1794年春 パリ 彼に初めて会ったのは酒場だった。
僕は酒場に来る途中に財布を擦られちまっていた。言っても仕方がない、要するに素寒貧だった。間抜けなことに僕が財布を擦られたことに気が付いたのはたらふく飲み食いしてからだった。
財布がないことに気づいて青くなる僕、そんな僕を見るおかみさんの目がどんどん吊り上がっていく。
そのとき、戸口から胴間声が響いてどやどやと数人の客が入ってくる。一人がおかみさんを見て言った。
「どうした? 怖い顔をして」
「そりゃ、怖い顔にもなりますよ」
おかみさんは応じると僕を睨みつける。
「あんた、払えるのかい、払えないのかい」
「……ツケなんてものは」
「あるわけないだろう」
にべもない。
「ツケもおまけもない、つまり払えないんだね」
おかみさんは早口でまくしたてて僕を指さした。
そのとき、おろおろする僕の首ねっこに腕が回る。
「おかみさん、こいつのぶんは俺が払ってやるよ。それで大丈夫か?」
耳元のがなり声に驚いて僕は彼を見上げる。彼は僕の視線を受けて笑った。
「そんな悪いで……」
「そうしてくれると助かるね! まったく金もないのに飲み食いされちゃこっちは迷惑だよ」
断ろうとした僕の声はおかみさんの言葉にかき消された。男は僕の肩を抱き、まあまあと言う。
「お詫びに一杯、付き合っちゃくれねえか」
男はにんまりと笑った。酒と彼自身の体臭、そしてうっすらと甘い香りがする男だった。
彼はダントンと名乗った。ジョルジュ・ジャック・ダントン。弁護士だという。
「財布を擦られた? 間抜けなもんだな!」
げらげらと笑われるが、なんとなく憎めない。人好きのする男だった。
「まあしょうがねえな。こいつでもやればいいさ」
そう言ってダントンは、この店で一番高い酒を僕のグラスに注ごうとする。
「やめてくれ」
慌ててグラスを手で覆うと、ダントンは不思議そうな顔をする。
「どうして。タダ酒だぜ」
「申し訳ないだろ、そんなに君にごちそうになってちゃ」
「はーん」
ダントンはしたり顔で言うと、さっと僕の目の前に手を挙げた。
「おい、あっち!」
「えっ」
「隙あり!」
僕がよそ見をした瞬間、ダントンは僕の手からグラスを取っていってしまう。
「おい!」
「いいじゃねえか」
ダントンはグラスに並々と酒をそそいで、僕の前によこす。
「俺はただ楽しく飲みたいだけだ。ほらよ」
ダントンは自分のグラスにも同じ酒をそそぐ。
「今日の出会いに、おまえの不運に乾杯」
鷹揚な彼の笑顔に釣り込まれて、つい僕もグラスを掲げてしまった。
「か、乾杯」
「はっは、それでいい」
それから彼とはいろんな話をした。パリのうまい飯の話や仕事の話、生い立ちや家族の話まで。彼はひとから話を引き出すのがうまい。話し過ぎてしまったかなと彼を窺うと、彼は気にするなとでも言うようににんまり笑った。僕の話のひとつひとつを丁寧に聞いてくれ、小さな悩みは笑い飛ばしてくれる。
「ジョルジュ、君の話を聞かせてくれよ」
夜も更けてきたころに僕が言うと、彼はテーブルに肘をついて語り始めた。
「まあた女に振られちまってよ」
今日会ったばかりの関係なのに、まるで旧知の友のように喋りだした。また、それを不自然に感じさせないところが彼の特徴でもあった。
それから彼とは何度かその酒場で会うようになった。楽しく飲んで、喋って別れる。心地よい友人のような関係だった。
何度目かに会ったとき、カウンター席で僕の横に座った彼は「三部会って知ってるか」と言った。
「いいや。……なんのことだい?」
訊くとダントンはこの国にかつてあったものだ、と言った。
「僧侶、貴族、平民、三つの身分が議論し、世の中のことを決めていく。今のこの国にこそ必要な制度さ、そう思わないか?」
