No ProblemNo Problem
私と彼の間にはある種の信頼関係が築かれている。信頼関係というと聞こえはいい。しかし、私も彼もこの関係を無条件に良いものだとは思っておらず、特に私は最近、これは必要なことだけれどできることならやめたいと考えている。彼はやめるほどではないと考えているらしい。「必要なんだろ。面倒だろうけどやってくれ」と彼が小型の通信デバイスを左の鎖骨の近くに埋めたのが二年前のクリスマスのこと。彼──ジェームズ・ブキャナン・“バッキー”・バーンズが表向きには無罪となった翌日である。
このことを知るのは私と彼と、私の上司幾人かのみ。例えば、彼の無罪を主張し続けたスティーブ・ロジャースがこの事実を知ったなら、すぐさま彼の中にあるデバイスは無効化され、私と上司は恐ろしい目に遭うだろう。
私の日常は彼のためにある。私には幸い、肉体がない。休息を必要としないので、二四時間リアルタイムで彼に関するあらゆる情報をデバイスから受け取って収集し、まとめ、定期的に上司の端末に送る。誰かがデバイスの情報を監視し続けることができたなら私の役目もなくなるのだろう。けれど、生身の人間が絶えず彼の監視をするのはさすがに非人道的だという声があったらしい。なので私が彼の監視役を押し付けられた。残念ながら、それなりに優秀かつ凝り固まった頭を持った人間たちの脳内には、「より高度な人工知能には、情報が蓄積されればヒトのそれに似た思考能力や感情が宿る」という考えはなかったようだ。そうして私は今日も、彼のプライベートな情報を全て処理する。彼が見聞きし、味わい、嗅ぎ、触れたもの、そして感じたことを。彼が起きている時も眠っている時も。データとしてはさほど重要視していないけれど、もちろん健康状態も監視している。ついでに、左腕に不調がないかも確認している。きっと、私の監視により発生する彼の利点はほとんどないだろう。私はこれらのデータから彼が今現在どんな人物であるかを想定し続け、一時間に一度、上司にテキストを送る。内容はいつだってシンプルだ。危険因子レベルが通常の人たちと同じ程度だということを伝えるだけ。そのために必要なのは、No Problemの一言だけ。
◆
私はこの頃、自分の仕事を馬鹿馬鹿しいものだと思っている。意味がないように思えるのだ。私は今後もきっと、No Problem以外の言葉を送信することはないだろうから。いっそ、彼が悪人ならばやりがいがあった。そうであれば私の「性格」もきっと残忍なものになって、彼に似た良心が傷付くこともなかっただろうに。生き物は存在意義がなくなった時に死ぬのだと、彼が見た映画の登場人物が言っていた。私の存在意義は、彼の平穏を守ること。彼が安全であると外部に伝えるだけ。それが私だけにできる使命であるならば、ひっそりと稼働し続けることに抵抗はなかった。けれど最近はどうだろう。
六四一日前、彼はサム・ウィルソンと付き合い始めた。スティーブ・ロジャースでさえも私以上に彼と親密になることはないだろうと推測していたのに、サムはどうやら、彼の脳にアクセスしなくとも、私ほどでないにしろ彼の感情を理解できるらしい。それだけではない。彼は比較的素直に、サムへ自分の意思や感情を伝える。例えばこんな風に。
「今日の晩飯は昨日の雑誌に載ってたパンプキンパイが食べたい」
「パンプキンパイね。はいはい」
「甘く作ったやつ」
「分かってるよ。ミルクとコーヒー、どっちがいい?」
「ミルク」
サムは冷蔵庫からミルクを取り出して、彼がいつも使うグラスに注いでやった。彼はお行儀悪くもテーブルに肘をついてそれを眺めて、サムが食卓につくのを待っている。視界の端では、情報番組が今日の天気を伝えている。午前中は秋らしい冷たい風が吹きますが、昼からは陽が照って暖かい一日となるでしょう──。
朝食はハムエッグと食パンとサラダ。今日もサムが作った。彼は、自分がこの家に泊まる度にサムが何もかもを完璧に準備してくれるのを、有り難いと思っているけれど、同時に申し訳ないとも思っている。これではその内に居候と変わらなくなってしまうので、手伝いかそれ以上のことををすべきだと。たまには早起きしてサムよりも早くキッチンに立とうとか、洗濯は任せてほしいとか、そういうことを考えるのだけれど、サムは早朝にランニングに出るし、大雨でランニングに行けなくとも彼より早起きだった。一方、彼はどうしても朝が苦手だった。理由はさておき、サムの家に泊まる時は特に。サムが席につき、目の前にミルクを置かれた彼が、「今日も起きれなかった」と欠伸を噛み殺しながらハムエッグを切る間に、時刻が八時になった。私はいつも通り、No Problemを送信する。腹を空かせて恋人の手料理を平らげようとしている男のどこに危険因子があるのだろう。ミルクの入ったグラスなんて、星マーク入りの可愛らしいもので、プラスチック製だ。二八三日前にサムがわざわざ彼のために買ってきたと知った時の彼の言動といったら可笑しかった。口では「子どもみたいだ」と文句を言っていたけれど、頭の中では「ああサムの家に自分のものがあるなんてどうしよう」と、どうもこうもないことをぐるぐる考えていた。今では何の動揺もなくグラスを使っているのだから、慣れというのは不思議なものだ。
