2ポイントの落陽2ポイントの落陽
この場所がカリフォルニア州のオークランドであると分かったのは、何度か訪ねたことがあるワカンダ国際支援センターが目の前にそびえ立っていたからだ。建物に背を向けると、ぽつりと、バスケットゴールが備え付けられた駐車スペースが広がっていた。ゴールは、リングからネットが外されており、すぐ側にも駐車用のラインが引かれている。きっともう使われていないのだろう。では何故撤去しないのか。気にはなったが、バーンズは深くは考えないことにした。それよりも、その傍らに立ちゴールを見上げる人物の方が重要だ。ティ・チャラだった。外交の時によく着るスーツを身に纏ってこちらに背を向ける彼。背筋を伸ばす時、腕を後ろで組むのは彼の癖だ。
バーンズはこれが自身が見る夢であると気付いていた。彼がこんな場所に一人で突っ立っているはずがないし、自分もまた、ブルックリンの家で眠っていたはずだ。辺りを見回すと、空の様子から夕方だということが分かった。道路や歩道はあるのに行き交う車や人はゼロ。駐車スペースにも車は一台も停まっていない。あまりにも不自然だ。
こちらを振り返った彼は、バーンズを見てにこりと口角を上げた。それが「おいで」の合図に見えて、バーンズは大人しく足を前へと進めていく。アスファルトを踏んでいるのに、草原を歩いているような感覚が靴から伝わってきた。夢の中とはそういう矛盾に溢れているものだ。
彼の隣に並び、共にバスケットゴールを見上げる。ただし、そうしていたのはほんの十数秒で、先に口を開いたのは彼の方だった。彼はバーンズの横顔を見て言った。
「昨日の左腕の検査は、問題なかったようだな」
彼の方を向いて頷く。これが、実際の彼本人がまだ知り得ていないはずの情報だと分かっていながら。彼もひとつ頷く。
「先週、任務も遂行したと聞いたよ。ただ、ウィルソンが腕に負傷を。大丈夫か?」
「ええ。骨に異常はなかったし、大したことはないって」
「そうか。今夜の夕食はミートソースのパスタだったな、料理を自分でするなんて珍しいじゃないか」
話が突然、不自然に変わるのも夢の特徴と言えるだろう。バーンズはトマトソースの風味を思い出しながらも、特に返事を返さないことにした。その代わり、彼の肩に寄りかかって頭を預ける。何せ夢の中だ。幽霊の体のようにすり抜けたりしたらどうしようかと思ったが、彼はそこに在ってくれた。バーンズの短い髪と、彼のスーツが擦れてしゃりりと音を立てる。ほのかな体温を感じたくて目を閉じる。彼は微動だにしない。
「こんないい夢が見られるなんて、贅沢だ」
「そうだろう」
彼の返事が誇らしげなのが可笑しい。
「欲を言えば、場所は俺の家か貴方の家が良かった。そしたらもっとリアルっぽかったのに」
「眠る前、来月のカレンダーを見て支援センターに用があることを思い出したせいだ」
「そうみたいですね。そこに……偶然、何かタイミングが良くて、貴方がいたらいいなって思いながら、寝たんです」
「実際問題、難しいな、それは」
「分かってる。分かってます」
それからバーンズは、自分の脳のどこかで生み出された彼が他愛もない話をするのを聞き続けた。彼は枕にされている肩を気にすることもなく、あの落ち着いた声色でつらつらと、彼自身が知らないはずの話や、突拍子もない話を織り込んで語っていく。ワカンダに住んでいた頃のバーンズが着ていた服は、自宅のクローゼットの隅にあるが一度も着用されていないこと。戸棚の食パンの消費期限が明日で切れてしまうこと。宇宙からの侵略に備え、地球全体に対して大きなバリアを張る計画が秘密裏に進んでいること。ピラミッドのてっぺんにはダイアモンドが隠されていること。スティーブが最近、静物画を描くのにはまっていること。来年発売予定の新しいゲーム機のコントローラにはヴィブラニウムが使われる予定であること。
後から冷静になれば「何だそれ」「嘘だ」と口を挟みたくなるものもあったが、バーンズは特に違和感を持たず、ひたすらに「そうなんですね」と聞き役に徹した。
夢という曖昧な世界の中では常識が狂い、時間も狂う。個人差はあるのかもしれないが、バーンズは今回のように一風変わった夢を見るタイプだった。ゆえに、突如終わりが告げられることもあるとバーンズはよく知っている。不可思議な話を続ける彼の声を子守唄にしてずっと微睡んでいたかったが、そうもいかない。
