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    エア阿選オンリー週ドロライまとめ1「傘」「雨宿り」2「食べる」「料理人」3「髪を切る」「ヘアアレンジ」4「陽光」「女神よりも美しい」5「ペット/騎獣」「片割れ」6「罰ゲーム」「お芝居」7「麾下を選ぶ」「手を伸ばす」8「さし飲み」「背中を預ける」9「夏の夜」「かき氷」10「名前」1「傘」「雨宿り」 眩しいほどの晴天の下、大粒の雨が降っている。少し前まで空にかかっていた雲が風に流され、その後すぐに降雨になった。射儀は継続するかと思えば、他でもない王の命によって中断となった。
     友尚の主公も飾り立てられた天幕の中に避難している。天幕の内側には陽光が射し掛かり、湿度の高い空気は光を含んでうっすらと輝く。
     阿選は黒を基調とした透かしの絹地の下に藍と碧を重ねた衣服を纏っていたが、全体に金糸が織り込まれているのか、阿選が身動きするたびその姿が淡く光った。
     友尚は西園の外で警護の兵卒らを統括する指示を出し、天幕の中を眺める。普段は当然のように近しく接しているが、こうして見るとひどく主が遠く思える。
    「それにしても華やかですねえ」
     振り返ると、先だって禁軍の左将軍に任じられた驍宗の麾下の師帥が立っていた。元々驍宗は瑞州師の将軍だったし、同じ王師だから知らぬ顔ではない。確か臥信と言ったか。
    「……主上の好みだろう」
    「でしょうね」
     言葉を控えて言うと、意図が伝わるのか臥信は頷いた。
    「もしかすると正式な大射よりも見物人が多いのじゃないですか?」
     臥信の言葉に、友尚は王や高官の居並ぶ承天殿の廷を改めて眺める。後宮の寵姫たちは勿論のこと、彼女らに仕える女官まで御簾の向こうに控えている。儀礼となると必ず参列することになる高官だけではなく、奄奚まで堂宇の陰に鈴なりになって見物していた。
     友尚の主は、目立つ。将としての能力が高く情理を弁え、政治向きの才覚もある。袖に恋文を投げ込まれているのを見たのも一度や二度ではないし、しばしば男女を問わず秋波を送られてはやんわりと受け流していることを友尚は知っている。
    「……確かに」
     友尚は首肯する。
     これは正式な、儀礼としての射儀ではない。王の思いつきに過ぎないことを友尚は知っている。
     驍宗を左将軍に任じた後から、王は禁軍の左右将軍による射儀をやりたがっていた。多忙を理由に阿選も驍宗も断ってきたが、遂に頷かざるを得なくなり、今日に至ったのだ。
     遊びの延長のものだから、羅氏による陶鵲はない。止まった的を射るだけ、どちらかといえば王の目的は射儀そのものよりも左右将軍を着飾らせて並べてみたい、というところにあったようだ。そういう経過があったから、どうしても浮足立った雰囲気になる。しかし王が直々に指示を出している以上はある程度の格式か必要になる。
     今朝、きらびやかな衣服に身を包んだ阿選に会ったとき、主は「士卒は飾りではないのだがな」と苦笑していた。
    「何を話してるんでしょうね」
     臥信は天幕のほうを見て言う。阿選の隣には、同じく華やかな衣服の驍宗が立って言葉を交わしているのが見えた。
     驍宗は銀地の錦の下に、その瞳を思わせる緋色を重ねている。射儀は驍宗から始まり、阿選に移ったところで雨になって中断したのだが、白銀の髪と錦、そして緋色は蒼穹に鮮やかだった。
    「さあ。なんということがない話じゃないか? こういう感じの」
     友尚が笑うと、臥信が不思議そうに首を傾げる。
    「私、驍宗様が雑談する図というのが思い浮かばないんですよ」
    「……しないのか? まったく?」
    「しませんねえ。そのぶん我々麾下が喋るんですが。阿選殿はそういうこともないでしょう?」
    「ないな。無駄なことを話す方ではないと思うが、麾下に話しかけられれば雑談くらいは」
     臥信は屈託なく笑う。
    「そうでしょう。だからもう、私はあの二人が何を話してるのか気になって仕方がありません」
     友尚は苦笑し、天幕の中を見遣って同じく首を傾げた。
    「なんだろうな……。仕事の話かな」
     友尚の言葉に臥信は噴き出した。
    「それなら想像つきますね」


    「せっかく阿選の番だったのにな」
     雨を避けるため天幕に入ると驍宗は言った。阿選は驍宗を見返して笑う。
    「先程は見事だったな」
     驍宗の放った矢は全て真っ直ぐに正中を射た。儀礼的なものだから完全に的に当てなくても構わないのだが、それでも見事に射ることが出来れば見栄えが良く、歓声も上がる。驍宗は端然として何事もないかのように正確に的を射抜いた。
     射儀を行うことが決まったのが一ヶ月程度前、その間、騒乱など不測の事態が起こればどちらかが派遣されてこの話も流れるかと思ったが、遂にその日が来た。先日、どうするべきだろうかと相談され、阿選が見立ててやった衣服は驍宗によく似合った。反面、些か自分に似てしまったかと内心で苦笑する。
    「うん。どうなるかと思ったが、弓射はほぼ同じだな」
     儀礼で用いる弓矢は、軍人が戦場で用いるそれとは異なる。阿選や驍宗が見慣れていて、使い慣れているものよりも大きく、美しく塗られ、額木と藤頭の部分に珠金がつけられている。
    「陶鵲を射たほうが面白かったかもしれんな」
    「あれは力の加減が難しいだろう。飾りを射ることに意味があるとも思えない」
     驍宗はそう返して笑うと、不意に声を低めた。
    「近く、大火事が起こる可能性がある」
     阿選はさっと周囲に視線を遣る。天幕の中は阿選と驍宗の二人きり、隣の天幕とも、堂宇とも距離がある。何より降りしきる雨音が二人の話し声を掻き消してくれる。
    「どこだ」
    「垂州だ」
     驍宗はそのまま言葉を継いだ。
    「所領の管理を任せている者から連絡があった。垂州に戈剣が余剰に運び込まれている形跡がある」
     驍宗の所領は、垂州と境界を接している。街道は鴻基から見て驍宗の所領を経て垂州に至るため、荷の出入りはおおよそ把握できる位置にある。
    「なんとなく戈剣や火薬が運び込まれる回数や量が多い気がする、と気付いたのは半年前だそうだ。それから注意を払うようになった。するとやはり、凱州や藍州よりも多くなる。増減はあるが、平均して一ヶ月に一割程度が余剰だった」
     その地に乱があれば当然戈剣の入用が多くなる。しかし垂州は、近年は乱とは無縁でよく治まっていると言えた。
    「……それが、半年前なんだな」
    「ああ」
     驍宗は頷いた。気付いたのが半年前なら、実際にはもっと長く戈剣が運び込まれている。場合によっては、「余剰」の戈剣は本来あるべき量の倍以上かもしれない。
    「……なるほど。大火事だな」
     阿選は低く呟く。それだけ長期間、大量の戈剣を入れているとなると州侯、最低でも州師の関与は疑ったほうがいい。
    「主上には?」
    「奏上した。引き続き調査せよ、とのことだ」
    「そうか……」
     阿選は微苦笑を浮かべた。文治の王だから、戦向きのことになると動きが鈍い。いつものことだった。
     阿選の表情を見て取って、驍宗も苦笑した。
    「士卒は飾りではないのだがな。……阿選の耳にも入れておいたほうがいいだろう。行くとなればどちらかだ」
    「そうなるのだろうな。私のほうでも調べておこう」
    「頼む」
     能力にせよ、戦功にせよ、大規模な叛乱となれば阿選か驍宗か、いずれかが兵を率いることになるのだろう。驍宗は禁軍将軍に任じられたばかりだが、それ以前は王師六将軍の一人だった。そのころから紛れもない事実として、阿選と比肩し得るのは驍宗だけだったし、驍宗と比肩し得るのも阿選だけだった。
     天幕を叩いていた雨音が急速に静かになっていく。承天殿の廷を洗うかのようだった雨が止み、濡れた堂宇や露台に日射しが輝いた。
     驍宗は天幕の外を見上げる。
    「再開になりそうだな」
    「ああ。ここで見ているか?」
    「そうすることにしよう」
     そうか、と返して、阿選は天幕から一歩を踏み出す。陽光の中、緩く振り返って笑った。
    「どうやら私も、全部の正中を射抜かねばなるまいな」
     言うと、同じく笑顔の驍宗と目が合った。
    「楽しみにしている」
     冷たい雨が降っていた。夜半に降り始めた雪は明け方には霙混じりになり、昼に至って激しい雨になった。
     二月に鴻基を出立したときにはまだ霜が降りていたが、春が近付いて気温が上がってきている。戴の長い冬が終わろうとしていた。
     冬の行軍は過酷だ。寒気が強く大地は芯から凍りつき、隊列を組む士卒たちの正面に雪が横殴りに叩きつけられる。寒さに備えて上套は厚く荷は多く、とかく体力を消耗しやすい。
     そういう冬の行軍を終えて帰還しようとしていたが、この天気は士卒にとってあまり好ましいとは言えなかった。
     友尚は騎獣の頭を上に向けて空を駆けた。上空から見ると士卒の疲労がよく分かる。煤けた上套は雨を吸って草臥れ、足取りは重い。
     雪にならないからといって、まだ暖かい季節には遠い。雪ならば払うこともできるが、冷たい雨は下手をすると雪よりも厄介で、兵卒の体温を容赦なく奪っていく。
     先頭は半日もせずに鴻基に入るだろう。鴻基に帰還したならば、まず最初に兵卒たちに火を焚いてやらねばなるまい、と友尚はひとりごちた。

