我が英雄の帰郷我が英雄の帰郷
──今夜会える?
勉強中、突然そんな連絡が来て、僕とバッキーがホテルのベッドで一晩中過ごした秋の夜が、もう一ヶ月半も前のことになる。朝になって彼が教えてくれたのは、しばらく会えないし連絡もたぶん取れない、ということだけだった。アベンジャーズではなくて国からの要請で任務に就くんだ、と。少し時間がかかる、というかいつまでかはよく分からない、年内には戻りたいけど。彼はそう言って目を伏せた。危険な場所に行くの、とは聞けなかった。聞かなくたって、僕の第六感はそれを示していた。
大学院の勉強サボるなよ、とバッキーは言った。もっと何か言おうとしてたように見えたのに、彼は口をつぐんだ。気持ちは分かる。映画とかの物語の世界では、こういう時に言葉をのこしすぎた人ほど悲しい運命を辿るものだ。僕も、気を付けてね、としか言えなかった。待ってる、って言うべきだったかもって後悔してるんだ。バイクの後ろに乗せて大学院まで届けてくれた別れ際、人目も気にせずにハグをしてくれた。彼にしては珍しいことだった。何となく、一九四〇年代のことを想像した。彼は家族と最後に何を喋ったんだろうって。
それ以降、メイおばさんがいつにも増して優しくなったのは僕の気のせいじゃないと思う。休日の予定なんて最近は聞いてすらこなかったのに、買い物に行こうとか、ネッドと遊ばないのとか、僕が昔のように家で一人で過ごそうとするのをあまり良しとしなくなった。昔のように、っていうのはもちろん、バッキーと付き合い始める前のことだ。僕の人生は──そこまで大袈裟なものではないかもしれないけど少なくとも休日の過ごし方は──バッキーという恋人ができてからはかなり変化してたから。おばさんはその変化を喜んでたからこそ、気になるんだろう。それに、たぶん、バッキーは僕に内緒でおばさんにもちゃんと任務のことを知らせてたんだと思う。バッキーに何をどんな風に言われたの、っておばさんに聞きたかったけど我慢した。
バッキーがいなくなってから、みんなが困ってる。ウィルソンさんは相棒がいなくて困ってるし、ホークアイはドーナツを賭けたボウリングとダーツとビリヤードの相手がいないって困ってる。ワンダはバッキーと約束をしていた、服を買いに行く予定が先延ばしになって困ってる。あともちろん僕も。僕は、困ってるというより、寂しい。バッキーなら大丈夫だよね、って誰かに念押ししたい気分。元気がないなってネッドにも言われた。ネッドは最初、僕とバッキーが別れたって勘違いしてた。事態がもっと深刻だと知ってからは、僕の気分に引きずられるようにネッドの明るさも空回りしてしまってる。
そんな中、一人だけはっきりとこんなことを言う人がいる。
「バッキーなら戻ってくるさ」
スティーブだ。セントラルパークのベンチに、あのキャプテン・アメリカと二人で並んで世間話する日が来るとは。驚きだ。もちろん周りの人は、このお爺さんがスティーブ・ロジャースだと気付いていないけど。
「僕だって……、戻ってくるって信じてるよ」
そうは返してみても、スティーブほどの強さは僕にはなかった。戻ると言い切るスティーブに対して、僕は、信じてる、ときた。この差は何だろう。
スティーブは僕の肩をぽんと叩いた。重みのある手だった。
「バッキーと君は似てる」
「そうかな」
スティーブは微笑みもせず、淡々と続ける。
「バッキーがよく言ってるんだ。ピーターが……スパイダーマンがニューヨークの面倒な事件をまた解決したらしいけど心配だって」
「……心配掛けてるのは分かってるんだ。でも僕は──」
僕は大丈夫だよ、と続けようとしたのに、それは遮られる。
「──でも、バッキーはピーターに、スパイダーマンとしての活動をやめてほしいとは言わないはずだ」
「……」
スティーブが言うには、バッキーは僕のことを心配してくれてると同時に、誇りにも思っているんだそうだ。もちろん、僕のスーツにちょっと傷があった日にはバッキーは悲しそうな顔をするけれど、それでも引き留めてきたりはしない。スパイダーマンなら──僕なら大丈夫だ、って信じてくれているから。
「だから自分はピーターの帰りをただただ待っていたい、と言っていたよ。まあ、君がピンチの時にはドクター・ストレンジの力を借りてでも駆けつけてやる、とも言っていたが」
「……バッキーと、そういう話するんだ」
何だか意外だった。バッキーとスティーブが僕の話をするなんて。だって、二人には僕やウィルソンさんでさえ手が届かない繋がりがあって、二人にしか通じないことだけをやり取りするんだと思ってたから。勝手なイメージだ。よく考えたらそんなはずないって分かるのに。それでも、とにかく、僕が入る隙間はないし、なくても構わないと思ってたんだ。僕といる時に僕を見てくれているのだからそれだけでいい、って。
