エール色の滴※お読みいただく前に
こちらは現代AUのお話ですが、映画「アベンジャーズ・エンドゲーム」内の要素を含んだ内容になっております。
ご了承の上、お楽しみください。
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エール色の滴
サングラスを手の中で弄んで、袖のゆるんだカーディガンを着たテディベアのような男。ひと夏の思い出の中にいる彼に間違いないと確信するまでに、時間なんて必要なかった。俺が、彼と太陽に焦がれた日々を過ごしたのは十年も前の話だ。けれど、どれだけ体型や雰囲気が変わろうとも、あの優しくあたたかな声色や、笑った時の目尻の皺はそのままだった。俺が心の奥底から愛しく思い、できれば永遠にそばに在ってくれたらいいのにと願ったものと変わらない。
◆
「ソーだ。お前は?」
「バーンズ。……それ、本名?」
「ああ。よく言われる。海辺で働くのには合わない名だと」
「そんな。今日はよく晴れてたろ」
あの日、彼はハンプトンビーチのヒーローだった。溺れかけた子どもを二人も助けたんだ。雷神の名を持つ彼は海専門のライフガードだった。俺は、ビーチの目の前に位置する、知り合いが経営しているレストランにその夏だけアルバイトしに来ていた。セレブや観光客相手に軽食を売る、楽な仕事。大学卒業以降、翻訳の仕事を転々としていた俺の、ただの時間潰しと金稼ぎのための夏──になるはずだった。
その夜、レストランにやって来たヒーローは同僚の奢りで酒をがぶがぶ飲んで、何を血迷ったのか、ロシア人の集まるテーブルから空のジョッキを回収していた俺を捕まえて口説いてきた。最初は俺の勘違いかと思った。三日に一度この店で夕食をとっていたライフガードがゲイで、しかも俺がゲイだとバレているのにも驚いたけど、それ以上に、こんな美丈夫は引く手あまただろうに、と考えたんだ。でも彼は言った。「お前のことが気になっていた」と。直球過ぎる、下手くそなナンパだった。「ヒーローになれた今日なら口説けるかと思って」なんて赤い顔して続けるものだから、可愛い人だな、って笑えてきたんだ。後ろで結んだ金色の長い髪や顔はタイプだったし、あの頃、ボーイフレンドがいない時期が続いていたものだから、こういう出会いも有りかもって。正直に言うと、ビーチでアルバイトをすると決めた時だって、こういうことをほんの少しだけ期待していた。もう遅い時間だったけれど別のバーに移動して、俺はジントニック、彼はエールビールを飲んで朝まで過ごした。酒臭いファーストキスだって悪くはなかった。
俺と彼の関係には、ロマンチックさを伴う、少し照れくさくて、いっそ思い切って二人の世界に酔ってしまいたくなるような甘さがあった。彼はセックスが上手くて、愛の言葉だってたくさん囁いてくれて、夜のビーチを散歩するだけでもドキドキしたし、俺だってそれに見合う愛情表現をしたつもりだ。それでいて友達に似たような感覚もあった。オフの日は彼の趣味であるサーフィンを教わった。天気が悪ければ、俺が借りてる部屋でテレビゲームもした。新鮮な日々なのに居心地がいい。そんな関係だった。ただ、彼の身の上話はほとんど聞いたことがなかった。聞かせてくれたのは、「誰かの命を助ける仕事がしたくてライフガードになった」ということくらい。それだけが理由ではないけれど、どこか、距離を置かれている気がしてならなかった。そういう嫌な予感というか胸のざわめきみたいなものは、大抵、気のせいで済んではくれないものだ。俺の場合も例外ではなかった。
連絡先を聞いておくべきだった。レストランを離れてブルックリンに戻る前にそうするつもりだったんだ。海よりも神秘的な蒼い瞳に、番号を教えてほしいと言えばそれで良かった。けれどそうする前に彼はビーチを離れることになったし、そもそも彼はモバイルを持ち歩いていなかった。ある人達から隠れるために。
「探すのに苦労した。……今すぐ帰ってきてほしいと、貴方の御母様が」
ひどい雨と雷で、客の少ない日だった。閉店前のレストランにやってきたスーツの男の声は沈んでいた。ソーよりも十は年上で、坊主頭に白髪混じりの髭が渋い黒人だ。男は「御主人様が倒れて、御姉弟も屋敷に戻ってきた」と神妙な面持ちで言った。その瞬間、ソーの纏う空気が変わった。彼はカウンターでグラスを磨いていた俺をちらと見やったけれど、視線が絡むと、すぐに目を伏せてしまった。睫毛が小刻みに震えているのを見て、何となく、彼は自分とは違う世界に住んでいるのだと感じた。別に、神様の世界とか大袈裟な話ではない。同じアメリカにいても遠い存在なのだと。
