誰かが待つ家 + 珈琲味の想い人誰かが待つ家
こういう期間が生まれると、自分達はまだ同棲するには早いのかな、という気がしてくる。
「今日もこっちに泊まるのか」
スティーブの一言は、質問でありながら既に答えを知っているような物言いだった。バーンズは「うん」と返す。続けて、「あいつ、忙しそうだから」とも。
答えた後で、変だと思った。こっちに泊まるのか、って? この場所こそがスティーブとバーンズの住居であるはずだ。違和感が生まれる原因は、バーンズが、恋人であるサムの家に週の半分以上泊まっているせいだろう。
「最近は任務もないんだろう?」
「ない。ないから、退役軍人省からお声がかかるんだ」
皿の上の、中華風肉野菜炒めをフォークでつつく。サムに教えてもらったレシピを思い出しながら二人分作った。ランチなので量は軽めに。
「……僕はてっきり、もう……お前はこのままサムの家に住むんだろうと」
キャベツと肉を口に含み、もぐもぐと口を動かしながらそう告げるスティーブ。バーンズは、口に入れたまま喋るのはお行儀が悪いぞ、と注意はせず、「んん」とどちらともつかない相槌だけを返した。
スティーブは、僕のことなら気にしないでいい、と溢すことこそなかったが、そういう顔をしていた。
スティーブが挙げた疑問について、考えたことがないと言うと嘘になる。むしろ、そうしたいと思っている。何もすることがなかった午後に、まるで引っ越しする三日前みたいに自室の収納スペースや本棚を片付けたこともある。大きなビニール袋でふたつ分のゴミが出た。取捨選択を行う基準は単純だった。サムの家へ持ち込む必要があるか、ないか。それくらい、サムの家に住む自分をイメージしてしまっている。当の本人と具体的な話をしたことなどないのに。
このところ、アベンジャーズの活動に余裕ができている。しかし、それでサムが簡単に自由になるかというとそうでもない。相変わらず頭の中で世界の平和を願い、そしておそらく世界で一番か二番目に平等な正義感を携えたまま、サムは体や精神を鍛えることを止めないし、退役軍人省の古い知り合いからの連絡にも喜んで応えるのだ。どんな仕事をしているのか気にはなるが、バーンズからは話を聞かないでいる。もっと違った、例えばスーパーの店員やシステムエンジニアとしてサムが従事しているのであれば、日々の愚痴やらを聞けたはずだ。現実は違う。聞かない方が心地よいこともある。バーンズ自身のためにも、サムのためにも。けれど、このままではどこか寂しい気がするのも事実だった。自分達は、任務があって共に過ごす時間が長かったから偶然一緒になった訳じゃない。断じて、そんな理由じゃない。
お疲れ。今日はいつ帰れそう? そんなメッセージを打ち込んで、送信する前に消した。仕事が終わる時刻を問う文に書き直してから送る。サムが夜遅くまで帰ってこないのにサムの家に行きたがるのはおかしい、と自分でも思う。そもそも、突然訪問されてもサムが困るかもしれない。彼がいない、彼の家。そこにどんな意味を求めればいいのか。モバイルのディスプレイを眺めていても、答えを言葉にするのは難しい。
一眠りしかけていた体を起こしてリビングに向かうと、スティーブがテレビを見ているところだった。
「サムん家行ってくる」
「ん? ああ、休みになったのか?」
「いや、そうじゃないけど」
「?」
スティーブが不思議そうな顔をするのも無理はない。バーンズにだってどうしたいか分からないのだから。「とにかく、行ってくる」と話を終わらせて家を出た。
◆
バイクを走らせてサムの家に着く頃、辺りはすっかり暗くなっていた。一人で住むには少々広い平屋。当然ながらどの窓からも光は漏れ出ていない。いつも、デートの帰りに立ち寄るか、サムがいる時に訪れるだけだったので、こんな風に人気がなく真っ暗な家を外からぼんやり眺めるのは初めてのことだった。何だか、慣れ親しんだはずなのに、知らない家に見えてくる。この家にサムは毎日帰っているのだ、という当たり前の事実を認識する。
道路の脇に突っ立って家の方を向いていたら、通りがかりの車にクラクションを鳴らされてしまったので、玄関のドアの前の石段に腰掛けた。住宅街の車通りは、帰宅する人々で往来が激しくなり始める頃だ。メッセージアプリを開くとサムから返信が来ていた。今日も遅くなりそうだよ、だそうだ。
通りを行き交う車を数えるのに飽き、眠気も一周回ってさめてきた。モバイルのバッテリー残量も危うい。サムの車の駆動音が聞こえてきたのはそんなタイミングだった。
車は駐車スペースに入りかけたところで、車体が小さく跳ねるほどのブレーキをかけて停止した。ちょうど、ヘッドライトが玄関を向いたタイミングだった。さすがに眩しく、バーンズは目を細めて左手を顔の前にかざす。車内は逆光で見えない。見えなくとも、運転席のサムがとても驚いているのは明らかだが。エンジンはそのままにドアが開き、サムが頭を覗かせた。
