Twitter SSまとめ 9篇 (バキ受け)もしもの話
ティチャッキー
平和なアースのふたり
もしもの話をしよう。
もしも、あなたが王様じゃなかったら。もしも、俺の頭が半分いかれてなくて、全部まともだったなら。そうしたら、この淡い桃色に似た関係に、ほんの僅かな後ろめたさを感じずに済んだのだろうか。黒色の、細かい刺繍の入った立派なお召し物を纏ったあなたが、後ろで手を組んで真っ直ぐに背を伸ばし、少し俯いて、俺のくだらないジョークを静かに笑ってくれる。その横顔を見ながら、胸の辺りがどうしようもなく苦しくなって、鼻の奥が痛むこともなかったのだろうか。時々、そんなことを考える。あなたには言えないけれど。
もしも、俺があなたと同じ時代にこの世に生を受けていたら。アメリカでごく一般的な生活を送っていて、テレビで紹介されてた最近話題の「ワカンダ」って国に一人旅しに来て、市場で果物を売っているあなたに会ってみたかったな、なんて思う。そういう夢を見たことがある、と言ったらあなたは笑うだろうか。あなたは、果物でもかじりながら歩こうかなあ、と考えている俺に、何故だか、よく熟れたプラムを一つ譲ってくれて、自分も一つ手に取る。隣に座っていた妹に店番を押し付けて、「旅の人。ワカンダのガイドは募集してないか?」なんて言うんだ。「もしも」の中の俺とあなたは、そんな出会い方をする。
──もちろん、それが今よりいい状況と言えるかどうかは、分からないのだけど。
「バーンズ。考え事を?」
呼び掛けに顔を上げた。フォークに桃を刺した彼が、こちらを見つめていた。俺はと言えば、ストロベリーを持ってぼんやりしているところだった。
「ああ、ええと……。お腹がいっぱいになって」
考え事をしていたのは確かで、お腹がいっぱいなのも嘘じゃない。彼は曖昧に微笑む。たぶん、一日中、シュリ様に検査してもらっていた俺が、疲れきっているのだと思ったのだろう。お優しい人だから、いつだって俺の体調を心配してくれる。過保護なほどに。それを嬉しいと思ってしまう度、やっぱり、胸の辺りがじんわりと熱を持つ。
あなたには言えない。どれだけ愛し合っていても、優しささえも時にはもどかしく思ってしまうなんて、知らなかった。俺の人生が普通で、あなたが王としてのマスクを持たぬ人だったならば、もっと、大胆になれたかもしれない、なんて。
「今日は疲れたろう。ゆっくり休むといい」
「……ええ」
言えるはずがない。今のこの絶妙なバランスを捨てかねない妄想だった。休息よりも桃味の口付けが欲しいとねだれば、優しいあなたはどうするのだろう。
そんな、もしもの話。
終
狼男はショートケーキの宝石がお好き
ソーバキ
平和なアースのふたり
食べ物の香りをシャンプーにつける、という発想がよく分からない。シャンプーやボディソープの香りなんて、文字通り『シャンプーやボディソープの香り』であるべきじゃないのか。──とバーンズが訴えたところ、ロマノフに哀れな化石でも見るような目をされて溜め息をつかれたのが四日前。
仕方ない。バーンズは知らなかったのだから。いつも使っていたシャンプーの詰め替え用が売っていなかったので、何となく、パッケージが似てるものを選んだだけだった。ストロベリーやラズベリーの絵が描いてるなんて気にしなかった。もしかしたら気付いてもいなかったかもしれない。
◆
「自分から食い物の匂いがする。甘い匂いが髪からするなんて、変だ」
「あー、その、大変だな。嗅覚が鋭いと……」
眉間に皺を寄せ、バーンズは頭を掻く。サムは気の毒そうにそれを眺めた。サムは基本的にシャンプーに手間のかからない頭をしているので、バーンズの髪の長さを見て、「シャンプー面倒くさそうだなあ」と思っていたクチである。それがさらに匂いにまで悩まされるなんで、気の毒を通り越して可哀想にさえ思えた。
「スティーブにも髪を伸ばさせて、早く使いきるよう努力してるんだ。あいつ、散髪屋を予約してたらしいけど」
「捨てないだけ偉いというか、そういうところは真面目だな……」
頑張れ、としかサムは言えなかった。サムの髪型だとシャンプーを一部貰って手伝うこともできないからだ。バーンズの買い物の失敗に巻き込まれた同居人、スティーブが、特に気にしていないらしいのは唯一の救いだった。サムだったら、申し訳ないけれど自分用に別のシャンプーを買う。ケーキ好きの愛らしい子どもや女性でもない限り、ストロベリーの香りがする髪はちょっと似合わない、と思ってしまうことに罪はないだろう。
「……明日、ソーが来るんだ」
「え、あ……。へえ」
「くさい、って言われたらどうしよう」
「言わないと思うけど」
ソーはバーンズの恋人である。付き合い始めたのは割りと最近で、サムは彼らが二人で過ごしているところをいまだに見たことがないため、正直なところ信じられないでいる部分もある──のだが。こんな、言われもしないであろう「くさい」を恐れて齢百の男がこの世の終わりのような顔をしているのを目の当たりにすれば、ああ本当に恋人なのだな、と思わざるを得なかった。
◆
スティーブがある日、バーンズと入れ違いでシャワールームに向かおうとすると、バーンズに懐かしいものを渡された。二人がいつも使っていた、『シャンプーらしい香りのするシャンプー』のボトルである。あの、甘い香りのシャンプーはまだ残っているのに、もうついに本当に嫌になって捨ててしまうのかと思いきや、まだ生乾きのバーンズの髪からはやはり甘い香りがしていたのだった。
「あれは、俺が使いきるから」
バーンズはきっぱりとそう言った。あんなに嫌がっていたのにどうして、と聞くこともできた。しかし、スティーブにも心当たりがあった。ソーには悪いが、バーンズとの友人付き合いの長さと深さにおいて、スティーブに敵う者はいないのだ。
「……、……もしかして、ソーに気に入られた?」
「……」