彼はのっそりと立ち上がり、相変わらず整った笑顔を作った。俺の頭をぐしゃぐしゃ撫でて、親指で頬骨をゆっくりとなぞった。俺が「何があったんだ」と聞く勇気を出す前に、手のぬくもりは離れていってしまった。彼は、「楽しかった。すまない、俺のことは忘れてほしい」と言い残して去っていった。俺の元から。彼が大好きなはずの海から。
ソーの正体を知ったのは二年後の冬。オーディン財閥のトップが亡くなった。俺はそのニュースを病室のテレビで見ていた。跡継ぎがまだ決まっていないのだとキャスターが説明しているのを聞きながら、葬儀に向かうソーを撮影した映像を眺めた。金色の髪は短くなり、喪服を着てもスタイルの良さは際立っていた。でも、体のラインがはっきり分かるウェットスーツを着てサーフボードを乗りこなしたり、ビーチでオレンジのスイムパンツを着て海水浴客にホイッスルを鳴らしていた彼とは別人に見えた。
◆
噂には聞いていた。マンハッタンの南にあるバーに、彼らしき人物が飲みに来ると。関連企業はいくつか倒産寸前で、財閥自体もソーの名前はあってないようなもの。その実態は親族ではない者に乗っ取られかけている──と尾ひれまでついていて、どれが真実でどれが嘘なのか分からなかった。すぐにネットで調べたり会いに行こうとしなかったのは、俺は彼に言われた通り、彼のことを「忘れた」つもりでいたからだ。あの夏は雷が如く一瞬の出来事で、夢でも見ていたのだと思い込むことにしていた。ハンプトンビーチに向かう直前とは違って今はボーイフレンドもいた。
でも駄目だった。ボーイフレンドといても、ふとした瞬間に彼を思い出すと、胸の辺りがちくちくと痛んだ。結局、最近上の空だった俺を向こうがフってくれた時、「ああ、これで良かったんだ」と思ってしまって、自分はなんて薄情な人間なんだろうと呆れた。
それでも行動することを恐れていた俺の背中を叩いたのはスティーブだ。バナー博士と二人で飲みに行ったら、博士の知り合いが経営しているというその店が例のバーだったらしい。スティーブは俺が彼とひと夏過ごしたことを知らない。ただただ、「有名人を見かけたよ。顔を見ても分からなかったけど」という話を俺にしただけ。本人の言う通り、スティーブは普段はそういう話に興味がないはずなのに、物珍しい体験をしたからという理由で俺に話したようだ。こういう経緯に運命的なものを感じるなというのは無理な話だった。何故なら、ずっとソーに会いたかったから。誰でも、何でもいい。彼を探し、会いに行く口実が欲しかったから。
バー「ビフレスト」はマンハッタン最南端、バッテリーパークの程近くにあった。店は雑居ビル内にあるが、通りから少し歩けば、夜の海と、自由の女神像がどうにか見える場所だ。
地下へ続く階段を下りた先にあるドアは重く、片腕で引き開けるのに少し苦労した。胸がきりきりと痛み、息が上がっていたのを、全部ドアのせいにしてしまいたかった。期待しすぎない方がいいと自分に言い聞かせた。彼が本当にここの常連だとして、さすがに毎日入り浸ってはいないだろうし。
店内は薄暗く、アンティーク調のランプが空間をぼんやりとした山吹色に染めていた。立地はいいのに、ドアの前のメニューボードに書かれている金額のせいか客はそこまで多くない。八人くらい並べるカウンター席もカップルが端っこに座っているだけ。手前のテーブル席にも、それらしい影はない。
「いらっしゃい。お待ち合わせでも?」
店に入るなりきょろきょろと辺りを見回して落ち着かない俺は不審に思われても仕方なかった。ボーイフレンドと別れてから髭やらの始末が適当だった自覚もある──彼と会う前に身綺麗にしておけば良かったがもう遅い──。カウンターでシェイカーを洗う女性店員は笑みこそ浮かべてはいたが、ぱっちりとした黒目から警戒しているのが見て取れた。噂の常連客について冷やかしに来る人間がいても不思議じゃない。パパラッチなんかは見つけ次第追い払うのだろうか。
「……人を探してる」
カウンターの前に立ち、嘘はつかずにそう言った。彼女の眉がピクリと動く。怪しまれたようだ。彼女はそのまま何か言いかけたが、はたと動きを止め、ひとつ瞬きしたかと思うと、シェイカーを置き、カウンターテーブルに身を乗り出して俺の目をじーっと見つめた。女性とずっと目を合わせているのはどうも慣れない。視線を逸らして彼女の名札を見る。ヴァルキリー。仮名で仕事しているのだろうか。
