Friday, July 4th, 1941Friday, July 4th, 1941
せっかくの金曜日であり、アメリカ全土が愛と自由に満ちた夜を楽しんでいるのに、どうしてバッキーがスティーブの部屋で絵のモデルをつとめことになったかというと、今日がスティーブの誕生日であるからに他ならない。バッキーは明日もボクシングの練習が控えているにもかかわらず、ビールとアップルサイダーの瓶と、バッキーの母が作ったというフルーツタルトを提げて訪ねてきた。それが夕方の五時。スティーブは数件しかない夕刊の配達を終わらせてきたところだった。正直に告白すると、配達が折り返し地点を通り過ぎた頃から、帰ったらバッキーが玄関で待っていればいいのにと期待していた。いるだろうという確信もあった。
タルトを食べ終えた後、久しぶりにバッキーの絵を描きたいと言ったら、もう帰るつもりだったらしいバッキーはあからさまではないもののたじろいだ。スティーブだって、せっかくの独立記念日だから残りの時間を家族で過ごしてほしいという思いは持っていた。しかしその一方で、このままここにいることを選んでほしいという気持ちも強かった。バッキーは、一体何を誤魔化そうとしたのか、スティーブ酔ってるだろと苦笑いしたけれど、スティーブはそうかもしれないと軽く流すだけにした。バッキーからもらったビールはせいぜい三、四口だった。さすがに酔っていない。ただ、そういうもののせいなのだと責任や原因を別の場所に作っておきたいとバッキーが考えているのならば、それに乗らない理由はない。何だって良い。バッキーがここに残ることを自分で選んでくれれば、それで。
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黒鉛と紙が擦れる音を聞きながら、この時間がずっと続けばいいのに、と思った。直後、売れないアーティストが作ったラブソングの歌詞みたいだと自嘲する。ついつい、ふ、と息が溢れると、スティーブが不思議そうな顔をして手を止めたので、何でもない、と答えた。
絵を描きたいと言われた時は驚いたが、特に断る理由はなかった。何なら、母にはスティーブの部屋に泊まるかもと伝えてある。しかし、今日は映画館も休みだし、飲み屋は混んでいるだろうし──そもそもスティーブはほとんど飲めないし──、そうなれば部屋で過ごすしかないのだが、ほとんど毎日会っている自分達は特段話すべきニュースに溢れている訳でもないので、適当に切り上げたら帰ろうと思っていたのだ。なるほど、絵を描くのであれば、ぺちゃくちゃ喋り続ける必要もない。もっとスティーブといたいのだから、大人しく箱椅子に座ってみようかとなったのである。
パキ、と乾いた音がした。窓の方を向いていた視線を戻すと、スティーブが小さく舌打ちをしたところだった。鉛筆が折れたらしい。珍しい。また安く品質の悪いものしか買わなかったのだろうか。誕生日プレゼントはいつもと同じで野球観戦にでも連れて行くつもりだったが、単純に鉛筆とノートをあげた方が喜んでもらえるかもしれない。
スティーブは小刀を持って、いらない新聞紙の上で鉛筆を研ぎ始めた。かしゅり、かしゅり、木の削げる心地よい音がどこか眠気を誘う気がした。暖炉に当たっている時の暖かさを連想するのかもしれない。実際はじりりと暑い夏の夜なので、暖炉なんて勘弁だが。
鉛筆を研ぎ終わったスティーブは、再び絵を描くことに熱中し始めた。その視線がバッキーと紙の上を行き来する。バッキーもタイミングをはかって、スティーブの前髪だとか、きゅ、と寄せられた眉だとか、細められた目だとか、たまに薄く開く唇だとかを盗み見た。以前より細くなってないか。少しでも肉がついたところはないか。そういえば当然ながら明日の朝も配達があるだろうに、早く休まなくて大丈夫なのか。当たり前のように二人でいるけれど、今年もお前に彼女はできなかったな、とか。
そうして、思う。あと何回。あと何回、この、大切な友人の誕生日をこうして祝えるだろう。外の大通りで賑わうような派手さはいらないから。一年で一番尊く、一本の絹糸の如く繊細なこの日が、まだ悪魔や神に目をつけられていませんように。来年もおめでとうと言えますように。祝えるだけでいいから。それ以上は、望まないから。祈りと共に、内頬を噛んだ。
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描き上がった絵はバッキーには見せられなかった。できた、と告げたら、上手く描けた? と聞かれて、うん、と答えた。それだけだ。バッキーも見たがらなかった。その人懐っこさに反して、絵に描かれた自分を見るのを意外にも照れくさがる。
は、と顔を上げた。壁掛け時計を見ると、一時間も集中していたのだと気付く。
「悪い。時間遅くなっちゃったな」
「平気さ。家のみんなもまだ起きてるだろうし。お前こそ、早く休んどけよ」
「ああ」
箱椅子から立ち上がったバッキーは、ぐっと両手を組んで上に伸ばして背伸びした。肩甲骨の辺りで、ごり、と音がなる。さらに伸び上がると、シャツの裾が引き上げられ、案外細く、麦色に焼けた腹が一瞬見えた。
バッキーが帰る時、ハグなどの大袈裟なことはしなかった。誕生日祝いに来てくれたのはもちろん嬉しいが、それだけのことであって、今日という日は二人にとってありふれた日々の一部だ。これが今生の別れという訳ではない。明日会う予定は──今のところは──ないが、明後日のボクシングの試合の応援には行く。お互い、配達や練習に寝坊しないようにとだけ言い合ってバッキーは帰った。
スティーブは机の上に伏せておいた絵を手に取り、裏返しのままそれを眺めた。上質な紙ではないので、黒の線が透けて見える。絵全体の出来に大して興味はない。目立つのは、鉛筆が折れた部分だ。バッキーの瞳。ブルーグレイ、シアンともネイビーともつかない、窓を見つめ、夜のわずかな光を取り込んで煌めく色に引き付けられて、その全てを一瞬で描ききれるはずもないのに、つい力んでしまった。紙は破けこそしなかったが、あの時点でこの絵に満足いくことはないと諦めがついた。けれど最後まで描ききった。自らの欲に敗北したと認めたくなくて。
ぐしゃぐしゃと紙を丸め、部屋のくず籠に放り投げる。また来年。来年描けばいい。自分がバッキーにとって、ただの思い出になってしまう日がいずれ来るだろう。五年後か十年後か、もっと早くか。それまでに納得のいくものが出来上がればいい。スティーブが過ごす世界の中でバッキーがどのような存在であるかが伝わるような絵を、今日のような何でもない日にそっと見せてやるのだ。
例えばバッキーが誰かと結婚式を挙げる日。例えば子どもが生まれる日。いつか訪れる、そんな素晴らしい一日に、かつて友人だった男のことを思い出す。そんな一瞬があればいい。
シャワーを浴びてもどこかさっぱりしなくて、窓を開けると、大通りの方角から騒ぐ声が聞こえた。バッキーはとっくに家に着いたはずだ。あら、泊まってくるかと思った、と何気なく溢す母に彼は何と返すのだろうか。
温い夜風を感じながら、スティーブは炭酸の抜けたアップルサイダーの瓶を傾ける。机の上から転がり落ちた鉛筆が、またパキリと鳴いた。
終