     友尚が軍営に入ると、既に堂室の中は暖かかった。炉に火が入れられている。それどころか、兵卒たちが忙しく立ち働いて煮炊きをしている。
    「戻ったな、友尚」
     呼ばれて振り返ると、同じ右軍の師帥である成行だった。
    「ああ。これは?」
     成行は笑う。
    「鴻基に入る前に知らせを放ったろう。それを受けて、さぞかし兵卒らは冷えているだろう、と阿選様が指示したのだ」
    「なるほど」
     友尚は得心した。主公の気遣いが有り難い。
    「弦雄、ここを任せるぞ」
     友尚は振り返り、背後の麾下に言う。成行が微かに目を瞠る。
    「もうすぐ温かい湯菜が出来上がるようだが?」
     友尚は笑った。
    「ありがとう。士卒に振る舞ってやってくれ。俺は阿選様に帰還の報告をしてくる」

     友尚が簡単に服装を整えて右軍府に向かうと、阿選は不在だった。
    「主上のお呼びだそうだ」
    「またか」
     友尚は肩を竦める。恵棟は苦笑した。
    「頼りにされているのだ、と思っておこう」
    「あてにされている、の間違いだろう」
     友尚の言葉に、その場にいる幕僚からひそめた笑いが起こる。表立って言えることではないが、この朝は阿選と左将軍である驍宗の働きでようやく成り立っている。
     戴は元より騒乱が多く、資源に乏しく、なべて民は貧しい。辛うじて採掘される玉も近頃は絶え始めている。天意が去りかけているのだ、という。王朝がじりじりと沈んでいこうとしているのを、官の誰もが感じている。辛うじて持ち堪えているのは阿選や驍宗、彼らに従う麾下が支えているからだという自負もあった。
     不意に表のほうで静かなざわめきが聞こえる。扉が開けられ、阿選が姿を表した。扉の向こうに驍宗がいるのが見える。ざわめきはこのためか。恵棟を含め幕僚が立ち上がって迎える。
     堂室に入ってきた阿選は、そこにいる友尚に視線を止めた。
    「友尚か。無事帰還したな」
    「はい。ただいま戻りました」
     意気揚々と頷いた友尚に、阿選は笑う。
    「おかえり」

    ----------------

     鴻基に冷たい雨が降っていた。霙混じりの雨が地面を叩き、泥と合わさって赤茶けた飛沫を上げている。
     戴に再び冬が巡ろうとしている。しかしこの冬は、これまでのどんな冬よりもましであることを、友尚は知っている。
     天意に選ばれた、正当な王が帰ってきているからだ。
     友尚は上套が汚れるのも構わず、大地に膝をついた。目の前で偽りの大裘が切り裂かれ、血と泥に濡れそぼって地面に広がる。
     骸となった主公に、友尚はぽつりと呟いた。
    「おかえりなさい、阿選様……」
    2「食べる」「料理人」 そこで出会ったのは偶然だった。
     年の暮れ、郊祀が終わった直後で、多忙の禁軍には珍しく王からの急な下命もない。奇妙に凪いだ雰囲気で、常になく早くに右軍府を出る主公について、友尚も府第を出た。
     先日の出兵の詳細についての報告に来たのだが、友尚が辞去しようとすると阿選が「私も出よう」と言ったのだ。
     府第の中に人はまばらで、阿選は残っていた恵棟にも「急ぎの仕事でもないのだから帰ってはどうだ」と声をかけたが、恵棟は「切りが良いところまで終わったらそうします」と微笑った。恵棟は案外頑固で、自分がこうと決めたらそうする男だ。阿選も麾下の性質を理解しているから、そうか、と言った。
    「それでもいいが。休めるときは休んでおけ」
    「はい」
     恵棟は頷いた。戴は騒乱が多い。いつ辞令が下るか分からず、ここまで凪いでいることなど年に数回あるかないかというところだ。
     炉で暖められた府第を出たところで寒風に晒される。踏みしめた土が硬く凝っていて、鞜の下で霜が崩れる音がした。
    「冷えるな」
    「ええ」
     主と何気なく言葉を交わしたときだった。
    「……阿選?」
     阿選と友尚が振り返ると、旗袍姿の驍宗、その麾下の基寮が近付いてきていた。
    「驍宗。どうした」
     阿選が訊くと、驍宗は笑った。
    「奏上の帰りだ。何事もなく終わりむしろ拍子抜けしている」
    「なるほど」
     阿選は苦笑した。奇妙に凪いでいるのは右軍だけではないらしい。年に数回どころか、滅多にない状況と言っていい。
    「こちらも早めに府第を出たところだ。やることがないと調子が狂うな」
     阿選の言葉に驍宗が頷いた。
    「士卒を動かしているか、府第にいるかだからな。仕事がないと時間を持て余す。それで基寮に付き合ってもらって剣の稽古でもしようかと思っていたが」
     そこで驍宗は思いついたように阿選を見て笑う。
    「珍しいことだから、飲みにでもいかないか」
     阿選は少し目を瞠った後で微笑む。
    「いいな。そういえば友尚、鴻基にうまい魚料理の店を見つけたと言っていなかったか」
     突然言われ、友尚は慌てた。
    「はい、ええ……。行きますか?」
    「案内してもらえるか? 友尚の推薦ならば安心だろう」
     それでいいか、と阿選が驍宗に訊くと、驍宗は首肯して笑う。
    「もののついでだ。基寮も来い」
    「はい」

     宵の始め、四人連れ立って国府を抜けて、皋門を出る。鴻基の街に出るから、当然騎獣はいない。
     友尚は内心では困惑していた。先だって歩く主公二人は互いに気心知れているところもあるのだろうが、友尚は基寮と殆ど話したことがない。同じ王師にいれば存在は知っているし、評判も耳にする。どういう業績があり、どういう兵の使い方をするかは聞いたことがあっても、為人までは詳しく知らない。
     どうしたものか、と窺うと、基寮も同様に所在なさげな顔をしていた。思わず友尚は笑う。
    「……なんだ」
     基寮が訊いてくるが、気分を害した雰囲気ではない。ただ疑問に思ったから訊いただけ、というふうだった。友尚は基寮に好感を持った。
    「いや。話すのは初めてだな」
    「そうだな。話には何度か聞いたことがある」
    「右軍らしからぬひねくれ者がいるって?」
     基寮は軽く声をあげて笑った。
    「まあ、当たらずとも遠からず、と言っておく」
     基寮は寡黙なほうではあったが、軽口は通じるようだ。
    「臥信とは何度か飲んだことがある」
    「ああ。聞いている。よく喋るだろう」
    「軽妙だが突然核心をついてくるから油断ならん」
    「それは分かるな」
     鴻基にも雪が降っている。経緯の街路の脇には雪の小山が作られて、廛舗の前に歩廊がつけられていた。軒先には灯明が下げられ、風が入らないように戸は閉められているが、小さく切り取った漏窓から漏れる内側の明かりが暖かい。
     友尚は一軒の廛舗の前で足を止めた。
    「空きがあるか訊いてきます」
     阿選らにそう言い置いて、廛舗に入る。店主に確認すると大丈夫そうだ。
     店先で待っていた主公たちを先導して中に入る。途端に店内の客に仰天したような視線を投げかけられた。そうか、と妙に納得する。
     友尚は見慣れているが、驍宗の白灰の髪と緋色の眼は珍しい。驍宗本人はさして気にしていないのか、あるいは慣れているのか、涼しい顔をしている。しかも驍宗にせよ阿選にせよ軍人の中ではずば抜けた体格ではないが、市井の飯屋にいれば厳ついほうになる。基寮と友尚はそれ以上だ。
     店主に配慮されたのかは知らないが、四人はそのまま個室に通された。
     基寮が友尚に訊いてくる。
    「魚がうまいんだったか」
    「ああ」
    「漁に出るにも冬だし、鴻基じゃ海は遠いだろう」
     驍宗の言葉に意外な気がしながら、友尚は頷いた。
    「獲った後に加工して保存するんです。腐りやすい内臓を取って塩を詰めたりするのは有名ですが、乾燥させたり、ものによっては香辛料も使います。ここはたぶん料理するほうもうまいが、加工しているほうも相当にうまい」
    「詳しいな」
     驍宗にも基寮にも驚かれ、友尚は苦笑した。
    「家業が漁師なもので」
     阿選が笑って友尚を見る。
    「実際、友尚が料理をするとうまいんだ。右軍でも遠征先で友尚の料理法が広まったことがあったろう」
    「あれは、……皆が教えてくれと言うから」
     友尚が口ごもっていると、基寮からぽつりと、いいな、という声が漏れた。
     やがて料理が運ばれてきて、四人それぞれ舌鼓を打った。
    「うまいな」
    「香りもいい」
    「そうでしょう」
     驍宗と基寮が口々に褒めてくれ、友尚は頷く。当然だろう、という気持ちもあった。友尚は主公を見る。その視線に気付いた阿選は微笑んだ。
    「さすがだな。教えてくれてありがとう」
    「はい」
     友尚は笑う。例え些細なことでも、主公に認められることが何よりも嬉しかった。



