしい。首を横に振って断りを入れる。
    「気持ちだけ受け取っておく。きみにも予定があるだろう、むしろ、引き止めて悪かった」
    「予定はない。迷惑はかけないようにするからここにいたい。口出しはしないし、いないものと思ってくれていい。今夜だけ特別に、だめかな」
     澄んだ瞳をまっすぐに男に向けて、思い詰めたように真剣な面持ちで言う。
    「おまえになにができる」
     頭で考える前に口に出た言葉は、ニールに必要以上に響いたようだった。まぶたが震えて薄青い瞳が暗く翳るように見えた。思った以上に冷たい言い方になってしまい、男は口元に手をやる。少なくとも、片腕が使えないいまの自分よりニールの方ができることが多いというのに。
     失言を噛み締めていると、ニールはテーブルを回って男の足元にひざまずいた。男を見上げて先ほどより力を込めて言う。
    「言ってくれたらなんでもする。それに、ここにいれば、一晩中あなたを心配しながら起きていなくて済む。これはあなたのためじゃない。ぼくがよく眠れるように、わがままに付き合ってくれないか」
     ここで彼の申し出を断っても、ニールは家に帰らず、車中泊をしてでも近くにいるのではないかと思わされた。なぜ、彼はこんなに自分を慕うのだろうと今更ながら不思議に思う。失礼な物言いをされたにも関わらず力になろうとするなんて。
    「ここにいたってつまらないぞ」
    「役に立ちたいだけだよ」
     ニールは静かに男を見上げた。八方美人な自分に舌打ちをしたくなりながらも男はうなずいた。提案を了承されたニールは肩から力を抜き、よし、と言って立ち上がる。
    「後片付けは任せてくれ。なにか必要があったら呼んでほしい」
    「わかった、頼む」
     同居人はしばらく留守にすると書いていた。きっかけを作ったのは間違いなく自分自身だ。喉の奥が絞られるように傷んだ。
     ニールだけを家に置いていつものように走りに出るわけにもいかず、四苦八苦しながら下の服も着替えてしまえばあとは寝るだけとなる。
     キッチンからは少しの物音も聞こえない。彼は後片付けをしてからずっと、キッチンの椅子に腰掛けて男に用事を言いつけられるのを待っているようだった。心配性の部下の元に着替え──もちろん、自分の持ち物で同居人の服ではない──とクッションとブランケットを片腕と顎に挟んで持って行くと、ニールはすかさず腰を上げて腕の中から荷物を受け取った。
    「ごめん、そんなつもりはなかった。このままでも大丈夫だから」
     男から視線を外しておずおずと言う。
    「ずっとそこで待機するつもりなのか。ソファを使ってもらっていい。なにかあれば呼ぶから。すぐに来てくれるんだろう?」
     男の言葉を聞いて顔を上げたニールは、ほっとしたように眉を下げてうなずいた。
     近寄って手を伸ばし、「きみはよくやってくれている」とねぎらうべきなのだろうか。あるいは、「こんなふうに構うのは今後はやめてほしい」と厳命するべきなのか。
     結局、男はなにも言わずに寝室まで戻り、ベッドに横たわった。身体は疲労を訴えているが、神経が落ち着かない。昨日まで隣にいた相手が急にいなくなったのも、その代わりに年若いニールが家の中にいるのにも違和感がある。しばらくの間寝返りをうち、うとうととしたとき、扉の外でなにかが倒れる音がした。
     寝室の扉を開くと、暗がりの中、廊下にニールが座っている。頭を胸につけるようにして目を閉じ、ブランケットの下からは長い脚が投げ出されていた。さっきの音は立てていた膝が倒れた音だろうと推測する。
    「ニール、起きなさい」
     肩を揺さぶると、びくりと身を震わせてニールが目を覚ました。
    「どうかした」
    「寒いだろう、こんなところで寝るんじゃない。なんで廊下なんかで……」
