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    ホットドッグ・サンセットホットドッグ・サンセットホットドッグ・サンセット



     ああ、これは、好きだってことなのか。そう気付いたのは一九の時だ。彼は一〇三歳だったっけ。一〇四かも。あの思い出すのも恐ろしい事件の後、ようやく日常生活が戻ってきた頃。
     僕は大学に入って、いつか、アベンジャーズやスパイダーマンが必要なくなる世の中になった時でもしっかり働いていくための勉強をしていた。スタークさんは「そんな時代はなかなか来ないが、とにかく、職業がスパイダーマンのみという状態は良くない」と言った。つまり、卒業したら本業のスパイダーマンをやりつつ働け、ってこと。今までとあまり変わらないだろうと思ってる。学業とスパイダーマンの両立をしていたのが、片方が仕事になるだけで。
     一方その頃、彼はワカンダとアメリカを行ったり来たりしていて、だから僕たちがアベンジャーズの基地で顔を合わせるのなんて月に一度あるかないか。そんな距離感だった。僕にとって彼は、キャプテンの親友で、スタークさんのご両親を殺してしまった人で、初対面より左腕がかっこよくなってる人、だった。そう、かっこいい人だったんだ。顔か、声か、性格か、左腕か、それともその全部か。スタークさんやキャプテンだってかっこいいけれど、彼らに対してはどうしても憧れや尊敬の念が先に来る。彼は少し違った。会えたらラッキー、なんて思っちゃってさ。会っても大した話はしないのに。友達になりたい気持ちと、なったところでどう関わればいいか分からないからこのままでいたい気持ちとが、僕の心の中で、蜘蛛が慌ただしく歩き回るみたいにぐるぐるしていた。やがて気付いた。僕は彼と、友達になりたいのではなくて、彼のいろんな面を知りたいと思っているんだと。ある日、セントラルパークの近くで見つけた移動販売の数量限定ホットドッグがとっても美味しくて、「彼が食べたらどんな反応をするだろう」と思い浮かべたその瞬間、心の中の蜘蛛は白旗を降った。僕はいつの間にか彼を好きになっていたんだ。スタークさんにも、キャプテンにも、おばさんにも、カレンにも、誰にも相談はできなかった。
     今でこそ冷静に以前の自分の心境を分析できるけれど、当時は複雑だった。絶対に叶いっこない想いだった。彼にとっての僕はたぶん「戦闘中によく喋る蜘蛛男」のままアップデートされていないと思っていたから。自覚した途端に失恋宣言をされたようなものだ。彼はそこまで僕に興味がないだろうから、今後好きになってもらえる望みも薄いに違いなかった。僕の唯一誉められるべき点は、そこで自暴自棄にならなかったこと。せめて彼に「いいやつだ」って思ってもらえるように、誇れる自分でいようと。いつかこの恋心に諦めがつくその日まで。

     諦めの悪い僕は二一歳になった。これは本当に恐ろしいことなのだけど、彼はどんどん魅力を増していく人だった。今もそうだ。僕を、夢中にさせて止まない。「バーンズさんって呼ぶの面倒臭いだろ。バッキーでいいよ」の一言から始まり、たまにしか会わないのに「この前ニュースでスパイダーマン見たぞ」とか「さっきピザ頼んだからみんなで一緒に食わないか」とか言ってくれるから、何だか、だんだんと距離が近づいているように思えたんだ。それで、もちろん外見もやっぱりかっこいいままで。その彼に対する気持ちを諦めるなんて、どうしてできただろうか。例えば、彼に恋人ができていれば話は変わっていったのかもしれない。でも彼は相変わらずフリーなようで、ワカンダよりもアメリカにいることの方が増えたのも相まって、僕はますます彼に惹かれていった。
     ちなみに彼はワカンダ大使館で働き始めた。主に通訳の仕事をしているらしいけど詳しくは知らない。大使館はニューヨークにある。僕がスパイダーマンとして街のパトロールをしている時、仕事を終えて退勤する彼を見かけた日は一日の疲れが吹き飛ぶ気分だった。もちろん声をかけたりはできなかったけれど、好きな人を一目見られるだけでも嬉しかったんだ。

     ……その、はずなのに。見かけたり、たまに話すだけじゃ足りなくなってきたのが大学卒業間近。今から一年くらい前の話だ。彼の姿を夢に見たり、想像したりしてしまうのも日常茶飯事になっていた。つまり、彼の肉体に対しての興味も誤魔化せなくなってきたということだ。おそらくこれは、僕のヒトとしての本能やスパイダーセンスが、「もしかしてこいつはこのまま子孫を残すどころか番さえも作らずに死ぬんじゃないか」と薄々勘づいてきたからこその変化だったんだろう。少なくとも、今の僕はそう分析している。この頃の僕はちょっとおかしかったんだ。「ああ、彼とキス以上のことがしてみたい!」ってはっきりアレコレを考えていた。言うなれば発情期だ。遅れてきた思春期とか、可愛らしいものではなかった。思春期は一応通りすぎていたはずだし。当然ながら、万が一、僕と彼がどうにかなってしまっても子孫はできないことは理解していた。
     おばさんやスタークさんの勧めもあって大学院に進むことになった僕は、大袈裟だけど人生の岐路に立っている気分だった。このまま彼への気持ちを燻らせながら一生を過ごすのか。それとも思い切って彼に全てを打ち明けて、砕けて、新しい恋を見つけるべきか。驚くべきことに、何も言わずに諦めるという選択肢はなかった。そんな曖昧に終わらせたって彼以上に好きになれる人なんていないだろうという妙な確信があったからだ。