バーンズは嘘が下手である。シャワーを浴びて血流が良くなっているからか、あまりにも分かりやすく赤く染まった頬は、狼に食われる直前の苺に似ていた。
スティーブはさっそく、翌日に散髪へ行く予定を立てた。
終
休日
鷹バキ
平和なアースのふたり
ごつんとクリントの肩に頭を預けると、テレビ画面の中でキャラクターの乗ったカートが一瞬だけ挙動不審になった。しかしそこはすぐに冷静さを取り戻し、相変わらずコースを突き進んでいく。右下に表示されている順位は三だ。
「えーっと、今日は甘えたさんだな」
「何となくそういう気分の時もある」
バーンズは素直にそう告げた。何かあった訳ではない、本当にそういう気分、なだけだった。甘えたいというより、体をくっつけていたい。こうして二人で過ごすのは一〇日ぶりほどであるが、オンラインゲームに嫉妬しているのでもない。おやつのシリアルを頬張りながらクリントがゲームしているのをただ眺める時間はけっこう好きだ。現代人の、ごく普通の日常の一部に浸れている気がして。
「くそ。いいアイテムが出ない」
「でも追い抜けるだろ?」
「任せろ」
ヘアピンカーブに差し掛かった。クリントの使用している、紫色の帽子をかぶったヘンテコな髭の細身の男が二位の恐竜を追い越す。あと一人だ。あのホークアイが休日にゲームに耽ってるなんて、世界中のファンが知ったら驚くかもしれない。ちらと見るとクリントの視線は真剣そのもので、かっこいいなあ、と思う。昨晩散々したけど、キスしたいな、とも。
「……なあ、一位になったらキスしていい?」
思わずそう溢すと、クリントが「へへっ」と笑った。
「もちろんいいが、それって俺の台詞じゃないか?」
「じゃあ言い方を変えよう。一位になったらキスしていいぞ」
「そりゃあ頑張らないとな」
そんなやり取りをしている間に、金髪のお姫様のキャラクターが前方に見えてきた。クリントはお姫様に遠慮なく亀の甲羅をぶつける。妨害アイテムが亀の甲羅だなんてユニークだ。お姫様のカートが宙を舞って、その横を走り抜ける。ゴールはもう目の前だ。
「よしっ」
他の追随を許さずゴールするなり、クリントはコントローラをローテーブルに放り、バーンズが持つシリアルの皿も取り上げた。紫色の帽子のキャラクターは大手を振って喜んでいる。不意にその像がぶれる。バーンズの頭が乗っていた肩が動いたのだ。さっと顎をすくわれて、ソファに半分押し倒されながらキスされた。軽いものを想像していたのに、クリントは舌を入れてきた。目を閉じると他の感覚が働き始める。今は味覚に集中した。コントローラの隣に飲みかけが放置された、炭酸飲料の甘さが残るキス。昨日のキスは、アルコールの溶けたジンの味がした。今のこれは、その風味に比べるとずいぶんと子どもっぽい。けれど、嫌いじゃなかった。この男のキスに酔うのにアルコールなんて必要ない。
終
赤い告白
もやバキ
両片想いのふたりのバレンタイン
恋人がいない人間にとって、バレンタインという日は大して意味のない日だ。強く想い、それを伝えたいと思える相手がいれば別だけれど。僕は毎年この日を特別に思ったことはない。そして、今年のバッキーも。彼がジャネットと別れたのは先月の終わりだった。僕によく短い鉛筆を分け与えてくれる画材屋のチェルシーは、三日前、僕にバッキーの予定を聞いてきた。バレンタインは女性も愛を伝えることに積極的になれる日だ。バッキーをものにするチャンスだと考えている子がたくさんいることは想像に容易い。僕は知らないと答えた。嘘はついてない。バッキーがきっと僕の家に逃げ込んでくるだろうとは考えていたけれど、直接聞いた訳ではないから。チェルシーは客に対して失礼がないようにとでも思ったのか、僕の予定も聞いてきた。特にないと答えておいた。
◆
ドアを開けた先にいたバッキーは、赤い薔薇の花を携えていた。真っ白い紙とピンクのリボンに巻かれた、一輪の薔薇だ。それどうしたんだ、と聞くと、バッキーは数秒言葉を詰まらせてから言った。
「さっき……ええと、画材屋の子に会った。分かるだろ、ブルネットの……」
「ああ、うん」
チェルシーは勘の鋭い女性だったようだ。それとも僕の嘘が下手だったのか。後者だったらバッキーに申し訳ない。チェルシーはいい子だけど、ハツラツとしすぎていて、たぶんバッキーのタイプじゃない。ほんの少し、チェルシーに同情する。ともかく、二月の風は冷たいので、さっさと中に入ってもらった。
「ふったのか」
「いいや、特にそういうのはなかった。……けど、タイプじゃない」
やっぱりそうだったか、と思っても意味はなかった。バッキーのタイプを知ったところで何になる。僕は僕のままだ。変われやしない。
バッキーは薔薇に巻かれたリボンをほどき、紙もそっと剥がし、戸棚から母さんが遺した一輪挿しを引っ張り出した。勝手知ったる他人の家、とはこの事だ。
一方、僕は短い鉛筆をナイフで丁寧に削った。これを貰う度に、チェルシーがバッキーの話をしていたのを思い出す。貴方とバッキーがよく行くお店はどこ。次のボクシングの試合はいつどこでやるの。バッキーがジャネットと付き合い始めたって本当に? ──それらに対してすらすらと答える僕は、はたから見れば滑稽だったろう。女に他の男のことばかり聞かれるなんて。幸いにも、チェルシーはバッキーのことしか考えていなかったから、僕を哀れんだりしなかったけれど。彼女が哀れむとしたら、短い鉛筆を遠慮なく貰うような僕の経済状況だ。とは言え、これからはそれも貰えないかもしれない。たぶんチェルシーは、もうバッキーの話なんてしたくなくなって、僕が画材屋に入った途端に店の奥に引っ込んでしまうだろうから。鉛筆も、今持っている分がなくなったら、大人しく、一ダースの箱入りのを買うか。あと三本ほど、短い鉛筆があるはずだ。
適度に鉛筆を尖らせて顔を上げると、バッキーは挿した薔薇の花弁を撫でていた。
「何で僕の家に飾るんだ」
「……、持って帰るよ。今だけさ」