けれどスティーブは、それをあっさり否定する。
「するとも。時間はたっぷりあるから。僕がバッキーの絵を描いている時に、いろんな話をする」
「いろんなって?」
「具体的に挙げるのは難しいな。とりあえず、ピーターとのことをのろける相手が僕くらいしかいないそうだよ」
そう言われると、ますます具体的に聞きたいような、そうでもないような。胸の辺りがくすぐったい。僕がそわそわしているのをスティーブはどこか楽しんでいるようにも見えた。ちょっと意地悪だ。そんなところはバッキーと似てるんだな、って考えてしまう。
「つまり、僕が言いたいのは……。ピーター。君が、バッキーは戻ると信じてるなら、そのままでいいと思う、ってことだよ」
「けど、スパイダーマンの時の僕と、今のバッキーの状況は違う」
「それは……、一理あるが」
スティーブは眉を上げる。いよいよ、僕を完全に安心させる手立てなどないことに気付いたらしい。
「……怖いんだ。できるなら、今すぐ、バッキーに会いたい。大丈夫だってことを確かめたい。それと、離れないでいてほしいって言ってしまいたい。無理だって分かってるけど……」
こういうことを考えていると、僕はスタークさんのことを思い出してしまう。バッキーとスタークさんは全然違うけど、強いヒーローであるという部分は共通してる。ヒーローは必ず勝つし、なおかつ生き残る──そういう展開は映画の中ですら成り立たないことがある。ましてや、現実世界ではさらに難しい。僕はその事実を知ってしまっている。嫌な想像はしたくない。したくないのに、僕は彼らのことを順番に夢に見た。
ついに二ヶ月経った。ニューヨークの空に雪がちらつき始めても、何の音沙汰もなかった。ネッドに協力してもらってアメリカ軍の情報をこっそり探ってみたけど、バッキーに結び付くものは見つけられなかった。数日後、ハッピーにバレて、偉い人にものすごく叱られた。叱られるだけで済むのは今回だけだってウィルソンさんにも忠告された。彼は僕の心情を察してか、僕らにピザを奢ってくれた。三人で、Lサイズを二枚。アベンジャーズの施設の共用スペースで食べて、ネッドと帰路についた。
「バッキー、年内に戻りたいって言ってたんだ」
「あと二週間じゃん」
「うん。『スター・ウォーズのクリスマスツリーを飾ろう』って約束したのに」
「クリスマス、って、来週じゃん」
ネッドの眉が下がって、唇も曲がってしまった。
「うん……」
「じゃあ……じゃあさ、このまま、ツリー買って帰らない? バーンズさんと選びたいって言うんであればやめとくけど」
「ん……いいね、行こう」
ネッドが気遣ってくれた通り、バッキーと選びたいし、飾り付けを一緒にしたいのもたしかだ。でも、今は彼はいない。むしろ、来週でも再来週でも、来年でも良いから、彼が帰ってきた時に僕の部屋にツリーがあるのを見て喜んでくれるなら、その顔が見たい。
僕はもう大人になってしまったけれど、もしもまだサンタクロースがプレゼントをくれるならば、僕が願うことはただひとつだ。
結論を言えば、僕の願いは届いた。その六日後にバッキーはアメリカに帰ってきた。僕の部屋ではスター・ウォーズのクリスマスツリーが彼を待ち構えていた。ただし、僕はその時アベンジャーズの医療施設のベッドの上にいて、ついでに意識もなかったものだから、残念ながら出迎えてあげることはできなかった。
◆
ネッドがクリスマスツリーの買い出しと飾りつけ──それと改造も──を一緒にやってくれたらしい。ピーターと俺がクリスマスツリーの話をしたのは、今から一年前、年末年始の休みだった。例の五年の間に最終章が作られたスター・ウォーズシリーズを一気に見た後で交わした口約束を、ピーターも覚えててくれたみたいだ。あの時は、俺が十二月に入る頃にこっそりツリーを買ってピーターを驚かせてやろうって考えてたのに。
ピーターの部屋の片隅に転がったリモコンのスイッチを押すと、ツリーのてっぺんに刺さったデススターがぴかぴか光って、ダースベイダーのテーマ曲が流れた。本来は光るだけなんだそうだ。スピーカーを仕込んだりはネッドと二人で騒ぎながらやってたとメイさんが教えてくれた。
メイさんも疲れているのに、ピーターの部屋に入らせてもらえないかという俺の頼みを聞いてくれたことには頭が上がらない。とは言え、これはハッピーからの頼みでもあった。メイさんはピーターが入院してからずっと付きっきりで、しかもほとんど眠っていないようだから、家に呼び戻してやってくれと。でも、メイさんは帰宅しても体を休めようとはしなかった。たぶん、何かしていないと悪いことを考えてしまうんだろう。キッチンから戸棚や冷蔵庫をあさる音が絶えず聞こえてくる。