     ニールはもぞもぞと身体を動かすと膝を抱いてその場で小さくなった。立ち上がってソファまで戻ると思った男は、腰をかがめた中途半端な体勢でニールを見下ろす。
    「ソファには行かないのか」
    「ここにいる」
     声を固くしてニールが応える。暗いのと、顔を伏せているのとでニールの表情は読めない。男はニールの隣に腰を下ろした。
    「それなら、おれもここにいよう」
     息を吸う音がした。ニールはなにかをこらえるように飲み込んで、それから長く吐き出した。わだかまりをほぐすように膝の間で呼吸をする。
     何回か繰り返してから、立てた膝の上に頭をあずけてニールは男に向き直った。
    「押しつぶされたみたいに見えて、びっくりした。軽い事故にはとても思えなくて、動かなかったし、静かで、出血してないから大丈夫だろって思ったけど、まさかって。覚悟をしろって言うけど、でも、もっとずっと先だと思ってるから嘘だろってなって心臓がドキドキして汗が出て頭がぼうっとしてもう二度とぼくを見てくれないのかもしれないなんて考えられなくて」
     目を見開いたニールは、隊員をかばって下敷きになった今日の事故の場面を思い出しているようだった。彼は大きく息を吸って顔を歪める。
    「アイヴスが駆け寄ったあとになってようやく動けたんだ。心配ないとわかってから。ぼくは役立たずだ」
    「それで、おれを見張ってるのか」
     だからといって扉の前で座り込むだなんて。男は苦笑してニールに向き直り、動きを止めた。
     ニールは無理に笑おうとして失敗していた。自分の脚を強く握り、目に涙の膜を張って頬をひくつかせる。痛ましくて胸が詰まった。慰めなければならない、いま自分にできる最善のことをしなければ。
     男は左腕をニールの身体に伸ばした。できるだけ小さくなるようにと縮めたニールの身体は、それでも手に余る大きさで、動く方の左腕を精いっぱい伸ばして肩を抱いた。縮こまったニールの腕をさすり、自分の肩の上に彼の頭を載せるようにして抱き寄せた。頭を撫でるうちにその身体は次第に弛緩していく。ニールはそろそろと両腕を男に伸ばし、ギプスに触れると動きを止めた。次の瞬間、堰を切ったように背中に腕を巻き付け、しがみついて言った。
    「無事でよかった」
     うまく言葉が出てこないのに男は困惑した。普段、同居人は男が気を落としているのに気づくと黙って隣に座り、同じ時間を共有したり、手を握ったり抱き寄せたりする。男はニールに対して同じことを返したつもりだった。だが、ニールに抱きしめられて、安心しているのは自分の方だと感じた。
     ニールに身体を引き寄せられて腹と腹の間になにかが挟まっているのに気づく。気になって触ってみると、それはニールに渡した着替えだとわかった。クッション代わりにでもしていたのだろうか、体温が移ってほの暖かくなっている。男が気にしているのに気づいたニールは背中に回した腕を外して照れたようにつぶやいた。
    「着たらよかった」
    「好きにしたらいい」
    「ここにいるのも?」
    「それで気が晴れるなら」
    「本当は、ずっとあなたのそばにいたい」
     男は言葉を飲み込んだ。「おれが信用ならないから?」などと言って混ぜっ返すべきだと思った。だが、ニールの恐れは身に覚えがある。「彼」が生死不明で動けないと知ったときの地面が抜けた感覚はいまでも簡単に思い出せる。どこまで落ちたら底につくのかわからなかった。不安をなくすには近くで見守るのが一番楽で手っ取り早い。ニールは男が「彼」にしているのと同じことを望んでいる。
     ──「彼」を手放すときが来たのかもしれない。
     いつからか頭の隅にあった言葉が冷たく響く。身を挺して自分を救ったひと、右も左もわからなかったときに道を指し示してくれた男、微笑みかけてくれる相手、生涯の相棒。
