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    コーヒーショップの五日間   発端


    「三月十日、午後二時二十分、ラスティロード……危ない!」
     端末が地面に叩きつけられる音とともに音声が途切れた。
    「これをどう思う?」
     組織を設立したばかりの男が相棒に問いかける。唇をとがらせるようにすぼめて相棒は遺憾の意を示した。自分の端末をいじって地図を出し、道を検索する。ラスティロードはイングランド、ケンブリッジの南にあった。住宅街ではなく商業施設の多い場所にある通りの一本だ。
    「場所はここ。日付は一ヶ月後できみの声だ。……情報が少ない」 
     ああ、と相手は認め、毅然として言った。
    「だが、行くしかないだろう」


       日曜日


     ニールがアルバイトとして働くようになってからこちら、この店は忙しい。凝ったラテアートも見栄えのする焼き菓子も提供しないというのに、次から次にお客さんが来る。カウンターに五席、テーブル席が三卓しかないコーヒーショップはまたたく間に満席になった。こんなにひとがいるのは、怪我をきっかけに引退した前の店長のお別れ会以来だ。
     お客さんたちのお目当ては、二代に渡って引き継がれた伝統ある味わいを持つコーヒー……ではなく、新人アルバイトのニールだった。年齢は三十代半ば。身長は高く、手足は長いが店長のようにひょろっと細長くはなく、均整の取れた美丈夫だ。療養期間が明けたばかりらしく少し痩せて見えるが、わたしの気のせいかもしれない。豊かな金髪の影から憂いを帯びた碧眼がこちらの内側を覗き込むように見え隠れする。俳優かモデル並みにきれいな容姿に惹きつけられるひとも多く、彼が店頭に立った最初の日には外を掃除しただけで声をかけられていた。
     長い前髪がうっとうしいのだろう、前髪をかき上げてはくしゃりと戻すのが癖のようで、彼はよく繰り返した。頭に怪我をしたから前髪を伸ばしているのだという。額に垣間見える傷跡は痛々しかったが、次第に気にならなくなるものだ。お客さんがいないとき、彼は髪を上げたまま過ごすようになった。心を開いてくれているようで、わたしはちょっと嬉しかった。
    「メキシココーヒーとカプチーノ、サンドイッチふたつお願いします」
     折り目正しく注文を伝えると、彼はひとつ笑みを浮かべてからホールに戻る。お客さんたちの目が彼の姿を追うのがキッチンからでもわかった。
     この店は表通りから離れた道路沿いにある。交通量も多く道路自体は広いが、周りに立ち並ぶのは雑居ビルで、近所にはピザ屋とスポーツバーがあるくらいで通行人は少ない。ニールがここで働くようになる前までは、たまにくる常連のお客さんと一緒にわたしと店長とでコーヒーを飲みながら各々、読書や課題など好きなことをして過ごしていた。それがいまや椅子に腰掛ける暇もないほどだ。
     同じ給料なら不満も出るところだが、なんと以前の三倍の金額を受け取っている。店が繁盛したからではない。臨時のオーナーが三ヶ月間その金額を支払うというのだ。ありがたく受け取っていたが、当初より忙しいいまとなってはそうでもないとやってられなかった。なにせ、わたしはのんびりするのが好きなのだ。
     コーヒーを淹れながらホールを確認する。ひとことふたこと彼と話すだけで満足なのか、はたまた見るだけでもじゅうぶんなのか、何時間も居座ったりわかりやすく絡んだりするお客さんはいまのところいない。でも毎日顔を見せるひとはいて、望もうと望むまいと、彼は着実にファンを増やしていた。
    「おつかれさま、今日はいつにも増して忙しかったね」
     終業時間に店を閉められてよかったと店長が伸びをする。ニールに会いに来ているひとたちは彼に嫌われるのを避けるためか長居はしない。なにか気になるのだろうか、歩行者はおらず、車も昼間ほど通っていない窓の外を眺めていたニールにわたしは声をかける。
    「今日で半月だね、最初から客あしらいがうまかったのに磨きがかかってる感じ」
     ニールはこちらを振り向き、どうかなというように小首をかしげた。
    「だんだん慣れてきたかな。けっこうおもしろいね」
    「いやあ、生きてるうちにこんなに繁盛するときが来るとは、なにが起こるかわからんもんだな」
     この半月の間に何度目かになる言葉を店長が口にして、わたしたちは笑いあった。ニールが前髪をかき上げ、額があらわになる。この傷のせいで彼は長期入院していたらしい。社会復帰のために軽い仕事から始めようとしてとっても暇なコーヒーショップを選んだのに、蓋を開ければ全員が慣れない日々にてんやわんやだ。
    「しんどかったらいつでも休んでね。というか、あなたがいなければきっとお客さんは来ないから……。うん、遠慮なくどうぞ」
    「ニールがいないほうがいいみたいな言い方に聞こえるぞ」
     店長が混ぜっ返す。意図は理解している、というようにニールは目を細めてこちらを見る。
    「ありがとう、無理しないようにする」
     そう言ってやさしく微笑んだ。
     前はどんな仕事に就いていたのだろう。もうその仕事には復帰できないのだろうか。ここは彼にとって止まり木みたいな場所。飛んでいくときまで、羽を休められたらいいと思う。


