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    テネSSSまとめ渡し守雨と液晶いぬOracle潮騒渡し守

     道の先にニールがいた。彼は、ちょうど向こう側に頭を向けるところだった。しっかりと顔を見たわけではない。だが、人混みの影から見える後ろ姿、背格好、頭の形、立ち振る舞いが、その男はニールなのだと雄弁に伝えた。考える前に身体が動いた。遠ざかる背中を追い、前を横切るひとを避けて腕をつかむ。
    「ニール、どこへ行く」
     思いのほか力が入ったようだった。ぐっとつかんだ腕に驚いたように相手がこちらを振り向く。彼は目を見開き、すぐに相好を崩した。
    「どうした、そんなに慌てて」
     ニールはしっかりとこちらを見てそう言った。さっきまでずっと一緒にいたかのように自然な態度だった。
     そんなはずはない、と反射的に思った。このニールはおかしい。ただ、なぜそう思ったのかを説明できない。
     自分の感覚にうろたえて言葉を失うおれに向かってニールが微笑みかける。
    「呼んでくれたらそばに行くのに。つかんでなくても他所にいったりしないよ。どうしたんだ?」
     初めて会ったときと変わらない、率直な物言いをしていた。ごくりとつばを飲み込む。右手はニールの腕から離せないでいた。この手を離せばいなくなってしまうという直感があった。なぜなら、もうすでに一度、彼はおれの前から姿を消して、その後息をした姿を見せなかったからだ。あのとき、この男は力なく静かに横たわっていた。おれたちはニールのことを救えなかった、そのはずだった。乾いた唇を舐め、改めて問いかける。
    「おまえは、ニールなのか」
     顔をしかめて必死に腕にしがみつくおれを、ニールは不思議そうにするでもなく、柔らかな眼差しで見つめてくる。
    「さっききみが呼びかけたんじゃないか、ニールって。きみがそう呼ぶんだから、ぼくはニールだよ。仮に、きみがぼくを『パンプキン』と呼ぶならぼくはそう呼ばれるようになるってこと」
     ふふふ、とくすぐったそうに笑う。
    「ねえ、せっかくだから観光しようよ。世界遺産があるって知ってた? ちょっとマイナーかもしれないけど、きみは好きなんじゃないかな」
     なにかしらの仕事を終えたあとの気兼ねない会話のようだった。ふたりで任務を遂行し、次の場所に向かうまでに時間が余ったというような。前にも似たようなことをして、だから今回も誘うのだというような。ニールの身体はここにあった。目の前にちゃんとある。おれに腕をつかまれながらもしっかりと自分の脚で立ち、風に髪をなびかせている。金髪がふわりと揺れる。優しくまばたきをする。口元がかすかにとがり、なにか言おうと唇を開く。周りの音が消えていく。
    「まだ気になるか。きみは真面目だからなかなか引っかかってくれないね」
     鼻の頭をこすって苦笑しながらニールが言った。彼の腕をつかむ力が増す。
    「どういうことだ」
     ニールは考えをまとめようというように視線を上げた。つかんでいないほうの手はふわふわと動いている。
     だまし討ちかなにかなのかとあたりを見回すが、変わったことはなかった。ひとがあちらからこちらへ、こちらからあちらへと流れていく。ざわざわとした喧騒はあるが、それぞれの声自体は聞こえなかった。そういえば、ここはどこなのかとふと疑問に思った。先ほどまでは通りに面したカフェで紅茶を飲んでいた。いや、コーヒーだったか。とにかく、ニールの姿を見つけて立ち上がり、いや、おれは立っていた、ニールを探していた。そうしたら彼が目の前に現れた。だから駆け寄って腕をつかんだ。そう、ニールの腕をつかんだ、いまもそうしている。右手のなかの腕を見ると彼の肘から上は闇に沈んでいた。目を上げるとニールの顔は見えなくなった。ずっと探していた相手がふたたび暗闇に飲み込まれた。あたりも真っ暗闇だった。音のない黒の空間に自分の右手とニールの腕がぽかりと浮かぶ。
    「ニール、どういうことなんだ。説明しろ」
     震えるおれの声を受けて、闇がこちらに向き直るのがわかった。柔らかな声音がする。
    「きみはそのままでいたらいい。こんな偽物に騙されてはいけない。然るべきときに、きっとまた会えるだろう」
    「おまえは何者なんだ。ニールじゃないのか」
    「ぼくはニールだよ。きみがそう呼んだから。ぼくが欲しい?」
     頬を撫でる手の感触がする。目を瞑ればそこにニールがいると感じるだろう。でも、おれは目を閉じない。ほんとうのニールをつかむために目を開く。
    「おれは、お前を取り戻したい」
    「じゃあ、ぼくを救いに行きなよ」
     肩口をトン、と軽く押された。重力が九十度傾斜角を変えたように急速に身体が後ろに落ちていく。暗闇の中に彼がいた。落ちるおれを見つめる視線は温かだった。またね、と低い声がした。

