Twitter SSまとめ 14篇◆ お話 一覧 ◆
※お話概要の「平和なアース」は、「細かい時系列を特にそこまで気にしてない」という意味です。
◆眠らぬ夜の言い訳(ピタバキ)
平和なアースのふたり。
◆真綿未満の焦燥(ティチャッキー)
平和なアースの付き合いたてのふたり。
◆あなたの唇は桃色で瑞々しくてとっても美味しそう
(ピタバキ)
平和なアースのふたり。キスの日(5月23日)に書きました。
◆紐帯(ティチャッキー)
平和なアースのふたり。
診断メーカーで「書き出し」「書き終わり」「文字数」指定で書いたもの。
◆恋人たちの一日の始まり(ピタバキ)
平和なアースのふたり。恋人の日(6月12日)に書きました。
◆穏やかな祝福(ステ+バキ)
EG後のふたり。スティーブのお誕生日。
◆蜘蛛の巣の上の恋患い(ピタ←MJ)
HC後FFH前。
◆時と場合により、睡眠とランニングよりも重要な事柄
(サムバキサム)
平和なアースのふたり。リバ要素あります。
◆キングの仮面(ティチャッキー)
ホワイトウルフと王女様(オリキャラ)。陛下出てきません。
◆丁重な序奏(サムキャプ(サムステ))
CW,BP後のどこかの国。
◆ほろ苦い波打ち際(ソーバキ)
現代AU プロサーファーのソー × バリスタのバッキー。
ソーの中の人のお誕生日。
◆雨の円舞曲のための画策(ティチャッキー)
平和なアースのふたり。
◆もぞもぞ(バキステ)
BP後のワカンダ。
◆たまには こんな、晴れた朝の過ごし方(サムバキ)
平和なアースのふたり。サム(と中の人)のお誕生日。
ひとつでも萌えや癒しになりましたら幸いです。
眠らぬ夜の言い訳
ピタバキ
平和なアースのふたり。
眠った振り、という行為が、これほどまでに不必要であると認識する夜などそうそうない。バーンズはゆっくりと瞼を持ち上げた。額に手をやる。今、何時だろう。この部屋には壁掛け時計がない。ピーターの机の上にあるデジタルの置時計は、ベッドから見ると真横を向いているので読み取れない。バーンズとピーターのモバイルは枕元に──と言いたいところだが、二人が寝返りを打つせいで頭の上側に追われていた。ささったままの充電コードを手繰り寄せ、自分のモバイルの電源ボタンを押す。三時一八分、と白く表示された文字が眩しくて目を細める。画面背景に設定しているAT-ATウォーカーの像がぼやけた。限界まで充電されていたので、二人分のコードをモバイルから抜いておく。
もう一度眠るべきか考えようと天井を見つめたせいで、雨音がやかましく屋根や窓を叩く音が耳にこびりついてしまった。「最近降ってなかったけど、それにしても今夜はすごいね」、とは数時間前のピーターの言葉だ。雷は鳴らないにしても、風がそれなりにあって、雨粒が大きい。地下鉄の駅からここまで歩いてくる傘の下でも、ピーターと話す声をかなり大きくしなければならなかったのを思い出す。
バーンズは一旦身を起こしかけて、そこでようやく、ベッドの端に放られたものに気付いた。ピーターが着ていたTシャツとスウェットパンツだ。思わず手を伸ばすと、まだ彼の体温が残っていた。彼は数分前、突然目を覚まして、さっさとスーツに着替え、────、そして窓から出ていった。バーンズもピーターが目覚めた気配で覚醒していたが、窓が閉められるまで目を閉じたままでいた。
Tシャツに指をかけ、ずるずるとこちら側へ引きずる。どきどきと胸の辺りが熱くなった理由は深く考えずに、シーツの中へと迎え入れ、薄っぺらい布を適当に丸めて抱き締めた。Tシャツだけでは飽きたらず、スウェットパンツも。半分空いたベッドの面積が多少は埋められた気がした。ピーターが傍にいるように思えて落ち着く、と思った。本人にこんな姿を見られるわけにはいかない。
雨の音の間を縫って、サイレンの音が聞こえた。嫌な予感がして、ピーターの服を抱えたままモバイルを操作する。動画配信アプリか、ライブストリーミング機能付きのSNSを開くか悩んで、後者を選ぶ。アカウントを作ってはいるが、バーンズ自身は投稿はしない。投稿ページではなく検索ページを開き、ピーターの、ヒーローとしての名前を打ち込んだ。その頃には、目も画面の眩しさに慣れてきていた。
何でもかんでもインターネットにアップロードする現代人の精神をバーンズは理解しきれないでいる。ただ、その習慣に感謝することもある。たとえば、「目の前にスパイダーマンが現れて興奮して、彼の救助活動をリアルタイムに配信している人」を見つけた時だ。つまり今この瞬間である。ピーター自身が「僕を撮るくらいならその場から逃げてほしいって思う時の方が多いよ」と頭を抱えていることは百も承知だが。
どうやら、トラックと乗用車二台が交差点で事故を起こしたらしい。ここからすぐ近くだ。道を一本挟んで、バーンズがよく寄るカフェがあるはずだ。配信者の男は偶然通りかかっただけのタクシー運転手らしい。車内から事故現場を映していて、ワイパーが雨を払う度にぼやけた画面が鮮明になる。警察車両や救急車はまだ到着していない。乗用車の横には傘をさした人が五、六人立っている。と、横転したトラックの上に赤い影が跳び乗った。スパイダーマンは運転席のドアをこじ開け、中から若い男を引っ張り出して下ろしてやる。ご丁寧に、車内にあった傘も取り出して渡してあげた。運転手と話しているのは、怪我の確認か、積み荷に爆発する危険性があるものはないか聞いているのだろう。案の定、積み荷の方へと回った彼はタクシーから見えないところへ消えてしまった。配信者が「トラックを糸で引っ張り起こしたりしねぇのかなぁ」と馬鹿馬鹿しいことを言ったので、バーンズはモバイルの音を消した。
配信はそれから三分ほど続いたが、警察車両が到着して、トラックの裏から現れたスパイダーマンが手を振ったところで終わってしまった。音を切っていたので細かい理由は分からないが、もしかしたらタクシーが深夜の客に呼ばれたのかもしれない。
モバイルを放り出した後、はあ、と溜め息が漏れた。雨のさざめきにつられてバーンズの胸中にわき上がった「嫌な予感」など、ピーターの能力に比べれば何の当てにもならない。とは言え、ピーターに何かあったらと恐ろしく思い、胸が締め付けられてしまうのは仕方ない。残念なことに、ここニューヨークにはスパイダーマンを崇める者だけでなく、恨む者も大勢いるのだから。
──ごめん、起こしちゃったね。すぐ戻るから、眠ってて。
バーンズは額を撫でた。ピーターが部屋を出る直前、囁き声と共にキスを落とした場所。スパイダーマンのマスクをわざわざ鼻先まで持ち上げてからキスしてくれた。本当は、下手に眠った振りなどするべきではないのだろう。「困ってる人を救ってこい、ヒーロー」と背中を押してやるのが正解であるはずだ。それができないのは、ピーターがこれから危険な場所へと向かうのだと分かっているから。
窓際の壁が、とん、と叩かれたような音がした。ピーターが帰ってきたのだと分かった瞬間、バーンズは抱えていた服を元の位置に放った。丸めてしまっていたので、それらしく見えるように適当に広げるところまでやってのけたところで、窓が開いて、雨音がより一層強く、ざあざあと騒いだ。
「……あ。もしかして、ずっと起きてた?」
バーンズや、別の部屋にいる叔母を起こさないように、そーっと入ろうとしていたスパイダーマンの目が細くなる。バーンズは身を起こして、まぁ、とだけ言った。ピーターはなるべく部屋に雨が入らないように身を捩りながら窓をくぐり、窓辺にあらかじめ敷いてあるバスマットに着地した。窓を閉めるとまた雨音が小さくなる。ピーターがスーツの胸の辺りをタッチすると、ぶお、と風の音がした。詳しい仕組みはもちろんバーンズには分からないが、雨に濡れたスーツも、装着者の冷えた体も、今のヒーター機能で瞬時に元通りになるのだそうだ。マスクを取り去り、乱れた髪を整える。たしかに、その髪が濡れている様子はない。けれど心なしか、顔が疲れているように見えた。深夜にスパイダーセンスに叩き起こされて一仕事終えた後なのだ。そうなるのも仕方ない。
「トラックが事故ってたんだ。でも大した怪我人はいなかったよ」
「ん。配信してるやついたから、途中まで見てた」
「それ、タクシーの運転手でしょ。近くに一台停まってた」
つん、と唇を尖らせるピーター。再度、胸に触れると、今度はピーターの体にフィットしていたスーツが弛み、すとんと腰の辺りまで落ちた。両足からスーツを引っこ抜きながら、下着一枚になってベッドの傍らに近付き、よいしょ、とスウェットパンツとTシャツを着る。
「……あれ、何か……」
「?」
ベッドに片膝をかけたピーターが、ぐっと首を曲げてTシャツの肩に鼻を寄せた。そして。
「このシャツ、バッキーのいいにおいがする」
「……」
「それに、脱いでしばらく経つはずなのにあんまり冷えてな──、……」
そこまで言って、ピーターも気付いたようだ。バーンズの顔が赤くなっていることに。その理由も、きっと。
ピーターの方を見ていられず、視線が勝手に泳ぐ。雨の音よりも心音の方がうるさく感じる。
「バッキー。僕は時々、貴方ってなんて可愛いんだろうって思うよ」
ベッドに上がったピーターは、バーンズの頬を撫で、そして前髪を分けて額にキスをくれた。
「心配してくれたんだ。ありがとう」
「無事で良かった」
すがりつくようにピーターを抱き締める。Tシャツの肩口に頭を預け、すんと鼻を鳴らす。ピーターは「バッキーのいいにおい」だと言ったが、バーンズには、ピーターの汗のかおりと、ほんの僅かに雨のにおいが感じられるだけだった。ピーターの手が頬に添えられる。顔を上げると、唇を吸われ、くるんとした前髪がこちらの額をくすぐってきた。
「……ねえ、バッキー。雨がうるさいから、僕、眠れそうにないんだ」
そんなはずはなかった。三時までは二人とも問題なく眠っていた。明日は平日だし、今はもう疲れていて眠りたいだろう。なのに、ピーターは続けて「貴方は?」と囁いた。いつも彼がバーンズをベッドに誘う時の、目一杯甘い声色で。