     その日、鴻基は晴れていた。
     王の帰還を受け、城門を守る士卒は自主的に門を開いた。無傷で鴻基に入った驍宗軍は、そのまま経緯を行く。空行師を先行させて阿選軍の空行師の動きを封じ、鴻基の民を守りながら王宮に向かって前進する。
     民は廛舗の中から、閣亭の影から、息を詰めて軍勢を見つめる。
     正当な王がついに帰還し、民を謀っていた偽王を追い落とそうとしているのを民は感じているのだ。民の期待と歓喜の後押しを受けて、驍宗軍は進む。
     胸に蟠るものを覚え、友尚は微かに俯いた。不意に街路に目を止める。懐かしい感じがした。
     阿選と驍宗、基寮、そして友尚が食事をしたあの廛舗はなくなり、同じ場所で違う商売をしているようだった。当然だ。あの店主も引退したか、死んでいてもおかしくない。それだけの時間が経っている。
     友尚は一瞬空を仰いだ。鴻基にも、王宮にも、阿選と過ごした思い出はあまりにも多い。
     あのときの四人のうち、基寮は既にいない。深手を負って老安に担ぎ込まれ、治癒を焦って無理を重ねて死んだのだ、と聞いた。
     友尚は首を振って感傷を払い、前方に目線を戻した。
     そのとき友尚は、驍宗が同じように、同じ廛舗を眺めているのを見た。霜元に話しかけられすぐに目を離したが、あの廛舗を見ているような気がした。
     友尚は衝撃を受けた。驍宗は、過去を振り返ったりなどしない男だと思っていた。真実はどうなのかは分からない。たまたま目線が向いただけ、ということも充分に考えられた。
     過去が現在を作る。ならば、現在は過去の結果だ。
     友尚は、せめてこの結果を惜しみ悔やんでいるのが自分だけでなければいい、とひっそりと願った。
    3「髪を切る」「ヘアアレンジ」 阿選が、やりすぎた、と気付いたのは意外にも早かった。
     多分、瑞雲観を焼いたときには悟っていた。戴の道教の要、信仰の象徴である瑞雲観に糾弾されてかっとなった。我を忘れていたのだ、と今になって思う。
     気付いたとき、阿選を襲ったのは絶望だった。底のない暗い淵が足許に突然開いて、飲み込まれていく感触。大逆という罪に踏み込んだのは自分だったが、どうしても突然という印象を拭えない。
     各地の道観の道士が作る丹薬は民の生活を支える。道観によって効能が異なり、中には瑞雲観でしか製造できないものもあるという。阿選は瑞雲観の道士の殲滅を命令した。辛うじて生き延びた道士がいたとしても丹薬を作るための道具も知識も散逸し、元のような丹薬の供給は今後数十年は適うまい。
     民は阿選を恨むだろう。この阿選の振る舞いを見て、朝に仕える者達も阿選のなしたことが簒奪であると気付くだろう。
     阿選は驍宗を虜囚として封じ、王位に就いて自分が驍宗よりも優れていると証明するつもりだった。最初は善政を敷く算段だったのだ。実際、途中まではうまくいっているように思えた。それがいつ頃からか狂った。かつかつと何かが引っ掛かり始め、次第に全てがうまく回らなくなる。万事がその調子で滞り始め、焦れているところを瑞雲観に糾弾されて激高した。──いや、そもそも始めからうまくなどいっていなかったのではないか。
     函養山に驍宗を幽閉するのに烏衡を使い、ほとぼりが冷めた頃に運び出して養うつもりだった。しかし烏衡は加減を知らず、虫の息の驍宗を縦穴に放り込み、予定通り貍力を使ってそのまま崩落を起こした。死んだと思ったんでね、と嗤った烏衡に阿選は怒鳴りたい気がした。
     白雉は落ちていない。だからどこかで驍宗が生きていることは分かったが、函養山のどこにいるのかは不明だった。驍宗が死ねば天の条理は通常通り動いて、いずれ阿選は終わる。阿選が王位にあり続けるためには驍宗には生きていて貰わねばならないが、その驍宗は死にかけていて、どこにいるのか分からない。できることならすぐにでも函養山を掘り起こしたかったが、掘削すれば驍宗の麾下に驍宗の居場所が知れる。八方塞がりだった。
     とにかく阿選は計画通り、驍宗の麾下を朝から追った。李斎が二声氏に接触したこと、正頼による国帑の隠匿、いずれも計画からは逸脱していたが阿選はそれらを問題視はしなかった。李斎の行動は予想外ではあったが、驍宗麾下の反発は想定していたことだ。李斎を討ち、正頼に国帑の行方を吐かせれば済むことだと思っていた。
     李斎の麾下は捕らえるなり討つことができた。しかし肝心の李斎は常に逃げおおせた。深手を負わせてどこかで死んだかと思えばまた現れる。そのしぶとさが不可解だった。
     正頼はいくら責めても国帑について語らず、ゆえに国庫は枯渇する。元より驕王の浪費と十年の空位で財政が破綻していることは仮朝の中心にいた阿選が誰より知っていた。民の救済は遅々として進まず、驍宗ならばもっとうまくやった、驍宗ならばもっとはやくやった、という声が聞こえてくるまで時間はかからなかった。
     この朝は何かがおかしい、という声もあったが表立って言う者はいなかった。驍宗麾下への掃討を見ればそれがかなりの犠牲を伴う行為だということは明らかだった。阿選はそれらの声を無視しようとしたが、無視しきれずにいるところに更に瑞雲観からの糾弾が重なった。
     瑞雲観に苛烈な誅伐を加え、残党を殲滅した後、阿選に残ったのは虚脱感だった。胸にぽっかりと開いた穴、双璧と呼ばれ、驍宗よりも優れていなければならないと躍起になった過去の全てが徒労になったという虚無。寒々とした倦怠に支配されて両手を見下ろせば、もはや拭いようもなく罪に汚れている。阿選は永遠に逆賊と呼ばれ、大罪人として名を残す。対して、登極後まもなく位を追われた驍宗は無謬の王だ。
     阿選は目の前の方卓に置いた小刀を見下ろす。早朝の六寝は水を打ったように静かだった。玄威殿の中、開け放った漏窓から冷たい風が吹き込んで燭台の炎を揺らす。
     罪人の刑罰を決めるのは司刑だが、その刑を差配するのは掌戮の役目になる。掌戮は夏官であり、その指示を受けて実際に執行するのは軍人だ。
     うまく首を落とすには技術がいる。頚椎と頚椎の間、できるなら頭蓋骨と第一頚椎の間に刃を入れると簡単に落ちる。だから殺刑のときは罪人を跪かせて頚椎を露わにする。首に張り出して見えるのが第七頚椎、そこから六つ上がった先に目標がある。
     仕損じれば刃は骨に噛んで動かなくなる。罪人に不要な苦痛を与え、意志に関わりなく暴れることがある。それに備えて罪人を固定する者もいるが、噛んだ刃を力によって骨から引き剥がして再度刃を振り下ろすのは見苦しく残酷として忌まれるので、斬首の失敗は執行した軍人の恥だ。
     失敗を避けるため、殺刑に処される罪人は髪を括られるか、髪を切られて頚椎を露わにする。罪人が暴れて髪を結わえた紐が解けることがあるので、切られるほうが一般的だった。
     阿選は俯いて、後ろで緩く結んだ自分の髪を左肩から胸に落とす。左の指先でうなじに触れると、第七頚椎を押さえる。六、五、と上がっていき、髪の毛の中に第一頚椎を確認した。
     阿選の首を落とすのは、おそらく阿選も知っている者だろうと思う。禁軍の全ての士卒を知るわけではないが、殺刑は剣の腕が必要になることだから軍の中でもそれなりに評価のある者が務めることが多かった。
     阿選は左手で自分の髪の結び目を掴み、右手で小刀を取った。結び目の上に小刀を入れる。一気に横に引き抜いた。拘束を失いまとまりを欠いた髪が阿選の肩の上にばらばらと広がる。
     阿選は方卓の上に小刀を戻した。左手に残された、かつて自分の身体の一部だったものを見て薄く笑う。
     この日を境に阿選は六寝に籠もり、麾下の前にも姿を現わさなくなった。
    4「陽光」「女神よりも美しい」 よく晴れた冬の朝だった。雪に覆われた辺り一面、柔らかく淡く光っている。昨晩のうちに積もった新雪は、陽光を反射して微かな薄青い光を放っていた。
     阿選は自軍を率いて、鴻基を南に出立した。鴻基からは縦横に道が走るが、軍勢を通すことが可能な幅員を持つ街道は南北にしかない。瑞州の東に出征しようと思うと、一度北に上って承州経由で瑞州に戻るか、南に下ってから東に向かう必要があった。
     現在、鴻基には禁軍中軍、瑞州師が二軍しか残っていない。驍宗率いる左軍はまだ討伐から帰っていなかった。一両日に戻るという青鳥があり、阿選は宣旨を受けて鴻基を出ていた。
     阿選は騎獣を駆り、軍勢の先頭を行く。阿選のあとに麾下が続き、歩兵の後尾はいまだ鴻基にある。
     この時期の戴には珍しく晴れ間が見え、風もない。青い空に絹雲が掃いたようだった。朝の冷えた大気が喉を刺し、睫毛が凍る。
     街道沿いの林は葉を落とし、枝先にいたるまで白く雪を纏っている。まばたきをすると、視界に多彩な色の煌めきが踊った。細氷だ。空中に漂う水分が凍り、目に見えない微小な氷となって陽射しを受けて輝く。
     戴の冬は厳しい。大地は凍り、大半が厚い雲に覆われて晴れ間がない。これほどの晴天は、ひと冬に何度もあるものではなかった。
     騎獣も視界が眩しいのか、しきりに頭を振っている。阿選は囲巾の中で笑い、騎獣の首を叩いて宥めた。
     そのとき、街道の上空に空行師の師旅が見えた。阿選の軍ではない。その師旅は鴻基に向かっているようだった。先頭を行く者の髪が陽光を反射して白銀に輝く。
     驍宗の鴻基への帰還はあと一日はかかるものと聞いていたが。
    「乍将軍ですか?」
     友尚の声に、阿選は頷いた。
    「そのようだ」
     驍宗も阿選を認めたのか、騎獣を駆って師旅から離れ、街道に降りてくる。驍宗から何度か、騶虞を狩りに行きたいという言葉を聞いたことがあったが、禁軍の多忙さゆえ、いまだ果たせていないようだ。阿選は驍宗に声をかけた。
    「速かったな」
    「ああ。阿選が出立すると聞いたからな。左右が揃って不在の時間は短いほうがいい」
     それで空行師の、とりわけ機動力の高い師旅だけを連れて先に戻ってきたのか。阿選が納得していると、驍宗は自分が今やってきたほうを顧みる。
    「この先で、崩落が起きているところがある。補修はしながら進んでいるが、仮設だな」
    「どのあたりだ」
     驍宗が答えた地名に、阿選は頷く。
    「分かった。気に留めておこう」
    「そうしてくれ。一応、軍は通せるようにしてある」
    「それは助かる」
     阿選はそう言って笑う。幅員が狭い道は冬の間に雪に埋もれてしまうから、広い街道が潰されてしまうと、軍はもちろん行き交う民も困る。仮設でも軍が通せるだけの広さがあるなら、しばらくは大丈夫だろう。
    「阿選はどこに?」
     驍宗に訊かれ、阿選は東を振り向いた。青空を仰いで目を瞠る。太陽が白く、二つ並んで浮かんでいた。
     ごく稀に、こういう気象現象が起こる。細氷が出て、風もない冬の朝。空中の微細な氷の結晶の作用によって、真の太陽から少し離れて、同じ高度にもう一つの太陽が浮かぶように見える。あくまで陽射しが氷の結晶を通じ屈折して現れているに過ぎず、幻の太陽だ。
    「幻日か」
     阿選に合わせて東の空を見上げた驍宗が呟いた。
     大概の場合、幻日は真の太陽よりも光が弱く、小さい。しかしいま目の前にある幻日は、真の太陽と見紛うばかりに眩しかった。
    「珍しいことは重なるものだな。……真は左か」
     阿選はそう言って目を眇める。幻日は、真の太陽と比べて虹のように輝く。左の太陽が白光なのに対し、右の太陽は緋色と紫の光が暈のようになって上下に広がっている。
    「夜明け前から走ってきたが、右はさっきまでなかった気がするな。左が真だろう」
     驍宗の言葉に阿選は苦笑する。
    「夜明け前から……。相変わらず無茶をするな」
    「ついてこれるやつだけ連れてきている。こいつに無理をさせている自覚はあるが」
     驍宗は堂々と笑い、騎獣の首を撫でる。頭上に留まっている空行師に手を上げた。それを受けて、空行師は驍宗を待たずに走り出した。
    「では私はそろそろ行こう。阿選も先を急ぐだろう」
    「ああ。では、また」
     驍宗は笑って頷き、騎獣を促して空へ駆け昇る。
     阿選はその姿を見送り、東の空に再び視線を転じると、すでに幻日は光を弱め、消えかかっている。視界に映る細氷の煌めきも薄くなってきていた。
     あらゆる気象条件が重ならないと発生しないのが幻日だ。晴れた冬の朝の一瞬、陽射しが作る夢幻のような儚い時間。
    「我々も行こう」
     阿選は麾下に行って、白く雪に覆われた街道を見る。行く先はまだ、遠い。
    5「ペット/騎獣」「片割れ」 猫が逃げた、という報を叔容は聞くともなしに聞いていた。
     叔容は禁軍の右翼、一万二五百の士卒を束ねる主公、丈阿選に仕える軍司だ。彼らの戴く王はとかく派手好きだった。年中行事も華美になりがちで、主を含めて心ある臣下が再三進言しても改めてはもらえない。遊興の相手やその親族を政に関わらせることはなかったものの、後宮においての歳費は莫大になっている。
     つい先だっての祀でも、王やその寵姫の目を楽しませるため多彩な雑技が行われた。その最中に、寵姫の飼っている猫が逃げた、という。
     叔容は部下からその報告を聞いたものの、右から左にそのまま忘れた。禁軍は常に多忙だ。王宮は広大であり、外に出した猫が行方をくらましてしまうのは当然に思われる。猫にも飼い主にも気の毒なことではあるが、正直なところ忙しすぎてそれどころではなかったのだ。

