臆病な幻臆病な幻
昨晩は痛みがひどくてよく眠れなかった──。今日の診察はバーンズのそんな一言から始まった。寝不足のせいか、苛立ちが隠せない。部屋の隅の古臭い柱時計が午後一時を報せた。ソファに深く座り、肘掛けに両腕──いや、右腕を置く。つきん、と指先が痛む。肘の辺りも。気を紛らわせようと窓を見た。雨粒が窓を叩き始めている。天気予報では夜に降る予定だったのに、雨雲が急ぎ足になったらしい。外は寒いだろう。きっと、あの雪山のように。
「今も痛みます? 今、この瞬間も」
若いドクターは、半年ほどバーンズの担当をしている。彼はいつものようにローテーブルの上に鏡を準備し始めた。顔を見るための手鏡ではない。洗面台にくっついているような巨大な鏡だ。
バーンズは溜め息を抑えられなかった。肘掛けを指でこつこつと叩いてみたけれど、音はしなかった。
「……少し。昨日は肩の近くが痛くて。今は、肘の辺りと、親指と人差し指の間……みたいなところが」
みたいなところ、という曖昧な説明でも、ドクターは頷いた。ここ一年ほどバーンズを悩ませるそれは、幻肢痛と呼ばれる不思議な現象だ。事故や病気が原因で手足を切断した後、もう存在しないはずのそれに痛みを感じる。その疼痛の種類は、事故で負った怪我や脳が感じ取っているショックによって異なるが、時に耐えがたく、日常生活に影響が出ている人も多い。バーンズの場合は、針で刺されたり、万力で潰されているような痛みと、霜焼けになった時の痒みに似たものを、見えない左腕に感じる。四六時中、という訳ではないが、一度痛み出すと意識を逸らすのは難しい。そういう日は決まって、あの日、スティーブの手を掴めなかった時のことを夢に見る。
治療法はいくつかある。しかし、効果の個人差が激しい上に、症状を緩和させることができても完治するケースは少ないのだという。バーンズが今受けているのはミラーセラピーだ。鏡に右腕を写して、それを左腕だと思い込んで動かす。手がない、動かせない、という脳のストレスは痛みを助長させてしまう。これに対して『思い通り動かせている』と脳に伝えることで、意識を上書きして痛みを緩和させる治療法だ。たしかにこれを実践している時は幾分か楽になる。しかし、やはり根本的なものは解決しない。鏡の中の左腕が、血だらけに見えたり、銀色に見えてしまう時もあった。
一通りの処置を終えた後、帰る前にドクターから一枚の紙を渡された。見ると、足が一本しかない男がゴーグルを着けて立っている写真が載っている。その横には、サッカーボールと両足がある選手のCG。『VRによる幻肢痛への挑戦』というタイトルには見覚えがあった。
「以前にも提案しましたけど、ARやVRの技術を用いて、幻肢痛の治療を行っている機関があるんです。彼らもまだデータを集めている段階ですが、良かったら、協力していただけませんか」
「……」
少し考えた素振りを見せておく。結局は「時間が合えば」と先月と同じ返事をした。片手では綺麗に折り畳めなかったので、ショルダーバッグに適当に押し込む。紙の下の方に技術協力としてスターク・インダストリーズの名前が記載されているのがちらりと見えた。
売店で傘を買い、施設を出てモバイルを取り出すと、サムからメッセージが来ていた。あんたの家の方は知らないけど、こっちは雨が強くなってきたから、気を付けて来いよ──。今日、バーンズが病院に行っていることをサムは知らない。良い友人としての関係を保ってはいるが、お互いのスケジュールを把握しておくほどではない。そもそも、幻肢痛のことは誰にも言っていない。スティーブにさえ。誰もが、ただ単にカウンセリングの回数を増やしたのだと思っていて、詳細を突っ込んで聞いてくる無神経な者はいない。
画面左上の時刻表示を見る。思いの外早く終わったので、サムとの約束の時間までに少し余裕があった。
*