     彼が傷を負ってからこちら、あまりに長い時間を自分の元に拘束したのではないかと、その不在を通して改めて感じた。自分の手の届く範囲に置き続けるのは、彼にとって望ましいことだったのだろうか。勝手なエゴを、彼のためだと言い訳にしていなかっただろうか。
     そうしたくなくても、これからの自分たちのために必要なのは、もしかしたら──
     ニールが男にキスをした。
     自分の思考に沈んでいた男は、なにかの間違いだと信じてとっさに反応できなかった。首元に触れた指をつかんで頭を離す。ニールは身体を伸ばして再度キスをした。
     昨日のニールを思い出す。帰ってくるなり冷たい唇を押し付けてきた理由がわかった気がした。
    「だめだ、ニール」
     許しを請うような声が出て男は驚いた。ニールもその声に含まれた温度を感じ取ったと見えて動きを止める。彼はためらいなく身体を離し、壁に背中をつけて言った。
    「ソファに戻るよ。起こして悪かった。なにかあったら呼んでほしい」
     ニールは廊下に男を置いてリビングに向かった。ブランケットも着替えも残していたが、男はリビングに届けに行けなかった。


     朝、ニールは灰色のコートを羽織ってソファの上で眠っていた。幼く見える寝顔を見ていると、煮えきらない態度を取る自分が嫌になる。彼が昨日家まで来なくとも、同居人はどっちつかずの男に嫌気が差して早晩家を出たに違いないと男は思った。
     ソファの上に身じろぎする気配を感じて急いで移動する。キッチンに立ち、昨日ニールが購入したシリアルを皿に盛った。いつもは選ばない朝食だが、せっかくだから食べてみようと思ったのだ。牛乳を注いでいるとニールが顔を見せた。
     おはようと言う男にニールは挨拶を返し、ぼくにさせてほしかったのに、と牛乳を指さした。
    「おれが牛乳を注いだシリアルは食べたくないって?」
     こぼさないように気をつけてそろそろと注ぐのをニールは黙って見守った。昨日と同じ席につき、昨日と同じように向かい合う。ニールはスプーンでシリアルを掬ったり落としたりしながら口火を切った。
    「昨日は付け入るようなまねをして悪かった。でも、したことを謝るつもりはないから」
    「無理やりキスしたのを?」
     男が言うとニールは口を引き結び、つばを飲み込んだ。
    「無理にしたのは悪かった。ごめん。でも、行為自体を悪いとは思わない。ぼくはあなたが好きだ。いま言わないと後悔しそうだから、困らせるとわかってるけど言わせてもらう」
     そう言うと、ニールは猛然とシリアルを口に運んだ。頬いっぱいに詰め込んで噛み砕く音が部屋に響く。耳をほのかに染めてボウルに向かう姿を見ているうちに男は気が抜けたようになり、次第に口元に笑みが浮かんだ。相手にならってシリアルに手を付けてふたりしてバリバリと音を立てて食べる。ちらりと男を確認したニールは笑みを返されると一瞬口の動きを止め、再び猛然とボウルに向き直った。その顔には安堵と期待が入り混じっているように見えた。ニールはシリアルをすべて口に詰め込むと席を立ち、ボウルを片付けて立ち去ろうとする。男は背中に向かって声をかけた。
    「ニール、きみの……」
    「言わなくていい、わかってるから。ありがとう、その、聞いてくれて嬉しかった。これ以上を望んだら罰が当たる。昨日は度を越してた、本当にごめん」
     ニールは男に向き直って頭を下げた。頭を上げたらある提案をするつもりだったが、なかなか上げる気配がないので男は頭頂部に向かって口を開いた。
    「しばらくの間、片腕が動かせない。車も運転できないから明日から本部までの送迎を頼めるか。それでチャラにする、どうだ?」
     顔を上げたニールは目を開いてぽかんとした。男が眉を上げて返事を求めると何度もうなずいて賛意を示す。
