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    九龍歌謡祭へようこそ 時刻は午後五時。飲食店や理髪店なら店じまいには少々早く、夜に仕事をする者ならそろそろ目覚める時間だった。
     仕事を中断させた住民たちが広場を目指して歩いていく。お手並み拝見とばかりに顎に手をあてる大人や、浮かれた空気にはしゃぐ子どもたちが、広場に面した舞台を取り囲むようにして集まった。
     舞台といっても、そこは厚さ三センチにも満たない比較的平らな板が並べられた、大人が両手を広げた程度の広さの台だ。その上には黒くて四角い電子機器が一台、重々しく鎮座しているばかりだった。台の後ろにある住宅の扉は開いており、何人かの男たちが中で動く様子が見える。どうやら彼らは叉焼飯屋あたりからここまでテレビを持ち込み、広場から画面が見えるように調整しているようだ。
     箪笥の上にテレビを載せる四仔セイジャイの姿を見つけて、陳洛軍チャン・ロッグワンは自分がワクワクしているのを自覚した。最近、信一ソンヤッ十二少サップイーと四仔がグルになってなにかを画策しているのには気づいていた。けれど、洛軍が現れると三人はわざとらしく別の話をして煙に巻いた。信一は洛軍の肩に手を回し、「本店を持つ前の予行演習だ。だが、おまえには完璧なやつを見せてやりたいからな、少し待ってろ」と、得意げに言うのだった。
    「べっこう飴いかが?」
     腰元から少女の声がした。
     洛軍が首を振ると、飴の入った籠を持つ少女は隣の母子のもとに向かった。ひとが集まるところに商売あり。周りを見ると、串焼きや飲み物を売り歩く者の姿がそこここにあった。
     スパイスの香りに腹の虫が刺激される。唾液を飲み込んで食べ物から舞台へと意識を戻そうとしたとき、再び腰元から少女の声がした。
    「はい、これ。洛軍のね」
     九龍城砦の先輩でもあるしっかり者の魚蛋妹ユーダンムイが、真っ白な光酥餅ゴンスーべンをちぎって手渡してきた。
     腹が空いたのを悟られたのかと思い、洛軍は驚きつつも光酥餅を口に運んだ。魚蛋妹の顔がゆがむ。
    「ちょっと、なにしてんの? 食べたら入れらんないでしょ」
    「くれたんじゃないのか」
    「もう、ドラえもん知らないの?」
     魚蛋妹はぷりぷりと怒りつつ、洛軍にもうひとかけらちぎって渡すと、食べちゃダメだからねと念を押してから名前を呼ぶ声のもとに去っていく。彼女は引く手あまたのようで、声をかけられては光酥餅をちぎって渡していた。手渡された相手は、たしかにそのかけらを口に入れはしない。どうするのか見ていると、また声をかけられた。
    「カラオケは初めて?」
     魚蛋妹の親代わりとなった燕芬姐インファンヅェーが、舞台に目をやりながら訊く。洛軍は頷き、手元の光酥餅を掲げた。
    「これはなんだ?」
     燕芬姐は眉を上げて意外そうな顔をした。
    「あれ、信一の近くで寝起きしてるよね?」
    「それと関係があるのか」
    「いままで気にならなかった?」
     なにを言われているのかわからず、洛軍は首を傾げた。
     キイン、と甲高い音が鳴り、集まった者たちの意識が舞台に向いた。
     舞台の上にはジャケットを羽織り、サングラスをかけた信一が、マイクを握って堂々と立っている。まるでテレビに登場する名司会者のような佇まいに、洛軍は釘付けになった。洛軍以外の面々も、笑い声や囃し立てる声音を次第に下げて前を見つめる。
     信一は、自分への注目が一番高まった頃合いを見計らい、重々しく口を開いた。
    「皆様、ようこそお越しくださいました。本日は、とっておきのひとときを皆さんと分かち合いたく思います。……長い前置きはいらねえよな、九龍歌謡祭の始まりだ!」
     住民たちの上げる声が、ごおっという振動として洛軍の肌を打つ。床が揺れるような興奮が広場に沸き立った。
     洛軍は歌を歌うことにそう興味はなかった。けれど、音楽を聴くのは好きだし、誰かが機嫌よく歌っている姿を見るのはもっと好きだ。きっと、この城砦の住民たちも同じだと洛軍は思った。誰がなにを歌うのかと楽しみにしているに違いない。