濡れた光が点滅し始める。バーンズは横断歩道に一歩踏み入れたところだった。ビニル傘越しの歪な光に目を細め、ほんの一瞬悩んだが、結局、駆け足になる。白線の上は勢いよく踏めば靴が滑りそうだ。しかし一方で、長年かけて表面を洗われた黒いアスファルトの上には厚さ数ミリの水溜まりがある。水捌けが悪い。そう思い、歩道と道路との段差に等間隔で並んだ排水溝をちらと見たが、それは彼らなりに精一杯の仕事をしているらしかった。全ては天気予報が外れたのが悪い、と言わんばかりだ。気持ちは分かる。かかとが引っ掛けた水が、ズボンの裾の後ろ側を濡らした。
信号機の点滅が終わる前に横断歩道を渡りきり、バーンズは傘の柄を持ち直した。湿気で滑る。しかし傘はどうでもいい。肘にぶら下げた袋の中身──もっと言えばその袋の中の紙箱の中身──が無事であれば、それで。なるべく体を揺らさないように走ったつもりだったが、ほんの十分前にバーンズが購入した一切れのチョコレートスフレケーキは、上に果物がたくさん乗っているものだった。もしもそれらが崩れていたら、自分の分のつもりで買ったプリンをサムにあげるべきだろう。何も乗っていないし、プラスチックの器に入っていて型崩れの心配もなさそうだった。
サムの家は、横断歩道を渡ってすぐのところにある。もう通い慣れたものだ。スティーブとよく遊びに行く、第二の家のような感覚がある。サムは二人にとって友人であり、ポップカルチャーの先生でもあった。ポピュラー音楽、娯楽映画、大衆小説、漫画、アニメ、果てはゲームまで。何でも知っているというと言い過ぎかもしれないが、バーンズにとってはその知識量は膨大なものだ。無理に時代の流れを押し付けてくるのではなく、サムの好きなものや、バーンズが街で偶然目にして気になったもののことだけを話せるのもありがたい。今日も、バーンズが興味を示した数年前の映画を見るために会うのだ。もちろんスティーブも誘ったが、「ミュージカルものはちょっと、いろんな思い出が」と気まずそうに断られたので二人で見ることになった。とにかく、サムにそうして扱ってもらえると、何となく、この時代に完全に馴染めたような、むしろ元からこの時代に生まれていたかのように思える瞬間がある。厳密には違うとは分かっていても、自分の一部が受け入れられていると感じて、いつの間にか肺に溜まっていた息をゆっくりと吐き出したくなるのだった。
「すごい雨だ」
出迎えたサムは、傘から水滴を落とすのを手伝ってくれた。ご丁寧に、玄関の靴箱の上にはタオルまで置いてあった。濡れた左肩を拭いておく。見えない腕の方にまでタオルを這わせようとしてしまった。痺れるような痛みが走って初めて、見えないのではなく無いのだと思い出す。
「お。それ、何?」
ドアノブに傘を掛けたサムが、顎で袋を示した。
「大通りの近くにあるケーキ屋に寄ってきた。おやつの時間にぴったりかと思って」
「気が利くな。あのケーキ屋、いつも寄ろうかと思うんだが、車で帰ってる時はついつい通り過ぎちまうんだ。ほら、道路の反対側にあるだろ。だからさ……」
サムはバーンズの腕から袋を預かり、さっさとリビングに進んでいく。バーンズは頭にタオルを乗せてついていきながら、笑いそうになるのを堪えた。サムがケーキ屋をいつも通り過ぎてしまう、という話を聞くのは実は二度目であった。サムは忘れているらしいが、先週、酔っている彼から聞いたのだ。
「夕食前だと甘いものって重いだろ。先に食っとかないか」
「そうしよう。飲み物は何がいい?」
「コーヒー。ブラックで」
「了解」
テーブルの上に袋を置き、サムは湯を沸かし始め、食器棚から皿を取り出す。バーンズは紙箱を開けながら、皿は一枚で構わないと告げた。スフレに乗った果物は、櫛形に切られたチェリーだけが落ちている。ミントの葉とラズベリーは無事だ。これくらいならサムも気にしないだろう。
