Headphone Children あかいな、と、つぶやいた声がしんとした他人の教室に落ちた。
暮れ方の教室に、一人で妙ちゃんを待っていた。
委員会があるから先に帰ってて、と言った彼女に、待ってる、と言ったのは自分だ。
それで、彼女のクラスの、知らない誰かの机のうえに座って、ぼんやりと窓の外を眺めていた。誰の机か、なんて考えない。とりあえず、先輩なのかもしれないけど。
校庭を走る陸上部を見ているのは、単純におもしろい。
ぱあん、と音が鳴る、走り出す、息もきらさず、ただまっすぐにゴールのラインを目指す。ただそれだけだったら、誰にだってできる。それなのに、窓の外で赤く照らされている彼らは、それを極めてよりはやく、より軽やかに駆けようとする。
あるいは、ただぐるぐるとグラウンドを回っている、風景も変わらない、なんのへんてつもない景色を眺めて、走り続けている。
彼らは退屈しないのだろうか、と剣をやるほうからすると思う。だけど、濃い影を落とした地面を踏みしめる、彼らの視線は揺るがない。普段、対人の運動をしているからこそ、彼らのような人達に心を動かされるんだろうか―――。
がら、と教室のドアを開ける音がして、僕は振り返った。妙ちゃんが来た、と思っていたんだけど。
少し長めの色素の薄い髪に、隠された左目とヘッドフォン。ふ、と彼が顔を上げて、目があった。
あ、知ってる、この人―――"高杉"、だ。なんというか、目立つ男だ、と思う。独特の空気、というかオーラみたいなものが遠目にも見えて、僕でも彼のことは知っていた。そのせいか、はっきり言って、評判はよくない。
なんとなく気まずくて、僕は視線をはずした。
「…誰だ?」
"高杉"が僕に聞いた。その、逆らうことを許さないような言い方も気に入らなくて、人を待ってる、とだけ答えた。
「へえ」
笑い混じりの言葉が聞こえて、やっぱり僕は、この男が嫌いだ、と思う。
そっけない答えがかえって彼の気をひいてしまったのか、"高杉"は僕に近付いてきた。
なめられてる?思うと、頭の奥がちりっときた。
彼を睨もうとして、見返した彼は、僕を見てはいなかった。
「赤いな」
彼の視線を追って、外を見た。夕暮れの空は、赤いというよりは燃えるような色をしていた。丸いおおきな太陽の周りから、藍の空ににじむように臙脂色の光が広がっていた。
ふ、と風を感じ、なんとなく横を向いて、僕はぎょっとした。
"高杉"の右手が、髪に触れている。電流のように、身体中に怖気が走った。
「触るな!」
彼の手を逃れようと身をよじると、"高杉"は、
「触ってねえだろ」
そう言って、指先で僕の髪をすいた。
「好きなんだよ」
綺麗なものが、と彼はつぶやいた。
「見ろよ、夕日に反射して、綺麗だ」
―――馬鹿にするな。
僕は彼を思い切りにらみつけた。猛烈に腹が立った。ぶんなぐってやろうと思った。
けれど、僕はそれをしなかった。
この男がこうやって微笑んでいるところを、僕は初めて見た。
今まで、なんとなく見かけていた彼は多くが、どこか歪んだ笑みをうかべていた。自分を含めて、全てを嘲笑っているかのような、どこか普通じゃないような、そんな笑い方をする男だと思っていた。
すきなんだ、きれいなものが、はかないものが、失われるものが、失われていこうとしているものが、失われてしまったものが、いつか消えてしまうものの、その消えていく軌跡が、たとえ消えて、なんにも残らないのだとしても。
その喪失の過程こそが、美しいと思う、と、彼はひとりごとのように言った。
ああ、そうか―――この男は、きっと、さぞかし生きづらいのだろう。そんなことを、思う。
彼の髪も夕日に透けて、輪郭もはっきりしていなかった。
意外―――意外、だった。もっと、下卑た顔を、しているのかと思っていた。髪も、染めているんじゃない、もともと色素が薄い人なんだ。
本質を示すのは、かたちではない。
「…高杉、君はなぜ―」
その時、がらがら、と音がして「九ちゃん?ごめんなさい、待たせて…」という妙ちゃんの声がした。
「…って、高杉?何をしているのよ」
何にもしなかったでしょうね、九ちゃんに、という言葉まで続いて、僕が答えるよりも先に高杉が笑った。
「してねえよ。それとも、お前がしてほしいのか?」
「…!妙ちゃんに何かしたら許さない!」
そう言うと、彼は一瞬僕を見やって、くっくっ、と笑った。笑いながら、僕の座っている机を離れて、同じ列の一番後ろに歩みよって鞄を取り上げた。―――もうすでに、いつもの彼だった。
なんとなく彼のうしろ姿を見ていたら、妙ちゃんが僕の手を引っ張った。
「行きましょ。気にすることないわ、あいつ、もともとああいう奴だから」
妙ちゃんは僕を気づかうように笑いかけたので、僕も少しだけ笑って、窓際の机を下りた。
「…うん」
妙ちゃんに手を引かれて3Zの教室を出て行く瞬間、ふ、ともう一度窓のほうを見た。高杉が、僕を見ていた。
窓の外には、もう藍色の風景が広がって、西の端にわずかに臙脂が残っているだけだった。