     催しに期待する住民たちの様子を満足そうに見渡した信一は、四仔にテレビの用意をさせるために背中を向けた。
     そのとき、洛軍の前に立つ壮年の男性が耳のあたり触る動きを見せた。パラパラと、まるで示し合わせたかのように住民たちが耳元を触っている。不思議に思った洛軍が隣にいる燕芬姐に向き直ると、彼女は特に念入りに耳になにかを詰めていた。
    「儀式か?」
     洛軍の視線に気づいた燕芬姐は、洛軍がずっと持っているちぎられた光酥餅を険しい顔つきで指さし、丸めて耳に詰めろというジェスチャーをした。
    「でも、なんで……」
     洛軍が言い終わらないうちに、信一がこちらを振り返った。住民たちは自然な所作で頭から離した手を叩き合わせる。信一は観衆に頷きかけながら両手を広げて拍手を受け取った。そして、芝居がかった声音で宣言した。
    「九龍歌謡祭の切り込み隊長をするのはもちろんこの俺。城砦福祉委員会副会長の信一だ」
     そう言ってサングラスを外す。その動作に合わせてテレビがつき、スピーカーからピアノの高い音が流れ出した。
     テレビの最大音量よりよほど大きな音に気圧されながら、洛軍はテレビ画面と、舞台でリズムを刻む信一を見つめた。スピーカーからは軽快な音の背後に拍手も聞こえる。画面の中には男性がひとり、ステージの中央に向かって歩く姿があった。過去に放送された番組を録画したビデオテープを音源としてカラオケに使用しているとわかり、洛軍は感心した。信一が満を持して口を開く。
    「遠くから あなたを想う」
     洛軍は目を開いた。
     テレビからは歌手自身のお手本とも取れる歌声が流れているはずだ。だが、耳に入るのは信一の鼻にかかった裏声だけだった。喉をつぶして大声をあげるでもなく、おもしろおかしくふざけているのでもない。彼は真剣に心を込めて歌っている。
     洛軍には元の曲がどれほど有名なのかも、聞こえる音程がどれほど合っているのかもわからない。ただひたすらに、信一の歌いたいという気持ちが、なにも詰めていない洛軍の耳を打った。
    「この愛が永遠に あなたとともにあらんことを……」
     信一は最後のサビを歌い切り、気持ちよさそうにマイクを頭の上に掲げた。
     神妙に聴いていた住民たちが顔を上げて拍手をする。なかでも洛軍はとくに力を込めて手を叩いた。これほどの聴衆を前にして――耳を塞いだ者も多かったようだが――こうして一曲を歌い上げるのは生半可な覚悟ではできないし、なにより信一の、皆の期待に応えたいという想いが伝わったのだ。
     信一はきれいな一礼をしてから洛軍に目を留めた。その口元にニヤリとした笑みが浮かぶ。
    「それでは、次の歌い手を呼びたいと思います。九龍城砦に来てわずか数分で龍捲風ロンギュンフォンに戦いを挑んだ期待の精鋭、いまだだれもその歌声を知らないそのひとに歌ってもらいましょう」
     隣にいる燕芬姐が洛軍を振り返った。周りにいる住民の何人かも洛軍に目を向ける。
     信一は洛軍を見つめて笑顔で言った。
    「陳洛軍、舞台へどうぞ」
     指笛や拍手が巻き起こる。誰が歌うのかとうきうきしていた洛軍は、自分が名指しされてたじろいだ。普段は自分ひとりですら歌わないし、ましてや他人の前で歌ったことなどないというのに、信一はこちらに手を差し出している。
     助けを求めて燕芬姐を見るも、彼女は、「いいから行って来い」と言わんばかりに舞台に向けて顎をしゃくる。周りの住民たちも重々しく頷いて洛軍をうながした。無理だと伝えれば諦めてもらえるのではないかという儚い希望を持ちながら、歓声に背を押されて洛軍は前に進んだ。気づけば、歯を見せて笑う信一に腕をつかまれ、なにも言えないまま舞台上のひととなった。
     マイクを通さずに、信一が洛軍の耳元で励ます。
    「そんなに構えるな、気楽にいけ。なに、好きな歌を歌うだけだ。俺の聴いてただろ?」
     こともなげに言う信一をよそに、洛軍は目の前にいる群衆に圧倒されていた。次はどんな歌を歌うのかと、試すような、楽しむような視線が、広場だけでなく家々の窓や庇の上から自分に注がれている。