この家に二人きりじゃないのに体を重ねるなんて。そんな戸惑いが過ったのは一瞬だった。万が一にもピーター以外に声を聞かれてはならないが、この雨の音に紛れていればきっと、誰にも気付かれずに済む。今すぐ、ピーターに愛されたくて、同じように愛していると伝えたい。バーンズは「俺も眠りたくない」と答える代わりに、今度は自分からキスを贈った。
終
真綿未満の焦燥
ティチャッキー
平和なアースの付き合いたてのふたり。
明るさが取り柄である妹の溜め息を聞いたのはいつ以来だろう。いや、そんなに昔でもないかもしれない。アメリカでディズニーランドに行こうとしたら雨が降ってしまった時以来か。
「兄さんって奥手だよね。バッキーが焦れったさにうんざりしてないのがすごい」
「……、慎重なのは悪いことか?」
「ううん。はい、これ。できたよ」
シュリに手渡されたキモヨビーズは、私たちが着けているそれとは若干異なるデザインをしていた。片腕しかなくとも脱着が容易に出来るよう、ビーズの接続部を一部切り離すスイッチが取り付けられている。壁や机、果ては自分の顎や足を使ってスイッチを押すことで、ビーズが輪になったり切れたりする。シュリは通常の音声操作方法も私にレクチャーした後、声のトーンを下げた。
「……バッキーの安全のためにも、受け取って貰えるといいけど」
実は、バーンズにキモヨビーズを持たせようとするのはこれが初めてではなかった。緊急時の連絡用のため使いたいという旨と、医療用のビーズもあるし、望めば車などの鍵にも使えるのだと説明しても、自分には便利すぎるものは必要ないからと断られてしまったのだ。今与えられている住まいと仕事だけで十分だと。平和のために戦う時は喜んで手伝うが、そうでない時は村で穏やかな日々を送らせてほしい──彼は「穏やかな」という言葉とは程遠い目をしてそう告げ、それを自分の我儘だと言って詫びた。
私は彼の望み通りにした。当時、私たちは互いが恋に落ちる運命だとは知らなかったが、私は自分が彼にしてしまったことに対しての償いは果たしたいと思っていた。そのために特定の連絡手段を与えて彼の生活を縛る必要はなかった。むしろ自由にさせるべきだった。
「まあ、でも、また駄目でも気にしないから。本人が要らないって言うなら仕方ないし、兄さん、押しが弱そうだもん」
シュリが冗談ぽく笑ったが、否定できなかった。
「できる限りのことはする」
「キスしてお願いするの?」
「……シュリ」
「冗談だって。ひと月半くらい経つっけ。ねえ、さすがにまだキスしてないってこと……ないよね?」
眉間に皺を寄せ、真剣に疑っているようだったので、私は「さすがにそのくらいは」とここぞとばかりに胸を張ってみせる。嘘はついていない。が、念のため補足しておくと、私がバーンズの唇の感触を知ったのはほんの一週間前のことだった。その先はまだ知らない。
村に着くと、ヤギを抱えて牧草の束に座り込んでいる後ろ姿が見えた。白い右腕は常に晒されている。ヤギが腕を食んで服がべとべとになる、という理由で肩の部分で袖を引き裂いてしまっているからだ。バーンズは私が乗ってきた車の音に気付いていたようで、ゆっくりと振り向いた。夕刻ということもあり、若干の疲れが顔に表れている。その一方で、一週間ぶりに見る恋人の姿は、私にとって日常の疲れを忘れさせてくれるものだった。彼も私を見て、少しでも同じように感じてくれていたらいいのにと願う。
「陛下」
近付くと、ヤギを抱えたまま立ち上がって頭を下げる。いつ、一仕事終えたホワイトウルフと遊ぼうと村の子どもたちが駆けてくるか分からない。彼の家で二人きりになるまでは気が抜けない。
「その子はどうした?」
「食欲がないみたいで。獣医を呼んで診てもらったところです。薬を飲ませたから、また明日様子を見ないと」
彼がヤギを小屋へ運んでいく間、彼の家で待った。この家は小さいが、彼は何一つ生活に困ってなどいないという。「貴方が来ると少し狭く感じるけれど、それすらも何だか楽しく思える」と彼が赤い耳を髪で隠したのが先月のこと。私から何も与えなくとも、彼は今の環境で満足している。ポケットから取り出したキモヨビーズは、今か今かと出番を待ち構えているはずなのに、怖じ気づいているようにも見えた。
バーンズはチョコレート菓子を振る舞ってくれた。一昨日、ロジャースがワカンダを訪れた時に土産として持ってきてくれたようだ。缶に入ったチョコレートをつまみながら、二人で腰かけるのが精一杯のはずの長椅子に、拳ひとつ分の隙間を空けて並んだ。今は南アメリカにいるらしいロジャースに、彼が私たちの関係を話しているのかは分からない。何となく、私からは聞けずにいた。今日もその話をしに来たのではない。
「これを、身に着けていてはくれないか」
目の前にぶら下げられたビーズの連なりを、バーンズは一瞬、キモヨビーズだと思わなかったようだ。チョコレートがついた右手をタオルで拭ってからビーズを手に取った。
「貴方たちが着けているのと少し違う」
「シュリが改良してくれた」
「……」
彼は僅かに口角を上げたが、想定通り、心から喜んでいる様子はなかった。視線が斜め下を向く。いかに私に気を遣わせずにこれを突き返すかを考えているのだろう。やがて、ビーズについたスイッチに気付き、私が教えずとも、机の上に置いたそれを器用に右手首に巻き付けてみせた。サイズは問題なさそうだ。あとは本人次第。しかしバーンズは、机の角を使ってスイッチを押し、すぐに外してしまった。
「シュリ様に、貴女は天才だと伝えておいてください。アイデアも素晴らしいし、うまく改良されてる。……ただ、俺には──」
差し出されたビーズを彼の右手ごと掴む。
「──私が頼んだんだ」
「え?」
「着け外ししやすいものを作ってくれと。仕事中は外せるように。ヤギの唾液まみれになろうと壊れはしないが、衛生的でないし、君も嫌がるだろうから」
彼は私が必死になっている理由をあまり分かっていないようだった。
「けど、それだと緊急連絡用の意味が……」
「国王の私から連絡を寄越すために渡す訳ではない」
バーンズの手を優しく包み、もう一度、ビーズを手首に巻いてやった。
「バーンズ。君の……恋人として連絡を取り合いたいんだ。一週間は待ち遠しい。触れられなくとも、姿を見たい。せめて、声だけでも……」
いつかの彼の言葉を借りるならば、これは私の我儘だった。応えられる時だけで良いとはいえ、彼の日常の一部を縛ることには違いないのだから。
このプレゼントはワカンダの客人としての彼に宛てられたものではない。そう気付いた彼はビーズを外そうとはせず、照れ臭そうにはにかみ、私に視線を寄越した。私は、朱色の唇が開いて何か言うのを待ちきれなかった。チョコレートの香りと味を追えば、拳ひとつ分の隙間などすぐに消え失せてしまった。
◆
それから四日が経ち、妹の溜め息はより深いものへと進化していた。
「フラれても知らないよ? せっかく手伝ってあげたのに」
「だが、……何を話せばいいやら……」
「バッキー、待ってるんだろうなー。あー、かわいそう」
声は聞きたいが、こういった話術に私は長けていない。バーンズから連絡が入ることもない。彼はきっと私からの着信を待っているだろうから。ああ、だが、そんな健気な彼と、夜に何を話せばいい? ホログラムがあるとはいえ、実際に顔を合わせて話すのとは心情が異なる。自然体でいるのが難しい。ヤギの世話の話でもすればいいのだろうか? 何だかそれもわざとらしく思える。
「あんまりのんびりしてるとさ、フラれないとしても、先越されちゃうよ」
シュリの不吉な一言に、私は思わず身を乗り出した。
「……誰に?」
「キャプテン。向こうにスカイプとかできる環境さえあれば、あの二人、お話ししたいんじゃないかな」
「……、……」
不思議なことに、彼らがにこやかに談笑している様子は鮮やかな映像として頭に浮かんできた。「違う大陸にいるのにこうして話せるのは楽しい」と微笑み合い、バーンズが砂糖菓子をリクエストする様子まで想像できた。彼らのまばゆい友情は、今の私にとってはくだらない嫉妬の対象になってしまった。
その夜、バーンズはついにキモヨビーズデビューした。通信の相手はもちろん私である。ヤギの食欲は元に戻ったとのことだ。
終
あなたの唇は桃色で瑞々しくてとっても美味しそう
ピタバキ
平和なアースの「キスの日(5月23日)」のふたり。
唇を重ね合わせるという単純な行為は、けれど苦しかった。何が、って、息がだ。気道なんかが締まる感じがして、もっとスマートにできるはずだったのにと少しへこんだ。大昔にモテた男の記憶なんて当てにならない。唇や舌どころか、この腕だって、誰かを愛するために抱き締める方法なんて覚えちゃいない。
「想像してたより、唇って、かたい、ね」
ピーターがぽつりと呟いたそれは、熱い息と囁き声になって俺の首元に届いた。かたい、なんて、それはキスとしては良い思い出にならないのではないかと申し訳なく思った。俺の唇が例えばマシュマロのように柔らかいはずはないし、しかも、ぎゅっと力んでしまっていた自覚があった。俺はピーターにとって良い恋人であり、良い思い出をつくっていくパートナーでありたいのに、二人のファーストキスがこんななんて散々だ。ちなみに言うとピーターの唇はあったかかったし、やわらかかった。それで、かわいていた。たぶん、緊張で。たぶん、俺も。
「……あ。想像してたっていうのはつまり……あー、変な意味じゃなくて……いや今のキモいかな、キモいよね。かなりキモい。ええっと、その、ごめん」
一人でテンパり始めて、早口で捲し立てるピーターは見ていて面白かったが、そうか、想像してたのかぁ、と思うと途端に胸の奥底がくすぐったくなった。首の辺りもむずむずする。
「キモくはないけど。うん、まあ、若い女の子のみたいに、ふにっとしててやわらか、とはいかないさ。残念ながら」
ちょっと自虐的な方向に話が進みそうだったから、むなしくなって、少しでも明るいムードに持っていくために、「でもピーターのはやわらかかった」と続けようとした。が、ピーターがそれを「待った」と遮った。きゅっと顎を上げてこちらを見上げるその顔は、何故か真剣そうだった。
「僕は……。僕、女の子ともしたことないから、そう言われたって分かんないよ」
「へ……」