「バーンズさん! コーヒーは飲むんでしたっけ。あと、お腹空いてるでしょう。お菓子も食べます?」
「ええ、いただきます」
ダースベイダーのテーマ曲が止まったと思ったら、何故かルーク・スカイウォーカーの声で「メリークリスマス!」と流れた。そういえば、ルーク役の俳優が俺に似てるってピーターがしつこく言ってたなぁ、とか思い出したりした。
アメリカに戻ってモバイルが返却された直後、俺はすぐにピーターに電話した。呼び出し音が切れるのを今か今かと待って、ついにその瞬間が訪れた。なのに、聞こえてきたのはサムの声だった。
訳が分からなかった。趣味の悪いサプライズだと思いたかった。俺への罰か何かだと思った。危険だと知っていたにもかかわらず、これも贖罪のためだからと、ピーターを置いて戦地に赴いた俺への。ちゃんと、兵士らしく国に命を捧げるつもりだったのならこんなことは起こらなかったのだろうかと。
命に別状はないから落ち着いて聞け。──そう言われたって、丸三日も目を覚まさないとか胸骨や肋骨にヒビが入ってるとか頭も打ってるとか、冷静になって話を聞ける要素はひとつもなくて。もしピーターが常人だったなら助かっていなかったはずだ、という一言が一番ショックだった。
爆破事件の起きたビルは解体作業が進められている。ネットニュースでは、スパイダーマンが窓ガラスを割って助けに来てくれたんだ、と語る男性が、ヒーローの回復を祈っていた。ピーターと同じく救助活動をおこなっていたサムとワンダは怪我もなく無事だったが、だからこそ、一人でビルの内部に突っ込んでいったピーターを止めきれなかったことを悔いているみたいだ。だからって俺にまでよそよそしくする必要はない。それなりに、全員の性格を俺は知ってるつもりだし、アベンジャーズの活動内容も分かってる。誰が悪いだとか言うつもりはない。
ピーターのどんな姿を見ても取り乱さないでおこうと身構えておいた。眠った方がいいとメイさんを説得して家に残し──ハッピーに頼まれたんだと白状したらどうにか言うことを聞いてくれた──、一人でアベンジャーズの基地に向かった。ここまでの移動では気付かなかったが、タクシーの窓から見える景色はクリスマス一色だった。明日の夜がイブだ。天気予報によると雪ではなく雨が降るらしい。
病室ではネッドがついてくれてた。ジャケットのポケットに両手を突っ込んでベッドに近付く。ピーターは、点滴が繋がれていたり、頭に包帯が巻かれていたり、酸素マスクを当てていたり、だいたい覚悟していた通りの姿だった。頬が痩せこけている気がする。白いベッドが馬鹿でかいのか、それともピーターが小さいのか。小綺麗な病室の景色全体が、ピーターとどこか不釣り合いに見える。もっと、スパイダーマンのガジェットや、スター・ウォーズのグッズ、大学の教科書とかで散らかっている部屋の方が、俺のよく知るピーターには似合う。
「バーンズさんが帰ってきたよ、ピーター」
ネッドが声をかけてももちろん反応はない。暖房のよく効いた部屋なのに、沈黙の冷たさが頬に刺さって、咳払いした。
「ネッド。……クリスマスツリー、ありがとう」
「あ、うん。ピーターから聞いて……。本当は、バーンズさんと選ぼうとしてたんじゃないかと思ったんだけど……」
「いや、そこまで細かい約束じゃなかったから、気にすんな」
なら良かった、とネッドは言った。全然、何も良いことなんかない、って顔をしていた。ネッドだってつらいだろうに気を遣わせてしまった。ネッドの隣の椅子に腰掛けたが、そのしょげた肩を抱いてやることはできなかった。ピーターのそばに居てくれてありがとうとか、いろいろ、言える言葉はあったはずなのに。
「ツリーを買う前、ピーターと僕、怒られたんだ。ハッピーとか、ウィルソンさんに」
「怒られた? どうして」
「バーンズさんのこと知りたくって、軍のサーバーにアクセスしちゃって」
「……何してるんだ」
驚くと同時に、呆れた。ハッピー達は早いところ二人にスターク・インダストリーズと契約を結ばせるか、アベンジャーズのシステム部所属にするべきだ。
「結局、バーンズさんのことは何も分からなかったんだけど……。だから、ピーター、不安になっちゃったみたいで」
「……」
ピーターにはほとんど何も話してない。任務に就くとしか言わなかったし、ピーターも細かいことを聞いてこなかった。が、ある程度は察してしまっていたんだろう。それで、ネッドに対して態度を長期間取り繕ってもいられないはずだから、ネッドも俺がどういう状況だったのか想像してしまったに違いない。
