プレイグ 青年は紺色のミニバンに滑り込み、後部座席に身を沈めた。それに合わせて静かにドアが閉められる。こもった空気に大きく息を吐くと、瞑目した。トランクを閉じる音が体全体に響いて車体が揺れる。
薄く目を開けると、銀色のドアノブが微かに光を反射して、暗闇に亀裂が入った。ドアの隙間からのぞいた人影が青年を見やった。背後にテールランプが尾をひいていく。
「大丈夫ですか?やはり今日でない方が…」
気遣う声は幼さを感じさせる程に若い。それを遮るようにして青年は低く言う。
「いや、今日を逃せば感づかれる」
男は少し困ったような気配を匂わせドアを閉じる。長尾はそのまま諦めたように助手席に乗り込んだ。
「出発してもよろしいですか?」
運転席から丁寧な、年経た深みを備えた声がかけられる。青年は軽く、澤田のその言葉に応じた。
エンジンがうなりをあげて、車が動き出す感触がした。青年はいつまでもこの感覚が好きにはなれなかった。彼が生まれた頃にはまだこんなものはなかった、そう思うのが嫌いなのかもしれない。
軽い空調の風がわずらわしく、澤田に止めるよう命じる。人間にも今日は必要ないだろう。スモークガラスの向こうには時折、車のライトが過ぎるだけ、目前には尾根が黒々と横たわっていた。稜線の真上には無数の星屑があるらしい。
「…良い夜だ。奴らも起き出しているだろうな」
青年は自嘲ともつかず呟いた。この峰の中腹に建てられた古い山荘に奴らは棲んでいるという。奴ら―――あの病原体は人間と同じ姿をした人ならぬものだ。永遠の安らかな寝床より起き上がった者、時を持たぬ者たち、ただその瞬間のみを永久にさすらう鬼。
奴らは人の血を糧にして生き永らえる。奴らに血を与えた者はほどなくして斃れ、そこから永遠に汚染が広がっていく。
「…病原体を根絶しなければ、疫病は鎮まらない…」
青年はうわ言のように口にし、ガラスの向こうのテールランプが遠ざかっていくのを眺めた。彼は長い間奴らを探してきた。奴らを狩ることが彼が自らに課した使命であり、執着だった。
「本当に大丈夫ですか?」
下男は後ろを振り返る。青年は右手を上げて彼を制した。苦労して探り当てた塒を襲撃して、もぬけの空だったのはつい先日だ。充分に警戒されている。再び逃すことはしたくなかった。
運転席から穏やかな声がする。
「…この近くに河原がございます。キャンプは禁止されているはずですが、ゴミを残していく輩が跡を絶たないそうです」
かすかに後部座席に視線が投げられた。
「お休みになりますか?」
「…気が進まないな」
「仕方がないでしょう。いかがなさいます」
青年は眉根を顰め、うなずく。
「いいだろう」
澤田がハンドルをきると、車が左右に傾いだ。先刻まで登っていたのが今度は降り始めたらしい。しばらく走ると、車は再び曲がる。舗装されていない山道を降り、振動に慣れてきた頃に、青年はせせらぎを聞いた。
「止めてくれ」
青年が命じると、澤田はその通りに停車する。
「ここでよろしいので?」
「構わない。あまり近付きすぎると気づかれる。エンジンは切っておけ」
青年は素早くドアを開け、音もなく滑りおりた。さえざえとした星の光が足元を照らす。
澤田は猫のような主人の姿を見送る。逆光になった青年の影が彼の動きに合わせ、ある木の幹に宿っては消え、また次の木に宿った。
澤田は昔、戦争で孤児になった時分に青年に拾われた。出会った時から、青年は誰より優れているように見えた―――容貌の美しさではない、曇り一つもない、完全な存在だったのだ。彼に仕え、すでに半世紀以上が過ぎた。澤田は相応に年を重ね、青年は今もあの頃のままだ。
青年は音を立てぬよう細心の注意を払いながら河原に近付く。暗い色をした三角形の影が見えた。そう大きくもないテントだ。おそらく一人か二人用のものだろう、と青年は見当をつける。
黒のワゴン車が近くに停車している。青年が砂利を踏むかすかな音がしていた。
慎重にテントに近付き、手前にきたところで足を止めた。耳をすます。聞こえるのは川の流れる音とわずかな吐息だけだ。
青年はゆっくりと腰をかがめ、地面に手を伸ばすと指先がファスナーに触れた。軽くつまみ、じりじりと開けていく。
中には二人ぶんの寝袋があった。熟睡しているらしい。青年は腰を曲げてようやく通れるくらいまでファスナーをあげた。それほど飢えているわけではない。しかし、奴らは何人いるかも定かでない。倒すには膨大なエネルギーを要する。