       *

     この回転扉は大型だ。長い検証窓を覗き込んだときの記憶が抜け落ちていることに気がついた。ここから出ていくおれは、向こうからはどう見えていただろうか。
    「早く来い!」
     アイヴスの声が響く。昏く霞んでいた頭がたったいま覚醒したようにはっきりとする。気に留めていないといけないなにかがあった気がしたが、悪い夢のように喪失感だけが胸に残っていた。しかし、この喪失感はこれからなくしてみせる。
     酸素を取り込み、前を見据える。回転扉を抜けたときの違和感はすでになくなった。これからすべきことだけに集中する。
     穴のなかで爆弾を止められなかったとき、おれたちは彼に助けられた。今度はふたりでニールを助ける。アイヴスの後を追い、おれはニールの元に走る。
    雨と液晶

    「2138 完了 戻る」
     端的な内容を端末に打ち込んで雨粒でぶれた液晶画面を見つめる。この文言の上には五日前の「1600 完了 戻る」があり、その上には二週間前の「2215 完了 戻る」があった。
     ずっと上に遡っても内容にそう変わりはない。彼と同じ現場にいない限りは仕事が終わり次第メールを送る決まりになっていた。安いモーテルの裏口でぼくは仕事を終わらせる準備をする。
     モーテルに客はおらず、紙の宿帳を失敬するだけの仕事は簡単に終わった。宿の主人は明日の朝、いつの間に部屋で眠ったのかと不審に思うかもしれない。何年も使っている宿帳がなぜかなくなっていることに気づけば通報するかもしれないが、金目のものが盗まれていないとわかれば深追いはしないだろう。なにせ、世間は犯罪だらけ、宿帳ひとつの捜索に時間は避けまい。
     裏口にはひとの気配がなかった。あるのは遠くに見えるガソリンスタンドの店頭ネオンくらいで、あとは木々と道路が延々と続いている。
     雨の音が心地よく耳をくすぐる。目を閉じると自分という意識が水に溶けて大地に染み込む想像もできそうだ。雨脚はこの場所に来たときよりも勢いを増してアドレナリンで火照った身体を静かに冷やした。
     たったひとりで任務に当たることはそうそうない。今日もほかにひとり人員がいた。彼に宿帳を預けて先に返し、ぼくだけひとり、ぐずぐずとこの場に残っている。目立つ行動は避けなければならないからさっさと立ち去るのが懸命だ、わかっている。これはちょっとしたわがままだ。
     文字を打ち込んでいた液晶画面の「戻る」の後ろで点滅するカーソルを見つめて二文字消去する。
     意を決したらよどみなく指は動いた。
    「迎えに来て」
     送信ボタンを押して雨の落ちる空を見上げる。舌を出して雨粒を拾おうとしたがうまく入ってこなかった。
     きっと彼は来てくれる、この確信はどこから来るのだろうか。
     彼の今日の予定も知らないのに放置されたらどうするんだ、と冷静な自分が問いかける。そのときは歩いて帰るさ、と馬鹿な自分が安請け合いした。
     雨粒を拾うのを諦めて壁にもたれると端末の画面がきらりと光った。彼の声を望むようになったのはいつからだろう。通話ボタンを押す。
     なにを言われるにしても、この瞬間が好きだった。勝手に口元が笑みを作る。
    「帰れなくなったのか」
     電話口からすこし離れたそっけない声が耳に流れ込む。その声は呆れているようでも叱責するようでもなかった。
    「きみの迎えが必要なんだ」
     当然だろうというような声音を使うと、彼はそうか、とひとこと言い、そのまま通話を終わらせた。
     あの声の反響具合はボルボかな、と当たりを付ける。電話口からの想定なんてアテにはならないけれど、彼はすでにぼくのもとに向かっていると確信した。
     早く隣に座りたい。
     なんでもいいから話しかけてあのひとの声を聞きたい。
     そうして応える間にあのひとをすこしでも長く見つめていたい。
     