バッキーはつまらなそうな顔をして顎をくいと上げ、紙とリボンを示した。なるほど、これほど綺麗に包装を取ってあれば、元に戻して持ち帰るのも可能だろう。
「ならいいけど。……そこに座ってくれないか」
「何、描いてくれるの」
「ああ。他にすることもないだろう?」
ここに来て初めて、バッキーが笑ってくれた。古いダイニングテーブルに肘をつき、僅かに首を傾げる。そういうことを自然にやってのけ、しかも似合うから、女性から視線を集めるのに、本人にはその自覚がない。薔薇の赤と、彼の黒髪の対比は僕の目にも美しく見えたけれど、鉛筆だけでそれをあらわすのは難しかった。
せめて、チェルシーに礼を言いたかった。バッキーに花を贈る。バレンタインのその日に。僕にそんな勇気はない。もっと言えば、花を買う金もなかった。僕にできるのは、彼に添える形で花を描くことだけ。絵をプレゼントしたら、バッキーは喜んでくれるだろうか。
◆
僕が馬鹿者だったと気付くのは、三本の短い鉛筆を使いきろうかという頃だった。久々に店を訪れ、紙の束を購入した僕に、いつものつけておくわね、とチェルシーは短い鉛筆を取り出した。
「そういえば、バッキー、来週またボクシングの試合があるんですって?」
「そうだよ。……」
答えながら、何かおかしい、と思った。チェルシーは続ける。私も見に行ってみようかな、貴方も行くんでしょう、と。僕は思いきって聞いてみた。チェルシー。きみ、バレンタインの日にバッキーに会ったかい。チェルシーは少し寂しそうに目線を下げて言った。いいえ。でも、バッキーが花を持ってこの店の前を通りすぎるのを見たよ。スティーブ、貴方の家に向かってるんだって、すぐ分かっちゃった。
チェルシーは勘の鋭い女性だった。バッキーは勇気ある男で、僕は間抜けだった。
バッキーに持ち帰らせたあの薔薇はもう枯れてしまっているに違いなかった。赤の色を無くし、もしかしたら花弁は全て落ちているかもしれない。それでもいい。まだ遅くないと信じたい。すまなかったとバッキーに詫びて、枯れた薔薇を受け取るべきだった。できるならあの絵を描き直し、改めて彼にプレゼントしなければならなかった。することがないんじゃない。バレンタインのあの日、君を描きたかったから描いたのだと伝える必要がある。僕は赤鉛筆を買って、バッキーの家へと急いだ。
終
アーモンドチョコレート・オン・ザ・プレート
ステバキ
現代AU両片想い
パティシエのバッキーとお客様のスティーブのバレンタイン
日本のバレンタインデーはちょっと特殊らしい。女性から男性へと贈り物をするのがメイン、というだけでも、俺からすれば充分に不思議なんだが、その贈り物の大半がチョコレートなのだそうだ。昔、日本の製菓会社がうまいこと習慣化させたとか。もしアメリカもそうなら、うちの店ももっと賑わったのに、と羨ましく思ってしまう。バレンタインデーの贈り物として、どこの国でもチョコレートはある程度メジャーではある。でも日本ほどではない。まあ、別に、うちの店、潰れそうなくらい客がいない、ってことじゃないけどさ。男性客、女性客問わず、二月はそれなりにチョコレート菓子の予約が入ってる。前もって準備できるとはいえ、結局のところ十四日に受け取りに来る人が一番多い。だから今週の俺はずっと、みんなの愛を深めるお手伝いをするチョコレートを作ってるって訳だ。
仕事以外のバレンタインデーの予定は、って? 残念ながらそれはもう先週に済ませた。月に二、三回くらいのペースで店に来てカフェスペースでくつろいでる、スティーブっていう絵描きの男。長居するのを申し訳なく思っているのかは分からないが、領収書の裏に店の内装のスケッチを残していく変な男だ。スケッチブックにも何か描いてるようだけど、中身を見たことはない。あんないい男──ファッションはちょっとダサいけど──、そうそういない。ゲイっぽくないから片想いで終わるのは分かってる。たまに話せるだけでも贅沢なものさ。だから先週、スティーブが店でケーキを食っていってくれた時に、「これ、バレンタインデー用のチョコレートのお試しなんです。良かったらどうぞ」って下手くそな嘘をついて、アーモンドチョコレートを一粒、簡素な箱に入れてプレゼントした。ちなみにチョコレートはもちろん、俺が勝手に作ったやつで店に並ぶ予定なんてないものだ。スティーブはとても純粋な男で、「ありがとう、いただくよ。当日はたくさんお客さんが来るといいね」って言ってくれた。それが今年の俺のフライングバレンタインの全てだ。
*
「あー……その、それは、自分用なんだ。ラッピングはいい」
それは今日何度目かの台詞だった。青いマフラーの良く似合う男は、俺よりずいぶん年上の常連客。レジの手伝いをしてくれてるサムがちらりと俺を横目で見たけれど、気付かないふりをした。商品を渡す時に、男は俺に小さな紙切れを握らせた。驚いたのは嫌悪感からじゃない。てっきり彼はヘテロだと思ってたからだ。でも彼に誤解を与えるには充分だった。見ると、彼は「駄目そうだな」って顔で曖昧に微笑んで、商品の礼を言って帰った。このパターンは、もう店には来てくれないやつだ。せめて、買っていったチョコレートが捨てられず、食べてもらえるといいけど。
「また常連客逃したな」
「うるさい」
紙切れを開くと、モバイルの番号と、メッセージアプリのアイコン、そしてそのIDらしき文字列が書かれていた。申し訳ないけど、ポケットに押し込む。なるべく丁寧にしまっても、既に渡されたものが下敷きになっていく。
「何個目?」
「忘れた」
サムは何か言いたげだったけど、また別の客が来店したので黙ってくれた。ついでに俺まで言葉を失った。やって来たのはスティーブだった。しかも、片手に花束を持っていた。
「ああ、いらっしゃい。……」