なら、俺はどうすれば良かったんだろう。何も言わずに去るという選択肢はなかった。でも、全てを言うことも難しかった。軍の機密だとかそういった話は抜きにしても、だ。ピーターに、恐ろしい男だと思われたくなくて。ピーターに、例えば俺がスパイダーマンの帰りを待つのと同じような気持ちで待っていてほしくて。そういう迷いが、別れのあの瞬間まで捨てきれなかった。言えたなら楽になれたんだろうか? これからきっと人を殺してくるし、もしかしたら自分も死ぬかもしれないけど、待っててくれ──って? 馬鹿げてる。ピーターが精神的に自立しているとは言え、御両親やスタークの時と同じような悲しみをさらに背負ってもらうかもしれないけど覚悟しておけだなんて、間違ってもパートナーが告げていい言葉じゃない。
「あの、えっと、とにかく。バーンズさんが帰ってきて、俺も嬉しいっていうか。だから早く、ピーターも──」
ネッドの声があまり頭に入ってこなくなった頃、病室のドアがノックされた。見ると、サムが立ってた。久しぶりに顔を見た。服が暖かそうになった以外は特に外見の変化はなかった。
久しぶり、と言おうとしたが、それよりも先にサムが口を開く。
「ネッド。スティーブとクリントがドーナツ買ってきたから、食うぞ」
「え?」
「ほら、早く行かないとなくなる」
「……あ! あ、う、うん、ドーナツね。食べたい!」
いろいろと察したらしいネッドは、俺に会釈して病室を出て行った。サムはこっちに来るのかと思いきや、ドアに寄り掛かったまま動かない。今度こそ、久しぶり、と声をかける。
「……お前が生きてて良かった」
「簡単には死ねないさ」
「……」
きゅ、とサムの眉間に皺が寄る。何か言いたげだ。サムにも心配掛けたのは分かってる。だが、ふと、ピーターの顔を見ると、できればサムとの会話は眠っているピーターにさえ聞かれたくないという思いが強くなった。サムと話したなら、任務後のカウンセリングがどうとか、そういう流れになるのは目に見えてる。それに、その辺りはサムに頼る前に軍が既に手配してるから慌てる必要もない。
「後でそっち行くよ」
「ドーナツ、残しとくか?」
「いい。悪いけど今は……少し、ピーターの顔を見ていたいんだ。二人きりにさせてくれないか」
照れ臭いとかいろいろ理由はあるが、俺がピーターへの態度をあからさまにすることはこれまでほとんどなかった。だからサムは驚いたんだろう。ああうん分かった、みたいなぼんやりした返事の後、ぽかんとした顔のままでドアを閉めた。
椅子をずらして、ベッドになるべく近付く。顔が見たいとは言ったものの、酸素マスクが結構邪魔だ。これじゃキスもできやしない。いや、酸素マスクがなくとも、今はピーターに触れるのに勇気がいる。ピーターが目を覚ましたら、大丈夫になるかもしれない。なってほしい。
目を覚ますのは時間の問題のはずだってサムが電話で言ってた。骨は安静にしていればひどくなることはないし、脳も波形を見る限りは大丈夫そうだと。万が一の時はワカンダが医療部を手配すると申し出ていたらしいが、その心配もなくなっている。自発呼吸もしてる。スパイダーマンのマスクのお陰で煙を吸わずに済んだのもラッキーだった。あとは側頭部の外傷だが、表面的な怪我とは言え縫ったらしい。今は包帯やらガーゼで見えないけれど、そこだけ髪を剃ってるはずだ。気にするかもしれないから、帽子でも買ってやろうかな。
「……なあ、ピーター。早く起きてくれよ」
ポケットから手を出して、ベッドの柵に乗せる。でも、ピーターの手を取ってやることはできなかった。その温度を確かめたり、握ったり、したいのに。キスと同じで、できなかったんだ。今の俺が触れてはいけない気がして。
俺の中の考えが矛盾してる。早くカウンセリングに行って不安定な気持ちを整理してからピーターに触れるべきだと思う一方で、戦地から帰ってきたままの俺をピーターに受け入れてほしいという願いが頭から消えてくれない。
夜になるとメイさんがまたやって来てくれたので、俺はスティーブと二人で基地のゲストルームに泊まることにした。ドーナツは残ってないかと思いきや、スティーブが俺に一箱取っといてくれた。ドーナツだけではなくミートパイとかもあるし、これを夕食にしてしまおう。
「ピーターのことはまだ気にかかるが、とにかく、お前が帰ってきてほっとした」
二人分のコーヒーを淹れてテーブルにつく。
「勝手にくたばるようなタマじゃないって知ってるだろ」
まあね、と雑な相槌をつき、スティーブはコーヒーを一口飲む。これは、言いたいことがあるって顔だ。どことなく空気が良くない。案の定、ドーナツを取り分けてやってもそれに手を付けずに俺をちらりと見やる。
「けれど、ピーターはそうは思ってなかったみたいだ」
「……」
ほら、きた。
「怖がってたよ。そういう不安を、おばさんやネッドでなく僕相手に吐き出してしまうほどに。……きっと、トニーとバッキーを重ねてしまってたんだろう」