     夏の、あまりの暑さにニューヨーク中の犯罪者予備軍が休暇を取った平和な日。「大事な話があるんです」と近くの寂れたカフェに呼び出しても、彼はなるべくナチュラルな態度でいてくれた。何の話をされるか検討もつかずにいただろうに、僕が話しやすいように気を遣ってくれたんだ。彼はアイスコーヒーを注文した。彼は腕を隠すために、ティーシャツの上に黒の長袖のシャツを羽織っていた。手袋も片手だけにはめている。人が少なくて、冷房が良く利いている店内。バイトのお姉さんがアイスコーヒーと僕のコーラを持ってきてくれた後は、まるで世界で二人だけになった気分だった。この、最後になるかもしれない瞬間をしっかり脳に焼き付けておかないとと思った。彼が横髪を耳にかけ、汗がこめかみを伝い落ちる様子さえ、うるさい心臓を押さえ付けて見つめた。僕が好きになった人はどんな些細な仕草でも画になるんだ、と誰かに自慢したくなるくらい、彼は素敵なんだ。
     始めに何から言い出せばいいか分からなかった。前日の晩にシミュレーションした記憶はあるのに、本当にそれが正しいのか全く自信がなくなってしまって。喉の真ん中辺りに重い塊が詰まっているかのように息苦しくなり、何度も唾を飲み込んだ。僕がそんな状態だったので、先に口を開いたのは彼だった。
    「大学院のことか?」
    「え……」
     彼はアイスコーヒーにストローをさし、ガムシロップの蓋を開けながら言った。
    「院に行かずに、そのままスターク・インダストリーズの研究職に就きたいって前に言ってただろう、たしか」
    「う、うん」
    「その辺りの悩み相談か何かだと思ってたんだが……、その反応だと違う?」
     ふ、と彼が鼻を鳴らして笑う。目尻に寄る皺は、いつもどちらかというと難しそうな顔をしている彼の印象をやわらげる。カラカラと、ストローでかき混ぜられる氷の音が涼しげで、そこで僕はようやく肩の力を抜くことができた。
    「大丈夫。院に行くことは納得してるよ」
    「なら、良かった」
     彼は、「じゃあ何の話だ」と催促するような人じゃない。僕は深呼吸して、コーラを一口だけ飲んだ。グラスの縁に口を付けたとき、テーブルの上でビニールに入ったままのストローと目が合った気がした。存在を忘れていたのは申し訳ないけれど、もう今更だ。一方、曲がったストローを咥えた彼もアイスコーヒーを飲んだ。喉が乾いていたらしい。ぐんと水位が下がっていった。
    「実は、僕──」
     そこで言葉が詰まった。声が出せただけで上出来だった。「僕」という言葉だけ五回くらい繰り返してしまったところで、彼もいよいよ、これは深刻だぞと気付いたみたいだ。心配そうに一度瞬きをする。彼の青と灰色の瞳が揺れた気がした。僕がこの距離で彼の目を真っ直ぐ見ることなんて、それまでもなかなかないことだったけれど、本当にこれは最後になるだろうと考えたら悲しくなった。僕は彼の虹彩まで好きになってしまっていたんだ。いつか、もっと近くで見てみたかった。スパイダーマンのマスク越しとかじゃなくて、こうやって実際の目で。睨めっこでもやっておけば良かったかも、と訳の分からない後悔をした。
    「好きな人がいる」
     やっと続けられた言葉を聞いた彼は、恋愛相談をされるようだと理解したらしい。片方の眉が少し下がったように見えたのも戸惑ったから──とその時の僕は考えていた。どうやら違ったと知るのはこの少し後の話だ。
     彼はとりあえず、当たり障りのない相槌をした。「へえ」だったか「そうなんだ」だったか、「ふーん」だったか。覚えていない。でも、小さな声でぽそりと呟かれた、次の言葉は覚えている。
    「……それって、俺の知ってる人?」
     頷いた。すると彼は斜め下に視線をやって、誰だろう、と考えているように見えた。そうやって、これから始まる恋愛相談について早くも真剣に考えようとしてくれている彼に対して、だんだんと罪悪感が募った。僕はこれから、貴方を困らせることを言ってしまう。だからごめんなさい、と。彼から誰かの名前が出てくる前に、僕は震える唇をどうにか動かした。
    「僕、バッキーのことが好きなんだ」
     告げた途端、何故だか鼻の奥がツンとして、泣きそうになった。心の中の蜘蛛はボロボロになった白旗を下ろし、アイスコーヒーの中で氷がカランと音を立てた。
     もしもここで、彼があからさまに眉を寄せたり、頬を引きつらせたりしたら、僕は溢れるものを抑えきれずに、紙幣をテーブルに置いて店を出て行っただろう。泣いてるところは見られたくなかった。それが、何度も繰り返したシミュレーションの流れだった。本当はもう一言、「僕と付き合ってください」って言わなきゃいけないのだけれど、そこまでたどり着くことはないだろうと思っていた。
     実際のところ、彼はそんな酷い態度は取らなかった。僕は馬鹿だ。マイナスなことばかり考えて、彼の優しさすら蔑ろにしてしまうところだった。僕の一言からおおよそ五秒後、彼は目を伏せ──、ストローとグラスから手を離し、それからまた僕を見据えた。それで、ぎょっと目を見開いた。
    「……何て顔してるんだ」
     自分でも分かっていた。彼が一瞬視線を外したその瞬間から、僕は子どもが泣く寸前みたいに唇を歪めてしまっていたのだ。もう二年前に成人したのに情けない。眉も下がって、鼻からゆっくり息を吐き出さないと胸が苦しかった。
    「……だって。……だって、ごめんなさい」
     ぼそぼそと蚊の鳴くような声を、彼はしっかり聞き取ってくれた。
    「え、っと……。何か、今の流れで謝るようなことがあったか?」
     アイスコーヒーをコースターごと横にずらして、彼は両腕をテーブルに乗せて身を乗り出した。ちらとカウンターテーブルの方を見やる。お店の人たちや他のお客さんの目を気にしたようだった。
    「だって、バッキー、……」
    「うん?」
    「……こんなこと、僕に言われても、……困る、だろうから」
    「……」
     今のは、本当は白状したくなかった。言ったらますます彼は困るし、第一、僕の気持ちは彼にとって迷惑だったり過度に気を遣う原因にしか成り得ないのだと思うと、つらくって、つらくって。そもそも気持ちを告げなかったら、きっと今後の人生でも「僕は素敵な人に恋していたんだ」と暖かい思い出を胸の内に秘めておくだけになっただろうに。そういう、バックパックの隅っこに仕舞われるままの想いがあったっていいはずだ。でも言わずにはいられなかったんだ。彼にちゃんと断ってもらわないと、諦められそうにないから。思い出に昇華させることすらできないから。
    「困ってなんかない」
     彼は優しい嘘をついた。瞳はまだ戸惑いを隠せていなかったけれど、くにりと上がった口角は、嘘だと分かっていても僕を幾分か安心させた。心なしか声色も優しかった。それは例えば、キャプテン・アメリカになる前のスティーブ・ロジャースの話をする時のトーンに似ていた。彼が、面倒見の良いお兄さんかと思いきや、ちゃんと相手と自分を対等な位置に置いて接してくれる人なんだとよく分かる話をたくさん聞いた。「その内、スティーブも連れて三人でスミソニアンに行くか」という彼の提案は叶わないままになりそうだけれど。
    「ひとつだけ、聞いていいか」
     質問による、なんて偉そうなことは言えなかったので頷いた。
    「いつから、その……俺のことを……?」
     彼は口元を手袋で擦ったり、視線をさまよわせていた。彼がこんな風に動揺しているのなんて滅多にないことで、それくらい衝撃なんだろうと思うと申し訳なかった。この質問の意図も分かる気がした。僕がもしも三ヶ月前から、と答えたならば、「ああ、それくらいか。そうなんだね」で済むのかもしれない。でも正直に、三年以上前からだと答えてしまったら? 彼は僕たちが友達になってからの三年間を振り返り、「あの時もこの時も意識されていたのか」と驚くことだろう。彼は僕を友達として大事にしてくれていたと思う。それを裏切るつもりは毛頭ないけれど、引かれても仕方ない。
     そういう訳で、どう答えようかと僕が口ごもって俯くと、彼は少し頭を傾けて、僕の顔を覗き込むようにした。
    「なあ。本当に困っちゃいないんだ。答えたくないなら無理にとは言わないが、ちょっと、知りたくって」
    「……気付いたのは、もう、ずっと前で」
    「……、ん」
     曖昧な言い方に逃げようとしたら、彼の返事も曖昧になった。これはもう、正直に言う方が良さそうだ。せめて、彼に対して最後まで誠実で在るために。
    「ずっと前っていうのは、つまり。……もう、三……年くらい、前」
     もう、彼の顔が見れなかった。この場から逃げてしまいたい。「僕と付き合ってください」も、もう言わなくてもいい。帰って、できればこれからも友達でいてほしいとメッセージを送って、それで、次に顔を合わせるのは一週間くらい先にすればいい。そうすれば、優しい彼ならうまく合わせてくれるはずだから。僕はそんな風に、今日という日をなかったことにする方法を考えた。明日からはまたニューヨークの犯罪者予備軍をこらしめたり、困っている人を助けたりする。そうやって日常を取り戻していけばいい。そこに彼がいなくても。
    「三年、か。そんなに長いとは……」
     驚いているのか引いているのか。声色からは判断がつかなかった。視界の端で、黒い手が頬を掻くのが見えた。
    「それで……、これって、交際の申し込みだと受け取っていいのか」
    「……」
     何ということだろう。「僕と付き合ってください」という意味合いまで彼にくみ取ってもらって、言ってもらうなんて。こんなに情けない告白はそうそうないと思った。今この瞬間のニューヨークで一番みじめな人間は僕だと思った。
    「それは、そうだけど……」
     夢見て答えた訳じゃない。本当に彼と付き合えたら、なんて。この店から出たら、来る時よりも少し肩を近付けて歩いて帰って、やがて手を繋げるようになって、いずれはキスとか、できればその先も。それが僕の妄想の中でしか成立しない話だと分かっていた。それに、今後はそんな妄想をする元気もないだろう。彼を忘れるにはちょうどいい。
     彼はしばらく黙っていた。溶けた氷がずれ動き、グラスの中で音が鳴る。彼はひとつ静かに深呼吸すると、体を引いて、椅子の背もたれに身を預けた。テーブルとくっついていた腕が離れていく。僕は、彼に何を言われるか考えていた。一番僕のダメージが少ないのは「気持ちには応えられないけど、好きになってくれてありがとう。でももっと好きになれる人を見つけてくれ。ピーターとは友達のままでいたいんだ」だった。すごく僕に都合の良い内容だけれども、恐ろしいことに、彼なら一言一句の差異もなく同じ台詞を言ってしまう可能性が高かった。逆に、フラれた後に「本当に好きになれる人を見つけてくれ」とかそういった類いのことを続けられるのは勘弁して欲しかった。迷惑なのは分かっている。それでもこの想いをなかったことにされるのは嫌だ。三年も片想いしていたと知ってしまった彼ならきっとこんなことは言わないだろうが、そんな万が一のことを考えてしまうくらい、怖くて──。
     でも、実際の彼の返事はシンプルだった。そして僕が全く想像していなかった内容だった。
    「いいよ」
     僕は顔を上げた。目が合った彼は、感情を読み取りづらい表情をしていた。それこそ困ったような顔はしておらず、いつもの難しそうな顔でもなく、僕を落ち着かせようと微笑むのでもなく。
     彼はそれだけ言うと、アイスコーヒーのグラスを手を取り、底に沈んだガムシロップをかき混ぜ直してから一口飲んだ。グラスの表面では結露が発生して水滴がついていた。彼の右手が濡れる。
    「……」
     僕の頭は、彼の言葉の意味を理解できないでいた。
    「あー……意味が分かんないって顔してるな」
     アイスコーヒーはもうほとんどなくなっていた。僕は頷く代わりにコーラを飲み始める。彼のと同じように垂れた水滴がコースターとテーブルを濡らした。
    「俺もピーターのことが好きだから付き合おう。本当に、俺で良ければ。……って言ったんだ」
     夢か何かだと思った。彼が、僕のことを、好き。そう言った? 信じられない。コーラがどんどん減っていった。半分くらいでやめて、炭酸ガスがせり上がってくるのを飲み下した。危ないところだった。ところで、「俺で良ければ」って何だろうとぼんやり考えた。そんなの、僕から告白したのだから、聞く必要ないのに。
    「僕は……バッキーが良いんだ」
    「……そっか」
     彼は目を伏せて笑った。もう混ぜる必要のないグラスの中で、氷がガシャガシャとストローに叩かれる。それが、照れているが故の動作だと気付いて、僕は初めて、彼を可愛いと思ったのだった。

