おまえって呼んでみて「ニールはおれを『きみ』と呼ぶよな」
唐突に男が言った。建物の青写真に覆いかぶさるようにして潜入経路を確認していたニールは廊下の幅の計算式を頭の隅に追いやって男に向き直った。
「そうだね、それがなにか?」
キャスターのついた椅子に腰掛けて心持ち身体を揺らした男は物思いにふけるように眉間にしわを寄せる。
「おれはニールを『おまえ』と呼んでいる。ここは平等に、『おまえ』と呼んでもらったほうがいいのではないだろうか」
呼びかけ方を気にするような、なにがしかのきっかけがあったのだろう。だが、ニールにとって呼ぶときに口にする二人称なんてどうでもいいと思えた。それに、気になるならば直接名前を呼べばいいではないか。
ニールがその名を口にしようとして息を吸うと、男はすかさず自分の唇の前に人差し指を置いて黙るようにと示した。
ニールは行き場を失った息を静かに吐いて目をすがめた。男が言う。
「おれの名前は口にするな」
「ふたりきりだろう、だれも聞いてない」
ニールがそう言っても男は厳しい表情を変えずに続ける。
「仕事中はだめだ。そもそも、おれはおまえに『おまえ』と呼んでほしいと言ってる。名前じゃない」
肩をすくめるとニールは簡単にひとことだけ口にした。
「おまえ」
男はじっと続きを待っている。ニールは唇をもぞもぞ動かしてなにか話してみようとしたが、次の言葉が浮かばなかった。
二人称なんかに気を遣う必要はないと思っているのは確かだ。だが、実際に口に出してみると尋常ではない違和感が胸に浮かんだ。
男はニールの元上司であり、現在は相棒である。対等な関係になっていると互いに思っていた。男の言うように、同じように呼び合うのも悪くない気はするが、慣れていないからか、いかんせん言いにくく感じる。
黙ったニールにしびれを切らしたのか、男が口を開いた。
「ただ呼ぶだけではなく、文章として話しかけてほしい。難しいか?」
「いや、そんなことはない。簡単だよ、き……おまえ……に、話しかけるなんてずっと前からしてるし、きみ……おまえ、が……望むならなんだってしたいと思ってる」
しどろもどろになるニールを見て、男は椅子から立ち上がった。机の上の設計図に手を押し付けるようにして身体を前に倒し、ニールの顔を覗き込む。
「肩の力を抜け。そうだな、命令してみればいい。言いやすくなるんじゃないか」
「命令って……なにを言えというんだ。困らせないでくれ」
苦笑して首を振ると男はぐっと顔を近づけて凄んだ。
「ニール、おれたちのためだ。言ってしまえ」
尋問を受けているような気持ちになる。彼の求めに応じたいのは本心だが、なんともうまくいかない。
そこで、いままで何度もしてきた潜入調査と同じだと考えてみることにした。自分は優秀な産業スパイ──あるいは幹部の腹心の部下、冷酷な金持ち、誰かに取り入ることだけを考える卑小な男──。心持ち姿勢を正して胸を張り、これは芝居だと自分に言い聞かせる。そうすると、すっと役に入り込めた。
「おまえにやってもらいたいことがある。自分の席に座って仕事に戻れ。ぼくの邪魔をしないでほしい」
ニールを覗き込んだ男の眉間に刻まれていたしわがなくなり、すっと平らになった。同時に、男の顔から表情らしきものが消える。彼は無言で手のひらを図面から剥がした。
「……すまない、邪魔をするつもりはなかったんだ。ちょっと気になったものだから」
男は踵を返して座っていた椅子まで戻ろうとする。
ニールにはそれが男の本心なのか冗談なのかの判断がつかなかった。男はたまに本気でふざけるからだ。いまの態度が冗談であるなら構わないが、そうでないなら誤解を解かないといけない。妙な空気になるのはごめんだ。
「ちょっと待って、いまのは本心じゃない。適当に言っただけだ」
男は肩を落として見えた。ちらりとこちらを振り返って「考えてもいないことは口から出ない」などとのたまう。