    「毎朝本部まで送るし、帰りもここに送る。もう家に入りたいなんて言わないから安心してくれ」
    「決まりだな」
    「明日から来るから今日は一日休んでいて。買い出しが必要なら買ってくるから!」
     そう言い残し、ニールは跳ねるように本部に向かった。

       *

     留守番電話に切り替わると、男はその日の報告を吹き込んだ。
    「三週間が経った。ギプスは外れて腕は問題ない。かなり渋っていたがニールの送迎も今日で終わりだ。きみの言う一ヶ月はしばらく後なんだろうか」
     男は、「早く会いたい」と言いかけてためらい、不自然な間をあけて電話を切った。明日以降、ニールが自分のもとを訪れる大義名分はなくなる。かといって、すでに勝手知ったる上司の家だ、用事などいくらでも作って訪問できるだろう。彼は同居人がいるとは思ってもいないのだから。
     腕が不自由な期間、ニールは上司のために尽力した。生活に必要なものを取り揃え、男を手伝い、ときには食事を共にした。彼は自分の宣言通り、家に入れてほしいとは言わなかったし、初日以降キスはおろかハグもしてこなかった。なにより、場を明るくしようとするニールの存在に男自身が救われていた。
     ただ、男の人生にはすでに相棒がいる。出会ってからずっと離れずそばにいて、これからも隣にいてほしいと思う相手が。しかし、彼は最初の日に残したメールを除いて男に連絡をよこさなかった。
     彼は自分と過ごすのを望んでいるのだろうか。彼と一緒にいるのは、果たしてお互いにとってよい結果をもたらすのだろうか。これは、きっと相棒自身も知らない未知の領域だ。話し合わなくてはいけない。自分たちの今後を、未来を、ニールの希望を、きちんと聞かなくては。
     もちろん、あのキスの理由も、と付け加えて男は唇に手をやった。

     留守番電話に声を吹き込んでから一時間ほど経ったとき、ノックの音がした。月の明るい夜で、外はしんと冷えて静かに澄んでいる。男は、自分で鍵を開けて入ってくればいいのにと思いながら扉を開いた。
     月明かりに照らされたニールは、コートを着ずにジャケット姿で立っていた。背格好は年若いニールと変わらないのに、あるべき場所にいるというような佇まいが彼からは漂っていて、男はその姿を見ると勝手に胸が詰まり、言葉に窮してしまった。
     ニールは口を閉ざしており、ふたりの間に気まずい沈黙が漂う。
     男は扉を大きく開き、ニールを中に引き入れた。そして、扉が閉じ切らないうちに身体をニールにぶつけるように押し付けた。ニールは抵抗せず男の仕打ちを黙って受け入れ、静かに見つめる。
     相棒が戻ってきたらにこやかに迎え入れ、温かく抱きしめてやりたいと男は思っていた。けれど、本人を目の前にして取ったのは反対の行動だった。ニールの胸に頭を突くようにした男は、冷たいジャケットを握りしめてうめいた。
    「これまでどこにいた」
     ニールはだらりと腕を下げて言う。
    「怒っているよね」
     ほしい答えが返ってこなかったことが腹立たしく、男は顔を上げた。そこには、この一ヶ月あまりの間、隣にいるのを望んでやまなかったひとがいた。申し訳なさそうに眉を下げて自分を見る瞳は不安げな色をたたえて不思議に揺れる。男の気持ちもつられて揺れた。この場を掌握できるはずなのに、彼は力を落として静かに男を見つめる。扉を開けてニールを迎えたときとは別の、胸を詰かれる感覚に襲われて男は思わず声を上げた。
    「なんでそんな顔をしているんだ」
     ニールは懐かしいものを思い出すように目を細めて男を見た。
     だって、と小さく続ける。
    「きみは本当にやさしくて、ぼくにとってこの三週間は思い返してみても特別な時間だったから。きみはぼくを受け入れて、ぼくの心はきみでいっぱいだった。きみの隣には過去のぼくがいる。まだ使い物にならないかもしれないけれど、必死に努力するぼくが。そうしたら、このぼくはどうなるのかと思ったんだ」