       月曜日


     次の日は午前中だけシフトが入っていた。彼目当てに来店するお客さんの多くが学生や社会人なので、平日の午前中は時間に余裕があった。それでも前のようにカウンターで本を開いてレポートを書くなんてことはできず、接客の合間に読書するのがやっとだ。この日もニールは接客についていた。座るよりも立つほうがリハビリになると言ってきれいな姿勢を崩さないので、そこだけホテルのラウンジみたいになる。
     ドアベルが鳴った。振り返るとひとりの男性客がいた。ポロシャツにジャケットというこざっぱりとした服装で、髪もひげも整えられていて都会的な感じがする。以前は、来店客といえば中年の男性客が主流だったのに、この半月で圧倒的に女性客が増えたために男性のひとり客は珍しいと感じた。彼は親しい相手に向けるようなまろやかな視線を投げてよこし、まっすぐにわたしを見て話しかけた。
    「こんにちは、はじめまして」
     不意をつかれた。けっこうタイプだ。
    「……こんにちは」
     ニールが近づいてきて立ったままの相手に、なにか飲む? と訊く。注文を取るというより、自分の家で客をもてなすような声のかけ方が彼らしくなくてすぐにピンときた。なるほど友だち同士なのだろう。もしかして前の職場の同僚だったりして、紹介してもらえないかな、と思っていると、ニールが口を開いた。
    「彼はデヴィッド。仕事は自由業で、世界中を飛び回ってるぼくの友だち。ここだけの話、コーラが好きなんだけどこの店にないから悲しんでるんだ」
     いたずらっぽく声を潜めて内緒話をするように言う姿はこれまで見たことのないもので、わたしはもとより店内で耳をそばだてていたお客さんたちもあっけにとられた。デヴィッドは眉をひそめて「エスプレッソを」と注文する。
    「ほかには? サンドイッチ食べてよ。近くのパン屋さんから取り寄せてるベーグルも美味しいんだ」
     デヴィッドは勧められるままサンドイッチとベーグルを注文し、奥のテーブル席に座った。
    「お友だちと休憩したら? 食べるのはいまがいいかも。お昼まわると忙しくなるし」
     提案すると、そうだねとうなずくので彼の注文も取って店長に伝えに行った。
    「ニールの友だちが来てますよ」
    「へえ、サービスしないとなあ。そのひとが臨時のオーナーだったりして?」
     言われて初めてその可能性に思い当たった。三ヶ月間給与を三倍にしたのとニールと一緒に働くように指示したのは臨時のオーナーだ。意図のわからない提案に当初は警戒したものの、特に怪しい動きはないしニールはいいひとだし店は繁盛したしで次第に気に止めなくなっていた。
    「どうだろう、仲は良さそうだったけど」
     注文の品を運んでいくと、ふたりとも窓の外に目をやって気楽な感じで話していた。お互いに変わりないかと聞いているのが耳に入る。
    「文学を学んでいるんだって?」
     デヴィッドの前にエスプレッソを出したときに言われてちょっと驚いた。ニールがとりなすように言葉を挟む。
    「きみのこと話したんだ。大学に通ってるって」
     知らないところで話題に出されて気恥ずかしくなる。
    「ニュージーランドの作家の作品を扱ってます。今日もこれから授業で。ウェリントンには行ったことありますか? 一度でいいから行ってみたいんです」
    「落ち着いていてきれいなところだな、そのためにアルバイトを?」
    「それもあります、でもメインは学費のためです」
     臨時のオーナーのおかげで最近は懐が潤ってます、と言うか迷って言わないことにする。探りを入れるのは苦手だ。テーブルに品物をすべて載せるとすぐに退散した。接客をしながら横目で様子をうかがう。ふたりともリラックスした様子でパンを食べていて、こんなふうに友だちと一緒に職場でご飯を食べるのもいいなと思った。
     その日の午後、同じ授業を取っているアマンダほかその友人二名から声をかけられた。
    「ダニエルだよね、わたしはアマンダ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、あなたの働いてるカフェにニールっていうすっごくかっこいいひとがいるでしょ、わたしのこと紹介してもらえないかな」
     SNSの時代に紹介を求められるとは。自分もニールにデヴィッドを紹介してもらおうとしたのを棚に上げて驚く。いや、それよりも、ニールはクラスでも取り巻きの多い彼女が気にするほどの有名人になっていたのか。アマンダ本人よりも後ろに控えているふたりからの視線が痛い。答えなくちゃと焦るけど、ニールはそういうのを求めているのだろうか。
    「どうだろう、本人に確認してからのほうがいいと思うんだけど……」
     アマンダはきれいにブローされたライトブラウンの髪を指先でくるくる触り、笑顔を深めて続ける。
    「大げさに考えないでよ、お店に行ったときに友だちだって言ってくれるだけでもいいんだから。あと、彼、インスタしてないかな、アカウント知ってたら教えてほしいんだけど」
     聞いたことがないと答えると、
    「アカウントがわかったら絶対教えてね、次にシフトに入るのはいつ? 明日の午後? それじゃ明日行くから席を三つ取っておいてくれたら嬉しいな。友だちが来るって言えばできるよね、店員さんなんだし。楽しみだな、お願いね」
     そう言ってさっそうと去っていった。はっきりと断れなかったのもつらいが、ニールにこのことを伝えると思うと気が重くなる。彼が好意を抱かれやすいというのはこの半月で重々承知していたが、それを好んでいるかは知らない。そもそも恋人がいるかどうかさえ聞いていないというのに。知らず知らずのうちにため息が出た。