「それで、シュリが言うには君のいた村の動物達は──」
「ティ・チャラ」
「──皆元気にやっているそうだ。一番大きなヤギがいただろう? あの子が──」
「ティ・チャラ。貴方に会いたい」
彼はそこで言葉を止めた。バーンズはおそるおそる、相変わらず彼の背で組まれていた腕に手を伸ばした。触れた感覚は現実ほどはっきりしたものではなかったが、彼の手はバーンズの左手に引き寄せられるようにバーンズの眼前に構えられた。彼の掌は、他の部分よりも肌の色が明るい。親指の付け根に唇を寄せる。
「会いたいんです。会いたい」
「今、こうして会っているのに?」
「ええ。こうして夢で会ってしまったから、余計に」
「今の君の想いを、私が全て知ったら、喜ぶだろう」
「そうですか? 知られたくないな。……いや、知られてもいいかも」
バーンズが望むこと全てを本物の彼に打ち明けてしまったらどうなるだろう。中には無茶な頼みもある。全てを叶えてもらうのは無理だ。特に、「自分だけの貴方でいてほしい」だなんて、どうしようもない。もっとも、それがバーンズの本心かと言われると違う。国王としての彼のことも愛しているから。
「次はいつ会えると思いますか」
聞いても仕方のない相手に、それでも聞いてしまうのは、想いのやり場がないせいだ。彼の手がバーンズの左手を握る。
「夢の中なら、君次第かもしれない」
「夢だけじゃ足りないって思うのは、我が儘ってことですね」
それならば、せめて。バーンズは彼の後頭部に手をやり、ゆっくりと引き寄せた。彼は何一つ抵抗しないし、彼の方から抱き寄せてもくれない。唇が重なった瞬間、バーンズは胸の奥に火が灯るような高揚感に包まれた。が、それに溺れる前に足元に何かがぶつかるのを感じた。俯くと、バスケットボールが転がっていた。
「バスケなんて何十年もしてないのに。……いや、したことないかも」
「挑戦してみろ、というお告げかも」
「……なら、貴方に早く会えることを願って」
「願掛けだな。シュートが決まり、二点入れば私に会える。本物の私に」
バーンズはボールを拾う。ゴールを見上げるが、先程よりも遠く、ずっと高い位置へリングが移動した気がしてならない。気のせいではないだろう。彼に会うことが難しいと自覚している気持ちのあらわれだ。ボールもずしりと鉛のように重い。いつの間にか、隣にいたはずの彼は消えてしまっていた。
舌打ちしたい気分で、バーンズはボールをほとんど真上に放り投げた。太陽に似たオレンジ色の真ん丸いボールが、リングにかかる──。
結局のところボールが入ったかどうかは分からなかった。何故なら、そこで目が覚めてしまったからだ。
◆
ティ・チャラはいつの間にやら、久々に訪れる村へと足を踏み入れていた。スニーカーで辺りを歩き回っていると、見慣れた小屋の側で大の字になって仰向けに寝転んでいるバーンズを見つけた。どこかおかしいと気付いたのは、彼が黒を基調としたラフな洋服を纏っていたせいだ。彼が村に暮らしていた頃の装いとは異なる。これは現在の彼が日頃着ている服だ。先月、スカイプで会話をした時に着ていたもの。ついでに髪も短い。
彼の傍らに立ち、見下ろす。夕焼けの陽光が彼の白い肌を照らし、鼻筋の横に淡い影を作っている。若草色と枯れた葉が混じる不思議な草原で、狼が気を緩めて休んでいるようにも見えた。
「ティ・チャラ。遅かったですね。ずっと待ってたのに」
彼は体を起こさずにティ・チャラを見上げたままそう言った。言葉だけではティ・チャラを責めているように聞こえても、顔はにこりと笑っていた。待ちくたびれましたよ、と、嬉しそうに。
その時点で既に、ティ・チャラはこの状況が夢の中であると気付いていた。まず、バーンズがこの格好でこの村にいること自体有り得ない。彼は今アメリカのブルックリンで暮らしている。ワカンダの支援センターに用があることはたまにあれど、ワカンダの国まで来る用事などない。一方で、ティ・チャラの方も最近はワカンダを離れられずにいる。今日も一仕事終えて眠りについたはずだ。