     雨音に紛れて車のエンジン音が聞こえた。
     裏口に回り、彼はきっとビニール傘を差し掛けてくれる。ぼくは笑ってその下に入り、冷えた身体をさりげなく寄り添わせる。彼は眉をひそめて冷たいな、と言う。モーテルでシャワーを浴びてくればよかったとぼくがうそぶくと、彼は笑って早く戻ろう、と車まで先導する。乗車するとタオルを投げて寄越してちゃんと拭くようにと注意してくるからぼくは神妙な面持ちで髪をこする。会いたかったと言うぼくに彼はなんと応えるだろう。
     モーテルの角から、予想した通りのビニール傘を差した男が姿を現した。彼はこちらの様子を見ると眉をひそめた。
    「屋根のあるところにいなかったのか。後ろはモーテルだろう」
    「冷たくて気持ちがいいんだ」
     彼は呆れたような顔をしてぼくに傘を差し掛けた。
    「わがままを言うなんて珍しい」
    「……来てくれて嬉しい」
     彼は小さく笑い、大したことではないというように言った。
    「おまえが呼ぶならどこにでも行く。さあ、早く戻ろう」
     雨が降っていてよかった。瞬間的にのぼせる顔も色を変える身体もすぐに冷やしてなかったことにしてもらえる。
     唯一自分の鼓動だけが不測の事態に脅かされた。拠点に戻るまでの三十分間、彼の隣でなにを思えばいいだろう。
     動こうとしないぼくを不審げに見る彼の肩が雨に濡れる。ぼくは差し掛けられた傘に潜り込むと彼から柄を取り上げ、肩が濡れないようにと角度を調整した。彼はそんなぼくの行動を見て仕方がないというふうに笑う。ぼくは口を引き結び、彼を濡らす雨を全部自分が引き受けられるように願った。 
    いぬ