     店を出てから、彼の気持ちと同じかは分からないけれど、同じ疑問が浮かんだ。
    「僕で良いの?」
     彼はくすりと吹き出した。「ピーターが良いんだよ」とあっさり言って、僕の頭をぽんと叩いた彼の表情はよく見えなかった。
     彼は、できれば周りにはこの関係を言わない方がいいだろう、と言った。たしかに、スタークさんには言いづらい、と僕も思ったけれど、彼の言うところの「周り」はもっと遠いところにいる人たちを指していた。信用できる人には知られても構わないけれど、そうじゃない人は想像でものを語るから厄介だと。彼が言うと説得力があった。いまだに、彼はウィンター・ソルジャーについてあることないことを言われている。彼がそんな問題に苦しまされたりしない日が来れば良いけれど、その点に関して僕ができることは少なかった。
     ともかく、そうして僕たちの交際は始まった。やっぱりこれは夢かもしれない、僕はこれまで恋人がいたことがないし全然続かないかもしれない、という不安は芽生えたものの、実際のところは心配なかった。もともと友達だったこともあって、メッセージを送り合う頻度や、二人で会う回数が増えたとかそういう変化しかない日々が続いたんだ。でも僕の我慢は長く続きそうになかったし、たぶん彼も、僕がそういう意味でも彼を欲しいと思っていると気付いていたはずだ。ようやく、映画館デートの帰りにキスできた日、彼は僕の背に腕を回して応えてくれた。僕が熱のこもった視線で見上げると、彼は、頬を赤らめて囁いた。「ホテルを取るのは、もう少しだけ待ってくれ」と。彼が先に進もうとしてくれているだけで嬉しかった。でもそれ以上に、その後に告げられた「愛してる」の言葉に満たされた。正直な話、その晩はキスとかその言葉を思い返してしまって眠れなかった。



    「え? じゃあ、バッキー・バーンズと付き合ってるの? バッキー・バーンズのそっくりさんじゃなくて、本物の、あの、バッキー・バーンズ?」
     ネッドにバレたのは、僅か一ヶ月後。大学院に入った後だった。ネッドは僕と同じく大学院に進んだ。学科が違うので昼食を一緒にとる時しか会えないのが少し寂しい。ネッドに対して、彼とのことを意図的に隠そうとはしていなかった。わざわざ言う機会がなかっただけで。それが、ネッドの知り合いの女の子がどうやら僕のことを知りたいと言ってきたらしく、友達で良いなら構わないよとネッドに答えたところ、ずるずると情報を引っこ抜かれた訳だ。いずれ知られるとは思っていたけど、早すぎた。
     何となく、ネッドと目を合わせて話すのが照れ臭くて、昼食をパスタにして正解だと思った。フォークを睨みながら、ぐるぐるとスパゲッティと茄子、挽き肉を巻き込んでいく。ちなみにネッドはハンバーグセットにした。
    「そうだよ」
    「マジで……?」
    「マジで。絶対に、誰にも言わないで。絶対にだよ」
    「言ったら?」
    「……椅子の男に休業してもらうかも」
    「……」
     ネッドはごくりと喉を鳴らしてハンバーグを呑み込み、ぷるぷると首を降った。当然ながら、椅子の男を辞めさせるつもりなんてない。でもネッドにはこれくらい言っておかないと。ネッドが口を滑らせる心配があるかどうかという問題よりも、僕がどれだけ彼とのことに本気であるかを知ってもらうための手段だ。
     もしかすると、「ところでピーターって男も好きだったんだ?」と聞かれるかもと思ったけれど、ネッドが気にしたのはそこじゃなかった。
    「でもさ、バッキー・バーンズと付き合ってるってすげえ! ──って思ったけど、彼が普段どんな人かなんて、俺、全く知らないし、想像つかないっていうか、具体的にどうすげえか分かんないや」
    「バッキーは……」
     ネッドが言うことも一理あった。でも、彼の魅力を説明するのは難しかった。もちろん、彼に魅力がないという意味ではなくて、例えば「とにかくかっこいいんだ」なんて言っても説得力がないし、「横顔がセクシーなんだ」ってわざわざ他の人に言いたくない。どうしようかなと考えて、昨日、彼が遅くまで仕事をしていたことを思い出した。
    「……誠実な人なんだ。ワカンダの大使館で、困ってる人を助ける仕事をしてる。……具体的な内容は知らないけどね。いろんな人のことを考えてるんだと思う。僕の進学のことも気にかけてくれてたし」
     うんうん、と頷きながら聞いていたネッドだけど、そこで首を傾げた。
    「いい人なのは分かったけど。でも最後のやつは、それってバッキー・バーンズがピーターのこと好きだったからだろ?」
    「あー、そうなのかな……」
     だとしたら嬉しい。パスタはフォークに綺麗に巻き取られているのに、意味もなくフォークを回し続けてしまう。
    「そうだよ。彼がいつからピーターのこと好きなのか知らないけどさ」
    「──」
     ぴたりと手を止めた。顔を上げると、ネッドがハンバーグの付け合わせのポテトを食べているところだった。瞬きを繰り返す僕と、ひたすらポテトを食べ進むネッドと、見つめ合うこと約一〇秒。ネッドがついに手を止めた。
    「……もしかして、バッキー・バーンズがいつからピーターを好きか、聞いてない?」
    「聞いてない」
    「じゃあ、じゃあさ、もしかして、ピーターのどこを好きなのかも聞いてない?」
    「それも、聞いてない」
     ネッドがナイフとフォークを置いた。あのネッドが。ナイフと、フォークを。
    「ええ……、聞けよ……。気になるじゃん……」
     そんなこと、考えもしなかった。だって、彼が僕を好きだなんて知ったのはついこの前で、それまではそんなこと有り得ないと思っていたから。
     一度思い付いてしまうと、ネッドの言う通りすごく気になるものだ。彼は、僕のどこを好きになってくれたんだろう。それで、いつから? 僕が彼のことを三年前から好きだと知って「長い」と言ったから、たぶんもう少し最近だろう。彼も、自分が僕に好かれているとは思いもしなかったのだろうか。あんなに素敵な人なのに。