どうしろと言うんだ。言わなければ怒り、言えば悲しむ。ニールは足を踏み変えて心の中で地団駄を踏んだ。口が勝手に弁明する。
「おまえがそう言えと言ったんだ。ぼくはそれに従ったまで。できることならなんでもしたいけど、気持ちを読み続けるのはいくらぼくでも難しいよ」
「ああ、おれが言った。きみは悪くない」
「いま『きみ』って言った。きみが『おまえ』と言うのをやめればそれでいいんじゃないのか?」
「いや、おれは『おまえ』と呼んでしまうだろうから、やはりニールが合わせてくれ」
「いま言ってみたけど変な感じだ。はっきり言って性に合わない。なんで『きみ』と呼んだらいけないんだよ」
男は口を引き結んでニールを見据えた。ニールはそのまっすぐな視線に圧倒されて思わずごくりとつばを飲んだ。
だから、いったいなんなんだ。
ニールが困惑して男を見つめると、男は諦めたようにため息とともにひとりの名前を吐き出した。
「……アイヴスだ」
突然現れた第三者にニールはぽかんとした。アイヴスはふたりの大切な仕事仲間だが、彼と今回の件になんの関係があるのだろうか。
「アイヴスが……どうしたんだ?」
悄然と肩を落として見える男のもとにニールは近寄った。肩に触れると男はちらりとニールの手を見て小さな声で言った。
「きみはアイヴスを『おまえ』と呼ぶだろう。この間もそう呼び合っていた。それを聞いて、おれもニールに友だちみたいに呼んでほしいと思ったんだ。垣根のない間柄になれるんじゃないかと思って……」
不鮮明に消えていく言葉尻に耳をすませるニールは男の主張にただ驚いていた。
彼がそのようなことを気にするとは意外だった。彼は他に並び立つもののない最高のパートナーなのだから。そんな彼に、友だち然と振る舞ってほしいと思われるとは……。
頬がどんどん緩んでいくのが自分でもわかった。男に「おまえ」と言うように強要されたときとは違った感覚が口元をムズムズさせる。
いけない、とニールは顔に力を入れた。相棒は本気で呼びかけ方を気にしていたのだ。
正直な気持ちををぶつけた相手にニヤニヤされたりしたら二度と腹を割って話してもらえなくなるかもしれない。健全な対人関係を形成するためにはよろしくない。
そう思うのに、どうしてもニールの口元は笑みの形を作ってしまうし、目は笑ってしまう。
ニールの態度が変化するのに男が気づくのは当然だった。肩に置かれた手に力は入っているし、笑ってしまいそうになるのを懸命に堪えているのは簡単に見て取れただろう。
男はむっつりと押黙ると不満げに目を細めた。
「どうして笑うんだ」
ニールは抑えが効かない、とばかりに吹き出した。男の肩口に顔を埋めるようにしてくすくすと笑う。
「ごめん、なんでアイヴスなんだと思って、まさかきみがそんなことを考えてたと思わなかったから」
ごめん、笑ってごめん、と続けるものの、なかなか笑いを止められなかった。
ニールの笑いの発作がやっと収まったときには、男もどこか呆れたような気を抜かれたような表情でニールの涙に滲んだ瞳を見ていた。
ニールはほっとして男を見返す。
「ぼくの一番の友人はきみだよ。親友の呼び方なんて誰と比べようもないって思わないか」
男はしばし考えるような間をあけてから、それもそうかもしれないな、と一応の納得を示した。しかし、諦めきれないというふうに声を上げる。
「もし、ニールがこれからおれを『おまえ』と呼びたくなったらいつでもそう呼んでもらって構わない」
ニールはてらいなく微笑んで言った。
「もちろん、気が向いたらそう呼んであげるよ、マイラブ」
呼ばれた男はふっと笑って照れたように目を伏せた。「おまえ」と呼ぶよりよほど簡単に口が動くのにニールはなぜかうろたえた。自分の唇を触って首をひねる。
ニールはその違和感を追いかけず、二人称にこだわりがあるのは自分も同じだという発見にだけ意識を集中させるのだった。