テネSSSまとめ4ねこといぬ
大きな口を開けて彼が欠伸をした。普段は眦を決して肩で風を切りながら堂々と歩くのに、ソファの上でなかば瞼を下ろしてうとうとする姿は隙があってかわいらしい。思わずちょっかいをかけたくなるけれど、ここで無闇に話しかけたり鼻を押し付けたりすると彼は控えめに苛つき、ぼくにはどうしたって届かない場所に離れるかこの部屋から出ていってしまう。前にそうされたときは機嫌の良いときとの差に驚いてしばらく落ち込んだ。でも、同じ過ちは二度と繰り返さない。
ソファには晩夏の午後特有のぬるい日が差し込み、開け放った窓からは潮風が吹き込んだ。風に揺れるカーテンに意識が向かったとき、首筋に湿ったぬくもりが触れた。
彼がぼくを舐めている。
それも、自分の身体と間違えて一度や二度たまたま触れるのではなく、明確に意思を持ってぼくの首に生えた毛を舐めている。
全身の毛が逆だった。
こんなふうに愛情を示してもらえたのは初めてだ。あるいは、自分では気づかないでいた汚れを見かねてきれいにしてくれているのかもしれない。
さっきまで眠そうにしていたのは嘘のように彼は熱心に首を舐める。舐めている間にすべてをきれいにしたいという彼の闘争心に火がついたのか、ぼくの頭や目元なんかにも舌を這わせてきた。逃げないようにとしっかり頭を固定され、ぼくは次第にキラキラになる。
身体を拘束されるような感覚と顔中に当たる舌の感覚に圧倒された。ひと舐めごとに身体の内側から溢れ出てくる「ぼくも舐めたい」という気持ちを我慢しようとして脚を動かすと、より一層ぎゅっと拘束する力が強まった。
たまらずベロリと彼の顔を舐める。
彼の味がした。
嬉しくてもう一度同じことをしたい気持ちと、しまったと後悔する気持ちが綯い交ぜになり口を閉じて次の動きを待つ。彼は無理矢理触られるのが苦手だ。それを知る前、ぼくが後ろから抱きついたら彼はすかさず振り払い一定の距離を取った。なにかの間違いかと思って追いかけるとすごい形相で睨まれたものだ。だからそれ以降はできるだけ、一、彼の起きているときに、二、前から、三、許可を取って触れることにしていたのだ。
「ごめん、嫌だった?」
謝るから終わりにしないでほしいという気持ちを込めて言う。彼は目を細めてぼくを見下ろし、些事に拘るなと告げた。
「別に構わない」
そして、ぼくに小さく口づけた。
自分の持ちうる範囲を超えた喜びに殴られるようで、傍から見れば微動だにしない故になにも感じていないと見えたかもしれない。
彼はぼくを舐め続け、ぼくも彼の顔や首筋に舌を這わせた。もちろん、嫌だと思われないように細心の注意を払うのを忘れない。そうでなければ、顔やら身体やらをベトベトにしてしまってきっと嫌われてしまうだろう。
自分自身にするよりも手をかけてぼくをきれいにすると、これで終わりだというように最後にぼくの口の端をひと舐めして言った。
「こういうのも悪くないな」
気づくと彼はぼくの唾液で全身ベトベトになっていた。びっくりしてしまって思わず背を正して座りなおす。舐め回さないようにしたつもりがうまく加減できなかったらしい。毛がボサボサになってしまったのにも関わらず、彼は涼しげにぼくに目を向けた。そしてひとつ伸びをしてからソファに身を預けて目を閉じた。
ぼくは口の中に残る彼の味を反芻し、彼を見つめて丸くなった。身体はきれいになり、胸は温かく心が満たされる。
彼が薄く目を開けてぼくを伺う。笑うような空気が満ちてぼくらは同じ夢を見た。
パロディ1
自分の気持ちに正直になるときが来た。彼に特定の相手がいてもいなくても、どれだけこの気持ちが自分本意であろうとも、これだけは言っておかなくてはならない。
決意を込めて拠点にしている建物の屋上に向かう。地上より開けた場所ではあるものの、鈍く曇った雲で覆われた空には月も見えない。それに引き換え、地上では車のライトと商業施設の煌々とした明かりが雲を晴らすかのように光っていた。
ニールは階下で用意したと見えるインスタントコーヒーを口に運び、全て飲み干したのか、紙のカップを歯で咥えて眼下に渡る光の奔流を目で追っている。足音に気づいてこちらに顔を向けると、カップを手に持ち替えてにこりとおれを迎え入れた。
少しの時間ももったいない。開口一番に宣言する。
「きみを友人と思えなくなった」
ニールの表情がさっと曇った。瞳がうろうろとさまよい、眉をひそめて窺うようにする。
「なにか気に障ることでもしたかな」
きっぱりと首を振って否定する。
「いや、違う。きみは問題ない。おれの見方が変わったんだ」
「どういうことだ?」
いよいよ不審だという様子を隠しもせず、ニールは厳しい顔つきをした。理解できるはずの言語で話しかけられているのに内容が解せない。もしわかってしまったら、いままでの関係が確実に変質する。これからなにを言われるのか恐ろしいけれど、聞かないではいられない。そういう不安をありありと見せている。
違う、いや、そうかもしれないが、彼にとってはきっと悪い話ではないはず――
意を決して口に出した言葉は、なぜだか突き放すようになった。
「だから……、好きになった」
「は? ……なんだよいまさら」