     それはさておき、目下、解決すべき問題があった。僕は人生で初めてワシントンの観光地を調べた。ニューヨークじゃダメだ。ニューヨークの映画館帰りでは、ホテルには泊まれない。デートの終着点はいつだって、アベンジャーズの基地か、クイーンズの僕の家の近くか、ブルックリンの彼の家の前。そこでさよならだった。たまに、僕が休日にも関わらず昼から大学院に行く予定があって、それまで彼が僕の部屋に遊びに来てくれてることもあった。でもやっぱりホテルとは違った。別に、僕に彼をその気にさせる技術や勇気がなかったとか、時間帯だけのせいではなかった。僕の部屋に彼がいることが奇跡的すぎて落ち着かなかったんだ。ワカンダの技術力なんてみんな当然知ってると思うけど、つまり、僕の部屋に誰かホログラム装置でも仕掛けてるの、って聞いてしまいたくなるくらい、現実味がなかった。考えてもみてよ。三年好きだった人が、僕の、部屋に。
     ともかく話を戻すと、ワシントンなら、たっぷり観光してしまえば日帰りは厳しいだろう、というのが僕の目論見だった。やっぱり一番行ってみたいのはスミソニアン博物館。国際スパイ博物館は彼が楽しくないだろうからパス。ワシントン記念塔も外壁を登った思い出が過るから避けたい。議会図書館はどうだろう。彼は何ヵ国語も話すし、本を読んでいるところもよく見かける。
    「それで、さ。スミソニアン博物館にも行きたいし、来週の末……土曜日と日曜日に、どうかなあって」
     ようやく、僕の部屋の小さな二人がけのソファに彼が座っている状況に慣れてきたのは三度目のお部屋デートの時だ。デートと呼べるのかは分からないけれど、手渡された僕のスマホを操作する彼の横顔を見るだけでドキドキする時期もあったことを思えば贅沢なものだと思う。ワシントンの観光地リストが載ったサイトを右手の親指がスクロールしていった。彼の左手もスマホの画面を操作することはできるらしいけれど、手袋がないと画面を傷付けるのが嫌みたいで、実際にタップしているところを見たことはなかった。その代わり彼は、左手にスパイダーマンのクッションを抱えていた。もちろん僕のだ。ファンの人がアベンジャーズの基地に送ってくれたものだった。そのクッションの顔がぶにゃりと歪んだ。見ると、彼の横顔には影が落ちていた。
    「デートは、嬉しいけど」
     彼はちらと僕を見て、どこか困ったように笑ってみせた。その時点で僕は、計画が失敗することを察した。彼の左手がするりと伸びてきて、人差し指と中指の先が僕の頬骨に触れた。ひんやりと冷たいのに、距離の近さに僕の頬は火を噴きそうなくらいに熱くなった。するり、と爪先が僕の目の下をなぞる。
    「大学院、忙しいんだろ」
    「……」
    「あんまり寝てない、って顔してる」
     それは事実だった。目が疲れていたのかどうかは分からないけれど、彼がとても心配してくれているのは分かった。きゅっと下唇の真ん中が突き上がっていて、眉は下がっていて。彼にそんな顔をさせるのが申し訳なかった。だって、大学院に入り浸っているのはたしかだけど、睡眠時間が減っている原因は研究だけではなかったから。パトロールの時間が遅くなってしまったり、ワシントンのことを調べたり、夜中、彼のことを考えてしまったり。一番最後の理由は特に深刻だった。
    「それは……」
     もしかして彼は、僕ほど、先に進むことを望んでいないのだろうか。僕より大人だし、焦る気持ちもないのかもしれない。僕は彼のことで頭がいっぱいだけど、彼はそうではないのかも。──そんなことを考えて一人へこんでいると、彼が言う。
    「……今までと違うデートがしたいなら、俺の部屋にでも来る?」
    「えっ」
    「ワシントンまで行くのは時間もかかるから、また今度な」
     良かった、ワシントンに行きたくない訳ではないらしい。──という話をしている場合ではない。僕の頭はこの数秒でパンク寸前だった。「今までと違うデート」の解釈が僕と彼の中で微妙にずれている可能性は高いけれど、それよりも今、彼は何と言った? 俺の部屋? 俺って誰? バッキー?
    「……あ、遊びに行っていいの」
     彼はクッションの腕をつついて遊びながら答える。
    「ん。俺ばっかりピーターの家にお世話になってるし。それと、スティーブにももう知られたし」
    「あ……、そ、そうなんだ……。ええっと、僕も、ネッドに言ったよ」
    「ああ、あいつか。うん、いいんじゃないか」
     キャプテンに知られたのは構わない。欲を言うと、その時の反応が知りたかった気もした。それと、彼の家に行けると舞い上がっていた僕は一気に冷静になった。そうだ、彼のところにはキャプテンも住んでいるんだった。遊びに行けてもお泊まりじゃない。メイおばさんと僕が暮らすこのアパートと同じだ。何の進展も望めない。彼の部屋には入ってみたいけど。どんな感じなんだろう、すごく気になる。残念ながら「目指せ、ワシントン計画」は頓挫したようだ。彼にならってもっと長い目で今後のことを考えるか、別のアプローチをしてみせるしかないだろう。どうせ後者になるだろうなと思いながら、彼に返してもらったスマホのブラウザを閉じたら、クッションで遊んでばかりの彼が呟いた。
    「来週末だったら、スティーブ、いないし」
    「……、……えっ?」
    「シャロン・カーターって知ってるんだっけ。あの人の仕事の関係で、ロンドンに行くらしくて……」
    「……」
     どうやら、僕たちの「今までと違うデート」の解釈は一致しているようだった。彼は何気ない様子でキャプテンの予定を延べたけれど、髪のかかる耳は真っ赤だったのだ。
     これってそういうことだよな──と、思考をぐるぐる回転させている内に、手元からスマホが落ちた。スパイダーセンスは働いたのだけど、あろうことか僕は彼から視線を外すことさえできず、結果的にスマホの角が足の甲を直撃した。スニーカーではなく室内用のサンダルを履いていたのは最悪だった。かなりの痛みが走ったにも関わらず、僕は微動だにしなかった。
    「ピーターって分かりやすいよな」
     彼はスマホを拾ってくれて、僕の手にぽんと置いた。ありがとう、と告げたはずが、声が掠れていたので咳払いした。
    「えっと……、……隠すのが下手で、がっつき過ぎだっていう自覚はあるから、バッキーに引かれるんじゃないかって思う時があるよ」
    「何だそれ」
     彼は目を伏せて笑い、首を振る。良かった。今のところ、引かれずに済んでいるようだ。
     彼の笑顔を見るとほっとする。彼といると、ドキドキしたり、リラックスしたり、今のままでも十分楽しいのに、もっと深い繋がりが欲しくなったりする。彼は僕といてどんな気持ちなのだろうとふと気になった。それで、ネッドが言っていたことを思い出した。
    「……ねえ。ひとつ、聞いてもいい?」
    「ん?」
    「バッキーは、……その、僕のどこを好きになってくれてるの」
     彼は幾分か目を見開いて、きゅっと唇を横に引いた──気がする。自信をもってそう言えないくらい、僅かな変化だった。分かりやすかったのは、クッションを抱いたままの左腕に力が入ったことだけ。クッションは相当気に入られたらしい。彼の左腕にくたりと体を預けるスパイダーマンが羨ましくさえ思えてきた頃、一瞬の沈黙なんてなかったかのように彼が微笑んだ。
    「……好きなところか。かっこいいし、優しいところだな」
     たぶん、彼のその一言は嘘ではなかったのだろうと思う。僕が本当に彼が思うような、かっこいいし優しい男かは置いておいて、嬉しかったのは確かだ。照れ臭くて、「そう」と鼻を掻くしかできなかった。でもどこか、無難な台詞でかわされてしまった気がしてならなかった。
     彼は帰りがけ、スパイダーマンのクッションの写真を撮った。形と、クッションの反発力が絶妙なので、自分用に買って職場の椅子に置くんだと嬉しそうだった。



    「……逆じゃなくて?」
    「それ、言われると思った……」
     いよいよ明日は彼の部屋に行くぞという金曜日のこと。実験の片付け当番だったから、ずいぶん帰りが遅くなってしまった。ちょうどまだ大学院にいたネッドが手伝ってくれてなかったら、何時になっていたやら。お客さんの減ったファミレスの隅でヒソヒソと話す。ネッドの夕食はステーキで、僕も何だかがっつり食べたい気分でそれにした。今日はお礼も兼ねて、僕の奢りだ。
     ネッドの言う「逆」というのは、つまり、男同士のセックスについてだ。別にそんなところまでネッドに言う必要はなかった。でも、片付けの途中で、初めて彼の部屋に泊まるから明日のスパイダーマンのパトロールは無し、となるべく事務的に伝えたら、やけに「相手は超人だし」とか「あとは俺が片付けとくからゆっくり休めよ」とかとにかく体を大事にするように言われたんだ。それで、逆に思われてるのは何となく居心地が悪くて、ご飯の時にあれだけど僕が彼を抱くつもりなんだって言ったら、いつかのようにネッドがナイフとフォークを置いた。まだステーキは半分も残ってるのに。
    「誤解してたよ、ごめん。デリケートな問題だよな。勝手に決めつけてごめん」
     そこまで改まれるとこちらも困るので、早くステーキを食べるようにアゴでフォークを指す。
    「いや、うん、いいよ。なんか、仕方ないし。彼も、そうだって察して最初は驚いてたみたいだし」
    「それもオッケイってことは、よっぽどピーターのこと好きなんだな、彼も。いいじゃん。うまくいってて」
    「……そのことなんだけど。聞いたんだ。僕のどこを好きなの、って」
     ネッドは残りのステーキをざくざく切り始めて、「それで?」と続きを促してきた。
    「かっこいいし、優しいところ、……だってさ」
    「……」
     ネッドはもぐもぐと肉を頬張りながら、不満のありそうな顔をした。ぎゅっと眉が寄って、意味ありげに瞬きをした。
    「よく考えてみたら、相手の好きなところを説明するのって難しいけど……でも、何か、はぐらかされたというか、ちゃんとした答えを言ってもらえなかった気がして。欲張りかな」
    「気持ちは分かる」
     うんうん、と頷いて、ネッドはコーラをごくごく飲んだ。僕も一切れステーキを食べ進めたけれど、お腹いっぱいになってきていたし、何となく食欲も失せてきた。
    「彼、スパイダーマンのクッションを買ったんだ。あの、分かるだろ? 僕の部屋にある……」
    「ああ、あれね。かなりしっかり反発するやつ」
    「そう、それ。すごく気に入ったみたいで。ネットで注文して、今日家に届いたんだって。さっき、写真が送られてきた」
     ネッドは、「あー」と納得したようにぼやいて、でも首を振った。
    「ピーターが言いたいこと、想像ついたけどさ。……そんな理由じゃないと思うけどな。ピーターがそうなる前から友達の俺が言うんだから間違いないって」
    「……うん。ありがとう、ネッド」
     ネッドにそう言ってもらえるのはすごく心強かった。
     僕だって、できればこんなことを考えたくはないんだ。彼はスパイダーマンのファンで、だから僕と付き合ってるんじゃないか──なんて。スパイダーマンは僕なのだから、それって結局は僕のことが好きってことでいいじゃないか、と考えることだってできる。そもそも僕はスパイダーマンにならなければ彼と出会えなかった訳だし。だから気にしても仕方ない、って分かってる。でも、彼がいつか、「この前ニュースでスパイダーマン見たぞ」って声をかけてくれた時の笑顔をうまく思い出せなくなるくらいには、僕はスパイダーマンという存在に嫉妬してしまっていた。
    「とりあえず、明日は何か変な動きがあっても、匿名で警察に通報するだけにするよ」
     ネッドはいつの間にかステーキを完食していて、僕も後を追いかけた。