    「どうなるって、どういうことだ。おまえはおまえだろうが」
     うん、とニールはうなずいて男の顔に手を伸ばした。両手の指で頬を触り、感触を確かめる。
    「やさしくしてくれてありがとう」
     別れを告げるかのような言い方をされて男ははっきりとむっとした。顔を振って指を払い、ジャケットを引っ張ってニールの顔を自分に近づける。
    「勝手に出ていったのはかまわない。だが、なんで連絡をよこさなかった」
     ニールは男の胸の上に手のひらを当てた。
    「ぼくに嗅ぎつかれる。きみの胸に別の誰かがいるんじゃないかってね。ここに来てたとき、きみは寂しそうだった。だからこそ、ぼくがそばにいてやらないとって思ったんだよ」
     間近で見るニールの目の下には隈があり、伸びた無精髭が口元の皺を隠すように生えている。自分とともに年齢を重ねた姿を男はじっと見て言った。
    「『きみ』にそばにいてほしかった。これは、おれのわがままか?」
     ニールは男と目を合わせたまま小さく頭を振った。そして、やっと微笑みを浮かべて目尻に皺を作る。その皺は男がニールの体の部位で好ましいと思っているもののひとつだったので、男は身体を伸ばして口づけをした。額にもキスをして「おかえり」と言う。
     震えるようなため息をニールはついた。
    「ただいまって言いたい。でも、ぼくはきみの足枷になる。これからなにをするにしても、組織としての未来を知っているという枷に」
    「そんなの、いままでだってそうだった。なんで急に……」
     男はしがみつくようにジャケットをつかんだ。自分が彼の自由を奪っているのかもしれないと疑っていた。しかし、可能性のひとつとしてしか彼との別れを考えていなかったと思い知らされた。
    「ぼくたち、距離を置いた方がいい。なにもこの先ずっと会わないわけじゃない。拠点を移すタイミングとか、近くに来たときは友だちみたいに会えばいい」
     友だちみたいに──それは男の望まない未来のひとつだ。組織を統べるボスとその部下、そしてこの先しばらくの未来を知る相棒が同時に存在する現状の不自然さをニールも感じていたのだろう。だとしても、男には相棒が必要だった。そばにいるだけで心も身体も溶かされる存在である彼が。
    「きみにはぼくがいる。青二才で頼りにならないかもしれないけど、信頼できる相手が。アイヴスだってホイーラーだって、マヒアもいる。仲間がいるから問題ない」
     ニールは励ますように言ったが、男は首を振って否定した。
    「未来を知っていることだけが問題じゃないんだろう。おれに愛想が尽きた理由を教えてほしい」
     思い当たる節はいくつかある。それでも、聞かずにはいられなかった。
    「問題があるのはぼくだ」
     思い詰めたように目を光らせてニールが言う。
    「きみが言った通りなんだ。ぼくの心の中にはかつて出会ったあなたがいる。いま、行動を共にしてる若い頃のぼくにはきみとの新しい記憶が日ごとに刻まれてる。ぼくはそれに引きずられているし、当時の自分に嫉妬している」
     ニールは己を笑うようにして呆れるよな、とつぶやいた。
    「ぼくの中にはきみからもらった温かい記憶がある。三週間前のキスだってそうだ。無理に仕掛けたのに制止しただけできみはぼくを受け入れた。この間、帰るなりきみに迫ったのは、いまのぼくが同じことをしたらどう反応するか知りたかったからだ」
    「思った通りだったか?」
     答えが返ってくるまでに間があいた。男は重ねて訊く。
    「おれは、おまえの思う通りに動いたのか」
     頭が左右に揺れるのに合わせて金髪がハラハラ揺れた。薄い唇を引き結ぶようにしてニールは歯を食いしめる。