「……一見よさそうに聞こえるけど、でも」
僕は口ごもった。
「でも?」
彼は笑って先を促す。その笑顔に勇気づけられて、僕は続けた。
「そんなの、今の世の中じゃ実現不可能なんじゃないのか?」
「今のままじゃ、な」
ダントンはあっさりと頷いた。そのまま自分のグラスの中に指を突っ込み、テーブルの上に正三角形を描くと、指先で頂点を叩く。
「いいか。この国の聖職者は十三万人、貴族は四十万人だ。こいつらが、残りの三千万人あまりの第三身分の上にでんと乗っかってるんだ」
だが、と声を低くしてダントンは言う。三角形の底辺、一番数の多い第三身分の部分を指ではじいた。
「単純な話だ。数の論理だ。圧倒的に多い第三身分が徒党を組めば、状況をひっくり返すことができる。一部じゃその動きがすでに始まってるんだ。こういう居酒屋が良い例さ」
「ジョルジュ」
僕は驚いて彼の顔を見る。ダントンは僕の肩に手を回して抱き寄せた。
「やつらにとって俺たち第三身分なんて家畜と一緒だ。いつでも取り換えられる。そんな状況をこれからもずっと続けていくのか。何十年も、子供や孫の代までずっと」
「それは危険だ、とても……」
「ああ、そうだ。だから俺がおまえにこの話をしている意義はわかるだろう?」
ダントンは片頬を上げてにやりと笑った。
「誰かがやらなきゃこの国は変わらない。変えてやるんだ、俺たちの手で」
それから僕は、彼らの会合に参加するようになった。議論をし、新聞を作り、その新聞からさらに議論をする。そういった繰り返しが何になるのかはわからなかったが、時代は確実に変わりつつあった。政治は王侯貴族のものではなく、国民全員のものであるべきだ、と──誰もが思ったから、議論が活発になっていったのだ。
会合には同じようにダントンに引き入れられた連中が何人もいた。ダントンは相変わらず、よく酒を飲んでは笑っていた。彼の醸し出す空気は明るくて、 彼の言葉は歯切れがよくて、魔力的な作用がある。彼の周りにはいつも人の輪ができていた。彼は僕の肩によく手を回しては歌い、僕はたびたび彼に振り回されながら充実感に満ちた日々を送っていた。
一七八九年。 機は熟した。七月十四日、バスティーユ陥落。八月四日、人権宣言採択。
ダントンはまたたく間に時の人となった。彼のいるところにいっそう人が集まった。それは政治家として欠くべからざる資質であると同時に、彼の命を縮める要因にもなった。
一七九三年。故郷から戻ったダントンは恐怖政治に批判的な態度を隠そうとはしなくなった。
そのころ、僕も多少なりとも官職を得ていたが彼の栄達と比べるべくもなかった。当然だ、人間には分というものがある。
だから僕はあの居酒屋に彼がやってきたとき、心底から驚いた。ダントンはそんな僕の顔を見て笑って「幽霊にでも会った顔だな」とからかった。
「……そりゃ、驚くよ。にしたって君、どうしてこんなところに」
「たまには俺のことを誰も知らないような場所で飲みたいんだよ」
そう言われると何も言えなかった。 僕たちはカウンター席に座ると乾杯をした。四年の歳月は彼の横顔を思慮深い政治家に変えていた。
「どうだ? 景気よくやれてるか?」
ダントンはそう言って僕を見る。
「まあ。君は、大変そうだな」
「そうか? ……ま、そうかもしれないな」
僕も恐怖政治が正しいとは思えない。だがそれを堂々と言えるものは多くなかった。
大革命は正義だ。革命はいまだ不十分であると、それゆえに血で完遂せねばならないと謳われたならば、誰も逆らうことはできなかった。
「ジョルジュ。僕は君が心配だ」
「ん……」
ダントンは曖昧に返事をすると、グラスを煽った。
「俺はあいつがただのマクシミリアン・ロベスピエールであったころを知っている」