     おばさんは僕が男性と付き合っていることをうっすら知っていた。これは僕が間抜けだったんだけど、電話してるのを聞かれちゃったんだ。ほっとしたのは、「貴方はもう一人前の男だけど、困ったことがあったらいつでも相談しなさい」っていつもの明るい声で言ってくれたこと。ただ今回は、デートの服装を、おばさんに頼らずに決めてしまうことを許してほしかった。
    「ネッドの家に泊まってくるよ」
    「あら、そうなの。それだけにしてはずいぶん男前な格好をしてるけど」
    「うん。……うん。……いってきます」
    「いってらっしゃい。お相手に……じゃなくて、ネッドのお母様によろしく」
     おばさんに「男前」と言われるのはとても名誉なことだった。家を出れば、一〇月らしい冷たい風が吹いていて、夜になってから羽織るつもりだったジャケットをさっそく着てしまった。彼もちゃんとあったかい格好をして待ち合わせ場所に来るように祈った。

     デートと言っても、待ち合わせたらそのまま彼の部屋に行くだけだった。それぞれが夕食も済ませてから会おうと話し合ってたんだ。お互いがいろんな意味で初めてだというのをちゃんと伝え合っていたし、そんな状態で映画を見たり食事しても、後の事を考えて緊張してしまうだろうから、今夜はそのためだけに会おうと二人で決めた。そもそも彼には予定もあった。「クリニックの予約を取っている」と彼は言った。彼がここ二年ほど、月に三回の頻度でカウンセリングを受けていると知ったのは付き合い始めた翌週のことだった。ニューヨークの小さなクリニックで受けているらしい。そう教えてくれた彼は俯いてばかりだった。だから、何のためにカウンセリングに通っているのかを僕から聞くようなことはしないでおこうと思ってる。
     彼の家に一番近い、地下鉄の出口。それが待ち合わせ場所だった。だいたいの時間しか聞いておらず、カウンセリングが終わったって連絡もまだ来ていないのに家を出たのは慌てすぎかと思ったけれど、地下へ続く階段の脇にある柵に凭れ掛かると、ちょうど彼からメッセージが届いた。あと一五分ちょっとで着く、という内容。僕も同じくらいに着きそう、と返した。地下鉄に乗っている彼を急かしたくはなかった。一五分。夜になったばかりの空を見上げたり、横切る車をぼんやり眺めて心を落ち着けるにはいい時間だ。
     肩をすくめて息を吐いた、その直後だった。
    「……あ」
     聞き覚えがある声が斜め下から聞こえた。振り返ると、スマホを両手で持った彼が、階段をちょうど上りきったところだった。目が合って、間違いなく彼だよなと頭の中を整理する。階段の終わりで立ち止まって僕を見ていた彼は、後ろから上ってきた人とぶつかりそうになり、「すみません」と避けて僕の真ん前に来る。間違いなく彼だった。
    「……あ、あれっ? あと一五分、って」
     見間違いかな、とスマホを見ても、やはり一五分と書いていた。今来たメッセージなのにおかしい。こんな時に電波の調子が悪いなんて、これだからニューヨークの地下鉄は──そこまで考えたところで、ようやく気付いた。僕たちがこんなところで似た者同士だなんて知らなかった。彼も察したようで、ぐしゃぐしゃと頭を掻いて笑った。
    「何が、同じくらいに着きそう、だよ。いつからいたんだ」
    「今だよ! これは本当。本当に、たった今」
     それを信じてくれたのかは分からないけれど、彼はポケットにスマホを雑にしまった。
    「あー、恥ずかしい。もう、早く行こう」
     彼の顔は面白いくらい真っ赤だった。彼はたぶん、僕からの返信はただの気遣いで、自分だけが照れ臭い思いをしたんだと勘違いしていた。僕だって一五分心の準備をしたかったよ、と訂正することもできたけれど、わざわざ顔から火が出るような気持ちになる勇気はなくて、彼には悪いけれど黙っておいた。彼は余程恥ずかしかったんだろう。いつもより早歩きで、両手もポケットに突っ込んでいたから手さえ繋げなかった。僕より薄着だったけれど寒そうにしてるようには見えないからいい。目立った会話と言えば彼が僕のジャケットをいい色だと誉めてくれたくらいで、とにかく、結果的に、彼の家にはあっという間に着いてしまった。
     いつも「また今度」を言う場所だった、彼の家の前。玄関は階段を上ったところにある。僕は階段の下から、彼がクリーム色のドアの前で振り向いてくれるまでその背中を眺めて、それでお互いに手を振ってから帰るパターンを数回繰り返していただけの場所。今夜は違う。彼の後ろについて階段を上るのは新鮮な気分だった。鉄骨でできているそれが、一段上る度にがたがた鳴って驚いた。彼はドアノブの近くにブレスレットを翳した。ワカンダで支給されてアメリカに持ち込んでいるキモヨビーズを改造してキーにしてもらったらしい。キャプテンはブレスレットを持っていないので、カードキーを使っているのだそうだ。
    「どうぞ。散らかっちゃいないが、綺麗でもない」
     彼は僕を先に玄関に通してくれて、電気を点けてからドアを閉めた。玄関の隅には靴べらと傘立て。靴箱は二人暮らしにしては大きくて、なのに天板の上はすっきりと片付いている。壁には鏡と、フックのついたコルクボード。今は何もぶら下がっていないけれど、キャプテンのバイクの鍵はここにかけられるのかも。
    「スティーブと部屋を探してる時、スタークが紹介してくれたんだ。知っての通り、入り組んだところに建ってるけど、天井も低くないし、部屋数は十分だし、外見より広い」
    「いいところだね」
     彼曰く唯一の欠点は、ベランダが狭すぎて、洗濯物を乾燥機で乾かすしかないということらしい。何にしろ、特別、今すぐ必要な情報ではなかった。彼はいつもより口数が多かった。もう既に構えてしまっているというか、緊張してるのを隠そうとしているようだった。僕は緊張を通り越してハイになりそうだった。リビングに通してもらって、彼にジャケットを預けてハンガーにかけてもらった時、うわあ何か同棲してるみたい、なんて浮かれてしまった。彼はソファにでも掛けてくれと言ってくれたけれど、L字ソファのど真ん中にあのスパイダーマンのクッションが置かれていたのが気まずくって、僕は彼がダイニングキッチンに行くのについていった。彼はちょっと驚いた顔をして、冷蔵庫を僕から見えない角度で開けた。
    「えっと……何か、飲み物でも?」
    「ありがとう、いただこうかな。何があるの?」
    「ミルクと、アップルジュースと、……スティーブが飲んでる野菜のはお薦めしない。……温かいのは、ミルクか……、あと……コーヒーだな。……あ、カフェインはコーラ程度じゃないと無理なんだっけ」
     彼の声はだんだん小さくなっていった。横顔からも、どうしよう、という心境が丸分かりだった。考えてみたら当たり前だ。僕より彼の方が緊張したって何もおかしくない。彼の部屋だからって引いてどうする。彼に任せきりはいけない。格好だけが男前なんじゃ意味がない。
    「バッキー。僕、今日を楽しみにしてたんだ。だから、今、すごく嬉しくて」
    「……俺も」
     パタン、と冷蔵庫が閉まる。庫内から押し出された冷たい空気が一瞬漂って、文字通り頭を冷やしてくれた気がした。数秒冷気に曝されていた彼の体に抱き付いた。彼の両腕が僕の背に回る。硬い左腕の感触にももう慣れてきた。そのまま僕の肩口に頭を埋めてきたと思ったら、蚊の鳴くような声が声がした。