       火曜日


     翌日は授業のあとに店に向かった。二時半から六時半までが今日のシフトだ。近くで工事でもしているのか、最近はトラックの往来が多く、道路を横断しにくくなっている。店の前の道路で車が途切れるのを待っていると、店頭にニールが立っているのが見えた。彼はわたしに気づくと手を上げる。今日、彼にクラスメイトを紹介しなければならない。今朝も念押しされたのを思い出して気持ちが沈んだ。どうやって切り出せばいいんだろう。
     イヤホンをはずしてこちらからも挨拶を返すと、ドタドタと足を踏み鳴らす音が聞こえた。気になって振り返ろうとするのと、ニールが走り出すのと、「危ない!」と聞こえたのが同時だった。
     背中に衝撃。身体がよろめく。クラクションのバカでかい音。あと半歩進んだ先に鉄の塊が走り抜け、髪の毛が煽られる。風圧と驚きで腰が抜けたようになり尻餅をついた。
     ──なんだ、いったい。
    「大丈夫か!」
     ニールが走行中の車にお構いなしにこちらに駆けてくる。急ブレーキをかける音がそこかしこから聞こえてきて頼むから気をつけてと、いましがた事故に遭いそうになった自分を顧みずに思う。そう、わたしは危なかった。後ろから女の子の声がする。やめろとか離せとか聞こえてきて今更ながら心臓がドキドキしているのを自覚した。ニールに助け起こされながら後ろを確認する。
    「デヴィッド?」
     ニールの友人、デヴィッドが地面に座る相手から離れるように後ずさり、厳しい目つきで睨んでいた。視線の先には女の子がぺたりとへたり込んでいる。
    「このひとに突き飛ばされた」と泣くように訴える相手にどこか見覚えがあった。店に来たお客さん? たぶん違う。大学の生徒だろうか。
    「わたしなにもしてないのにひどいよ、もう立てない」
     うつむいた際に太い三つ編みが胸にまわった。ブルネットの長い髪の毛をひとまとめに三つ編みにしている髪型で気づいた。去年同じ授業を受けていた子だ。立ったときの後ろ姿、その三つ編みが印象的で覚えていた。文法の教師に気に入られていたのか、授業中によく名指しで当てられていたのだ。
    「あなた知ってる、同じ学校だよね」
    「知り合いか、なぜきみを狙う」
     昨日わたしに向けた顔と全然違う、デヴィッドの鋭く研ぎ澄まされた視線にさらされてなにも言えなくなった。わたしは狙われていたのか、なぜ? こちらこそ聞きたい。
     道路を渡って店長が走ってくる。
    「なにがあった?」
     店長にみんなの視線が集まったとき、足元にいた彼女は逃げ出した。ニールは追おうとしたけれどデヴィッドは動かず、彼女の後ろ姿を目で追うにとどめた。
    「無事で良かった」
     こちらに向き直ったとき、彼の瞳にはいたわりだけがあった。怖いような迫力がなくなりほっとしたけれど、昨日より遠いひとに思えて寂しく感じた。
