時と天体は流れゆく時と天体は流れゆく
左腕の義手を着けてもらいに行く。そういう名目の旅だった。一番の目的はそれではないと、バーンズと親しい者はみんな知っていた。けれど、バーンズにとって「左腕の義手を再び着ける」ことが大きな意味を持つ、という事実も全員が理解していた。だからこそバーンズを送り出す時、スティーブやサムは、「かっこいいのを着けてもらえよ」と笑ってくれたのだろう。誰も、彼のことは口にしなかった。
◆
空の旅は想像以上に長く感じた。ロンドンでの乗り継ぎの時間を最小限にしたつもりだったのに、それでも一六時間半かかった。こういう時、七時間の時差というのがさらにややこしくなる。いっそのこと昼夜が綺麗に逆転していれば分かりやすいのに。ニューヨークからロンドン、アフリカ大陸へ向かうと、東から西へと駆けていく太陽の動きが何倍も早くなったような気がする。反対に、彼がアフリカ大陸からニューヨークへ来る時には、太陽か月を追いかける形になるはずだ。バーンズも数日後には同じような経験をするだろう。ただ、往路のように窓側の席を確保できて、かつ飛行機の窓を眺め続ける気力が残っていればの話だが。
当然ながらバーンズは、一般的な飛行機に乗るのが初めてな訳ではない。けれど、仕事で乗る時にはいつも離陸直後に眠ってしまっていた。国内便だろうが国際便だろうが同じだ。気が付いたら西海岸、気が付いたらヨーロッパ、気が付いたらニューヨーク。その繰り返しだったのに、今回、ほとんど一睡もできずに目的地に辿り着いてしまったことにバーンズ自身も驚いていた。
艶々とした黒のベルトコンベアを流れてくる色とりどりのスーツケースを、いったいいくつ見送っただろう。ジャンボジェットは満席だった。いつしか彼が言っていた「最近は観光客が増えてね」という言葉を思い出したが、なるほど、改築を終えたばかりの国際空港のスタッフは、最新機器を使いこなして仕事しているはずなのに、たしかに全員慌ただしい動きをしている気がする。彼らや、ついさっきまで同じ空にいた観光客を眺めながら、青いスーツケースが流れてくるのを待った。なかなか来ない。堪えきれず、喉元までせり上がっていた欠伸を呑み込む。超人と言えど睡眠が足りなければ欠伸くらいしたくなる。
現地時刻、午後五時。ワカンダ国際空港、荷物受取所三番レーン。真新しい建物の中にいても、あまり、この国に戻ってきたのだという実感はわかない。バーンズにとってのこの国は、近代的と一言で表すには難しいデザインの宮殿や、慣れ親しんだ村であり、あるいはヤギのミルクの味や、子どもたちの笑い声であった。そして、何より欠かせないのは──。
ポロン、とポケットの中で音が鳴った。飛行機から降りた時に電源を入れ直したモバイルだ。見ると、メッセージが届いたところだった。彼からだ。
『長旅は疲れたろう。迎えを頼んでおいたので、あとは任せるといい』
任せるって、何を?──そう思って、ベルトコンベアを横目に、片手で文字を打ち込もうとした直後、背後から声をかけられた。荷物受取所までお迎えが来るなんて初めての経験だ。ホワイトウルフ、と呼ばれるのが久しぶり過ぎて、一瞬反応が遅れた。振り返るとオコエが立っていた。帽子をかぶって、まるで、空港の一般利用者みたいな格好をしていたが、凛々しい顔付きはそのままに「長旅お疲れ様。地下に車停めてるから」と促してきた。
「……まだ仕事してるはずだから、宮殿まで一人で行って驚かせようと思ったのに」
バーンズがそう言うと、オコエはにやりと笑う。
「サプライズみたいな感じ? 彼は喜ぶだろうけど」
「……、少し待ってくれ。荷物がまだ出てこないんだ」
「それなら、もうこっちで預かって、トランクに乗せてる。ワカンダ国旗のステッカーが表と裏に貼ってある、青の、五泊サイズくらいのスーツケースでしょう」
「……ああ、うん。それだ」
ステッカーは、荷物受取所で見つけやすくするために貼ったものだった。貼るんじゃなかった、と思いながら、バーンズはとぼとぼと歩き始めた。ニューヨークの空港でステッカーが役立つことを願うしかない。
地下駐車場まで五分ほど歩くらしい。初めて来る空港で迷子になるのも困るので、何はともあれ、迎えがあるのは助かった。
「滞在中の着替えとか、荷物は先週の内にニューヨークから送られてきていたのに、あのスーツケースの中には何が?」
「ああ……お土産だよ。荷物を送った後で、村にも行くことを決めたから、慌てて買ったんだ」