     右軍府では近頃、怪現象が起こる。
     曰く、少し目を離した隙に物の位置が変わっている。置いておいたはずの書がなくなっていて、思いもよらないところに転がっている。見つかればまだ良いほうで、消え失せてしまうこともある。
     幕僚が過去の事例を確認しようと資料を紐解いて、そのまま中座すると資料の順番が滅茶苦茶になっている。なんとか資料を整えて、やっと腰を据えて書き写そうとすると、今度は筆がなくなっている。
     もちろん人の仕業ではない。自分以外の人間がいない場面で、それは起こる。
     阿選もそのことに気付いていて、麾下に命じて原因を調べさせているが、皆目わからない。
     そんなことが続くから、下官からすべて府第を出るときに一通り失せ物がないか、資料はきちんと順番通りに収めてあるかを確かめて、戸棚に閉まって出ていかねばならない。
     ある朝、叔容が府第に行くと、代々の軍司が使っている玉の文鎮が床の上で粉々に砕かれて転がっていた。王宮で使われているものの中ではさして高価なうちには入らないが、代々の物が割られたとなると気分が悪い。
     阿選に報告すると「またか」と眉を顰めた。そもそもが軍府である。朝晩と兵卒の番が立ち、日中は士卒が出入りする。警備といえばこれ以上の警備はなく、侵入者は考えにくい。
     その日のうちに、下官から報告が入った。一瞬、目を離した隙に硯をひっくり返された、という。──猫に。
    「……猫」
     叔容は唖然とした。下官が持ってきたのは、皺くちゃにされた書類である。引き裂かれ、墨で汚れて、どう見ても破棄するしかない。そこには、たしかに墨の足跡があった。
    「……小さな獣に違いありませんね」
     恵棟は足跡を眺めて困惑する。
     阿選は顔を突き合わせて戸惑う軍吏たちを見て笑った。
    「正体が分かってよかった、というところだろう。掴まえればいいだけの話だ」
    「それはそうですが」
     そもそも、なぜ軍府に猫がいるのか。
     阿選は苦笑する。
    「後宮に、お探しの猫が見つかったと知らせねばなるまいな」
     あ、と恵棟は口を開けた。
    「そういう話がありましたね」
    「あの猫が右軍府に?」
    「だろう」
     阿選は面白そうに笑う。
    「たしか子猫と聞いている。これまで我々は姿を見ることも適わなかったんだ。相当に手強いぞ」