     かわいそうでしょう、と母は言った。先に死んでしまうのはかわいそうだわ、と眉をひそめてすぐに目をそらした。母はその場に踏みとどまろうとするぼくの腕を強く引いた。そこに立ち止まっていると、なにか悪いものを引き寄せてしまうと信じているようだった。
     ぼくたちは自然公園の端にいた。午前授業を終えて一緒にランチを食べ、遊歩道を歩いているときに小さな犬が二匹いるのに気づいた。灰色のと茶色がかったのだった。まだ仔犬で、遊びたいざかりに見えた。現に、二匹は離れたと思ったらすぐにお互いの足やら体やらにじゃれついた。ぼくは二匹を両腕に抱いて膝の上で寝かせたくなった。でも、それが不可能であることもじゅうぶんに理解していた。だって、ぼくの服にはアイロンがあてられて少しもシワがなく上等で、そういう服を着た立派な男の子は野良犬をひざに乗せて遊ばない。それに、母はいつだって美しいものに囲まれてみんながうらやむすてきな状態を維持していた。──維持する。ずっと同じで変わらないということだ。
     母が美しくないものを好まないのはよく知っている。いつもなら駄々をこねるような真似はしない。前日に、ライアンのやつが犬を飼い始めたのだと自慢してきたことが頭に残っていたのかもしれない。彼は、リーダーシップを養うためにと親に勧められて飼育を始めたのだと言う。もしかしたら、同じ理由でぼくも犬を手に入れられるのではないかと期待したのだった。
     飼いたいと言った。かわいそうでしょうと言われた。
     ぼくはかわいそうだとは思わなかった。死ぬまでずっと一緒にいられるのはいいことだと思った。ぼくだったらとっても嬉しいと思うのに、と母を見上げた。
     ぼくを見た母は悲しむような目をした。ベッドの下におばけを見たみたいに怖いと思ってるようにも見えた。ぼくは母の腕の力が弱まったのに気づき、つかまれていた腕を振り払って走り出した。
     犬も母も後ろに置いて芝生の上をひたすら走った。

       *

     こうして彼の膝の上で身を丸めていると、幸せはここにあると実感する。もう何日も言葉を発していないけれど、言葉を介在させないコミュニケーションはより密接で濃厚なものとなっていて、ぼくは満足していた。
     彼はぼくの頭を撫でる。
     最初は恐る恐る触れた。でも、ぼくが彼のお腹に頭をなすりつけると両手で頭の後ろから背中まで触ってくれた。徐々にぼくの状態にも慣れ、いまではこうやって膝の上で頭を撫でて眠らせてくれる。膝の上と言うより股の間と言ったほうが正確かもしれないけれど。
    「お腹は空いていないか?」
     彼の声に顔を上げる。「お腹」だなんて、それまでぼくに言ったことはなかったのに、この姿になったと思ったらこうだ。でも、彼の唇がお腹と形作るのはとてもかわいらしいと思う。
     それに、言われてみれば空腹を感じていた。この体は燃費がいいのか悪いのか、与えられれば与えられるだけ食べられるし、無ければ無いで平気だった。
     ぼくの尻尾が揺れるのを見て彼はにこりと微笑んで耳の上を搔いてくれた。ぼくはとっても嬉しくなって動き出そうとする彼の上半身に前足を乗せる。ペロペロと口元を舐めると彼は笑って「こら、ご飯はこれからだぞ」と言う。
     「ご飯」だって、かわいい言い方。
     キッチンに向かって歩く彼の行く手を邪魔するように脚にまとわりついても上手にぼくの顔や足を避けて彼は進んだ。
     ぼくのご飯は彼が食べるものと同じだった。厳密に言えば違うかも。ひとつの皿にパンや味付けされていない肉やブロッコリーなどが載っている。彼の食事には味付けがされていて皿はそれぞれ三枚ある、そういうたぐいの同じだった。
     目の前に器が差し出されてもぼくはすぐには食べたりしない。彼の顔を確認して、「よし」と言われてから食べるのだ。だってそうするととっても気持ちがいい。でもどうしてだろう、彼はぼくが食べているとき、全然こちらを見ていない気がする。ちゃんと全部食べるまで見ていてほしいのに、背中を向けてどこかに行ってしまおうとする。ご飯を途中にして彼を追いかけたいけれど、ぼくは先に全部食べてしまう。平らげてから追いかけると彼は思いの外すぐ近くに座っていてテーブルの上の自分のお皿に手を付けずに目元を手で覆っている。
     かなしい気持ちが流れ込んてきてぼくは彼の膝の上に顎を乗せる。ぼくの頭を撫でたらきっとかなしい気持ちはどこかに行っちゃうぞ、と思う。
     すぐに撫でてもらえないので鼻先を太ももに押し付ける。息を大きく吸って、彼の香りを胸に詰め込む。息を吐くと匂いがかげないなあ、と思いながら息を吐く。
     彼がようやくぼくの方を見る。ひとりぼっちで震えそうになっている彼を、ぼくが守ってあげるのだと強く強く心に決める。
     そうして、この尊い関係を可能な限り維持し続ける。
     やっぱり、こうして一緒にいられるのは、とっても嬉しいことだった。
    Oracle