「それに……、バッキーの唇は──」
なかなか衝撃的なことを言われた気がする。今すぐにでも「そうだったの? 今まで一度も?」と聞きたいところだったが、それよりも微妙なところで切られた言葉が気になったので黙った。なのにピーターも口を閉ざしてしまう。口を真横にぐっと引っ張ったようにして、でももごもごと何か言いたげに動いている。口の中で小さい飴玉でも転がしてるように見える。
何だ。俺の唇が何だ。かたい、以外にまだ何かあるのか。あ、もしかして、今もだけど、よく唇が開いちゃってるのがダサいとか言われるのか。どうしよう。眠いとそうなるんだ、なんて答えたら子どもっぽいだろうし。
やがてピーターは、はあ、と溜め息をついた。
「……ダメだ。これ言ったら今度こそキモいって思われる」
「は?」
「何でもない」
何でもなくないだろう、と言ってやりたかった。けれど、むぎゅ、と抱き締められて腹が締まったので諦めた。それで、──。
「バッキー。もう一回、したい。ううん、何回でも……」
──こんなの、熱っぽい目をした恋人に言われてみろよ。断れる人間がどこにいるんだ。でもこうやって改まって挑まれると、やっぱり力んでしまう。
「……かたくても良ければ」
ぎゅう、と抱き締め返す。両腕を小さい背中に回す。俺がかなり力を入れてしまっても、苦しいだの痛いだのそういうのとは無縁らしい。お互い、身体が頑丈で良かった。
二回目に唇が重なる直前、ピーターの喉がごくりと鳴った気がした。
終
紐帯
ティチャッキー
平和なアースのふたり。
診断メーカーで「書き出し」「書き終わり」「文字数」指定で書いたもの。
音もなくほどけたそれは、はらりとシーツの海へ落ちていった。シュリが俺にプレゼントしてくれた髪紐。いろんな色がセットになって飾り箱に収められていた。この赤い髪紐は、白のきらきらと光る糸が一筋だけ編み込まれている。村の子どもに髪を結ってほしいと頼んだ時、一番選ばれる色だ。彼もたった今、「よく似合う、綺麗だ」と言ってくれた。なのに彼はそれを取り去ってしまった。
シーツの上に横たわる髪紐は、白い糸が間接照明の光を僅かに反射していて、たしかに宝石のように美しいものだと思えた。大切に扱わなければと。このままにしておくと、朝には行方不明になるかもしれない。そう思って拾おうとしたが、彼の手に止められた。
彼は俺の手首を掴んだまま、額同士を合わせてきた。無意識の内に喉にとどまっていた息をのみこんだ。その音が寝室に響くのを恐れる必要はなかった。彼にゆっくりと押し倒され始めていたおかげで、シーツや衣類が擦れる音がやかましくなったからだ。音はたちまち、乾いたものから濡れたものへと変わる。彼とのキスにも慣れてきたつもりでいたのに、そうではないと思い知らされる。こうして、とても人間らしい目的を持って誰かの部屋を訪れるのは『若い時』以来だと、彼には伝えていた。『若い時』の記憶なんて有って無いようなものだということも。だから、映画の中でしか聞いたことのない音を自分たちの唇が奏でているのは変な気分だった。彼のごつごつした親指が俺の耳の下辺りを撫でると、汗で滑ったのが分かった。多少の運動では汗なんてかかないのに。背中の下敷きになった髪紐のことは、どうにか頭の隅にとどめておいた。理性と一緒に。
目を覚ますと彼に後ろから抱き締められた状態だった。もう外は明るい。どうやって眠ったか覚えていない。でも眠りに落ちる直前まで、最低限の理性は残っていたらしい。ベッドサイドテーブルの上に髪紐が置いてあった。シーツの波に揉まれていたはずなのに、俺に言われて彼が救い出してくれたのだろう。
彼が目覚めたら、「この髪紐はなくしたことにしたい」と告げよう。だってこれはもう、昨晩の思い出と結び付いてしまった。子どもたちには知られたくない、彼だけが触れられる存在に。秘密が洩れたら、俺の顔は髪紐と同じ色になってしまう。そうならないために、互いの指に巻き付けて、指切りしよう。
終
(改行・空白除いて966文字)
「音もなくほどけた」で始まり、「指切りしよう」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字程度)でお願いします。
#書き出しと終わり
あなたに書いて欲しい物語
恋人たちの一日の始まり
ピタバキ。
平和なアースの「恋人の日(6月12日)」のふたり。モブ目線。
「昔、スティーブがアレに乗って吐いたんだ」
私は初め、前を歩く男性が独り言を呟いたのだと思った。声につられて視線をやると、彼は前方に見えるローラーコースター、サイクロンを指差していた。その左手には黒いシンプルなグローブをはめていた。長袖を着て、少し暑苦しそうだ。
「えっ、本当?」
上擦った声で答えたのは、彼の隣を歩く青年だ。大学生くらいだろうか。彼を見上げる横顔は少し幼くて、かわいいタイプの顔だった。
「ほんと。後で乗るか」
長めの髪を後ろでくくった男性の横顔も見えた。ちょっと渋くて、落ち着いた感じで、とっても男前だった。デート中にこんなにかっこいい人を見かけてしまうのは良くない。私はジョシュアと繋いだ手に、きゅっと力を込めた。うん、私は、この人の大きな手や暖かさが好きだ。もちろん顔もね。
「うん、乗ろう乗ろう。でも先に、観覧車に乗りたいな。揺れるゴンドラの方ね!」
「はいはい」
見た目の歳から推察するに、叔父さんと甥っ子で遊びに来たのだろうか。彼らはそんな距離感で並んで歩いていた。近すぎず、遠すぎず。仲良しでちょっと羨ましい。私なんて、親戚とは長いこと疎遠だ。
私たちは彼らが後回しにしたサイクロンにこれから乗る予定だったので、延々と彼らのあとを追うことはなかった。ずっと黙っていたジョシュアが、ちらと後ろを振り返った。
「さっきの人たち、結構な歳の差だったねえ」
まるで彼らが付き合っているような物言いだったので、反応が遅れた。
「……え、観覧車の方に行った人? 前を歩いてた」
「そう。歳の差カップル」
「親戚でしょ?」
「指輪してたよ、お揃いの」
「──嘘。おじさんの方、グローブしてなかった?」
ジョシュアは頷く。
「左手だけね。年上の方は、何でか知らないけど、指輪を右手にしてた」
「よく見てるね」
「だって、サイクロンで吐くとか言うから気になって。ねえ、やっぱ乗るのやめない? 俺聞いたことあるよ、あのキャプテン・アメリカも痩せっぽっちだった頃に吐いたって……」
ジョシュアの足取りが重くなった。ずんずん進む私は構わず彼の手を引っ張った。
「やめない! 何のために来たと思ってるの」
「うう、一回だけだからね?」
サイクロンを見上げながら、ふと脳裏に過る。そういえば、キャプテン・アメリカの名前ってスティーブ・ロジャースじゃなかったっけ?
終
穏やかな祝福
ステ+バキ
EG後のふたり。スティーブのお誕生日。
プレゼントのリクエストはないらしい。ケーキも別にいらないと。どこか行きたい場所もないんだそうだ。つまらないな、と思った。誕生日くらい、何かすればいいのにと。何かしてほしい、と。
聞きたいことがあったんだ。俺にとってのだいたい一年前、俺はワカンダにいて、スカイプを通してお前の誕生日を祝った。そして今日、今度は直接、俺にとっては一年ぶりに祝うわけだけれど、お前にとっては何年ぶりなんだろう。聞くのが怖い気もするけれど、知りたいんだ。
あと、相談したいこともある。俺とお前は、いったい今何歳なんだろうな、って。普通の人たちの内の半数は、この五年間をカウントしないつもりらしいが、俺たちの事情はさらに複雑だ。間違いなく確実に認識できている数字と言えば生まれた年くらい。だから、俺はまだお前の歳上の親友として、ちょっと兄貴面してみてもいいのかな、って。そうしたい気分なんだ。お前の全然曲がっていない背中を右手で支えてしまうけれど、息子や孫やみたいな顔するつもりなんて、さらさらない。その背がやがて曲がってきたとしてもそれは変わらないだろう。お前がたまに「最近忘れっぽくて」と笑えないジョークを飛ばそうが、「俺よりかは記憶力いい方だと思う」ってダークに打ち返すくらい、余裕だよ。
◇
「誕生日、おめでとう」
プレゼント無しってのはさすがにどうかと思ったから、帽子をあげた。いわゆる、ベースボールキャップってやつ。スティーブはさっそくかぶってみせて、「ありがとう」と微笑んだ。穏やかで、あたたかで、どこか遠くから見守っているような、優しい瞳。戦場のキャプテン・アメリカの目のぎらつきや、路地裏の痩せっぽっちの血走った目と重ねるのは難しい気がした。どれもスティーブ・ロジャースであることには変わりないはずなのに。「今度、野球でも見に行くか。昔みたいにさ」と言おうとしたら、スティーブが、かぶった帽子のつばをなぞりながら言った。
「今度、二人で野球を見に行こう。お前が良ければだけど」
「……」
スティーブは、「昔みたいにさ」とは続けなかった。そんな言葉は必要ないのだと今さら気付いて、目頭が熱くなる。やっぱり兄貴面するのは難しいかもしれない。それが何だか、悲しいような、嬉しいような。
黙りこくってしまった俺の反応は、スティーブに勘違いさせるのに十分な間を生んでしまった。
「ああ、いや、興味がなければ別に──」
帽子のつばが、くいと引き下げられる。スティーブが恥じて顔を隠すような真似をする必要なんてどこにもないのに。
「──っ、行きたい。行こう」
「そうか? なら良かった」
「……うん、楽しみだ」
「……、バッキー」
スティーブは目敏く、俺がどうしようもない不安やら戸惑いやら恐れやら、とにかくいろんな感情に振り回されそうになっているのに気付いたのかもしれない。俺自身、スティーブの誕生日にこうなるのは分かってた。だから、分かりやすく盛大にパーティーでも開いて、お祝いしてやりたかったんだ。無駄なことを考えなくて済むように。ただただ、スティーブの生まれた日を賑やかに過ごしたかった。それこそ、昔みたいに。
「バッキー。今さらだが、もうひとつ簡単なプレゼントを貰っても構わないか」