彼は左手で、芝草の生い茂る大地をぽんぽんと叩く。隣に寝転がれという意味らしい。ティ・チャラは大人しくそれに従った。芝を手で撫でながら横たわる。意外にも、葉のチクチクとした感触は感じられない。シルクの滑らかさがあった。それも当然だろう。本来、ティ・チャラはベッドの上で眠っているのだから。ティ・チャラが彼の方に体を向けると、彼も同じようにした。その表情は穏やかな笑みを携えたままだ。彼がこんな風に分かりやすい笑顔を見せるのは珍しかった。彼は普段、どちらかというと常に何かを考え込むような顔をしている。ジョークなどには笑ってみせても常に笑顔でいるようなタイプではない。ティ・チャラはどちらも好きだ。真剣そうな顔も、笑った顔も。ついでに、たまに気の抜けた時にしている、ぼんやりとした顔も。
「好きなのは顔だけ?」
こちらの思考は夢の中の彼には筒抜けらしい。鼻でふふんと笑いながら投げ掛けられた質問に、今度はティ・チャラが笑ってしまう番だった。
「まさか。そうではないと知っているだろう」
「ええ、知ってます。知ってますとも。きっと、ちゃんと俺に伝わってる」
それならいい。手を伸ばして彼の頬に触れる。頬骨から顎のラインをなぞり、今度は耳元へ。実際に彼の肌に触れた時とは感触が異なる気がした。夢の中でそこまで再現させるのは難しいか、と落胆する。彼はティ・チャラの手に己の右手を重ねる。
「しばらく連絡が取れていなくてすまない。元気なんだろうか、君は」
「どうだろう。どう思います?」
以前、シュリから連絡があった。彼が支援センターに来ていたところにちょうど出くわして、立ち話をしたと。だがティ・チャラの話にはならなかったと言っていた。
それを聞いて少し残念に思ってしまった。彼がもうティ・チャラに愛想を尽かしているのでは、とまでは思わないが、寂しい気がして。彼はティ・チャラの話題を意図的に避けたのかもしれない。ティ・チャラとて、恋人である彼に対して残酷な仕打ちをしている自覚はあった。こちらの事情をよく理解してくれているという彼の優しさに甘えて、彼よりも国を優先する日々が続いている。
「今、時間と口実を作っているところだ。君に会いに行くための」
「うまくいくといいですけど。最悪の場合はまたスカイプでも……。ですが……ほら、実際会うのとは訳が違う」
「ああ。君が私と同じくらい、会いたいと思ってくれているといいんだが」
「それは……。どうします? もう遠距離恋愛の環境に慣れて、会えなくてもいいか、とか俺に考えられていたら」
夢の中の──つまりティ・チャラの意識下の──彼にしては、随分ときつい例え話をしてくるものだ。ティ・チャラは彼の鼻先にキスをする。彼はそれを享受して、今度はいつもの顔になった。考え込んでいる時の顔。
「そうです。ティ・チャラ、貴方はそういう人です。ここぞという時に強引で、俺のことを離そうとしてくれない人」
「ああ。君に迷惑に思われない限りは、離すつもりはないとも」
ティ・チャラの言葉とは裏腹に、彼はふと思い立ったように身を起こした。ティ・チャラから逃げてしまうように。立ち上がって、草の葉がついたカーゴパンツをぱたぱたと両手ではたく。ティ・チャラも彼と同じく立ち上がる。彼の横顔、視線を追うと、村の湖が夕陽に照らされて輝いていた。
いなくなってしまう、と思った。彼を夢の世界に留めさせておくことは不可能なのだと悟った。それはただの自己満足だ。待つしかできない状況下にある彼のために、ティ・チャラは自分が成すべきことを成す必要がある。
「バーンズ」
「……」
彼を後ろから抱き締める。たしかに腕の中にいるのに、実感はわかない。強く抱き締め、頬に顔を寄せても、彼は振り返ってはくれない。
「こういうことは、本物の俺にしてやるべきです」
「ああ、そうだな。その通りだ」
「待ってますから」
終わりはあっけなかった。瞬きする間に、腕の中の彼は消えてしまった。
気付けば小屋すらもなくなっていて、残るのは草原と湖だけだった。なのにどこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。この夢の中には夜が訪れようとしていても、現実では朝がやってくる。ティ・チャラの、細かくスケジューリングされた一日が始まろうとしている。国のための。あるいは彼のための。
眩しさに目を細めながら、夕陽を眺めた。オレンジ色の真ん丸いボールに似た太陽が、湖の水面に静かに沈んでいく。
終