声が沈んでしまったのをサムは咎めなかった。どっからどう見ても、これからデートです、って顔をしたスティーブ。待ち合わせ場所に向かう前に、花だけじゃ足りないかと思ってここに立ち寄ってくれたんだろう。スティーブはショーケースを見ながら、モバイルを開いた。彼女の仕事が長引いて待ち合わせに遅れそうとか、そんなやり取りをしてるのかも。こんなことなら、お試しのチョコレートなんて渡すんじゃなかったと後悔した。
◆
閉店直前に店を訪れたのは失敗だったと後悔した。店での位置付けは見習いパティシエだという彼は今日もレジに立っていたけれど、少し元気がないというか、お疲れ気味に見えた。今日はお客さんが多かったんだろう。もしかしたら、僕のように彼に想いを寄せている人に告白された後かもしれない。パティシエである彼に、わざわざこの日に告白するのは止めておいた方がいいかな、とは思ってた。でもどうしても、今日この店を訪れる必要があった。先週彼がくれたチョコレートを、もう一度食べたかったんだ。バレンタインデー用なら、期間限定販売のはずだから。
花を渡すのは諦めて、チョコレートだけ買おう、と思い直したところで、あれ、と思った。あの、砕いたアーモンドがのったチョコレートがない。何度見ても、ない。覚え違いかと思って、モバイルを取り出す。彼からチョコレートを貰えたのが嬉しくて写真を撮っておいて正解だった。ただ、見比べてみても、やはりショーケースにそれらしきものは見当たらない。お試しだと言っていたから、もう販売が決定しているんだとばかり──。もしかして、売り切れたのかも。みんなに同じものを配っていたなら、ナッツ嫌いの人を除いて全員が買うだろうから。
結局僕は、別のチョコレートを買って店を出た。もちろん、ラッピングもしてもらった。彼は「良いバレンタインを」と言って商品を渡してくれた。
◆
何が、「良いバレンタインを」だ。エプロンを外し終わって一息吐いたら、どっと疲れが沸き上がってきた。ついでに苛立ちまで覚えて、ロッカーを閉める時、軽く蹴ってしまった。今ごろスティーブは、彼女とネットフリックスでも見てるだろう。彼女の絵とか描くのかな。領収書の裏じゃなくて、ちゃんとしたスケッチブックに。ああ、でも、そこに俺が作ったチョコレートがいて、少しでも二人の空気を甘くしてくれてたら嬉しい。そしたら、諦めもつくってもんだ。
「荒れてるな。飲み行くか?」
サムの誘いは断った。サムは、断られるのなんて最初から分かってたという顔をして、数時間前に美女から貰ったメモを片手に帰った。俺のことを羨ましそうに言うくせに、サムだってちゃっかり可愛い子のIDをゲットしてた。サムを見送ってから、エプロンのポケットにいろんな人の番号を入れたままだと気付いた。ただ、スティーブのことを諦めるにしても、今すぐ誰かに会おうという気にはなれなかった。スーパーでビールでも買って帰って、さっさと寝よう。──そこで、モバイルが通知音を鳴らした。サムからメッセージが届いた。美女と間違えたのかと思って開いたら、「早く店から出てこい」と書かれていた。飲みには行かない、って言ったのに。心配してくれるのはありがたいけどさ。すぐに「何で?」と返したが、返事はなかった。
店の裏口から出てもサムはいなかった。その代わり、通りに面した角に、何でここにいるの? って人物が突っ立っていた。スティーブだ。通りの電灯が逆光になって顔は見えなかったけど、ダサいジャケットとボロ靴のシルエット、それと絵描きとは思えないようなスタイルは見違えようがなかった。あと、うちの店の紙袋と、ミニ薔薇の花束も。
「……あ」
スティーブがこちらに気付いて、歩み寄ってきた。内心で、「何か店の苦情でも言われるのかな。っていうか、サムは?」と軽くパニクりつつ、裏口の鍵を閉めた。やっとのことで「ああ、どうも」と返せた時には、もうスティーブは目の前にいた。表情も分かるくらいだった。絵を描いてる時みたいに、眉間に少し皺が寄ってる。鼻の頭が赤い。くそ寒いのに、店を出てからずっとここにいたんだろうか。どうして。
「……すまない、迷惑だとは分かってるけど、これを渡したくて」
「え」
これ、と目の前に差し出されたのは花束だった。
「店の前のベンチで待ってたけど……、さっき、ミスター・ウィルソンが、君は裏口から出て通りを公園の方に帰っていくからこっちは通らないぞって教えてくれたんだ」
ミスター・ウィルソンって誰? と言いかけて口を閉じる。サムか。サムが使ってる駅は俺の家とは反対方向にある。いや、今はそんなことどうでもいい。全然状況が飲み込めない俺は、花束を受け取るので精一杯だった。譫言のように「ありがとう」と言ったら、スティーブはごほんと咳払いした。
「……会えて良かった。さっきは君が疲れてると思って渡せなかった。……いや、今渡しても一緒だよな。本当にごめん。……それじゃ」
ずず、と鼻を鳴らして、スティーブはさっさと踵を返して遠ざかる。
手元の、ピンク色のミニ薔薇は、家に帰ったら花瓶に入れないと。そう思って花束を見下ろして、気付く。最初はメッセージカードが添えられてるんだと思った。でもそれほどしっかりした紙ではなかった。領収書だった。見ると、裏には店を正面から見た外観が描かれていた。そういえば、店の前のベンチに座ってたとか言ってたな。やっぱりうまいもんだなあ、とボールペンの線をなぞる。いつものよりも線が真っ直ぐじゃないというか、ふるえている気がする。それと、隅っこにかかれた、ぐしゃぐしゃとした黒い塊みたいな線は何だろう。まるで、何か文字を書いて、その上を塗りつぶしたみたいな──。
はっと顔を上げた。まだスティーブは角を曲がってしまう前だった。俺は大慌てでスティーブの元へ走った。やかましい足音に気付いたスティーブは、俺に驚いて一歩引いた。構わずにジャケットの袖を掴んでやった。
「……、……」
口を開いたけれど、何から聞いていいか分からなかった。どうして花をくれたの。彼女いるんじゃないのか。そのチョコレートは誰にあげるんだ。このスケッチの隅に書かれていたはずの文字が知りたい。そういえば、この前のお試しチョコレート、おいしかった? これって、期待していいのかな。