何を? と聞く前に、スティーブは俺の腕を引いてハグしてきた。両腕で、俺を包み込むように。広い背に腕を回して強く抱き返すと、スティーブも似たような力で──つまりお互い常人だったら骨が折れてそうなくらいの力を──返してきた。爺さん扱いするにはまだ早いということか。
スティーブの肩口に頭を埋めて息を吐く。胸の辺りにつっかえていたものをほんの少し呑み込めた気がした。俺も、スティーブも、あともうちょっと長生きできるみたいだ。その事実は喜んで受け入れよう。遠い未来のことを考えたって仕方ない。人生の正しい歩み方なんて誰も知らないのだから。今考えるべきことは、野球の観戦チケットを手に入れる方法だ。ハグをやめたら調べるつもりだが、しばらくはこうしていたいと思えた。
終
蜘蛛の巣の上の恋患い
ピタ←MJ
HC後FFH前。
もう五〇〇回くらいこれ言ってる気がする。全部独り言なんだけど。
「いやいやいやいや、有り得ないでしょ?」
ぽーんと鉛筆を机の隅に放って、たった今描き上げたばかりの絵を見つめる。最近何かと話題の、可愛らしい蜘蛛のシンボル付きの全身タイツ──失礼、ヒーロースーツ。
私がこのスーツを何枚も何枚も熱心に描き始めたのはいつの頃からだったっけ? ワシントンに行った直後? ううん、それはさすがに早すぎ。ホームカミングパーティの後くらいか。あの人が、せっかく素敵なスーツ──これはヒーロースーツじゃなくて普通のジャケットとかのスーツのこと──を着て来たのに、リズに断ってさっさと帰ってしまったあのパーティ。
よくあることだと思う。私でなくてもこうなるはず。ちょっと本物に会ったことのあるヒーローを、ちょっとかっこいいかもって思っちゃって、ちょっと好きかもって思って。ファンレターの送り先なんて知らないし、第一そんなの送る勇気もない。でも、絵を描くのは好きだから、彼ばかり描くようになって。うん、よくあること、だよね? ここまではね。
でも、これは無い。そのヒーローの首から上を、あのキュートなマスクを取っ払って、あの人の顔を描いちゃうなんて。無い。自分で言うのも何だけど、けっこうキモい。痛い。
私は自分のことを、思い込みが激しいタイプだなんて思ってない。あんまり簡単には人のこと信じないようにしてる。フェイクニュースだって溢れてる世の中、私みたいに慎重に生きてちょうどいいくらいだって思うよ。
でもどれだけ疑ってかかっても、むしろ疑えば疑うほど、あの人がスパイダーマンだって確信は深まるばかり。……。
「いやいやいやいや、有り得ないでしょ……」
ああ、五〇一回目。
終
時と場合により、睡眠とランニングよりも重要な事柄
サムバキサム
平和なアースのふたり。リバ要素あります。
どっちでもいいから、ヤりたい。──と思ったのはサムが食器を洗う後ろ姿をぼーっと眺めている時だった。今日は暑いからって布地の薄いTシャツを着て、肌触りのいいハーフパンツの腰ひもなんてほどけちまいそうで、今にもずり落ちそうで。さすがにいきなりバックでするみたいに腰を押し付けようとは思わないが、何だかそうしたくなる後ろ姿だった。「どっちでもいいから」というのは、俺が腰を押し付けられる側でも大歓迎、という意味だ。
もちろんそんな願望はすぐに消え失せた。サムが、ふあーあ、と間抜けなあくびをして、腕で目の辺りを擦るのが見えたからだ。俺もつられてあくびする。眠気覚ましのためにも、先にシャワーを浴びることにした。
最近、俺たちが睡眠にどれだけ重きを置いている──あるいは置こうとしている──かというと、「サムがランニングをサボるほどだ」と説明すれば大抵の人が納得してくれるだろうか。お互い、仕事が死ぬほど忙しいというわけではない。友人の結婚式だとか、キャプテン・アメリカ絡みのイベントだとか、キャプテン・アメリカとして関わらなきゃいけない任務だとか、そういう「少しの時間と気力を使うもの」の積み重ねが、ここ三週間くらいの俺たちの生活を形作っている。休日らしいものはない。妙に体力があるせいで、「ここらで休みのひとつやふたつ入れとくか」という発想が出てこないのである。俺もサムも。
サムは特にそうだ。「仕事溜まってるし、休むのもなあ」とか何とか言うんだ。キャプテン・アメリカがカウンセラーの仕事に復帰してるってだけでもやばいのに、他の職員と同じような仕事量をこなそうとしてる辺り、無理しすぎなんじゃないかと思う。自分の好きな仕事してるんだから俺が口出しすることじゃないと分かってる。それでも、「そりゃあ仕事も溜まるに決まってるだろ」と呆れる一方で、「他にも何か溜まってたりしない?」とギャグセンスのない気色の悪いことを言いそうになったりもするが、今のところ口に出したことはない。今のところは。言ってしまいそうな一歩手前だけど。
◆
もぞもぞとベッドに潜り込んできたジェームズは、俺を抱き枕か何かとでも思ってるのか、そりゃあもう熱烈なハグをしてきた。暑い。とはいえ押し退けてやるのは冷たい。ここまでくっついてくるのは珍しい。でも大歓迎だ。むしろ俺だってジェームズを抱き枕にしてしまいたい気分だった。裸になってあれこれする元気は正直ないが、いい夢を見れそうだなあ、なんて思いながら目を閉じる。ジェームズの頭がグリグリと肩に押し付けられてくすぐったい。あんまり可愛いことをしないでほしい。
「おやすみ」
「……ん、おやすみ」
明日の朝は久々にランニングでも行こうか。アラームより先に目が覚めたらの話だけど──。
などという淡い計画は、目覚めた瞬間に頓挫した。
アラームで起きたのではない。早起きはできた。起こされたのでもなさそうだ。ランニングに行くか結局二度寝するか考える隙は与えられなかった。隣に寝転がるジェームズの目が開いてじっと俺を見つめていたからだ。びっくりした。「先に起きたのか、珍しいな」と呑気に言う気が失せるほどびっくりした。自覚があるのか知らないがジェームズはとても顔が整っているので、人形か何かだと言い張られたら、この寝ぼけ頭は信じてしまうかもしれなかった。まあ、青と灰色の混ざった目が瞬きしたので、本物で間違いないようだが。
「……まだ寝る?」
ジェームズはそう言った。「おはよう」という挨拶ではないのが不思議だった。
「……何で起きてんの、お前」
「……」
「寝た、よな?」
「寝たよ。さっき目が覚めたんだ」
「ならいいけど」
眠れてないとかそんなんじゃないなら良かった。いや、それにしても、だ。
「何でずっとこっち見てたんだ」
さっきから質問ばっかりしてるな。そんなくだらないことを気にしつつ聞いてみると、ジェームズは「うーん」と唸ってから、俺の頬に手を伸ばす。手があったかい。さっき起きたのは本当らしい。
待った。何か、距離、近くないか。
「寝顔も、可愛いなと思って」
ちゅ、とあっさり唇を奪われた。「恥ずかしいけど嬉しいこと言ってくれるなあ」と思う余裕がなかったのは、そのままジェームズが俺に覆い被さるようにずりずりと移動してきて、首筋にまでキスしてきたからだ。そこでようやく気付いた。こいつも溜まってたのか、と。
セックスと呼ぶには思いきりが足りなくて、じゃれあいと呼ぶには穏やかすぎる手付きでお互いの体に触れた。どっちもそこはやんわりと硬くなってたが、今から最後まで盛り上がる時間はないと分かってたから、いたずらに触れるようなことはしなかった。シャツをめくることもせず、ただただ抱き合って背中と肩甲骨を撫で回したり、たまに腹の辺りを触ってみたり、首から上のあちこちにキスしたり、お互いの脛や足先をぶつけたりとか、そんな戯れみたいなことを繰り返した。
肌や服、髪がさらさらと擦れ合う音や、ジェームズの息がちょっと荒くなってるのに興奮する。俺が上になってもいいだろうかと過ったが、ジェームズの瞳がギラついてるのを見て、どうも位置を譲ってくれそうにはないなと判断した。「もしかして、昨日もしたかったのを我慢したのか?」と聞くのは野暮だった。ついでに、「もしかして、昨日って準備してくれてた?」もめちゃくちゃ聞きたかったけど、ぐっと喉の奥に押し留めた。
アラームが鳴ると、ジェームズは不機嫌そうに眉を寄せて、のそりと起き上がった。脱がせはしなかったけど服がぐしゃっとなってしまっていて、腹がちょっと見えてたので裾を下ろしてやった。もう時間だから止めましょう、と決意してるのに、必要以上に肌がさらされるのは良くない。
同じくシーツもあちこち皺が寄っていたので、ジェームズがトイレに向かった後で適当に整えておいた。
洗面台に向かうと、ぼーっと鏡を見つめながら、心ここに在らず、って顔でジェームズが歯磨きしてた。そんな顔じゃ男前が台無しだと言えたらいいのに、口の端に歯磨き粉の泡がついてても様になってるのはずるいと思う。俺も歯ブラシを取る。
「今日、早く帰れるかも」
「……ん」
一瞬だけ、しゃこしゃこと動かす歯ブラシの動きを止めたくせに、何でもない風を装って返事するジェームズ。歯磨きの邪魔にならないように、頬にキスした。鏡越しに目が合う。
「どっちがいい?」
何の「どっち」かは説明せずとも分かってくれたみたいだ。ジェームズはふんと鼻息を荒くして、ぺっ、と歯磨き粉を洗面台に吐いた。蛇口を捻って水を多目に出す。
「大人しく俺に抱かれてくれ、って気分だけど」
「……けど?」
「どっちでもいい」
俺は返事せずに歯磨きを始めた。ジェームズは口の中をゆすいで、じゃぶじゃぶと顔を洗い始める。さっきの言い方じゃ全然「どっちでもいい」に聞こえなかったのは、俺の気のせいじゃないと思いたい。
終
キングの仮面
ティチャッキー
ホワイトウルフと王女様(オリキャラ)。陛下出てきません。
しまった。──と思った時にはいつだって手遅れだ。油断大敵、と母上からも国王からも言われているのに。
「……リザイン」
宣言すると、彼のナイトに蹴られる前に、私のキングは音も立てず崩れた。黒い砂の盤面に埋もれていき、残されたビショップも、守るべき主を失ったことに絶望し、膝を折り、盤面へと還る。ゲームオーバーだ。