    「……わからない」
    「それなら、わかるまで試してみたらいい。おれは器用じゃないから、おまえみたいに如才なく立ち回れないし、態度だって相手やその日の気分で簡単に変わる。いいか、きみが消える前におれにしたキス、あれは嫌いじゃなかった」
     はっとしたような眼差しが男を捉え、真偽を確かめるようにした。視線を受け止めた男は軽く咳払いをして続ける。
    「きみらしくないと思ったが、それだけだ。なにか理由があると思ったし、きっと話してくれると思ったから不安にならなかった。だが、若い頃のきみにああされたときは驚いた。ひどく居心地が悪くて、きみを思うと後ろめたくもなった。そのあとも場を取り繕うために格好をつけるのに必死だった」
     ニールの唇から力が抜けるのがわかる。その口が、でも、と動いた。
    「あの朝、シリアルを食べたじゃないか。前に好きなのか訊いたら、そんなもの食べるかって言ってたのに。嫌いなものを食べるくらいには、きみはぼくを好きなんだと……。勘違いだったのか」
     男は勢いよく首を振って否定する。
    「彼はきみだ、どうしたって好きになる」
     男はジャケットから手を離して力なく垂れ下がる腕に手を伸ばした。
     男が思っていた以上に、ニールは「未来の記憶」を窮屈に感じていたのかもしれない。彼のおおらかさに甘えて事実を秘する重みを察してやれなかったのが悔やまれる。けれど、どうすればよかったのだろう。恋人にはならず、友人、あるいは同僚として適度に距離を置いて接していればよかったのだろうか。手を伸ばせば触れられるのに、自分を求めてくれるのに、できる限り離れていればよかったのか。
     自分以外を選ばせまいとして荒れ狂った嵐のように身体のなかを動き回るこの衝動を抑えて?
     ニールの低い声が静かな廊下に落ちた。
    「きみを試したくないのに試してしまう。こんな自分は嫌だ、きみに相応しくない」
     男は息を吸い込んだ。ふつふつと、煮えたものが腹の底に現れる。
    「おれの意見は聞かないのか」
    「これからぼくが嫌な奴になっていくのを見たらきっときみはきらいになる。わかるさ、それくらい」
     吐き捨てるようにしてニールは言う。彼は壁に背を預けて肩を落とし、なにかを悔やむようにした。
    「……ニールはおれに嫌われたくないんだな」
     それは、と言いかけてニールは口をつぐむ。男は答えを待たず、立て続けに質問した。
    「もしおれが、かつてのきみを選ぶからこの家から出て行けと言ったらその通りにするのか」
    「そのつもりだよ。きみに従う」
    「では、おれとふたりでここから逃げようと命令したら聞き入れるのか」
     ずっと下げていた頭がさっと上がった。
    「それはおかしい。なんでそうなるんだよ」
     驚いたように目を開くニールに男は肩をすくめてみせる。
    「よく言ってたじゃないか、『きみは自分を律しすぎている、もっとわがままになっていいはずだ』って。あれは心にもない言葉だったのか?」
    「まさか、本心に決まってる」
    「なら、おれと行くか? 誰もおれたちを知らない場所に、ふたりきりで」
    「きみは自分の役割を投げ出したりしない」
     渋い顔をするニールをひたりと見据えた。
    「きみは、おれに嫌われたくないと言っておれを置きざりにするのに? ずいぶんと都合がいいな」
     男から視線を外し、苦笑するように顔を歪めてニールが答えた。
    「それとこれとはわけが違うだろう。組織のトップは唯一無二だ」
    「代わりはいるさ、いくらでも」
    「馬鹿を言うな、ぼくの知る限りきみは辞めたりしない……そんなのは知らない」
    「つまり、おれに辞めてほしくないんだな」