「片方はプリンにしたんだ」
「なるほど。じゃあフォークじゃなくてスプーンだな。こっちは?」
サムも紙箱を覗き込んだ。肩が触れ合う。ちくりと痛んだ気がして、さりげなく一歩引いてサムの方に紙箱をずらす。
「スフレ。見ての通り、チョコレートの。好きな方を選んでいい」
「んー、スフレがいい」
サムは落ちたチェリーをひょいと摘まみ上げてぱくんと食べた。透明なフィルムが巻かれたスフレを丁寧に持ち上げて皿に乗せる。
コーヒーが淹れられるまでの間、ケーキ屋の話をした。店は四十代の夫婦が経営していて、夫がパティシエだということ。店番を、息子と思われる青年が手伝っていること。店の奥に数席のイートインスペースがあり、老夫婦がゆっくりお茶を楽しんでいたこと。一番人気はチーズケーキだということ。クッキー等の焼き菓子も袋に入って売られていたこと。サムの家の近くにある店なのに、バーンズの方が詳しくなってしまっているのが不思議な気分だった。サムは、今度行ってみようかなと口にしたが、今までのことを考えるとまた車で通り過ぎてしまうかもしれない。
まだ映画は再生させず、昼下がりのニュース番組を見ながらケーキを食べた。プリンはバニラビーンズが入っていて風味が良く、ほんのりとした卵の甘味が感じられて美味しい。容器の底のカラメル液もちょうどいい量で、一滴も残さずに食べたいくらいだ。さっぱりした苦味のコーヒーとも相性が良かった。サムの方は、ケーキ自体食べたのが久々なのだという。そのことばかりに感動していたので、今日買ってきたスフレがどれほど気に入ったのかは分からなかった。美味しい、とは言ってくれたけれど。
サムによると、映画は二時間半もあるらしい。そう聞いたバーンズはバッグからモバイルを取り出して時刻を確認した。時刻を知りたい時、部屋の壁掛け時計を探すのではなく、モバイルを見るようになったのは最近だ。先週、スティーブに「すぐそこに時計がある」とからかわれて気付いた。スティーブは続けて言った。「僕も最近やるようになったけどな」と。とにかく、映画の途中で席を立つのが好きではないので、バーンズは先にトイレを借りた。廊下で、ちらりと玄関の方を見やる。雨脚はますます強くなっているようだった。雨の音に耳を傾けていると欠伸が出た。映画を見終わったら、サムには申し訳ないけれどすぐに帰ってしまおう。夜、帰る頃には雨が止んでいるといいが。
バーンズの一つ目の失敗は、モバイルをきちんとバッグの奥に押し込まなかったことだ。サムがそういった細かいところに気付く性格だとはとっくに知っていたのに、すっかり気を許してしまっているからか、まるで自分の家にいる時のようなことをしてしまった。サムはきっと、バッグからはみ出したモバイルを適当に入れてやって、ソファの隅にバッグを寄せてやるつもりだったのだろう。その時に、『技術協力 スターク・インダストリーズ』の文字が目に入った。バーンズの二つ目の失敗がこれだ。紙は綺麗に折り畳んでおくべきだった。そこでサムに気にかけるなというのは無理な話だ。サムはバーンズとスタークとの関係を、あの時からずっと心配してくれているのだから。
サムもトイレに行っておけ、という言葉を言うつもりだった。なのに、サムの丸い背中と肩の向こう、その手の上で広げられた紙を見てそれどころではなくなった。知られてしまった。よりによってサムに。振り返ったサムの表情からは何も読み取れなかった。穏やかにも見えるし、戸惑っているようにも見える。サムは表情豊かなくせに、こういう時は真意を隠すのが上手い。カウンセラーとして必要な技術なのだろう。そしてもちろん、退役軍人を相手にしているカウンセラーならば、その紙に書かれている単語は馴染みのあるものだろう。
「幻肢痛があるのか」