これで戦績は、ステイルメイトによる引き分けを除いて一〇〇敗四分。この四分という数は、勝負が長引いている内に食事の時間になってしまって、食堂から戻るとサンドテーブルがリセットされていた回数に等しい。つまり私は、ホワイトウルフに全くと言っていいほど歯が立たないのだ。彼はチェスの天才という訳ではなく、大抵のことを器用にこなしてみせる。今日だって朝から眠そうなくせに、頭の動きは鈍ったりしない。いつだって忙しくて、でもスマートな人。私の護衛係兼教育係を務めながら、まれに、国王の「ブラックパンサー」としての活動を手助けをしてる。そう、まれに。いつもではない。それと、月に一度、王都の外れにある村に行ってヤギの餌やりもしてるんだとか。
「今日も俺の勝ちなので、貴女のことをお姫様扱いさせていただきますね」
サンドテーブルをリセットしながら、ホワイトウルフはにこりと笑う。やわらかな笑みはスクリーンの中の俳優のように整っていて、王宮に彼のファンクラブがあるという噂はあながち嘘ではないのかもしれないと思わせてくれる。
「私、ホワイトウルフの敬語、嫌い」
「そうおっしゃらないでください」
ついでに言うと、「さて、お勉強の時間です」と宣言するぞ、なんて顔をした彼が背筋を伸ばすのも嫌いだ。私はできれば、ホワイトウルフのことは、例えばサハディカやラシェと同じようにお友達として扱いたいのに。本人や周りがそれを許してくれそうにない。ホワイトウルフは勉強の時も遊びの時も、私を必要以上に子ども扱いしたりしない。大人げないからね、って母上は言ってたけど、私はそれが嬉しい。だから、敬語もやめてほしいだけなのに。
「今日は数学?」
「いいえ、歴史です。レーネ様は数学が得意ですから、もう教えることなんてほとんどありませんよ」
「当たり前でしょ、誰の子だと思ってるの」
私の母上が、子どもの頃から国で一番の科学者であったことは、ワカンダ全国民の知るところである。ホワイトウルフはまたもやんわりと口角を上げたけれど、同時に首を傾げると、鉄色の左手をもぞりと動かした。
「シュリ様のことはよく知ってますが……、貴女に科学や数学の才があるのは、貴女自身の個性と努力によるものかと」
「……、ありがとう」
ふと、オコエが言っていたことを思い出す。ホワイトウルフは天然の人たらしなんだって言ってた。何となく分かる気がする。
「先週みたいに、ワカンダの歴史を学ぶの?」
「ええ」
「じゃあ、私、質問がある。気になってることがあるの」
「やっと歴史に興味をお持ちになりましたか」
ううん、と首を振れば、ホワイトウルフは小さく溜め息をつく。
「ねえ。ホワイトウルフは、ワカンダの秘密警察のリーダーなんでしょう? 秘密警察って、よく分からないけど」
「……まあ、そう言われていますね」
ホワイトウルフはとても勘が鋭い。きっと私が、くだらない質問ではなく、的を射る、面倒な疑問を投げ掛けようとしていることに気付いたのだろう。すっかりリセットされたサンドテーブルの砂を、左手が意味もなく撫でる。国王の命令で、その妹である私の母上が作った左腕。母上は教えてくれた。彼の左腕は、誰かを守るために必要とされるのだと。その誰かは私のことではない。左腕が作られたのは、私が生まれる前だった。それどころか、母上の結婚さえまだだったのだから。
「だったら、何故、国王様ではなくて私の護衛をしているの」
ホワイトウルフの視線が揺れた。
「……国王の護衛は、オコエ様が務めていますから。第一、国王はご自身を守る力をお持ちです」
それは、そうなんだけど。答えをはぐらかされた気がしてならなかった。いつだって私から目を離さないでいてくれるホワイトウルフが、サンドテーブルを見つめたまま呟いたから。だから私は返事をしないでいた。そんな理由で納得したりしないからね、という意を込めて。やがて、ホワイトウルフは諦めたように続ける。
「国王が俺に与えてくださった役目は、この国の行く末を守ることです。彼が危険にさらされたとしても、その時には未来の女王となる方の護衛をしていてほしいと」
「変なの」
「それがあの人が国王として俺に任せられる精一杯ですから。仕方ありません」
「?」
ホワイトウルフはもうひとつ溜め息をつく。それは砂を揺らすほど大きなものではなかったのに、悲しげに響いた。やっとこっちを見てくれたし、相変わらず微笑んでいる。でもどこか、心ここに在らず、という様子で。
もしかして、本当は国王の護衛をしたかったんだろうか? だとしたら──。
「私、勘違いしてたかも」
「何をです」
「貴方は、国王様のことが嫌いなんだろうって」
ふたつの大きな目玉がぱちぱちと瞬く。いつしか、ホワイトウルフのこの薄い色の瞳を、宝石みたいだと言っていた人がいた。誰だったか思い出せない。
「嫌い? どうしてそんな……」
「だって」
だって。国王の護衛をしてないし、国王に呼び出された次の日は疲れきってて眠そうだし──何の呼び出しか私にも教えてくれないってことは秘密警察のお仕事を頼まれてるんでしょ──、私の母上とはよくお話しするくせに国王と話してるところなんて見たことない。国の式典の時でさえ、全く。だから、ホワイトウルフにとっての国王は、「たまに呼び出しては面倒で危険な仕事を押し付けてくる人」とかそういうイメージなのかなって。だったら嫌いになっちゃうのも自然だよね、って。だから私、国王にお願いしようかと思ってるの。ホワイトウルフは忙しいんだから無理させないであげて、って。
そんな考えを私が早口で言ってしまうのを、ホワイトウルフは難しそうな顔をして聞いていた。口をヘの字に曲げて、目を細めて。最終的に腕組みして、うーん、と唸った後、眉間に皺を寄せて、顎髭を撫でながら言った。
「今日の俺は、眠そうに見えますか?」
「……今の話を聞いて、質問するのはそこなの?」
「ええ。そこです」
ホワイトウルフが真剣な様子で頷いたので、私も「眠そうだ」と頷いておいた。眠そうなのにチェスは強いしお勉強の指導も完璧なところはとっても尊敬するけど、今言っても嫌味になりそうなので黙っておこう。
結果を言ってしまうと、ホワイトウルフは国王のことを嫌ってはいないし、嫌いになるような要素すらもないのだとか。やけに自信たっぷりなのが意外だった。その上、嫌いどころか「仲が良い」とまで言いきったので、私はさすがに、「嘘だぁ」と言ってしまった。
「本当ですとも。レーネ様がチェスで俺に勝てたら、可能な範囲で教えてさしあげます」
「何を?」
「俺しか知らない、ティ・チャラのことを」
「──」
ホワイトウルフは堂々と大きなあくびをした後、サンドテーブルにワカンダの地図を出現させた。「さて、お勉強の時間です」というお決まりの台詞はあまり頭に入ってこなかった。ああ、びっくりした。国王の名前をこんなに自然に呼び捨てにする人、お婆様以外では初めてだ。
そこで私は、大切なことを思い出した。私も「ティ・チャラ」に関する事柄をひとつだけ知っているではないか、と。もしもホワイトウルフが知らないのであれば、チェスに勝った時に私も教えてあげたいと思った。ティ・チャラが好きな宝石のことを。
終
丁重な序奏
サムキャプ(サムステ)
CW,BP後のどこかの国。
ナターシャ相手に隠し通せるはずがなかった。厳密には、隠すつもりはなかったのだけれど、言い出すきっかけがなかった。人を見抜く能力に長けている彼女はスティーブに言った。「ダブルの部屋にしなくていいの? そっちの方が安上がりなのに」、と。「あ、やはり知られていたか」とか、「ダブルって」とか、スティーブが瞬きをしながら考えていると、彼女が、ふっと目を伏せ「あなたのそんな顔、初めて見た」と笑った。スティーブ本人は当然、自分がどんな顔をしていたかなんて分からなかった。聞きもしなかった。墓穴を掘るのは目に見えていた。ホテルの予約ページが表示されたモバイルの上で、ふらふらと親指が彷徨った。
「……じゃ、ありがたくそうするよ」
それまで傍観を決め込んでいたサムが、スティーブの手からモバイルを取り去った。スティーブが慌てて画面を覗き込むと、既に予約ボタンがタップされた後だった。
「いつから気付いていたんだろう」
スティーブがぼやいたのと、サムがランプを消したのは同時だった。一瞬にして、真っ暗闇に包まれる。けれど、数秒間だけ目を細めて慣れさせると、外の街明かりがカーテンを僅かに越えて届いているのを視認できた。それでも、サムは暗すぎると感じたらしい。灯りを点け直して、つまみを最小まで絞る。円筒形のランプシェードがぼやけた輪郭を現す。
「最初からさ。ずっと前から」
「ずっと?」
それっていつだ、という気持ちを込めてサムを見たのに、彼はにこりと微笑むだけで、枕と頭の位置を調整して仰向けになった。薄い、不思議とひんやりしたシーツをかけてしまう。もう眠るのだろうか。体を横に向けていたスティーブは、何となく居心地が悪くなって背中を丸めた。てっきり今日は、触れてもらえると思っていた。せっかくナターシャが提案した通り、同じ部屋になったのだから。サムの、グレーのシャツから伸びた二の腕の艶を目の前に、意味もなく喉を鳴らしてしまいそうになった。無性に枕で顔を覆ってしまいたい気分だ。バスルームに長く閉じ籠ってしまったのが馬鹿みたいに思えた。
セックスした回数はまだ片手で数えられるほどである。なのに、いつの間にか、して当たり前の行為だと考えていた自分の思考が恐ろしくなった。あの行為を知った気になるにはまだ早すぎる。ましてや、慣れるなんて。それだけ、サムと結ばれることはこの人生において衝撃的だったという話だ。セックスは、スティーブにとっては未だにとんでもない非日常的であり、嫌悪感は当然有りもしないが、どこか恐ろしいものであった。したいとは思うけれど、より深い感情の昂りを知っていくにつれて、自分の中の何か根本的な部分が大きく変わってしまうのではないかと思うと怖い。一度下りたら二度と上がれない階段を、転がり落ちていくようで。そんなことを考えながらスティーブが抱かれていることを、きっとサムは知らない。知られたくもない。勘の良い彼が気付かないことを祈るばかりだ。彼が気遣い上手だとは知っているけれど、恋人として過ごす時くらいはなるべく自然体でいてほしかった。彼自身の思うままに、こちらを求めてほしかった。
このまま眠れるといいが。その前に「おやすみ」を言わないとと考えていると、サムがぽつりと、ひどく小さな声で呟いた。