    「……ピーターは、そのままでもいいけど」
    「ん?」
    「俺は、シャワー浴びてくるから、向こうの、俺の部屋で、待っててくれ」
     もちろん、「俺の部屋」とは寝室のことだった。僕はうんうん頷いて、しばらくお互いにハグを解くタイミングを見失っていたけれど、どうにか彼はシャワーに向かうことができた。
     寝室で待つ、と一言に言っても、ものすごく手持ち無沙汰で、鞄を適当にベッドの隅に放ってみてもその横に座ることはできず、ただただ部屋の真ん中に突っ立った。広くも狭くもない、部屋の面積の半分をベッドが占めている寝室。綺麗にベッドメイキングされていて、半分に折り畳まれたグレーの掛け布団もほとんど皺がない。枕カバーは無地の水色だった。ナイトテーブルの上にはランプと、テレビの中でしか見たことのない形の、アナログの目覚まし時計。時計の針の音がかちかち鳴っているのなんて久々に聞いた。彼は毎日ここで寝ているのに、そこで彼を待っているのは変な気分だ。クローゼットは案外小さめで、扉に、ワカンダ語が書かれた付箋がいくつか貼ってあった。部屋のドアは少し開いたままだったから、シャワーの音が聞こえてきた。
     どれくらいの時間そうしていただろう。壁に貼ってある映画のポスターの女優さんも見飽きた頃、彼がやってきた。紺色のゆるいTシャツと、カーキ色のスウェットパンツを着た彼を呆然と眺めてしまった。彼はいつも長袖を着ているから、こうやって左腕をまじまじと見る機会は珍しい。暗い銀色に、金のラインが施されていて綺麗だ。
    「もしかして、ずっとそこに立ってたのか?」
    「え? あ、えっと。ポスター、気になって……」
     彼は、ぽすんとスマホをベッドに投げてから、僕の隣に並んでポスターをちらりと見た。でも、映画に関する説明は特になかった。口から出任せの「気になって」なんかバレバレだ。彼はくいと顎で天井を指して、「電気、このままでいいか」と聞いてきた。一瞬、意味が分からなかった。理解して、「そうだね」と答えた。薄暗い方がロマンチックだれど、慣れない内からそんなことを重視して、そのせいでベッドから落ちたりしたらダサいし。
     シャンプーの香りがして、ちょっとずつ、落ち着きかけていた心臓が騒ぎ始めた。意を決して彼の首筋に触れる。髭が綺麗に剃られていて、つるんとした手触りが、いつもと違う、という意識に拍車を掛ける。シャワーを浴びたばかりとは言え、彼の肌は、火傷しそうなくらい熱かった。いつだって大人の男の人って感じで頼りになる彼が、これから起こることの大部分を僕に委ねようとしている。でも僕はうまく背負える自信がない。ちょっとカッコ悪いかもしれないけれど、やっぱり上手に半分ずつに分けられないかな、なんて考えていたりするんだ。彼は、今夜のことを決める時、僕の好きにしていいと言ってくれた。それは嬉しいに決まってる。でも僕は、彼にも好きなようにしてほしい。もちろん反対に、彼が嫌なものは嫌だと教えてほしい。それで、二人ともが好きなことだけをやってみたい。だって、たぶん、セックスってそういうものだ、って思ってるから。まだ知らないなりの、漠然としたイメージや理想だけど。これから知ってしまうんだと思うと興奮した。相手が彼だということが夢みたいに思えて。
     彼の頭を抱き寄せて唇を塞ぐ。ほんのりと湿り気の残った黒髪がくしゅりと音を立てる。彼の方が背が高いので、僕は上向き、彼は顎を引いて下向きになる。ちゅ、と愛らしい音がするようなキスを繰り返した。いつもやっていることだ。お互いの唇の感触を楽しむみたいなキス。これも好きだけれど、今夜はもっと先に進みたい。彼の、味を知りたい──そんな風に思うのは、ちょっと下品だろうか?
     我慢できずに舌を伸ばして、彼の唇の表面を舐めた途端、彼がぐっと歯を食い縛る気配がして、唇もきちりと閉じられてしまった。柔らかい、むにむにとしたそれが少し固くなるのが分かる。ちゃんと「もっと深いキスがしたい」と伝えるべきだった。改めて、「いい?」と囁くと、彼は小さく頷いてくれた。もう一度舐めてみる。だんだんと彼の力が抜けていく。舌先が熱くなって、それが彼の吐息のせいだと気付いた瞬間、僕は無意識の内に彼の肩を強く抱き締めていた。お互いの鼻先が触れる。彼は俯いて足を一歩だけ下げる。それを合図だと受け取って、少し彼に凭れかかってみる。彼が僕の服を掴んで、ベッドに倒れ込んでいく。勢いに任せて、覆い被さってしまった。ベッドがぎしりと派手に鳴った。慌てて身を起こして、紐を緩めておいた靴を適当に脱ぎ、彼の腹辺りに跨がった形になる。当然、体重が乗らないように膝をベッドに立てているけれど、ベッドは僕の部屋のものよりもふかふかしていて、バランスを崩さないか心配だった。
     彼がベッドに横になるのを見るのさえ初めてなのに、それを見下ろしているだなんて不思議な気分だった。最近整えたという髪は、男の人にしては十分長いけれど、彼にはよく似合う。それが、破れた蜘蛛の巣のようにシーツに散らばっているのが綺麗だった。その真ん中では彼があの複雑な色の目を細めて、眩しそうに僕を見上げていて──。ああ、ダメだ。この状況をどれだけ冷静に呑み込もうとしたって、今すぐに彼に触れたくて堪らない。自分勝手に事を進めて彼を傷つけることだけはしたくないのに。一拍置こうと、はあっ、と吐いた息は馬鹿みたいに熱かった。
    「僕、……僕、うまく、できないかも」
     白状すると、彼が右手を伸ばしてきた。僕の頬と口元を丸い指先が這う。爪がしっかり短く切られていて、僕と一緒だ、と思った。
    「いいさ。たぶん、俺も下手くそだし」
     そう言って笑った彼は、僕が言いたいのが技術的な話ばかりではないことを察してくれていたと思う。相変わらず彼も僕と同じくらい緊張しているのは明らかだった。僕の耳元をくすぐる彼の手を取って、掌にキスする。彼の手首や指先から伝わる脈拍はいつもよりずっと速くて、力強くて。彼の手を僕の首筋へ這わせてあげたら、彼もこっちの脈動を感じ取ってくれたみたいだった。汗をかきそうなのもバレたかもしれない。
    「バッキー。僕は……、貴方のこと、全部知りたいんだ」
     僕が望むのはそれだけだった。自分を発情期の動物みたいに思ったりしたこともあるけれど、相手が彼じゃないと有り得ないし、自分が性的に満足したいという欲求以上に、僕の腕の中で彼がどんな顔をするのか、どんな反応を見せてくれるのかを、とにかく知りたかった。
     僕の「知りたい」がどこまで伝わったかは分からないけれど、彼は無防備に頷いた。
    「……今のピーター、俺がこれまでに見たことない顔してる」
    「そう……?」
     そんなに、欲の抑えられていない、怖い顔をしているだろうか。鏡があっても見たくないなと思っていたら、彼が左手で自らの口元を隠した。
    「今すぐにでも、さっきできなかった深いキスをしてきそうな顔……」
    「──」
     照れ臭そうに仕掛けてくるなんて反則だった。僕は余裕ぶって「そんなに分かりやすかった?」と返すべきところを、気付けば彼の両手をシーツに縫い止めて、唇を奪っていた。彼が「ン」と鼻にかかった声をもらしただけで腰の辺りがずくりと重くなった。どうしよう。彼は、本当に僕に抱かれてくれるんだ。こんなのうまくできなくても仕方ない。開き直るみたいだけど、僕は彼に対してだけは、白旗を振るのに慣れてるんだ。