     そのなかに、魚蛋妹の姿を見つけた。彼女は壊れた室外機の上に乗り、小さな体を伸ばして洛軍を見ていた。
     そういえば、と遠い記憶がよみがえる。
     あのとき洛軍は魚蛋妹と同じくらいの年齢だった。ひとりで子どもを育てた母は、いつも厳しく洛軍に接したけれど、機嫌の良いときは歌を歌ってくれたのだった。なかでも、おもしろい歌詞の歌があった。男と女が溝のそばで飛び跳ね、痛い目に遭う歌だ。いま思えば、やんちゃをする洛軍をたしなめるために歌ったのかもしれない。アメリカの有名な歌手のカバー曲で、歌詞は少しも重なっていないと教えてくれた。母はいろいろなことを知っていた。
     マイクを持たされた洛軍は、観衆の耳に詰まった光酥餅を頼みに、心臓の鼓動を忘れた振りをして口を開いた。
    「飛哥が溝に落ちて 飛女は泣いた」
     舞台の後ろにある扉のそばで十二少が、あれ、という顔をしてビデオテープの束から顔を上げる。テレビの隣に立つ四仔に視線を飛ばすと、彼は十二少を制止するように片手を上げた。信一も興味深い眼差しで洛軍を見つめる。
     洛軍はテレビから流される音源なしに歌った。
     その曲は、若い者には耳馴染みのない古い歌だったが、年かさの者にとっては懐かしい曲だった。聴衆のひとりが耳の詰め物を取り除いて、洛軍を応援するように歌詞を口ずさんだ。次第に歌声が重なり合い、何度か繰り返された最後の節では、初めて聞いた者たちすら口ずさんで合唱のようになった。
     歌い終わると、舞台に上がった時よりも大きな歓声が洛軍を包んだ。信一が「なんだよ、うまいじゃないか!」と汗ばんだ洛軍の肩を揺さぶる。十二少と四仔は親指を上げて洛軍にサインを送り、群衆のなかでは燕芬姐が頭の上で手を叩いている。魚蛋妹だけは、「まあ、こんなものね」と言わんばかりに室外機の上で腰に手を当てて頷いた。
     洛軍は喜ぶみんなを見て嬉しくなった。ジャンボジェットが頭の上を通過するときと似た、腹の底から響くようなうなりが身内に走る。歌っていたときより顔が熱くなり、なぜだか走り出したくなった。
     洛軍を揺さぶり終えた信一が、興奮した様子でマイクを握り直した。
    「皆さん、よおくわかりましたね? 歌は気持ちで歌うんです。洛軍のようにアカペラで歌ってもいいし、音楽に合わせてもいい。さあ、我こそはという者はここに集え!」
     わっと人々が舞台に集まった。一人ひとりの歌いたい楽曲の音源となるビデオテープを探すため、途端に十二少と四仔は忙しくなる。
    「順番にひとりずつだ。今日が無理でもまたやるから安心してくれ」
     信一がにこやかに場を制す。
     聴衆に背中や肩を軽く叩かれ、労いの言葉を受けながら混雑する舞台から離れた洛軍は、建物の間からこちらを見下ろす視線に気づいた。
     龍捲風は、上半分をぶち抜かれて腰壁状になったコンクリートに両肘を付き、口から離したタバコを持ち上げて洛軍に挨拶した。その口元にしっかりとした笑みが浮かんでいるのに気づき、洛軍も笑い返してから龍兄貴の見つめる舞台に目を向けた。
     舞台には次の歌い手である女性が、信一に負けずとも劣らぬほどのやる気をみなぎらせてマイクを握っている。ビデオテープが再生され、テンポのいい音楽が流れてくる。始まったときより聴衆は増えており、合いの手を入れながら歌い踊る。広場はさながらダンスホールのようになった。
    「洛軍! こっちこいよ」
     信一が呼ぶ声に応えて、洛軍は人混みのなかに突入した。みんな笑顔だった。
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    2025/02/02 19:05:34

    九龍歌謡祭へようこそ

    トワイライト・ウォリアーズのオールキャラ二次創作です。(4722文字)

    信一たちがカラオケ歌謡祭を開催する話。

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