「……名前は?」
「え」
しまった、名札があるからといって胸元をじっと見るのも失礼だったか──と思ったがそうではなかった。
「貴方の名前」
彼女の瞳は、何か確信を得ているように見えた。
「……バーンズ。バッキー・バーンズ」
彼女は頷いた。
「ジントニックでいい?」
「……」
どうして。いや、そんなの、理由はひとつしかない。俺が言葉を失ってしまったのを、彼女は肯定と受け取ったようだ。くい、と顎で示されたのは、店の一番奥にあるテーブルだ。暗がりで見えにくいが、一人の男が、こちらにさっと背を向けた。がたりと椅子が揺れた。その隣には、店の備品みたいな顔をして、いつか俺も乗せてもらった赤いサーフボードが立て掛けられていた。
──途端、海のにおいがした。
もちろん、俺の頭の中で、という意味だ。
焼けた砂を裸足で蹴って、サーフボードと一緒に波打ち際まで流されてきた彼の元へ駆け寄る。彼は、足首と紐で繋がったサーフボードを俺に持たせて、自分は髪ゴムを外す。しっとりと重く濡れた金髪をうっとうしそうに結び直すのに、俺はいつだって見惚れてた。髪の先から水滴が滴り落ちて、それが太陽に照らされるのが綺麗で。でもそれは彼が生み出す魅力のほんの一部だった。
「かっこ良かったけどさ、今のは俺には無理だ」
やっとのことでそう口に出すと、彼は、ぽんと俺の肩を叩く。
「今日はパドリングだけやってみよう。ボードの上に寝そべって手で水をかくだけだ。大丈夫だとも。ボードもバーンズも、俺がしっかり支えておく」
そうして、額同士をこつりとぶつけて、にかりと笑うんだ。キスされるかと思って、触れられたままの肩を跳ねさせたのには気付きやしない。サーフィンなんてやったことないから、かっこ悪いところを見せてしまうだろう。だから、彼が波を乗りこなすのをもっと見ていたかったのに、手を引かれるとそんなのどうだって良くなった。何だって良かったんだ。
彼と過ごせるならそれだけで──。
「あちらの席へどうぞ。ドリンクは後で──」
彼女の言葉を最後までしっかりと聞けなかった。無意識の内に、足がふらふらと店の奥へと進んでいた。店で流れていたカントリーミュージックや、他の客の話し声さえ遠くなる。
後ろ姿は間違いなく彼だった。その雰囲気がずいぶん変わっていることにはテーブルの三メートル手前の位置まで来た時点で気付いていた。いよいよ彼の左肩に手を伸ばそうとした瞬間、彼は背をきゅっと丸めた。さっきまで、ヴァルキリーと俺の方を見ていたはずだ。俺が会いに来たと分かっているはず。俺のことを忘れただなんて言わせない。店員に、俺の外見や、ファーストキスの味まで喋っておいて、今さらだ。その彼から、拒絶に似た色を感じた。
理由は何となく想像がついた。埃のついたサーフボードと同じく、まったく手入れされていなさそうな、伸び放題の髪。赤色のカーディガンは布地がよれていて、縫い目がほつれている箇所まである。それと、どう見ても俺の知る姿とはシルエットが違った。今ウェットスーツを新調するなら、かなりサイズアップしなければならないだろう。
「……ソー」
彼の名前を口にするのもあの夏以来だ。彼の肩に触れると、その身が震えた。振り向いてはくれない。酒のせいか、掌に伝わる体温が高い。
「十年ぶりだ」
「……来るとは思わなかった」
低く落ち着いた声。腹の底の辺りで響くそれが、ベッドの中で聞くととびきり色っぽいことを、俺より後に知った人はいるのだろうか。
「俺に……来てほしくなかった?」
「そうじゃない」
恐る恐る訊ねたそれが否定されたことにほっとする。もしも頷かれたら、大人しく帰ってしまうかもしれなかった。
彼が両肘をテーブルにつき、頭を抱える。空のグラスががちゃりと押し退けられて、テーブルから落ちる寸前で止まった。これは何杯目のエールビールなんだろう。日に何杯飲むのだろう。
「お前にひどいことを言っただろう」
「何のこと?」
「忘れてほしいと。……一方的に言ったが、本当に忘れてほしかったんだ。俺のことなど」
「……無理だった。ソーだって覚えてくれてるくせに」
自分で、都合の良いことを言っているなと思う。忘れようとしたくせに。「何が起きてるか分からないし、あんたのこともそういえばよく知らないけど、離れたくない」──素直にそう言えたなら良かったのに。彼が遠い存在だと知って、恐れて、引き留められるものにすがりつかず逃げたのは俺自身だ。