声もいつも通り。心配性なカウンセラーがくれただけだと誤魔化すこともできたが、バーンズはそうしなかった。今まではただの秘密だったが、ここで誤魔化して、秘密が嘘に変化するのは気分が良くない。空いていたサムの右隣に座り、紙を取り上げる。今度こそ、それなりに折り畳んでバッグに入れた。
「スティーブには言うなよ」
「スティーブも知らないのか?」
これにはさすがにサムも驚いたようだ。
「誰にも言ってない」
「……カウンセリングが増えただけだと思ってた」
「カウンセリングは続けてるけど、それとは別だ。素性を隠して、一年くらい前から医者にかかってる」
「一年って。どうして──……」
「……、……?」
サムがそこで言葉を詰まらせた理由は分からなかった。しかし、少し考えてみると思い当たる節があった。
「サム。もし、『気付いてやれなかった』とか気にしてくれてるんなら……、それって俺が隠してたんだから仕方ないというか、いつも痛むって訳でもないから──」
「──そうじゃない」
サムはソファの背もたれに体重を預け、腕を組んだ。眉間に皺こそ寄っていないものの、視線は宙を向いていて、頭の中がぐるぐると回転しているのが見てとれる。
「どうして言ってくれなかった、って言いそうになったんだ。でもそれは、バーンズが決めることで、俺が口出ししていいことじゃない」
「……ありがとう」
サムの、こうして冷静になってくれるところが、バーンズは好きだ。バーンズをただの人間として見てくれる現代の友人としてはもちろん、それ以上の意味でも魅力的な一面だと思う。しかし、そのことについてはバーンズは自分では深く考えないようにしている。サムのことを必要以上に知ってのめり込んでしまうのは怖い。彼にとって、自分が良い友人であり続けるためにも。
ふーっ、と、サムが息を吹いた。それは空気が重くなるような溜め息ではなく、サムが何かに踏ん切りをつけたかのように聞こえた。実際その通りで、サムはバーンズの左肩に目をやった。
「治療って、鏡とか使ってる?」
「使ってる。鏡とか、って言うより、鏡だけ……」
「そうか、薬は効かないんだったもんな。ドクターに説明するのは面倒だったろ」
「ああ、よく分かったな」
バーンズは思い出し笑いしてしまう。飲んだことのない薬すら「効かないんだ」とはっきり言われても、ドクターが困るのは仕方なかった。血清の説明をして、面倒な患者だと思われるのも嫌だった。
初めて医者にかかったのは、この痛みが何なのかをある程度自分で調べてからだった。ニューヨークで、少しずつ新しく記憶を思い出しながら生活するという平和が訪れて、間もない頃。
「……あの腕がある時は、痛みなんてなかったんだ」
バーンズがそうこぼすと、サムは何も言わず、話の意図を飲み込んだように瞬きした。
「あれは……、俺が戦わなければいけない時にだけ必要なものだったはずなのに。無ければ無いで、こんなことになるなんて……。要らない、って、思ってるのに」
「じゃあ、義肢を使う治療も止めておいた方が良さそうだな」
頷く。義肢を着けないかとドクターに勧められたことはある。動かないものでも構わない、と。そうすることで痛みが和らぐ患者もいるのだと。バーンズは「着けたくない」と答えた。仮に痛みが楽になったとしても、どうしたってあの腕のことを思い出すから。
「さっきの、紙の。あれは受けるのか?」
「いや……」
否定しながら、サムからその理由を聞かれても答えられないと思った。スタークのこともあるし、最新の治療法が効かなかったらと後ろ向きなことも考える。映像の中の腕まで銀色だったらどうしよう、とも。けれど、全部、ドクターの提案を断るほどはっきりとした理由かと言われたらそうでもない。いろいろなことに対して、心の準備ができていないだけなのかもしれない。幸い、サムは詮索してこなかった。
「まあ、受けたい時に受ければいいさ。二十一世紀だからって、最新技術に頼りきる必要もない。原始的な方法もあるかも」