     こういうのって、後始末してる内に熱は冷めるものなのだと思ってた。正直に言うと今も彼の肌に触れたいと思う。ずっと触れていたい。朝まででもいい。でも彼は緊張やら何やらで僕より疲れきっているし、僕もすごく元気というほどでもない。とにかく、今日はこれでお仕舞い、というのは察したので、我慢した。
     まだ全然遅い時間じゃないけど、ベッドから動きたくなくて、「シャワーは明日でいいかな」と聞いた。彼は頷いて、ベッドの端に追いやられていた枕を引き寄せた。僕も布団の中に肩の辺りまで潜り込む。枕はひとつしかないから、普通に寝ると高さが足りなくて彼の顔が見えない。くたくたのシャツを適当に丸めて頭を乗せる。目が合うと、彼が「ああ」とすまなさそうな顔をした。大きめの枕を僕の方に寄せてくれたけど、もしこれに二人で使うとしたら、ずっと体を横にして向き合って、キスしそうな距離まで詰めないといけなくなる。現実的ではないと判断したのだろう、枕が再び彼の方に引いていく。
    「……枕、ピーターのも買っとく」
     彼はこういうことを不意に言うからちょっと困りものだ。そんな風に言われたら、次にまたこのベッドに来る時のことを考えてしまう。
    「これでいいよ。……体、平気?」
    「何ともない、って言ったら嘘になるけど、平気」
     彼が平気って言うなら大丈夫なのだろうと判断した。「どんな感じ?」「マッサージしようか?」と聞いても良かったけれど、平気と答えた彼は困ったような、恥ずかしそうな顔をしていたから、たぶんあまり根掘り葉掘り聞かれたくないだろう。もぞりと布団の下で体が動いた。さっきまでも、「痛い」じゃなくて「変な感じがする」って言っていたから、その感覚が残っているのかもしれない。
     僕たちの初めてのセックスは、とても上手くできた、と思う。僕は彼相手でなくても初めてだったから、ネットでいろいろ調べておいた。その甲斐もあったし、何より、僕に抱かれてくれた彼が今日までに準備してくれていたから上手くできたんだと思う。
    「明日、動きづらいとかあったら教えてね」
     キャプテンが仕事から戻るのは明日の夜らしい。それまでは一緒に過ごしたかった。
     彼は頷きつつ、顎や首元を掻いた。その皮膚が少しずつ赤みを帯びていって、どうしたのかと思ったらそっぽ向かれてしまった。
    「バ、バッキー? どうしたの」
    「何か……ピーターって、優しすぎるし、情熱的だな、ほんと……」
     あっちを向いた彼に引っ張られて、ずるずると掛け布団も移動していく。僕の分がなくなっちゃう。素っ裸で外で寝ても風邪を引かない自信はあるけど、そういう問題じゃなかった。せっかく彼と同じベッドで寝るのにこれは寂しい。慌てて彼の背に抱きついた。
    「情熱的って……えっ、あ! ごめんなさい、しつこかった?」
    「違う。嫌だったとかそういうんじゃなくて……その、思い出したら……。分かるだろ。顔を直視できないっていうか、ええっと……」
     抱き合う前からある妙な恥ずかしさは僕もまだ残っていたから、彼の気持ちも分からなくはない。でも背中を見ながら寝るなんてあんまりだ。彼は後ろ髪まで綺麗だから見飽きることはないけれど、やっぱり顔が見たい。彼はナイトテーブルの方へ手を伸ばした。そこに乗ってた時計やローションのボトル、ゴムの箱も払い除けて、ランプのスイッチを入れる。薄橙のランプがぼんやりと灯ったかと思ったら、その隣のスイッチも押した。こちらは部屋全体の電気のスイッチだったようで、部屋が薄暗くなる。
    「これならまだ良い。照れ臭いんだ、悪く思うなよ」
     そこで彼はようやくこちらを振り返ってくれた。淡い光に照らされた頬はそれでも薄い赤色に色付いているのが分かって、どきん、と心臓が跳ねる。こういうのって、たぶん、あれだ。色っぽい、ってやつだ。
    「……ねえ、次はこのランプだけ点けてしたいな」
    「……? どうしたんだ、いきなり」
    「だって、ムードって言うの? 良い感じだし、すごく、素敵だ……」
     彼は数秒だけぽかんと口を開けたけれど──ついでに言うとその唇の間から覗く舌にも僅かに光が届いていてぬらりとした質感が見て取れて僕はますますドキドキした──、すぐに意味を察したのか、ランプまで消してしまった。今度こそ部屋が真っ暗になる。僕も彼も夜目が利くから問題はなかった。カーテンの隙間からの街明かりのおかげで、お互いの顔は何とか見える。
    「あのな……。次はちゃんと、ニューヨークだろうがワシントンだろうがホテルの部屋を取るぞ。スティーブがどっかに行く機会なんて滅多にない」
    「あ、そうだった。ところで、ホテルって大抵こういうランプあるよね?」
    「……それもそうか」
     さらりと彼も「次」を示唆したのが嬉しくって、幸せだな、と思う。
    「もう、眠いから寝る」
    「うん。ええっと、でも、バッキー、お腹空いてない……?」
     この僕の一言はちょっと失敗だった。いくら「お腹は空っぽのはずだ」という確信があっても、もうちょっと言い方があったし、そもそも彼は寝るんだと宣言したのだから何も言わないべきだった。案の定、彼はもぞもぞしながら掛け布団を引き寄せてお腹の辺りにかき集める。
    「空いたけど、明日にする」
    「食材があるなら、朝食は僕が作ってもいい?」
    「そこまでしてくれるなんて、至れり尽くせりだな」
    「だって。恋人の家でご飯を作るの、ずっとやってみたかったんだ」
     彼に奉仕したいという気持ちだけが先走っているのではなくて、以前から恋人ができたらしてみたかったことがいっぱいあった。こんなことではしゃぐなんて、ますますティーンみたいだと思われるかもしれないけれど、彼は当然、そんな風に僕をからかったりしない。
    「何作ろうか。卵とか、食パンとか、ある?」
    「あるけど……」
     大したものは作れないけど、朝食なら、おばさんが忙しい時に作ったりしてたし、どうにかなるはずだ。フレンチトーストとか、ハムエッグとか。そうだ、朝はまた寒くなるかもしれない。ミルクがあるって言っていたから、ホットミルクにして、蜂蜜を垂らしてもいい。何が食べたいか聞こうとしたら、彼がぽつりと呟いた。
    「……、……そうだな、パンケーキがいいな」
     どことなく、彼のイメージからすると意外なリクエストだった。彼の好物を知られたのは嬉しい。ふんわりと黄金色に焼き上がったそれがぱっと頭に浮かぶと、僕の方までお腹が空きそうになった。ナイフで切って、湯気と一緒に甘い香りが漂ってくる瞬間まで想像してしまう。
    「いいね、久々に作るなあ。楽しみにしてて」
    「……ん、期待してる」
    「バターと蜂蜜もある?」
    「…………う、ん。ある……」
    「? バッキー、──」
     今すぐ瞼が降りていきそうな感じでもないのに、彼の声は詰まり詰まりで。「どうかした?」と聞こうとした────その時だった。
    「……っ」
     彼の形の良い眉が寄せられたかと思うと、じわりと彼の瞳が潤んだ。暗いからって、この距離で見間違えるはずがなかった。でも僕は、彼が下唇を噛んで、喉仏を上下させ、ずず、と鼻を鳴らすのを、信じられない気持ちで眺めていた。さっきまで彼と抱き合っていた間と同じくらいか、それ以上に僕の心臓はばくばくと脈を打っていた。彼は視線を下に向けて何度か瞬きした。左目の目頭と、右目の目尻から水滴が零れていって、枕に吸い込まれていった。彼が泣くところを初めて見た。そう、初めてだ。さっきだって彼は泣いたりしなかった。気持ち良くて泣きそうな顔はしていた気がするけれど、実際に涙が零れるまでには至らなかった。
     再び僕と目が合った彼は、自分を落ち着けようとする時みたいに、はあ、と胸に詰まった息をゆっくり吐き出して、それで、僕に抱きついてきた。彼の額が僕の鎖骨の間に当たるくらいの位置だった。僕も彼の後頭部や背に手を回したら、肩に回された彼の腕に力がこもるのが分かった。
    「……大丈夫?」
     僕は、灯りの消えたランプシェードを見つめて問い掛ける。それでも彼の泣き顔が頭から離れない。
    「ん、……驚かせて、ごめん」
     小さな鼻声が胸元から聞こえてくる。
    「ううん。……どうしたの、って聞いてもいい?」
     きっと、「体が痛い」とか、そういう理由じゃない。そう理解していたのは、スパイダーセンスのおかげでも何でもなかった。
     彼の頭を撫でる。指通りの滑らかな黒髪からは、いまだにシャンプーの香りがして、その中にひっそりと汗のにおいも混じっていた。
     彼はしばらく黙っていたけれど、吹っ切れたように一呼吸した。告げられたのは、とてもシンプルな理由だった。
    「幸せだ、って、思ったんだ」
     ぎゅう、とさらに彼が強く抱き締めてくる。身体が丈夫で良かった、と思う。彼は口早に続けた。
    「本当に、ただ、それだけなんだ。けど、泣けてきて。変だよな」
    「変な訳ないよ……」
     変じゃない。素敵なことだと思った。ただ、彼がこうして感極まることは予想していなかったから、驚いたけれど。
    「今まで知らなかったけれど、バッキーのそういうところも、僕は好きだ」
    「……俺も、ピーターが好きだ」
     その後僕たちは、一度だけ長いキスをしてから、彼が僕に抱きついたままの形で眠ることにした。僕はすぐには眠ろうとせず、彼の鼓動を聞くのに集中した。ゆったりとしたリズムが心地好くて、結局、数分ももたずに彼と同じように夢の中に沈んでいった。