そうなるのは予想していた。待っててくれと言えなかった理由にはそれも含まれていた。
「ピーターが目を覚ましたら、怖い思いをさせたのを吹っ飛ばすくらい甘やかすつもりだよ」
俺の言葉に、それならいいか、と納得するようにスティーブは大きく頷き、チョコドーナツを食べ始めた。俺も、温めておいたミートパイを口にする。
「その意気だ。僕は、バッキーも甘やかしてもらう必要があると感じるが」
「……あのな」
最近のスティーブは、余計な一言が多い。しかも、だいたいが無視できない内容で、タチが悪い。
「それで、のろけ話をまた聞かせてくれ。今の僕は、そういう日常が戻ってくるのが待ち遠しいんだ」
言われなくとも、って気分だった。ピーターとメッセージアプリでやり取りしながら、スティーブの絵のモデルを務める時間は、何事にも変えがたい幸福を俺に与えてくれる。
◆
メイおばさんが目を真っ赤にして泣いている。状況がうまく飲み込めない。また心配掛けちゃったんだなっていうのは分かった。僕は横たわっているみたいだったから、起き上がろうとしたけれど、無理だった。体に力が入らないし、頭がちょっと、ふらふらして。身に覚えのある感覚だ。自分が許容できる以上の衝撃や情報が頭の中に飛び込んできた時に似ている。──ああ、そうだ、爆発があったんだった。たぶん、全員は助けられなかっただろうけど、僕がウェブでくるんで窓から投げたあの男の人は、ちゃんとファルコンがキャッチしてくれたのを見たから大丈夫。その先を思い出せないってことは、つまりそういうことなんだろう。
突然視界が真っ白に光った。ドクターがライトを当ててきたらしい。眩しくて目を閉じる。僕ならもう大丈夫だよ。それより、誰か、バッキーが帰ってきたかどうか教えてくれないかな。えーっと、今日は何日? ひょっとして、クリスマスはもう過ぎた?
「バーンズさんならもう帰ってきた。今日は十二月二十七日。クリスマスに何か欲しかったの?」
メイおばさんの声がしっかり耳に届いた。メイおばさんに心を読まれたとかではなく、僕は譫言を言っていたらしい。
それからは早かった。頭の中の霧が晴れたみたいだった。視界の端にちらつく邪魔なものに気付いて、自分の手でそれを取り払う。酸素マスクだ。頭の後ろにかかったゴムも無理矢理外そうと身動ぎする。
「ピーター! 頭、痛くない? 怪我してるの」
「平気だよ……」
「本当? 待って、一旦はお医者様に確認してもらいなさい。ここはアベンジャーズの病院で──」
「ねえ、とにかく、体を起こしたいんだ。背中が石になってる気がする」
「分かった、分かったから。手伝うから。でももう少し大人しくして。貴方、肋骨にヒビ入ってるのよ、知ってた?」
「ああ、喋るとちょっと痛いのってそのせい? なるほど」
後から考えれば、数日寝ていたのに起きた瞬間から騒がしい面倒な患者だったなあ、と思う。けどそうなるのも仕方ない。だって、バッキーが帰ってきた、って事実を飲み込んだ瞬間に、僕の胸の中はそれだけでいっぱいになってしまったんだから。体を起こしたら、点滴を引っこ抜いて走り出してしまいたいくらいだった。バッキーのもとへ。バッキーがどこにいるかも知らないのに。一秒でも早く、バッキーを抱き締めたいって思ったんだ。
バッキーは近くにいた。これも後から知ったのだけど、バッキーはメイおばさんと交代交代でずっと僕についていてくれたらしい。僕が目を覚ました瞬間は、ネッドとウィルソンさんと、ゲストルームでスター・トレックを見てたんだって。医療部から連絡を受けてすぐに病室に来てくれた。
そういう訳で、覚醒して五分足らずで僕はバッキーとの再会を果たすことができた。看護師さんに点滴を抜いてもらって、そのまま反対の腕を採血されてる時に病室のドアが開いた。
「ピーター!」
飛んできたのはネッドだった。大して広くもない病室の中、ベッドの柵に激突するんじゃないかって勢いでやってきて、僕の顔を見た後、良かった~、と泣きそうな声を出しながら椅子にどすんと腰掛けた。
バッキーはネッドの後ろで、ドアに寄り掛かったままだった。ばちりと目が合った。ネッドがたった今僕の名前を呼んだように、僕もバッキーの名前を口にしそうになったけれど、何故か泣きそうになったから喉の奥に引っ込めた。バッキーは僕を見てほっと息をつく。隣にいたウィルソンさんがバッキーの肩をぽんと叩いてあげるのが見えた。
良かった。良かった。バッキーが無事で。怪我はないみたい。僕よりもずっと元気そうに見えた。──パッと見では。
「──」
バッキーが着るパーカーのポケットに両方の手が入っていく。その瞬間、僕の頭の真ん中がズキリと痛んだ。そりゃもう、ビルの天井が落ちてくるのが比べ物にならないくらいの痛みだ。でもこれは僕が受けた痛みじゃない。