「原始的?」
「人の手に触るとか」
「……」
言ってから、サムはすぐに「つまり」と付け足した。
「……言っとくけど、さっきからあんたと話してるのは……カウンセラーとしてじゃなくて、友人としてだからな。信用し過ぎるなよ」
カウンセラーとしてのサムと話したことなどほとんどない。つまり、友人のサムの方が信用できる。そう思ったが口には出さないでおいた。サムが困るだろうから。
腕組みしているから、こちらを向いているサムの左手。右手と左手は左右対称になるものだ。バーンズは長らく左手というものに触れていない。鏡に写った右手のコピーも確かに左手に見えるが、それを眺めるよりも、自分のでなくとも構わないから実物の左手を触ってみたい。
「あのな。そんなにじっと見られると……」
サムがぽつりと呟き、いつの間にかサムの腕に伸ばされかけていたバーンズの右手を取った。バーンズは少し迷ったが、遠慮なくサムの左手を触ることにした。自分の手よりも指が太い。掌の大きさも違う。色も違うし、皮膚の弾力も思っていたよりしっかりしている。体温も高い。これを自分の左手と思うのは難しい。が、かつて、自分の両手を組んだり、寒さに手を擦り合わせていた時の感覚が思い出せる気がした。しばらく、指を摘まんだり、掌を押したり、撫でたりする。やがてサムが「くすぐったい」と言い、反対にバーンズの手に同じことをしてきた。なるほど、これはくすぐったい。どちらからともなく手を引っ込めてしまう。
「スティーブの方が良いかもな。その、外見が似てるって意味で」
「どうだろう……。今度、試してみる。面白かったし」
「そりゃ何よりだ」
思い返すと、すごいことをしてしまった気分になる。もう触っていないし触られていないのに、右手がむず痒い。
沈黙が流れる。外の雨と、ニュース番組のお陰で全くの無音という訳ではないにしろ、静かだった。再び欠伸がこぼれそうになって俯く。そろそろ映画を見るべきだ。そう思った途端、サムが言った。
「バーンズ。昨日、寝てないんだろ」
そう言われてもバーンズは特に驚かなかった。隈ができているのはドクターからも言われた。それだけでなく、眠そうな顔や雰囲気を隠しきれていない自覚がある。この体は一晩くらい寝なくとも問題はないが、この場所にいると気が緩んでしまうのだ。気を張らなくて済む、そもそも張る気にならない、とも言う。
「映画はまた今度にしよう。ソファで良ければ、休んでいけよ」
それはさすがに申し訳なく思ったが、サムに目の下を親指で撫でられてしまっては断れなかった。その時のサムの表情が、あまりにも優しくて。この優しさを無下にできる人間はなかなかいない。ましてや、相手が相手なら、尚更だ。
「サム。ありがたくそうさせてもらうけど、本当に、何て言ったらいいか……」
「いいって」
サムはこちらにクッションを寄越し、自分は空になったカップや皿を持ってキッチンへ向かった。その後ろ姿を眺めながら、クッションを枕にして横になる。雨の音に、サムが洗い物を始める音が混じる。目を閉じて、そっと息を吐く──。
目を開けると、部屋は薄暗かった。首を回せば、キッチンの方だけ灯りがついているのがぼんやりと見えた。鼻を利かせる。香草をたっぷり使って、魚が煮込まれている匂いがした。腹が鳴りそうになって、腹筋に力が入った。ナイフが野菜を切る音に合わせ、鼻唄が聞こえてくる。メロディに聞き覚えがあった。最新のSF映画の宣伝に使われている曲だ。
「……サム」
身を起こして、呼び掛けた声はいつもより低い。咳払いして調節した。ふと、心配になってクッションを撫でたが、涎は垂らしていないようだ。
「おう、起きたか」
エプロン姿のサムはどこか楽しそうだ。味付けがうまくいっているとか、そんな理由だろうか。
「ん……。寝過ぎた。そろそろ帰るよ」