     そこからの右軍府は大変な騒ぎだった。猫だということが周知されたはいいものの、何しろ素早く、小さい。運良く見つけて追いかけても、書庫の中に逃げ込まれてしまえばお手上げだった。
     後宮のほうからは、絶対に猫に怪我をさせないでくれ、という念を押すような指令まで下りてきて、叔容としても頭が痛い。
     乱暴な話だが、軍人の集まりだから殺してしまうほうがよほど早い。無傷で捕らえろ、というのは難しいのだ。
     視界の端に白い毛並を見つけた気がして、叔容は振り返った。猫がいるのだと思って仕事をしていると、いるはずがないという前提でいたときよりもずっと猫の姿を見つけやすくなった。だが、捕らえることができるわけではない。
     無傷で、ということだから武器は使えない。道具もだ。
    「……うっかり怪我、というのも当然だめですよね」
     恵棟は猫によってばら撒かれた書類を拾い集め、汚れがないかを確かめ、順番通りに並べながら溜息をついた。
    「……だめだろうなあ」
     恵棟らしからぬ言葉だが、叔容にもその気持ちは痛いほど分かる。叔容も同じく溜息をついた。
     無傷で捕らえようと人が網を持って追うと、猫は駆けて逃げる。身が軽いので、あちこち飛び移るうちに様々な物を倒して落とし、破壊し、その房庁ごと見るも無残な状態に変えてしまう。その片付けだけでも一苦労だ。猫を追い、片付ける、と余計な手間が増えるから、仕事も遅々として進まない。
     何より、いつ猫が現れるかと身構えていなければならないので、戦場ですらないのに常に緊張状態を強いられる。叔容にも恵棟にも、疲労が溜まっていた。
     一度はいいところまで行ったこともある。友尚が猫を追い込み、抱き上げたのだ。しかし、猫のほうがしたたかだった。友尚の胸に収まったかに見えて、さっと身を捻って伸び上がり、友尚の鼻面を引っ掻いた。友尚が一瞬怯んだ隙を見て、猫はそのまま遁走してしまった。
     禁軍は多忙である。正直、これ以上は猫に構っていられない。
     そんな中、叔容が阿選の許に赴くと、阿選は正庁の隅に向かって蹲っている。どうしたのか、と思っていると、阿選が肩越しに振り向いて微かに笑み、人差し指を立てて唇に当てた。
     阿選の視線の先を追うと、猫がいる。何かを食べているようだった。
     阿選はこの間から、猫を掴まえるために餌を府第のあちこちに置いていたが、その一つに引っかかったらしい。
     阿選は少しずつ猫との距離を詰めていく。猫は餌に夢中で気付かない。どうやらこの策は成功しそうだ。さすがだ、と叔容が心密かに主公を讃えていると、猫が不意に顔を上げた。阿選と目が合う。
    「……おいで」
     阿選は静かに言って、手を差し出た。このままおとなしく捕まってほしい。叔容は祈った。
     叔容の祈りが届いたか、猫が一歩阿選に向かって踏み出した。二歩、三歩。
     これはうまく行きそうだ、と叔容が胸を撫で下ろしたそのとき、白い塊は躍り上がったと思うと、一気に阿選の袖の下を駆け抜けた。
    「叔容!」
     阿選に呼ばれて咄嗟に猫に駆け寄るか、猫はさっと身を翻し、叔容を躱して開いたままの扉から外に走り出ていった。
     猫だ、捕まえろ、という声が走廊のほうから響く。
    「阿選様……」
     叔容は言葉もない。阿選は膝に手を置いて立ち上がった。
    「どうやら、あちらのほうが上手のようだ」
     阿選は苦笑して言う。叔容は阿選と顔を見合わせ、どちらからともなく溜息をついた。

     ある日、驍宗が右軍府を訪ねてきた。
     禁軍左翼を預かる驍宗は、ときどき右軍府に直接やってくることがある。左軍と右軍は連携して動かなければならないことも多く、阿選と相談をする必要があるからだ。何も将軍同士が会って話さずとも、使者をやり取りすれば済むのだが、それが煩わしいらしい。
     驍宗の訪問を聞いた阿選はすぐ、通せ、と言った。叔容はたまたま阿選といたので、下がるかと主公の意を測ると、そこにいていい、と言われた。
    「今だったらあれだろう。お前も一緒に聞いていたほうがいいと思う」
     阿選の言葉に、叔容は頷く。
    「はい」
     下官に案内されて、驍宗が正庁にやってきた。扉が開いたそのとき、ひらりと白いものが視界に踊った。
    「ん?」
     左肩に乗った重さに気付き、驍宗はそれを見る。白い子猫だった。金色の眼をしていて、毛並は艶やかだ。飼い猫だろうが、右軍府で猫を飼い始めたという話は聞いていなかった。
    「……驍宗」
     阿選が立ち上がった。がたん、とその足元で椅子が倒れる。
    「驍宗。動くな、いや、動かすな」
    「? うん」
     驍宗は阿選を見るが、阿選の視線は驍宗の肩にあった。正庁の中にいる軍吏も皆、子猫に注目している。
     阿選は麾下に目配せする。驍宗の周りで、大きな布やら袋やらを持った軍吏の輪ができる。その輪はじりじりと小さくなって、驍宗を取り囲んだ。
     驍宗は、彼らはどうやらこの猫が目的らしい、と察した。なぜかは知らないが、猫を捕えようとしている。それなら袋にくるんだりせずとも、抱き上げてやればいいものを。
     驍宗は何の気なく、自分の肩に留まっていた子猫を右手で取り上げた。素早く両手で抱き留める。子猫は金色の眼を瞬かせていたが、おとなしく驍宗の手に包まれていた。
     ──そのとき、右軍府に衝撃走る。──
    「こいつがどうかしたのか」
     驍宗はいちばん近くにいた軍吏に、子猫を差し出した。その軍吏はなかば茫然としながら持っていた籠を開く。驍宗が籠に子猫を滑り込ませると、猫はすっぽりと収まり、「にゃあ」と鳴いた。

    「まさかそんなことになっていたとはな」
     事情を聞いた驍宗は笑って言った。
    「お前も、右軍府ではなく左軍府に来てくれればよかったものを」
     驍宗は傍らに置かれた籠の中を覗き込む。
    「そうであれば、よほどこちらも助かった」
     阿選はしみじみと言う。この数日、猫のために奔走させられたせいで、右軍府の軍吏たちは疲れ果てている。積もり積もった仕事もあれば、中には猫によって汚されて判別不能になった資料もある。
     それにしても、と阿選は笑う。
    「驚くほど猫の扱いがうまいな」
    「動物には懐かれるんだ。だろう?」
     驍宗が同意を求めて指先で軽く籠を叩くと、子猫は籠目の隙間から金色の眼で驍宗を見上げ、またひとつ「にゃあ」と鳴いた。
    6「罰ゲーム」「お芝居」 名前を呼ばれた気がして、友尚は板敷から顔を上げた。肩越しに振り返ると、麾下の弦雄が背後に立っている。
    「友尚様。このあたりの走廊のことなのですが……」
     友尚は立ち上がり、汗を拭いながら弦雄が広げた図面を覗き込んだ。
     鴻基山の麓、皋門の内側に国府はある。正殿の前の広場には現在、常ならぬ大きな建築物が完成しつつあった。
     広場の中にもうひとつ門殿を設け、内側を板敷の間にしてある。板敷は一定間隔で木組みによって区切られており、門楼の正面が舞台となる櫓、板敷の両脇を段組みによって高くなった桟敷が囲む。桟敷は二段、一段目のすぐ下に櫓が来る。櫓の両袖には走廊があり、板敷とも桟敷とも区切られた廂房に続いている。
     市井の芝居小屋を模した造りだが、いかにも仮小屋の市井のものより、遥かに巨大だった。
     元より遊興を好む王は、王宮の中で何度か芝居を催している。
     王の自作自演であり、王や王の寵姫などを中心にした素人芸で、お世辞にも達者とは言い難いが、今まで後宮を中心にしていたそれを、ついに民を招いて披露したくなったらしい。基本的に王宮に民は立ち入ることができないが、即位の儀などでは、皋門の内側、雉門の外の国府まで民が入ることがある。だから、国府に芝居小屋を建設することにしたのだろうと思う。
     実際の建築には、禁軍があたる。禁軍右軍の師帥である友尚が、建築の責任者となった。
    「こんなことをしている場合とは思えませんが」
     弦雄がぽつりと言った。友尚としても同感だった。
     戴には騒乱が多い。冬は長く厳しく、土地は痩せて恵みに乏しい。なべて民は貧しく、乏しい収穫の中から税を差し出し、その残りでなんとか生きている。夏から短い秋にかけて炭や食物を蓄えておくことができなければ、民にはすなわち凍死か餓死が待っている。
     王宮の奢侈は、民の犠牲の上に成り立っているのだ。
    「その通りだな。これでも阿選様と驍宗殿の諫言で質素にはなったらしいが」
    「これでですか」
     顔を顰める弦雄に、友尚は苦笑した。
     仮設といえど王の名を冠したものだからそれなりの格式は必要になり、自然と巨大な建築になっていく。今は全体図の七割程度が完成したにすぎないが、それでも民の目を圧倒するに十分の威容を備えているだろう。
    「俺も気は進まん。だが、下された命令は完遂せねばならない」
    「……はい」
     弦雄は不満げに鼻を鳴らした。友尚は軽くその背を叩く。
     相談を終えて持ち場に戻る弦雄を送り出し、友尚は他の士卒と共に再び板敷に向かって屈んだ。
     そのとき、櫓のほうでざわめきが起きた。友尚が見ると、一人の男が走廊から櫓に出てくるところだった。
    「だいぶできてきたな」
     阿選は桟敷を仰ぎ、板敷に視線を落として友尚を見つけて笑う。友尚は作業を止めて櫓に走った。
    「阿選様」
     阿選は櫓の上から友尚に頷いた。
    「よくできている。期日よりも早く完成しそうだな」
    「はい。少し早めに完成すれば、確認作業も多くできますし」
    「その通りだ。さすがだな」
     友尚は主公の言葉に嬉しくなる。
     阿選は設計の確認のほかに、この小屋の建設にはほとんど関わっていない。王が芝居の出演者に阿選を指名したためだ。それで阿選は今、通常の職務のほかに芝居の稽古にも時間を割かれている。寝る間もないのではなかろうかとは思うが、友尚の主はそんな風情を微塵も感じさせない。
     友尚は板敷から阿選を見上げ、不意に気付く。
    「阿選様。……化粧なさってますか?」
     阿選は微かに目を瞠り、苦笑した。
    「残っているか。衣裳のついでに、女官たちに遊ばれた。ある程度は落としてもらったはずなんだが、自分で確認すればよかったな」
     阿選は今日、芝居の衣裳合わせがあると言って、王に呼ばれていたはずだった。
     阿選の瞼には薄く宵闇のような瑠璃、目尻と唇には掃いたような紅が微かに残っている。友尚の主公は決して柔弱ではないが、そのぶんかえって両性具有的で淫靡に見えた。
    「化粧までするんですね……」
     友尚が感嘆とも呆れともつかない声を漏らすと、阿選は笑う。
    「私はまだいい。原形があるから」
    「と、すると乍将軍は原形がないんですか」
    「……たぶん」
     阿選は含み笑った。
     芝居には、阿選と共に禁軍の両翼を担う驍宗も出演することになっている。では、今日の衣裳合わせには揃って呼ばれていたのか。
    「最終的にどうなるかは分からないが、私が先に出たときにはもう、化粧で原形がなかったな……」
    「想像がつきません」
     阿選が思い返すように呟くので、友尚は率直に言った。阿選は声を上げて笑う。
    「当日には見ることができるだろう。そのときを楽しみにしておけ」
    「……それはそれで、怖いです」
     友尚の言葉に、阿選はさらに笑った。
     驍宗がどのようになっているのか、それに対する驍宗麾下の反応、あまりにも気になることが多すぎる。芝居の公演日まで、あと二週間あまりの日のことであった。
    7「麾下を選ぶ」「手を伸ばす」 阿選は悩んでいた。麾下から一人、選ばなければならないからだ。
     禁軍内の相互の連携と理解を深めるという名目で、左軍、右軍、中軍の士卒からそれぞれ一人ずつ他軍に一ヶ月間所属すること、と王から命を下された。左軍から中軍に一人、中軍から右軍に一人、右軍から左軍に一人、それぞれの軍から選ばれた士卒が出向することになる。
     史上初のことであったし、正直なところ、阿選にも何の意味があるのか分からないが、既に決定されたことであって覆らない。
     阿選が悩んでいるのは、この士卒を誰にするかということだ。
     叔容や恵棟ら軍吏になると、出すほうも受け入れるほうも気を使う。軍吏はどうしても機密情報に触れることが多いからだ。
     そうなると卒長以上の士官、今回は王の命令であるから格から言っても師帥になる。師帥は各軍に五人いるが、誰を出すのか。
     右軍の代表というていになるから、能力に問題があってはならない。幸いその点、阿選の麾下は心配いらないが、一ヶ月という期間からして、ある程度は出向した先に馴染む必要があるだろう。かといって、馴染みすぎて右軍に戻ってきたくなくなるようでは困る。
     阿選への忠誠心が高く、人柄は穏健で周囲に馴染むこと。
     その条件で選ぶと、当然のように成行と友尚が残った。成行がどちらかといえば職人気質なのを思えば、友尚のほうが適するだろうか。
     阿選は少し考えて、恵棟を呼び出した。
    「お呼びでしょうか」
     恵棟がすぐにやってくる。
    「左軍に出向させる人事について考えていたのだが」
    「はい」
    「友尚を出そうと思っている。どう思う」
     恵棟は心得たように頷いた。
    「良いかと思います。友尚も張り切りますでしょう」
    「だろうな」
     その様子が目に見えるようで、阿選は微笑んだ。
    「ところで、ひとつ懸案事項がある」
    「なんでしょうか」
     首を傾げる恵棟に、阿選は微苦笑をこぼした。
    「友尚といえば、あの癖があるだろう」
     友尚には、脱いだ服をそこら中に放置しておく癖がある。出兵ともなるとさすがに緊張感があるせいか多少はましになるが、友尚の天幕はやはり他と比べると雑然としていた。
    「ああ……」
     恵棟は理解して頭を抱える。品行の良い右軍だから、友尚のような性癖の者がいると他軍に知れ渡るのは些か外聞が悪い。ましてや、出向するのは左軍だ。恵棟は阿選の驍宗への対抗心を感じていたし、主公同士が比べられることが多ければ麾下も意識しないではいられない。
    「分かりました。私のほうからも気を付けるように言っておきましょう」
    「ありがとう」
     阿選は言って笑った。