     その日はアルバイトを休み、デヴィッドを伴って帰路についた。ニールがそうするようにと強く勧めて店長も加勢したので断れなかったのだ。脚は震えるわ顔は真っ青だわな状態の人間を、わたしなら放ってはおけないからこの対処も仕方がないと思える。帰る道すがら、不安からかわたしはいろいろと喋り続けた。あの生徒に見覚えはあるけど話したこともないとか、殺したいほど恨まれる覚えはないとか、名前くらいしか知らないのだとなぜだか弁明をするように言い募る。デヴィッドはわたしがなにを言っても批判なく聞いてくれるので、先ほど気圧されたのを都合よく忘れ、クラスメイトにニールを紹介しろと促されたことまで話した。
    「まさかアマンダまで気にするようになるとは思わなかった。ほんと狭い世界。実を言うと、面倒だったから今日休めてよかったと思ってるんだ」
    「……迷惑をかけた」
     なぜか謝られてちょっと慌てた。わたしが愚痴を言い過ぎたからその対象の代わりに謝ってくれたのだろうか、面目ない。
    「なんであなたがそう言うの。話しやすくて好きなように言い過ぎちゃった、こっちこそごめんなさい、気にしないで」
     彼はわたしが家に入るまでしっかりと見届けてから去っていった。部屋に入ってひとりになると、眼の前を走り抜けた車への恐怖や驚きが店先にいたときより減っているのに気づいた。
     その夜、逃げた生徒の背中で揺れる三つ編みを思い出してぼうっとしていると登録してない番号から着信があった。もしかしたら彼女からかもしれないと思い、立ち上がると攻撃的な気持ちで通話ボタンを押した。来るなら来い、迎え撃ってやる。
    「こんばんは、遅くにごめん、ニールだ」
     彼から電話がかかってくるのは初めてだった。店長に番号を聞いたのだろう、わたしがいろいろとデヴィッドに言ったから気を遣ってくれたのかもしれない。知った声を耳にして身体から力が抜けていく。ベッドに腰掛けてため息をついた。
    「大丈夫。今日も忙しかったよね、抜けちゃってごめん」
     ニールは世間話を挟まずに本題に入った。
    「報告と、謝らないといけないことがあって電話した。きみを襲った人物の身柄は確保した。警察が調べているからきみのところにも聴取に行くかもしれない。原因はぼくにあったみたいだ。ぼくが働いてるのを見て気になったらしいんだけど、店に来る勇気がなくて向かいの建物から毎日見てたんだって。でも昨日、きみがクラスメイトにぼくを紹介するように働きかけられてるのを知って、逆恨みしたみたいなんだ。自分を差し置いて近づこうとするなんて、と。……ほんとうにごめん。きみに迷惑をかけるつもりはなかったけど、怖い思いをさせてしまったね」
     急展開だ。では、わたしに非があったわけではないのか。知らないうちに他人に恨みを買うほどの悪事を働いていた可能性だって考えた。でも、違ったようだ。
    「そうだったんだ。けど、ニールが謝ることじゃないよ。悪いのはそのひとでしょ」
    「……うん、そうだね。彼女、もうきみにまとわりつかないって言ってた。信じていいと思う。必要なら念書でもなんでも取るよ。どうしたい?」
     物々しい言い様だ。ちょっと驚いてしまう。
    「もう警察に任せたいかな、あんまり関わりたくないや」
     ニールは了解した。翌日はアルバイトが休みだったのでまた今度と言い合って電話を切る。別れはいつも唐突だ、その日がデヴィッドとニールに会った最後の日になった。