     大きくため息をつき自らを顧みる。今日、ひとがひとり死んだ。自分が立てた計画が杜撰だったとは思わない。ただ、敵も自分の命を守るのに必死だっただけだ。犠牲が出ることは予想していたし、それがひとりで済んだのは僥倖だった。だが、彼を救うためにできることがもっとあったのではないか、自分の能力がいまより高ければ別の結末があったのではないかと何度となく頭に巡った後悔と懺悔がいつまでも消えない。
     いつもなら、部屋に戻ってシャワーを浴びる間にそういう気持ちは小さく畳んで箱に押し込め、胸の奥深くに仕舞って鍵をかけられる。箱は胸の中にうず高く積み重なり、ひとつずつ中身を確認するためにわざわざ鍵を開けたりしない。
     けれど、箱は振動した。低く弱くか細く震えて奪った命を忘れるなと主張した。後悔と懺悔は、今日のように箱の中に静かに仕舞われるのを拒否することもあり、そんなときはアルコールで気を紛らわせた。
     味のしない酒を酔うためだけに飲む。気のせいか酒量が昔より増えた気がする。自己嫌悪なんかで自分を潰すなど言語道断だ、控えなければならない、そう思いながら杯を干した。
    「ニール」
     胸の中に留めておけなくなった声が外に出る。呼んだからといって何も起きはしない。誰も応えない。問題は解決しない。
     再び大きくため息をつく。その息に重なるようにして誰かがつく重いため息が聞こえた。
    「ぼくの力が必要かな」
     机を挟んだ向こう側、ひとりがけのソファにニールが座っていた。
     彼はずっとその場所にいたように見えた。洗いざらしのシャツの上によれたジャケットを着て足を軽く組んでいる。彼はこちらをじっと見つめ、小さく笑って言った。
    「……ニールだ」
     二度目の自己紹介を受けて止まったかに思えた時間が再び進みだした。
     彼はニールだ。間違いない。初めて会ったときと変らない姿で目の前にいて微笑んでいる。
     彼に応えなければならなかった。応えたら戻ってこられないとも思った。かといって、自分の願望が生み出したまやかしの魅力に抗えないのも分かっていた。あちらに行けばずっと幸せでいられるはずだった。
     口を開き、言葉を探してまた閉じる。何度か繰り返すとニールは目を伏せた。
    「驚かせたよな、こういうふうに出てくるつもりはなかったんだ。でも、弱ってるきみに呼ばれたら顔を出さずにはいられなくて」
     組んだ足を揺らしながらニールが言う。
    「いままでにも呼んでくれてたよな、きみのそばにずっといたからちゃんと聞こえてた。でも、怖くて姿を現せなかった」
    「怖い?」
     言葉を返されたニールはこちらに向き直り、目を覗き込んで泣きそうな顔をした。まばたきを繰り返し、涙をこらえている。組んだ足をおろし、吐き出す息と一緒に告げた。
    「気づいてもらえなかったらどうしようかと思ってた」
     彼が言い終わるのを待たずに机を乗り越えてニールを抱きしめた。ほとんど突進したも同然だった。肩に両手を回し、逃がすものかと力を込めた。