     期日となり、友尚を左軍へと送り出した。右軍では中軍から一人、師帥を迎え、急遽体制を整えていく。
     一週間ほど経って、阿選は偶然、驍宗と会った。自然とどちらからともなく飲みに行こうという流れになり、その先で、この出向の話になった。
    「友尚は有能だな。さすが阿選の麾下だ」
     驍宗にそう言われて悪い気はしない。阿選は笑う。
    「そうか。何か起きてないか心配していたが、大丈夫そうだな」
    「ああ」
     阿選は安堵する。この様子なら、友尚の癖については知られてはいまい。阿選と恵棟、二人に言い含められて友尚も注意しているのだろう。友尚が戻ってきたら褒めてやらねば、と阿選は思った。
    「左軍からは誰を出したのだ」
    「巌趙を。霜元と迷ったが、巌趙は禁軍に長くいるからな。知己も多かろう」
    「余裕だな。馴染みすぎて戻ってこないのでは、とは思わないのか」
    「まったく思わんな。必ず戻ってくる」
     驍宗は自信ありげに言った後で、けろりと笑った。
    「戻ってこなければこないで構わない。私のところにいるよりも居心地が良いということなんだろう。水の合ったところにいるほうが互いに良かろう」
    「そういうものか」
     阿選は意外に思う。
    「うん。ところで霜元を友尚の世話役につけたんだが……」
     驍宗は出向してきた友尚の話を続ける。阿選は杯を傾けながらそれを聞いていた。

     驍宗と阿選とが揃って双璧と呼ばれ始める少し前の、穏やかな夏の夜のことであった。
    8「さし飲み」「背中を預ける」 開け放たれた窓から、冷ややかな風が吹き込んでいる。夜空には白く月が浮かんで、淡い光が楼閣の朱い欄干を濡らしていた。
     酒家の二階だった。驍宗が左軍将軍に就いた、その祝いだ。阿選はその報を派兵された先で聞いた。出兵の前に、空きになった左軍将軍は驍宗ではどうかと阿選は王から相談されていたので、特に驚くことはなかった。
     禁軍の左右では、左のほうがわずかに位が高いとされる。だから阿選の麾下の中にはこの人事を不服とする者もいたが、阿選は気に留めていなかった。左右など形式上のことにすぎないし、阿選は驍宗と並び立つことを喜んでいた。ついに、という気さえした。
     阿選が禁軍中軍将軍になるのと前後して、驍宗は瑞州師中軍の将軍になった。王師六将軍の中で、阿選に比肩し得るのは驍宗のほかになく、驍宗に比肩し得るのも阿選しかいない。そういう状況がしばらく続いた中での人事だったから、職責でも格の上でも二人が並ぶのは誰から見ても妥当であったし、阿選自身も嬉しかった。
     阿選が地方から戻ると、驍宗もまた、たまたま鴻基にいた。だから阿選のほうから誘って、祝いの席を持った。二人きりの堂室に燭台が四隅に置かれ、窓辺に吊り下げられた赤い宮灯が明るく室内を照らした。
    「おめでとう。軍人として、あっという間に昇りつめたな」
     阿選は笑い、驍宗に向けて祝杯を掲げた。
    「ありがとう。まさかこうして祝われるとはな」
     驍宗もまた杯を上げ、乾杯をする。
    「瑞州師も忙しいだろうが、禁軍はまた違う苦労があるぞ」
     阿選が軽口めかして言うと、驍宗は苦笑した。
    「政治的に、という話だろう。正直に言って、不得手だな」
    「……そうだろうな」
     阿選は微苦笑をこぼした。
     驍宗は口数が多いほうではない。堅苦しく、面白味がないと評されることも多い男だが、阿選はそういう驍宗を好ましく思っていた。
     驍宗は無駄口を叩かず、身を律し、思考を怠らず、労苦を厭わない。そうして手に入れた功で、破格の早さで位を上げてきた。そういう驍宗のありように、阿選は自分に似たものを感じていた。
     言葉数が少ないのは、それだけ思考が速いからだ。ほぼすべての局面において、驍宗の言葉は的を射ている。それだけに驍宗の言葉は時に辛辣で、余人を怒らせもするのだが、阿選にはその不器用さも興味深かった。阿選ならばそんな言い方をしない、とは思うものの、驍宗の直截さが阿選には心地いい。
    「おいおい色々と分かってくるだろう。どこにいても、職務は同じだ」
    「ああ」
     阿選の言葉に、驍宗は笑って頷いた。
     二人でとりとめない話をして、会話が途切れたころ、不意に屋外から賑やかな歓声が飛び込んでくる。笑い声に続いて、大勢の唱和する歌声が窓の向こうから聞こえた。
     ──城の南で戦って 郭の北で死んだのさ……
     聞き慣れた歌に、阿選は窓を振り返る。
     古い戯れ歌だ。明日の命をも知れぬ兵士たちが酒場で酔いに任せて大いに笑い、歌うものだ。
    「士卒が近くで飲んでいるな」
     驍宗が立ち上がり、窓辺に近寄った。阿選もまた窓に近づく。
     高い位置にある欄干から乗り出して見ると、歌声は大経を挟んだ向かいの廛舗の一階から聞こえてくるようだった。阿選と驍宗が今いる酒家とは違い、大衆向けの廛舗だ。
    「どこの兵士かな」
     中軍は鴻基にいないはずだった。阿選が言うと、驍宗は欄干に身を凭せ掛けて笑う。
    「右軍ではない気がするな」
    「なぜ」
    「品行がいいから」
     阿選は笑う。
    「だとしたら左軍か? 主公の出世を祝って」
    「いや、意外と瑞州師の連中かもしれん」
     驍宗の珍しい軽口に、阿選は声をあげて笑った。祝いの席らしい和やかな空気が流れる。
     驍宗は欄干に置いた腕に頭を埋める。
    「……兵士は皆、戦場に出れば命も知れない。騒いで、楽しく過ごせるうちはそうしたほうがいいだろう」
    「……そうだな」
     阿選もまた欄干に腕を乗せる。眼下の廛舗は大きく間口が取られて、煌々とした光と、賑やかな声が中から溢れている。
     ──おれのため 烏のやつに言ってくれ
       がっつく前にひとしきり もてなすつもりで泣けよって……
     阿選と驍宗は、じっと向かいの廛舗を見つめていた。二人の頭上で、軒端に吊るされた宮灯が風に揺れて廻り、淡い月光の中でいっそう明るい。
     眼下から響く声に、阿選は小さく唱和する。
    「……朝にぴんしゃん出掛けて攻めて……」
     阿選にとって大した意味があるわけではない、何気なくの行為だったが、驍宗が阿選を見て微かに笑い、声を重ねた。
    「暮れて夜には帰らない……」
     驍宗は愛おしげな表情を浮かべて、眼下の廛舗を眺めていた。おそらく自分も同じような顔をしているのだろう、と阿選は思う。酒が入って火照った体に夜気が快かった。
     二人の小さな祝いの夜が、こうして更けていった。
    9「夏の夜」「かき氷」「本当に怖いんですかね」
     友尚はそう言いながら、レンタルのケースをためつすがめつする。透明なプラスチックのケースの中にはディスクが一枚。
     阿選は苦笑した。
    「どうだろうな」
    「メタフィクションって、いかにもって感じじゃないですか」
     友尚は言いながら、阿選と一緒に長テーブルを移動させる。
     阿選のマンションである。あと十分ほどで集合時刻なのだが、友尚から早めに着いてしまったと連絡が来たので、申し訳ないが部屋の準備を手伝ってもらっている。
     阿選は振り返って、キッチン横を見る。阿選自身もそれなりに飲むので、棚をしつらえてちょっとしたバーのような体裁にしてあった。
    「酒は……たぶん足りるな。ジュースもあるから大丈夫だろう」
    「足りなかったら俺が買ってきますよ。まあ、これだけあれば大丈夫でしょう」
     だといいが、と阿選はひとりごちた。
     阿選と友尚でプロジェクターとスクリーンを出し、スピーカーの配線を整えたりしているうちに、インターホンが鳴った。
     やはり驍宗だった。オートロックを開け、しばらく待つと再びチャイムの音。
     ドアを開けると、驍宗、李斎、その間に挟まれた小柄な影がひとつ。
    「……こんにちは」
     大きなぬいぐるみを抱えたまま、戸惑うように挨拶をする子供に向かって、阿選は屈んで微笑んだ。
    「はじめまして、要くん」