だって、まさか、スティーブが俺を、なんて信じられない。目が合ったけど逸らしてしまった。おかしい。レジでお釣りを渡す時とほとんど変わらない距離のはずなのに、心臓がうるさい。店員がこれじゃダメだろ。
「……ひとつだけ聞いていい?」
それは、勝手に俺の口が動いたのではなく、おそらく沈黙に耐えきれなくなったのであろうスティーブの口からこぼれた発言だった。外灯に照らされて、白い息が揺れる。俺は頷く。
「先週君がくれた、お試しのチョコレート。覚えてる? バレンタインデー用って言ってた、アーモンドがのってる……」
俺が覚えてないはずないが、それよりもスティーブが覚えてくれていることに驚いた。「覚えてる」と答えた声は信じられないくらい小さかった。でもスティーブにはちゃんと聞こえたみたいだ。
「あれって、今日はもう売り切れたみたいだけど、再販予定はないのかい」
「……、……あれは」
ああ、スティーブ。なんて可愛らしい勘違いをしてくれてるんだ。つい、ジャケットの袖を握る手に力が入る。
「売る予定は、なくって──」
スティーブの眉が、片方、くにゃりと下がる。あれがもう食べられないかも、って思うだけでこんな顔をしてくれるとは。今日ほど、パティシエやってて良かったって思った日はない。
「──あれを食べたことがあるのは……、スティーブ、君だけだ。本当は、あの時もちゃんとラッピングしたかった。今日みたいに。……いや、今日やったどれよりも、丁寧に」
「……」
その言葉の意味が正しく伝わるのに数秒を要した。スティーブはぱちぱちと瞬きを繰り返して、俺の手を取った。冷たい指先を暖めてやりたくて握り返す。「また食べたいんだ」とスティーブは言った。「明日にでも作るよ」と俺は答えた。ラッピングはしなくてもいいらしい。リボンをほどくのがもったいないからだそうだ。
終
陶酔、心酔
サムバキ
平和なアースのふたり
薪の中の水分が爆ぜる音がする。暖炉の内側を流れていく空気の唸り声に混じりながら、薪や小枝の下で燃えている紙屑の灰が舞う。火が生み出す音なのに、窓の外から聞こえる雨音にどこか似ている。それらが折り重なって聞こえるのを不思議に思う。単調な環境音は眠気を呼び寄せるが、時折、ひときわ大きく薪がパチリと鳴り、ほんの僅かな木の香りが鼻をくすぐる度に、バーンズはカウチの背もたれに埋まりかけた意識を呼び起こすのだった。
とは言え、そんな状態も長くは続かない。限界はすぐに訪れるものだ。格子状になった、鉄製のファイアースクリーンの向こう側で、ゆらゆらと炎が蠢き、火の粉が散る。不規則なそれを見飽きることはなかった。むしろ、安全な場所で暖を取ることは人間を本能的に休息へと導くのかもしれない。暖炉に向けている足先と、肌が露出している右手と顔の表面から、じわりじわり、熱が行き渡る。まばたきのスピードがだんだんゆったりとしたものになり、やがて、目を細めてしまっている時間の方が長くなった。サムが戻ってきた時に自分が寝てたらショックだろうなあ、と頭の隅に過る。起こしてくれるといいが、サムのことだからそのまま寝かせるかもしれない。ベッドまで運んではくれないだろう。さすがにそこまでされたら、バーンズも起きてしまうだろうし。
いよいよ夢の中へ引き込まれようかというその瞬間、木の音や雨の音、ましてや雷のそれでもない音が耳の中に滑り込んできた。音と呼ぶには複雑な、音楽だ。ご機嫌そうなサムの鼻唄だった。バーンズはカウチの座面から滑り落ちそうだった腰を持ち上げた。サムの足音も近付いてくる。三拍子で繰り返されるメロディには聞き覚えがあった。暖炉に火を入れる時もサムが歌っていた。何の曲かと聞くタイミングは逃した。バーンズは音楽にそこまで詳しくはないが、半音を含んだ悲しげなメロディであるのに、サムがやけに楽しそうに歌うのが奇妙に思えた。
「あれ。起きてるか?」
「んん、ぎりぎり起きてる」
鼻唄は中断されてしまった。サムが近付くにつれ、甘い香りが漂ってくる。サムがその両手にひとつずつ持ったカップの中身の香りだ。柑橘類の淡い酸味のある香りと、赤ワインの深く甘い香り。
「熱いから気を付けろよ」
ほら、とサムは一方のカップをバーンズに手渡す。バーンズは左手で受け取ってから、取っ手部分に右手を添えた。暖炉の灯火だけが頼りの部屋でも、その中身が深い赤色をしているのはよく見て取れた。すっと鼻で呼吸すると、シナモンの香りが吹き抜けていく。
「お手軽ホットワインって言ってたのに、なんか、本格的だ」
隣のカウチに腰掛けたサムに、思ったことを伝える。ほんの五分ほど前、「ホットワインでも持ってくるよ」と言われた時は驚いた。そんなものがさっと出せるのか、と。サムは笑って、「本格的なやつじゃなくてお手軽なやつだから期待するな」と言った。その結果がこれだ。
「手軽なのは嘘じゃない。マーマレードとシナモンだけしか入れてない。それで、あたためるだけ」
「男の二人暮らしの家にシナモンってあるものだっけ」
「あるある」
適当に答えつつサムは一口飲んで満足そうに頷いた。バーンズも、今度知り合いに「家にシナモンがあるか」を聞いて回ろうと決意して、サムに倣う。マーマレードと聞いて、イメージしているホットワインよりも甘すぎるのではないかと躊躇ったが、存外飲みやすかった。ほのかに感じられる苦味はワインの深みから来るものかと思いきや、どうやらマーマレードの中のオレンジの皮が起因らしい。口の中で転がして、冷めない内にこくりと喉に落とす。一、二秒経って、胸の辺りがぽかぽかとあたたまり始める。
「おいしい。天才だなお前」
「だろ? 母親がよく作ってた」
「じゃあ、天才なのはお母さんだ」
「ばあちゃんから習ったって言ってた」
「じゃあ……もういいか、どこまで遡ればいいか分からなくなりそうだ」