     最初、ニールは冷えて感じられた。しかし、それは気のせいですぐにぬくもりが伝わってきた。ニールの手が自分の背中に回ってくると、よりいっそう彼の体温を感じた。
     しばらくの間、ひとことも言葉をかわさずに抱きしめ合った。お互いの息遣いだけで会話をしているようだった。道のない真っ暗な森の中で川のせせらぎを耳にして蛍が舞うのを見つけたように、身を固くする緊張のあとにやわらかなまどろみが訪れた。
     身体を預けて体温を感じ、匂いを嗅いで彼の彼らしさを読み取る。ニールの顔を近くで見たくて顔を起こそうとすると彼の手が背中を掴んだ。
    「ぼくのこと、忘れていいよって言いに来たのに、こんなの……だめだ」
     ニールの声は涙に震えていた。自分の頬も濡れている。彼は自分が作り出した幻影だ。触れるし声も聞こえるし体温も感じる特別なまやかしの存在。こちらの望むように動いて重圧に軋む精神を慰撫してくれる。
     手放したくなかった。
    「一緒にいよう」
     はは、と無理に笑う声が答えた。ニールは身体を離すと両手で肩を掴んでこちらを元気づけるように揺さぶった。
    「そんなふうに言われたら戻れなくなる」
     その顔は涙に濡れて頬が赤らんでいた。不安を感じさせないようにと無理して微笑みを浮かべている。
     見たことのない表情だった。
     ニールの手が拍動を強めた心臓の上にかざされる。
    「これからも、きみのしたいようにすればいい。きみの不安と後悔がきみをより強くする。胸の中の箱を無理に開く必要はない。時間が経てば、いずれどの箱も小さくなっていく。それに、きみはこれからたくさんのひとに愛される。きみが与える愛とどちらが強いか分からなくなるくらいにね。だから、ぼくがいなくても大丈夫だ。……こんなふうにまた話せるなんて思ってなかった。いやだな、格好がつかない」
     ニールは上を向き、せっかくきみに会えたのに泣いてばかりだ、とぼやく。
     欲する言葉を与えてくれるこのニールは幻想に違いない。けれど、いまほど気持ちをさらけ出した彼の表情を見たことがないのも事実だった。
    「おまえは、おれの幻想だろう」
     そうだと言ってもらえたら安心して彼を自分のもとにつなぎとめておける。いつまでも彼と一緒にいられる。好きなときに欲しい言葉を受け取って、彼に想いを伝えられる。
     ニールは頬に落ちた涙の跡を指でぬぐってくれた。愛してやまないという彼の視線が身体を貫く。
    「きみは幸せになるんだ。ぼくはそれをよく知ってる」
     ニールはまるで神託を下す神の使いのように見えた。頬を包むニールの手のひらの温かさに溶かされるようにして、ただ見上げるしかできなかった。
     目覚めるとソファの上に横たわっていた。まだ涙の残る目に映るのは机の上にある酒のボトルと空のグラス。向かいのソファには誰もいない。
     立ち上がり、ボトルを掴むと洗面所に中身をすべて流した。流水で顔を洗い頭を振って水を飛ばす。
     鏡に映った自分を睨み、瞳の奥に彼を探した。
    潮騒