     不機嫌そうに、ニールは顎の先だけでうなずいた。男もひとつうなずいて最後の質問をする。
    「また、おれとキスしたいと思うか」
     眉をひそめたままニールは男を睨むようにした。両手のひらをぎゅっと握って口も引き結び、すっかり怒っているように見えた。
    「だったらどうだって言うんだ」
     抑えた声でニールが訊く。
     男は自分に言い聞かせるように話し始めた。
    「さっき、きみはおれの足枷になると言ったが、それはおれの方だ。きみを自分のそばに置いて安心したいと望むのは、自由を奪うのと同じだ。いつ手を離されてもいいように覚悟していようと思ったが、いざ、友だちみたいに振る舞えばいいと言われるとショックだった。どんな理由でもきっと落ち込むと思う」
     ニールは男から顔を背けようとしてつかまれていた腕を振り払い、壁に肩をぶつけながら横を向いた。あからさまな拒絶に言葉が詰まる。それでも、最後になるなら全部吐き出してしまえと自分を励まして続けた。
    「かつてのきみが好きだと言ってくれるおれは、きみが変えたおれなんだ。いまのおれは、きみなしでは存在し得ない。
     おれも、組織は続けたいし、きみに嫌われたくないしキスがしたい。なにかを与えるなんておこがましいことは断言できないが、きみの隣に選んでもらえたらいいと思っている」
     うつむいたニールの顎は緊張で強張っていた。もしかしたら、このままなにも言葉を発さずに彼はここから出ていってしまうのかもしれない。そうしたらきっと、毎日彼の幻影を見る。家の中で、あるいは外で。彼の声を聞き、背中を追い、話しかけてしまうに違いない。
     覚悟をしろ、などと他人に指図できる立場ではなかった。誰よりも覚悟ができていないのは自分ではないか。
     ニールは食いしめた歯の間から、震えるような息を吐いた。とびきり苦いものを口に含んだように口の端を下げてこちらに向き直る。自分の意志でコントロールできない虫が腹の中にいるのだというように、苛立っているようにも、苦しんでいるようにも見えた。
    「なんでもっと早く言わないんだよ」
     ひとことだけ言うと、自分の額に手をやって頭を支えた。何度か床を踏みしめて苛々を外に追いやろうとする。そして、肺の中身を絞り出すようにしてかすれた声で言った。
    「きみのそばにいられるだけでじゅうぶんなはずなのに、もう自分じゃどうにもできない。見返りなんていらないって言い切れたらいいのに、きみがぼくから離れないようにしたくてたまらない」
     最後の言葉を聞いて男は目を開いた。口が勝手に笑みを作るのを止められない。ニールは男の表情にちらりと目をやり、チッと舌打ちをした。
     苦々しい表情のニールに向かって男が訊く。
    「この別れ話もおれへの試験か?」
    「きみの皮肉は大好きだけど、いまは意地悪に聞こえる」
     機嫌を悪くしたのだとあからさまに示してニールはうめいた。ほんっとに格好が悪い、とつぶやき、自分を守るように腕を組む。
     むっつりと眉をひそめて耳を赤く染めるニールは、男が見た中でも特別に色っぽかった。彼の悔しがる姿は滑稽で馬鹿馬鹿しくもあり、それゆえ人間らしい。男が感じたこの一ヶ月の不安は冗談みたいにすっかり霧散し、気づけばニールに飛びついていた。
    「おれにとってはいつだって格好いいニールだ」
    「ちょっと、腕、ギプスが外れたばかりなんだから無理するなよ」
     ニールは驚いた声を出し、組んだ腕を解くと男を抱きかかえる。いつもと変わらない感触に、男は目を細めた。
    「きみは、思ったより溜め込むたちなんだな」
     耳元の澄ました声にニールは反論する。
    「それもこれも、きみが口ベタなのがいけないんだ」
    「ああ、そうだな。悪かった、反省してる」
    「そうやってなんでも謝るのも良くない。ぼくが増長する」