彼はゆっくりと振り返る。俺を見て、ぎゅっと唇を噛んだ。下がり眉に、長い睫毛、もじゃもじゃの顎髭に、ほんのり赤い頬。知らない部分もあるけれど、あの日々を思い起こさせる要素は十分に残っている。体型が変わるほど生活が荒れた原因を推察すれば、元気そうで良かった、とは言い切れないが、でも俺は、この再会を喜びたいと思った。なのに、ソーときたら。
「幻滅したか」
「何で?」
「タブロイド紙が、記事の見出しで腹のことを揶揄したらしい」
カーディガンの前を、丸っこい手で引き合わせて腹を隠そうとする。残念ながら、布地がどれだけピンと引っ張られても、たぷんと肥えた腹を覆うまでには至らなかった。触ったら気持ち良さそう、とか暢気なことは考えない方がいいだろう。
「そういうゴシップ報道には興味ない」
「しかし、──……待て、バーンズ。お前、腕が」
彼が目を見開いた。俺にとってはもう当たり前のことでも、たしかに驚かせてしまったかもしれない。外出時には義肢をつけることもあるけれど、今日はつけなかった。
「八年くらい前に。肩から下を切った。交通事故でね。鮫に食われてやったとかじゃない」
精一杯のジョークのつもりだったが、彼はきゅっと下唇を上げて泣きそうに鼻を鳴らしただけで何も言わなかった。と、潤んだ瞳を眺めていて、こちらも異変に気付いた。彼の右目が白く濁っている。よく見れば、目元には縦に傷が入っていた。
「……そっちこそ、その目、どうしたんだ」
彼は前髪を寄せて目を隠そうとした。
「あー、身内と揉めてな……。もう、ほとんど見えていない」
「そんな……」
テーブルの端に置いてあるサングラスはそういうことか。身内と揉めた、なんてあっさり説明されては、踏み込んでいい話なのかどうか分からなくなる。財閥を彼が継いだ経緯も、姉弟のこともよく知らない。ここで飲んだくれている状況も、今後のことも。
十年だ。俺も彼もそれぞれの人生を歩んだ。どんな風に過ごしてた、仕事はどんな調子だ、何があった、どこにいた、「誰か」はいたのか、どうして互いを忘れられなかったのか。──考えるとキリがない。けれど、少しずつでもいい。今夜だけで全てを取り戻せなくても、ゆっくりで構わないから知りたい。あの夏をやり直すために。あの夏の続きを歩むために。
「座らないの?」
後ろを向くと、ヴァルキリーがグラスを二つ持って立っていた。ジントニックとエール。もう若くはないから、これを何杯も何杯も飲んで朝まで、というのは無理だろう。彼の向かいに腰掛ける。
「ソー。あなた、今日飲みすぎだから、これで最後ね」
「何? 今日はそんなに──」
「──最後、ね」
ドン、とグラスがテーブルに置かれる。エールの薄い泡の層が大きく揺れたが、ぎりぎりのところで溢れずに済んだ。にこっと口角を上げていても、彼女の目は笑ってない。ううーん、と彼が何とも言えない呻き声をあげる。伏せられた伝票は見てみたい気もするけれど、彼の顔を見ていれば図星だということくらい分かる。「ごゆっくり」と俺に微笑んで彼女はさっさとカウンターの方へ帰っていった。
「どんなに酒好きでも、店員には敵わないんだな」
ソーの正体を知っていながらこうも強く出られるというのは逞しい。放っておけばひたすら飲んでくれる客の健康状態まで気にしてくれるなんてと感心していると、彼が髭をぼりぼりと掻きながら呟いた。
「ヴァルキリーは……この店の経営者で、俺の遠い遠い血縁の者だ」
「え?」
「近い将来、財閥も彼女が取り仕切る予定だ。……話すと長くなる」
そう言った彼は穏やかな笑みを浮かべていた。「親族ではない者に乗っ取られかけている」という噂はどうやら本当のようだけど、それは彼にとって悪いことではないらしい。その事実にほっとした。
ジントニックの入ったグラスを持ち上げて、彼が持つエールのグラスに近付ける。
「どれだけ長い話でも聞くよ。ソーが話してくれれば」
かちりとグラスを鳴らして乾杯する。彼はグラスに一度口を付けただけでほとんど飲んでしまった。
「酒一杯では時間が足りないかも」
「……この後、夜の海辺でも散歩すればいい」
いつかのように。
彼はそう言わずとも分かってくれた。サングラスを持って、そわそわと手遊びをして、赤い頬をそのままに俯く。
「……実を言うと、デートに誘われるなんて久しぶりだ」
「俺だって、滅多に誘ったりしない。でも……」
ジントニックを半分一気に飲む。
「昔俺を口説いてくれた、誰かさんの真似をしたい気分なんだ」
久々の酒臭いキスは、やっぱり悪くなかった。もっさりした髭が当たるのを少しだけ邪魔だなと感じたけれど、太陽が昇る頃にはそれすらも愛してしまえるだろう。
終