     あのふたりの間にはただならない空気が流れている。
     この組織に所属する者は皆、あえて口に出さずともそのことに気づいていた。
     ある日、口さがないやつのひとりが、絶対になにかがある、気になるから探ってみる、と豪語した。周りの隊員にやめておけと止められたにも関わらず、そいつは行動した。その結果、彼はいつの間にか姿を現さなくなった。彼の失踪は、単なる辞職として皆の記憶に刻まれた。任務が終わるタイミングでいなくなる者は稀にいたが、彼が辞職したのは仕事の最中だったために違和感が残った。だが、上官を問い詰める者は誰もいなかった。彼の仕事は肩代わりされ、任務は無事に終わった。
     ふたりのことを気にしなければ、職務にあたる際になんの問題にもならない。
     気づかないふり、見ないふり、知らないふり。
     古参の隊員たち──便宜上、上官と呼んでいる。この組織は軍隊ではないが、わかりやすさを優先したのだ。ほかの呼び方を定着させようにも、あまりに軍人らしい雰囲気の人間がひとりいて、その隊員に引きずられる形だった──は皆、見ざる、聞かざる、言わざるが定着しているらしく、ふたりが目の前でなにをしても気にならない様子だった。
     ふたりを好きにさせる彼らを見ていると、自分が初心うぶでひどく保守的な嫌なやつに思えてくる。
     早く慣れてしまいたい。現に、自分以外の隊員はふたりの姿を見ても気に留めない者が多い。だが、どうしても、彼らがひとりであるときとふたりのときとの差が大きく感じられて、そういう場に居合わすといつも驚いてしまうのだった。
     そして、今日もまたその場面に鉢合わせてしまった。
     ふたりが一緒にいるからといって、いつもそういうことをしているわけではない。けれど、今日は誰がどう見ても「それ」をしていた。つまり、互いの身体の一部に触れながら顔を近づけて会話し、いまが人生で一番幸せだと言うように目を見合わせて微笑み合っていた。
     ガラス張りの部屋の中、ブラインドも下ろさずに、彼らはまるでハネムーンの予定でも決めるかのように次の作戦を練っている。
     ふと、ボスの指が彼の右腕──比喩的な表現で、実際の名前はニールという──の頬に向かった。ニールは頭を擦り付けんばかりに喜んで、その指にキスをし始めた。彼らの中ではあくまでもじゃれ合いの一環なのだろう。ボスは無表情に手元の紙面に目を落としたまま、いまやキスを越えて口に咥えられているのにも動じない。
     これを見て平気なふりをしろというのには、かなりの葛藤があった。そもそも、こういうことはふたりだけのときにする親密な行為ではないのだろうか。下っ端の隊員に見せつけてどうするというのか。
     だが、なにより一番救いようがないのは、そんな彼らから目を離せない自分なのだった。
     会議のときや皆が集まる食堂などでは彼らはそういうことをしない。ひと目を忍びはしないが、あえて見せつけもしない。彼らが触れ合っているときに出くわすのはほんとうに偶然で、見てはいけないと思うのに、いつもふたりのどちらかに気づかれるまで見続けてしまうのだった。これでは覗き趣味と同じである。
     気づかないふり、見ないふり、知らないふりができない。ふたりに目を奪われる。仲睦まじく美しいふたりに。
     ボスの視線がこちらに向かう。こういうときにふたりのどちらかと目が合うと、決まってすぐに目をそらし、気まずくなって早足で逃げたものだった。けれど、今回は目をそらさない。すると、ボスは眉を下げて少し照れたようにした。それにつられてニールにつかまれた手が小さく動き、指を咥えていた男もボスの視線を追ってこちらを向いた。
     ニールは目を細めると、ボスの手の甲へ、うやうやしくキスをした。それで、それまでの危うい触れ合いが帳消しになるとでもいうかのような、自信を持った口づけだった。
     まなうらに焼き付くようだった。しっかりと目を合わせてから肩をすくめて視線を外す。両手には今度の任務についての資料がある。隊員の待つ部屋に向かってゆっくりと足を踏み出した。
     わたしはふたりの間に流れる空気に気づいているし、ふたりがキスをするのを見ているし、互いを必要としているのを知っている。
     今日のところは、それがわたしだけに許された彼らとの共通の秘密であると、思っていよう。
    narui148 Link Message Mute
    2023/01/07 1:36:48

    テネSSSまとめ

    テネSSS 全年齢5篇(10284文字)

    渡し守:主さんがニールに会う話

    雨と液晶:若ニルが任務に当たる話(イラストへの当て書き)

    いぬ:ニールが犬になる話

    Oracle:主さんがニールに会う話

    潮騒:モブ隊員視点の目撃談


    #主ニル  #ニル主

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