don't let me go たぶん、言いたかったのは、「どこにも行くな」だった。
つつがなく終わった任務の始末についてニールと話していた。任務に携わった者たちに怪我はなく、肩の荷が下りた心地だった。明日にはここも引き払うのでこの事務所のソファに座るのも今日が最後になる。
任務に当たる際は、興奮する頭を冷やして集中力の密度を高めるのが常だった。仕事が終われば、いつだってすぐに身体と心から気持ちの高ぶりを追い出せた。それはいまのように、頭の中にじわじわとしびれるくすぶりがあったとしても、問題なくできるはずだった。
後始末の段取りをつけている最中に、ふ、と向かいに座るニールの口元が緩んだ。見るともなく見ていると、笑った自分を恥じるように目を伏せてニールが言う。
「今回こそはきみのそばを離れないつもりだったんだ。そうしたらアイヴスに命令違反をするなってどやされて引き剥がされた。でも、そのおかげで隊の役に立てた」
ニールはかすかに唇をとがらせ得意な様子でこちらに向き直る。褒めてくれと言わんばかりの表情に見えて苦笑した。彼が優秀だというのは自明だ。おれだけでなく隊の皆が知っている。現に、さっきまで散々持ち上げられていた。この期に及んでおれに褒められてどうするというのだろうか。
こちらを見たニールは口元を引き締めて表情を改めた。
「これからも全力できみを支えるから、うまく使って役立ててくれ」
よろしく、ボス、と続けて立ち上がった。
蓋をした記憶が蘇る。
彼はその生涯をかけておれを支えた。前途も未来も希望もあるこの青年の命が世界と引き換えに失われようとしている、この、現実。
やめてくれ、と心が叫んだ。彼に自分を「うまく使う」などという言葉を使ってほしくなくてなにか言おうとした。だが、なんと言えばいいのかわからない。おまえは自分のために生きろ、おれなんかを支えるな、他の人生を考えろ、頭に浮かぶのは薄っぺらい表層だけの思いだ。その考えを削ぎ落としたあとに残るのは、彼に未来を告げたらどうなるだろうという、何度も胸に去来した誘惑だった。言っても言わなくてもニールはきっとあの日のおれに出会う。過去も未来も変えられないのか、見過ごしている点はないか、いまどう動くのが正解なのか。思考は空回りする。
立ち上がったニールは部屋から出ようとした。横を通りすぎる姿から目が離せない。すると、こちらの視線を感じたのか彼が振り向いた。
穏やかな表情だった。口をつぐんでなにも言わないおれを見ても不審がらず、彼は静かに微笑んだ。
身体を沈めていたソファから立ち上がってニールの袖を引くと、なんの疑問も持たずに彼は身を寄せる。
眼の前にいるニールはあの日の彼と同じ人物だった。どう言い訳をしようともニールにそばにいてほしい自分の気持ちに嘘がつけない。どうしようもないエゴだとわかっていても止められない。
腕を伸ばしてニールを抱きしめる。力を込めて腕の中に引き寄せたので軽いハグとは違うとわかっただろう。それまでにしたことがないくらいに身体を密着させた。
いなくならないでほしい、自分を大切にしてほしい……言葉にしようとする端から気持ちがこぼれていくようでなにも言えないままニールにすがる。相手は身体を離す素振りを見せず、おれの背に軽く手を添えた。
全身にニールの身体が触れている。特に、耳から首元にかけて触れている肌が温かくてほっとする。はあ、と音がしてニールの熱い息が肩口にかかった。身体をずらして彼の顔を覗き込むとニールもこちらに顔を向けた。席を立ったときとは違う、焦点の定まらないぼうっとした薄青い瞳には自分しか映っていない。その瞳の中に期待が光った気がした。
具体的な展望があったわけではない。かといって気の迷いでもなかった。ただ、自分がなにをしようとしているのかは理解していた。
つま先に力を入れて身体を伸ばし、ニールの唇に唇を押し付ける。一度では足りなくて二度、三度と繰り返した。ニールの腕は少しも動かず背中に回されたままだった。
身体を離してなんの反応も見せない相手を確認する。ニールは最前と同じように焦点の合わない瞳をかすかにうるませて瞬きもせずにおれを見ていた。
じわじわと認識が迫ってくる。手足が一気に冷えたかと思うと頭がカッと熱くなった。後ずさりをしようとしてソファと机に阻まれる。前にはニールが立っているので横に逃げるしかない。
「すまない」
どうにか言葉を発してすり抜けようとしたところを肩をつかむようにして引き止められた。
力を込めておれの動きを封じたくせに、ニールはなにも言わずにただ見つめてくる。気まずさに目を伏せて弁明しようしたがなにも思いつかない。
「悪かった、忘れてくれ」
強く目を閉じてニールの出方を待った。彼のことだ、なかったことにしてくれるはず、いや、ここはきちんと非難されるべき状況だろう、しかし──
「忘れてほしいのか」
ニールが普段と変わらない声音で話しかけてくる。
「ぼくが怖い? ぼくを傷つけられるのはあなただけなのに」
まぶたを開いて振り仰ぐとニールは顔をしかめながらも笑おうとしていた。重い心配事に傷つきながら平静を保とうとするようだった。どう反応していいのかわからないのかもしれない。申し訳ない気持ちが身体中を駆け巡った。
「反省してる、もう二度としない」
「謝るな。畜生、ごめん」
ニールは吐き捨てるように言うと覆いかぶさってきた。さっきおれがしたようなやり方できつく抱きしめてくる。耳元で唸るような声がした。
「忘れない。きみが忘れろと言っても全部忘れてやらない。誤解させてごめん。好きなひとに触られたからそればかり考えて動けなかった。だから謝らないでくれ、驚いたけど嬉しかった。二度としないなんて言うな」
息を切らせてニールは言い切った。より強い力を込めて抱きすくめられて少し苦しくなる。
おれはニールの腰元に腕を回して肩に頭を預けた。
「やさしいな」
ぽつりとつぶやくと、ふっと鼻で笑うような音がする。
「そう思うか? ぼくがきみになにを求めてるか知ったらきみはきっと幻滅する」
今度はこちらが笑う番だった、彼の期待がおれのエゴほどのものであるはずがない。
「言ってみればいい。幻滅なんてしない」
「言うわけない。嫌われたくないからな」
怒ったようにニールが言っておれが逃げないようにするためか、腕に力を込めた。
逃げたりしないと伝えるために、腰に回した腕を背中を這わせてなで上げる。ニールはピタリと動きを止めた。
「しばらくこうしていたい」
目を閉じて言うと、ようやくおれが抜け出さないとわかったのか、ニールは腕の力を弱めて抱きしめ直した。なつくようにこちらに頭を寄せて小さくつぶやく。
「ずっとこうしていよう」
そうできたらいい、と思った。
明日には引き払う事務所の中で好きな相手に抱きしめられて仮初めの永遠を手に入れる。
これは未来への裏切りとなるのだろうか。
ニールの腕に包まれると頭の中が滲んでぼやけたようになった。ゆるんだところに声が響く。
「大丈夫、安心して」
うん、とうなずいて額を肩にこすりつけた。ニールの手のひらがなだめるようにやさしく背中をなでる。彼の首筋から、緊張を取り除いてほっとさせるニール自身のにおいがした。息をつくとその香りに包まれるようで気持ちが良くなる。
「ここにいるから」
ニールの声に強くうなずく。
おれは、自分自身でも知らないうちに、自分のすべてをニールに預けた。