まだ雨は降っているらしい。しかし、夕方よりかは弱まっているだろう。
「何だよ、食って行けよ。魚、二切れ突っ込んだんだ」
「……いいのか」
「ああ」
手伝いくらいはすべきだ。のろのろと立ち上がり、キッチンに入る。サムは野菜を切り終えて、皿に盛り付けているところだった。鍋の中の魚はもうほぼ出来上がっているらしい。サムも、バーンズが手伝いに来たことは察してくれていたので、こちらから何か言わずとも、食器を出してくれと頼んでくれた。
「よく眠れた?」
「お陰さまで」
「口が開いてたら写真を撮ってやろうかと思ってたけど、残念ながらちゃんと閉じてたな」
「……何見てるんだよ」
へへ、とサムが笑う。うなされていないか心配してくれたのだろうが、少し恥ずかしい。そういえば、夢すら見なかった。短く、けれど深い眠りだった。体の疲れよりも心が随分と休まった。左腕も楽になっている。
サムが鍋の火を止め、バーンズが差し出した皿を手に取る。
「あんたが寝てる間に、考えてみたんだが。VRの治療さ、行ってみないか」
まさかまたその話題が掘り返されるとは思っていなかった。返答できず戸惑うバーンズに、サムは「実はさ」と意外な真実を語り始めた。スタークが幻肢痛の治療に協力し始めたのは昨年のことだという。ローズ大佐が下半身不随となったことがきっかけとなり、スタークは当時発表したばかりのB.A.R.F.システムを医療の面に活用することを決め、実際、各種研究機関に格安で使わせている。あの紙に書かれているのもその一環だ。ローズ大佐も感覚が失われたはずの脚に走る痛みに悩まされたが、スタークが作らせたハイテクな義肢のおかげかひどいものになることはなかった。その技術に感嘆していたサムに、ローズ大佐がこっそりと伝えてきた。「トニーが、バーンズ軍曹は幻肢痛がなかったんだろうかって気にしてたぞ。絶対に本人には聞かないだろうけどな」と。
「無理にとは言わない。行く気になったら教えてくれよ。スタークかローディに申し入れてみよう。俺も一緒に行くから」
「一緒に、って」
二枚目の皿はパスできなかった。
「それも、友人として言ってる……?」
声が震えてしまったことを、サムは笑わない。反対にバーンズは笑おうとしたが、表情筋が固まってしまっていて難しかった。今の質問はするべきでなかったと後悔しても遅い。どうして彼はこんなにも自分に寄り添ってくれるのだろう。考えると期待してしまう。恐ろしいのは、サムが真っ直ぐこちらを見返してくる瞳から視線を逸らせないことだ。全て見透かされていて、しかも、その口元に笑みさえ浮かべているように見えて、勘違いしそうになる。もしかしたら、と。こんなことはその場の勢いでどうにかなってしまっていいものではないと分かっているのに、もう、これ以上は。
バーンズは、有りもしない左手を伸ばしてサムの肩に触れてみた。同時に、サムが足を少しずらして体をこちらに向けた。バーンズはそれを、自分の意思が正しく伝わって、サムが応えを返してくれたのだと受け取った。サムの顔が目の前にある。それでもまだ、距離は縮んでいく。バーンズは瞼を伏せ、頭を傾けた。
*
濡れた光が点滅し始める。バーンズは横断歩道の手前で停まったところだった。ガラス越しに排水溝へ目をやる。やはり、彼らはよく働いている。どういう偶然なのか、先週に引き続き今日も雨だ。せっかく、映画鑑賞のリベンジをするところなのに。先週と違うのは、信号機が点滅していてもバーンズが慌てる必要はないということ。ついでに言うとビニル傘も持っていない。車の中では傘を開く必要がないからだ。バーンズは助手席で、膝の上に紙箱を乗せている。スフレとプリン、ついでにクッキーも買った。
「今日もすごい雨だな」
運転席のサムは、景色もろくに見えない窓に顔を近付け、雲を見上げた。車内では、ワイパーが決まった速度で揺れる音が心地よく繰り返されている。
終