「そりゃそうさ、君たちが盟友だってのはみんなが……」
「誰かが止めなきゃならないんだ。だったら、俺がいい」
ダントンは自分の目の前で掌を広げた。
「俺はあいつを信じてる。革命は俺たちの夢だったんだ。きっとまだ間に合うさ、そうだろう?」
一七八四年。 三月、公安委員会はエベール派を反革命的陰謀の罪で逮捕、粛清。四月、エベール派逮捕に協力したデムーラン、ダントンらを逮捕する。
だから、言ったのに。僕は職場の噂や新聞を丁寧に追った。革命を後押ししていた出版業界は、今は様々な意見にあふれ、恐怖政治を支持するもの、支持しないものに分かれていた。
新聞によっては、裁判においてダントンが持ち前の弁舌で巻き返したことや、明るい展望を伝えるものもあった。僕もまたそうであれ、と願う。
僕はかつてのロベスピエールを思い出す。親しく話したことはなかったが、彼の言葉は熱く、優しさに満ちていた。困難を抱える民衆のために立ち上がろうとする、その理想はダントンの持つものと寸分たがわないように見えた。
どうしてこんなことになったのだろう。
噂では、ロベスピエールは処刑に反対している、とのことだった。
四月五日。僕は街道を走っていた。仕事さえも放りだして、ある場所を目指す。
街中が高揚で浮足立っていた。不安、喜び、絶望、様々な感情を内包しながら、民衆はその場所に向かっていた。大革命の立役者にして象徴でもある、ダントンとデムーランの処刑を見届けるためだ。
どうして。どうして。
彼を信じていると言った君を、僕は止めるべきだった? ああ、けれど君は本当の意味で仲間を否定するなんてことはできないんだ。だからずっと、彼のことを信じていたかったんだ。
汗をぬぐうこともせずに無心に走りながら、僕は自分の中に恐れがあるのを見つけた。
もし君が、君でなくなっていたらどうしよう? 理想を失い、仲間に裏切られ、暗い目をした君を僕は見たくない。
ジョルジュ。いるだけでその場が明るくなった。ジョルジュ。鷹揚で朗らかで、語る理想ははるか未来を見据えていた。
ジョルジュ。太陽のような男だった。ジョルジュ。僕は君に憧れていた。
喧噪が近づく。広場は敷地の外まで人で溢れていた。自由、平等、博愛、革命は人類の祝祭だ。革命がもたらしたカーニヴァルの一つが、処刑であった。
どうか間に合っていてくれ、と願う。僕は僕自身がわからなかった。君が死ぬのは見たくない。けれど向かわずにはおれなかった。
人いきれ、脂や生臭い皮膚の匂い、酒、香水、腐った食べ物の匂い。僕は人をかき分けて前に出ようとする。一際高い歓声。
警吏に挟まれて、君は姿を現した。伸び放題になった癖毛が顔を覆い、けれど傲然と頭を上げていた。周囲を睥睨して、時には笑いさえ浮かべる。断頭台に向かう姿は、演説台に向かった姿と同じであった。瞬間、民衆は熱狂した。
ジョルジュ・ジャック・ダントンは健在だった。ギロチンの前でさえ、彼はスターだった。
ダントン! ダントン! ダントン!
ダントンの名前を呼ぶ声はどんどん高くなっていく。警吏は一瞬、民衆の勢いに飲まれたように見えた。
ダントンは笑みを浮かべたまま、片手をあげて民衆に静まるように告げた。
「この場所に入ることができた幸運な諸君、まずはおめでとう。これから起こることを諸君らはよく目に焼き付けておくんだな。そして来ることができなかった連中にどれだけ凄い最期だったかを語るんだ」
ダントンがよく通る声でそう言うと、民衆は叫んだ。ダントンは気を良くして笑う。
右手で、自らの首を指した。
「いいか、俺の頭をよく見ておくんだぜ! これだけの頭は、まず滅多にないだろうからな」
熱狂が爆発する。僕も叫んだ。叫びながら涙があふれた。もう何も視界に映らなかった。
最期のときまでも君は、眩しい男だった。