そんなことを話していたらホットワインが冷めてしまう。二口目を口にする。熱すぎる訳ではないのに、少しずつ飲んでしまうのは何故だろう。目と頭は先程より冴えてきたが、飲み終わったらまた眠気に襲われるに違いない。暖炉の火も外の雨も、自然の音は相変わらずバーンズを夢の世界へ誘おうと手招きしている。サムが起きている限り彼に付き合いたいが、もし子守唄でも歌われたらそれも叶わない。
「……そういえば、さっきの歌」
「歌?」
サムが片眉をくいと上げる。炎に照らされて、影が揺れている。
「同じ鼻唄だったろ。さっきも、火を点けてる時も。何の歌なんだ」
ああ、とサムは頷く。話を理解したようだ。
「煙突掃除の歌だよ。映画の歌で……いつ頃の映画だったかな。最近続編が作られた」
「俺とスティーブが寝てた時かも」
「そうだな、俺も生まれてない時のだし」
「煙突掃除の話?」
「いや、魔法が使えて傘で空を飛ぶ教育係の話」
「何だそれ……」
魔法とか、空を飛ぶとか、アベンジャーズにいそうだ。そう言うとサムに大笑いされた。何も知らないとは言え少し恥ずかしかったので、ホットワインを三口も飲んで誤魔化した。暖炉でほどよくあたたまっていた体はむしろ過度な熱を帯び、やはり眠気も伴ってくる。サムは目敏く気付いて、これを飲んだら寝ようかと提案してくれた。バーンズは頷く。この後寝室に向かい、ベッドに二人で入れば暖炉の音はなくなってしまうけれど、サムの呼吸や鼓動、そして体温がすぐそこにあるのが好きだった。時に安息を与え、時にこの心を炎よりも熱く不安定なものに変えてしまう。今夜は前者だろう。
映画は今度の休日に二人で見ることにした。近頃はもう暖かくなってきたので、それまでに、煙突掃除屋を呼んでおくのもいいかもしれない。
終
次回は二割引
ソーバキ
平和なアースのふたり モブ視点
よく晴れた日のことだ。
「ケーキを買うのは初めてだ」
大男は、体躯に見合わぬ小さな声でそう呟き、鼻の下を手の甲で擦った。彼は私とショーケースをじっと見下ろしていた。眉間に皺を寄せて。
男は三十代の後半くらいに見えた。ケーキを買ったことのない三十代男性がどれほどの数いるのか私は知らない。が、「初めて買う」と宣言されるのはもっと珍しいはずだ。「あ、そうなんですか」と応えるのは冷たいので、「ご来店ありがとうございます」と微笑んだ。人生初のケーキご購入の舞台に我が店を選んでくれたのは素直に嬉しい。近所に住んでいる人だろうか。この住宅街にこんな体格のいいスポーツのスター選手のような男前がいるなんて知らなかった。街の噂になってもいいはずだ。もしかしたら引っ越してきたばかりかも。引っ越し祝いのパーティ用のケーキも買って行ってくれないかな、なんて思っていると、男は、こほん、と咳払いした。
「俺ももちろん食べるつもりだが、人にあげるんだ。何を買っていいか分からん」
眉間の皺が険しくなった。もはや「睨まれている」と言っても過言ではないショートケーキの生クリームが、あまりの熱視線に溶けてしまってもおかしくないくらいだった。
「……ぜひ、ケーキ選びのお手伝いをさせてください」
「助かる」
男は金の短い髪が生え揃った後頭部を掻いた。人にケーキを買ってあげるのに、こんな難しそうな顔をするなんて。どうやら訳有りなようだ。私はトレイを構えた。他のお客様がご来店する前に、男を助けてあげないと。
「ご家族やご友人に? お子さんとか」
子ども相手なら好き嫌いに特に気を付ける必要がある。しかしその心配は無用だった。男はむっと唇を曲げる。
「……あー……恋人だ。昨晩、バーンズと初めて喧嘩して、彼を怒らせてしまった」
なるほど。何となく心情は分かった。手土産無しに仲直りしに行くのは難しいのだろう。ちょっとでも、私や私の兄が作ったケーキが男の心を勇気づけ、ミスター・バーンズとやらの怒りを和らげてくれると良いが。
「ケーキがお好きな方なんですね」
「そうらしい。甘いもの全般が好きだ。チョコレートをよく食べてる」
「では、ガトーショコラはいかがでしょう」
「どれだ」
「こちらです」
「ああ、バーンズが好きそうだ。ふたつくれ」
「ふたつですか?」
「俺も食べる」
「かしこまりました」
トレイにふたつのガトーショコラをそっと乗せる。深刻そうな割には、呆気なく決定した。こんな簡単で良かったのだろうか、と思いつつ箱詰めに向かおうとしたが、男はまだショーケースを見つめていた。
「これは何だ、クレームブリュレ……?」
「えっと、カスタードプリンに似たお菓子ですね」
「プリンか。プリンもバーンズの好物だ。ふたつくれ」
「……かしこまりました」
そうして男は、私に質問を繰り返しつつ、ケーキを六種類、ふたつずつ買って帰った。発行したばかりの店のポイントカードは、枠の半分がスタンプで埋まった。こんなお客様は初めてだった。
◆
大雨の日だった。
肩まで伸びた黒髪がよく似合う、これまた体格の良い男前が一人で来店した。彼は店に入るなり、内装をきょろきょろと見回した。ちょっと怪しい、と思ってしまった私と目が合うと、男は「すまない」と微笑んだ。
「こっちで、ケーキ屋に入るのが初めてなんだ。何だか珍しく思えて」
「引っ越して来られたんですか?」
「ああ、うん、まあ、そんなところ」
男は、先日、我が店のケーキを人から貰って食べたそうだ。美味しかったので自分でも買いに来たのだと教えてくれた。
「買ってきてくれた人も食べたんだが、うまかったって言ってたよ。だから今日は、そいつの分も買おうかと思って」
「ありがとうございます」
男は、「どれを食べたんだっけ」と言いながらショーケースを覗いた。ああ、これだこれだと思い出すまでは早かった。そしてついでに、私の記憶も一気に呼び起こされた。
「ガトーショコラをふたつと、クレームブリュレがふたつと、アップルパイも──あ、これももちろんふたつで」
「……」
私はもう驚かなかった。