子どもが喜びそうな積み木やら、アメリカで売られているブラックパンサーのフィギュアやら、お菓子やらを詰め込んだ。機械的で凝ったものはパスした。世界一の技術力を誇る国に中途半端なものを持ってくるよりも、ローテクを突き詰めた方が新鮮に思ってもらえるはずだ。
「子どもたちにお土産を買ってくれるなんて、優しいのね」
「子どもに対してだけじゃない。オコエ、貴女にはスターバックスのタンブラーセットを」
オコエは目を輝かせる。
「本当? 貴方って最高。……じゃあ、彼には?」
「あー、うん、まあ、いろいろ。……彼は元気?」
彼には、彼がアメリカで食べて気に入っていたグミキャンディを箱で買ってきた。小袋がいくつも入っているものだ。それをオコエに伝えたとしたら、きっと今後宮殿での話のタネにされてしまうだろうから黙っておくことにした。かと言って、わざとらしく彼の話を避けるのも変かと思って、そして元気かどうかを一刻も早く知りたいのも本音だったのでそう聞くと、オコエは淡々と答えた。
「元気だけど、貴方にしばらく会ってないから寂しそうにも見える」
「……大袈裟だ」
バーンズは胸の辺りを掻いた。痒みに似た、くすぐったい感触があったからそうしたのだけど、当然ながら何も効果はない。寝不足のせいか、それとも他の要因のせいか、心臓が大きく脈動しているのを自覚するだけに終わった。また欠伸が出そうになって噛み殺す。
「……彼も貴方も、やめられたらいいのに」
「何を?」
「離れていて会えなくても平気だ、って顔をしてしまうこと」
「……」
バーンズは答えなかった。オコエも分かっているはずだ。だからこそ彼女は、「やめたらいいのに」ではなく「やめられたらいいのに」と言ったのだろう。平気でいないとやっていられない。彼の立場や自分が置かれた環境のことを考えれば、こうなることは分かっていたのだから。
黒の、ヴィブラニウム製の車に乗り込む。さすが王室御用達と言うべきか、飛行機のものとは比べ物にならない、シートの座り心地の良さにうっとりした。背中を預けた瞬間、高級なベッドに寝転んだ気分になって、ついにバーンズは欠伸をした。女性の前であるので口元は手で隠したが、オコエがシートベルトをかけながらくすくす笑った。何だか恥ずかしい。バーンズもシートベルトをかける。
「飛行機が揺れて眠れなかった?」
「揺れは少なかった。でも、何だか……眠れなくて」
「……着くまで寝てて」
オコエは理由を聞いてこなかった。バーンズはほっと息をついて目を閉じた。
「そうするよ。すまない」
飛行機の中でも、目を閉じて眠ろうとしたのだ。その方が、あっという間に時間が過ぎるから。頭の中ではずっと、早く彼に会いたいということしか考えていなかった。楽しみを待っている間は一分一秒をおそろしく長く感じるのは、人類のほとんどが知っている通りだ。ニューヨークで飛行機の離陸を待つ間も、ロンドンで乗り継ぎしている間も、アフリカ大陸の上空を飛んでいる間も、ずっと、ずっと、ちらと視界に過る時計がさほど進んでいないのを確かめては落胆していた。「もうすぐ会える」と待ち焦がれるのが駄目なのだろうと思う。三ヶ月以上会えない時もあるくせに、たった十数時間を乗り越えるのがここまで困難だとは思いもしなかった。ようやくワカンダの空港に着陸した時、バーンズはふと考えた。彼も自分と同じように、今日という日を楽しみにしているだろうか。そして、これまで彼がバーンズに知らせずにニューヨークに訪れた時も、彼はジェット機の中で時計を気にしていたのだろうか──。
とは言え、ニューヨークの自宅で最後に目を覚ましてから、ほぼ丸一日バーンズが眠っていないのも事実である。普段とリズムや行動パターンの異なる一日を過ごしたおかげで体も疲れてしまっている。車が駐車場から出る前に、バーンズは寝息を立て始めていた。
遠くからクラクションの音が聞こえた、気がする。バーンズは目を開けられないままでいた。頭は眠りから覚めたのだけれど、まぶたが持ち上がってくれない。減速と、たまにアクセルが踏まれるのが繰り返されて、その後しばらく動かないかと思ったら大きく曲がったので、どうやら交差点に入っていたみたいだとぼんやり考える。曲がり終えたらスピードは徐々に上がっていき、シートに体がじんわりと押し付けられるような感覚を味わう。