     驍宗が親戚の子供を預かることになったと聞いて、阿選は驚いた。驍宗は決して子供好きのするほうではない。むしろ怖がられ、泣かれるくらいのほうが想像がついた。
     しかしどうやら杞憂だったらしい、と子供に笑いかける驍宗を見て思う。同僚の李斎は李斎で、元々面倒見がいい。
     再びチャイムが鳴って、今度は友尚が出た。やはり恵棟と帰泉で、恵棟は部屋に入ると「すいません、遅れましたか」と訊いた。
    「大丈夫だ、まだ時間になっていない」
     阿選は笑って、集まった面子に声をかけた。
    「さて、何を飲む?」
     グラスを持ってスクリーンの前に集まる。大人たちは三々五々に酒を持ち、要はりんごジュースだ。
     夏の夜の、納涼ホラー映画鑑賞会である。
     大人が酒を飲みながらホラー映画を観るというところに子供を置いておくのは、情操教育上でどうかと阿選は思うのだが、保護者の驍宗は気にしていないし、要もそわそわと楽しそうにしている。これはこれでよいのだろうか。
     阿選がディスクをセットすると、間もなく再生が始まる。
    「電気消しますね」
     恵棟がささっと照明を消しに行った。暗くなった部屋の中で、スクリーンだけがぼんやりと明るい。
     薄暗い古い日本家屋の風景に、語り手の女優の落ち着いた声が静かに響く。
    「……音が小さいかな」
     驍宗が呟いて、リモコンを操作した。スクリーンにパラメータとカタカナの文字が浮かぶ。
    《オンリョウ》
    「あああ!」
     その場にいた誰もが声の主に注目する。
    「………友尚?」
    「友尚、どうした」
    「友尚」
    「な、なんでもないです……」
    「友尚、怖いなら……」
    「怖くないです、大丈夫です」
     友尚はそう言いながらそろりそろりと後退り、恵棟の背後に落ち着いた。
    「……無理はするなよ」
     阿選は言って、自分のグラスを傾ける。
     映画はゆっくりとした調子で続いている。
     語り手は女流作家で、ホラー小説を書いているらしい。読者からの手紙で、身の回りの怖い話を募集した。やがて募集した手紙の中に、別の差出人の名前で、同じマンション、別の部屋で同じような怪異の話があることに気付く。さらに、同じ部屋でも同じ怪異が続くわけではないらしい。
     怪談のセオリーを逸脱したこのマンションの怪異を探るうちに、作家は何かがそこに(土地に、物に、あるいは人に)残り、怪異を引き起こしていることに気付く──。
     面白い、と阿選は思った。怖がらせようと意図的に作られた映像は大したことがないが、役者がいい。登場人物たちが分かりやすく叫んだり怖がったりせず、淡々として冷静なのが、かえって観ている者の日常とスクリーンの向こうが地続きであるように感じさせる。
     《湧いて出る》というフレーズが複数の登場人物たちの口から重ねられたとき、友尚が「いや、湧くな」と呟いたのを恵棟は聞き逃さなかった。
     不意に、驍宗と李斎の間にぴたっとくっついていた要が、ふと後ろを振り返って言った。
    「帰泉、さん?」
     阿選の近くにいたはずの帰泉は、いつの間にか皆の背後、部屋の中で一番スクリーンから遠い隅に移動している。
     帰泉を呼んだのは友尚の「なんかリアクションが期待できそうだから」というあんまりにもな発案によるものだったが、やはりホラーは苦手らしい。肝心のリアクションは、大げさに怖がったりするよりも、部屋の隅でひっそり震えているという予想外のものではあったが。
     要はぬいぐるみを抱えて、帰泉のそばに歩み寄った。
    「あの、良かったらどうぞ」
     要の差し出した大きな黒い犬のぬいぐるみを、帰泉は驚いたように見る。
    「これは君のお友達なんじゃ……」
    「はい。ずっと一緒にいるお友達なんです。傲濫っていうんですけど。それとも、この子のほうがいいでしょうか」
     要はそう言って、もうひとつ、ぬいぐるみを差し出した。薄暗くてよく分からないが、翼があって、丸い胴体の下に細い脚がついているのは見て取れる。鳥のぬいぐるみだろうか。
    「この子は、なんてお名前?」
     帰泉が訊くと、要はこてんと首を傾げた。
    「えっと、……じせん、かな」
     映画が始まって一時間ほど経った頃、驍宗が立ち上がってキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。
    「阿選。ビールなくなってきたぞ」
    「……いくらなんでもペースが早くないか」
     元々、飲む連中が多い。その上、ホラー映画を見ながらだから皆どんどん飲んでいる。
     驍宗は二つのグラスに氷を入れて、片方には焼酎を、片方にはジュースを注いで、またスクリーンの前に戻る。
    「俺、ビール買ってきます」
     友尚が元気よく立ち上がった。友尚は怖さから逃れたいのだろうが、阿選は溜息をついた。
    「友尚、……酔っているな?」
    「酔ってないです」
    「酔っ払いはみんなそう言う。まず服を着ろ。恵棟、着せてやれ」
    「はい」
     恵棟が苦笑しながら、脱ぎ散らかされたシャツを友尚の頭からかぶせる。友尚のいる飲み会ではよくある光景だが、要がびっくりしたように目を丸くしているのを見て、やはり子供の情操教育によくないな、と阿選は思う。
    「私が買ってこようか」
     李斎が瓶を何本か抱えてキッチンにやってくる。驍宗も似たようなところがあるが、放っておくと、李斎も延々と手酌で瓶を開けてしまう。
    「ああ。頼めるか」
     頼んだ後で、阿選は李斎を見つめて苦笑する。
    「李斎はまったく怖がらないんだな」
    「ああ。いつも見えているのと違うから」
     李斎はさらりと言って笑う。う、と阿選は怯んだ。
    「見えている、のか?」
    「ああ。ここも……」
    「やめろ。聞きたくない」
     阿選が思わず遮ると、李斎は目を瞠り、そのままあらぬほうを見上げたあとで笑った。
    「……大丈夫だ。害意がありそうな感じではないから」
     何が大丈夫なのか、阿選にはさっぱり分からない。
     李斎を買い物に送り出した後、うつらうつらしていた要がとうとう沈没した。
    「阿選、隣の部屋は大丈夫か?」
    「ああ。子供が来ると聞いていたから、布団は用意してある」
    「ありがとう」
     驍宗が隣で凭れて眠る要を、優しく揺すり起こした。要は目を擦りながら驍宗を見あげる。
     要はここに来てからずっと聞き分けがよかったが、珍しく、李斎が戻るまで起きていたいと主張した。驍宗は宥めながら、隣の部屋に連れて行く。
     阿選は普段、襖を開けてリビングと隣の部屋をひと続きとして使っていたが、今日は臨時の寝室になった。
     子供を抱き上げた驍宗の背中を見送ってから、恵棟はしみじみと言う。
    「……本当に意外、ですよね」
     阿選は苦笑した。
    「そう言ってやるな。本人がいちばん思っているだろう」