会計時、いつかと同じようにひたすらスタンプを押しながら、「お二人でご来店していただければ、ポイントを合算しますよ」と伝えた。ミスター・バーンズは財布からコインを落としてしまいながら「じゃあ、そうします」とぼそぼそと言った。こんな愉快な常連さんの卵と出会うのは初めてだった。
終
コップ一杯未満の渇望、或いは愛情
ソーバキ
吸血鬼パロ
吸血鬼のバッキーと喫茶店ウェイターのソー
「仕入れてないならいい」
そう言ったバーンズの顔は、どう見ても「いい」と納得していない様子だった。湯気ものぼらなくなったコーヒーカップは、しかし一滴も減っていない。ソーは、参ったなあ、と唸った。バーンズはカウンターテーブルに肘をつき、がじがじと爪を噛んでいる。蝙蝠の如く尖った牙が、彼の爪を傷付けていく。噛むならせめて頑丈な左腕にしてほしいと思わないでもないが、あの金属の腕は昼であろうと夜であろうと、外で晒しては歩けないものである。なのでバーンズは、いつも長袖で布地の厚いパーカーを着ているし、左手には手袋までしている。ついでにフードもかぶっている。
「すまない。ロキが、ストレンジの東欧出張に付き合わされていてな」
「いつ戻る」
「五日後に。もちろん、輸血パックをたくさん持ってくるように頼んである」
「……」
ぎゅ、とバーンズは眉を寄せる。五日後はさすがに遅い。そんなことくらいソーも分かっている。もう少しご機嫌取りが必要そうだ。
「今回は……AとかBとか、プラスとかマイナスを考慮しないで持ってこられるそうだ。若すぎず老けてもいない、健康状態の良い男性のを選りすぐって。お前好みの味だと思う」
「……分かったよ」
大きな溜め息の後、コーヒーを一気飲みして、バーンズは席を立つ。青白い顔をフードで隠し、さっさと店を出ていこうとする背中を呼び止めた。
「どうしても我慢できなかったら、誰かを狙う前に俺の──」
「──ソーのは飲みたくない」
語気は荒く、ドアの開閉は乱暴だった。いずれ、バーンズに店のドアは壊されるだろう。店のマスターである父親にソーが叱られる未来が想像できた。
◆
もうひとつ想像できていたことなのだが、バーンズの我慢は五日ももたなかった。三つめの晩に、バーンズはソーの部屋のドアを弱々しくノックした。こういうことは初めてではなかった。医師として働くロキやストレンジの助けをもってしても、絶えず十分な量の血液を手に入るのは難しい。
バーンズは、ようやく血が飲めるというのに、一昨日のように餓えた目付きをしていなかった。それどころか、どんよりと肩を落とし、しかし手際よく注射器の準備を進めている。針を刺す場所へのアルコール消毒まで完璧に。ソーは腕だろうが首だろうが噛んでくれて構わないと伝えているのだが、バーンズがそれを良しとしない。噛みつけば際限なく欲してしまうからだそうだ。見れば、彼の右手の爪は縁がでこぼことしており、ぼろぼろだった。
電流が流れるそれに似た痛みの後、ソーの左腕から伸びたチューブを赤い液体がよじ上っていく。
「ソーのは、飲みたくないのに」
バーンズは呪文のようにその一言を自分に言い聞かせていた。
「……ソーの血が甘いから好きになったんじゃない、って分かってほしいのに」
「分かっているとも」
ソーは右腕でバーンズの頭を撫でた。バーンズの手元のピストンが持ち上がっていき、これに伴いシリンジの中が血液で満たされていく。バーンズの瞳は碧の焔のように静かに蠢き、朱色の下唇には彼の牙が食い込んでいる。
「……ごめん、採り過ぎた。頭ふらふらしてない?」
「全然。一本でいいのか?」
ソーの質問には答えずにさっさと針を抜くと、チューブの中身までをシリンジへと引き寄せて、今度は注射器からコップへと移し替える。途端、ぷん、と鉄のにおいが漂った。ソーでさえ分かるのだから、バーンズはもう口の中が渇いて仕方ないだろう。にも拘らず、バーンズは丁寧にソーの左腕に絆創膏を貼ってやった。そしていよいよ、コップを持って、ソーに背を向ける。いつもこうだ。ソーの血を飲むところを見られるのを、バーンズは特に嫌う。斜め後ろから、バーンズの喉が上下するのを眺めた。ソーが酒を飲む時よりも豪快に飲み下す。とは言え、ジョッキに入ったビールのように量の多いものでもない。意地汚く、コップの縁にまで真っ赤な舌を這わすのが見えてしまった。
はぁ、とバーンズの口から漏れた息は、満たされた歓喜からか、それとも「もう終わりなのか」という落胆からか。おそらく後者だろう。ソーは溜め息を呑み込んだ。バーンズのことを哀れな生き物だと思ったことはないが、哀れな男だとは思う。彼が素直に求められないものを与えてやりたい、とも。そして何よりも、そういったことを言い訳にして、バーンズを腕の中に閉じ込め、聖人のような顔をしているつもりの自分が憎らしい。
「バーンズ」
「! ん、む」
肩を引いて振り向かせて、唇を奪うのは簡単だった。重ねる直前に見えた彼の口元は、ルージュを下手に塗りたくったように赤黒かった。それらを舐め回して、溶け合った唾液ごと舌を入れようとしたが押し返されてしまったので大人しく身を引いた。残念ながら力では敵わない。
「先に、口をゆすがせてくれよ……。人間にとっては、鉄臭いのって……その、気持ち悪いだろ」
「気にならないが」
「そんな訳ない。ソー、お前絶対おかしいって……」
パーカーの袖でごしごしと口元を拭うバーンズの頬は赤らんでいるように見えた。文字通り、生き物らしい血色は取り戻せたようだ。彼らは、恐ろしく早いスピードで体内に取り込んだ養分を吸収し、身体の隅々まで修復する。いつかバーンズが説明してくれた。
バーンズの手を取り、傷だらけの爪に唇を押し当てて祈る。彼の一部になった己の血が、一秒でも早くこの爪本来の美しさを形成してくれますように。今夜ソーの背中に残されるであろう爪痕が、可能な限り、鋭いものになりますように。
終
物語は続く
ピーター・パーカーととあるお爺さんのお話
2018/11/13に書いたものです
