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    Before Talking CHESS「それを君に言わせているのは誰だ?」
     アナトリーの声が今も耳の底に残っている。
     僕はまぶたを開けて天井を見つめる。ウォルターの用意したバンガローは快適だった。
     空調設備は完璧でベッドはふかふか、テレビのチャンネルを回せばバンコクのテレビ放送と同時に国際放送も見られる。完全な英語話者である僕にとっては現地の言葉なんて宇宙語だ。外を歩けば茹だるような暑さ、到着して一日、二日は遊び歩いたが、すぐに飽きた。
     試合のない日は一日ごろごろしてるよ、と言ったらウォルターは笑っていたっけ。僕は結局、チェス以上に暇を潰せるものを知らない。
     ふとベッドを起き上がり、机の上に置いたポータブルのチェス盤を開き──また閉じた。大股に冷蔵庫に歩み寄って中からアイスクリームを取り出す。
     舌が痺れるような冷たい甘さが嬉しい。僕はアイスクリームを舐めながらテレビをつけた。
     ざらざらとした画面に見覚えのある風景。チェスの国際大会のことをやっている。現地のニュース番組だった。何を言っているのかはまったくわからない。
     ソ連の代表。薄ら寒い顔をしている。
     そうして現世界チャンピオン。アナトリー・セルゲイフスキー。マスコミに囲まれるアナトリーと、カメラの外にフレームアウトしつつあるフローレンス。
     フローレンス。
     僕は冷めた気分で画面を眺めていた。髪が伸びた。服の趣味変わった? ああ、化粧も変えたのかな。
     思わず口元に笑みがこぼれた。僕自身が、あまりにも滑稽で。
     かつて、僕の勝利はすべて彼女に捧げられたものだった。彼女の生い立ちに同情しなかったかといえば嘘になる。だがそれがどうした? 愛と同情にどれほどの距離があるだろう。
     僕は彼女を愛していた。
     僕が勝つことが彼女のためになると信じていたし、彼女もそれを望んでいると思っていた。
     美しい勝ち方というものがある。彼女を得てからの僕は目の覚めるほど芸術的な勝ち方ができた。
    彼女は僕のミューズだ。そう考えていたころが、昔、あった。
     それがどうだ。彼女は僕のミューズではなかった。付き合う男に合わせて簡単に変化する。つまらない普通の女だった。
     僕はなんと滑稽な、ピエロみたいだ。
     僕はそれでもテレビ画面から目を離せずにいた。アナトリー。亡命し、妻子を捨ててもなお善人ぶるのを止めていなかった。
     家族を捨てた偽善者と、そういう男になびいた女。お似合いのカップルだ。
     揶揄しながら、アイスクリームのコーンを齧る。僕にはもう関わりのない話だ。僕はチェスの大会を面白おかしくテレビで喋ればいいだけ。旧知の仲だから多少は、色々な、話し合いにも駆り出されるけれど。
    「君にそんなことを言わせているのは誰だ」
     あのとき、アナトリーに肩を掴まれて、揺さぶられた。混乱となかば確信とで見開かれた目が僕を覗き込んでいた。
     交渉の場に駆り出された僕を──試合の勝敗と引き換えにフローレンスの父親というカードを見せた僕に彼はそう言った。
     フローレンスは混乱し、恐慌をきたしていた。そうだろう。だって、他人がみだりに触るべきじゃない。家族という最も人間にとって柔らかいところを出し抜けに掴まれたのだから。
     アナトリーは憤っていた。けれどそれは僕ではなく、僕を通り抜けて、その先にあるものに怒っていた。
     僕は肩を掴まれ揺さぶられて、真正面からアナトリーの瞳を見つめてしまってもう駄目だった。
     アナトリーの瞳は確かに僕を「同じ側の人間」として認めていた。
     チェス盤の上の勝利に人生をかける。人から見れば馬鹿馬鹿しいのかもしれない。けれど僕達はチェスプレイヤーなのだ。
     チェスプレイヤーからチェスプレイヤーに交渉をさせる。そのやり口にアナトリーは怒っているのだと気付いて、僕は泣きそうだった。
     一年前、決勝を放棄しチェスプレイヤーであることを捨てたのは僕自身だった。けれどアナトリーにチェスプレイヤーとして扱われたとき、血が逆流するかと思うほど嬉しかった。
     そうだ、わかっている。こんな馬鹿げた取引など止めるべきだ。プレイヤーの誇りを踏み躙る行為だ。
     だが、それではフローレンスの父親はどうなる? 彼女の父親を見殺しにするのか?
     僕は頭を抱えて呻いた。できない。
     この交渉は僕が関わることがなくても進められることだろう。僕の口から言わせたのは、単なる嫌がらせに過ぎない。吐き気がする!
     僕がアナトリーの立場であればどうするだろう。勝利と引き換えに恋人の父親の命。アナトリーは、どうするつもりなのだろう。
     僕はうるさいテレビを消して、再びベッドに仰向けに倒れ込んだ。
     同じバンコクの地で、今頃は作戦を練っているであろうアナトリーの思考をなぞった。

     プレイヤーとしての誇りと、フローレンスの父親の命。両方を守る方法はあるのだろうか?
    ユバ Link Message Mute
    2019/12/18 12:09:46

    Before Talking CHESS

    日本人キャスト版のCHESS。
    バンコクの交渉シーンで、アナトリーがオフマイクで「君にそれを言わせているのは誰だ?」と聞き、フレディが泣きそうになるところがあったんです。
    その泣きそうになったフレディの話。 #ミュージカル #CHESS #チェス

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