まだ車の中ということは、大した時間は経っていないのだろう。空港から宮殿まで車で一時間もかからないはずだ。何だ、眠ったってやっぱり時間が経つのは遅いじゃないか──そんな屁理屈じみた我儘も今日は許してほしい。もうここまできたら、オコエに、「あとどれくらいで着く?」と期待を露にして聞いてしまっても恥じることなどないだろう。やっとの思いで目を開けた。すると。
「もう起きたのか」
「──、……」
状況が理解できなかった。聞こえてきた声はたしかに彼のもので、また、運転席に座っていたのも彼だった。ハンドルを握ったまま、しっかり前方の車との距離を取りつつ、バーンズに目をやって微笑む。記憶の中の彼と違わぬ、優しく、こちらを見守っているような笑みだ。
「……」
「久しぶりだな」
「ええ。……あの、いつの間に……ごほっ」
寝起きのせいか、声が嗄れていた。彼がふふんと楽しげに笑い、運転席側のホルダーにあったペットボトルの水を渡してくれた。礼を言って飲んでから、飲みかけだったことに気付いたがあまり意識しすぎないでおいた。後部座席を見てもオコエはいない。窓の外の様子からすると、もう夜は深い。慌てて車内のオーディオパネルを確認する。午後七時半だった。
「よく眠っていたので、起こすのは気が引けたらしい。君を私の部屋まで連れて来てくれるはずだったのに、オコエから連絡が来た時は何事かと思った」
「……貴方でさえ起こすのに気が引けるくらい、爆睡してた?」
そもそも、オコエや彼の乗り降りで目を覚まさなかった時点で爆睡以外の何でもない。
「いいや、起こしてしまおうかと思ったが……、眠っていないならちゃんと睡眠を取るべきだと思い直したまでだ。それに、寝顔を眺める機会もそうそうないからな」
それはそうだ、と思う。何せ、会うこと自体が少ないのだから。しかもバーンズは、彼との逢瀬はただでさえ短いと思っているので寝るだなんてもったいない、と考えている。どちらにしろ、寝言やいびきを聞かれていないことを祈るしかない。よだれは垂らしていないので安心した。
「飛行機で寝ていないらしいじゃないか。だから、まだまだ起きないだろうと思っていた」
「二時間も寝れば十分……と言いたいところですけど、まだ完全に眠気が取れたって訳でもなさそうです」
でも、もう一度寝直す気にはならない。それは彼も分かっているだろう。
「それで……、どこに向かってるんです?」
「特に目的はない。こんな時くらい、家から離れてみるのもいいかと思って」
「……」
彼の言う「こんな時」が何を指しているのか、バーンズが完璧に理解することはできない。恋人に久々に会った時なのか、公務から解放された時なのか。それとも単純に、土曜日の午後七時という少し外で過ごしてみたくなる時間のことを言っているのか。そのどれもであればいいなと思う。
「すぐに私の部屋へ向かおうか? 今夜は早く休みたいだろう」
「……いえ、平気です。ドライブデートも貴重だ」
答えてから、彼の言葉を反芻する。もやっとしたものが胸の辺りにとどまって、悩んだ末、バーンズはもう一口水を飲んだ。
「今の、本気で言いました?」
「ん?」
「今夜は早く休みたいだろう、って」
もしも、バーンズがそう考えていると思われているなら悲しい。さらに、彼がそれでも平気だと思っていたらもっと悲しい。そんなバーンズの不安を、彼はそっと受け止めてくれる。
「半分くらい、否定してほしくて言ったさ」
「……」
前方の信号が赤に変わり、車は再び緩やかに減速していく。完全に停車するのさえ、今のバーンズには待ち遠しい。前の車のナンバープレートがゆっくりと迫ってきて、彼がきゅっとブレーキを踏み込んだ。
バーンズがシートベルトを外したのと、彼がこちらに手を伸ばしてきたのはほとんど同時だった。運転席と助手席の間のレバーまでも邪魔に感じながら、それでも身を乗り出して彼に抱き付く。明日、左腕を着けてもらったならきっと、もっとちゃんと抱き締められるだろうに。その分、今夜はこれまで通り、バーンズの分まで彼がしっかりと抱き返してくれる。背を包み込む彼の掌の温度が、寂しさに荒んでいた心を癒す。
「バーンズ、よく来てくれた」
「やっとだ。飛行機の中で、やっと会えると思えば思うほど、いつまで経っても着かないものだから、気が狂うかと」
「ああ、分かるよ」
「早く会いたかった」