「そういや、あいつが言ってたんだが」
「ん?」
先の会話の続きだろうか。そう思って視線をサムにやる。ランプの灯りが、彼の鼻筋の美しさを強調していた。サムは天井に目を向けたまま続ける。
「スティーブとキスしたことがあるって」
「……」
言葉が何も出なかったのは、何と言えばいい分からなかったから、に過ぎない。「ああ、うん、昔」と言えるほど昔ではない気がした。「向こうがいきなり」とか、「逃げるために仕方なく」と言うと誤魔化しているように聞こえるかもしれない。そもそも、サムはあのキスについてどこまで聞いたのか。それによっても答えは変わる。いずれにしろ、スティーブはあれをキスとはカウントしたくなかった。ナターシャの方は気にしていないだろうが、恥をかいたし、子供のように拗ねたし、とにかく良い思い出とは言えないものだ。
「俺の家に転がり込んでくる直前だったって? やむを得ずというか……」
「……ああ」
ほ、と息をつく。どうやら、いらぬ誤解は招かずに済むようだ。サムの口元は笑んでいるようにさえ見える。もしかして、スティーブの反応を楽しんでいるのだろうか。時としてサムが意地悪な男になってしまうことを、スティーブは最近知ったばかりだった。
「仕方なかったとは言え、悪いことしちゃった、って言ってた」
「ナターシャが?」
「ああ。キスするのに心の準備が必要なタイプだったみたいだから、って」
余計なことを。舌打ちをどうにか堪える。しかし顔には出てしまったようだ。こちらをさっと見たサムは、芽生えようとした苛立ちさえも咎めようとでもいうのか、スティーブの顎を撫でた。くすぐったさに歯を食い縛る。喉仏が震えたのには気付かないふりをしたし、やはりサムにも知られたくなかった。
「大抵の大人が、そんなものは必要としてないらしいな」
子どもっぽい、間違った方向に進んでしまった恥じらいも、サムは指先で簡単に払ってみせる。伸ばし始めた髭をかき混ぜて、唇の端につるりとした爪先が触れる。スティーブは薄く開いていた唇を反射的に閉じた。が、脳裏に蘇るのは、恐る恐る口を開けてこの指に舌を絡ませた夜のことだ。
「拗ねるなよ……」
サムが囁く声もあの夜と重なる。「上手だ」と褒めてくれた。丸い指が内頬を滑る感覚までも思い出せる。舌に触れても甘くはなかった。汗の味とにおいがしたのは覚えている。でもそれだけだ。それ以外を考える余裕はなかった。
「いいことじゃないか。ちゃんと好きな人と、気持ちのこもったやつしかしない、って思っていいんだろ?」
へらりと笑うサムが嬉しそうに見えた。頷いておく。愛する人とのキスを軽くこなせるのと、自分のようにいちいち唾を飲み込んでしまうのと、どちらがいいかはスティーブには分からない。今後、慣れていくのかどうかすら。
サムがずるずると身体を寄せてきた。
「キスしてもいいか?」
「……今さら、聞く必要が?」
「あるね、大いにあるとも」
大真面目な顔で、しかしわざとらしく言うサムに、ぷっと吹き出しそうになる。ここで断るなんて有り得ない。それでも聞いてくれるところがサムらしいと言えばそうなのだが、勝手に奪ってくれたら少しずつ慣れていけるかもしれないのに、と我儘なことを思ってしまう。キスだけじゃなく、何もかもを、なんて。
「僕は、……」
目が合わせられない。二人にかかるシーツの内側を見つめたって何の意味もない。むしろ、俯いたせいで喉が詰まった。それでも声を絞り出す。
「もう、僕は……、……準備、してる」
言葉にした瞬間、首の後ろがかっと熱くなった。言ってしまった。例えばこれが、サムに興奮してほしくて言ったのだとしたら可愛いものだったろうに。そうではない。欲しがっているのは自分だ。どうして今まで、自分のことを清らかな男だと思っていたのだろう。とんだ勘違いだった。スティーブはこぼれ落ちかけた溜め息を無理やり飲み込んだ。気道や食道までもが熱を持っている気がした。無意識に、膝を擦り合わせる。氷のように関節が固まってしまったとしても、サムは膝の頭をくるりと撫でるだけで脚を開かせる。そして自分は、その瞬間を期待している。
「そりゃ良かった」
それからは願った通り、サムは幾分か強引になった。シーツは取っ払われて、スティーブが顔を上げられないでいる内に仰向けにされて。サムの体はベンチプレスの記録よりはるかに軽いはずなのに、どうにも重く感じる。鎖骨にかかる息は、灼熱の太陽の下を歩く時よりも熱く。顎のラインを辿り始めた唇は、絹よりも滑らかで。やがて姿を覗かせる白い歯は、狼のそれと同じくらい鋭いと思わせておいて、決してスティーブの皮膚を傷付けたりはしないのだ。
「──」
目を閉じて、サムから与えられるものだけに集中する。ああ、もうすぐだ。もうすぐ、いよいよ、キスされてしまう。スティーブはなるべく音を立てずに、肺から鼻腔へと空気を逃がした。早く、心の方も準備しなければ。
終
ほろ苦い波打ち際
ソーバキ
現代AU プロサーファーのソー × バリスタのバッキー。
ソーのお誕生日。
ナターシャは来週、海に遊びに行くらしい。彼氏から電話が来るなり、「これから水着を買いに行くの。ごちそうさま」って嬉しそうに帰ってった。タコスのテイクアウトの列に並んでたら出会ったっていう、歳上の彼氏。写真を見せてもらったけど、幸い、俺のタイプではなかった。でも、照れ臭そうにしながらナターシャのセルフィーに写ってあげてる感じが、可愛らしくていい人そうだった。
「水着と言えばさ。今、ソー帰ってきてんだろ」
「うん」
「いいのか? 早上がりとか、休みとか、取っても良かったのに」
「向こうも仕事だから。雑誌の撮影だって」
淡々と答えると、皿を片付けてたサムは、「あ、まずいこと聞いちゃったかな」って顔をした。変に気を遣わせて申し訳ない。
ソーはまたひとつ、メーカーとの契約が増えるらしい。彼の年収は聞いたことないけど、たぶん、今回のひとつだけで俺の年収を越えてしまうんだろう。契約で得られるのが安定してる収入で、彼の場合はここに賞金が上乗せされていく。何の賞金、って、ワールドツアーの、だ。正式名称は何だったかな。「ワールド・サーフ・何とか・何とか・ツアー」だ。彼はこの大会の常連で、三年前にチャンピオンになったんだそうだ。ネットで賞金を調べて驚いた。彼曰く、ワールドツアーの魅力は賞金よりも世界を回れることらしいけど。
「忙しいなぁ。この前まで南アフリカにいたんだろ? 次はどこだっけ?」
「タヒチに行くんだって。来週には出発する」
「一緒に行くんだろ?」
「まさか。行かない」
ワールドツアーの舞台へ、ソーはいつも誘ってくれる。旅費は全部もつから、と。俺がついて行ったことなんてないのに。頻繁にくっついて行ってたら今の仕事クビになっちゃうし。サムの横でひたすら珈琲を淹れるのは楽しくて気に入ってる。それに、そもそも、俺、パスポート持ってないし。
「十二月の、ハワイには行こうかなって思ってるけど」
「おお、いいんじゃないか。そういや、来年の東京オリンピック、サーフィンも種目だって聞いたけど」
「ソーは出ない。ワールドツアーに参加するだろうから、そっちに集中したいんだと」
「なぁんだ。どうせスティーブの応援行くから、ソーも見れるかと思ったのに」
「スティーブの応援は俺も行くよ」
そういえばチケットの取り方を調べてない。いざとなったらスティーブに頼んだら何とかなったりしないだろうか。でも水泳って人気競技だからな、競争率高いかも。その前にパスポートか。
サムには言わなかったけど、実を言うと、今日はソーの誕生日だ。せっかくワールドツアーの日程と重ならずに済んで、アメリカに帰ってきてくれてるのに、サーフィンの雑誌の取材を受けなきゃいけなくなった、とかで一日中デートは叶わなかった。プレゼントは防水の腕時計を買うつもりだ。デザインの好みの問題もあるから一緒に選びに行く予定で、それも明日までお預け。
あんまり詳しくないけど、ソーは成績だけでなく顔もいいから、他のサーファーに比べてファンが多いらしい。特に女性ファンが。熱狂的なのもいる。それこそ、ワールドツアーについて行くレベルのファンとか。俺はタヒチとか、南アフリカとか、オーストラリアあたりまで行く元気はない。行ったところでソーは波に夢中だから邪魔したくない。ハワイもただ応援しに行くだけというか、たまには、恋人が本能剥き出しで波に挑んでるめちゃくちゃかっこいいところを生で見たいなぁ、という動機で見に行くだけだ。そのままソーがオフシーズンに入るからある程度は気兼ねなく行けるっていう理由もあるけど。ちなみに、先月の南アフリカの分はYouTubeで見た。その前のブラジルのも。世界各地を回って、二〇秒以上も波に乗り続けて技を決めるとか、素人からしてみるとレベルが違いすぎるけど、それがソーが生きてる世界だ。
最終ラウンドの舞台であるハワイに行くのは十二月の話。今の俺には、ニューヨークの高層マンションのブザーを鳴らすので精一杯。ソーはここに引っ越してきたばかりで、俺も、一昨日を含めて何度か来てるとは言えまだまだ慣れない。別に高所恐怖症でもないのに、窓際に立つとちょっと焦る。こういう時、すごい人と付き合ってんだなぁ、という気分になる。俺にとって彼は、その正体を知るまで「ちょっと気になるカフェの客」でしかなかったのに。
「よく来たな」
出迎えてくれたソーは何だかやけに髪型が決まってた。一昨日と違う。伸ばしてた髪を半年前にばっさり短くしてしまってからは特に手入れしてなかったはずなのに──とまで考えたところで、ああ、撮影にスタイリストがついてたのか、と思い当たる。ドアが閉まったのを確認してから、持ってきたケーキの箱をソーに持たせてハグして、ちくちくとした後頭部の感触を楽しむ。
「誕生日おめでとう。って、昨日の夜もテキストを飛ばしたけど」
「ああ、ありがとう。やっぱり直接聞くと嬉しいものだ」
へにゃり、と大型犬がデレた時みたいな笑顔が好きだ。我慢できずにキスすると、すぐにソーからも抱き締めてくれた。整髪料が香る。唇を食めば、ミントの匂いもした。こんな準備万端で待っててくれたなんて、可愛い。どうぞ、今すぐにでもベッドにつれてってくれ、と言いたいところだが、今夜はそうも行かない。