青年はテントの中に首を入れる。人間の若者の血の匂いがする。甘く芳醇でうずくような、逆らいがたい欲求を惹起する香り。あまりの匂いの濃さに陶然とし、眩暈すら覚えた。ここに眠るのは若い男女だと確信する。
青年は音をたてないよう一つの寝袋へと忍び寄った。若い女だ。極限まで脱色した髪がテントの上にまで広がっている。彼女は化粧も落とさずに深い寝息を立てていた。
青年は寝袋に手を掛け、止めた。起きてしまうかもしれない。青年は彼女の肩の下に右手を入れ、もう片手で顎を押さえる。白い、柔らかそうな首筋が露わになった。
「…何…」
女は恋人だと思ったのか、寝ぼけた眼差しで不機嫌に言った。青年は彼女の喉に頭を沈める。耳たぶと顎の間、最も柔らかい場所に噛み付いた。血が口の中に広がって唇の端からあふれた。甘い。
女はやっと気づいたのか、寝袋の中でもがきはじめる。肩をつかむ手に力を加え、なおも声を上げようとする口を左手の指を噛ませることでふさいだ。やがて女の抵抗が治まったころ、青年は唇を彼女から放した。一息つくと再び彼女の頭を持ち上げてのけぞらせ、同じ場所を噛み直す。
しばらくして青年は顔を上げた。若者の血は甘い。それもとりわけ、男と寝たばかりの女の血は甘いのだ。―――青年が処女の血を飲んだのは、ただ一度しかなかった。
身体が熱で満たされる。体中に力がみなぎるのを感じる。
青年は女を見下ろした。痙攣が始まっている。もう長くはあるまい。
「…済まない」
青年は心からの憐憫を込めて言うと、ポケットからジャックナイフを取り出した。静かに刃を出す。
もはや目がうつろになった女の首に、青年は刃をあてがう。腕に力を込めて切り裂いた。ナイフが骨に当たる嫌な手ごたえがした。ナイフをそっと肉の中から出す。血はふきださなかった。もうそれだけの血液が体内に残されていないのだろう。
これが青年が犠牲者にしてやれるただ一つのことだ。起き上がって汚染源にならないよう、頚動脈を切る。
身体の再生能力を失わせるには頚動脈もしくは頭蓋骨を含めた頭部、心臓の破壊しかないと青年は今までに学んでいた。
ようやく女から視線を剥がすと、もう一つの寝袋が転がっているのが目に入った。彼は何も知らずに眠っているのだろう。起こす必要はあるまい、と青年は判断した。体中の血を抜くなど人間業ではないから殺人罪は免れよう。
青年は入った時と同じく静かにテントを出た。そのまま足音をひそめて河原を歩き出す。一歩のたびに小さく砂利が鳴った。
砂利から普通の山道となり、青年は安堵した。湿気を含んだ風が頬をなぜ、山の香りを意識する。自らの身体がすでに熱を失ったのが分かった。青年が体温を得ることができるのはわずかな間だけなのだ。
夜に溶けてしまいそうなミニバンに向かい、青年は山道を登る。運転席と助手席には光が見えた。青年が人間でなくなった時に喪失した、光の膜だ。青年は時に、その光の眩しさに耐えがたい恐怖を覚える。
特に、彼の腕の中で人間からその光が薄れていく時だ。
青年はかぶりを振った。もはや、考えたところでどうにもならないことだろう。
彼が車に戻ると、おかえりなさいませ、と長尾が言った。
「すぐに出せ」
「承知いたしました」
澤田の言葉はどこまでも穏やかだ。青年は彼に仕える人間には決して手出しをしない。彼らもそれを知っていて青年に仕え、青年を手助けし、死んでいく。
澤田はかつて、音楽を愛する少年だった。母が酒場でピアノを弾いた日銭で、親子二人がやっと生活していた。母が空襲で逃げる途中で崩れた家屋の下敷きになって死んだ時、澤田の右腕も潰された。
一方、青年は、闇に同化して得たものがただひとつだけあった。―――音楽だった。
そうして共にいるようになって久しい。澤田自身でもそう長くは生きられないことを知っている。
長尾が青年に仕える理由は分からない。聞いても笑ってはぐらかすばかりで、話そうとはしないのだ。
山中を走り出した車が一瞬傾いだ。シートの後方で激しく何かがぶつかり合う音がする。トランクにつまっているのは、武器だ。
澤田は思う。狩る者と狩られる者とはどちらも流浪の民、永遠の流離人だ。帰属する場所も社会もない寄る辺なき鬼、咎のように時をさまよう。
車は尾根を登る。外はトラックが通るばかり、昏い夜は更けていく。天蓋に散る星屑は一層けざやか、淡い闇を青年はガラス越しに見つめ、目を閉じた。
青年の棲まう昏闇が、そこに存在していた。