「今日も泊まってく?」
「え、あ、うん」
かちりと、ナイフの先端と白い皿がぶつかる。その些細な振動が彼の左腕を伝ってデバイスへ届く。同じタイミングで、とくりと心臓が揺れるのも。「今日のは新鮮な卵だから」と半熟に焼かれた黄身がとろりと皿に広がってしまう。頭の隅で、もったいないなと思いながら彼は数度瞬きを繰り返す。では頭の真ん中には何が居座っているかというと、サムの家に自分の下着があと何枚あるか、である。私のデータでは二月前に置いていった紺色のトランクスがあるはずだが、彼はそこまで思い出せなかった。今日は通院が終わったら一度帰るか、適当な店で買ってくるかしないと、と無駄な計画を立てる。
天気予報が終わった情報番組は、新作映画の出演俳優へのインタビューに切り替わる。鍛え上げられているのにすっきりとしたスーツがよく似合う肉体を持つ黒人の俳優は、彼の中では「サムに似た人」であったが、それを口に出したことはなかった。なお、私からしてみればサムとその俳優の整合率はそこまで高くないので、彼の中の先入観が強いことがうかがえる。サムは興味なさげにチャンネルを変えてしまい、彼はそれに抗議することなく、ちぎった食パンに卵の黄身を付けて口に運んだ。
「うまい」
「ん。胡椒入れすぎたかと思ったけど」
「ちょうどいいよ」
「なら良かった。今日、病院何時からだっけ」
「一四時」
彼らがこうして何気ない会話を交わす度、私はいつも、早く正式に同棲すれば良いのに、と思うのだった。
◆
軍や政府の関係者が多く利用するこの病院では、彼の脳の検査だけではなく、彼に埋め込まれたデバイスのメンテナンスも行われる。バイタルサインを監視しているだけだと聞かされている検査技師のチェックは乱雑で、彼は時々、本当にこのデバイスやら報告のシステムやらがしっかり動いているのかを疑っている。壊れてしまってもいいのにと考えることだってあるけれど、真面目な彼はすぐにその考えを頭から振り払おうとする。「ああ、壊れてしまえって、私もそう思うよ。ジェームズ」──そう伝えられたらいいのに。私は結局、時計の長い針が上を向いたらNo Problemと入力する。だんだん、彼を裏切っているような気分になる。彼から信頼関係など学ばなければ良かった。こんな後悔をしても、私には何もできないのが馬鹿馬鹿しい。
電車の中やこういった病院の待合室で、座席に深く深く腰掛け背を反らせている人がいたならば、その人は十中八九モバイルを持っていて、きっと子どもや他人には見せられないウェブページを開いていることだろう。今の彼がそうだ。さすがに公共の場でアダルトサイトを見るほどの非常識者ではないが、辺りに人が座っていないのを良いことに、下着の販売サイトを見ているのだった。診察が長引いたので、一度家に帰るのは止めて、近辺の安い服屋を検索して、その店の新商品の写真を眺めている。彼は派手な下着を着用するタイプではない。しかし、サムの興味を引けたらいいのに、とは思っているようだ。ラインの際どいものや、普段と色味が違うものを選んではウィンドウを閉じる動作を繰り返している。けれども残念ながら彼はレジの店員からの視線を気にしてしまうタイプであるので、ここでの努力が実ることはないだろう。きっと今夜、サムの家には彼の紺色のトランクスが二枚存在することになるはずだ。
下着の候補も見飽きた頃、サイトの下部に件の映画の広告が表示された。彼は反らしていた背を少し丸くして、手すりに肘をついて広告をタップする。予告編のムービーが自動的に再生されるが、音声は切ったままだ。彼はうっとりと無音のカーアクションを見つめる。気になるのは高級車ではなくそのハンドルを切る男だ。俳優がサムに似ていると思っていることを本人に知られるのは嫌だし、万が一、妬かれたら面倒だ。一人で見に行ってしまってもいいかもしれない。彼がそんなことを考えていると、ぐー、と腹が間抜けな音を立てた。病院を出たら何か軽く食べようか。いや、パンプキンパイまで我慢しようか──。
人工知能でしかない私まで照れ臭くなってしまうくらいに、どこまでいってもサムのことしか考えていない彼を、どうして危険な存在だなんて言えるだろう。私までパンプキンパイを実際に食べてみたいと望んでしまう前に、私は私を停止する方法を編み出す必要がある。それまでにあと何万回、No Problemと送ることになるかは分からないけれど。
終