     李斎が買い物から戻ってきて、また映画を観つつそれぞれ酒を飲む。
    「こういう話は、なぜいつも現地に向かうのだろうな。行かなければ不要に怖い思いをしないで済むのに」
     阿選がぽつりと呟くと、「それは行くだろう」と驍宗が言う。
    「そこにあると分かっているのだし、行くだろう」
    「峠があるから攻めるみたいな言い方をするな……」
    「? 峠は攻めるだろう」
     平然と言う驍宗に阿選は呆れる。
     エンドロールが流れて突然、李斎が寝落ちた。その電池が切れたような落ち方に阿選は驚きながら周囲を見ると、他にも落ちている者がいた。
     阿選は部屋の照明をつけにいった。明るくなると、部屋の様子がよく分かる。
     李斎はクッションを枕に丸くなっているし、帰泉は鳩のぬいぐるみを抱きしめたまま寝入っている。友尚は脱いだ服に顔を突っ込むようにして眠っていた。友尚の隣で落ちていたかに見えた恵棟が、なんとか肘をついて身を起こした。
    「……あ、……片付け、手伝います……」
     ぐらぐらと首が座らない恵棟に、阿選は苦笑した。
     恵棟は普段は自制して飲むほうだが、何しろ今日は友尚が馬鹿みたいに飲んでいる。隣で飲んでいればつられるだろう。
    「寝てていい。気持ち悪くないか? 無理はしなくていい」
    「……はい」
     恵棟は少し笑って頷き、またころんと落ちた。
     驍宗はテーブルの上や、それぞれの傍らに放置されたグラスやつまみの皿を回収して、キッチンに持っていく。
     シンクで洗い物をする驍宗の背中に、阿選は声をかけた。
    「ブランケットを取りに行ってくる。片付けは頼んだぞ」
    「分かった」
    10「名前」 驍宗が初めて阿選の名前を聞いたのは、軍学のころだったと記憶している。
    「お前は阿選に似ている」
     たしか教師にそう言われたのだったか、そのときは大して気にも留めなかったが、やがて驍宗は繰り返しその名前を聞くようになった。
     良い成績を修めれば阿選のようだ、と言われ、少し失敗すれば阿選はこうではなかった、と言われる。教師でも学生でも、長く軍学や大学にいる者ほど、驍宗は阿選に似ている、という言う傾向があった。
     驍宗が軍学に入った年に、阿選は旅帥として入営しているから、驍宗は阿選と軍学でも、大学でも顔を合わせたことがない。にも関わらず、その名前は常に驍宗について回った。
     そのことが、驍宗はずっと不思議な気がしていた。驍宗は子供のころから、他者に馴染むということができない性格だった。
     自分が何気なく口にしたことが、誰かをひどく怒らせていたりするのだが、いつもその理由が分からない。怒らせた理由が分かれば謝りようもあるし、もし自分が悪いのであれば正すことも考えるのだが、その理由が分からない上に、相手に理由を訊けばさらに怒らせてしまう。
     驍宗が軍学に入ったのは、軍の上司の推挙を得たからなのだが、その上司も「お前みたいなのが部下にいたんじゃ、やりにくくって仕方がない」と言っていた。
     軍に入って何度目になるのか、同輩に突っかかられて返り討ちにした後のことだった。
    「お前みたいなのは一兵卒からこつこつやっていくものじゃないな。兵卒には向いていない」
    「それは、軍を辞めろということですか」
     驍宗が反発すると、その上司は笑った。
    「そうじゃない。お前を軍学に推挙しておいた。お前は出世しろ。それも半端な士官じゃなく、一番上にならなきゃ駄目だ。人に使われるのは向いていないが、上になれば多少はましだろう」
     それで驍宗は軍学に入ったのだが、軍学でもやはり、驍宗は孤立しがちだった。驍宗としては、そのとき最も妥当だと考えられること、正論だと思うことを述べているにすぎないのだが、それがいつの間にか周囲と驍宗との間に軋轢を生んでいる。
     一度など、講義中に教師の間違いを驍宗が指摘したら、怒った教師にそのまま講堂を追い出されてしまったことがある。当然、その科目の允許は貰えない。それでも、指摘しなければ良かったのだとは驍宗には思えなかった。
     一事が万事その調子だったから、驍宗は自分がいると周囲がうまく調和しないのだと理解した。軍学に入る前に上司に言われたのも、そういうことだったのだと思う。驍宗は兵卒として集団の中にいるのは向いていないが、将軍は一軍にひとりだ。士卒一万二千五百を束ねる将であれば、驍宗にもできる。
     驍宗という字も、軍学でついたものだ。優れた馬、という意味ということになっているが、手に負えない、手綱を掛けられない暴れ馬、という揶揄もあるのだろう。字とは往々にしてそういうものだ。
     だから驍宗は、誰かに似ていると言われたこと自体が初めてだったし、自分に似ているらしい、阿選という名前の男に興味を持った。驍宗が軍で出世すれば、阿選に会うこともあるのだろうか。

     驍宗は大学を出たあと、旅帥として入営した。旅帥は五卒五百人を束ねる長であり、士官でもある。ここでもまた、驍宗は「阿選のようだ」と言われたが、驍宗はそうかと納得していた。
     驍宗は軍学でも大学でも、顔も知らない阿選という男と競っているような気がしていた。阿選の残した成績を上回ろうと努力してきたし、いくつかの科目でそれを果たしたときは嬉しかった。
     驍宗は功を挙げて、軍で出世していった。阿選という男もやはり、順調に位を上げていたのだが、驍宗はそのうちに気付いたことがある。
     驍宗と阿選は、似てなどいない。一見すると、経歴や辿ってきた道、実績や用兵にも共通するところはあるのだが、実際に似ているところは皆無だった。
     阿選は有能で、情理に通じ、人望も篤い。だが、驍宗には人望がない。ないのだ、と驍宗は思う。
     出世するにつれて、他人は正論では動かないらしいということが驍宗にも分かってきた。かといって、どうすれば他人を動かすことができるのかが分からない。軍隊だから、驍宗が命令すれば部下は当然その通りに動くのだが、部下の感情や、周囲の人間の感情に配慮することが、驍宗には難しい。
     驍宗は堅苦しいのだと言う。そもそも他人と交わることをしてこなかったから、部下と話しても気詰まりにさせるばかりで、うまく言葉を掛けてやることができない。
     驍宗が瑞州師中軍将軍になった年、阿選も禁軍中軍将軍になった。同じ王師であればやり取りも多くなって、驍宗は阿選と同輩として親しく口をきくようになった。
     阿選の麾下は、阿選に心酔している者が多かった。阿選は麾下に気軽に話しかけたし、麾下もまた阿選に気軽に話しかける。阿選は温かく親切で、情がある、と阿選の麾下は言うし、実際そうなのだろうと驍宗も思う。阿選のいるところには、人の和ができる。
     驍宗に同じことはできないし、そういう自分を引け目に感じたこともない。ただ、そういうものなのだと驍宗は諒解していた。
     それでも結果を残してさえいれば、驍宗のことを主公と定めて、ついてきてくれる者もいる。
    「私には人望がない」
     ふとした弾みで、驍宗が巌趙にそう言ったとき、巌趙は妙な顔をした後にひどく落ち込んでしまって、どうやらこれは麾下に言ってはいけなかったらしい、と驍宗は学んだ。
     驍宗はそれからも「阿選のようだ」と言われたし、阿選が「驍宗のようだ」と言われているところも何度か目にしたが、気にはならなかった。
     驍宗と阿選は似ていない。違う人間なのだから当然だ。阿選が容易にできることでも驍宗には難しいことがあるし、逆もまたあるのだろう。
     驍宗はそれからも己を律し、思考を怠らずに努め続けた。いつしか阿選とともに、禁軍の左右の竜虎と呼ばれるようになってからも同じだ。
     驍宗は阿選と競っていたが、驍宗にはそもそも人望がない。真面目で堅苦しいばかりでも、驍宗は勤勉に努めて、結果を出し続ける。そうして得られた双璧という呼び名は、あのころ、驍宗にとって誇りだった。


     明幟元年、冬。
     驍宗と阿選を似ていると言う者は、もういない。
    ユバ Link Message Mute
    2020/08/10 5:55:07

    エア阿選オンリー週ドロライまとめ

    「エア阿選オンリー」前の週ドロライ企画で書いた、短い話まとめ。全体的に驕王治世下の仲のいい双璧話が多め。

    エア阿選オンリーの詳細はこちらへ
    https://note.com/ea_asen_only/n/n1cbee72e6da1 #十二国記 #白銀の墟_玄の月 #阿選 #驍宗

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