頬にキスされる。バーンズもお返しに彼の目尻にキスして、けれど唇にはしなかった。そうしたら最後、もう我慢できなくなるのは目に見えていたから。ああ、でも、我慢なんていつもしている。オコエの言う通りだ。平気な顔をしてみせているだけ。日常のふとした瞬間に、彼は今どこで何をしているんだろうと思いを馳せて、元気だといいな、とネットのニュースを調べて「ワカンダ」の文字を探す。次はいつ電話できるだろう、いつ会えるだろう。ひょっとしたら今すぐにでも、電話が鳴ったりして。ドアベルが鳴らされたりして──。そんな淡い期待を抱えたまま眠りに就く夜を、何度も何度も繰り返している。
「どこかに車を停めてください。このままだと、貴方の運転の邪魔ばかりしてしまいそうだ」
「そうしよう。だがもう少しだけ、このままで構わない。ここの信号は長い」
「信号の待ち時間まで知ってるなんて、さすが国王様だ」
本当に驚いたのでそう言ったのだが、彼は首を横に振ってくすくす笑う。髭が頬に擦れたり、息が髪にかかってくすぐったくなるのさえ、今のバーンズには懐かしく思える。
「どうして笑うんです?」
「実を言うと、さっきから、大通りを避けて同じところをぐるぐるしていたんだ。家から離れてみたいとは言ってみたものの、すぐ私の部屋に戻れないのは困る。……もちろん、君を早く休ませようとかそういう意味ではなくてね」
「……」
バーンズは内頬を噛んだ。
「……やっぱり、今すぐに貴方の部屋に行きたい」
「ああ、君の仰せの通りに」
前の車のブレーキランプが消灯したのが視界に映り、彼から離れ、シートベルトをかけた。
会ったばかりなのに、これからの数日間があっという間に過ぎてしまうことがないようにとバーンズは願う。楽しい時間は留まっていてくれないものだから。
◆
「あの、到着しましたよ」
「!」
びくりと肩を揺らしてしまった。右隣、通路側に座っていた女性客が起こしてくれたらしい。見渡すと、乗客のほとんどが収納棚からリュックやハンドバッグを取り出し終わったところだった。左隣に座っていたはずの二人組はもう通路をずんずん進んでいってしまったようだ。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
物腰柔らかな笑顔に感謝しつつ、バーンズも席を立ってリュックを下ろした。
どこの空港も荷物受取所は混んでいるものだ。ワカンダもニューヨークも関係ない。六番レーンの周りには人だかりができていて、バーンズは二、三周目にでも取ればいいかと離れた位置で待機した。青のスーツケースには、今度はワカンダの土産が詰まっている。
帰りの飛行機も行きと同じようにロンドン経由で便を予約し、空港に向かったまでは良かったが「どう見ても金属製なのに金属探知機に掛からない義手」のおかげで手続きに苦労した。危うく乗り遅れるところだった。シュリに連絡が取れたおかげで事なきを得たが、そうでなかったらワカンダにもう一泊するところだった。それでも良かったのかもしれないけれど。そんな事件があったからかなのか、単にワカンダ滞在の疲れからか、はたまたもう楽しみが目の前にないからなのか、機内ではぐっすり眠ることができた。窓側の席でもなかったので、月を追いかけるのを眺めることもできなかった。
終わってみれば、長かったような、短かったような。義手の装着後にいくつか検査をして、その結果次第では一週間以上滞在する予定だったのだが、何もかもがスムーズに進み、結局は五日間しかいられなかった。全ての日を彼と過ごした訳でもないので、五日間と言われても実感がわかない。ただ言えるのは、底無しの幸せの中にいると、時間のことを心配している暇などない、ということだ。
彼はグミキャンディをとても喜んでくれた。バーンズがいる間に一袋空けて、残りは自分の部屋の棚に隠してこっそり食べるとのことだったので、なくなる頃に連絡をくれればニューヨークから送ると伝えた。けれど彼はそれを拒否した。彼自身がニューヨークに再び来た時に店で買うことはできるし、今回のようにバーンズが直接ワカンダまで持って来てくれればそれで十分だと。彼が言わんとすることは分かったので、バーンズはそれ以上は何も言わずにいた。
人がまばらになった六番レーンで、ようやくバーンズは目を凝らして自分の荷物を探すことにした。探すと言っても、流れている荷物の数が少なくなっているのですぐに見つけることができた。荷物を引き上げた後、「やっぱり貼らなくても良かったかも」とワカンダ国旗のステッカーを指で撫でたが、彼がこのステッカーを見て少し照れていたのを思い出したので、剥がすのは止めておいた。今度は黒豹のステッカーでも買って、隣に貼ってみようか。
終