     翌朝の彼は昨晩泣いたことには一切触れずにパンケーキをぺろりと平らげてしまった。
     だから僕は、結局聞くタイミングを逃したままだった。何をって、「かっこいいところ」と「優しいところ」以外の、彼が僕を好きなところを、だ。ついでに言うと、彼が僕を好きになるきっかけとかあったのかな、といった似たような疑問も増えてしまったけれど、当然それも聞けなかった。彼の態度を見るに、「スパイダーマンだから好き」ではないのは確かなので、そこは安心していい。



     何も変わらないままで、一年が過ぎた。僕は相変わらず彼に夢中だ。付き合い始めた頃より好きになってると言いきれるくらいに。




    続く
    HLML Link Message Mute
    2020/05/21 21:08:18

    ホットドッグ・サンセット

    人気作品アーカイブ入り (2020/05/24)

    ピタバキ。模造EG後の平和アース。
    2018年9月~10月にTwitterに上げていたものを加筆修正したものになります。
    前編です。まずはお付き合いを始めるところから。
    ※後編のアップ時期は未定なので気長にお待ちください。
    #ピタバキ

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    • ゆるやかな秘密ステバキ(モブ視点)。とある二人のキャプテンファンの、インスタグラムの活用方法。
      肝心のステバキの出番はほぼ無く、主人公は第三者です。
      もともと、Twitterにて @stucky0703 様が毎週開催されている「ステバキ深夜のワンドロワンライ60分1本勝負」で書いたお話ですが、3時間ほどかかったので普通に投稿させていただきます。テーマは「SNS」でした。

      続編へのリンクをお話の最後に貼っております。

      #ステバキ
      HLML
    • ステバキワンライまとめ1(20180512-0623)Twitterにて @stucky0703 様が毎週開催されている「ステバキ深夜のワンドロワンライ60分1本勝負」で書いたお話のまとめです。20180512~20180623の7本をまとめております。
      ワンライとなっておりますが、実際は1時間~1時間30分かかっている上に、こちらでまとめたものは加筆修正をしておりますので、実質ツーライくらいに思っていただければ。
      #ステバキ
      HLML
    • ステバキワンライまとめ3(20180901-1222)Twitterにて @stucky0703 様が毎週開催されている「ステバキ深夜のワンドロワンライ60分1本勝負」で書いたお話のまとめです。20180901~20181222の期間に書いた6本をまとめております。
      ワンライとなっておりますが、実際は1~3時間かかっている上に、こちらでまとめたものは加筆修正をしております。ご了承ください。
      #ステバキ
      HLML
    • Surprise!ソーバキ。平和なアースのクリスマス。イブにソーと過ごせず一人でいるバーンズの元にロキが遊びに来るお話です。
      #ソーバキ
      HLML
    • ステバキワンライまとめ2(20180630-0825)Twitterにて @stucky0703 様が毎週開催されている「ステバキ深夜のワンドロワンライ60分1本勝負」で書いたお話のまとめです。20180630~20180825の6本をまとめております。(一部お休みしていたり、長くなったものは個別で上げたりしています)
      ワンライとなっておりますが、実際は1~3時間かかっている上に、こちらでまとめたものは加筆修正をしております。ご了承ください。
      #ステバキ
      HLML
    • No Problemサムバキ。バッキーを監視している人工知能のお話。いつも通り、特にやまもおちもいみもない感じのぼんやりとしたお話なので、さくっと読んでお楽しみいただければ。
      #サムバキ
      HLML
    • 砂時計に溺れるソーバキ。平和なアースの二人。友情と恋に対してソーが思い悩むお話です。
      Twitterで「原作どおりのスティーブとバッキーの唯一無二な関係に、もやもやしてしまうバッキーの彼氏(サムでも陛下でもソーでもどなたでも)」とリクをいただいて書きました。ソーとスティーブの関係性も好きなので、ソーバキにさせていただきました。リクありがとうございました。
      #ソーバキ
      HLML
    • 花火のない夜ソーキャプ。スティーブ99歳の誕生日。できてるけど遠距離が続いている二人の、ぼんやりした話です。
      CWの約1年後、らぐなろく、IWの約1年前くらいを想定していますが、矛盾あるかもしれません。ご了承ください。
      #ソーキャプ
      HLML
    • 時と天体は流れゆくティチャッキー。平和なアースでワカンダ⇔アメリカ遠距離恋愛中の二人。いつもアメリカに会いに来てもらってばかりのバッキーが久々にワカンダに行くお話です。
      Twitterで「ワカンダに一時帰国したバッキーと陛下のワカンダデート」とリクをいただいて書きました(その割りにデートシーン短いのでいつかリベンジしたいです…)。リクありがとうございました。
      #ティチャッキー
      HLML
    • 雨に恋する中編集(バキ受まとめ)右バキ詰め合わせ。雨に関する素敵な日本語をタイトルに、約2500文字の中編4つです。
      各ページにCPと設定を記載しております。お話の最後にはタイトルの意味も記載しておりますが、簡潔に書いていますので、どうぞご自身でも調べてみてください。
      やんわりとしたお話ばかりですが、雨の日のお供になれば幸いです。
      #ソーバキ #サムバキ #ステバキ #ティチャッキー
      HLML
    • 雪融けエムバキ。エムバクのいる山に行ってみたいバーンズ。
      服脱ごうとしたり何だりしてるのでR15くらいです。
      #エムバキ
      HLML
    • 臆病な幻サム+バッキー。2018年6月24日に発行されたサム+バッキー ミニアンソロに寄稿したお話です。
      発行から一年が経ちましたので、一部の文章を訂正した上で公開いたします。
      IWがなかったほとんど平和アースのお話。うっすらとCP要素を含みます。
      #サムバキ #バキサム
      HLML
    • エール色の滴現代AUソーバキ。
      【注意】エンドゲーム内の要素を含みます。
      ふんわり曖昧なので、細かい設定はお話読みながらなんとなく認識していただければ。
      #ソーバキ
      HLML
    • Twitter SSまとめ 9篇 (バキ受け)右バキ詰め合わせ。Twitterにて掲載済みのお話に加筆修正したもののまとめです。文字数は約1000~5000弱とバラバラです。
      各ページにCPや設定等を記載しております。最後のページだけ、他のお話とは毛色が異なります。
      #ティチャッキー #ステバキ #もやバキ #鷹バキ #サムバキ #ソーバキ
      HLML
    • BANG!鷹バキ。事後にいちゃついてる二人の短いお話。R15くらい。
      いろんなことを模造した平和アースでできてる二人です。
      #鷹バキ
      HLML
    • Twitter SSまとめ 14篇ほぼ右バキ詰め合わせ。Twitterにて掲載済みのお話に加筆修正したもののまとめです。文字数は約1000弱~5000弱とバラバラです。
      1ページ目の目次と、各ページにCPや設定等を記載しております。
      R15くらいのが入ってます。
      #ピタバキ #ティチャッキー #バキステ #サムバキ #サムバキサム #サムキャプ #ソーバキ
      HLML
    • 我が英雄の帰郷ピタバキ。エンドゲームから数年後の平和なアースでできてる二人。長期の任務に向かうバッキーと、その帰りを待つピーター。やがてバッキーが帰還するが、その時ピーターは…みたいなお話。
      #ピタバキ
      HLML
    • 2ポイントの落陽ティチャッキー。平和なアース(たぶんEG後)で遠距離恋愛中二人が、互いを夢見るだけのお話。
      #ティチャッキー
      HLML
    • Powder Snow右バキ。2020年1月に作成、ネットプリントにて頒布いたしました8p折り本「Powder Snow」の再録となります。
      「雪」をテーマに、ピタバキ、サムバキ、ステバキの短編3つです。1ページ目は冒頭1文を使った簡単な目次です。
      ※今後、再度ネットプリントとして頒布する可能性があります。
      #ピタバキ #サムバキ #ステバキ


      下記、折り本頒布時奥付情報

      公開日: 2020/1/26
      タイトル: Powder Snow
      著者: HLML
      発行元(サークル名): 架空ランタン
      折り本作成使用ツール: Ottee http://pinepieceproject.biz/ottee/download.html
      表紙画像配布元: Pexels https://www.pexels.com/ja-jp/
      HLML
    • 誰かが待つ家 + 珈琲味の想い人バッキー×サム。2020年5月に発行された、バッキー×サム アンソロ「Home.」(主催者: はるぱちさん Twitter: @happymodok )にゲスト参加し、寄稿したお話です。
      頒布が終了し、主催者様の許可もいただきましたので、Web再録という形で公開いたします。内容はアンソロ本誌と同じものになります。
      平和アースのお話。

      なお、2ページ目の後日談「珈琲味の想い人」は、以前「Twitter SSまとめ 18篇」の中で公開したものと同びです。こちらは「 #ばきつば深夜の創作60分一本勝負」のお題「初恋」で書いたお話になります。

      #バキサム
      HLML
    • Twitter SSまとめ 18篇ほぼ右バキ詰め合わせ(右バキじゃないのはバキサム、サムバキサムだけ)。Twitterにて掲載済みのお話に加筆修正したもののまとめです。文字数は280~3500弱とバラバラです。
      1ページ目の目次と、各ページにCPや設定等を記載しております。
      R15くらいのが入ってます。
      #ピタバキ #ティチャッキー #鷹バキ #ステバキ #サムバキ #バキサム #サムバキサム #ソーバキ
      HLML
    • 遠回りな近況報告、または惚気話モブ×バッキー 前提の、サム+バッキー。
      モブは日本出身でアメリカの大学で数学教授してるおじさんです。
      例の5年のことを踏まえつつ、2027か2028年くらいを想定してます。
      サム+バッキーがメインです。モブはちょっと出ます。
      HLML
    • Friday, July 4th, 1941両片想いもやバキ。タイトル通りの日付、独立記念日かつステ誕生日の話です。あいかわらずふんわりした話。
      スティーブは新聞配達員、バッキーはボクサーとして生活してる頃です。

      #ステバキ #もやバキ
      HLML
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