    「わかった。これからはもっと自信たっぷりに振る舞おう」
     ニールがうなずくのを肩に感じながら男は笑みを深くした。冷たかったジャケットから徐々にニールの体温が感じられて身体が温まっていく。欲しかったものを与えられて思考が溶けていくようだった。そんな男を感慨から引き戻すようにニールが低い声を出す。言い淀みのない、はっきりとした声だった。
    「ぼくといるときにあいつの話題を出さないでくれ」
     男が、あいつとは誰かと問いかけるように首を傾げるのをニールはむすっとして受け止めた。目を細めて小さくこぼす。
    「……昔のぼくだよ」
     たまらず、男は喉の奥を鳴らすようにして笑った。ニールはそら見たことかと顔をしかめたまま男をぎゅっと抱きしめる。ついでとばかりにグリグリと肩に顎を押し付けた。
    「こら、痛い、笑って悪かっ……、ええと、そうだな、笑うべきじゃなかった。すまない」
     ニールは顎から力を抜き、男を攻撃するのをやめて指摘する。
    「また謝ったぞ。でも、今回は受け取りましょう」
     いつもの調子を取り戻した相手にほっとして、男はニールを見つめる。
    「必要なとき以外は話題に出さない。これでいいか?」
     少し考えるようにしてから、いいよと了解した彼の唇は、不本意だが仕方がないとでもいうように少しとがっていた。
     見慣れた仕草につられて思わず伸ばした男の両手を、ニールはくすぐったそうに笑って自分の頬に添えた。彼は、男の手のひらから春がやってくるのだと信じているように、熱心に体温を自分に移し取った。
    「思った以上に参ってたみたいだ。かなりほっとしてる」
     目を閉じてぬくもりに身を浸しながらニールが言う。安心したからか、今夜の彼につきまとっていた緊張感は消え、寝入る前のように全身から力が抜けていた。はあ、と大きなため息をついてニールが目を開いた。おどけたように眉を下げて、口元にはかすかな笑みがある。
    「なんでこんなに遠回りするんだろう。いっそのこと、なにか言いたいことがあれば歌にして歌おうか」
     男は目を細めてニールの提案を聞き、それも悪くないと思った。歌であれ詩であれ、ほかのなんであってもニールのそのままの気持ちが聞けるならそれでいい。
    「そうだな、今度からそうしよう」
     ニールの目がキラリと光った。
    「言ったな、二言はないぞ。ぼくは歌わないけどきみはそうしてくれ」
    「おれだけ歌ってもしょうがないだろう」
     ようやく本物の笑い声が廊下に響いた。
     男は心から願う。自分のエゴを上回るほどの思いやりを、彼の笑顔のために表わせたらいいと。
     これからは、不安にさせないように愛の歌を歌うのも辞さない覚悟だ。ニールと同じく男自身も、この顛末にほっとしているのだから。
     男は背を伸ばしてニールの額に額をつけて宣言した。
    「飽きるほど聞かせてやるから覚悟しろ」
     ニールは歯を見せてくしゃりと笑った。男を見つめる潤んだ瞳の中には、欲するものがはっきりと浮かぶ。
     じっと見つめ合っているとなぜだか気恥かしくなって、ふたりとも照れ隠しの笑みを浮かべて口づけた。
     男の耳だけに届いた「ただいま」とつぶやく声はゆっくりと胸のうちに染み渡り、身体の内側から男を温めた。おかえりと返す声が甘くとろけて聞こえたのも無理はなかった。
    narui148 Link Message Mute
    2023/03/09 21:00:47

    呆れるくらい凡庸な愛のうたを

    #主ニル

    主さんとニールが微妙な空気感になる話。(21106文字)

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