「ジェームズ! どうしたんだ」
案外大きな声で、何が起こった、と言わんばかりの言い方をされたので、バーンズは戸惑ってしまう。違う、そうではない。余計な心配をかけさせてしまうとは。失敗した。どうって、と答えてようとして、喉が詰まる。何をしに来たのだったか。分からないまま来たはずだった。が、目が慣れてくると、その答えは簡単に見つけられた。
「……どうもしない。顔を見に来ただけだ」
なるべく軽い口調で返したつもりだが、サムは口を開けたまま瞬きしていた。数秒して、「そうか」と頷き、車内に引っ込んだ。駐車スペースに車がきちんと収められるのを待つ間、バーンズは気が気ではなかった。やはり連絡なしに来るのは迷惑ではなかっただろうか。気を遣われたくない。サムの帰りが遅くなるのを承知で待った。そう、サムの帰りを待ちたかっただけ。できれば、バーンズが待っていたことを、サムが喜んでくれればいいと。
サムが車から降りてきた。バーンズは立ち上がってジーンズについた砂を払う。足が少し痺れていた。サムはいまだに驚きを隠せない様子だったが、ぽつりと言った。「俺も顔が見たかったよ」と。バーンズはほっと息をつき、ドアの鍵穴に挿し込まれたキーが右に回るのをじっと見つめる。近い内に自分も同じことをしたいと思ったから。キーを回す方向を覚えておきたかった。
バーンズに何か問題があって訪ねてきたのだ、と勘違いされている可能性があった。そうではないのだと、率直に言うべきだ。これからはこの家でサムの帰りを待ちたいと。玄関からリビングまで、全部の灯りを点けて待っていたい。電気代は半分支払うから。つまり、シンプルに望みを言うのならば、今までよりもたくさん一緒にいたいんだ、と。こちらがそんなことを考えていると知って、サムはどう思うだろう。二人がそれぞれ歩むペースが揃っていることを祈るしかない。
家に入り、ドアが閉まるなり、サムの顎をすくって、少しかさついた唇にキスをした。意外だったのは、サムが笑ってそれを受け入れてくれたことだ。互いの鼻先が触れ合う。サムの頭がこつんとドアに当たったが、気にする様子はない。あたたかい背に手をやりながら、ついでに鍵をかけてやる。サムもハグを返してくれる。抱き合ったままで、サムがくすくすと笑う声だけが響く。
「どうしたんだ、本当に」
「何も。言っただろ、顔が見たかったって」
「あのな、知ってたか? 玄関に人影があるのを見つけると、結構びっくりするぞ」
それは、と咳払いする。
「鍵を持ってないから。そこしか待つ場所がなかった」
だいぶ捻くれた言葉選びになってしまった。頬が熱い。勢い任せは良くないと舌打ちしそうになっても遅かった。
「……」
サムは目を伏せた。ほとんど真っ暗闇の中で、それでもバーンズの目にはふるえる睫毛が鮮明に映った。やがて、目尻にしわが寄るのも。口元が緩んでいくのも。
意味は正確に伝わっているし、好意的に捉えられている。そう判断して、バーンズは我慢できずにもう一度キスをした。今度はさっきよりも深く、長く。唇を甘く噛んでやって、柔らかさを確かめる。
「なあ。お前も同じこと考えてくれてたりした?」
「……まあ。さすがに、そろそろかなあって」
すん、とサムの鼻が鳴る。照れ隠しかもしれない。気持ちは分かる。週の半分もくっついていた後だと、改まるのに多少の勇気がいるものだ。
「今日あんたが待ってくれてるって知ってたら、ポストの天板の裏に予備の鍵を貼り付けてあるぞって教えられたのに、って後悔してたとこだ」
今度はバーンズが口を開ける番だった。
「ポストか……。植木鉢の下は見たのに」
貰ったばかりの鍵に真新しさはない。サムがシャワーを浴びている間、暇だったので、持ち手にべったりと付着していたテープの粘着剤をブラシで洗って落としてやった。キーホルダーのチェーンにぶら下げ、バイクの鍵と並べると、ずっと前からそこにあったという顔をしているように見えた。愛着がわいてくるにはまだ早いはずだ。しかしどうにも、先ほどのサムみたく口元が緩むのだけは我慢できなかった。
終
(改行・空白除いて3679文字)
珈琲味の想い人
「
Twitter SSまとめ 18篇」内のものと同じ内容になります。
十四歳のサム・ウィルソンはアメリカン・フットボールに夢中だったらしい。チームメイトらと肩を組み、カメラに見せるその笑顔は、少なくともジェームズの目には今の彼とほとんど変わらないように見えた。ただし、体格は全然違う。
「すごい。ちっさいサムって感じだ」
思わずそうこぼせば、集合写真の入った額縁が取り上げられてしまった。サムは片眉を上げて、何だか変な味のものでも食べたような顔をしていた。
「そりゃ……そりゃそうだろ、俺なんだから」
「取るなよ、まだ見たいのに」
「片付け終わらせるつもりあるのか?」