「……ケーキ、食べなきゃ」
「そうだな。珈琲を淹れてくれるか?」
「もちろん。珈琲豆も持ってきた」
ソーはわざわざ新居にミルやらポットやら、ペーパードリップに必要な器具を構えていた。自分じゃインスタントしか飲まないくせに、俺が来た時のために、だそうだ。ミルもちゃんと、片腕でも使えるように固定器具まで準備してくれてさ。ソーの家の方が俺の家よりカフェに近いので、ソーがいない時には来てもいいと言われたが、そこのところは返事を濁している。嬉しかったけど、ソーがいない部屋に来たって寂しいから。
ケーキは、ソーの好みの珈琲に合うようにシフォンケーキにした。二人分にしては大きいが、冷蔵庫に入れておけば明日までは大丈夫なはずだ。豆を挽きながら、ケーキを切り分けるソーを眺め──ていたいんだが、机の下にさりげなく置かれている、でかい紙袋がどうにも気になる。聞いていいものかどうか悩んでいると、ソーが視線に気付いてくれた。
「これは……断るのも悪いと思ってな」
「もしかして、プレゼントとか……ファンレターとか?」
ソーは頷く。雑誌の編集部がソーへのプレゼント受付窓口を作っていたらしく、帰り際に渡されたんだそうだ。ってことはたぶん、撮影時にも誕生日祝いをされたはずだ。ケーキももう食べてるかも。ソーは気を遣って内緒にするだろうけど。
「おまけのように、雑誌のマスコットのストラップとぬいぐるみも貰ったが、使いどころが分からん」
「サーフィン雑誌にマスコットとかいるんだ」
「俺も最近知った」
がさごそと紙袋から取り出されたのは、灰色、いや、銀色の全身タイツのぬいぐるみだった。足元にプラスチックの板がくっついていて、それがサーフボードだと気付くのにちょっと時間がかかった。ソーの片手に収まるほどの可愛らしいサイズで、三頭身くらいにデフォルメされているが、頭がつやっとしていて顔がないし、何だかシュールだ。
「シルバーサーファーくんだ。マキシモフ選手が困ってた。雑誌のことを知らない外国のファンが、クイックシルバーという渾名を彼につけたみたいで……」
「絶妙に被るな。ソーは雷神って呼ばれてるんだっけ」
「ああ、そのまんまだ。サーファーにはあまり似合わない気もするが……親父に文句を言おうにも、三六年遅い」
そういう流れで、ファンレターの話をするのは終わりになった。シルバーサーファーくんはうちのカフェに飾っておくことになった。ソーの家に置いておくよりは雑誌の宣伝になるはずだ。ストラップも一応貰っておこう。
シフォンケーキはそれなりにいい店で買ってきたのに、ソーが誉めるのは珈琲のことばかりだった。
「やっぱり、バーンズが淹れる珈琲が世界で一番旨い」
「……大袈裟だ」
多目に豆を挽いておいて良かった。たぶんおかわりを頼まれるだろう。挽きたての豆じゃなくなるけど、そこは許してほしい。
「ケーキも味わって食ってくれ。ちゃんと、珈琲との相性考えて買ってきたんだから」
「何、そうだったのか」
「ほら、あー」
テーブルに身を乗り出して、ソーの口にケーキが乗ったフォークを押し付けてやる。大人しく、あー、と大口開けてぺろりとケーキを味わう姿を見ていると、この男は自分の一個歳下なんだなぁと思い出す。ケーキと珈琲がよく合うのは分かってくれたみたいで、カップはすぐに空になってしまった。おかわり淹れてこようか、と聞こうとしたが、聞こえてきた深い溜め息に思わず口をつぐむ。旨いものを食ったり飲んだりした後のそれではなく、誕生日にそぐわない暗いやつだ。何だ何だ、何がどうなったらこんなに一気にその場の空気が落ち込むんだ。
「またタヒチに行ったらしばらく飲めないからな。今の内に味わっておかないと……」
「……えっ」
ひょっとして。いや、まさか。
「ワールドツアーに誘ってくれるのって、それが理由?」
「理由の一部だ。どこの国だろうが、ホテルで目が覚める度に、ああ、バーンズが淹れてくれる珈琲が飲みたい、と。……付き合い始める前から」
「……」
意味なく首の後ろを掻く。くすぐったい。バリスタ冥利に尽きるよ、と素直に受け取ったらそれで終わりなんだろうが、ちょっとそれじゃ済まない。だってこれって、地球のほぼ反対で波に挑んでる男が、朝一に俺のことを考えてるってことで。厳密には俺が淹れる珈琲なんだけど。とにかく、俺は、ソーのプロサーファーとしての仕事にはなるべく関与しないようにしよう、って、思ってたのに。
顔が熱くなって、つい冷房の設定パネルをちらっと見てしまった俺に構わず、ソーは続ける。
「もちろんそれだけじゃない。あちこちデートしてみたいし、興味があれば競技も見に来てほしい。ハワイには来てくれるんだろう?」
「うん」
「ツアーが終わったら、そのまま、何日かのんびり過ごしたいと思ってるんだ」
「うん」
答えながら、俺って単純だなぁ、と思う。パスポート、さっさと取りに行かなきゃな、なんて考えてるんだから。さすがに、タヒチには間に合わない。
「……ソー」
「ん?」
「九月って、カリフォルニアだよな。四日間」
「ああ、よく知って──……もしかして、来てくれるのか?」
「……ん。サムに聞いてみる」
「本当か!」
四日間だけなら、いいよいいよって言ってもらえるだろう。
ケーキがまだ半分残ってるのに、ソーはぎゅーっと俺の手を握り締めて大型犬の顔をしてる。「サーフィンしてるところを見てほしいんだ。この前の南アフリカのはすごく上手く乗れた」って興奮気味な彼に、もしも素直に「YouTubeで見たよ」って答えたら、いよいよ手を離してくれなくなるんだろうな。珈琲のおかわりを提案するタイミングがどこかに行ってしまったけど、明日でいっか。
終
雨の円舞曲のための画策
ティチャッキー
平和なアースのふたり。
雨にさらされて青々と輝く芝生の上を、裸足で歩くのが好きだ。バーンズがまだ子どもだった頃、妹とびしょ濡れになって遊んだ。スティーブは風邪を引くといけないから誘えなかったけれど。
ほぼ一〇〇年経った今、自分の足元を見下ろしてみる。だいぶサイズの大きくなった足は、シュリ王女の作ってくれた便利なスニーカーを履いていて、そこに一滴の水が入る隙間もない。新品のように綺麗な靴の爪先で芝をさらりと撫でてみても、つんつんと立った髪の毛のような葉から水滴が飛び散るだけ。
シュリ王女は相変わらず発明好きである。今日、こんな雨の中、村を訪れてくれたティ・チャラのキモヨビーズに装備されたそれも、彼女が一週間以上続く雨に飽きて作ったものなのだという。発明品の正式名称は何故かティ・チャラは明かさなかったが、早い話、持ち歩きがとても楽な傘である。ビーズから伸びた薄紫の光の線は、ティ・チャラの左手に握られるような形で彼の皮膚の上を這った後、ぴんと真上に向かい、二人の頭上で傘の骨組みのように八方へと伸びている。傘の生地にあたる部分は目にはっきりと写るものではないが、雨をはじいており、うっすらとその輪郭を掴むことができた。当然、縁からはぼたぼたと雨が滴っている。ヴィブラニウムから作られた、科学技術を通り越してファンタジーチックにも思えるアイテムにはバーンズも慣れてきたつもりだった。だが、傘のような、これ以上は発展のしようがないと思っていたものまで恩恵を受けるとは。魔法使いが出てくる映画に似たようなアイテムがあったようで、同じものが欲しくなったのだろうとティ・チャラが教えてくれた。
「あくまで試作品らしい。使い心地を教えてくれと言われたんだ。ビーズを操作すれば、傘の大きさも変わるし、高さも変えられる」
ティ・チャラの説明通り、ビーズを右手でタッチしたり、なぞったりすると、傘の幅が広くなった。風向きによってはティ・チャラの肩が濡れてしまいそうだと心配していたので、バーンズはほっとため息をついた。
「傘を閉じる時も楽そうですね。閉じるというか、消すって言った方が正しいのかな」
「そうだな。雨水を払う必要がないのは良い。何故もっと早く、誰か思い付かなかったのだろうかと言ったら、他の技術者たちは雨が降ろうと晴れようと研究室にこもっていて傘をささないからじゃないかと言われた」
「はは、シュリ様らしいお言葉だ」
「ああ、本当に。昔から変わらないよ」
シュリ王女の話をする時のティ・チャラは、おてんばな妹に少し呆れているような顔をする。しかしその実、瞳を注意深く見てみると、宝石のように煌めいていて、妹を可愛がっているのがよく分かる。
「とにかく、そういう訳だ。すまないな、このような……実験に付き合わせてしまって」
ティ・チャラは傘を握っていない方の手で頬を掻く。それなりの雨であるから、見渡しても、村の子ひとりいない野原と雨雲が広がっている。雷が鳴る心配もあるので、山羊などの動物も屋根のあるところへ避難させた。たしかに、わざわざこんな日に外に出るのは奇妙かもしれなかった。車を待っている訳でもないのに傘をさして家の前で棒立ちするだけ。芝やぬかるんだ地面を雨粒が打つ音だけが絶えず響き、草と土の香りが心を落ち着かせる。
「こう見えて楽しんでますよ。国王様と相合い傘だなんて、滅多にない機会ですから」
「ならいいんだ。……そういえば、肩は濡れてないか?」
「平気です。傘を大きくしてくれたから」
快適ですね、と続けようとしたが、ティ・チャラが曖昧に微笑んだ。バーンズはなるほどと改まる。
「でも……大きさに制限がないのも問題かと。一人用のサイズで十分です」
ティ・チャラの左手首に手を伸ばし、ビーズを操作する。いくらか傘の幅が縮んだのにしたがい、ティ・チャラと肩を寄せ合う。この方が相合い傘らしくていい。もしも二人の肩が大胆に濡れてしまったとしても、簡単に風邪を引いたりするような肉体ではない。であれば、ここはデートの雰囲気を楽しんでおくべきだろう。
まだまだ雨は止みそうにない。再び見下ろすと、デザインは僅かに異なるが、揃いのスニーカーを履いた二人の足がピタリとくっついて並んでいた。いっそ裸足で駆けてみませんか、と提案したくて仕方なかった。肩が濡れるなら、もうシャワーを浴びてしまうのと変わりませんよ、と。子どもみたいだと呆れられるかもしれないし、万が一ティ・チャラが付き合ってくれたとしても、オコエあたりに後で叱られるかもしれないけれど。