たしかに、バッキーは怪我のひとつもない状態で、無事に帰ってきてくれた。彼がなるべく戻りたいと言っていた年内に。余計なトラブルはなかったんだろう。ただ、それらの事実は必ずしも、大丈夫という言葉とは結び付かないみたいだ。
「……ねえ、バッキーと二人にしてもらえない?」
「え」
え、と口に出したのはバッキー本人だった。けれど、その場にいたみんなが、え、という顔をしていた。特にウィルソンさんなんて三秒間で七回もまばたきした。
「頼むよ。お願いします、三分とかでいいんです」
メイおばさんとドクターに頼み込む。採血を終わらせた看護師さんは、どうすべきかを困惑して、ドクターに視線をやる。ドクターは見るからに、いやさすがにそれは、って顔だった。もう一押し必要みたいだと頭を悩ませようとした僕に助け船を出してくれたのは、意外な人物だった。
「……案外元気そうだし、いいんじゃないか? いいだろ、うん」
ウィルソンさんだ。バッキーは、何でお前が一人で決めるんだって言いかけたけど、それよりも早くウィルソンさんがずかずかと入ってきて、ネッドを引っ張っていった。看護師さんとドクターは、メイおばさんが背中を押して追い出してくれた。
がしゃんと病室のドアが閉められて、バッキーと僕だけになった。バッキーは小さくため息をついて、とぼとぼとベッドの側に来てくれる。
「目が覚めたばかりだと思えないな」
やんわりと口角を持ち上げ、柵に肘を寄せるバッキー。でもやっぱり両手はポケットに入ったまま。
「どこを怪我してるかは、一応は把握したよ」
「……ピーターに、帽子を買ったんだ」
「帽子?」
そこでようやく、バッキーは左手をポケットから出して、自分の側頭部をこつこつと指で叩いた。
「ピーター、ここを縫ってるんだ。だから、少しだけ髪が剃られてる」
「うわ、最悪」
あんまり痛くないのに、大袈裟に包帯が巻かれてるなとは思ってたけど、そんなことになってただなんて。
「気にするほどじゃないと思うが……、髪が伸びるまで隠したいなら使ってくれ。後で渡す」
「それって、クリスマスプレゼントってこと?」
「まあ、そうなるな。青っぽい色のニット帽で……趣味に合わなかったからごめん」
「青? いいね、ありがとう。……僕も何かバッキーにプレゼントしたいな。少し先になりそうだから、何が欲しいか考えといて」
バッキーは目を伏せて笑う。
「ピーターの意識が戻っただけで十分だ」
「……」
本心からそう言ってくれたのだろう。スティーブが言っていたことを思い出す。僕がスパイダーマンとしてやるべきことを成すのを、バッキーは止めたりはしない。僕を信じてくれている。それがどれだけ勇気のいることで、不安を抱え続けることになるのか、僕も今回ほとんど同じ立場になって痛いくらい理解したつもりだ。
そして忘れてはいけないのが、バッキーがこの二ヶ月半の間就いていた任務が、どれだけつらいものだったかということ。自分に降りかかる危険が大きいということは、それを払い退ける方法だって簡単なものではなくなる。身を守るために、任務遂行のために、何を犠牲にしたのか。バッキーが何をして無事にアメリカに帰ってきたのか。僕は理解して受け止める必要がある。
「……僕も」
「?」
「僕も、バッキーが帰ってきてくれただけで十分」
僕は柵を越えて手を伸ばし、まだ先が隠れたままの彼の右腕に触れた。僅かに震えている。たぶん、左手も。バッキーが息を呑む。
「ずっと会いたかった。だから本当に、良かったって思えるんだ。バッキーがこうして目の前にいるのが嬉しい」
「……、……」
バッキーの泣き顔は、理由次第ではあまり見ていたいものじゃない。でも、泣くのをずっと我慢される方が嫌だ。
やっと出てきてくれた右手はやっぱり震えている。氷で冷えた手みたいに。僕はそれを握って、手の甲にキスをした。この手が何度も銃の引き金にかけられ、ナイフを握っていたって、怖くない。バッキー自身がそれらを罪だと思っていたとしても、自らの心を傷付ける必要はないのだと知ってほしい。
「ピーター」
顔を上げると、柵に乗り上げるようにバッキーが身を屈ませたところだった。抱き締めてしまいたいところだけど、骨が完全に治るまでは難しい。今は頬に触れるだけ。親指で滴を拭う。触れ合った唇は僕もバッキーもかさかさしていた。それでいて、あたたかかった。
◆