       木曜日


     そうとは知らないわたしの日常は滞りなく流れる。アマンダがなにか言ってきやしないかとやきもきしたが、同じ授業の際にも話しかけてこなくて肩透かしを食った。授業を終え、二時半からのシフトに間に合うように店に向かうとなにやら活気がない。店にニールがいないのだ。お客さんはおらず、店長がカウンターに座って新聞を読んでいる。
    「こんにちは、今日はお休みですか」
     誰がと言わなくてもここにいないひとはひとりだ。店長は眉を上げて口をモゾモゾとさせる。
    「いやあ、ニールはね、辞めてしまったんだ」
     辞めた……お別れも言わずに? 水くさいと思った直後、原因は自分だろうかと眉をひそめた。わたしの顔を見て店長はなだめるように言う。
    「急なことだけど、そもそも短期間だけの約束だったしね。いろいろあるんだろう、縁があればきっとまた会えるさ」
     彼は理由も言わずに去っていったに違いない。なんとなくだが、その確信があった。
    「お別れくらいしたかったな」
     一昨日、電話口で「また今度」と言ったのに、そのときにはすでに辞意を伝えていたんだ。あの電話でわたしに言えたはずなのに。やっぱり水くさい、ひとことくらい言ってやらないと。
    「オーナーと連絡は取れないんですか?」
     店長は肩をすくめた。
    「もう前のオーナーが戻ってきてるんだ。給料は臨時のオーナーが以前提示した通り、三ヶ月間は同額を支払うことになってるらしい。電話もしたんだけど通じなくなっててね。手詰まりだ」
     わたしたちにできることなど限られていた。ニールの住まいも知らないし、デヴィッドについてもそうだった。謎めいた友人は羽ばたいてしまった。
     それから数日は、「彼は辞めました」と店に来るお客さん一人ひとりに言って回った。たいていはそれで諦めて残念そうに帰っていったが、理由を尋ねるひともいた。そんなときわたしは、恋人と世界を回る旅に出たのだと嘘をついた。何回か言ううちに、実際にそうだったらいいと思うようになった。ひとりでも、ふたりでも、たくさんのひとと一緒でも、彼は世界中を飛び回って見聞を広めているのだと空想する。そうすると、なんだか笑みが浮かぶのだった。