年に二、三回ほど見掛けるおじいさんが近所──またはちょっと離れたところ──に住んでいる。みんなにもそういう人っていると思う。名前とかは全く知らないけど、しばらく見掛けないと「最近あの人見掛けないな」って気になっちゃうような人。
おじいさんは、鼻の下の白い髭と、サングラスの向こう側の優しそうな瞳がチャーミングな人だ。初めて見掛けたのは僕がまだプライマリースクールに通ってた頃。おじいさんは奥様であろうおばあさんとお散歩していた。僕はベンおじさんとお買い物に行った帰り道で、すれ違って会釈しただけだ。それだけなのに何でこんなにはっきり覚えているのか、僕自身も不思議なんだ。たぶん、彼らがとっても仲の良さそうなご夫婦に見えたからだと思う。ベンおじさんとメイおばさんみたいな。
それから、たまにすれ違っては「こんにちは」と頭を下げてた。今になってよくよく思い返すと不思議なんだけど、何というか、歳は取ってるはずなのにいつ見てもお元気そうな感じで、車に乗っていることもあれば、酔っぱらってノリノリで音楽を聴きながら歩いてたり、街の施設の前で警備員の格好をして立っていたり、某輸送会社のトラックに乗って荷物を運んでいたりした。お仕事を頻繁に変えられるなんて、実際は複雑な事情とかがあったのかもしれないけれど、子ども心に僕は「何でも屋さんなのかなあ」とか思ってたっけ。おじいさんのことを思い出したら、「次会う時には何のお仕事をしてるんだろう」なんて楽しみにしちゃったりしてさ。
僕がスパイダーマンになる前、話したこともある。
僕ってほら、オタクだし、ハイスクールにはネッドがいるから良かったけど、それでもちょっと「変わったやつ」って思われてるのは分かってた。気にはしなかったけど。そんな僕がクラス委員になったことがあった。ジュニアハイスクールに上がったばかりの頃だ。ああいうのって、ハイスクールだとみんな大学のことを意識してやりたがるんだけど、それまでは面倒なもの扱いで、僕も押し付けられたみたいなものだった。なのにさ、クラスの、女の子に人気のありそうな子に「お前がやるから他のクラスからオタク集団だって思われる。俺がやれば良かった」とか言われてさ。こんなクラスじゃ、僕のジュニアハイスクール生活はおもしろくならないかも、ってへこんでた時におじいさんに会った。あの時は犬の散歩をしてたかな。おばあさんは一緒じゃなかった。犬が僕の足元に来て吠えてたから、「可愛いですね」って僕から言ったんだ。正直言うと、小さい犬でも子どもの僕にとっては怖かったけどね。おじいさんは、「そうだろう」って誇らしげに言った後、僕の目を真っ直ぐ見た。
「一人の人間でも、世の中を変えることが出来る」
「……? えっと……いい、言葉ですね」
「そうだろう。君の先輩もそう思ってくれたよ」
「先輩って?」
何のこと? そう聞く前に犬が歩き出してしまって、おじいさんもそれについて行った。何が何だか分からない、不思議な体験だったけど、「くだらないジュニアハイスクール生活なんて送らないぞ」って気分にしてくれたのはあの人だ。
僕の人生ががらりと変わってからは──つまりスパイダーマンになったり、スタークさんと出会ってからは──、おじいさんを見掛ける機会も減ってた。でも彼が割りと僕の家からは離れたところに住んでいるんだと知ることができた。車泥棒を捕まえるのにちょっとヘマをやっちゃったら車の警報が鳴り響いちゃってさ。ああどうしよう、ってところに苦情が聞こえてきて、振り返ったらおじいさんがいた。「ええっ、こんなところに住んでたんですか?」とか「引っ越したの?」とかいろいろ聞きたかったけれど、スパイダーマンの格好をしたまま話し込む訳にもいかず、今のところ真相は謎のままだ。
◆
で、どうして、地球に宇宙人がやって来てそいつらと戦ってる内に宇宙船に乗り込んでしまったこんなめちゃくちゃ忙しいタイミングであのおじいさんのことを思い出したかというと、ずばり、今日、おじいさんに会ったからだ。
本当にびっくりした。課外授業が終わって、帰りのバスに乗り込もうとしたらしたら、「ちゃんと勉強してきたか?」って言いながらバスの入り口で生徒ひとりひとりとハイタッチしてるおじいさんを見た時は。「あ、今はバスの運転手さんなんだ」って暢気に思っていられないくらい驚いた。だって僕の記憶が正しければ、行きの運転手はもっと若い別の人だったから。行きと帰りの運転手が違うって変だよね。
おじいさんは僕ともハイタッチした時に、「やあ、よく会うね」とは言ってくれなかった。でも僕は気になって仕方なかったから、バスを降りる時に聞こうかなって思ってたんだ。「運転手さん。僕のこと、分かります?」って。でもそうも言っていられなくなっちゃった。バスからは降りたけど乗降口からじゃないし、それにもう、バスと比べ物にならないくらい巨大な乗り物に乗り込んじゃったからね。
宇宙船は引き上げたものの、ニューヨークの街は大丈夫だろうか。またメイおばさんを心配させちゃう。ネッド達もけっこうパニックになってたし、無事だといいけど。もちろんあのおじいさんも。……いや、あのおじいさんは大丈夫そうだな。何でかってうまく言えないけど、きっとまた、地球に戻ったら、おばあさんと散歩している彼に会える気がする。次は絶対に「おじいさんって何者なの?」って聞いてみよう。
「……とにかく今は、あの魔法使いさんを助けなきゃ」
先にスタークさんを探そう。今までとは比べ物にならないくらいまずい事態だって、スパイダーセンスが反応してる。スタークさんには「何で来たんだ」って怒られるだろう。でも、守るべき隣人から離れてしまっては親愛なる隣人なんて名乗れない。それはきっとスタークさんも分かってくれるはずだ。
こうして僕は、右も左も分からない宇宙船の中を、たぶんこっちだろうなって直感に従って駆け出した。
そんな、ついにアベンジャーズへの正式加入が認められる、ほんの少し前の話。
.