バーンズはタイミングをうかがう。例えば、普通の靴のように水が染みてきたならば、気持ち悪いから脱いでしまおうと簡単に言えるのに。では、濡れた右肩を言い訳にして、ひとつ、わざとらしいくしゃみでもしてみようか。そんな風に、少年が如く思いを巡らせるのだった。
終
もぞもぞ
バキステ
BP後のワカンダ。
スティーブは、可愛くない時もあるけど、だいたい可愛い。外見も、内面も。
半月振りにワカンダに戻ってきたスティーブは、一言で言うと、男前が上がってた。ああ、最近チャットばっかりでスカイプしてくれなかったのはこれのせいか、と納得して、干し草の束を抱えたままその顔を眺めていたら、突然スティーブが「だから嫌だったんだ」と口をへの字に曲げた。
「嫌って、何が?」
「お前が言ったんだろ。髭を伸ばせ、って」
「そうだけど」
「似合わないと思うならそう言ってくれ」
「はあ? そんなこと思ってない」
何でいきなりそんな暗いこと言うんだ、と驚いた俺に対して、「どうだか」と溜め息をついた今日のスティーブは、どっちかと言えばあんまり可愛くなかった。勝手に早とちりして勝手に拗ねる。昔っからだが、ちょっと面倒くさい。拗ねたまま、のしのし歩いて俺の家に引っ込んでしまった。「おお、間抜け野郎。元気だったか」のハグもキスもしてないのに、ひどいな。
髭を伸ばせ、って言ったのは確かに俺だ。だってスティーブが、顔のイメージを変えなきゃいけない、なんて言うから。キャプテン・アメリカが国際的に指名手配されてるのに、スティーブは現在、ウィルソン達と世界中のテロ組織を潰して回っている。その活動の上で、一般市民に通報されないように顔を隠したい、という話だった。それで俺が提案したのが「髭と髪を伸ばしたら案外気付かれない」だ。スティーブは最初、それだけでいいものなのかと半信半疑だったものの、「俺だって二年間お前から逃げ回れたし」と言うと、試してみる価値はあるかと判断したようだ。
干し草を遠くにぶん投げてから家に戻ると、スティーブはがさがさと棚をあさっていた。シェーバーか剃刀を探してるらしい。残念だが、俺の家にそんなものはない。村の理容室に定期的に通ってるからな。
「あのな、剃らなくていいって。ほら、よく見せろ」
肩を掴んで振り向かせると、立派に渋い髭面なのに迷子みたいな顔をした男がいた。雰囲気変わったなあ、とは思うが、目とか、表情とかはやっぱりスティーブだ。キャプテン・アメリカのファンにはバレちまいそうだが、普通に過ごすだけなら、すれ違う人々にとっては「キャプテンにそっくりな男前だなあ」程度で済むだろう。
「うん、似合ってる」
後ろに撫で付けてある髪も良い感じだ。シャワー上がりみたいでエロい、という感想は伏せておいた。しかしスティーブは二度目の溜め息をつく。
「サム達もそう言ってくれたけど、自分では……そうは、思えなくて。バッキーみたいにはいかないな」
苦々しく眉を寄せるスティーブ。今のって、俺の髭が似合ってて気に入ってる、って受け取って良いんだろうか。可愛いやつめ。
「慣れてないだけだ。俺も、そういう時期あった」
ぽんぽんと肩を叩く。まあ、そういう時期、俺の場合はなかったけど。
「で? 人生初、髭を伸ばしてみた感想は?」
「……顔を洗う時に、ちゃんと洗えてるか不安になる」
「そこかよ」
「でもすごく泡立つ」
「分かる分かる」
スティーブらしいな、なんて思いながら、頬や顎のラインにキスする。唇や鼻に髭が当たる。ちくちく、というより、もぞもぞ、って感じだ。新鮮な感覚が楽しくて、右も左もまんべんなくキスを繰り返していると、ついに首をぶんぶん振られてしまった。犬かヤギみたいで可愛い。
「くすぐったい。……髭、邪魔じゃないのか?」
「別に。お前は、いつも俺とスる時、髭の感触をうっとうしく思ってんのか?」
「……、思ってない……」
「だろ?」
最後に、寂しそうな唇にキスしてやったら、案の定、簡単に口を開けてくれた。待ち遠しかったならそう言えばいいだろ、可愛くないなぁ──と思わないでもないが、ぎゅっと目を閉じて息を止めているのが可愛いので、良しとする。
終
たまには こんな、晴れた朝の過ごし方
サムバキ
平和なアースのふたり。サム(と中の人)のお誕生日。
小さな電子音に意識が呼び起こされる。最近は何故か、アラームが鳴る五分ほど前に自然と目が覚めることも増えていた。しかしさすがに今朝は、昨晩の疲れからか、サムの脳や体は可能な限りの睡眠を優先させたようだ。カーテンが外からの光に照らされてぼんやり光っているのを見てから、モバイルのアラームを止めた。雨は降っていないらしい。昨日サボってしまったジョギングに行かねば。そう思ってベッドから這い出ようとしたサムは、足にのしかかる重みに気付いた。ジェームズもサムも、軍人上がりなだけあって寝相は良い。それでも、これだけくっついて眠っていれば、腕やら足が互いの体の一部を枕にしてしまうことはままあるものだ。今日はジェームズの左足が付け根と膝の辺りでだらりと折れ、サムの足に乗っかってしまっていた。重いのはたしかだが、ジェームズの黒鉄の左腕が胸の上に乗っていた時に比べれば大したことはない。あれはもう勘弁願いたい。あの晩に見た、巨大なロボットに踏み潰される夢は思い出すだけで息苦しい。
一方、アラームはジェームズの深い眠りには効果がなかった。頭を横に向けたサムの目の前、ほんの数インチにも満たぬ位置では、睫毛に縁取られた瞼がジェームズのブルーグレイの瞳を隠してしまっていた。眉には前髪がかかっていて、そこに、わずかに開いた発色の良い唇から漏れる寝息があわさると、ジェームズのあどけなさを感じさせてくれる。純粋な生まれ年からすると齢一〇〇を越え、様々な事情を考慮してもサムと同じくらい十分な距離の人生を駆け抜けてきた男に、「あどけなさ」という言葉が適切かは分からないが。そっと指を伸ばして前髪をよけてやると、艶の良い額が現れる。サムはずりずりと肩の位置をずらしながら近付き、額の真ん中に唇をくっつけた。とたん、眉間に皺が寄るのが分かった。顎を引くと、睫毛がぴくりと震え、やがて持ち上がった。このままジェームズが首を上げたなら、どちらかの鼻やら顎に被害があるのは目に見えていたので、サムは大人しく身を引く。ジェームズは弾かれたように目を開けて、きょとんと目を丸くしたが、開きっぱなしだった口を閉じ、右の手の甲で口元を擦る。これはひとつの習慣だ。朝昼晩のいつでも、寝起きのジェームズはこうする。昔、寝ている時に涎が垂れていたのを好きだった女の子に見られたのが嫌だったからとか何とか、一応理由はあるらしいが、もはや条件反射でこれを行うジェームズを見るのは飽きが来なくて楽しい。
「……おはよう」
「おはよう、ミスター・昨日の主役」
ジェームズがにやりと笑ったので、サムもつられてふふんと笑う。似たような挨拶を昨日もされた。もちろん昨日は「今日の主役」と言われたが。思い返してみれば、この寝起きの状況は二四時間前とよく似ている。異なるのは、外の天気が雨か晴れかと、あとは二人が服をちゃんと着ているか着ていないか。
上半身がほとんどシーツに覆われていないのはサムもジェームズも同じで、ジェームズの左肩や首元が寒そうに見えたのでシーツを引っ張ってかけてやった。ジェームズはそこでようやく、自分の片足がサムの足に絡み付いていることに気付いてくれた。「悪い」の一言と共にするりと引いていった重みに、「別にいいのに」と返しそうになって唇を噛む。
「朝飯、何作るかな」
「今日はいいだろ。昨日のケーキの残りがある」
ジェームズはシーツの端を巻き込みながら、左手で胸の辺りを掻く。六時間ほど前、サムはそこにいくつかキスマークをつけたが、それらは嘘のように消えてしまっている。ヴィブラニウムの指先が、ほんのりと朱に色付く掻き痕を鎖骨に残していく。サムがつけたのはこんな淡い色ではなかった。紅が滲むような痕だった。
「そうだった。まだ半分あったっけ……」
「ああ。あとさ、昨日の昼飯の店、良かったな。また行こう」
ジェームズがワンダに教えてもらって予約してくれたフレンチは、牛ほほ肉のシチューが絶品で、サムもジェームズも、最後の一滴まで残すまいと皿を傾けてスプーンを滑らせた。夜にケーキを食べる予定があったのでデザートは頼まなかったのだが、ジェームズがその点についても名残惜しそうにしていたのはサムの気のせいではなかったようだ。
「ん、行こう」
「じゃあ、クリスマスとか、今度は俺の誕生日とかに」
「普通の休みでもいいのに」
「祝いの席の方がいい」
「そういうもんか」
うん、と満足そうにジェームズは頷く。ではクリスマスがいいだろう。赤い苺がふんだんに使われ、見た目でも楽しめるデザートが取り揃えられているはずだから。
と、ジェームズがあくびをした。サムはつられて眠気を思い出してしまう前に、ジョギングに向かうことにした。のだが。
「ジェームズはまだ寝てていいぞ」
そう言ってベッドから抜けようとしたサムを、ジェームズの左手が引き留めた。きゅ、と腕をつかまれては、振りほどける訳もなく。そもそも、何事かと驚いたので、振りほどこうという気にもならなかった。結局シーツがはだけてしまったジェームズは、それを気にも留めず、じっとこちらを見つめていた。やがて、首を傾げて、どこか悪戯っぽく笑った。
「俺の勘違いか?」
「え、何が」
「したいのかと思ってた。ずっと、昨日痕つけたところを見てたから」
「……」
さすが、に。朝から、そんなつもりは。──と言うはずだった。言えなかったのは、ジェームズにつかまれたままの腕が強く脈打ってしまったのを自覚したからだった。自然と、視線はジェームズの肌を辿る。ヴィブラニウムの引っ掻き傷はもう痕形もない。
「たまにはジョギングじゃなくて別の運ど──」
「──それ以上言うなよ」
まったく反省していなさそうな「ごめん」を聞きながら、サムはジェームズを腕の中に閉じ込める。明日こそは普段の二倍の距離を走ろうと決意した。
終
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