帽子は、アベンジャーズ基地内を移動する時にも被ってもらえるくらいには気に入られたみたいだ。色に悩んでワンダに一緒に選んでもらった甲斐があった。肝心のピーターの髪は、適当にセットすれば剃った部分も目立たなくなっている。つまりそれだけ日数が経ったってことだ。安静にしている内に年を越した。ニューイヤーの花火はピーターの病室でライブ映像を見た。メイさんもいたのに、来年は一緒に見に行こうとか平気で言うから返答に少し困ってしまった。メイさんは気にしてないみたいだ。もしかしたら、俺がスティーブ相手にのろけてしまうみたいに、ピーターはメイさんに俺の話をよくするのかもしれない。
まだ、くしゃみとかをすると肺やら胸やらに負荷がかかって多少は痛むらしいが、普通に動く分には問題ないそうだ。スパイダーマンとしての活動はもうしばらく控えるように、というドクターの忠告を受けつつも、ピーターはどうにか退院できた。
「じゃあ、行ってくるから」
「うん、行ってらっしゃい」
ピーターの付き添いのためにしばらく休暇を取っていたメイさんは、さっそく仕事に励むらしい。ピーターを家に送り届けるなり、あとは俺に全部任せたと言う勢いで出て行ってしまった。前から勘づいてはいたが、メイさんはどうも、ピーターに年相応の恋愛を盛大に楽しんでほしいと考えているようだ。ピーターのおばさんにそこまで気を遣われちゃ、俺だって、お言葉に甘えてもいいのかな、って気分になってくる。
万が一のことを考えて、心やら何やらの準備もしてあった。とは言え、一度立ち止まって考えてみろ。三ヶ月ぶりに期待してしまう自分がいるのも仕方ないし、できればピーターも同じことを考えていてほしいのが本音だが、体調が優先だ。久しぶりの我が家のベッドでゆっくり眠らせてやることこそが、パートナーとして完璧な行動じゃないのか。そうに決まってる。ピーターをさっさと寝かせて、俺は洗濯物でもして時間を潰して、クリスマスツリーを片付けて、ケーキを買いに行って、そしたらチキンとかピザとか、ピーターが好きなもののデリバリーを頼めば良い。メイさんが帰ってきたらピーターの退院祝いのパーティだ。ネッドも呼んだ方が良いかもしれない。そうしよう。ネッドにメッセージを送らなきゃ。バイトとか入れてないと良いけど。
そのはずだったのに。
寝てくれなかったピーターのせいにしてしまいたい。二人でクリスマスツリーを片付けている最中、ピーターにねだられたキスが深くなってきて、良くない流れを引き寄せていると気付いてた。ピーターも、俺も。互いの舌がぬるつく感覚は、ホテルで過ごした最後の夜を思い出させるには十分な刺激で。それでも、そこで俺が言うべきだったのは、まだ安静にしなきゃいけないから我慢しろ、の一言だ。どうにか口を開きかけたが、ピーターに先を越された。
「ずっとこうしたかった……」
「──」
う、と喉が詰まってしまったのは、たぶん、惚れた弱味とかそういうやつのせい。つまり俺のせいだ。認めよう。こちらをじっと見上げる視線から逃げられなくなってしまった。
「ウィルソンさんから、病室にカメラがあるって聞かされちゃったから何もできなかったでしょ? ガジェットがあればすぐ壊しちゃうのにって考えてた。ネッドに、ドローンを持ってきてって頼んだりもしたんだ。ハッピー達に怒られたばかりだからって断られたけど」
「……ネッドが正しい」
どうにか声を絞り出す。ネッドめ、持ってきてくれりゃ良かったのに──とか思ってない。断じて。あれ以来病室で何もできなかったのをピーターももどかしく思っていた、という告白に喜んでしまいそうな気持ちも抑えつける。あと、ムカつく。今の言い方、サムに忠告される前からカメラがあることに気付いてたって感じだ。実は俺もピーターが寝てる内から知ってたとか口が裂けても言えない。
「バッキー」
ピーターはかなり余裕をなくしているらしい。俺の背中、というより腰に手を回してくる。頬に落とされたキスも、繰り返す度に際どい場所に近付いていく。耳のすぐ下や、首もとに熱い吐息がかかる。あとは力いっぱいハグし合えたら、すぐそこのベッドにもつれこんでしまえる。だが、ピーターをまた病室に戻す訳にはいかない。
さてどうしよう、一先ずピーターに流れを任せてみようか、と悩んでいると、焦れたように首筋に強く吸い付かれた。噛み付くの一歩手前だったかもしれない。
「貴方が僕よりずっと大人だって分かってる。でも、この三ヶ月間、寂しかったのが僕の方だけだったなんて思いたくないんだ」
「──」
その言い方は卑怯だ。
「そんな……そんなはずないだろ……」
声が震えた。今のはピーターが悪い。だってそんなの、分かってるくせに。
「うん、だよね。ごめん。今のは意地悪だった」
優しく慰めるようなリップ音。けれど俺ももうそんな中途半端な戯れでは満足できない。シャツの下に潜り込んできたピーターの右手も、追い払おうだなんて思えない。触ってほしい。ピーターの手で、好きなように。できれば俺も触りたい。