ニールは手に持っていた空のカップを握りつぶしたと思ったら力強く屋上に放り投げた。そして、言葉にならない言葉を吠えながら、怒りのぶつけどころがないと言わんばかりに両手を振り回して屋上の柵をつかんだ。不安が怒りに変わるのはこんなに早いのかと、半ば呆然として彼を見つめる。
ニールの常にない姿に呆気にとられて、つい口が滑った。
「なんだその態度は。おまえ、前からおれのこと好きだったって聞いたぞ」
牙が生えていたならよく見えただろうというくらいに歯を剥いてニールが怒鳴る。
「アイヴスか? あいつが言ったのか? クソ!」
地団駄を踏むように足を踏み鳴らして悔しがっている――そう、彼は悔しがっていた。
ここは下手に出た方が得策か。両手を上げて降参の姿勢を取り、一度落ち着いてみないかと顔を覗き込んだ。
「告白しただけなのになんでそんな……」
ニールは最後まで言わせなかった。
首の後ろに両手を回し、強い力で自分に引き寄せてぎゅっとキスをした。雰囲気もロマンスもない、混乱と衝動に任せたキスだった。
始まったときと同じだけの唐突さでニールの顔が離れる。彼はこちらを一瞥もせず、ドシドシと音を立てては足早に――かといって走り出すほどではない速さで――離れていった。
「クソ! なんだよまったく! ありえない!」
捨て台詞のような言葉がずっと聞こえてきて、頬が上がるのを止められない。
すまないニール。きみの悪態が愛おしくてたまらないんだ。
どんな顔をして戻れば良いのかわからず、しばらくここから地上を見下ろして暗闇を照らす光に煽られることにした。彼が怒っていても落ち着いていても、どちらにせよ、こちらは笑顔になってしまうだろう。
パロディ2
棚から取り出した資料と本の山を崩しながら、あるとも知れない写真を探す。厄介だと再び思った。ちらりとニールを振り返る。次に手に取る束の中にこそ、目的のものが見つかると信じて、彼は愚直に紙の山に向かい合っている。ため息を飲み込んでひとつ上の段に手を伸ばした。
ニールとともに足を踏み入れた寝室からは、セラピストである調査対象者の嗜好や価値観が資料からよりもいっそう伝わった。細々とした室内装飾はなく、特にベッド周りにはサイドテーブルすらなくガランとしている。対して、その反対側の壁には作り付けの全面棚があり、本や資料などの紙類がギッシリと詰まっていた。一見するときれいに並んでいるように見えるが、本人以外にはどんな分類方法で整理されているのか見当がつかない。シェイクスピアの『オセロー』の隣にヴァン・ダインの『カナリア殺人事件』が並んでいるのはどういった理由なのか。
欲しいのは写真だ。このどこかに隠されている可能性があるなら、一枚ずつページをめくって確認するほかない。
いましがた確認を終えた、下から二番目の棚の上段には資料ではなく書籍が並んでいる。何年も前に出版された価値のある初版というようなハードカバーの高級な本ではなく、読み癖のついたペーパーバックの流通本が多かった。パラパラとめくって中に写真が挟まっていないかと確認するも、またも空振りである。
ふん、と息をついて顔を上げるとニールがこちらに歩み寄って来るのが視界の端に見えた。なにかあったのかと振り向くと、彼はなにも言わずに唇へとキスを落とした。
不意打ちをくらい、しばし固まってしまう。こちらが反応する前にニールは身体を離した。
「仕事中はだめだ」
うろたえたと知られたくなくてあえて睨みつけたが、そばに膝をついたニールは落ち着きはらって見えた。少しも表情を緩めずに真剣な顔でこちらを見返してくる。
「きみを見てたらキスしたくなった」
真正面から直球の言葉を投げられて二の句がつけなくなる。彼の真顔に弱いと知っての表情なのだろうか、だからといって、毎回この顔にほだされるわけにはいかない――
ニールはじっとこちらを見つめている。キスしたくなったという彼の言葉がじわりと胸に染みた。ただ黙って見返すだけでニールは意図を汲み、ゆっくりと顔を近づけた。
手元の本は知らぬ間に床に落ちた。彼を引き寄せるように手を腰に回すと、顔を両手で挟まれて熱心に動いてくる。温かくてやわらかくてやさしくて気持ちがいい。次第に熱が入ってしまい、仕事中であることを一瞬失念した。
そのとき、寝室に向かってくる足音が聞こえた。気づいたニールとともに互いから距離を取り、なぜかふたりして立ち上がって扉を開けるアイヴスを迎えた。
写真を探していたとは思えない不自然な素振りをするふたりを見てもアイヴスはそれに言及せず、わずかに目をすがめただけで言った。
「……見つけた。こっちだ」
彼が担当したのはリビングだ。これ以上紙の束に向き合う必要がないのはありがたいはずなのに、ほんの少し残念に思う気持ちがあった。ちらりと隣に目を向けると、同じタイミングでニールもこちらを振り返った。口をへの字に曲げて真面目な表情を取り繕っている。鏡があれば、自分の顔も似たようなものだと確認できるはずだと思い、心の中で苦笑した。
早足でアイヴスの後を追う。彼が見つけた写真は、対象を落とす決定打となるだろう。
頭を切り替えて集中する。できれば自分の頬を張りたいくらいだ。
――仕事中はだめだ、止まらなくなる。
後ろにはニールがいるのになんで触っちゃいけないんだ、と暴れる欲求を押しこめるために額に力を込めて顔をしかめた。