     エアメールが届いたのは、ニールが現れてから三ヶ月が経ち、臨時のオーナーとの契約が切れる頃だった。裏面が目に入り、急いで手に取る。消印は、なぜかいろいろな国を経由している。どうしたらこんな届き方をするのかと笑って、なんでわたしの空想が現実になるんだとおののいた。もちろん、差出人の住所など書いていない。でも、わたしには誰からの手紙なのかわかっていた。
     指で破って早く中を確認したい気持ちを抑え、部屋に入ってカッターで封を切る。中身は薄いと感じていたが、入っていたのは長細い紙が二枚だけだった。引き出してみて目を見張った。航空券の往復チケットだ。行き先はニュージーランドのウェリントン、日付は来月、六月八日、学校が休みになってすぐだ。復路の日にちは未定。
     デスクにはニュージーランドのガイドブックが置いてあるし、行程は確認済み、どの都市を巡るかも決めていたし、去年のうちに冬服だって用意して準備していた。
     もしかして部屋に入られたのかと疑ったけれど、夏休みに行きたいとうわ言のように店で言った記憶があった。きっとそれを覚えていてくれたのだ。どうしてここまでしてくれるのかはわからない。でも、なにか彼なりの理由があるはずだ。
     封筒の裏に書かれた文章を指でなぞる。
     店から出る直前にナプキンにした走り書きみたいに見える文字が並んでいた。
    『おいしいコーヒーをありがとう』
     それでもやっぱりお別れがしたかった。そう思いながら、わたしは世界中を旅したチケットを抱きしめた。


       裏側


    「結局、おれたちが動いたから彼女は危機にさらされたんだろうか」
     組んだ指の上に顎を載せ、組織のおさが尋ねる。ニールは男の顔をよく見るために髪をかき上げて彼に向き合った。
    「ぼくたちがなにもしなければ、ダニエルは危険な思いをすることはなかったかもしれない。でも、彼女を襲ったやつに警告することもできなかっただろう。その点では、襲撃者が次に起こしたかもしれない事件を未然に防いだとも言えるんじゃないかな、少なくとも、いまは」
     男はニールの言葉を受け入れるように息をついた。もしもを考えても答えは出ない、であれば、好転した物事を意識するしかない。ひとつ、今回の件で気付いたことがあったのを思い出した男は、姿勢を正すと改めてニールを見つめ直した。
    「気に入らないか」
     ニールに問われて男は首を振る。
    「いや、納得している。それとは別に、この半月、きみの働きは目覚ましかったと思ってな」
     首を傾げてニールが続きを促す。男は目を伏せて言った。
    「店が繁盛していただろう、おれが働いていたらああはならなかっただろうから」
     ニールは、どうだろうというように眉を下げて男を見つめた。
    「突然現れた素性の知れない男を受け入れてもらえたのが嬉しくて熱が入ったかもしれない。額の傷についても、聞かれたときのために答えを用意していたのに、店のひとたちはなにも聞かなかった。ぼく目当てで来た客の中には嫌がるひともいたのにね。だから、ぼくがなにかしたわけじゃないんだ。いいお店だったってだけだよ」
    「ああ、コーヒーのおいしい、いい店だ」
     ふたりはうなずき、香ばしい豆の香りを思い出した。
    narui148 Link Message Mute
    2023/02/12 0:13:14

    コーヒーショップの五日間

    #主ニル  #テネ飯店

    レカペ3で配布した無配です。
    ニールがコーヒーショップで働くお話。(9097文字)

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