「……無理させたら、俺がメイさんに謝る羽目になるし、ネッドにもスティーブにもどん引きされる」
最後の理性を振り絞ってそう言ったのに、ピーターはくすくすと笑う。息がかかるのがくすぐったくて目を細めた。
「バッキーが気にするのも分かる。でも、僕の体って結構治りが早いんだよ」
バッキーほどじゃないけど、と付け足すピーターを、どこまで信じるかは俺次第。ただ、何日もベッドに横になっていた姿を見守っていた身としては、こうやってやんわりとハグまでされてるのに抱き返してやらないなんて冷たい態度は取れなかった。
ピーターがもう大丈夫だという確証が欲しかった、と言えば聞こえはいい。けれどもっと単純で貪欲な理由を携えて、俺はピーターの背に腕を回すことにした。
◆
自分の部屋のベッドに、好きな人と横になるのって、最高。背中がシーツとくっついて離れたくないって言ってるみたいだ。お腹も空いたし、シャワーも浴びたいから離れなきゃいけないんだけど。ああ、そういえば。
「そういえば、メイおばさんとネッドには、退院祝いをするなら明日にしてって言ってあるから、その……心配しなくていいよ」
そう言ったら、バッキーは仰向けに寝転がったまま手で目元を覆って、盛大に溜め息をついた。しばらく無言を貫いた後、思い出したように左手に持ってたティッシュの塊を僕のお腹の上にポイと投げてきた。
失敗した。言うべきではなかった。せっかく三ヶ月ぶりに盛り上がったのに、今のでバッキーの機嫌を損ねてしまったみたいだ。正確には、恥ずかしがりなところを刺激してしまったというか。バッキーも分かってきたと思うけど、メイおばさんはかなりオープンな人だから気にしなくていいのに。そう言ったとしても聞いてはくれないだろう。気持ちは分かる。僕でさえ慣れるまで時間がかかった。
「だって。バッキーと過ごしたかったんだ」
「……。それは、俺もだけど」
バッキーは目元を隠したまま答えてくれた。良かった、そこまで怒ってはいないらしい。目の前の、白い肩にキスする。汗のにおいがした。ぺろりと舌を伸ばすと、バッキーは僕から逃げるみたいに勢いよく上体を起こした。耳がほんのり赤い。丸く曲がった背中からうなじにかけて三、四ヶ所、鬱血の痕がある。もっと残せば良かったと後悔してしまうのは、バッキーが次に言う言葉が何となく分かってたから。
「……次は、今度こそ、ちゃんと治ってからだ」
ほら。やっぱり言うと思った。
「分かってるよ……」
バレてるだろうなって予想してた。僕の背中がまだ少し痛むことなんて。バッキーとベッドで過ごすのに無理をしたというほどではないにしろ、僕が無意識に自分の背中に負担がないように振る舞っていたことくらい、バッキーなら見抜いてしまう。それでも、今日はやっぱりやめとこう、とか言い出されなくてほっとした。むしろ積極的だったかも、なんて思い出してしまう。やらしかったし、かわいかった。何か、自分で言うのもなんだけど、この人は僕のことが好きなんだっていうのが視線とか指先からもすごく伝わってきてどきどきした。ピーターって僕の名前を繰り返し呼んでくれる度に、何を求められてるかまで汲み取れてしまって、そりゃもう、スパイダーセンスがバグっちゃったかと思ったくらい。さっきは意地悪な言い方をしてしまったけど、バッキーも寂しかったんだってよく分かって嬉しかった。
と、バッキーがくるりとこちらを向いた。
「退院祝いが明日なら、今日は何食いたい?」
「え? あー……えっと」
最近食べてないものって何があったか考える。もちろん好きなものの中で。ピザは病室で食べた。ドーナツも。
「ホットドッグかなぁ。あと、アイスも食べたい」
ベッドの隅っこでぐしゃっとまとまっていた衣類をひとつずつ纏いながら、バッキーも、俺もアイス最近食べてないな、と呟く。
「買ってくる。……ついてくるとか言うなよ。寝るか、シャワーでも浴びてろ」
「うん」
じゃあシャワーが先だ。僕も起き上がって、まだ赤い耳に触れると、くすぐったかったのか、ぶんと首を振られた。
「早く帰ってきてね」
「……三十分もかからない」
それくらいならあっという間だ、と言いたいところだけど、僕はきっと、シャワーを浴びながら、まだかなぁって何度も考えてしまうんだろう。本当はひとときも離れたくないから。
明日の僕の退院祝いは、実はバッキーのおかえり会も兼ねている。それはまだ僕やメイおばさん、ネッド、スティーブ、ウィルソンさんだけしか知らない。遅くなっちゃったけど、バッキーへのクリスマスプレゼント。僕個人からはマフラーを贈るつもりだ。バッキーはそこまで寒がりじゃないけど、首元の痕を隠すのに活躍してくれたり、僕が日々駆けるニューヨークに吹く冷たい風から彼を守ってくれたらいいなって思う。
終