たしかにサムの言う通り、物置部屋をジェームズの部屋にしようという計画の第一段階はあまり進んでいない。まだ部屋の一角がすっきりした程度で、ダンボール箱を移動させる度に埃が宙を舞う。今のように、壁にかかっていた写真一枚一枚に気を取られているようでは終わりは見えない。
「分かるけど。でも、今みたいなのって、片付けしてる時の醍醐味みたいなもんだろ」
ジェームズの反論を聞いているのかいないのか、サムは空き箱の隅に額縁をがちゃりと仕舞う。サムの、エレメンタリースクールの頃の参考書などと一緒に、適当に。物置部屋にあったとは言え、ずいぶんぞんざいな扱いだな、とジェームズは驚く。
「リビングに飾り直してもいいのに」
「……いや、止めとく」
「?」
妙な反応だな、と思ったのは直感だった。もしかして、と変な風に捉えてしまったのも、何となく。しかし一度気になれば聞かずにはいられない。ジェームズは淡々と箱の中を整理しようとするサムの肩に顎を乗せ、そっと声をひそめた。
「ひょっとして、チームメイトの中に元カレでもいた?」
サムはぎょっと目を見開いてこちらを見た。至近距離でその瞳を見ても、図星かどうかは分からない。サムがその頃からゲイだと自覚していた、という話は前に聞いた。だから、勘ぐってしまっただけ。
「隠さなくてもいいのに。どんなヤツかなとは思うけど、引きずるみたいに気にしたりはしない」
それは本心だった。今付き合っているのはジェームズで、しかも一緒に暮らし始めたばかりなのだから、三十年近く前の男に嫉妬したって仕方ない。
サムはジェームズの頭を押し退けながら、ふーっと溜め息をついた。
「……なら言うけど、ただの俺の片想いだよ。あいつには彼女もいたし」
「そっか」
ということは苦い思い出だ。物置部屋という微妙な場所に放置されていたことに納得できる。フットボール大会の思い出を大切にしつつ、写真を見れば複雑な気分になるのも分かる。付き合って喧嘩別れした相手ならともかく、片想いのまま終わった相手のことは、諦めがつこうが嫌いにはならないだろう。
ダンボール箱の奥へと向けられたサムの視線は、遠い過去を見つめているように見えた。十四歳の少年の静かな失恋。感傷的な空気が流れているのを感じつつ、ジェームズはあえてにかりと笑う。
「サムに好かれるってことは、いいヤツだったんだ?」
「否定はしないが、それ、お前が言うか?」
くすくす笑いながらジョークに乗ってくれたサムは少し話をする気になったようだ。
「チームのキャプテンじゃなかったけど……縁の下の力持ちって感じのやつ。女にもモテてた」
「へえ。若い時の俺に似てるな」
サムはまた難しそうな顔をする。呆れるでもなく、困るでもなく。
「……、あのな……。とにかく、俺はまだ何となく女より男が好きだなって思ってただけだったのに、そいつのことだけは目で追ってたんだ」
だけは、という言葉に、ジェームズの胸中にほんの僅かな嫉妬がじくりと沸いた。ついさっき、三十年前の男には、と思ったばかりなのに。そんな心情を隠そうと、ジェームズも壁の片付けに戻る。
「それじゃあ……初恋ってやつか。なかなか遅いけど」
「まあ、そうなる。ジェームズは初恋早そうだな?」
「あー……覚えてる限りだと、四歳の時、近所のジェシーちゃんと結婚するって親に報告してたかな」
「ふうん、可愛らしいじゃん」
そこでその話は終わった。そろそろ本腰を入れなければ、本当に片付けが進まないからだ。
◆
チョコクッキーをつまみながら珈琲を美味そうに飲むジェームズを、テーブルに肘をついたままじっと見つめる。
片付けの進捗はいまいちだが、十六時というのはどうにも眠気が訪れ、小腹も空いてくる時間である。休憩するには最適だ。とは言え、陽も落ちてきた。たぶん、片付けの続きは明日か来週になるだろう。時間はたっぷりあるので、のんびり進めばいいと思う。
それにしても、さっきは焦った、とサムは一息つく。
──若い時の俺に似てるな。
ジェームズはおそらく、「女にもモテてた」という点についてそう述べたのだろう。サムはそれを察するまで数秒かかってしまった。
サムは先ほど箱の一番奥へ仕舞い込んだ集合写真を思い出した。マシューという名の彼の髪型や輪郭を。ふんわりと淡い弧を描いて不器用そうに笑む唇を。フットボールクラブに入って、初めて出会った時に思ったのだ。参考書に載っていたセピア色の写真の、とある軍人に似ているな、と。
「このクッキー、美味いな。また今度買いに行こう」
クッキーの屑を口の端につけたまま、ジェームズが笑う。十四歳の少年に今教えてやれるとするならば、にかりと歯を見せた笑顔の方が可愛いものだぞ、ということである。
終
(改行・空白除いて2160文字)
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